駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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~前回までのあらすじ~

 前回は都市『エルドラン』へやってきたルキウスがギルドへ訪問、というところで終わりました。
 今回はそのギルドに入って~からになります。

 それでは、どうぞ。



第一章 第三話『少年はハンターになる』

 

 ◆

 

 重たい扉をくぐった瞬間、いくつもの匂いが押し寄せてきた。

 革に鉄。汗と酒、それに香ばしく焼けた肉……その奥からは、僅かに血の匂いも混ざって鼻腔を刺激した。

 

「うわ」

 

 思わず、入口で足が止まる。

 

 ここが、ハンターズギルド。

 

 物語の中では何度も読んだ場所だ。

 英雄たちが依頼を受け、仲間と出会い、まだ見ぬ土地へと旅立っていく――僕がずっと憧れてきた、冒険の始まりの場所。

 

 けれど、実際に目の前へ広がっていた光景は、想像よりも大きく、騒がしく……そして、ずっと現実的だった。

 

 硬い石造りの床には、靴や武器で擦れた傷が無数に走っている。

 壁一面には依頼書が貼られ、天井からは巨大な角や爪、見たこともないモンスターの骨が吊るされていた。

 

「本物だ……」

 

 奥の酒場では、大柄なハンターたちが昼間から酒杯を掲げている。

 その隣の卓では、弓を背負った女性が地図を広げ、仲間と真剣な顔で話し込んでいた。

 

 笑っている人。

 怒鳴っている人。

 血の滲んだ腕を押さえながら、報告書へ文字を書き込んでいる人。

 

 ――本の挿絵とは違う。

 

 ここにいる人たちは、本当に命を懸けて仕事をしている。

 そんな当たり前のことを、初めて実感した。

 

「それで、受付は……」

 

 入口の脇へ立ったまま、大広間を見回す。

 

 依頼書の並ぶ掲示板。

 巨大な牙や毛皮を量っている素材買取所。

 酒場に、何かを言い争っているハンターたち。

 

 目に入るものが多すぎて、どこから探せばよいのか分からない。

 

 ガルドさんからは、街へ入ったら真っすぐギルドへ行けと言われた。

 ギルドには来た。

 

 次はハンター登録だ。

 そこまでは分かっている。

 

 問題は、どこで登録するのかだった。

 

「……あれかな」

 

 大広間の奥に、横長のカウンターが見えた。

 何人かの職員が座り、並んだハンターから書類や素材を受け取っている。

 

 きっと、あれが受付だ。

 

 人の流れを邪魔しないよう壁際へ寄り、カウンターへ向かう。

 近づくにつれ、その右端だけ妙に様子が違うことへ気づいた。

 

 ほかの受付には何人ものハンターが並んでいる。

 それなのに、そこだけぽっかりと空間が空いていた。

 

「どうして、誰も並んでないんだろう」

 

 ギルド全体がこれほど騒がしいのに、まるでそこだけ切り取られたように静かだった。

 自然と、視線が向く。

 そして――目を奪われた。

 一人の女性が、受付の前に立っていた。

 

 夜をそのまま流したような黒髪が、腰の辺りまで真っすぐに伸びている。

 背中には、僕の身長ほどもありそうな大剣。首元からは黒い鱗が覗き、腰から伸びた太い尾が、石床すれすれで緩やかに揺れていた。

 

 何より目を引いたのは、黄金色の瞳だ。

 

 ただ手元の書類を読んでいるだけなのに、その周囲の空気まで張り詰めて見える。

 

「……綺麗な人だなぁ」

 

 声へ出したあとで、慌てて口元を押さえた。

 幸い、周囲の喧騒に紛れたらしい。

 

 綺麗な人だった。

 

 それと同時に――強い人なのだと思った。

 

 理由を尋ねられても、上手く説明はできない。

 ただ、立っている姿を見ただけで、僕とは何もかも違うと分かってしまった。

 

