駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
翌朝。
目を覚ました瞬間、身体の至るところから鈍い痛みが押し寄せてきた。
肩。背中。両脚。それから、古傷の残る右脇腹。
寝台の上で息をするだけなら問題はない……けれど、身体を起こそうと腹へ力を入れた途端、脇腹が遅れて引きつった。
「……これは、少し困ったな」
昨日よりも痛い。
白い大型と戦っている最中は、傷が増えても動けていた。むしろ時間が経つほど身体は軽くなり、相手の動きもよく見えるようになっていたのに、今は寝台から起き上がるだけで一苦労だった。
身体がようやく、あの戦いを思い出したのだろうか。
寝台の横へ立てかけた片刃剣へ手を伸ばす。
指先が柄へ触れるより早く、部屋の扉が勢いよく開いた。
「何をしているんですか」
アルナさんだった。
両手には朝食を載せた盆を抱え、淡い栗色の髪から覗く猫耳がぴんと立っている。
僕は片刃剣へ伸ばした手を、そのまま止めた。
「起きようとしていました」
「どうして起きるのに武器が必要なんですか」
「いつも持っているので」
「今日は必要ありません」
「でも、ギルドへ行くなら」
「報告をするだけです。モンスターは出ません」
「ギルドの中で出たら大変ですね」
「誤魔化さないでください」
アルナさんは盆を机へ置くと、片刃剣を手の届かない壁際へ移した。
鞘が壁へ触れ、こつんと小さな音を立てる。
そのまま振り返った彼女の猫耳は、まだ鋭くこちらへ向いていた。
「一人で起きられますか」
「もちろんです」
寝台へ手をつき、身体を起こす。
右脇腹が引きついた。
息を止めないよう注意しながら上体を持ち上げ、どうにか寝台の端へ腰を下ろす。
「……起きられました」
「今、顔をしかめましたよね」
「フードを被っていませんが、顔は見せていないはずです」
「分かります」
「雰囲気で?」
「雰囲気で、です」
どうやらアルナさんにも、ガルドさんと同じ能力が備わっているらしい。
便利すぎるので、そのうち隠し方を覚えた方がいいかもしれない。
寝台脇へ畳まれていたフード付きの外套を取ろうとする。
洗われてはいるものの、白い大型の爪で裂かれた箇所はまだ直っていない。応急的に縫い合わされ、ところどころ糸が不格好に盛り上がっていた。
「それも、私が手伝います」
「着るだけですよ」
「腕が上がっていません」
「上がります」
右腕を持ち上げる。
肩へ鋭い痛みが走り、途中で止まった。
「……今日は少しだけ、上がりづらいみたいです」
「少しではありません」
アルナさんが外套を広げ、僕の肩へ掛けてくれる。
袖へ腕を通す間も、傷へ触れないようゆっくりと布を動かしていた。
昨日、大広間で勢いよく抱きついてきた時とは別人のように慎重だった。
「あの」
留め具へ伸びていたアルナさんの指が止まる。
猫耳が僅かに横へ倒れた。
「昨日は、その……すみませんでした」
「何がですか」
「大広間で、いきなり抱きついたことです」
思い出したのか、頬が少しずつ赤くなっていく。
外套を整える指も落ち着かないように、同じ留め具を何度も触っていた。
「痛かったでしょう」
「かなり」
「やっぱり……」
「でも、嫌ではありませんでした」
猫耳が、ぴくりと動く。
アルナさんは留め具へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。
「アルナさん?」
「……そういうことは」
「はい」
「もう少し考えてから言ってください」
「何か変でしたか」
「変ではありません。変ではありませんけど……もういいです」
最後の留め具が、普段よりも強い音を立てて閉じられた。
少し怒らせてしまったらしい。
理由は分からない。
「朝食を食べてください。報告はそのあとです」
「ガルドさんは?」
「もう来ています」
「怪我は大丈夫なんですか」
「治療役の許可をもらったそうです。ただし、盾は持っていません」
「それなら安心ですね」
「ルキウスさんも武器を持たなければ、もっと安心できます」
「報告が終わったら返してください」
「治療役の許可が出たら返します」
「……厳しくなっていませんか」
「昨日の分です」
昨日の抱擁にも、同じことを言われた気がする。
