駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
翌朝。
目を覚ました僕は、寝台へ横になったまま右手を開いた。
指を曲げ、手首を回す。次に腕を持ち上げ、肩をゆっくりと動かしてみた。
深く息を吸うと右脇腹が僅かに引きつったものの、昨日ほどではない。両脚にも重さは残っているが、ギルドまで歩くくらいなら問題なさそうだった。
「……大丈夫そうだ」
上体を起こし、寝台の端へ足を下ろす。
壁際には、鞘へ収めた片刃剣が立てかけられていた。
いつものように手を伸ばしかけ……昨日、武器は持ってくるなと言われたことを思い出す。
ギルドマスター。
アルナさん。
治療役。
それから、女将さんにも念を押されていた。
「置いていこう」
誰もいない部屋で、念のため声に出した。
言葉にしておかなければ、部屋を出る直前に持っていきそうな気がしたからだ。
フード付きの外套を羽織り、階段を下りる。
朝の角兎亭には、肉と豆を煮込んだ匂いが満ちていた。大鍋の前に立つ女将さんは、浮かんできた角兎肉を大きな匙で押し戻している。
僕に気づくと、その視線が頭から足元までゆっくりと動いた。
「動けるのかい」
「はい。昨日よりは」
女将さんは僕の腰へ片刃剣がないことを確かめ、口元を大きく緩めた。
「偉いじゃないか。言われた通りに武器は持っていないね」
「昨日、何度も言われたので」
そう言うと、女将さんは豪快に笑いながら僕の前へ皿を置いてくれる。
「普通は、言われなくても武器は握らないんだけどね」
目の前に置かれた器には、いつもの朝食より明らかに多く角兎肉が入っていた。
黒パンが二つ。
炙った野菜まで、普段の倍近く盛られている。
「随分と多くありませんか」
「今日はギルドマスターに呼ばれてるんだろ?」
「はい。先日の雪原について、詳しい報告をしてほしいそうです」
女将さんは僕の返事を聞きながら、煮込みの隣へ肉の載った小皿まで追加した。
「だったら腹へ入れていきな。話の途中で倒れられたら、縁起が悪いよ」
「空腹では倒れません」
「傷だらけでは帰ってくるくせに、妙なところで自信があるね」
「……いただきます」
これ以上は増やされそうだった。
器を両手で持ち上げ、煮込みを口へ運ぶ。温かな汁が身体の内側へ落ちるたび、寝起きの重さが少しずつ抜けていった。
今日聞かれるのは、北部簡易拠点までの経路や現場の状況についてだろう。
戦闘のおおまかな経緯は伝えているものの、調査報告としては足りない部分も多い。
白い大型が纏っていた水についても、詳しく聞かれるかもしれなかった。
報告する内容を頭の中で整理しながら、どうにか皿を空にする。
さすがに腹が重い。
今日は安静にしろと言われているのだから、これだけ食べれば昼食は必要ない気がした。
「ごちそうさまでした」
「残さなかったね。偉いじゃないか」
「残したら、さらに増やされそうだったので」
「よく分かってるじゃないか」
女将さんは笑いながら空いた器を回収する。
僕は席を立ち、食堂の扉へ向かった。
「行ってきます」
「ああ」
扉へ手を伸ばしたところで、背中から声が飛んでくる。
「昼には腹を空かせてな」
取っ手へ触れた手が止まった。
「……昼ですか?」
「そうだよ」
「今、これだけ食べたばかりですが」
「動けば空くさ」
「今日は安静にするよう言われています」
「なら、安静にしながら空かせな」
難しいことを言われている。
女将さんから、昼までに腹を空かせろなどと言われたことは一度もなかった。
朝食を残すなとは何度も言われたが、次の空腹まで指定されたのは初めてだ。
「何かあるんですか」
「さあねぇ」
女将さんは大鍋へ向き直り、何事もなかったように匙を動かし始めた。
太い肩が僅かに揺れている。
