駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
北の雪原を発ってから、二日が過ぎた。
荷車の車輪が湿った土を踏み、一定の間隔で小さく軋んでいる。道の両脇から白はほとんど消え、代わりに枯れ草と黒い土が覗いていた。
冷たさはまだ外套の奥へ残っている……けれど、吹雪に呼吸を奪われるほどではない。
風の匂いも違った。
雪と血ではなく、土と草。それから、遠くで焚かれている薪の煙。
「見えてきたぞ」
御者台に座るガルドさんが顎を上げた。
前方へ目を向けると、緩やかな丘の向こうから石造りの城壁が姿を現している。その上では、風に煽られたエルドランの旗が大きく揺れていた。
「……帰ってきた」
声に出してから、胸元へ手を添える。
外套の下には、ギルドカードがある。雪にも濡れ、何度も身体を打ちつけられたのに、薄い金属板はいつもと変わらない重さでそこに収まっていた。
「まだ門をくぐってねぇぞ」
「見えたので、半分くらいは帰っています」
「残り半分で何かに襲われたらどうする」
「ガルドさん、そういうことを言うと本当に来そうです」
「俺のせいになるのかよ」
ガルドさんの犬耳が呆れたように横へ倒れる。
その肩には新しい包帯が巻かれていた。
傷は塞がり始めているものの、盾を持つ左腕はまだ上げづらいらしい。それでも歩くと言い張った結果、今は御者台で手綱を握っている。
僕はというと、荷台の端へ座らされていた。
自分では歩けると思う。
けれど救助隊の治療役へそう伝えたところ、「歩けるかは聞いていません」と返され、選択肢ごと奪われてしまった。
荷台の奥へ視線を向ける。
毛布に包まれたイリナさんは、揺れに合わせて静かな寝息を立てていた。赤く腫れた長い耳も布の中へ隠され、二日前より顔色はずっといい。
その隣では、灰色の獣耳を持つバルクさんが壁へ背を預け、小柄ながら厚い肩を持つティナさんが水筒を両手で抱えている。
三人とも、生きている。
大型を倒せたことよりも、その事実を確かめた時の方が、胸の奥へ深く残っていた。
「もうすぐですよ」
僕が声を掛けると、ティナさんが顔を上げた。
「……エルドラン?」
「はい。城壁が見えました」
ティナさんは荷台の縁を掴み、身体を少しだけ持ち上げる。
城壁を見つけた瞬間、張り詰めていた表情が崩れた。唇を噛み、何度か瞬きをしてから、慌てて俯く。
「よかった」
「はい」
「本当に……帰れるんだ」
隣で眠っていたイリナさんの長い耳が、僅かに動いた。
目は開かなかったが、その口元がほんの少しだけ緩んだように見える。
帰れる。
僕も同じ言葉を胸の内で繰り返した。
二年前は、雪原から運び込まれた。
自分の足で歩いた記憶もなく、気づいた時には教会の寝台にいた。
けれど今回は違う。
傷だらけで、身体もまともには動かない。それでも助けた人たちと一緒に、帰る道を進んでいる。
城壁が近づくにつれて、街道を行き交う人の姿が増えていった。
荷車を引いていた商人が道を譲り、こちらの隊列を見て目を丸くする。首に布を巻いた獣人族の男性は、救助隊の紋章へ気づくと荷台を覗き込んだ。
「北の帰還隊か?」
「そうだ」
先頭を歩く救助隊員が答える。
男性の目が、荷台に寝かされた三人へ向いた。
「生存者がいたのか」
「ああ。三名だ」
「三人も……!」
驚いた声が、街道の人々へ伝わっていく。
北の帰還隊。
生存者三名。
大型討伐。
断片的な言葉が、人から人へ渡るたびに少しずつ大きくなっていった。
「坊主」
「はい」
「覚悟しとけよ」
「何をですか」
「さあな」
ガルドさんが意地の悪い笑みを浮かべた。
嫌な予感がする。
白い大型と対峙した時とは違う種類の、とても逃げづらそうな予感だった。
北門の前へ着く。
見張り台から帰還を知らせる鐘が鳴り、閉じていた門がゆっくりと左右へ開いていった。
石と金具が擦れる重たい音。
その向こうには、見慣れたエルドランの街並みが広がっている。
……ただし、いつもとは少し違った。
門の内側に、人が集まっていた。
ギルドの職員。
荷運び人。
商人や職人。
エプロンをつけたままの料理人までいる。
誰かを迎えに来たのだろうと思った……けれど、その視線の多くはこちらへ向けられていた。
