駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第十四話『少年は過去を斬る』

 

 ◆

 

 白い大型が、跳んだ。

 雪が爆ぜ、濡れた白い体躯が一瞬で視界を埋め尽くす。

 

「来るぞ!」

 

 ガルドさんの怒号より早く、大盾が前へ出た。

 直後、白い大型の前脚が盾へ叩きつけられる。金属と木材が一緒に軋み、ガルドさんの両足が雪を深く抉りながら半歩だけ後ろへ押し戻された。

 

「ぐっ……!」

「ガルドさん!」

「俺を見るな! 動け!」

 

 叫ばれ、考えるより先に雪を蹴った。

 正面から斬らない。受け止めない。力で押し返そうとしない……僕の役目は、ガルドさんが作った隙へ刃を通すことだ。

 大盾へ体重を預けた大型の横へ回り込み、雪に足を取られないよう踏み締める。鞘から引き抜いた片刃剣を低く構え、前脚の付け根へ向けて横薙ぎに振り抜いた。

 白い毛が裂ける……が、浅い。

 細い赤が浮かんだものの、それだけだった。傷口から血とともに透明な水が溢れ、赤い線を薄めながら白毛の中へ広がっていく。

 

 大型が、ゆっくりとこちらへ首を向けた。

 ――濁った青白い瞳。

 こちらを獲物としか見ていない目だった。

 背筋が凍る。身体のすべてが、今すぐそこから逃げろと叫んでいる。

 

「下がれ、坊主!」

 

 ガルドさんの声へ従い、反射的に後ろへ跳ぶ。

 次の瞬間、僕がいた場所を黒い爪が薙ぎ払い、雪と氷をまとめて弾き飛ばした。砕けた氷が頬を掠め、遅れて熱い痛みが走る。

 ……痛い。

 けれど、生きている。

 なら、まだ動ける。

 

 ◆

 

『主は、力で勝とうとするな』

 

 フレイヴィアさんは僕の剣筋を見て、何度目か分からない言葉を繰り返した。

 

『力で勝てぬなら、力で勝つ形を捨てろ』

 

 ◆

 

 力で斬らない。

 重さで叩きつけるのでもない……刃筋を通す。

 皮膚を裂き、その下の肉へ届かせるために。

 息を一度吐き、片刃剣を構え直す。その正面で白い大型が低く唸り、ガルドさんが剣の柄を大盾へ叩きつけた。

 

「こっちだ、白犬野郎!」

 

 鈍い金属音に、大型の小さな耳が動いた。

 青白い瞳がガルドさんへ向いた瞬間、僕は雪を蹴り、横から入る。

 狙うのは同じ場所……先ほど浅く裂いた左前脚の付け根だ。

 

 ――rrrraaaAAA

 獣の音が鼓膜を打つ。

「効いてる」

 

 片刃剣が白い毛の下へ沈む。

 今度は、先ほどよりも少し深い。

 赤い線が浮かび、大型が雪原を震わせるほどの声で吠えた。あまりにも近く、耳の奥が刺されたように痛む。

 

 それでも傷から目を離さない。

 怒りに任せて持ち上がる前脚。

 僅かに沈む肩。

 そこから振り下ろされる爪の角度。

 

「右!」

 

 ガルドさんの声へ従い、身体を右へ沈める。

 黒い爪が頭上を通り過ぎ、白い毛がフードの端を掠めた。

 怖い。間違いなく怖い……けれど、見える。

 

 さっきよりも、ずっとよく見える。

 身体は熱く、息は荒い。心臓も耳元でうるさいほど鳴っている。

 それなのに、頭の奥だけが妙に静かだった。

 

 雪を蹴り、再び前へ出る。

 三太刀目。

 同じ場所へ片刃剣を振るった。

 一太刀目で皮膚を裂いた。

 二太刀目で肉へ届いた。

 なら、次はその奥へ。

 

 白い大型が身体を捻る。

 巨大な尾が雪を巻き上げながら迫ってきた。

 

「伏せろ!」

 

 声に従って身体を低くする。

 白い尾が頭上を抜け、風圧でフードと外套が大きく揺れた――次の瞬間。

 ガルドさんの大盾が僕の横へ滑り込む。

 

「――っ!?」

 

 見えていなかった。

 尾の陰から、もう片方の前脚が来ていたのだ。

 黒い爪が大盾へぶつかり、新たな傷が刻まれる。弾けた氷片が、火花のように周囲へ散った。

 