笑いを堪えているようにも見えた。
「……分かりました」
尋ねても教えてくれそうにない。
小さな疑問を残したまま、角兎亭をあとにした。
◆
朝のエルドランは、すでに多くの人で賑わっていた。
荷車が石畳を進み、露店から焼きたてのパンと香辛料の匂いが漂ってくる。
昨日の帰還騒ぎも落ち着いたのか、今日は足を止められることもなくギルドへ向かえた。
建物が見えてきたところで、横の通りから大柄な人影が現れる。
肩へ外套を掛け、大きな犬耳を朝風に揺らしていた。
「ガルドさん」
「おう。早いな、坊主」
「ガルドさんも」
ガルドさんは、自分が泊まっている南通りの宿から来たらしい。
短い髪はまだ僅かに湿っており、傷ついた肩には新しい包帯が巻かれていた。左腕を大きく動かさないよう気をつけてはいるものの、歩き方に問題はなさそうだった。
「肩は大丈夫ですか」
「宿を出る前に治療役へ見せてきた。あとは無茶せず休めとよ」
包帯の巻かれた肩を、右手で軽く叩く。
その動きに痛みは出なかったらしく、ガルドさんはいつも通り口元を緩めた。
「僕と同じですね」
「俺は二日だ」
「僕は三日です」
ガルドさんが得意げに二本の指を立てる。
「勝ったな」
「治るのが早い方が勝ちなんですか」
「そりゃそうだろ」
「では、僕も明日には治します」
「そういう話じゃねぇ」
立てていた指で額を押され、フードが僅かにずれた。
「治療役に言われた日数は守れ」
「ガルドさんもですよ」
「俺は大人だからいいんだよ」
「便利ですね、大人」
「お前も二年後には使えるぞ」
「覚えておきます」
並んでギルドの扉をくぐる。
革と鉄、紙と墨。それから酒場の厨房から、焼いた肉の香りが漂ってきた。
大広間は、普段と変わらない。
依頼票を確認するハンター。
受付へ並ぶ人。
机を囲み、今日の予定を話し合う集団。
僕たちへ何人かの視線が向いたものの、すぐに元の仕事へ戻っていく。
昨日ほど注目を浴びずに済みそうで、少しだけ安心した。
受付台では、アルナさんが書類を整理していた。
僕たちに気づくと茶色い猫耳がぴんと立ち、真っ先に僕の腰へ視線を向ける。
片刃剣を持っていないことを確認すると、その耳が僅かに緩んだ。
「おはようございます、ルキウスさん。ガルドさん」
「おはようございます」
「おう」
アルナさんは受付台の脇から出ると、僕たちの歩き方を確かめるように目を細めた。
「お二人とも、体調は?」
「問題ありません」
「肩は痛ぇが、動ける」
僕とガルドさんが続けて答える。
アルナさんの猫耳が、片方ずつ僕たちへ向いた。
「無理はしていませんか」
「していません」
「俺もしてねぇ」
アルナさんは僕の外套を見下ろし、腰回りをもう一度確かめる。
「武器は?」
「置いてきました」
「よろしいです」
今度はガルドさんへ顔を向け、僅かに鼻を動かした。
「酒は?」
「まだ飲んでねぇよ」
「本当ですか」
「朝から疑うなよ」
ガルドさんが顔をしかめる。
アルナさんは彼の息を確かめるように少しだけ顔を寄せ、それから一歩離れた。
「本当ですね」
「俺の信用、坊主より低くないか?」
「種類が違います」
「どう違うんですか」
尋ねると、アルナさんの猫耳が僕へ向く。
「ルキウスさんは、注意していないと依頼へ行こうとします」
「ガルドさんは?」
「注意していないとお酒を飲みます」
「どちらも信用されていませんね」
「お前と一緒にすんな」
ガルドさんの犬耳が、僕とは反対側へ向いた。
アルナさんは抱えていた書類を整え、受付を別の職員へ引き継ぐ。
「ギルドマスターがお待ちです。こちらへどうぞ」
三人で二階へ続く階段へ向かう。
大広間はいつも通りの騒がしさを保ったまま、僕たちへ気を向ける者はいなかった。
◆
ギルドマスター室へ入る。