「はい。確かに受領しました」

 

 女性の前にいる受付嬢が、報告書を確認して顔を上げる。

 

 ふわりとした栗色の髪。

 頭の上には、髪と同じ色をした猫耳があった。

 

「今回の報告も問題ありません。いつもありがとうございます、フレイヴィア様」

「よい。余が勝手にやっていることだ」

 

 フレイヴィア様と呼ばれた女性が、カウンターへ片手を置く。

 

「そうはおっしゃいますが、本来は複数名で行う調査です。調査班も大変助かっています」

「ならば、次も必要があれば呼べ」

 

 受付嬢は僅かに目元を和らげ、手元の書類を丁寧に揃えた。

 

「ありがとうございます。お疲れさまでした」

「ああ。ご苦労だった」

 

 フレイヴィアさんは差し出された書類へ軽く目を通し、外套の内側へしまう。

 

 僕も、ようやく我に返った。

 

「いけない」

 

 見惚れている場合ではない。

 僕はハンターになりに来たのだ。

 

 ちょうど右端の受付が空いた。

 先ほどまでフレイヴィアさんが立っていたから、ほかの人が近づかなかっただけなのだろう。

 

 受付そのものは使ってよいはずだ。

 ――たぶん。

 都会には、僕の知らない決まりが多い。

 けれど、何もせず立っていてもハンターにはなれない。

 

 僕は人の間を抜け、空いたカウンターへ向かった。

 

「おい」

 

 近くの卓から、小さな声が聞こえた。

 

「見たか、あいつ」

「右へ行ったぞ」

 

 別の誰かが答え、酒杯の陰からこちらを窺っている。

 

「マジか」

「知らねぇんだろ」

 

 ひそひそと交わされる声に、足を止めかけた。

 

「……僕のことかな」

 

 何かを間違えただろうか。

 

 靴は履いている。

 武器も抜いていない。

 列へ割り込んだわけでもない。

 

 自分の格好を見下ろしてみるけれど、問題らしい問題は見つけられなかった。

 

 ならば、大丈夫だろう。

 

 分からないことを分かったふりはしてはいけない。

 けれど、分からないことをすべて気にしていては、一歩も動けなくなってしまう。

 

 カウンターまで、あと数歩。

 

 その時、硬い靴音が近づいてきた。

 

 かつ、かつ、と石床を打つ音。

 

 顔を上げる。

 フレイヴィアさんが、こちらへ歩いてきていた。

 

「……っ」

 

 僕に用があるわけではない。

 ギルドの出口へ向かうためには、僕の横を通る必要があるだけだ。

 

 そう分かっているのに、妙に身体へ力が入る。

 

 黄金の瞳が近づく。

 

 すれ違う――その直前。

 

 フレイヴィアさんの足が止まった。

 

「……主」

 

 低い声だった。

 

 誰に向けた言葉なのか分からず、周囲を見回す。

 けれど、すぐ近くにいるのは僕だけだった。

 

「えっと……僕ですか?」

 

 恐る恐る、自分を指差す。

 答えはない。

 

 黄金の瞳が、フードの奥を覗き込むように細められていた。

 縦に伸びた瞳孔が、僕の顔から胸元へゆっくりと動く。

 ――何かを見られている。

 それだけは分かる。

 

 けれど、何を確かめられているのかは、まったく分からなかった。

 

 僕も、フレイヴィアさんも何も言わない。

 ただ視線だけが、深いフード越しに重なる。

 

「…………」

 

 息をすることさえ忘れかけた、その時。

 

「フレイヴィア様! こちらです!」

 

 ギルドの入口付近から声が飛んだ。

 

 呼び声を受け、フレイヴィアさんの眉が僅かに動く。

 

「ああ。今行く」

 

 短く答えてから、もう一度だけ僕を見る。

 

 結局、それ以上は何も言わなかった。

 