「危ねぇだろうが!」

「ありがとうございます!」

「礼は後だ! 足を止めるな!」

「はい!」

 

 盾の陰から飛び出す。

 白い大型は速い。そして重く、強い。

 正面から向き合えば、僕など一瞬で潰されるだろう。

 けれど、動きには癖がある。

 動きには予備動作が必ずある。突進の際には足を引き、前腕を振るう際は大きく上に持ち上がる。

 

 ――なら、そこだ。

 

 傷を増やす。

 弱点を、さらに深い弱点へ変えていく。

 

 ◆

 

『生き物には、必ず弱点がある。そこを狙え』

 

 フレイヴィアさんの黄金の瞳が、訓練場へ倒れた僕を見下ろしていた。

 

『一度で足りぬなら、二度。二度で足りぬなら、三度』

 

 木剣の切っ先が、地面に描かれた同じ一点を繰り返し叩く。

 

『弱点は、重ねればさらに弱点になる』

 

 ◆

 

 一太刀で、皮膚を開く。

 二太刀で、肉を裂く。

 三太刀で、その奥へ届かせる。

 見るのは牙でも、爪でもない……僕がつけた、細い赤い傷だ。

 ガルドさんが前で止め、僕が横から入る。すぐに離れ、もう一度ガルドさんが止める。

 

 そして今度は同じ傷をなぞり、先ほどよりも深く刃を通す。

 雪が舞い、血と透明な水が跳ねた。

 白い毛へ、少しずつ赤が増えていく。

 

「左へ抜けろ!」

「はい!」

「来るぞ、下がれ!」

「はい!」

「今だ、入れ!」

「はい!」

 

 ガルドさんの声が飛ぶたび、考えるより早く身体が動いた。

 雪を蹴る。

 刃を通して、そして離れる。

 その繰り返し。

 

 大盾が鳴り、大型が吠える。

 その音を背に再び踏み込み、片刃剣を振るう。

 何度目か分からない。

 同じ傷。

 同じ角度。

 同じ刃筋……けれど、まったく同じではなかった。

 一度ごとに刃は深くなり、大型の左前脚は僅かずつ遅れていく。

 

 左前脚へ届かない時には、ほかの場所へも刃を走らせた。

 振り向いた際に開いた脇腹。

 踏み込むため雪へ沈めた後脚。

 盾へ噛みつこうと伸ばした首筋。

 避け際に露わになった肩口。

 

 一つひとつは浅い。

 それでも攻防を重ねるうち、大型の白い身体には数え切れない赤い線が刻まれていった。

 

 斬って、避けて……また斬る。

 時間の感覚が薄れていく。

 十分。十五分。二十分――もっとかもしれない。

 

 雪の上では僕たちの足跡が幾重にも重なり、ガルドさんの大盾が削った跡と、大型の爪が抉った溝が交差していた。

 そのすべてを縫うように、赤い血が落ちている。

 

 ――なんだろう、この感覚。

 

 世界が、少しだけ遅い。

 次何をすればいいのか。相手が何をしたいのかが、不思議と分かる。

 もっと。もっとだ。もっと――

 

「坊主、息をしろ!」

「――は。ガルドさん」

 

 ガルドさんに叫ばれ、初めて自分の呼吸へ意識が戻った。

 息が浅い。

 肺が痛み、喉が焼けるように熱い。

 

「すみません」

「謝罪はいらねぇ。大丈夫か?」

「……はい。むしろ、絶好調なんです」

 

 モンスターを視界にとらえて、一度武器を強く握る。

 二年間、走った。

 何度も武器を振った。

 倒れ、起き上がり、また走った……この程度で体力が尽きるはずはない。

 

 それなのに、息が切れている。

 心臓がうるさい。

 耳の奥で、どくどくと鳴っていた。

 

 ――死が、すぐ隣にあるからだ。

 

 一歩間違えれば、僕が死ぬ。

 ガルドさんが死ぬ。

 補給小屋で待っている人たちも、助からないかもしれない。

 ガルドさんが必死に叫んでいる。

 ……右。左。

 ……下がれ。入れ。

 ……止まるな。行け。

 その声は聞こえていた。

 聞こえているのに、どこか遠い。

 不思議なくらい、心だけは静かだった。

 

