駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第十七話『少年は己の熱を知る』

 

 ◆

 

 翌朝。

 目を覚ました瞬間、身体の至るところから鈍い痛みが押し寄せてきた。

 肩。背中。両脚。それから、古傷の残る右脇腹。

 寝台の上で息をするだけなら問題はない……けれど、身体を起こそうと腹へ力を入れた途端、脇腹が遅れて引きつった。

 

「……これは、少し困ったな」

 

 昨日よりも痛い。

 白い大型と戦っている最中は、傷が増えても動けていた。むしろ時間が経つほど身体は軽くなり、相手の動きもよく見えるようになっていたのに、今は寝台から起き上がるだけで一苦労だった。

 身体がようやく、あの戦いを思い出したのだろうか。

 

 寝台の横へ立てかけた片刃剣へ手を伸ばす。

 指先が柄へ触れるより早く、部屋の扉が勢いよく開いた。

 

「何をしているんですか」

 

 アルナさんだった。

 両手には朝食を載せた盆を抱え、淡い栗色の髪から覗く猫耳がぴんと立っている。

 僕は片刃剣へ伸ばした手を、そのまま止めた。

 

「起きようとしていました」

「どうして起きるのに武器が必要なんですか」

「いつも持っているので」

「今日は必要ありません」

「でも、ギルドへ行くなら」

「報告をするだけです。モンスターは出ません」

「ギルドの中で出たら大変ですね」

「誤魔化さないでください」

 

 アルナさんは盆を机へ置くと、片刃剣を手の届かない壁際へ移した。

 鞘が壁へ触れ、こつんと小さな音を立てる。

 そのまま振り返った彼女の猫耳は、まだ鋭くこちらへ向いていた。

 

「一人で起きられますか」

「もちろんです」

 

 寝台へ手をつき、身体を起こす。

 右脇腹が引きついた。

 息を止めないよう注意しながら上体を持ち上げ、どうにか寝台の端へ腰を下ろす。

 

「……起きられました」

「今、顔をしかめましたよね」

「フードを被っていませんが、顔は見せていないはずです」

「分かります」

「雰囲気で?」

「雰囲気で、です」

 

 どうやらアルナさんにも、ガルドさんと同じ能力が備わっているらしい。

 便利すぎるので、そのうち隠し方を覚えた方がいいかもしれない。

 

 寝台脇へ畳まれていたフード付きの外套を取ろうとする。

 洗われてはいるものの、白い大型の爪で裂かれた箇所はまだ直っていない。応急的に縫い合わされ、ところどころ糸が不格好に盛り上がっていた。

 

「それも、私が手伝います」

「着るだけですよ」

「腕が上がっていません」

「上がります」

 

 右腕を持ち上げる。

 肩へ鋭い痛みが走り、途中で止まった。

 

「……今日は少しだけ、上がりづらいみたいです」

「少しではありません」

 

 アルナさんが外套を広げ、僕の肩へ掛けてくれる。

 袖へ腕を通す間も、傷へ触れないようゆっくりと布を動かしていた。

 昨日、大広間で勢いよく抱きついてきた時とは別人のように慎重だった。

 

「あの」

 

 留め具へ伸びていたアルナさんの指が止まる。

 猫耳が僅かに横へ倒れた。

 

「昨日は、その……すみませんでした」

「何がですか」

「大広間で、いきなり抱きついたことです」

 

 思い出したのか、頬が少しずつ赤くなっていく。

 外套を整える指も落ち着かないように、同じ留め具を何度も触っていた。

 

「痛かったでしょう」

「かなり」

「やっぱり……」

「でも、嫌ではありませんでした」

 

 猫耳が、ぴくりと動く。

 アルナさんは留め具へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。

 

「アルナさん?」

「……そういうことは」

「はい」

「もう少し考えてから言ってください」

「何か変でしたか」

「変ではありません。変ではありませんけど……もういいです」

 

 最後の留め具が、普段よりも強い音を立てて閉じられた。

 少し怒らせてしまったらしい。

 理由は分からない。

 