 黒髪を揺らし、開け放たれた扉の向こうへ歩いていく。

 彼女が通り過ぎると、張り詰めていた空気まで一緒に遠ざかっていった。

 

「……ぷはぁ」

 

 溜め込んでいた息を、一度に吐き出す。

 

 何もされていない。

 怒鳴られてもいないし、背中の大剣を抜かれたわけでもない。

 

 それなのに、危うく呼吸の仕方を忘れるところだった。

 

「あの……お客様?」

 

 目の前から声を掛けられ、肩が跳ねる。

 

「あ、はい!」

 

 慌てて振り向く。

 

 先ほどフレイヴィアさんの報告を受けていた猫耳の受付嬢が、こちらを見ていた。

 柔らかな表情をしているものの、少しだけ困ったように眉を下げている。

 

「大丈夫ですか?」

「たぶん」

「たぶん、ですか」

 

 受付嬢の猫耳が、僅かに傾いた。

 

「何をされたわけでもないので、大丈夫です」

「そうですね。もし何かされていたら、今頃ギルド中が大騒ぎになっています」

 

 それは、どういう意味だろう。

 ――詳しく聞くのが少し怖い。

 受付嬢は、フレイヴィアさんが出ていった扉へ目を向けた。

 

「お客様は、フレイヴィア様のお知り合いでしょうか?」

「いえ。今、初めて会いました」

「そうなのですか?」

 

 猫耳が、ぴんと立つ。

 その動きが気になり、目で追いかけそうになった。

 かわいい。

 

「……」

 

 けれど、初対面の女性の耳を見つめ続けるのは、怪しい動きに入るかもしれない。

 ガルドさんから注意されたばかりだ。

 

 僕は慌てて、カウンターへ視線を落とした。

 

「はい。見られて、『主』と言われただけです」

「それが珍しいのです」

 

 受付嬢は口元へ指を添え、考えるように視線を動かす。

 

「フレイヴィア様が、ご自身のパーティーメンバー以外へ声を掛けることは、あまりありませんから」

「もしかして、怒っていたのでしょうか」

「少なくとも、私にはそう見えませんでした」

 

 その言葉を聞き、胸の奥へ入っていた力が少し抜ける。

 

「よかったです」

「ただ、気にはされていたようですね」

「僕、そんなに変でしょうか」

 

 受付嬢の視線が、深く被ったフードへ向いた。

 ――やはり、この格好は目立つらしい。

 けれど、彼女はフードを外すようには言わなかった。

 

「どうでしょう。この街では、事情があって顔を隠している方もいらっしゃいます」

「そうなのですか?」

「はい。ただ、フレイヴィア様が何を気にされたのかは、私にも分かりません」

 

 受付嬢は小さく微笑んだ。

 

「ご本人へ尋ねるしかないと思います」

「次に会ったら、聞いてみます」

「……聞けるとよいですね」

 

 なぜか、少し心配そうな声だった。

 

「ところで」

 

 受付嬢の表情が、仕事のものへと変わる。

 

「本日は、どのようなご用件でしょうか?」

「あ」

 

 そうだった。

 

 フレイヴィアさんに見られた理由を考えているうちに、本来の目的を忘れていた。

 

 腰の袋へ入れた百ソルへ触れる。

 ガルドさんから借りたお金だ。

 

 まずハンターになり、仕事を見つける。

 そう約束してきた。

 

 僕は背筋を伸ばし、受付嬢へ向き直る。

 

「ハンターになりに来ました!」

「ハンター登録ですね」

「はい!」

 

 大きく頷くと、栗色の猫耳が小さく揺れた。

 

「承知しました。では、こちらへどうぞ」

 

 受付嬢が、カウンターの正面を示す。

 僕は半歩ずれていたことに気づき、慌てて立ち位置を直した。

 

「改めまして、私は受付担当のアルナと申します」

「アルナさん」

「はい。本日はハンター登録でお間違いありませんか?」

 

