駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第十五話『少年は雪原の向こうを見る』

 

 ◆

 

 遠くで、笛が鳴った。

 一度。僅かに間を置き、もう一度。

 吹雪に音を削られながらも、今度ははっきりと聞こえる。

 

「救助隊だ」

 

 ガルドさんが、歪んだ大盾へ手をついた。

 立ち上がろうとしたらしい……けれど、左脚へ力を入れた途端、その身体が大きく傾く。

 

「ガルドさん!」

 

 反射的に腕を伸ばし、脇から身体を支える。

 僕一人で受け止められる重さではなかったものの、ガルドさんも右足を踏ん張り、どうにか雪へ倒れ込まずに済んだ。

 

「悪い」

「座っていてください」

「お前に言われたくねぇな」

 

 言い返そうとして、口を閉じる。

 たぶん今の僕も、似たような状態だった。

 呼吸をするたび右脇腹が引きつり、肩から腕にかけて鈍い痛みが続いている。足元も頼りなく、気を抜けばそのまま雪の中へ座り込んでしまいそうだ。

 

 ……それでも、まだ立っている。

 

 倒れた白い大型へ視線を戻す。

 雪の上へ横たわる巨体は、もう動いていなかった。

 裂かれた白毛の間から幾つもの傷が覗き、前脚も肩も、脇腹も後脚も血に染まっている。透明な水は今も傷口から僅かに流れていたが、赤黒く濡れた身体を洗い流すほどの勢いはなかった。

 

 僕たちが斬った。

 

 何度も、何十度も。

 ガルドさんが前で止め、僕が刃を通した。

 

 その結果が、目の前にある。

 

「……本当に、倒したんですね」

「ああ。何度確認しても動かねぇ」

「死んだふりでは」

「それを言われると、俺も急に不安になるだろうが」

 

 ガルドさんが大盾を持ち上げようとする。

 けれど、腕へ力を入れた瞬間に顔をしかめ、諦めたように雪へ戻した。

 

「まあ、今起き上がられたら困るな」

「困りますね」

「お前、もう一回やれるか?」

「……たぶん」

「無理だな」

 

 即答だった。

 否定できない。

 

 笛の音が近づいてくる。

 やがて吹雪の向こうへ幾つもの影が浮かび、その先頭から、大きな灰色の獣耳を伏せた男が現れた。

 

「いたぞ!」

 

 男の背後から、五人ほどのハンターが続く。

 小柄ながら肩幅のある女が橇を引き、長い耳を雪除け布から覗かせた男は治療道具らしき鞄を抱えていた。

 

 先頭の男が僕たちへ駆け寄り――その途中で、倒れた白い大型に気づく。

 灰色の耳がぴんと立ち、足が止まった。

 

「……こいつを、二人で?」

「そうだ」

「おいおい」

 

 男は大型と僕たちを何度か見比べたあと、呆れたように息を吐いた。

 

「生存者の捜索に来たはずなんだが、とんでもねぇものまで見つけちまったな」

 

 長い耳の治療役が先に動く。

 僕の正面へ膝をつき、フードの下を覗こうとして――すぐに視線を肩と脇腹へ移した。

 

「座れますか」

「歩けます」

「聞いていません。座れますか」

「……座れます」

 

 言われるまま雪へ腰を下ろす。

 その隣では、別のハンターがガルドさんの肩当てを外していた。

 

「これは掠っただけじゃないですね」

「掠った」

「革を裂いて血が止まっていないものを、普通は掠ったとは言いません」

「坊主よりはましだ」

「比較の話もしていません」

 

 治療役の男はガルドさんを一言で黙らせ、僕の外套へ手をかけた。

 

「脇腹を見せてください」

「古傷です」

「新しい怪我がないか確認します」

「人前で外套を脱ぐのは、少し」

「では隙間から確認します。服を持ち上げてください」

 

 逃げ道がなかった。

 

 外套の前を僅かに開き、胴当ての隙間から服を持ち上げる。

 冷たい指が右脇腹へ触れた瞬間、古傷が強く引きつった。

 

「痛みますか」

「少し」

「少し、ですか」

「……たぶん」

「あなたたち、似ていますね」

 

 治療役がガルドさんを見る。

 ガルドさんは気まずそうに視線を逸らした。

 

 触診が続く。

 骨に異常はなさそうだが、古傷の周囲を強く打っているらしい。頬や手の甲の裂傷も洗われ、消毒液が触れるたび遅れて痛みが広がった。

 

