駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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赤い信号の光が、吹雪の向こうで滲んでいた。
白い大型は僕たちを追うことをやめ、ゆっくりと拠点へ向き直っている。
長い前脚が雪へ沈むたび、毛先から滴った水が足跡へ溜まり、白い地面を黒く濡らしていった。
「坊主、行くぞ!」
ガルドさんが斜面へ足を向ける。
ここから上へ逃げれば、大型とは距離を取れる。岩場を越えて街道へ出れば、増援を呼ぶこともできるかもしれない。
それが正しい判断だった。
僕たちが受けたのは救助と調査の依頼だ。
大型と接触した場合は無理に戦わず、状況を持ち帰る。ギルドでも確認され、アルナさんとも約束した。
――帰ってきてください。
受付で重ねた小指と、いつもより冷たかったアルナさんの指先を思い出す。
僕たちが生きて帰ることも、依頼のうちだった。
「何してる! 早く来い!」
数歩先へ進んだガルドさんが振り返る。
僕の足は斜面へ向かず、吹雪の奥に霞む拠点を見つめたまま止まっていた。
赤い光は、もう消えかけている。
それでも信号筒が撃たれたという事実までは消えない。
イリナさんたちは動けない。
傷口からは今も、あの冷たい水が流れ続けている。
白い大型が戻れば、地下へ逃げ込んだ三人に次はない。
あれが食料庫へ身体をぶつければ、壊れかけた建物など長くは持たないだろう。
僕たちが助けを呼んで戻るまで、耐えられるのか。
――分からない。
白い大型が、拠点へ向かって一歩を踏み出した。
喉が渇く。脳みそは焼き切れそうだった。
――逃げるか。
――それとも、戦うか。
どっちが正しい選択かなんて言われなくても分かってる。
でもそれは、二年前には選べなかったものだ。
爪を受け、雪の上へ叩きつけられた時には、もう逃げることしか考えられなかった。
怖くて、痛くて、息もできなくて……何も見えないまま背を向けた。
――今だって怖い。
右脇腹の古傷は、心臓が鳴るたび内側から引きつっている。
息は冷気に触れるたび浅くなり、片刃剣の柄へ触れた指にも震えが残っていた。
それでも、あの時とは違う。
今は見えている。
異様に長い前脚。
急に向きを変えた時、巨体が外側へ流れること。
鼻先へ刃が触れた時だけ、僅かに頭を引いたこと。
傷を負っても痛みを感じず、水を溢れさせながら動き続ける身体。
怖いままでも、考えられる。
「なら、今度は選べるじゃないか」
「何を――」
鞘から片刃剣を引き抜く。
刃が曇った空の光を拾い、足元の雪へ細い影を落とした。
「何をしてやがる!」
ガルドさんの犬耳が大きく立った。
雪を蹴り、こちらへ引き返してくる。
大きな手が外套の肩を掴み、そのまま斜面の方へ強く引いた。
「行くぞ。あれは俺たちでどうにかする相手じゃねぇ!」
「でも、あのままでは拠点へ戻ります」
「俺たちが生きて、増援を連れてくる方が先だ!」
「間に合いません」
言い切ると、肩を掴む手へさらに力が入った。
僕より遥かに強い力だ。本気で引かれれば、抵抗することもできない。
「決めつけるな!」
「地下の三人は、傷が塞がっていません。信号筒まで使ったということは、何かが起きています」
外套越しに肩が痛む。
それでも、白い大型から目を逸らさずに続けた。
「あれが食料庫を壊せば、三人は逃げられない」
「だからって、お前が残る理由にはならねぇ」
「僕を追っていたんです」
白い大型は拠点へ向かいながらも、時折こちらを振り返っている。
濁った青白い瞳は、間違いなく僕を見ていた。
「僕が呼べば、もう一度こちらへ来ます」
「それでどうする。お前一人で斬り殺すつもりか?」