 アルナさんが、確認するように僕の顔を見上げる。

 

「間違いありません。お願いします!」

 

 彼女は柔らかく微笑み、カウンターの下から一枚の書類を取り出した。

 細いペンと小さな金属板、それから文字を刻むためらしい道具が、順番に並べられる。

 

 ――本当に登録するのだ。

 

 僕が、ハンターズギルドへ。

 

 そう思っただけで、胸の奥がまた騒がしくなった。

 

「まずは、こちらの登録書類へ記入をお願いします。代筆は必要ですか?」

「代筆?」

「読み書きが苦手な方には、こちらで代わりに記入しています」

 

 アルナさんがペンを持ち、僕と書類を交互に見る。

 

「いかがされますか?」

「大丈夫です。自分で書けます」

「読み書きができるのですね」

 

 僅かに目を丸くされた。

 

「はい。母に教わりました」

「そうですか。よいお母様ですね」

「はい。とても!」

 

 胸を張って答える。

 

 母は、いろいろなことを教えてくれた。

 

 読み書きに計算。

 森で食べられる草の見分け方や、絶対に口へ入れてはいけない茸の見分け方。

 

 特に茸は大切だ。

 

 以前、見分け方を間違えた時には、母が半泣きになりながら僕の口へ薬草を詰め込んできた。

 

「……あれは怖かったな」

 

 主に、茸ではなく母が。

 

「どうかされましたか?」

「いえ。母は、とてもよい母です」

「そうですか」

 

 アルナさんが不思議そうに猫耳を動かす。

 少し説明が足りなかったかもしれないけれど、間違ったことは言っていない。

 

「では、こちらへお名前をお願いします」

「はい」

 

 ペンを受け取り、空欄へ自分の名前を書く。

 ――ルキウス。

 普段から使っている名前なのに、正式な書類へ書くと少しだけ緊張した。

 

「年齢は、こちらです」

「十七です」

 

 数字を書き込む。

 

 正確な生まれた日は知らない。

 けれど、母が十歳の誕生日を祝ってくれたことは覚えているので、そこから数えれば十七で間違いないはずだ。

 

 たぶん。

 

「次に、出身地をお願いします」

「出身地……」

 

 ペン先を止める。

 

 母と暮らしていた場所には、町や村のような名前がなかった。

 僕たちはリューネ山と呼んでいたけれど、その名称が世間で通じるのかは分からない。

 

「ええと……」

 

 少し考え、空欄へ文字を書き込む。

 

 ――リューネ山、奥地。

 

 アルナさんが書類を覗き込み、首を傾げた。

 猫耳も同じ方向へ傾く。

 

 かわいい。

 

 ……違う。

 今は耳を見ている場合ではない。

 

「リューネ山……。申し訳ありません、聞いたことがありません」

「ここから、ずっとあちらの方です」

 

 僕はギルドの外へ向かって指を差す。

 

 実際にどの方角なのかは、自信がなかった。

 それでも、あちらの方であることは間違いない。

 

 たぶん。

 

「ずっと、あちらですか」

「はい。辺境も辺境らしいです」

「なるほど……」

 

 アルナさんは、僕が指差した方向と書類を見比べた。

 

 すべてを理解したというより、ひとまずそういう場所なのだと受け入れてくれたらしい。

 

「では、次に戦闘経験を確認します」

「はい!」

 

 背筋を伸ばす。

 

 アルナさんは書類の次の欄へペンを移した。

 

「使用する武器は?」

「片手剣です」

「魔法は使用できますか?」

「使えません」

 

 ペン先が次の項目へ移る。

 

「治癒術や補助術は?」

「使えません」

「モンスターの討伐経験は?」

 

 一瞬だけ、答えへ詰まる。

 

「……ありません」

 

 かり、とペン先が止まった。

 

 アルナさんが、ゆっくり顔を上げる。

 

「小型モンスターの狩猟経験は?」

「ありません」

「護衛経験は?」

「ありません」

 