 戦っている時より痛い。

 

 そんなはずはないのに、今になって身体が一つずつ怪我を思い出しているようだった。

 

「ほかに痛むところは?」

「肩と、脚が少し。腕も重いです」

「ほぼ全身ですね」

「動かせます」

「動くことと、無事であることは違います」

 

 包帯を巻きながら、治療役は深いため息を吐いた。

 その横で先頭の男が大型の周囲を歩き、傷口を確かめている。

 

「ずいぶん斬ったな」

「一撃では止められなかったので」

 

 答えると、男がこちらへ振り向いた。

 灰色の獣耳が、信じられないものを聞いたように片方だけ傾く。

 

「だから全身を?」

「届く場所へ、何度も」

「……そうか」

 

 何か言いたそうな顔だったが、男はそれ以上聞かなかった。

 代わりに傷口から流れる透明な水へ指先を近づけ、臭いを確かめるように鼻を動かす。

 

「妙な液体だな」

「血ではありません」

「見りゃ分かる。水……にしては、匂いがある」

 

 男が手袋についた液体を雪へ擦りつける。

 僕も戦いの最中に何度も浴びたが、考える余裕はなかった。

 

「何の匂いですか」

「薄いが、潮に近いな」

「潮?」

 

 この雪原は、海から遠い。

 大型の身体から海水に似たものが流れている理由など、思いつかなかった。

 

「詳しいことは支部へ持ち帰ってからだ。こいつの回収は後続に任せる」

 

 男は立ち上がり、北にある岩場へ視線を向けた。

 

「生存者は?」

「拠点の地下に三人います」

 

 治療役の手が止まった。

 

「三人とも無事ですか」

「怪我をしています。食料庫へ避難してもらいました」

「案内できますか」

「はい」

 

 答えて立ち上がろうとする。

 けれど、膝へ力を入れた瞬間、足元が大きく揺れた。

 

 違う。

 揺れているのは地面ではなく、僕の身体だ。

 

「おっと」

 

 灰色の耳を持つ男に腕を掴まれ、雪へ戻される。

 

「案内は場所を聞けば足りる。お前は橇に乗れ」

「でも」

「でもじゃねぇ」

 

 今度はガルドさんだった。

 肩へ包帯を巻かれたまま、こちらを睨んでいる。

 

「生存者を助けるために戻るんでしょう」

「ああ。だから救助隊が来た」

「僕たちが見つけた人たちです」

「最後まで自分でやらなきゃ気が済まねぇのか?」

「そういうわけでは……」

「だったら任せろ。ここで倒れて、運ぶ人数を一人増やすな」

 

 言葉に詰まる。

 ガルドさんは片方の犬耳を伏せると、少しだけ声を落とした。

 

「託すのも、ハンターの仕事だ」

 

 フレイヴィアさんにも、似たようなことを言われた気がする。

 一人ですべてをやろうとするな。

 自分にないものが必要なら、それを持つ者へ頼れ。

 

 戦いの最中はできた。

 ガルドさんへ背中を預け、その盾が作る道へ刃を通した。

 

 なら、今も同じだ。

 

「……分かりました」

「最初からそう言え」

「でも、場所は説明します」

「それは頼む」

 

 救助隊の地図を借り、地下食料庫の位置と入口の状態を伝える。

 三人の名前と怪我の具合を話すと、先頭の男はすぐに隊を二つへ分けた。

 

 三人が拠点へ向かい、残りは僕たちの応急処置と大型の監視に残る。

 大型の回収班へ知らせるため、別の色の信号筒も空へ撃ち上げられた。

 

 黄色い光が白い空へ昇り、吹雪の向こうで弾ける。

 それを見上げているうち、張り詰めていた意識が少しずつ沈み始めた。

 

「寝るなよ、坊主」

「寝ません」

「目が閉じてるぞ」

「風が眩しくて」

「雪しかねぇだろ」

「白いので、眩しいです」

「言い訳だけはすぐ出てくるな」

 

 ガルドさんの声を聞きながら、橇へ背中を預ける。

 冷たい板の感触が外套越しに伝わり、今度こそ全身から力が抜けた。

 

 目を閉じれば、さっきの戦いが浮かんでくる。

 盾へ落ちた前脚。

 何度も刃を通した傷。

 

 青白い瞳。

 

 ――楽しい。

 