大きな机。壁一面へ貼られた周辺地図。棚へ並べられた、何年分もの報告書。
机の上には北部一帯の地図が広げられ、その隣には複数の小瓶が並べられている。
どれも薄く濁った水で満たされていた。
「来たか。座ってくれ」
ギルドマスターが、机の上へ広がっていた書類を端へ寄せる。
ガルドさんと並んで椅子へ腰を下ろすと、アルナさんは僕の斜め後ろへ立ち、抱えてきた報告書を開いた。
「で、今日はどうして俺たちは呼び出されたんだ?」
ガルドさんが椅子へ深く腰を掛け、大きな犬耳をギルドマスターへ向ける。
ギルドマスターはすぐには答えず、机の端に置かれていた小さな呼び鈴を手元へ引き寄せた。
「大したことじゃない。まあ、そう急ぐな」
鈴を一度だけ鳴らす。
澄んだ音が部屋へ広がり、ほどなくして扉の外から返事が聞こえた。
「何か飲み物はいるか?」
「あ、では僕は温かい香草茶を」
「酒はないのか?」
ガルドさんが当然のように尋ねる。
ギルドマスターは手元の書類から顔を上げ、眉間へ深い皺を刻んだ。
「あるわけないだろう、馬鹿が」
その言葉に、ガルドさんがわざとらしく舌打ちする。
不満そうに伏せられた犬耳まで含めて、あまりにもガルドさんらしい。
口元から、少しだけ笑いが零れた。
「何笑ってんだ、坊主」
「いえ。ガルドさんらしいと思って」
「朝から酒の一杯も出せねぇ方がおかしいんだよ」
ガルドさんは椅子の背へ体重を預け、まだ納得できないらしく腕を組む。
「お前の基準でギルドを運営する気はない」
「少しは景気がよくなるかもしれねぇぞ」
「仕事にならなくなる方が先だ」
ギルドマスターが呆れたように息を吐く。
その横で、アルナさんの猫耳が会話に合わせて左右へ揺れていた。
ほどなくして、彼女が盆へ二つの杯を載せて戻ってくる。
僕の前には湯気の立つ香草茶。
ガルドさんの前には、冷たい果実水が置かれた。
「酒じゃねぇ」
「果実水です」
「見れば分かる」
「では、問題ありませんね」
アルナさんは何事もなかったように盆を脇へ抱える。
ガルドさんは何か言い返そうとして口を開いたものの、諦めたように杯を持ち上げた。
「俺の扱い、年々悪くなってねぇか」
「ガルドさんの行動が、年々分かりやすくなっているだけです」
「それ、俺が悪いって言ってるか?」
「はい」
「聞かなきゃよかった」
犬耳が力なく横へ倒れる。
また笑いそうになり、僕は香草茶へ口をつけて誤魔化した。
柔らかな香りと温かさが、喉から胸へゆっくりと落ちていく。
僕たちが一息ついたのを確かめてから、ギルドマスターは北部一帯の地図を机の中央へ引き寄せた。
「呼んだ理由は、先に伝えていた通りだ。昨日だけでは確認しきれなかった、雪原での行動と現場の状況を聞いておきたい」
「正式な報告ってわけか」
ガルドさんが杯を机へ戻す。
先ほどまでの軽い表情が少しだけ引き締まり、犬耳も地図へ向けられた。
「そういうことだ。難しく考える必要はない。覚えている範囲で構わん」
「分かりました」
ギルドマスターが地図上の街道へ指を置く。
僕たちはそこから、拠点へ向かうまでの経路を順番に説明していった。
どの道を通ったのか。
拠点へ近づくまでに、何を見たのか。
生存者を発見した場所。
救助信号を上げ、白い大型と接触するまでの流れ。
内容は、本当に大したことではなかった。
ギルドマスターが短く尋ね、僕とガルドさんが覚えていることを答える。
そのたびにアルナさんの筆が紙の上を走り、時折、聞き取った内容を確かめるように猫耳がぴくりと動いた。
話の流れが変わったのは、白い大型について説明していた時だった。
「その大型は、水に濡れていなかったか」
ギルドマスターが、不意にそう尋ねた。
――机の上の小瓶が、揺れた気がした。
思わず息を呑む。
まさしく、その通りだった。
「はい」