「朝食を食べてください。報告はそのあとです」

「ガルドさんは?」

「もう来ています」

「怪我は大丈夫なんですか」

「治療役の許可をもらったそうです。ただし、盾は持っていません」

「それなら安心ですね」

「ルキウスさんも武器を持たなければ、もっと安心できます」

「報告が終わったら返してください」

「治療役の許可が出たら返します」

「……厳しくなっていませんか」

「昨日の分です」

 

 昨日の抱擁にも、同じことを言われた気がする。

 心配には重さがあるらしい。

 

 机へ置かれた朝食は、柔らかく煮た麦粥と温かな野菜のスープだった。

 食べやすいものを選んでくれたのだろう。

 けれど、肉が入っていない。

 角兎亭の女将さんなら、怪我人には肉を食べさせろと言いそうだった。

 

「女将さんには連絡しましたか」

「昨日のうちに」

「怒っていましたか」

「帰ってきたら、たんと食わせると」

「……やっぱり」

 

 今夜の夕食は、かなり多くなりそうだった。

 

 ◆

 

 ギルドの二階にある会議室は、大広間の騒がしさが嘘のように静かだった。

 中央には長い机が置かれ、その奥へギルドマスターが座っている。

 隣にいるのは、淡い金髪の間から細長い耳を覗かせた女性調査員――リュシアさんだ。

 机の上には何枚もの地図と報告書。その端には、薄く濁った透明な液体の入った小瓶が並べられていた。

 

「座れ」

 

 ギルドマスターに促され、ガルドさんの隣へ腰を下ろす。

 彼の肩には新しい包帯が巻かれ、左腕はまだ動かしづらいらしい。椅子へ座る時も、右手で机を押さえていた。

 アルナさんは僕の背後に立ち、報告を書き留めるための紙を机へ広げる。

 

「傷の具合はどうだ」

「動けます」

「聞き方を変えよう。治療役は何と言っていた」

「三日は安静にするように、と」

「なら、三日は安静にしろ」

「……はい」

 

 先回りされた。

 隣でガルドさんが鼻を鳴らして笑う。

 

「お前もだ、ガルド」

「俺は二日だ」

「なら二日休め」

「へいへい」

「返事」

「……はい」

 

 アルナさんが満足そうに頷いている。

 この部屋では、僕たちの味方はいないらしい。

 

 ギルドマスターは腕を組み、机に置かれた報告書へ視線を落とした。

 

「昨日、救助隊から大まかな報告は受けている。今日は二人が現地で何を見て、どう判断したのかを確認する」

 

 低い声が、静かな部屋へ響く。

 

「最初から話せ」

「はい」

 

 北部簡易拠点へ向かったこと。

 近づくにつれ、街道からモンスターの痕跡が消えていたこと。

 拠点が壊され、建物の多くが雪へ埋もれていたこと。

 生存者の声を探し、地下の食料庫で三人を発見したこと。

 

 話しているうちに、雪原の光景が一つずつ頭へ戻ってくる。

 折れた柵。

 崩れた屋根。

 雪の中へ続く血の跡。

 地下から聞こえた、弱い声。

 

 ギルドマスターは途中で口を挟まず、リュシアさんも紙へ筆を走らせていた。

 アルナさんだけが、生存者を見つけるまでの経緯を聞くたび、背後で小さく息を呑んでいる。

 

「大型を確認したのは、三人を食料庫へ避難させたあとだな」

「はい」

「最初から、お前たちを狙っていたのか」

「いいえ」

 

 あの時の白い大型を思い出す。

 雪原を歩く巨体。

 僕たちへ気づきながらも、そのまま西へ向かおうとしていた。

 

「最初は、こちらへ興味を示していませんでした」

「では、なぜ接触した」

「僕を見たからです」

 

 リュシアさんの筆が止まった。

 ギルドマスターの目が僅かに細められる。

 

「どういう意味だ」

「あの個体は、二年前に僕が遭遇した大型と同じでした。顔と肩に、当時ついた傷が残っていました」

「個体識別は確実か」

「はい。見間違えません」

 