 胸の奥に浮かんだ言葉まで、鮮明に残っていた。

 

 あれは何だったのだろう。

 

 怖かった。

 死にたくなかった。

 

 ガルドさんにも、誰にも死んでほしくなかった。

 その気持ちに嘘はない。

 

 それなのに、刃が通るたびに胸が熱くなった。

 相手の動きが見えるほど、もっと先まで試したくなった。

 

 自分でも、少し怖い。

 

「坊主?」

 

 ガルドさんの声に目を開く。

 

「どうした」

「いえ……何でもありません」

「ならいい。変なこと考えてんなよ」

「どうして分かったんですか」

「顔に出てる」

「フードを被っています」

「雰囲気だ、雰囲気」

 

 ガルドさんは傷ついた肩を庇いながら、大型の隣へ腰を下ろした。

 その目も疲れ切っている。

 

「ガルドさんも橇に乗った方が」

「一台しかねぇ」

「詰めれば二人乗れます」

「男二人で詰めて座る趣味はねぇよ」

「今さらだと思います」

「何が今さらなんだ」

 

 返事をしたところで、拠点へ向かった隊の笛が聞こえた。

 

 一度。

 続いて、短く二度。

 

 灰色の耳を持つ男が立ち上がる。

 

「生存者確認。全員生きてる」

 

 胸の奥へ残っていた重さが、僅かにほどけた。

 

「よかった……」

 

 声と一緒に、長い息が漏れる。

 大型を倒した時より、今の方が勝ったという実感があった。

 

 僕たちが戦った意味は、あそこにある。

 三人が無事に帰れるなら、それでいい。

 

 やがて拠点へ向かった隊が戻ってきた。

 先頭の橇には、長い耳を雪除け布から覗かせたイリナさんが横たわっている。後ろには灰色の毛に覆われたバルクさんと、小柄ながら厚い肩を持つティナさんが支え合って歩いていた。

 

 僕の姿を見つけた瞬間、イリナさんの耳が僅かに持ち上がる。

 

「……倒したんですか」

「はい」

「あなたたちが?」

「ガルドさんが止めてくれたので」

「坊主」

 

 ガルドさんが低く呼ぶ。

 

「俺たちだろ」

「……はい。僕たちで倒しました」

 

 言い直すと、ガルドさんが満足そうに鼻を鳴らした。

 イリナさんは目を閉じ、泣いているのか笑っているのか分からない顔で息を吐く。

 

「ありがとうございます」

 

 その一言に、何と返せばいいのか分からなかった。

 僕はまだ、誰かに礼を言われることへ慣れていない。

 

「間に合って、よかったです」

 

 結局、出てきたのはそれだけだった。

 

 救助隊は大型の回収を後続へ任せ、負傷者を連れて拠点から離れることにした。

 雪がさらに強くなる前に、安全な簡易野営地まで戻る必要があるらしい。

 

 僕は橇の端へ座らされ、その隣へイリナさんが寝かされた。

 ガルドさんは大盾を別の橇へ積み、右手で肩を押さえながら歩き始める。

 

「本当に歩くんですか」

「歩ける」

「動けることと無事であることは違うそうですよ」

「治療役の言葉をすぐ武器にするな」

「便利だったので」

「少し元気になったな、お前」

 

 橇が動き出す。

 

 白い大型の亡骸が、少しずつ遠ざかっていく。

 雪と吹雪に輪郭を削られ、やがて赤黒い巨体も白の向こうへ見えなくなった。

 

 二年前の恐怖も、あそこへ置いてきたのだろうか。……たぶん、違う。

 怖かったという記憶は消えない。

 今日勝ったからといって、次も勝てるとは限らない。

 

 それでも、もう背を向けるだけではない。

 震えながらでも、誰かと一緒なら立てる。

 

 それを知れただけで十分だった。

 

 岩場へ差しかかったところで、風向きが変わる。

 吹雪が一瞬だけ薄れ、遠くの稜線まで白い視界が開けた。

 

 ――誰かがいた。

 岩の上。

 雪原を見下ろす、細い人影。

 

 女の人……だろうか。

 長い髪が風に流れ、こちらへ背中を向けたまま立っている。

 

 防寒具を着ているようには見えない。

 こんな場所へ一人で立っていられるはずがないのに、その人影は吹雪の中で微動だにしなかった。

 

「ガルドさん」

 

 橇の横を歩いていたガルドさんが、こちらを向く。

 