小瓶へ目を向けたまま頷く。
「雪原にいたのに、全身が濡れていました。傷口からも、血とは別に水が流れていて」
「潮臭かったな」
ガルドさんも杯から手を離し、表情を引き締める。
「寒さの中でも凍らなかった。あれが普通じゃねぇのは、俺でも分かる」
「……やはりか」
ギルドマスターは神妙な顔つきで腕を組んだ。
その視線が、机の上へ並べられた小瓶へ落ちる。
「何か知っているんですか」
「似た個体が、最近ほかの地域でも確認されている」
ギルドマスターは小瓶の一つを持ち上げ、僕たちの前へ置いた。
薄く濁った液体が、瓶の内側で静かに揺れる。
「種類も生息地も違う。だが、体内へ異常な量の水を宿し、傷口から潮臭い液体を流すという特徴は共通している」
「病気か何かですか?」
「まだ分からん」
ギルドマスターの太い指が、瓶の側面を一度だけ叩いた。
「ギルドでは、この現象を仮に『水憑き』と呼んでいる」
「水憑き……」
水に憑かれたもの。
白い大型の姿を思い返すと、妙に納得できる名前だった。
「感染するものなのか?」
「それも不明だ。外部から何かを与えられたのか、別の原因があるのか……現時点では、どれも推測の域を出ない」
ギルドマスターは少しだけ考え込むように小瓶を見つめた。
やがて短く息を吐き、瓶を元の位置へ戻す。
「まあ、その話は一旦これくらいにしておこう。何せ分かっていないことが多すぎる」
そう言って、机の上へ広げられていた地図を畳み始める。
言葉通り、これ以上話しても答えは出ないのだろう。
「ただし、水憑きについては現時点で口外するな。原因も危険性も分からないまま噂だけが広がれば、余計な混乱を招く」
「分かりました」
「俺も黙っておく」
ガルドさんが杯を持ち上げ、そのまま果実水を飲み干す。
アルナさんも報告書の最後へ筆を走らせ、静かに紙を閉じた。
「報告は以上だ。助かった」
「はい」
これで終わりらしい。
香草茶の残りを飲み、杯を机へ戻す。
椅子へ手をついて立ち上がろうとすると、隣でもガルドさんが包帯の巻かれた肩を庇いながら腰を浮かせた。
「待て、ルキウス」
ギルドマスターの声に、動きを止める。
「まだ何か?」
「お前には、もう一つ話がある」
立ち上がりかけた身体を、もう一度椅子へ戻す。
何か報告に漏れがあっただろうか。
雪原の向こうで見た人影についても、昨日のうちに伝えている。
思い返しても、ほかに大きな見落としは浮かばなかった。
ギルドマスターは僕の顔をしばらく見つめたあと、机の引き出しへ手を伸ばした。
「ランク五から先の昇格条件については知っているな」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が伸びた。
「……はい」
――ランク五。
そこから先は、ランク四までとは扱いが大きく異なる。
規定数の依頼をこなせばいいわけでも、決められた試験へ合格すればいいわけでもない。
膨大な経験。
成し遂げた偉業。
純粋な強さ。
何か一つに明確な基準があるわけではなく、ギルドがその者の実績と能力を総合して判断する。
だからこそ、全ハンターの八割ほどがランク四以下に留まっている。
逆に言えばランク5以上のハンターは文字通り別格として見られる……そんなランクだ。
ギルドマスターが、なぜ今その話をするのか。
すぐには分からなかった。
「二年前、お前はランク一としてこのギルドへ登録した」
「はい」
ギルドマスターは引き出しから何枚もの書類を取り出し、机の上へ重ねていく。
見覚えのある依頼名が、紙の端へいくつも記されていた。
「それから採取、調査、護衛、討伐。依頼の種類を選ばず、地道に実績を積み重ねてきた」
「……はい」
「決して派手な依頼ばかりではない。むしろ、お前が受けてきたのは誰もが避けるような小さな仕事が多い」