 二年前。

 何もできずに逃げた雪原。

 こちらを見下ろしていた、濁った青白い瞳。

 忘れようとしても、忘れられなかった。

 

「大型も、お前を覚えていたと思うか」

「分かりません。ただ、僕へ気づいたあとは進路を変えました」

 

 僕だけを見ていた。

 ガルドさんが音を立てても、煙で視界を遮っても、何度もこちらを探していた。

 あれが獲物への執着だったのか。

 それとも二年前の記憶によるものだったのかは、今も分からない。

 

「俺も、坊主を狙っていたように見えた」

 

 ガルドさんが続ける。

 

「注意を逸らしても、すぐにこいつへ戻った。俺が盾で殴っても、牙は坊主を追ってたからな」

「二年前の遭遇時に、ルキウスが何かした可能性は?」

「逃げました」

 

 即答すると、ギルドマスターが眉間へ皺を寄せた。

 

「ほかには」

「逃げただけです」

「攻撃は」

「できませんでした」

「挑発した覚えは」

「ありません」

「本当に?」

「……たぶん」

「たぶん?」

 

 アルナさんの声が背後から飛んできた。

 振り返らなくても、猫耳が立ったのが分かる。

 

「近くにいたミミルさんを助けようとはしました」

「それです」

「でも、大型へ何かしたわけでは」

「ルキウスさんの場合、覚えていないだけで何かしていそうです」

「信用がありませんね」

「日頃の行いです」

 

 反論できる材料が少なかった。

 

 ギルドマスターは額へ指を当て、話を戻すように息を吐いた。

 

「それで、大型を拠点から引き離した」

「はい。ですが、救難信号が上がったことで、あの大型は拠点へ戻ろうとしました」

「そこで戦闘を選んだ、と」

 

 部屋の空気が、僅かに重くなる。

 撤退命令。

 調査と救助。

 戦闘は避ける。

 

 依頼の条件を理解したうえで、僕は剣を抜いた。

 

「撤退すれば、大型は三人のところへ向かっていました」

「だから戦った?」

「はい」

「勝てると思ったのか」

 

 すぐに答えようとして、言葉が止まる。

 

 勝てると思っていたのだろうか。

 最初から確信があったわけではない。

 むしろ、間違えれば死ぬと思っていた。

 怖かった。

 逃げた方がいいと、頭では分かっていた。

 

 それでも……剣を抜いた。

 

「勝つ方法は、あると思いました」

「違いを説明しろ」

「僕一人では勝てません。ガルドさんでも、一人では難しかったと思います」

 

 隣へ視線を向ける。

 ガルドさんは黙ったまま、こちらの言葉を待っていた。

 

「でも、ガルドさんが前で止めてくれるなら、僕は刃を届かせられる。何度も同じ傷へ刃を重ねれば、いつかは倒せる……そう思いました」

「確実ではない」

「はい」

「失敗すれば、二人とも死んだ」

「はい」

「それでも戦った」

「……はい」

 

 ギルドマスターの視線が鋭くなる。

 怒っているのだろうか。

 けれど、声は変わらなかった。

 

「なぜだ」

「三人を、置いて逃げたくなかったからです」

 

 それだけではない。

 二年前の恐怖へ、もう一度背を向けたくなかった。

 ガルドさんとなら届くと思った。

 今の自分が、あの大型へどこまで通じるのかを知りたかった。

 

 胸の奥に、別の言葉が残っている。

 

 ――楽しい。

 

 刃が通るたびに浮かんだ感情。

 今も思い出すだけで、指先が僅かに熱くなる。

 

「ほかにも理由があるな」

 

 ギルドマスターに言われ、膝の上へ置いていた手へ視線を落とす。

 ゆっくりと両手を持ち上げ、そのまま左右へ開いた。

 白い大型へ片刃剣を振るい続けた手。

 掌には柄を強く握った跡が残り、皮の剥けた場所へ薄い布が巻かれている。

 

 戦っていた時の感触が蘇る。

 刃が毛を裂く手応え。

 傷の奥へ入り込む感覚。

 次の動きが分かった瞬間、身体の奥から込み上げた熱。

 