「一人では無理です」
肩を掴む手へ、自分の手を重ねる。
「だから、ガルドさんに一緒に戦ってほしいんです」
ガルドさんが息を止めた。
その隙に肩から手を外し、一歩だけ前へ出る。
「北へ来る途中で、言いましたよね」
「……何をだ」
「戦うか、逃げるか。二人で決めるって」
片刃剣を両手で握り直す。
刃先の向こうでは、白い大型が拠点へ歩き続けていた。
「俺は逃げるべきだと言ってる」
「はい」
「なら、答えは逃げるだ」
「それはガルドさんの答えです」
振り返り、彼の目を見る。
「僕の答えは、まだ言っていません」
「勝てると思ってんのか」
「分かりません」
「なら走れ!」
ガルドさんの怒鳴り声が、吹雪の雪原へ響いた。
「憧れだけじゃ、現実は変えられねぇんだぞ!」
その言葉が、胸の奥へ深く刺さった。
重くて、痛くて――そして、正しい。
憧れただけで強くなれるわけではない。
英雄になりたいと願うだけで、剣が鋭くなるわけでも、身体が大きくなるわけでもない。
ガルドさんみたいな頑丈さもない。
フレイヴィアさんのような強さもない。
セラフィ―ンさんみたいに傷をいやすことだって、僕にはできない。
何度も負けた。
何度も怪我をした。
二年前、この雪原では何もできなかった。
誰かを守るどころか、自分で立つことさえできず、助けられて生き残っただけだった。
憧れだけでは、現実は変えられない。
――そんなことは、僕が一番よく知っている。
白い大型が拠点へ向かい、また一つ黒い足跡を残した。
その先には、動けない三人がいる。
ここで背を向ければ、僕は生き残れるかもしれない。
誰も責めない。ガルドさんも、アルナさんも、きっと正しい判断だったと言ってくれる。
それでも。
僕が憧れなければ、あの日、母の家を出ることはなかった。
エルドランへ来ることもなかった。
フレイヴィアさんと出会うことも、ガルドさんから百ソルを借りることもなかった。
剣を握ることも。
倒れてから、もう一度立ち上がることも。
怖くても、この雪原へ戻ってくることもなかった。
憧れだけでは足りない。
力が必要だ。
考えることも、積み重ねることも、失敗を認めることも、誰かに頼ることも必要だった。
けれど、そのすべての始まりには――いつだって、憧れがあった。
無理だと笑われても。
何者にもなれなくても。
それでも、なりたいと願ったから。
僕はここにいる。
柄を握る震えた指へ、ゆっくりと力を込める。
ガルドさんを真っすぐ見返し、胸の奥へずっと残っていた言葉を口にした。
「でも――」
冷たい空気を吸い込む。
肺が痛み、古傷も強く引きつった。
脚はまだ震えている。
それでも、目だけは逸らさない。
「憧れなきゃ、何も始まらない」
ガルドさんの目が、僅かに見開かれた。
吹雪が二人の間を抜けていく。
遠ざかっていく大型の足音だけが、短い沈黙の向こうで続いていた。
「僕にだって、分かっています。憧れだけじゃ、何もできないことくらい」
僕は片刃剣を下げ、白い大型へ向き直る。
「でも、憧れたから僕はここまで来ました。あの日、何かになりたいと願わなかったら、僕はエルドランへ来ていません」
雪を踏みしめる。
「フレイヴィアさんに教えてもらうことも、ガルドさんと依頼へ出ることもなかった。痛くても、怖くても、もう一度ここへ戻ってくることもなかった」
白い大型が低く唸った。
拠点へ向かっていた足を僅かに止め、小さな耳をこちらへ傾けている。
僕一人では死ぬ。
あれを正面から止める力はない。
硬い皮膚の奥へ、刃を届かせる隙も作れない。
だから、一人では戦わない。
「僕一人では無理です」
大型から視線を外し、もう一度ガルドさんを見る。
「だから、前に立ってください」
「……お前な」
「“誰か”が助けてくれるのを、待つ時間はありません」