薬草の採取。
荷運び。
逃げた家畜の捜索。
街道沿いの小型モンスターの駆除。
どれも、英雄譚には残らないような仕事だった。
それでも、困っている人がいるならと思い、一つずつ受けてきた。
「失敗もある」
「……はい」
ギルドマスターが一枚の報告書を持ち上げる。
端へ押された赤い印に、見覚えがあった。
「負傷による中断も多い」
「はい」
「多すぎる」
「すみません」
背後で、アルナさんの猫耳が大きく動いた気配がした。
振り返らなくても、強く同意していることだけは分かる。
「だが、同じ失敗は減っている」
報告書が机へ戻される。
ギルドマスターの指が、積み重なった依頼記録の上をゆっくりと滑った。
「無謀に踏み込んでいた者が、周囲を見るようになった。
自分だけで動いていた者が、仲間へ頼ることを覚えた。
倒すことばかり考えていた者が、守るべきものを優先するようになった」
ギルドマスターの瞳に僕が映る。
「一歩ずつ。しかし確かにお前は強くなっていっている」
胸の奥へ、一つずつ言葉が落ちてくる。
自分では、変わったつもりなどなかった。
ただ、できなかったことを覚えた。
失敗したから、次は同じ失敗をしないようにした。
それだけだった。
「二年前、お前は白い大型から逃げたな」
「はい」
あの日の雪原が、瞼の裏へ蘇る。
濁った青白い瞳。
何もできず、ただ逃げた自分。
「そして今回、お前は仲間と共に同じ個体へ立ち向かい、生存者三名を守ったまま討ち取った」
今度は、ガルドさんの背中が浮かぶ。
白い爪を止める大盾。
大きく開いた傷口。
そこへ何度も通した、僕の刃。
「俺がいなきゃ、坊主一人では無理だった」
ガルドさんが椅子へ背を預け、包帯の巻かれた肩を軽く押さえる。
「だが、逆も同じだ。俺だけでも倒せなかった」
「その通りだ」
ギルドマスターは短く頷く。
「一人で届かない相手へ、仲間となら届く。それを理解し、実行できることもハンターの力だ」
僕一人では勝てなかった。
ガルドさん一人でも倒せなかった。
だから、二人で戦った。
それを特別なことだとは思っていなかった。
できないことを任せ、できることをしただけだ。
「経験だけなら、まだ足りない。純粋な強さだけを見れば、上位の者には及ばない」
ギルドマスターの声は、決して甘くなかった。
事実を一つずつ並べるように、静かに続く。
「だが、二年間積み重ねてきた実績。危険の中で生存者を見つけた観察力。大型を拠点から引き離した判断。そして、格上の個体を仲間と討ち取った功績」
「……」
「そのすべてを踏まえ、審議を行った」
ギルドマスターが、再び机の引き出しへ手を入れる。
今度は書類ではなかった。
取り出されたのは、細長い黒い箱。
目立つ装飾はなく、銀色の留め具だけが光を反射している。
箱が机の中央へ置かれた。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
けれど、考えがまとまるより先に打ち消す。
そんなはずはない。
僕はまだ二年と少ししか活動していない。
できないことも多い。
今回の大型だって、ガルドさんがいなければ何もできなかった。
ギルドマスターの手が、黒い箱へ置かれる。
「審議の結果、ギルドはお前が次の段階へ進むに値すると判断した」
銀色の留め具へ、太い指が掛かった。
――かちり。小さな音が、やけに大きく聞こえた。
蓋が、ゆっくりと持ち上がる。
黒い布の上へ、一枚のギルドカードが収められていた。
銀色の薄い金属板。
形も、大きさも、今胸元へ入れているものとほとんど変わらない。
違うのは、表面に刻まれた線。
一。二。三。四。
その下に、もう一本。
――五本目。
何度見ても、線は消えなかった。
息の仕方を忘れたように、胸が止まる。