「帰ってきたぞ!」
「生存者もいる!」
「三人とも無事だ!」
門衛の声が響く。
人垣が揺れ、何人かが隊列へ駆け寄ってきた。
「イリナ!」
長い耳を持つ年配の女性が、人の間を縫うように走ってくる。
荷台で眠っていたイリナさんが目を開き、その声を聞いた瞬間に耳を大きく持ち上げた。
「……母さん?」
女性は荷台へ縋りつくと、震える手でイリナさんの頬へ触れた。
何度も名前を呼び、本当にそこにいるのか確かめるように髪や肩を撫でている。
少し離れた場所では、灰色の獣耳を持つ少年がバルクさんへ飛びついた。小柄なティナさんの前にも、同じように肩幅のある小人族の男性が立ち、口元を押さえている。
「よかった……本当に、よかった」
至るところで同じ言葉が聞こえた。
泣き声。
笑い声。
名前を呼ぶ声。
雪原にはなかった熱が、一度に押し寄せてくる。
「あなたが、見つけてくださったんですか」
イリナさんの母親が、僕へ顔を向けた。
目元を濡らしたまま荷台から離れ、深く頭を下げる。
「娘を助けてくださって……本当に、ありがとうございます」
反射的に立ち上がろうとする。
けれど脚へ力を入れた途端、右脇腹が強く引きつった。
「――っ」
「座ってろ、馬鹿」
ガルドさんに頭を押さえられ、元の場所へ戻される。
こんな状態で頭を下げ返そうとしたのは、少し無理があったらしい。
「僕だけではありません。ガルドさんと、救助隊の皆さんがいたので」
「それでも、あなたが娘たちを見つけてくださったと聞きました」
「見つけたのは僕たちですが……三人が地下の食料庫へ逃げてくれていたから、間に合いました」
うまく返せない。
もっと適切な言葉がある気がするのに、考えれば考えるほど何を言えばいいのか分からなくなる。
困ってガルドさんを見ると、犬耳を片方だけ動かし、僕へ顎をしゃくった。
「受け取っとけ」
「ですが」
「礼を言いたいのは向こうだ。全部返そうとすんな」
返す。
感謝を言葉ごと返そうとしていたつもりはない……けれど、たぶん似たようなことをしていたのだろう。
僕は膝の上で手を握り、もう一度女性へ顔を向ける。
「……間に合って、よかったです」
結局、出てきたのはそれだけだった。
女性は目元を拭いながら、何度も頷いてくれた。
「ありがとう」
「ありがとうございます、ハンターさん」
「北の連中を連れ帰ってくれて、本当に助かった」
その声をきっかけに、周囲からも言葉が飛んできた。
知らない人たちだった。
狐耳を持つ店主。
短い角の生えた荷運び人。
腕まくりをした小人族の職人。
会ったことがあるような気もするし、ないような気もする。
それでも皆、僕たちへ向かって笑い、頭を下げていた。
胸の奥が、落ち着かない。
嫌なわけではない。
むしろ温かい……ただ、その熱をどこへ置けばいいのか分からなかった。
「僕たちは、依頼をしただけです」
「その依頼をやって帰ってきたんだろ」
ガルドさんが御者台から下りる。
肩を庇いながらも、いつものように口元を緩めていた。
「なら、胸張っとけ。まあ、お前は座ってろ」
「どちらですか」
「座ったまま胸張れ」
「難しいですね」
試しに背筋を伸ばす。
脇腹が痛んだ。
「……やめておきます」
「だろうな」
人垣のどこかから笑い声が起こり、それが周囲へ広がっていく。
からかわれている気もする。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
救助隊は門前で負傷者を引き渡し、僕たちはギルドへ向かうことになった。
荷車は街の中央通りへ入る。
いつも歩いている道。
けれど今日は、店先から何度も声が掛けられた。
「おかえり!」
「よくやったな!」
「今日はうちで食ってけ!」
「怪我人に酒は飲ませるなよ!」
窓から顔を出す人。
仕事の手を止めて大きく腕を振る人。
事情をよく分かっていないまま、周囲に合わせて手を振る子供たち。
その一つひとつへ返事をしているうちに、喉が少し痛くなった。
「人気者だな、坊主」
「ガルドさんにも言っています」
「俺はこういうの慣れてるからな」
「さっきから僕の後ろに隠れていませんか」
「気のせいだ」
「御者台で僕より前にいます」
「心の話だ」
随分と便利な心だった。
