駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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表に、裏に。また表に、裏に。
意味もなくギルドカードを眺めていると、カウンターの向こうから控えめな声がかかった。
「あの、ルキウスさん」
「はい!」
勢いよく顔を上げる。
アルナさんは、少し困ったように笑っていた。頭の上の猫耳が、ぴこりと小さく動く。
「ギルドカードは逃げませんよ」
「あはは。そりゃあ、そう、なんですけどね」
分かってはいる。
分かってはいるのだが、やっと手に入ったハンターの証なのだ。嬉しくないわけがない。
「へへ」
「そんなに嬉しいですか?」
「はい。すごく」
即答だった。
これは即答していいやつだと思う。
アルナさんは目元を少しだけ和らげると、カウンターの下から何枚かの依頼書を取り出した。
「それでは、早速依頼を受けてみますか?」
「はい!」
「初めての依頼でしたら、このあたりがおすすめです」
アルナさんは依頼書を一枚ずつ並べていく。
薬草採取。
倉庫への荷運び補助。
街道沿いの清掃。
指先が依頼書の上を滑るたびに、知らない仕事の名前が僕の前に置かれていく。
どれも大事な仕事なのだと思う。
薬草は怪我人を治すのに必要だろうし、荷運びだって誰かの役に立つ。街道の清掃も、旅人には大切なことだ。
大切なのは分かる。分かるのだけれど。
「スノウラビ……」
僕の目は、その中の一枚に吸い寄せられていた。
依頼書には、そう書かれている。
スノウラビの毛皮一枚以上の納品。
場所は渓流地帯。
対象は、白い毛皮を持つ素早い小型モンスター。
モンスター。
毛皮。
ハンター。
その三つの言葉が、僕の頭の中で綺麗に並んだ。
「アルナさん」
「はい」
「これにします!」
依頼書を指差すと、アルナさんは目を細めた。
猫耳が、さっきより少しだけ横に倒れる。
「スノウラビの毛皮納品ですね」
「はい!」
「初めての依頼ですよ?」
「はい!」
「素早いですよ?」
「はい!」
「無理はしないでくださいね?」
「はい!」
元気よく返事をするたびに、アルナさんの表情が少しずつ不安そうになっていく。
おかしい。
元気な返事は良いことのはずなのに。
「……やっぱり少し不安です」
「なぜでしょう。僕はこんなにも元気なのに」
「元気だからです」
どうやら、元気にも限度があるらしい。
難しい。
アルナさんは依頼書を手に取り、内容を確認するように目を落とした。
「スノウラビは小型ですが、れっきとしたモンスターです。角がありますし、追い詰めれば突進してきます。まともに受ければ怪我をします」
「はい」
「依頼は毛皮の納品です。無理に複数狩る必要はありません。一枚でも納品できれば達成です」
「はい」
「危ないと思ったら、すぐに戻ってきてください。依頼は失敗しても構いません。まず、生きて帰ることです」
その言葉だけ、少し重かった。
僕は胸元のギルドカードを握る。
小さな金属札の硬さが、手のひらに伝わった。
「はい。生きて帰ります」
「本当に?」
「本当に本当です!」
アルナさんはじっと僕を見た。
僕も、真っ直ぐに見返す。
少しの間、カウンターの上に沈黙が落ちた。
「……分かりました」
やがて、アルナさんは小さく息を吐いた。
「では、依頼を受注しますね」
「はい!」
受けられた。
つまり勝ちである。
何に勝ったのかは分からないけれど、何かに勝った気分だ。
アルナさんはギルドカードと依頼書を手元の道具に通した。
かちり、と小さな音がする。
「受注完了です。今回は剥ぎ取り用の短刀と布袋を貸し出します。短刀は素材を傷つけないように使ってください」
「分かりました!」
「……本当に?」
「本当に本当です!」
「その返事、少し信用できなくなってきました」
「なぜ!?」
アルナさんは少しだけ笑った。
それから、真面目な顔に戻る。
「場所は東門から出て、渓流地帯一番域。乗合ケルンを使えば片道三十分ほどです。日が傾く前には戻ってきてください」
「はい!」
「いってらっしゃいませ、ルキウスさん」
その言葉に、胸が弾んだ。
僕は依頼書と貸し出された道具を大事にしまい、深く頭を下げる。
「行ってきます!」
そうして僕は、人生で初めての依頼へと出かけた。
◆
渓流地帯は、町から東にあった。
ケルンの荷台に揺られること、三十分。
道は少しずつ石畳から土へと変わり、やがて木々の匂いが濃くなっていく。
川のせせらぎが聞こえた。
冷たい風がフードの端を揺らし、湿った土と葉の匂いが鼻先をくすぐる。
森の匂いだ。
どこか懐かしい。
けれど、僕の知っている森とは少し違う。