心配には重さがあるらしい。
机へ置かれた朝食は、柔らかく煮た麦粥と温かな野菜のスープだった。
食べやすいものを選んでくれたのだろう。
けれど、肉が入っていない。
角兎亭の女将さんなら、怪我人には肉を食べさせろと言いそうだった。
「女将さんには連絡しましたか」
「昨日のうちに」
「怒っていましたか」
「帰ってきたら、たんと食わせると」
「……やっぱり」
今夜の夕食は、かなり多くなりそうだった。
◆
ギルドの二階にある会議室は、大広間の騒がしさが嘘のように静かだった。
中央には長い机が置かれ、その奥へギルドマスターが座っている。
隣にいるのは、淡い金髪の間から細長い耳を覗かせた女性調査員――リュシアさんだ。
机の上には何枚もの地図と報告書。その端には、薄く濁った透明な液体の入った小瓶が並べられていた。
「座れ」
ギルドマスターに促され、ガルドさんの隣へ腰を下ろす。
彼の肩には新しい包帯が巻かれ、左腕はまだ動かしづらいらしい。椅子へ座る時も、右手で机を押さえていた。
アルナさんは僕の背後に立ち、報告を書き留めるための紙を机へ広げる。
「傷の具合はどうだ」
「動けます」
「聞き方を変えよう。治療役は何と言っていた」
「三日は安静にするように、と」
「なら、三日は安静にしろ」
「……はい」
先回りされた。
隣でガルドさんが鼻を鳴らして笑う。
「お前もだ、ガルド」
「俺は二日だ」
「なら二日休め」
「へいへい」
「返事」
「……はい」
アルナさんが満足そうに頷いている。
この部屋では、僕たちの味方はいないらしい。
ギルドマスターは腕を組み、机に置かれた報告書へ視線を落とした。
「昨日、救助隊から大まかな報告は受けている。今日は二人が現地で何を見て、どう判断したのかを確認する」
低い声が、静かな部屋へ響く。
「最初から話せ」
「はい」
北部簡易拠点へ向かったこと。
近づくにつれ、街道からモンスターの痕跡が消えていたこと。
拠点が壊され、建物の多くが雪へ埋もれていたこと。
生存者の声を探し、地下の食料庫で三人を発見したこと。
話しているうちに、雪原の光景が一つずつ頭へ戻ってくる。
折れた柵。
崩れた屋根。
雪の中へ続く血の跡。
地下から聞こえた、弱い声。
ギルドマスターは途中で口を挟まず、リュシアさんも紙へ筆を走らせていた。
アルナさんだけが、生存者を見つけるまでの経緯を聞くたび、背後で小さく息を呑んでいる。
「大型を確認したのは、三人を食料庫へ避難させたあとだな」
「はい」
「最初から、お前たちを狙っていたのか」
「いいえ」
あの時の白い大型を思い出す。
雪原を歩く巨体。
僕たちへ気づきながらも、そのまま西へ向かおうとしていた。
「最初は、こちらへ興味を示していませんでした」
「では、なぜ接触した」
「僕を見たからです」
リュシアさんの筆が止まった。
ギルドマスターの目が僅かに細められる。
「どういう意味だ」
「あの個体は、二年前に僕が遭遇した大型と同じでした。顔と肩に、当時ついた傷が残っていました」
「個体識別は確実か」
「はい。見間違えません」
二年前。
何もできずに逃げた雪原。
こちらを見下ろしていた、濁った青白い瞳。
忘れようとしても、忘れられなかった。
「大型も、お前を覚えていたと思うか」
「分かりません。ただ、僕へ気づいたあとは進路を変えました」
僕だけを見ていた。
ガルドさんが音を立てても、煙で視界を遮っても、何度もこちらを探していた。
あれが獲物への執着だったのか。
それとも二年前の記憶によるものだったのかは、今も分からない。
「俺も、坊主を狙っていたように見えた」
ガルドさんが続ける。
「注意を逸らしても、すぐにこいつへ戻った。俺が盾で殴っても、牙は坊主を追ってたからな」
「二年前の遭遇時に、ルキウスが何かした可能性は?」
「逃げました」
即答すると、ギルドマスターが眉間へ皺を寄せた。
「ほかには」
「逃げただけです」
「攻撃は」
「できませんでした」
「挑発した覚えは」
「ありません」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん?」
アルナさんの声が背後から飛んできた。
振り返らなくても、猫耳が立ったのが分かる。
「近くにいたミミルさんを助けようとはしました」