石畳を進むにつれ、見慣れた店が増えていく。
魚屋。
武具屋。
いつも黒パンを買う露店。
角兎亭へ続く道も見えた。
いつもと同じ街なのに、今日はすべてが少しだけ眩しく感じられる。
二年前。
初めてここへ来た時、僕を知る人は誰もいなかった。
深くフードを被った、よく分からない新人。
誰かへ声を掛けられるたびに身構え、道へ迷っては同じ場所を何度も歩いた。
今は、名前を呼ばれる。
帰ってきたことを、喜んでくれる人がいる。
それが嬉しかった。
嬉しいと、素直に思っていいのだろう。
ギルドの建物が見えてくる。
両開きの大扉の前には数人の職員が立ち、僕たちを見つけるとすぐに内側へ声を掛けた。
荷車が止まる。
ガルドさんが先に降り、右手をこちらへ伸ばす。
「立てるか」
「歩けます」
「立てるかと聞いた」
「……立てます」
差し出された手を掴み、荷台から足を下ろす。
地面へ着いた瞬間、脚が僅かに揺れた。
ガルドさんの手へ力が入り、身体を支えられる。
「歩けるな」
「はい」
「俺にぶら下がってるけどな」
「これは補助です」
「便利な言葉を覚えたな」
肩を借りたまま、ギルドの扉へ向かう。
扉が内側から開いた瞬間、紙と墨、革、金属、それに酒と焼いた肉の匂いが一度に押し寄せてきた。
――ギルドの匂いだ。
大広間は、いつも通り騒がしかった。
依頼票を囲むハンター。
受付へ並ぶ人々。
酒杯を持ったまま話し込む者。
けれど僕たちが足を踏み入れると、近くにいた人から順に声が止まっていく。
視線が集まる。
その静けさが大広間の奥へ広がり、やがて入口の扉が閉じる音まで聞こえるようになった。
「……何ですか、この空気」
「覚悟しとけって言っただろ」
「これのことだったんですか」
「半分な」
「残り半分は?」
「すぐ分かる」
ガルドさんの犬耳が、受付の方角へ向いた。
つられて顔を上げる。
受付台の向こうに、アルナさんがいた。
淡い栗色の髪。
整えられた制服。
いつもと同じ姿。
けれど、僕を見つけた瞬間、茶色い猫耳が大きく立った。
手にしていた書類が、受付台の上へ滑り落ちる。
アルナさんは何かを言おうとして唇を開き……声が出ないまま、受付台の脇から飛び出してきた。
「アルナさん?」
歩いてくる。
いや、走っている。
大広間の中央を真っすぐに。
止まる気配がない。
「ルキウスさん!」
名前を呼ばれた。
聞き慣れた声。
だけど、今まで聞いたことがないほど切羽詰まった声だった。
次の瞬間、柔らかな衝撃が胸へ飛び込んできた。
アルナさんの両腕が背中へ回り、外套ごと身体を強く抱き締められる。
「ぐえ」
変な声が出た。
勢いと獣人族の力が合わさり、傷んだ身体にはなかなか厳しい。
肋骨が軋む。
右脇腹も痛い。
……痛い。
けれど、振りほどこうとは思わなかった。
「アルナさん」
「心配、したんですからね」
「……はい」
「連絡が途絶えて、拠点が壊されていたと聞いて」
「はい」
「大型と接触したら、戦闘を続けないように言いましたよね」
「言われました」
「現地確認と救助が目的だと、何度も確認しましたよね」
「はい」
「それなのに、どうして討伐して帰ってくるんですか」
「……すみません」
ぎゅう、と背中へ回った腕の力が増す。
外套越しでも、アルナさんの指が震えているのが分かった。
「痛い、痛いです。アルナさん」
「知りません」
「かなり痛いです」
「心配した分です」
「心配の力が強すぎませんか」
「強くもなります!」
怒鳴った声が、途中で震えた。
アルナさんは顔を伏せたまま、僕の胸元へ額を押しつけている。
猫耳も力なく横へ倒れ、小さく震えていた。
泣いている。
それに気づいた瞬間、何を言えばいいのか分からなくなった。
大丈夫です。
生きています。
怪我も治ります。
どれも間違ってはいない……けれど、今のアルナさんが聞きたい言葉ではない気がした。
雪原へ向かう前。
アルナさんは、帰ってきてくださいと言った。
僕は帰ってきますと答えた。
なら、言うべき言葉は一つだ。
「アルナさん」
「……何ですか」
「ただいま戻りました」
背中へ回された腕が、僅かに止まる。
少しして、アルナさんがゆっくりと顔を上げた。
目元は赤い。
涙も残っている。
それでも笑おうとして、うまく笑えずにいた。