 開いた両手を見つめる。

 それから――指を折り、ぎゅっと拳を握った。

 

「楽しかったんです」

 

 口にした途端、部屋が静かになった。

 背後で、アルナさんの筆が止まる。

 

「何がだ」

 

 ギルドマスターの問いに、握った拳を見つめたまま息を吐く。

 

「相手の動きが分かること。ガルドさんが作ってくれた隙へ、思った通りに刃を通せること。それから……」

 

 昨日までできなかったことが、できる。

 通じなかった刃が、届く。

 強大な相手を前に、自分が変わっていく。

 

「戦いながら、自分が強くなっていくように感じました」

 

 怖さが消えたわけではない。

 誰かを守るという目的も忘れていなかった。

 それでも、あの高揚は確かに僕の中から生まれたものだった。

 

「変、ですよね」

「まあ、普通とは言いづらいな」

 

 ギルドマスターより先に、ガルドさんが答えた。

 けれど声に疑いや警戒はなく、いつものように少し呆れているだけだった。

 

「ただ、坊主が笑ってたこと自体は珍しくねぇぞ」

「そうなんですか?」

 

 アルナさんが顔を上げる。

 

「ああ。フレイヴィアとの稽古を見たことがあるが、追い込まれて動きがよくなると、よく笑ってた」

「僕が?」

「自覚なかったのかよ」

「ありません」

「だろうな」

 

 ガルドさんは右手で短い髪を掻き、椅子へ深く背を預けた。

 

「白い大型を前にしたから急におかしくなった、って話じゃねぇ。前からこいつは、できなかったことができるようになると分かりやすく喜ぶ」

「では、問題はないと?」

「笑うこと自体はな」

 

 そこで一度言葉を切り、ガルドさんの目が僕へ向く。

 

「問題になるとしたら、楽しくなりすぎて周りが見えなくなることだ。昨日は声も聞いてたし、退けと言えば退いた。俺が止める場所も読んでたから、判断を失ってたわけじゃねぇ」

「なら、なぜ笑っていたことを本人へ伝えなかった」

「言う必要がなかったからだ」

 

 あまりにも当然のように答えられた。

 

「笑いながら動けるなら、余計なこと言って集中を切らす方が危ねぇだろ。それに、訓練中と同じ顔なら、まだ坊主だって分かる」

「同じ顔……」

「フード越しでもな」

「雰囲気ですか」

「雰囲気だ」

 

 やはり便利すぎる。

 

 ギルドマスターはしばらく僕とガルドさんを見比べていた。

 やがて机へ置いた指を、一度だけ静かに動かす。

 

「戦いを楽しむこと自体を、規則で禁じることはできない」

「はい」

「だが、楽しさに判断を奪われれば、お前だけでなく仲間も死ぬ」

「……はい」

「今回、お前が戻れたのは一人ではなかったからだ。それを忘れるな」

「忘れません」

 

 ガルドさんが前で止めてくれた。

 危ない時は声を掛け、僕が死にかけた時には自分の身体で突き飛ばしてくれた。

 僕一人なら、最初の数回で終わっていただろう。

 

「俺も忘れさせねぇよ」

 

 ガルドさんが鼻を鳴らす。

 

「こいつが俺の声も聞かずに前へ出たら、盾で殴ってでも止める」

「僕まで止めるんですか」

「止まらなきゃな」

「大型と同じ扱いですね」

「お前の方が言葉を聞くぶん、少しましだ」

「少しだけ……」

 

 背後で、アルナさんが小さく息を吐く。

 少なくとも、先ほどより肩の力は抜けたようだった。

 

「では、戦闘中に判断力を失ったわけではない、と」

「はい」

「後半は、俺が言う前に動くことが増えた」

 

 ガルドさんの犬耳が僅かに揺れる。

 

「俺が右へ流そうとしたら、先に右へ入った。盾を出す位置も、次に狙う傷も分かってた」

「それは事前に決めていたのか」

「いや。戦いながらだ」

「ルキウス」

「はい」

「ガルドの動きが、なぜ分かった」

「……分かりません」

 