「それです」
「でも、大型へ何かしたわけでは」
「ルキウスさんの場合、覚えていないだけで何かしていそうです」
「信用がありませんね」
「日頃の行いです」
反論できる材料が少なかった。
ギルドマスターは額へ指を当て、話を戻すように息を吐いた。
「それで、大型を拠点から引き離した」
「はい。ですが、救難信号が上がったことで、あの大型は拠点へ戻ろうとしました」
「そこで戦闘を選んだ、と」
部屋の空気が、僅かに重くなる。
撤退命令。
調査と救助。
戦闘は避ける。
依頼の条件を理解したうえで、僕は剣を抜いた。
「撤退すれば、大型は三人のところへ向かっていました」
「だから戦った?」
「はい」
「勝てると思ったのか」
すぐに答えようとして、言葉が止まる。
勝てると思っていたのだろうか。
最初から確信があったわけではない。
むしろ、間違えれば死ぬと思っていた。
怖かった。
逃げた方がいいと、頭では分かっていた。
それでも……剣を抜いた。
「勝つ方法は、あると思いました」
「違いを説明しろ」
「僕一人では勝てません。ガルドさんでも、一人では難しかったと思います」
隣へ視線を向ける。
ガルドさんは黙ったまま、こちらの言葉を待っていた。
「でも、ガルドさんが前で止めてくれるなら、僕は刃を届かせられる。何度も同じ傷へ刃を重ねれば、いつかは倒せる……そう思いました」
「確実ではない」
「はい」
「失敗すれば、二人とも死んだ」
「はい」
「それでも戦った」
「……はい」
ギルドマスターの視線が鋭くなる。
怒っているのだろうか。
けれど、声は変わらなかった。
「なぜだ」
「三人を、置いて逃げたくなかったからです」
それだけではない。
二年前の恐怖へ、もう一度背を向けたくなかった。
ガルドさんとなら届くと思った。
今の自分が、あの大型へどこまで通じるのかを知りたかった。
胸の奥に、別の言葉が残っている。
――楽しい。
刃が通るたびに浮かんだ感情。
今も思い出すだけで、指先が僅かに熱くなる。
「ほかにも理由があるな」
ギルドマスターに言われ、膝の上へ置いていた手へ視線を落とす。
ゆっくりと両手を持ち上げ、そのまま左右へ開いた。
白い大型へ片刃剣を振るい続けた手。
掌には柄を強く握った跡が残り、皮の剥けた場所へ薄い布が巻かれている。
戦っていた時の感触が蘇る。
刃が毛を裂く手応え。
傷の奥へ入り込む感覚。
次の動きが分かった瞬間、身体の奥から込み上げた熱。
開いた両手を見つめる。
それから――指を折り、ぎゅっと拳を握った。
「楽しかったんです」
口にした途端、部屋が静かになった。
背後で、アルナさんの筆が止まる。
「何がだ」
ギルドマスターの問いに、握った拳を見つめたまま息を吐く。
「相手の動きが分かること。ガルドさんが作ってくれた隙へ、思った通りに刃を通せること。それから……」
昨日までできなかったことが、できる。
通じなかった刃が、届く。
強大な相手を前に、自分が変わっていく。
「戦いながら、自分が強くなっていくように感じました」
怖さが消えたわけではない。
誰かを守るという目的も忘れていなかった。
それでも、あの高揚は確かに僕の中から生まれたものだった。
「変、ですよね」
「まあ、普通とは言いづらいな」
ギルドマスターより先に、ガルドさんが答えた。
けれど声に疑いや警戒はなく、いつものように少し呆れているだけだった。
「ただ、坊主が笑ってたこと自体は珍しくねぇぞ」
「そうなんですか?」
アルナさんが顔を上げる。
「ああ。フレイヴィアとの稽古を見たことがあるが、追い込まれて動きがよくなると、よく笑ってた」
「僕が?」
「自覚なかったのかよ」
「ありません」
「だろうな」
ガルドさんは右手で短い髪を掻き、椅子へ深く背を預けた。
「白い大型を前にしたから急におかしくなった、って話じゃねぇ。前からこいつは、できなかったことができるようになると分かりやすく喜ぶ」
「では、問題はないと?」
「笑うこと自体はな」
そこで一度言葉を切り、ガルドさんの目が僕へ向く。
「問題になるとしたら、楽しくなりすぎて周りが見えなくなることだ。昨日は声も聞いてたし、退けと言えば退いた。俺が止める場所も読んでたから、判断を失ってたわけじゃねぇ」
「なら、なぜ笑っていたことを本人へ伝えなかった」