 白い大型の前脚が持ち上がる。

 ――次は叩きつけ。

 僅かに遅れて、牙。そのあと左へ逃げれば、尾が戻ってくる。

 ――見える。読める。分かる。

 あいつのすべて手に取るように。

 怖い。

 怖いはずなのに……口元が、勝手に動いた。

 

 ――楽しい。

 

 そんな言葉が、胸の奥へ浮かんでしまった。

 刃が通る。

 傷が重なる。

 相手の動きが、少しずつ鈍っていく。

 ガルドさんの盾が道を作り、僕の片刃剣がそこを通る。

 

 怖い。

 死にたくない。

 誰にも死んでほしくない。

 なのに、僕は笑っていた。

 

 白い大型の目も、最初とは変わっている。

 初めは、獲物を見る目だった。

 今は違う。

 痛みを与えるもの。

 動きを奪うもの。

 自分の命へ刃を届かせようとするもの……そういう存在として、僕を見ていた。

 

 片刃剣を握り直す。

 赤く開いた、左前脚の付け根。

 何度も刃を通し続けた場所。

 

 一太刀で皮膚を開き。

 二太刀で肉を裂き。

 三太刀で、その奥へ届かせる。

 ……弱点は、もうただの弱点ではない。

 命へ続く道へ変わりつつあった。

 

「……怖いか」

 

 自分でも驚くほど、静かな声が出た。

 その言葉へ反応するように、大型の動きが一瞬だけ止まる。

 モンスターは人の言葉を理解しない。

 そんなことは、誰もが知っている常識だ。

 それでも僕は、濁った青白い瞳を真っすぐに見返した。

 

「痛いか」

 

 モンスターは人の言葉を理解しない。

 そんなことは、誰もが知っている常識だ。

 それでも僕は、濁った青白い瞳を真っすぐに見返した。

 

「苦しいか」

 

 大型の目が僅かに見開かれ、牙が剥き出しになる。

 喉の奥から低い唸りが漏れた。効いていないとでも言いたげに、傷だらけの身体を大きく見せようとしている。

 僕は片刃剣の切っ先を下げない。

 むしろ、また少しだけ口元が緩んだ。

 

「お前の命まで、あと少しだ」

 

 白い大型が激昂した。

 言葉を理解したはずはない。

 意味を汲み取ったわけでもない……それでも確かに、大型は僕へ怒りを向けた。

 

 食いちぎろうと迫る牙を避ける。

 振り下ろされる爪をかわし、通り過ぎる身体へ刃を走らせた。

 肩、脇腹。そして後脚。

 すでに傷ついた場所へ重ねることもあれば、露わになった場所へ新しい赤を刻むこともある。

 

 浅くてもいい。

 終わるまで、届かせ続ければいい。

 白い毛は斬撃のたびに散り、傷口から溢れた血と透明な水が雪を汚していく。

 

 怖い。

 怖いはずなのに……胸の高揚が止まらない。

 刃が通るたび、傷が重なるたびに、手の中へ確かな感触が返ってくる。

 

 僕はこの感情を知っていた。

 初めて英雄譚を読んだ時。

 初めてギルドカードを手にした時。

 初めて、誰かを助けたいと思った時。

 胸の奥を焼いた、あの熱。

 それが今、死のすぐ隣で燃えている。

 

「はっ……」

 

 息と一緒に、笑い声が漏れた。

 

「は、はは……!」

 

 白い雪原へ、自分の声が響く。

 ガルドさんが一瞬だけこちらを見た。

 けれど、何も言わない。

 驚くことも。

 止めることもなく、ただいつものように大盾を構え直した。

 

「坊主」

「はい」

 

 右へ行く。

 ガルドさんの目がわずかに見開く。

 分かる。ガルドさんがどうしてほしいのか。

 

「深追いするな。俺が止める」

「はい」

「次も、同じ場所へ入れ」

「はい」

 

 ガルドさんは変わらず前へ立ってくれる。

 だから僕も、変わらず刃を通す。

 

 白い大型が、さらに低く身を沈めた。

 怒っている。

 焦っている。

 身体が動かなくなっていくことへ、怯えている。

 

 それが分かる。

 分かってしまう。

 そして、僕は今現在進行形で、強くなっている。その実感がある。そのことが……どうしようもなく楽しかった。

 

 大型が跳ぶ。

 先ほどより低い。

 今度は牙で僕を狙っていた。

 ガルドさんが大盾を斜めに構え、正面から受けずに白い頭を外へ滑らせる。

 巨体が横へ流れ、僕の前へ道が開いた。

 