 視線。

 足の向き。

 盾の角度。

 

 説明しようと思えば、いくつか挙げられる。

 けれど戦っていた時は、それらを一つずつ考えてはいなかった。

 ガルドさんが何をしようとしているのか、見た瞬間には分かっていた。

 

「ガルドさんが、そう動くと思ったので」

「答えになっていないな」

「すみません」

「責めているわけではない。戦闘感覚として記録しておく」

 

 リュシアさんが、紙へ何かを書き足す。

 笑っていたことではなく、こちらであってほしい。

 

「大型の討伐経緯については、おおむね把握した」

 

 ギルドマスターが地図を机の中央へ寄せる。

 

「次に、個体の異常について確認する。リュシア」

「はい」

 

 リュシアさんが、小瓶の一つを指先で持ち上げた。

 中には、薄く濁った透明な液体が入っている。

 白い大型の傷口から、血とともに流れていたものだった。

 

「回収班が大型の体内から採取した液体です。血液とは別に、皮膚と筋肉の間へ大量に蓄えられていました」

 

 小瓶が光へ翳される。

 液体の中では、ごく細かな白い粒がゆっくりと沈んでいた。

 

「水、ですよね」

「水に近いものです。ただし、不純物と塩分が含まれています」

「塩分……」

「簡単に言えば、薄い海水に近い」

 

 潮の匂い。

 救助隊の人も、同じことを言っていた。

 

「この大型は、海から来たんですか」

「現時点では断定できません」

 

 リュシアさんは小瓶を机へ戻し、地図の北部を指でなぞる。

 雪原から海岸までは、いくつもの地域を越えなければならない。

 

「少なくとも、雪原で生まれ育った個体が、自然にこの量の塩分を体内へ蓄えるとは考えにくい。食性や生息地だけでは説明できません」

「では、誰かが?」

「それも分かりません。人為的なものなのか、別の環境から移動してきたのか……あるいは、何らかの異常によって身体が変質したのか」

 

 白い大型が纏っていた水。

 傷つけても流れ続け、凍りつくことなく白い毛を濡らしていた。

 最後には周囲の雪を巻き上げ、氷を含んだ風まで起こしている。

 

「あの咆哮も、この水が関係しているのでしょうか」

「可能性はあります。体内の水と魔力を使い、周囲の雪や氷へ干渉したのかもしれません」

 

 リュシアさんの長い耳が、考え込むように僅かに伏せられた。

 

「ただ、この個体だけの異常とは限りません」

「ほかにもいると?」

「分かりません。だから調べます」

 

 短い言葉だった。

 けれど、その声には調査員としての強い意志があった。

 

「回収された素材は、すべてギルドの管理下へ置きます。肉や皮も通常の素材としては流通させません」

「片刃剣についていた液体も、渡した方がいいですか」

「すでに洗ったのでは?」

「はい」

「なら問題ありません。ただし、身体に異常が出た場合はすぐに報告してください」

「今のところ、全身が痛いだけです」

「それは戦闘の影響でしょう」

「よかったです」

「よくはありません」

 

 アルナさんとリュシアさんの声が重なった。

 二人は一度顔を見合わせ、それから揃って僕を見る。

 

「……気をつけます」

 

 ここは素直に答えた方がよさそうだった。

 

 ギルドマスターが報告書を閉じる。

 

「確認は以上だ」

「依頼は、これで完了ですか」

「ああ。北部簡易拠点の調査、生存者の救助、大型個体の討伐。すべて正式な成果として記録する」

「ありがとうございます」

 

 肩の力が抜ける。

 依頼は終わった。

 今度こそ、最後まで。

 

「ただし、報酬と功績査定は明日伝える」

「明日?」

「通常の調査依頼を大きく超える成果だ。俺一人で決める内容ではない」

「そう、ですか」

 

 功績査定。

 昨日も聞いた言葉だった。

 けれど、まだ実感はない。

 三人を助けたことも、大型を倒したことも、僕にとっては一続きの出来事だった。

 