「言う必要がなかったからだ」
あまりにも当然のように答えられた。
「笑いながら動けるなら、余計なこと言って集中を切らす方が危ねぇだろ。それに、訓練中と同じ顔なら、まだ坊主だって分かる」
「同じ顔……」
「フード越しでもな」
「雰囲気ですか」
「雰囲気だ」
やはり便利すぎる。
ギルドマスターはしばらく僕とガルドさんを見比べていた。
やがて机へ置いた指を、一度だけ静かに動かす。
「戦いを楽しむこと自体を、規則で禁じることはできない」
「はい」
「だが、楽しさに判断を奪われれば、お前だけでなく仲間も死ぬ」
「……はい」
「今回、お前が戻れたのは一人ではなかったからだ。それを忘れるな」
「忘れません」
ガルドさんが前で止めてくれた。
危ない時は声を掛け、僕が死にかけた時には自分の身体で突き飛ばしてくれた。
僕一人なら、最初の数回で終わっていただろう。
「俺も忘れさせねぇよ」
ガルドさんが鼻を鳴らす。
「こいつが俺の声も聞かずに前へ出たら、盾で殴ってでも止める」
「僕まで止めるんですか」
「止まらなきゃな」
「大型と同じ扱いですね」
「お前の方が言葉を聞くぶん、少しましだ」
「少しだけ……」
背後で、アルナさんが小さく息を吐く。
少なくとも、先ほどより肩の力は抜けたようだった。
「では、戦闘中に判断力を失ったわけではない、と」
「はい」
「後半は、俺が言う前に動くことが増えた」
ガルドさんの犬耳が僅かに揺れる。
「俺が右へ流そうとしたら、先に右へ入った。盾を出す位置も、次に狙う傷も分かってた」
「それは事前に決めていたのか」
「いや。戦いながらだ」
「ルキウス」
「はい」
「ガルドの動きが、なぜ分かった」
「……分かりません」
視線。
足の向き。
盾の角度。
説明しようと思えば、いくつか挙げられる。
けれど戦っていた時は、それらを一つずつ考えてはいなかった。
ガルドさんが何をしようとしているのか、見た瞬間には分かっていた。
「ガルドさんが、そう動くと思ったので」
「答えになっていないな」
「すみません」
「責めているわけではない。戦闘感覚として記録しておく」
リュシアさんが、紙へ何かを書き足す。
笑っていたことではなく、こちらであってほしい。
「大型の討伐経緯については、おおむね把握した」
ギルドマスターが地図を机の中央へ寄せる。
「次に、個体の異常について確認する。リュシア」
「はい」
リュシアさんが、小瓶の一つを指先で持ち上げた。
中には、薄く濁った透明な液体が入っている。
白い大型の傷口から、血とともに流れていたものだった。
「回収班が大型の体内から採取した液体です。血液とは別に、皮膚と筋肉の間へ大量に蓄えられていました」
小瓶が光へ翳される。
液体の中では、ごく細かな白い粒がゆっくりと沈んでいた。
「水、ですよね」
「水に近いものです。ただし、不純物と塩分が含まれています」
「塩分……」
「簡単に言えば、薄い海水に近い」
潮の匂い。
救助隊の人も、同じことを言っていた。
「この大型は、海から来たんですか」
「現時点では断定できません」
リュシアさんは小瓶を机へ戻し、地図の北部を指でなぞる。
雪原から海岸までは、いくつもの地域を越えなければならない。
「少なくとも、雪原で生まれ育った個体が、自然にこの量の塩分を体内へ蓄えるとは考えにくい。食性や生息地だけでは説明できません」
「では、誰かが?」
「それも分かりません。人為的なものなのか、別の環境から移動してきたのか……あるいは、何らかの異常によって身体が変質したのか」
白い大型が纏っていた水。
傷つけても流れ続け、凍りつくことなく白い毛を濡らしていた。
最後には周囲の雪を巻き上げ、氷を含んだ風まで起こしている。
「あの咆哮も、この水が関係しているのでしょうか」
「可能性はあります。体内の水と魔力を使い、周囲の雪や氷へ干渉したのかもしれません」
リュシアさんの長い耳が、考え込むように僅かに伏せられた。
「ただ、この個体だけの異常とは限りません」
「ほかにもいると?」
「分かりません。だから調べます」
短い言葉だった。
けれど、その声には調査員としての強い意志があった。
「回収された素材は、すべてギルドの管理下へ置きます。肉や皮も通常の素材としては流通させません」