「どうした」

「あそこに、誰かが」

 

 岩の上を指さす。

 ガルドさんが目を凝らした。

 けれど、その間に再び雪が吹きつけ、稜線を白く覆い隠してしまう。

 

「どこだ?」

「あの岩の上です」

「……誰もいねぇぞ」

 

 風が弱まる。

 岩の上には、もう何もなかった。

 足跡さえ、ここからでは見えない。

 

「見間違いじゃねぇのか」

「そう、かもしれません」

 

 そう答えながらも、視線を外せなかった。

 見間違いだと思うには、あまりにもはっきりと見えた。

 長い髪も。

 

 雪の中へ立つ、細い背中も。

 それに――ほんの一瞬だけ。

 振り返る直前のように、その人影の顔が僅かにこちらへ向いた気がした。

 

 橇は止まらない。

 岩場は次第に遠ざかり、白い雪の向こうへ消えていく。

 

 それでも僕は、しばらくその場所を見つめ続けた。

 

 ――雪原の向こうで、誰かが僕を見ていた。

 

 ◆

 

 少年を乗せた橇が、吹雪の向こうへ消えていく。

 メルシアは岩の上へ立ったまま、白く霞む道から目を離さなかった。長い髪が風に煽られ、頬や唇へ何度も張りついている。小さな角にも薄く雪が積もっていたが、それを払うことすら忘れていた。

 

「……やっと、見つけた」

 

 唇からこぼれた声は、吹雪に触れた途端に消えた。

 それでも胸へ添えた指先には、早鐘を打つ鼓動がはっきりと伝わってくる。

 寒さのせいではない。

 戦いを見つけた時からずっと、身体の奥へ入り込んだ熱が抜けてくれなかった。

 

 メルシアは目を閉じる。

 瞼の裏へ浮かぶのは、見慣れた赤黒い夢ではない……雪原を駆け、何度も刃を振るう少年の姿だった。

 

 白い獣が爪を落とす。

 少年は身を沈め、その下を抜ける。

 大盾が巨体を止めれば、迷うことなく踏み込み、白い毛へ新たな傷を刻んでいく。

 浅ければ、もう一度。

 届かなければ、別の場所へ。

 爪が外套を裂き、牙が目の前へ迫っても……少年の視線は、決して獣から逸れなかった。

 

「ふふ……」

 

 抑えきれなかった息が、笑いへ変わる。

 口元を覆った指の隙間から吐息が漏れ、頬は自分でも分かるほど緩んでいた。

 メルシアはゆっくりと瞳を開き、眼下に横たわる大型の亡骸へ視線を落とす。

 白かった毛は血と水に濡れ、前脚から肩、脇腹、首、後脚に至るまで数え切れない傷が刻まれていた。

 

 けれど、見ていたのは獣ではない。

 

 その傷を一つずつ増やした少年。

 恐怖に震えながらも、戦いの中で動きを研ぎ澄ませていった彼だけだった。

 

 途中から、少年は笑っていた。

 本人は気づいていたのだろうか。

 命を奪われるかもしれない場所で、怖がりながら……それでも次に開く隙を待ち望んでいたことに。

 

 その瞬間、少年から溢れたものが、吹雪を越えて胸へ流れ込んできた。

 

 恐怖。

 焦り。

 誰かを守りたいという願い。

 

 その奥に隠れていた――歓喜。

 

 届かなかった刃が届く。

 昨日まで見えなかった動きが、今日は見える。

 自分が夢へ近づいていると、確かに感じている。

 

「すごい……」

 

 掠れた声が漏れた。

 メルシアは胸元を押さえたまま、僅かに背を反らす。深く息を吸っても熱は収まらず、むしろ少年が残した感情が、肺の奥まで満たしていくようだった。

 

「そんなに怖いのに……まだ、手放さないんだ」

 

 雪の上には、もう少年の足跡もほとんど残っていない。

 けれど、その場所へ残された熱だけは、今も指を伸ばせば触れられそうなほど鮮明だった。

 

 大きすぎる夢。

 今の彼では到底届かない理想。

 何度傷つき、現実を突きつけられても、捨てようとしないもの。

 

 メルシアは唇を僅かに開き、残された気配を味わうようにゆっくりと息を吸った。

 少しでも長く、胸の中へ留めておきたかった。

 

 夜魔族は、夢を見ない。

 見たい景色があるのなら、自ら作ればいい。望む形を与え、他者の夢へ入り込むことさえできる彼らにとって、眠りの中へ勝手に訪れる夢など縁遠いものだった。

 