 彼女の猫耳が、少しだけ横へ倒れた。

 

「採取依頼の経験は?」

「ありません」

「……実戦経験は、まったくないということでしょうか」

 

 質問へ答えているだけなのに、返事をするたび僕の評価が下がっている気がする。

 

「森で獣を追い払ったり、罠を作ったりはしていました」

「その罠で、モンスターを捕らえたことは?」

「ありません」

 

 アルナさんの手が止まる。

 

「片手剣で、何かと戦った経験はありますか?」

「木剣で母と練習していました」

「実際の片手剣では?」

「……ありません」

 

 沈黙が落ちた。

 

 アルナさんの笑顔は崩れていない。

 けれど、その顔には少しだけ、こう書いてあるように見えた。

 

 ――この人、大丈夫でしょうか。

 

 自分でも思う。

 

 大丈夫だろうか、僕。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 恐る恐る尋ねると、アルナさんは一度だけ目を瞬かせた。

 それから、安心させるように柔らかく微笑む。

 

「大丈夫ですよ」

「本当ですか?」

「はい。最初は、誰でも経験のないところから始まります」

 

 倒れていた猫耳が、僅かに持ち上がった。

 

「登録時点で実戦経験がない方も、珍しくありません」

「そうなんですね」

 

 胸を撫で下ろす。

 

「ただし」

 

 アルナさんが、書類の上へ両手を重ねた。

 

「無理は禁物です」

「はい」

「特にルキウスさんは、分からないことがあったら必ず職員へ確認してください」

 

 先ほどまでより、声が少しだけ真剣になる。

 

「依頼の内容、道具の使い方、モンスターの特徴……分からないまま外へ出ることが、一番危険です」

「分かりました」

「本当に?」

 

 アルナさんが、じっとこちらを見る。

 

「本当に本当です!」

 

 元気よく答えると、彼女の眉が僅かに下がった。

 

「……少し不安ですね」

「なぜですか。こんなに元気よく返事をしているのに」

「元気がよすぎるからです」

 

 返事というものは、元気ならよいわけではないらしい。

 

 ――難しい。

 

 アルナさんは登録書類を手元へ戻し、別の冊子を開いた。

 

「それでは、登録に必要な注意事項を説明します」

「はい」

 

 冊子には、いくつもの項目と簡単な地図が描かれていた。

 

「ハンターは、依頼を受けて報酬を得る職業です。依頼には採取、運搬、護衛、調査、捕獲、討伐などがあります」

「はい」

「登録直後の方はランク1から始まり、実績と試験によってランクが上がります」

 

 アルナさんの指が、地図の周辺へ描かれた線をなぞる。

 

「エルドランの周囲には、渓流、雪原、砂漠、沼地、火山などの探索地域があります。ただし、ランクによって入れる範囲には制限があります」

「ランク1は、どこまで行けるんですか?」

「各地域の一番域までです。それより先には、許可なく入らないでください」

 

 地図には、各地域を区切るように数字が振られていた。

 奥へ行くほど数字が大きくなり、描かれているモンスターの印も増えている。

 

「強くなれば、遠くまで行けるんですね」

「はい。ただし、強さだけで判断してはいけません」

 

 アルナさんの指が、地図から僕へ向けられる。

 

「天候や地形、持っている道具、依頼へ出る人数……すべてを確認してから受注してください」

「分かりました」

 

 今度は、少しだけ静かに答えた。

 

 アルナさんは満足そうに頷き、冊子を閉じる。

 

「最後に、最も大切なことをお伝えします」

「はい」

 

 カウンターの向こうから、真っすぐに見つめられた。

 

「依頼は、達成して戻ってくるまでが依頼です」

 

 大広間では、変わらず多くの声が飛び交っている。

 

 笑い声。

 食器の鳴る音。

 依頼を巡って言い争う声。

 

 けれど、その言葉だけが、不思議とはっきり聞こえた。

 