「片刃剣についていた液体も、渡した方がいいですか」
「すでに洗ったのでは?」
「はい」
「なら問題ありません。ただし、身体に異常が出た場合はすぐに報告してください」
「今のところ、全身が痛いだけです」
「それは戦闘の影響でしょう」
「よかったです」
「よくはありません」
アルナさんとリュシアさんの声が重なった。
二人は一度顔を見合わせ、それから揃って僕を見る。
「……気をつけます」
ここは素直に答えた方がよさそうだった。
ギルドマスターが報告書を閉じる。
「確認は以上だ」
「依頼は、これで完了ですか」
「ああ。北部簡易拠点の調査、生存者の救助、大型個体の討伐。すべて正式な成果として記録する」
「ありがとうございます」
肩の力が抜ける。
依頼は終わった。
今度こそ、最後まで。
「ただし、報酬と功績査定は明日伝える」
「明日?」
「通常の調査依頼を大きく超える成果だ。俺一人で決める内容ではない」
「そう、ですか」
功績査定。
昨日も聞いた言葉だった。
けれど、まだ実感はない。
三人を助けたことも、大型を倒したことも、僕にとっては一続きの出来事だった。
「今日は休め。明日の朝、もう一度ここへ来い」
「分かりました」
「武器は持ってこなくていい」
「……はい」
背後で、アルナさんが満足そうに筆を置いた。
◆
会議室を出たところで、アルナさんに腕を掴まれた。
怪我へ触れないよう加減されているものの、逃がさないという意思だけは十分に伝わってくる。
「お話があります」
「やっぱり、あるんですね」
「あります」
「ガルドさんも一緒ですか」
「ルキウスさんだけです」
「坊主、頑張れよ」
「待ってください」
ガルドさんは僕を置いて、階段へ向かおうとする。
その背中を呼び止めたが、犬耳はこちらへ向けたまま、足は止まらなかった。
「俺は治療役に肩を見せなきゃならねぇ」
「さっき、もう診てもらったと」
「急に痛くなった」
「便利な肩ですね」
「じゃあな」
逃げた。
白い大型へ向かっていった人が、アルナさんからは迷わず逃げた。
「ルキウスさん」
「はい」
名前を呼ばれ、ゆっくりと振り返る。
アルナさんは腕を組み、こちらを見上げていた。
猫耳は怒ったように立っている……けれど、その表情には怒りだけでなく、困惑も混じっていた。
「戦うのが、楽しかったんですか」
「……はい」
隠しても仕方がない。
正式な報告で話した以上、アルナさんもすべて聞いている。
「怖くなかったわけではありません」
「それは分かっています」
「三人を助けることも、忘れていませんでした」
「それも分かっています」
アルナさんの猫耳が、少しだけ伏せられる。
「だから、困っているんです」
「困る?」
「ルキウスさんが何も考えずに命を投げ出したのなら、怒れます。危険が分からなかったのなら、説明できます」
組んでいた腕が解かれ、片方の手が僕の外套へ伸びる。
アルナさんの指先は、白い大型に裂かれた縫い目へそっと触れた。
「でも、あなたは怖いと分かっていて、それでも戦った。人を助けるためだけではなく、自分が戦いたかったから」
「……はい」
「それが、少し怖いです」
責める声ではなかった。
昨日、僕へ抱きついた時と同じ。
感情を抑えようとして、それでも隠しきれなかった声だった。
「すみません」
「謝ってほしいわけではありません」
アルナさんは裂けた布から指を離し、僕の胸元を軽く押す。
力はほとんど入っていなかった。
「忘れないでください」
「何をですか」
「帰ってきてほしいと思っている人がいることを、です」
昨日、大広間で聞いた声が蘇る。
おかえり。
よく帰った。
帰ってきてくれて、ありがとう。
アルナさんの腕。
震えていた指。
胸元へ押しつけられた額。
「忘れません」
「戦っている時も?」
「……はい」
すぐに答えたつもりだった。
けれど、ほんの僅かな間をアルナさんは見逃さなかったらしい。
猫耳がじっとこちらへ向けられている。
「本当に?」
「努力します」
「そこは、必ずと言ってください」
「できない約束はしたくありません」
「そういうところだけ、正直なんですから」
アルナさんが困ったように息を吐く。
それから一歩近づき、外套の袖を掴んだ。
「では、約束を変えます」
「何にしますか」
「一人で決めないでください」