「今だ!」

 

 ガルドさんの声と同時に踏み込む。

 狙うのは、何度も刃を通した左前脚の付け根。

 傷口へ片刃剣を滑り込ませ、さらに深く肉を裂いた。

 大型が身体を捻る。

 

 抜けなければ。

 けれど――間に合わない。

 牙が来る。

 目の前へ、白い顎が迫った。

 

 ……死ぬ。

 

 そう思った瞬間、身体が横へ弾かれた。

 ガルドさんだった。

 盾ではない。

 肩で、僕を突き飛ばしたのだ。

 白い牙がガルドさんの肩当てを掠め、革と金具をまとめて引き裂く。

 赤い血が雪へ飛んだ。

 

「ガルドさん!」

「掠っただけだ!」

「でも――」

「でもじゃねぇ! お前が死ぬ方が困る!」

 

 怒鳴るガルドさんの肩から、血が滴っている。

 致命傷ではない。

 けれど、浅い傷とも言い切れなかった。

 唇を噛む。

 怖い。

 自分が死ぬことよりも、ガルドさんが傷つく方が怖かった。

 

「切らすな、その集中力を」

 

 静かに、でも確かにガルドさんは僕に言う。

 

「いくぜ、相棒。狩るんだろ、俺たちで」

「――はい!」

 

 見る。

 逃げない。

 怖さからも。

 傷からも……自分で選んだ戦いからも。

 

 大型の左前脚の付け根は、深く裂けていた。血が流れ、踏み込むたびに巨体が僅かに揺れている。

 それでも、まだ足りない。

 命へは届いていない。

 なら――もっと。

 

 ◆

 

『主の刃は軽い』

 

 フレイヴィアさんが、僕の片刃剣を指先で軽く弾いた。

 

『ならば、一太刀で終わらせようとするな』

 

 黄金の瞳が、こちらを真っすぐに見据える。

 

『終わるまで、届かせ続けろ』

 

 ◆

 

 終わるまで。

 何度でも、届かせ続ける。

 

 白い大型が低く身を沈めた。

 雪原の音が、急に遠のく。

 風が止まったように感じられ、白い影が来る前の静寂が周囲へ落ちた。

 

「まずいな」

「何か来ます」

「ああ。でかいのがな」

 

 大型の周囲で、細かな雪が浮いた。

 ……違う。

 風もないのに、雪が巻き上がっている。

 

 濡れた白毛が逆立ち、その隙間で細かな氷の粒が光った。

 次の瞬間、白い大型が咆哮する。

 音ではない。

 ――圧。

 雪が爆ぜ、視界が白へ塗り潰された。

 

「坊主、俺の後ろへ入れ!」

 

 飛び込むように、大盾の後ろへ入る。

 直後、氷を含んだ白い風が盾へ叩きつけられた。細かな氷片が縁を越え、頬や手の甲を浅く裂いていく。

 

「ぐ、ぅ……!」

 

 ガルドさんが呻く。

 大盾が押され、足が雪を滑った。

 僕も後ろから盾へ身体を押しつける。

 非力な僕が支えたところで、どれほどの意味があるのかは分からない……それでも、押す。

 

「ガルドさん!」

「下がるな!」

「はい!」

「これを耐えたら、すぐ横へ抜けろ!」

「はい!」

 

 白い風が止んだ。

 少しずつ視界が戻る。

 

 大型は――もう、目の前にいた。

 

 咆哮で僕たちの動きを止め、そのまま突っ込んできたのだ。

 

「横!」

 

 ガルドさんの声へ合わせて身体を捻る。

 ガルドさんも大盾の角度をずらし、大型の頭と前脚を外側へ滑らせた。

 白い巨体が横へ流れる。

 

 そこに。確かに。ほんの一瞬だけ、道が開いた。

 傷が見える。

 赤く開いた、左前脚の付け根。

 あまりにも細い。あまりにも遠い。

 だけど今の僕なら

 

「いける!」

 

 その瞬間が……あまりにも鮮明だった。

 怖いのに。

 死にそうなのに。

 僕は、また笑っていた。

 

「いっけぇ!」

 

 ガルドさんの怒号に、雪を蹴る。

 片刃剣を振る。

 何度も重ねた傷をなぞり、肉の奥へ刃を届かせた。

 白い大型が、悲鳴のような声で吠える。

 初めて、明確に怯んだ。

 巨体が傾き、傷ついた左前脚が雪へ沈む。

 