「……おかえりなさい、ルキウスさん」
胸の奥へ、温かなものが落ちていく。
城壁を見つけた時より。
門をくぐった時より。
街の人たちから声を掛けられた時よりも。
その言葉で、ようやく帰ってきたのだと思えた。
「はい。ただいまです」
大広間が、ほんの一瞬だけ静まった。
「おかえり!」
どこかで机を叩く音がした。
そこから堰を切ったように、声が広がっていく。
「よく帰った!」
「二人で大型をやったんだってな!」
「生きてりゃ上等だ!」
「今日は飲め!」
「怪我人に飲ませるな!」
「なら飯だ! 肉を食わせろ!」
とにかく騒がしい。
大広間中から声が飛び、机や杯を叩く音が重なる。
誰かがガルドさんの背中を叩こうとして、肩の包帯へ気づき慌てて手を止めていた。
アルナさんはそこで、はっと我に返ったように猫耳を立てる。
大広間の真ん中で僕へ抱きついていることに、ようやく気づいたらしい。
顔が一気に赤くなった。
「あっ」
「アルナさん?」
「あ、あの、これは、その……」
慌てて僕から離れる。
ただし、完全には離れなかった。
外套の袖だけは、しっかりと掴んだままだ。
「緊急帰還者の、状態確認です」
無理がある。
かなり無理がある。
周囲のハンターたちはにやにや笑っていたが、誰もそこを指摘しなかった。
ガルドさんだけが、隣で意地の悪い笑みを浮かべる。
「よかったな、坊主」
「何がですか」
「いやぁ、愛されてるねぇ」
「ガルドさん」
「おっと。俺は肩が痛ぇから、もう喋れねぇ」
「さっきまで普通に喋っていましたよね」
「急に痛くなった」
「便利な肩ですね」
ガルドさんは僕から視線を逸らし、口笛を吹こうとして失敗した。
随分と分かりやすい。
アルナさんは小さく咳払いをする。
まだ頬も目元も赤いままだが、背筋を伸ばし、少しずつ受付嬢の顔へ戻っていった。
袖を掴んでいる手は、そのままだった。
「ガルドさんも」
「おう」
「おかえりなさい」
「戻ったぞ」
「肩の傷は、あとで必ず治療班へ見せてください」
「救助隊の治療役には見せた」
「エルドランでも、です」
「大丈夫だって」
「本当に?」
「本当に本当だ」
アルナさんが、じっとガルドさんを見る。
ガルドさんは数秒ほど耐えたものの、やがて犬耳を伏せ、気まずそうに視線を逸らした。
「……ちゃんと見せる」
「よろしいです」
さすがだった。
大型の突進を正面から受け止めた人が、視線だけで負けている。
「盛り上がっているところ悪いが、少しいいか」
低い声が、大広間へ響いた。
騒ぎが少しずつ収まり、人垣が左右へ分かれていく。
ギルドの奥から現れたのは、エルドラン支部のギルドマスターだった。
大柄な身体。
古い傷の残る厳しい顔。
年齢を重ねているはずなのに、姿を見せただけで周囲の空気が引き締まる。
ギルドマスターは僕とガルドさんを見た。
次に、僕の袖を掴んだままのアルナさんへ視線を向ける。
アルナさんの猫耳がぴくりと動いた。
「アルナ」
「はい」
「報告を聞く間くらい、離してやったらどうだ」
「これは、転倒防止です」
「そうか」
「はい」
ギルドマスターはそれ以上触れなかった。
優しさだと思う。
たぶん。
「まず、よく戻った」
低く、はっきりとした声だった。
ギルドマスターは腕を後ろへ組み、僕たちを順番に見る。
「北部簡易拠点の被害を確認。行方不明者三名を発見し、全員を生存させたまま救助隊へ引き渡した。加えて、二年前から確認されていた大型個体を討伐した……報告に相違はないな」
「ありません」
「ああ」
僕とガルドさんが答える。
ギルドマスターは短く頷いた。
「依頼内容は、現地調査と行方不明者の捜索。大型との戦闘は可能な限り回避し、危険であれば撤退するよう指示していた」
「……はい」
アルナさんの指が、僕の袖を僅かに強く掴む。
やはり怒られるのだろうか。
大型と遭遇し、そのまま戦った。
依頼内容から外れた行動なのは間違いない。
「本来なら、判断の経緯を細かく確認する必要がある」
ギルドマスターが目を細める。
「だが、現場に残っていた三名へ大型が向かっていたこと。撤退すれば、救助対象の生存が見込めなかったことは救助隊から報告を受けている」
「はい」
「そして結果として、大型は討伐され、三名は生還した」