目の前にあるものを理解しているはずなのに、頭がそれを受け入れてくれない。
「ルキウス」
名前を呼ばれる。
返事をしなければ。
そう思うのに、喉がうまく動いてくれなかった。
「これまでの実績、今回の救助及び討伐功績をもって――お前を本日付でランク五へ昇格させる」
言葉は、確かに聞こえた。
けれど、その意味が胸へ落ちてくるまでに、随分と時間が掛かった。
「……僕が?」
ようやく出たのは、それだけだった。
「お前以外に誰がいる」
「でも……」
視線を黒い箱へ戻す。
五本の線が刻まれたカードは、変わらずそこにあった。
夢にも思っていなかった。
遠い場所だと思っていた。
いつか辿り着ければいいと考えることすら、今の僕には早いと思っていた。
そこへ、自分の名前が並ぶ。
「何かの間違いでは」
「審議を経て決定したことだ。間違いではない」
ギルドマスターは表情を変えず、黒い箱を僕の方へ押し出した。
机を擦る音と共に、五本の線が少しずつ近づいてくる。
それでも、手を伸ばせなかった。
「アルナさん」
斜め後ろを振り返る。
アルナさんの猫耳は真っすぐに立ち、抱えた書類へ指を添えていた。
受付台ではあまり見せない、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「本当なんですか」
「はい」
アルナさんは迷わず、一度だけ強く頷いた。
「おめでとうございます、ルキウスさん」
その言葉を聞いても、まだ信じきれない。
今度はガルドさんを見る。
ガルドさんは椅子へ座ったまま、犬耳をこちらへ向けていた。
「ガルドさん」
「何だよ」
「僕……ランク五になるそうです」
「聞いてたよ」
「本当に?」
「何度聞くんだ」
呆れた声だった。
けれど、口元は大きく緩んでいる。
「受け取れ」
ギルドマスターの声に、膝へ置いていた両手を持ち上げる。
指先が震えていた。
白い大型を前にした時とは違う。
恐怖ではない。
嬉しいはずなのに、胸の奥が苦しくて、うまく呼吸ができない。
机の上へ手を伸ばす――けれどカードへ触れる直前で、また動きが止まった。
「どうした」
「……少し、怖くて」
「カードがか?」
「受け取ったら、本当になってしまう気がして」
ギルドマスターが僅かに眉を上げる。
「受け取らなくても、お前はもうランク五だ」
「そうなんですか」
「そういうものだ」
ガルドさんが吹き出した。
アルナさんも口元へ手を添え、笑いを堪えている。
恥ずかしい。
けれど、その笑い声を聞いているうちに、胸の強張りが僅かに解けた。
もう一度、手を伸ばす。
指先がカードへ触れた。
――冷たい。
いつものギルドカードと変わらない、金属の冷たさ。
指を差し込み、黒い布の上からゆっくりと持ち上げる。
――軽い。
重さも、今までのカードとほとんど変わらなかった。
それなのに両手の上へ載せた瞬間、腕ごと沈んでしまいそうなほど重く感じられた。
これまで終わらせてきた依頼。
失敗した日。
怪我をした日。
助けられなかった日。
そして、助けることができた命。
すべてが、この小さな金属板へ詰まっているような気がした。
「……五本ある」
思わず声が漏れる。
数え間違いではない。
指先で、一つずつ線をなぞる。
一。二。三。四。五。
本当に――五本ある。
胸の奥から、じわじわと熱が広がっていく。
驚きが消えたわけではない。
まだ夢の中へいるような、足元のない感覚も残っている。
けれど、指先へ触れる線は本物だった。
「アルナさん」
「はい」
「僕、ランク五です」
「はい」
アルナさんの猫耳が、嬉しそうに小さく揺れた。
「ガルドさん」
「何だ」
「ランク五になりました」
「見りゃ分かる」
「僕が」
「そうだよ」
何度聞いても、同じ答えが返ってくる。