「――っ。はぁ。っはぁ。効いた……!」

「離れろ!」

「はい!」

 

 指示へ従い、すぐに距離を取る。

 直後、大型が暴れ始めた。

 黒い爪が無茶苦茶に振られ、尾が雪を薙ぐ。牙は何もない空間を噛み砕いていた。

 

 傷ついた獣の暴れ方だった。

 動きから規則が消えている。

 次に何が来るのか分からないぶん、先ほどまでよりも危険だ。

 

 僕が距離を取ると、ガルドさんが前へ出る。

 爪を盾で受けたものの、力を流しきれず腕ごと外へ弾かれた。

 それでも、すぐに構え直す。

 

「焦るな、坊主!」

「はい!」

「弱ってからが一番危ねぇ!」

「はい!」

 

 分かっている。

 分かっているつもりだった……けれど、足が前へ出そうになる。

 もう少し。あと少し。

 

 そう急ぐ僕を、ガルドさんの声が止めてくれる。

 息を吐く。

 ――まだ終わっていない。

 焦るな。

 よく見ろ。

 傷を。脚を。呼吸を。

 

 大型は左前脚へ、もう完全には体重を乗せられていない。踏み込むたびに肩が崩れ、そのぶん右前脚と後脚へ大きな負担が偏っていた。

 突進はまだ速い。

 けれど、方向を変える動きは明らかに遅い。

 なら――誘導できる。

 

「ガルドさん!」

「何だ!」

「右へ流してください! あいつ、左へ踏み込めません!」

「分かった!」

 

 大型が唸り、再び走り出す。

 ガルドさんが正面へ立ち、大盾を構えた。

 けれど、受け止めない。

 衝突する直前に盾を斜めへずらすと、白い身体が右へ流れる。大型は左前脚で踏ん張ろうとしたものの、傷ついた脚へ力が入らず、巨体が僅かに崩れた。

 

「今です!」

 

 今度は僕が叫ぶ。

 雪を蹴る。

 同じ傷。同じ場所。

 何度も、何度も刃を通した場所へ踏み込む。

 ――斬る。

 暴れるより先に離れる。

 ガルドさんが、その間へ盾を入れる。

 

 僕たちは、それを繰り返した。

 何度も。何度も……下手をすれば、何十度も。

 左前脚へ届かない時は、脇腹へ。首へ。肩へ。後脚へ。

 避けるたび、すれ違うたび、届く場所へ刃を走らせる。

 

 時間は、もう分からない。

 ただ、あとから思えば三十分ほどの戦いだったのだろう。

 雪の上の足跡はすでに形を失い、ガルドさんの大盾には深い爪痕がいくつも刻まれていた。肩から流れた血も止まっておらず、荒い呼吸に合わせて両腕が震えている。

 

「はぁ。っはぁ……はぁ」

 

 僕の腕も重い。

 脚には力が入らず、冷え切った指先の感覚は半分ほど消えていた。

 それでも、片刃剣だけは握っている。

 

 白い大型も限界に近かった。

 左前脚の付け根は赤く裂け、動くたびに血と透明な水が雪へ落ちている。

 脇腹や肩、後脚、首にも無数の傷が走っていた。何度も重なった斬撃に白毛は裂け、全身が血と水で赤黒く濡れている。

 

 呼吸は荒く、唸り声にも濁りが混じっていた。

 それでも――青白い瞳は死んでいない。

 まだ僕たちを殺すつもりだ。

 

 そして、最後の突進が来た。

 今までで最も低い姿勢。

 残された力のすべてを、一度にぶつけようとするような突進だった。

 

「止める!」

「坊主、構えろ!」

「はい!」

 

 片刃剣を構える。

 狙いは分かっている。

 もう、そこしか見えていない。

 大型が迫る。

 ガルドさんの大盾が前へ出る。

 衝突。

 音が割れた。

 足元で雪が爆ぜ、ガルドさんの身体が後ろへ押される。

 

「ぐ、ぉおおおおお!」

 

 ガルドさんが吠えた。

 盾が軋み、支える腕が震える。膝が雪へ沈み始めていた。

 それでも……止めた。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、白い大型の前脚が雪の上で止まる。

 傷が開いた。

 赤い道が見える。

 

 

 

「るぅぅぅきううぅぅうす!」

 

 

 