道にはギルドの印があり、ところどころに目印の杭が立っていた。踏み固められた道も、木に結ばれた布も、ここが誰かに管理されている場所なのだと教えてくれる。
「無理はしない。危ないと思ったら戻る。生きて帰る」
アルナさんに言われたことを、小さく呟く。
大事なことだ。
何度も言われた。
依頼は、達成して帰ってくるまでが依頼。
分かっている。
分かっているのだが。
「初依頼……!」
声が弾んだ。
仕方ない。
これは仕方ない。
だって初依頼なのだ。
英雄譚の始まりなのだ。
たとえ相手がスノウラビでも。
いや、スノウラビに失礼だった。相手はモンスターだ。油断してはいけない。
僕は依頼書をもう一度確認してから、辺りを見回した。
「スノウラビ……スノウラビ……」
アルナさんの話では、真っ白な毛皮に黒い瞳。丸い体と長い耳を持った、小型のモンスターらしい。
臆病で、素早い。
水辺よりは、低い草むらや倒木の陰を好む。
案外見つけられない者なんだろうな、なんて思っていたが、自分の予想より早くその時はやってきた。
「草がかじられた跡。白い毛。小さな足跡……」
見つけた痕跡を、ひとつずつ確認する。
母さんに教わった森歩きが、少しだけ役に立っている気がした。
僕は腰を落とし、草をかき分けながら慎重に進む。
すると、少し先の草むらが揺れた。
「あ、いた」
白い毛玉みたいなものが、草の陰で丸くなっていた。
長い耳。丸い体。黒い目。
間違いない、あれがスノウラビだろう。
「……かわいい」
思わず呟いた。
かわいい。
ものすごくかわいい。
これを狩るのか。
ハンターという職業は、思っていたより心にくる。
けれど、依頼だ。
畑や草地を荒らすこともあるらしいし、素材にもなる。何より、僕は依頼を受けた。
受けた以上、やるしかない。
「よし」
小さく息を吐く。
僕は腰の片手剣に手をかけた。
その瞬間、スノウラビの耳がぴくりと動く。
次の瞬間。
白い毛玉は、弾けるように逃げ出した。
「――は、速っ!」
想像の三倍速かった。
いや、五倍かもしれない。
とにかく速い。
僕は慌てて追いかける。
草に足を取られ、枝にフードが引っかかった。
「ぐえ」
首が締まる。
慌てて枝を外す。
その間に、スノウラビはさらに遠ざかっていた。
「待っ、待って!」
待つわけがない。
モンスターだ。
僕の都合で待ってくれるモンスターなら、それはもうかなり優しい。
剣を抜く暇もない。
抜いたところで、当たる気もしない。
僕は追いかける。
逃げられる。
追いかける。
逃げられる。
泥に足を取られる。
「うわっ」
転んだ。
顔からいった。
湿った土の匂いが鼻に入る。
痛い。
そして情けない。
「……これ、思ってたより大変かも」
顔についた泥を拭いながら、ふと呟く。
初依頼。
想像では、もう少し格好よく剣を振っているはずだった。
現実の僕は、泥を食べている。
かなり違う。
でも、諦めるわけにはいかない。
僕は袖で口元の土を拭い、草むらの揺れを追った。
スノウラビは、さっきから同じ方向へ逃げている。
水辺には近づかない。
低い藪をくぐる。
倒木の横を抜ける。
ただ闇雲に追っても、追いつけない。
だったら、と僕は正面から追うのをやめた。
少しだけ回り込む。
小石を拾い、草むらの反対側へ投げた。
がさり、と音がする。
スノウラビが跳ねた。
逃げ道が変わる。
「ここ!」
僕は倒木の横へ走り込んだ。
白い影が飛び出してくる。
剣ではなく、体で飛び込んだ。
泥が跳ねる。
そのまま地面に転がる。
腕の中に、確かな毛の感触があった。
「ちょ、いた、いたいってば!」
暴れられる。
蹴られる。
角が腕をかすめる。
痛い。
でも、離さない。
「つ、捕まえた……!」
腕の中で、スノウラビがばたばたと暴れている。
小さいのに力が強い。
このままでは逃げられる。
僕は必死に体勢を変え、スノウラビの動きを押さえ込んだ。
それから、短刀に手を伸ばす。
格好よくはなかった。
全然なかった。
むしろ、かなり泥臭かった。
それでも。
しばらくして、僕の手元には白い毛皮が一枚残った。
「……やった」
息が切れていた。
膝も腕も泥だらけだった。
けれど、毛皮は取れた。
初めての依頼。
初めての狩猟。
初めての素材。
胸の奥が、じわじわと熱くなる。
「やった……!」
声に出すと、嬉しさが一気に込み上げてきた。
僕は毛皮を布袋にしまい、もう一度周囲を見回す。
危なかったら戻る。
そう約束した。
毛皮は一枚で達成。
ここで引き返せば、きっとアルナさんも安心してくれる。
そう分かっていた。……分かってはいたのだ。
けれど、まだ日も高い。
体も動く。
足元には、さっきとは別の小さな足跡が続いている。
胸の奥で、さっき灯った熱がまだ消えていなかった。
「……もう少しだけ」
そう呟いて、僕は次の痕跡を探し始めた。
それがこの日、二度目の小さな失敗になることを、僕はまだ知らなかった。
◆