「素材や報酬よりも、まず生きて帰ることを優先してください」

「生きて帰る……」

「はい。それがハンターにとって、何より大切なことです」

 

 ガルドさんも、似たようなことを言っていた。

 

 英雄は、死体につける名前ではない。

 生きて帰り、次も誰かを助ける。

 

 ――そのためにも、まずは自分が帰らなければならない。

 

 腰の袋へ入れた百ソルへ触れる。

 借りたお金だって、返すと約束した。

 

「分かりました。必ず生きて帰ります」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 アルナさんは僕をしばらく見つめた。

 正確には、深く被ったフードを見つめている。

 

「……分かりました」

 

 小さく息を吐き、書類の最後へ印を押した。

 

「では、登録を完了しますね」

 

 アルナさんは、カウンターの横へ置かれた小さな金属板を手に取る。

 書類と見比べながら、専用の道具で文字を刻んでいく。

 

 かちり。

 かちり。

 

 小さな音が鳴るたび、胸の鼓動が強くなった。

 

「…………」

 

 まだだろうか。

 

 待っている間に何度も手元を覗き込みたくなったけれど、仕事の邪魔になってはいけない。

 僕は指先を握り、どうにか我慢する。

 

 やがて、刻む音が止まった。

 

「お待たせしました」

 

 アルナさんが金属板の表面を布で拭き、僕の前へ差し出す。

 両手で受け取った。

 

「……冷たい」

 

 小さいのに、思っていたよりも少し重い。

 表には、剣と盾を組み合わせたギルドの紋章。

 恐る恐る裏返すと、そこには僕の名前が刻まれていた。

 ――ルキウス。

 その下に、もう一つ。

 ハンターランク1。

 

「こちらが、ルキウスさんのギルドカードです」

 

 アルナさんの声が、少し遠く聞こえた。

 本当に――本当に、僕はハンターになったのだ。

 森の奥で本を読んでいた僕が。

 母に泣かれながら家を出て。

 

 ガルドさんの荷車へ乗せてもらい、通行料すら知らず、百ソルを借りて街へ入った。

 そして今。

 ハンターズギルドで、自分の名前が刻まれたカードを手にしている。

 

「……へへ」

 

 顔が緩んだ。

 

 表。裏。

 もう一度、表。

 それから、また裏。

 

 何度確認しても名前は消えない。

 ランク1の文字も、そのまま残っている。

 

「ギルドカードは逃げませんよ」

 

 アルナさんが、困ったように笑っていた。

 

「分かっています」

「では、しまっても大丈夫では?」

「もう少しだけ見ます」

 

 カードを光へ翳す。

 刻まれた文字が、微かに輝いて見えた。

 

「そんなに嬉しいですか?」

「はい。すごく」

 

 即答だった。

 

 これは、即答してもよいはずだ。

 

 アルナさんの目元が、少しだけ和らいだ。

 受付嬢としての笑顔というよりも、僕が喜んでいることを、本当に喜んでくれているように見える。

 

「それでは、改めまして」

 

 アルナさんが背筋を伸ばす。

 僕も、つられて姿勢を正した。

 

「ようこそ、ルキウスさん」

 

 栗色の猫耳が、明るく持ち上がる。

 

「ハンターズギルドへ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 ――ようこそ。

 受け入れられた。

 そんなふうに感じた。

 

 僕はギルドカードを、両手で大切に握り締める。

 

 まだ何の実績もない。

 一度も依頼を達成していない、ランク1のカードだ。

 

 それでも、今の僕には何よりも眩しかった。

 

「はい!」

 

 力いっぱい頷く。

 

「よろしくお願いします、アルナさん!」

 

 こうして僕は、ハンターになった。

 

 英雄には、まだ遠い。

 遠すぎて、そこまで続く道さえ見えていない。

 

 それでも――最初の一歩だけは、確かに踏み出した。

 

 




 
 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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