 けれど、メルシアだけは違う。

 

 物心がついた頃から、何度も同じ夢を見ていた。

 赤黒く染まった空。

 砕けた大地と、積み重なる数え切れない亡骸。

 その中心で、何度倒れても立ち上がる誰か。

 

 名前は知らない。

 声も聞こえない。

 振り返ることさえないため、顔も見たことがなかった。

 

 ただ、その背中だけを覚えている。

 壊れそうなほど細く、今にも膝をつきそうなのに……決して前へ進むことをやめない背中。

 

 両腕で自分の身体を抱く。

 寒さを堪えるためではない。

 夢の中で感じていたものと、先ほど少年から流れ込んできた熱が胸の内で重なり、今にも溢れてしまいそうだった。

 

 今日見た少年は、夢の中の誰かとは違う。

 立っていた場所も、手にしていた武器も違う。

 夢の人物は一度も顔を見せなかった。そして少年もまた、深く被ったフードで顔を隠していた。

 

 それなのに――同じだった。

 

 胸へ触れた熱だけは。

 いや、夢の中で感じていたものより、ずっと鮮明で、眩しかった。

 

「君だったんだ」

 

 熱い吐息が、白く空気へ溶ける。

 メルシアの視線は、大型の亡骸ではなく、少年が消えた方角へ向いたままだった。

 

 あの獣を倒した力そのものに、興味があるわけではない。

 強者なら、ほかにもいる。

 一撃であの巨体を屠る者だって、この世界には存在するだろう。

 

 けれど、あの少年は強くない。

 

 ――少なくとも、今はまだ。

 

 自分より遥かに大きなものを前にして、恐怖を抱えたまま剣を振り続けた。

 届かなければ、何度でも刃を重ねた。

 そのたびに、少年の内側にある熱は強くなっていった。

 

 メルシアには分かる。

 夢を自在に扱うことは不得手でも、人の感情や願いへ触れることにだけは、昔から異様なほど敏感だった。

 

 あれは、ただの憧れではない。

 痛みも、恐怖も、己の弱ささえも燃やしながら、それでも前へ進もうとするもの。

 綺麗な言葉だけでは包みきれない……執念に近い夢だった。

 

 思い出しただけで、胸がまた高鳴る。

 メルシアは目を伏せ、込み上げる熱を堪えるように肩を小さく揺らした。

 笑い声は出ない。

 ただ、僅かに開いた唇が恍惚と弧を描き、細められた瞳の奥には、少年が戦う姿だけが残り続けていた。

 

「もっと……見せて」

 

 一歩、雪へ踏み出す。

 少年を追いかけようとして……足を止めた。

 

 今はまだ、近づく時ではない。

 夢の中の背中が振り返らなかったように、あの少年もまだこちらを知らない。

 だからこそ、もう少しだけ見ていたかった。

 

 何に傷つくのか。

 何を恐れるのか。

 そのたびに何を選び、どこまで進むのか。

 

 そして――あの夢が、どこまで大きく育つのか。

 

 メルシアは両手を胸の前で組み、指先へゆっくりと力を込めた。

 爪が手袋越しに掌へ食い込む。

 その僅かな痛みさえ、胸の熱が現実に存在している証のようで心地よかった。

 

「次は、もっと近くで」

 

 誰もいない白い道へ囁く。

 

「ちゃんと、君の顔を見せてよ」

 

 返事はない。

 橇の音も、今では吹雪の向こうへ完全に消えていた。

 

 それでも急ぐ必要はなかった。

 長いあいだ探し続けたものは、ようやく現実の中へ姿を現したのだから。

 

 メルシアは少年が消えた方角へ片手を伸ばす。

 触れられるはずもない背中を、指先でなぞるようにゆっくりと動かした。

 もう何も見えない。

 それでも、その指はしばらく宙を彷徨い……やがて名残惜しそうに胸元へ戻された。

 

 眼下には、少年が戦った証が残されている。

 数え切れない傷。

 血に染まった雪。

 そして、今も胸の奥へ燻っている眩しい熱。

 

 メルシアは満たされたように目を細め、岩の上から身を翻した。

 雪へ落ちた足音は軽い。

 次に風が吹き抜けた時には、その姿も白の向こうへ溶けていた。

 

 ――長い夢の続きを、今度は現実で見届けるために。

 

 





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