 怒号にも近い声だった。

 その声を聞くよりも早く、身体はすでに動いている。

 片刃剣が、白い大型を捉えた。

 

 何度も。何十度も。

 刃を通し続けた傷跡。

 

 ――命へ続く道だ。

 

 雪を蹴る。

 息を吐き、刃筋を通す。

 力ではない。重さでもない。

 押すのではない。潰すのではない。

 ――当てて、引くだけ。

 この一太刀を、奥へ届かせる形。

 

 フレイヴィアさんが教えてくれた。

 ガルドさんが作ってくれた。

 僕が、何度も積み重ねてきた。

 

 刃が肉の奥へ入る。

 白い大型の身体が大きく震え、青白い目が見開かれた。

 咆哮は出なかった。

 

 ――gr...a.a

 

 代わりに、喉の奥から潰れたような音が漏れる。

 巨体が傾いた。

 ガルドさんが大盾を引き、僕も片刃剣を抜いて横へ跳ぶ。

 

 白い大型が、雪の上へ崩れ落ちた。

 地面が揺れる。

 雪が舞い上がり、血に濡れた白毛が赤黒く沈んでいく。

 しばらく、誰も動かなかった。

 少しずつ、風の音が戻ってくる。

 

「はぁ、はぁ。すぅ……、はぁ」

「はぁーー。っふぅ」

 

 僕は片刃剣を構えたまま、倒れた大型を見つめる。

 まだ動くかもしれない。

 立ち上がるかもしれない。

 油断すれば、終わるかもしれない……だから、見続けた。

 ガルドさんも大盾を構えたままだった。

 

 一秒。二秒。三秒。

 

 短いはずの時間が、ひどく長く感じられる。

 やがて白い大型の全身から力が抜け、最後の大きな息が雪の上へ白く広がった。

 それきり――動かなかった。

 

「……倒した、のか」

 

 ガルドさんが呟く。

 答えようとした。

 けれど、声が出なかった。

 

 急に呼吸が乱れる。

 足から力が抜け、片刃剣を握る手が震え始めた。

 さっきまで静かだった心が、一気に揺れ戻してくる。

 

 怖かった。怖かった。

 ……怖かった。

 今さら、そのすべてが戻ってきた。

 僕は笑っていたはずなのに、今は立っているだけで精一杯だった。

 

「坊主!」

 

 ガルドさんが大盾を投げ出すように雪へ置き、こちらへ駆け寄る。

 大きな手が僕の肩を掴んだ。

 

「怪我は!」

「……たぶん」

「たぶんじゃねぇ!」

「大丈夫、です」

「本当か!」

「本当に、本当です」

 

 そう答えた瞬間、少しだけ笑ってしまった。

 けれど、今度の笑いは先ほどのものとは違う。全身から力が抜けていくような、弱い笑いだった。

 ガルドさんは僕の顔を確かめ、深く息を吐く。

 

「ったく……本当に、無茶しやがって」

「ガルドさんもです」

「俺はいいんだよ」

「よくありません」

「口だけは元気そうだな」

「はい。たぶん」

「だから、たぶんをつけるな!」

 

 怒鳴り声を聞いているうちに、張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩んだ。

 

 倒れた大型を見る。

 赤く染まった雪。

 全身へ残る、数え切れない斬撃の痕。

 傷つき、歪んだガルドさんの大盾。

 血に濡れた僕の片刃剣。

 すべてが、ひどく現実だった。

 

 二年前。

 僕は逃げた。

 何もできず、ただ生き残った。

 

 そして今日。

 僕はまた怖かった。

 逃げたかった。

 もっと強い誰かが来るのを待つべきだとも思った。

 ……それでも、ガルドさんと立った。

 ガルドさんと戦った。

 ガルドさんと――勝った。

 

 片刃剣についた血と水を雪で拭い、鞘へ戻す。

 かちりと、小さな音が鳴った。

 その音を聞いて、ようやく少しだけ息ができた。

 

「勝ちましたね、ガルドさん」

 

 ガルドさんは倒れた大型を見て、それから僕へ顔を向けた。

 疲れ切った顔で、それでも確かに笑う。

 

「ああ」

「俺たちでな」

 

 風が吹いた。

 雪と血の匂いが混ざり合う。

 遠くから、救助隊の笛が聞こえてきた。

 胸はまだ痛い。

 手の震えも止まっていない。

 それでも僕は、倒れた白い大型を見つめる。

 

 もう――二年前の僕だけではなかった。

 

 





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