「今日は休め。明日の朝、もう一度ここへ来い」

「分かりました」

「武器は持ってこなくていい」

「……はい」

 

 背後で、アルナさんが満足そうに筆を置いた。

 

 ◆

 

 会議室を出たところで、アルナさんに腕を掴まれた。

 怪我へ触れないよう加減されているものの、逃がさないという意思だけは十分に伝わってくる。

 

「お話があります」

「やっぱり、あるんですね」

「あります」

「ガルドさんも一緒ですか」

「ルキウスさんだけです」

「坊主、頑張れよ」

「待ってください」

 

 ガルドさんは僕を置いて、階段へ向かおうとする。

 その背中を呼び止めたが、犬耳はこちらへ向けたまま、足は止まらなかった。

 

「俺は治療役に肩を見せなきゃならねぇ」

「さっき、もう診てもらったと」

「急に痛くなった」

「便利な肩ですね」

「じゃあな」

 

 逃げた。

 白い大型へ向かっていった人が、アルナさんからは迷わず逃げた。

 

「ルキウスさん」

「はい」

 

 名前を呼ばれ、ゆっくりと振り返る。

 アルナさんは腕を組み、こちらを見上げていた。

 猫耳は怒ったように立っている……けれど、その表情には怒りだけでなく、困惑も混じっていた。

 

「戦うのが、楽しかったんですか」

「……はい」

 

 隠しても仕方がない。

 正式な報告で話した以上、アルナさんもすべて聞いている。

 

「怖くなかったわけではありません」

「それは分かっています」

「三人を助けることも、忘れていませんでした」

「それも分かっています」

 

 アルナさんの猫耳が、少しだけ伏せられる。

 

「だから、困っているんです」

「困る?」

「ルキウスさんが何も考えずに命を投げ出したのなら、怒れます。危険が分からなかったのなら、説明できます」

 

 組んでいた腕が解かれ、片方の手が僕の外套へ伸びる。

 アルナさんの指先は、白い大型に裂かれた縫い目へそっと触れた。

 

「でも、あなたは怖いと分かっていて、それでも戦った。人を助けるためだけではなく、自分が戦いたかったから」

「……はい」

「それが、少し怖いです」

 

 責める声ではなかった。

 昨日、僕へ抱きついた時と同じ。

 感情を抑えようとして、それでも隠しきれなかった声だった。

 

「すみません」

「謝ってほしいわけではありません」

 

 アルナさんは裂けた布から指を離し、僕の胸元を軽く押す。

 力はほとんど入っていなかった。

 

「忘れないでください」

「何をですか」

「帰ってきてほしいと思っている人がいることを、です」

 

 昨日、大広間で聞いた声が蘇る。

 

 おかえり。

 よく帰った。

 帰ってきてくれて、ありがとう。

 

 アルナさんの腕。

 震えていた指。

 胸元へ押しつけられた額。

 

「忘れません」

「戦っている時も?」

「……はい」

 

 すぐに答えたつもりだった。

 けれど、ほんの僅かな間をアルナさんは見逃さなかったらしい。

 猫耳がじっとこちらへ向けられている。

 

「本当に?」

「努力します」

「そこは、必ずと言ってください」

「できない約束はしたくありません」

「そういうところだけ、正直なんですから」

 

 アルナさんが困ったように息を吐く。

 それから一歩近づき、外套の袖を掴んだ。

 

「では、約束を変えます」

「何にしますか」

「一人で決めないでください」

「一人で?」

「戦うか、逃げるか。自分だけで決めないでください。仲間がいるなら、必ず一緒に考えてください」

 

 雪原で、ガルドさんへ言った言葉を思い出す。

 

 戦うか。

 逃げるか。

 

 二人で決める。

 

「それなら、約束できます」

「絶対ですからね」

「はい」

 

 アルナさんの猫耳が、ようやく少しだけ持ち上がる。

 袖を掴んでいた指も緩んだ……けれど、離れはしなかった。

 

「それでは、角兎亭まで送ります」

「一人で戻れます」

「駄目です」

「道は分かります」

「道の問題ではありません」

「歩けます」

「それも聞いていません」

「……はい」

 