そのたびに、胸の奥へ溜まっていた何かが、少しずつ形を変えていった。
信じられない。
嬉しい。怖い。
僕はまだ、先へ進める。
たくさんの感情が一度に込み上げ、どれを先に言葉へすればいいのか分からなかった。
「……やった」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
けれど、一度口へ出すと止められない。
「やりました」
「ああ」
「僕、本当にランク五になりました」
「おう」
ガルドさんが笑いながら、僕のフードへ大きな手を置く。
二度、三度と乱暴に撫でられ、フードが目元までずれた。
「夢では?」
「しつこいな!」
さらに強く頭を掻き回される。
アルナさんが慌てて止めようとしていたが、僕はカードから目を離せなかった。
口元が、勝手に緩んでいく。
隠そうとしても、どうにもならなかった。
嬉しい。
ようやく、はっきりとそう思えた。
責任が増える。
危険な依頼も増える。
今の僕では足りないことも、まだいくつもある。
それでも。
二年前、何者でもなかった僕が。
門前で百ソルすら持っていなかった僕が。
今、この場所にいる。
「嬉しいです」
五本の線が刻まれたカードを、胸元へ引き寄せる。
自分の声が、少しだけ震えていた。
「……とても」
アルナさんが書類を胸元へ寄せ、柔らかく目を細める。
「私が最初のカードをお渡しした時は、ランク一でした」
「覚えています」
あの日の受付台。
何度も説明を聞き返しながら、受け取ったばかりのカードを見つめていた。
「説明を聞きながら、ずっとカードを見ていましたね」
「嬉しかったので」
アルナさんの猫耳が、こちらへ少しだけ傾く。
「今日も、同じ顔をしています」
「顔が見えるんですか」
「雰囲気です」
「便利ですね、雰囲気」
「ルキウスさんは、分かりやすいですから」
今日は隠せていない自覚がある。
たぶん、フードがなくても同じだっただろう。
「それと、報酬の話だが」
ギルドマスターの声に、カードから顔を上げる。
机の横から数枚の書類が取り出され、僕たちの前へ並べられた。
「今回の報酬は三つだ。北部簡易拠点の現地調査に対する基本報酬。生存者三名の発見及び救助に対する追加報酬。そして、大型個体の討伐報酬」
「はい」
ギルドマスターが、それぞれの金額を読み上げていく。
一つ目。二つ目。三つ目。
頭の中で足そうとして、途中で分からなくなった。
最後だけ、桁が一つ多かったような気がする。
「……もう一度、お願いします」
「聞こえなかったか?」
「聞こえました。ですが、最後の数字が少し多かったような」
ギルドマスターは書類へ目を落とし、もう一度同じ金額を告げた。
「気のせいではない」
「間違いでは?」
「今日はそればかりだな」
ガルドさんが、呆れたように犬耳を傾ける。
「昇格も報酬も、間違いじゃねぇよ」
「でも、こんなに」
「大型一体を倒したんだぞ。安い方が困るだろ」
ガルドさんは机の上の書類へ身を乗り出し、記された金額へ目を走らせた。
「倒したのは、僕一人ではありません」
「ああ。討伐報酬は俺とお前で分ける。調査と救助の功績分は、それぞれに支払われる」
ギルドマスターが一枚目の書類を指で押さえる。
「大型の素材については、水憑きの調査が終わるまでギルドが保管する。通常なら素材の売却分も討伐者へ還元されるが、今回は調査協力費を別途支払う」
「素材は使えないんですか」
「現時点ではな。肉も皮も、通常の個体と同じ安全性があるとは限らない」
「分かりました」
報酬は、このあと受付で受け取れるらしい。
書類へ記された金額をもう一度見る。
五本の線と同じで、目を離した途端に数字が変わってしまいそうだった。
「これだけあれば、防具を一式替えられるな」
ガルドさんが書類から顔を上げる。