ギルドマスターは一度言葉を切る。
大広間の静けさの中で、誰かが杯を卓へ置く音が聞こえた。
「二人の判断を、現時点で規定違反とはしない」
胸の奥に溜まっていた息が、ゆっくりと抜けていく。
隣でもガルドさんが鼻から長く息を吐いた。
「ただし、無茶をした事実まで消えるわけではない」
「はい」
「明日、正式な報告を行え。戦闘の経緯、現場の状況、大型の異常についてもだ」
「分かりました」
「今日は休め。報酬と功績査定についても、報告を確認したうえで伝える」
功績査定。
その言葉に、大広間が僅かにざわめく。
けれど、ギルドマスターが視線を向けると、すぐに静かになった。
「最後に」
ギルドマスターが僕たちへ向き直る。
厳しかった目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ギルドを代表して礼を言う。三人を連れ帰ってくれて、ありがとう」
「……はい」
「それと、大型を止めてくれたことにもな」
何と返せばいいのか迷う。
門前で言われた時と同じだ。
僕たちは依頼をした。
できることをした。
ガルドさんと一緒に戦った。
それでも、誰かにとっては感謝するだけのことだったのだろう。
「間に合って、よかったです」
やはり出てきたのは、その言葉だった。
ギルドマスターは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「ああ。それで十分だ」
張り詰めていた空気が緩む。
直後、また大広間のあちこちから声が上がり始めた。
「聞いたか、今日は休めだってよ!」
「じゃあ座らせろ!」
「飯を持ってこい!」
「だから怪我人だぞ!」
「飯は食えるだろ!」
どうしてそこまで食べさせたいのだろう。
角兎亭へ戻れば、女将さんにも同じことを言われる気がする。
「ルキウスさん」
袖を掴んだまま、アルナさんが僕の顔を覗き込む。
猫耳はまだ少し伏せられていた。
「今日は、もうどこにも行きませんよね」
「治療班の確認が終わったら、角兎亭へ戻ります」
「寄り道は?」
「しません」
「依頼は?」
「受けません」
「訓練も?」
「……しません」
「今、少し迷いましたね」
「気のせいです」
「フードを被っていても分かります」
「雰囲気ですか」
「雰囲気です」
ガルドさんと同じことを言われた。
便利な雰囲気だった。
アルナさんは僕の袖を掴んだまま、治療室の方角へ歩き始める。
一歩踏み出したところで、背後からまた声が飛んできた。
「おかえり、ルキウス!」
「ガルドもな!」
「明日、話を聞かせろよ!」
振り返る。
大広間には、顔見知りも、名前を知らない人もいた。
杯を上げる人。
手を振る人。
こちらを見て笑っている人。
褒める声。
笑い声。
おかえり、という声。
その全部が、大広間の熱気と一緒に背中を押してくる。
以前も、この場所へ戻ってきたことは何度もある。
依頼を終え、報告をして。
失敗して怒られたこともあれば、怪我を心配されたこともあった。
それでも今日、初めて気づいた。
ここは、依頼を受けるだけの場所ではない。
外へ出ていくための場所でもない。
僕が――帰ってくる場所になっている。
「どうしました?」
足を止めた僕を、アルナさんが振り返る。
袖を掴む指は離れていない。
ガルドさんも少し先で立ち止まり、こちらを見ていた。
「いえ」
もう一度、大広間を見渡す。
胸の奥が温かい。
少し苦しくなるほどに。
「ただいま、です」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ギルドに。
街に。
待っていてくれた人たちに。
それとも、二年前の雪原から、ようやく戻ってきた自分にか。
ガルドさんが笑う。
「おう。帰ってきたな」
アルナさんも、僕の袖を掴んだまま柔らかく笑った。
「はい。おかえりなさい、ルキウスさん」
今度は痛くならない程度に、ゆっくりと息を吸う。
「……はい」
街へ戻った。
人を助けた。
あの大型へ勝った。
けれど、それよりも。
帰ってきたことを喜んでくれる人がいる。
今は、それが何より嬉しかった。
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