喉に引っかかった言葉を、冷たい息と一緒に押し出す。
「だから、僕たちかその“誰か”になりましょう」
ガルドさんは何も言わなかった。
白い大型が再び拠点へ向かって歩き出す。
もう、迷っていられる時間は残されていない。
ガルドさんは大型と僕を交互に見たあと、奥歯を強く噛み締めた。
「だぁーっ、くそ!」
両手を頭へ上げ、短い髪を乱暴に掻きむしる。
積もっていた雪が飛び散り、大きな犬耳までぐしゃりと伏せられた。
「本当に、どうしようもねぇ馬鹿だな、お前は!」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ!」
吐き捨てるように言うと、ガルドさんは背中から大盾を下ろした。
表面に深く刻まれた爪痕を一瞥し、歪みかけた留め具を力任せに締め直す。
「散々つき合わせておいて、最後だけ一人で決めるな」
「では――」
「やるぞ」
大盾へ腕を通し、僕の前へ出る。
伏せられていた犬耳がゆっくりと持ち上がり、拠点へ向かう白い大型へ真っすぐ向けられた。
「ただし、止めるだけで済むとは思うな」
「倒しますか」
「やるからにはな」
ガルドさんは大型と周囲の地形を見比べ、雪へ半ば埋もれた大岩を顎で示した。
「俺が正面で受けて、右へ流す。あいつの肩を、あの岩へぶつける」
「姿勢が崩れたところで、僕が左の前脚を狙います」
「ああ。だが、一度で決めようとするな」
振り返ったガルドさんの太い指が、僕の胸元を軽く突いた。
「浅けりゃ離れろ。俺がもう一度、隙を作る」
「ですが、盾が――」
「俺の盾の心配は、俺がする」
大盾の縁が雪へ落ち、鈍い音を立てる。
「お前は、やつを倒せる手段だけを考えろ」
「……はい」
片刃剣を握り直す。
倒すためには、何が必要だ。
前脚を止めるだけでは足りない。
痛みを感じない相手は、身体が動く限り拠点へ向かう。
片脚を壊したとしても、残った三本で這うかもしれない。
目を潰しても、声や匂いを追ってくるかもしれない。
脚。目。喉。首。
どこを斬れば止まる。
どこまで刃を届かせれば、あの巨体は二度と立ち上がらない。
力では勝てない。
正面から打ち合えば、一撃で押し潰される。
……なら、力で勝とうとしない。
ガルドさんが止める。
僕が斬る。
一度で届かないなら、同じ場所へ二度。
二度で足りないなら、三度。
皮膚を裂く。
肉を断つ。
同じ傷へ刃を重ね、その奥にあるものまで切る。
「呼びます」
「おう」
冷たい空気を吸い込む。
血と獣の臭いを覆うように、湿った潮の匂いが肺へ入った。
――piiiiiiiiii
甲高い笛の音が雪原に響く。
白い大型が足を止めた。
「来い。僕は、ここにいる」
拠点へ向いていた頭が、ゆっくりとこちらへ動く。
青白い瞳が僕を捉え、長い前脚が身体の向きを変えていった。
――rrrrrrrr……。
低い振動が、足元の雪を伝ってくる。
「来ます」
「見りゃ分かる」
ガルドさんが大盾の陰で僅かに歯を見せる。
「坊主」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
フードの内側で、吐いた息が白く曇った。
「ガルドさんは?」
「怖ぇよ」
大盾の握りが、ぎちりと鳴る。
「だから、ちゃんと見ろ。俺の声を聞け。一人で勝手に死ぬな」
「はい」
「帰るぞ」
「二人で」
「ああ」
白い大型が頭を低く沈める。
吹雪の音が、少しずつ遠ざかっていった。
木々の軋みも、自分の荒い呼吸も、次第に意識の外へ消えていく。
残るのは、白い大型だけだった。
長い前脚。
低く下げられた頭。
巨体の重さを支える肩。
ガルドさんが受ける。
盾を傾け、右へ流す。
肩が岩へぶつかる。
身体が傾き、左前脚の内側が開く。
僕はそこへ入る。
近づきすぎない。