 昨日から、歩けるという言葉の信用がなくなっている。

 

 階段を下り、大広間へ出る。

 昼前のギルドはいつも通り騒がしく、依頼票の前には多くのハンターが集まっていた。

 昨日のように全員の視線が向くことはない。

 それでも何人かが僕たちへ気づき、手を上げてくる。

 

「よう、白犬狩り」

「無事だったか」

「明日、話を聞かせろよ」

 

 白犬狩り。

 変な呼び名が増えている。

 

「僕の名前、知っていますよね」

「こういうのは一度広まると、しばらく続きますよ」

「困りました」

「嫌なんですか?」

「白犬野郎と呼んでいたのはガルドさんなので、ガルドさんの方が合うと思います」

「本人に言ってみてください」

「怒られそうですね」

 

 ギルドの扉を開ける。

 外へ出た途端、乾いた風が外套を揺らした。

 北の雪原とは違う。

 冷たくない風。

 石畳の熱。

 露店から漂う香辛料と、焼けた肉の匂い。

 

 ――帰ってきた。

 

 昨日も感じたはずなのに、改めて胸の奥が緩んでいく。

 

 通りの向こうへ目を向ける。

 荷車が行き交い、商人が声を張り上げている。

 いつもと変わらないエルドランの景色。

 

 その中へ、見慣れた黒髪も、黄金の瞳もなかった。

 

 フレイヴィアさんは、まだ戻っていない。

 帰ってきたら、白い大型との戦いを話したい。

 教えられた通りに刃を届かせたことも。

 戦いの中で笑っていたらしいことも。

 

 どんな顔をするのだろう。

 褒めてくれるだろうか。

 それとも、楽しさに呑まれるなと叱られるだろうか。

 

「ルキウスさん?」

 

 アルナさんの声に、視線を戻す。

 

「何か探していましたか」

「いえ。フレイヴィアさんは、まだ帰っていないんだなと」

「はい。連絡もまだありません」

「そうですか」

「心配ですか?」

「少し。でも、フレイヴィアさんなので」

 

 僕よりずっと強い。

 何度も危険な依頼を乗り越えてきた人だ。

 心配する方が失礼かもしれない。

 

 それでも、帰りを待つ気持ちは分かった。

 自分が待たれる側になって、ようやく。

 

「戻ったら、ちゃんとお帰りなさいと言いましょう」

「はい」

「勢い余って抱きついたりは、しませんからね」

「……僕は何も言っていません」

「顔に出ていました」

「フードを被っています」

「雰囲気です」

 

 今日は何度目だろう。

 

 アルナさんに袖を掴まれたまま、石畳を進んでいく。

 角兎亭のある通りからは、もう煮込み料理の匂いが漂っていた。

 

 明日。

 報酬と功績査定が伝えられる。

 自分が何を成し遂げたのか、まだ正確には分からない。

 

 ただ、一つだけ分かったことがある。

 

 僕は、あの戦いを楽しいと思った。

 それはたぶん、これからも消えない。

 

 なら、知らないふりをしてはいけない。

 恐怖も。

 高揚も。

 前へ進みたがる、自分の危うさも。

 

 全部抱えたまま、それでも帰ってこなければならない。

 

 アルナさんが望んでくれたように。

 ガルドさんが前へ立ってくれたように。

 

 強くなることは、ただ前へ進むことではないらしい。

 立ち止まることも。

 退くことも。

 誰かへ背中を預けることも。

 

 そのすべてを選べて、初めて強さになる。

 

「ルキウスさん」

「何ですか」

「ぼんやりすると転びますよ」

「大丈夫です」

「歩ける、とは言わないでくださいね」

「……分かりました」

 

 見慣れた街を、ゆっくりと歩いていく。

 

 帰る場所がある。

 待ってくれる人がいる。

 

 だから次も、帰ってこよう。

 どれだけ胸が高鳴る戦いでも。

 どれだけ、その先を見たいと思っても。

 

 ――僕が、自分の意志で刃を握るために。

 

 





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