「一人で?」
「戦うか、逃げるか。自分だけで決めないでください。仲間がいるなら、必ず一緒に考えてください」
雪原で、ガルドさんへ言った言葉を思い出す。
戦うか。
逃げるか。
二人で決める。
「それなら、約束できます」
「絶対ですからね」
「はい」
アルナさんの猫耳が、ようやく少しだけ持ち上がる。
袖を掴んでいた指も緩んだ……けれど、離れはしなかった。
「それでは、角兎亭まで送ります」
「一人で戻れます」
「駄目です」
「道は分かります」
「道の問題ではありません」
「歩けます」
「それも聞いていません」
「……はい」
昨日から、歩けるという言葉の信用がなくなっている。
階段を下り、大広間へ出る。
昼前のギルドはいつも通り騒がしく、依頼票の前には多くのハンターが集まっていた。
昨日のように全員の視線が向くことはない。
それでも何人かが僕たちへ気づき、手を上げてくる。
「よう、白犬狩り」
「無事だったか」
「明日、話を聞かせろよ」
白犬狩り。
変な呼び名が増えている。
「僕の名前、知っていますよね」
「こういうのは一度広まると、しばらく続きますよ」
「困りました」
「嫌なんですか?」
「白犬野郎と呼んでいたのはガルドさんなので、ガルドさんの方が合うと思います」
「本人に言ってみてください」
「怒られそうですね」
ギルドの扉を開ける。
外へ出た途端、乾いた風が外套を揺らした。
北の雪原とは違う。
冷たくない風。
石畳の熱。
露店から漂う香辛料と、焼けた肉の匂い。
――帰ってきた。
昨日も感じたはずなのに、改めて胸の奥が緩んでいく。
通りの向こうへ目を向ける。
荷車が行き交い、商人が声を張り上げている。
いつもと変わらないエルドランの景色。
その中へ、見慣れた黒髪も、黄金の瞳もなかった。
フレイヴィアさんは、まだ戻っていない。
帰ってきたら、白い大型との戦いを話したい。
教えられた通りに刃を届かせたことも。
戦いの中で笑っていたらしいことも。
どんな顔をするのだろう。
褒めてくれるだろうか。
それとも、楽しさに呑まれるなと叱られるだろうか。
「ルキウスさん?」
アルナさんの声に、視線を戻す。
「何か探していましたか」
「いえ。フレイヴィアさんは、まだ帰っていないんだなと」
「はい。連絡もまだありません」
「そうですか」
「心配ですか?」
「少し。でも、フレイヴィアさんなので」
僕よりずっと強い。
何度も危険な依頼を乗り越えてきた人だ。
心配する方が失礼かもしれない。
それでも、帰りを待つ気持ちは分かった。
自分が待たれる側になって、ようやく。
「戻ったら、ちゃんとお帰りなさいと言いましょう」
「はい」
「勢い余って抱きついたりは、しませんからね」
「……僕は何も言っていません」
「顔に出ていました」
「フードを被っています」
「雰囲気です」
今日は何度目だろう。
アルナさんに袖を掴まれたまま、石畳を進んでいく。
角兎亭のある通りからは、もう煮込み料理の匂いが漂っていた。
明日。
報酬と功績査定が伝えられる。
自分が何を成し遂げたのか、まだ正確には分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
僕は、あの戦いを楽しいと思った。
それはたぶん、これからも消えない。
なら、知らないふりをしてはいけない。
恐怖も。
高揚も。
前へ進みたがる、自分の危うさも。
全部抱えたまま、それでも帰ってこなければならない。
アルナさんが望んでくれたように。
ガルドさんが前へ立ってくれたように。
強くなることは、ただ前へ進むことではないらしい。
立ち止まることも。
退くことも。
誰かへ背中を預けることも。
そのすべてを選べて、初めて強さになる。
「ルキウスさん」
「何ですか」
「ぼんやりすると転びますよ」
「大丈夫です」
「歩ける、とは言わないでくださいね」
「……分かりました」
見慣れた街を、ゆっくりと歩いていく。
帰る場所がある。
待ってくれる人がいる。
だから次も、帰ってこよう。
どれだけ胸が高鳴る戦いでも。
どれだけ、その先を見たいと思っても。
――僕が、自分の意志で刃を握るために。
◆
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