深さを欲張らない。
一度で届かなければ、離れて次を待つ。
ガルドさんの声を聞く。
右。
左。
下がれ。
入れ。
必要なのは、それだけだ。
怖い。
怖いはずなのに、身体の奥が少しずつ熱を帯びていく。
柄を握る指から震えが消え、片刃剣の重さが掌へ馴染んだ。
あの前脚が動く。
ガルドさんの盾へ当たる。
流れる。
開く。
そこへ刃を届かせる。
身体の内側で、何かが鋭く研ぎ澄まされていった。
目を閉じる必要はない。呼吸を数える必要もない。
もう、できている。
◆
――あぁ、怖ぇな。
ガルドは大盾の陰で、静かに奥歯を噛み締めた。
白い大型が姿を現してから、腹の底には冷たい塊が居座っている。
盾越しに一撃を受けるたび腕の骨が軋み、次こそは支えきれないのではないかと思った。
依頼は討伐ではない。
生きて情報を持ち帰り、もっと強いハンターを連れて戻る。
それが正しい。
自分の判断は間違っていない。
そう言い聞かせて、斜面へ向かった。
けれど、振り返った先で――あの馬鹿は立ち止まっていた。
片刃剣を握る指は震えていた。
古傷を庇うように身体が僅かに傾き、声も掠れている。
二年前、同じ獣へ殺されかけた。
今すぐ背を向けても、誰も臆病者とは呼ばない。
それでも、あいつは前を見ていた。
勝てると思っているわけではない。
自分に特別な力があると勘違いしているわけでもない。
一人では無理だと認めたうえで、自分へ手を伸ばした。
助けを待つ者たちのために、怖さを抱えたまま戦うことを選んだ。
――憧れだけでは、現実は変わらない。
そのことをガルドはよく知っていた。
それで昔、死ぬほどつらい目を見たから。
強く願ったところで、届かない刃は届かない。守りたいと叫ぶだけで、救える命など一つもないことをよく知っている。
けれど。
憧れなければ、何も始まらない。
あの馬鹿は、そう言った。
――不覚にも、闘志に火をつけられた。
願ったから剣を握った。
何度倒れても立ち上がり、何もできなかった雪原へ戻ってきた。
そして今も、その細い背中で白い恐怖を見据えている。
――その隣に、立っていたいと思わされた。
英雄とは、もっと強く、堂々とした者だと思っていた。
迷うことなく敵へ立ち向かい、大きな背中で仲間を導く。誰もが安心して、その後ろを追えるような存在だと。
けれど、目の前にいる少年は違う。
震えている。
怖がっている。
一人では何もできないと分かっているくせに、それでも前へ行こうとする。
どうしようもない馬鹿だった。
なのに、その背中を見ていると――怖気づいていた自分まで、もう一度前を向きたくなる。
この馬鹿を、一人で行かせたくない。
いや。
この馬鹿についていきたい。
強いからではない。
正しいからでもない。
この少年がどこまで行くのか、その隣で見届けたいと思ってしまった。
「まったく……」
誰にも聞こえないように呟き、大盾の握りを確かめる。
腕は重く、盾も傷だらけだ。
――それでも、まだ立てる。
自分が止めれば、こいつが斬る。
自分が見落とせば、こいつが見つける。
一人では届かない場所へ、二人なら届くかもしれない。
そんな馬鹿げたことを、本気で信じたくなった。
ガルドは一歩前へ出る。
ルキウスの細い身体を大盾の陰へ入れ、迫る白い巨体を見据えた。
恐怖は消えていない。
だが、もう逃げたいとは思わなかった。
隣から、片刃剣の柄を握り締める音が聞こえる。
視線を向けなくても分かる。
あの馬鹿は、前だけを見ている。
なら、自分も見るべきものは一つだ。
雪を掻く前脚。
盛り上がる肩。
後脚へ力が集まっていく。
「来るぞ」
「はい」
白い大型が、雪を蹴った。
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