「今のものも、まだ使えます」
「大型の爪で裂かれてるだろうが」
「縫ってあります」
「縫えば何でも元通りになると思うな」
ガルドさんは僕の外套へ残る縫い目を指で示した。
「外套は使えています」
「防具の話をしてんだよ」
「報酬は、できれば貯めようかと」
「何のために?」
犬耳が、呆れたように横へ倒れる。
「今後、必要になるかもしれないので」
「今必要なんだよ。武器と防具は命を預ける道具だ。金を残して本人が死んだら意味がねぇ」
「ですが、全部使う必要は」
「全部とは言ってねぇ。必要な分を使えと言ってる」
言っていることは正しい。
それでも、大きな金額を一度に使うのは少し落ち着かなかった。
エルドランへ来たばかりの頃、百ソルを持っていなかったことを今でも覚えている。
「その件については、私からもお話しするつもりでした」
斜め後ろから、アルナさんの声がした。
振り返ると、すでに別の紙へ何かを書き込んでいる。
「信頼できる防具店を何軒か選びます。怪我が治ったら、必ず見に行ってください」
「修理を頼む店ですか」
「新調する店です」
アルナさんは筆を止め、真っすぐに僕を見る。
「今の防具を見てもらってからでも」
「新調する店です」
「……はい」
選択肢がない。
アルナさんの猫耳は穏やかに立っていたが、反論を受け入れる様子もなかった。
「宿代と食費の分は残してください」
「当然です」
「それなら安心しました」
「安心する基準がおかしいですよ」
アルナさんが小さく息を吐く。
ガルドさんは隣で肩を揺らして笑っていた。
「報酬の配分や装備について考えるのも、ハンターの仕事だ」
ギルドマスターが書類をまとめる。
「必要な装備や物資を自分で判断し、次の依頼へ備えろ」
「はい」
新しいギルドカードへ、指先で触れる。
受けられる依頼が増える。
得られる報酬も増える。
けれど、その分だけ必要になるものも、背負うものも増えていくのだろう。
「話は以上だ」
ギルドマスターが報告書を閉じる。
「今日は依頼を受けるな。手続きと報酬の受け取りが終わったら休め」
「分かりました」
「ガルドもだ」
「俺まで?」
ガルドさんが、自分の胸元を指差す。
「肩を治してから働け」
「運送なら右腕だけでも」
「休め」
「……はい」
犬耳が力なく伏せられる。
どうやら今日から仕事へ戻るつもりだったらしい。
ギルドマスターの視線が、部屋の扉へ向いた。
「外の連中を、あまり待たせるな」
「外?」
何のことか尋ねても、ギルドマスターは書類を片づけるだけだった。
「行けば分かる」
五本の線が刻まれたカードを、外套の内側へ大切に収める。
立ち上がると、金属板が胸元へ触れて小さな音を立てた。
まだ、すべてを信じられたわけではない。
それでも胸の奥へ広がる熱は、もう抑えられそうになかった。
◆
ギルドマスター室を出る。
二階の廊下へ足を踏み出した途端、大広間から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
普段の騒がしさとは少し違う。
杯を打ち鳴らす音。
酒樽の栓が抜かれる音。
誰かが歌い始め、すぐに別の誰かから下手だと怒鳴られている。
「朝から随分と騒がしいですね」
「いつものことだろ」
「そうでしょうか」
ガルドさんも首を傾げている。
どうやら彼も、何も聞かされていないらしい。
アルナさんだけは、前を向いたまま茶色い猫耳を落ち着かなさそうに動かしていた。
「アルナさん」
「何ですか」
「何か知っていますね」
「知りません」
返事が少し早い。
僕が猫耳を見ると、アルナさんは片手でそっと耳を押さえた。
「耳が動いています」
「気のせいです」
「手で隠しましたよね」
「早く下りましょう」
背中を軽く押され、階段を下りていく。
「わ、わわわ。ちょ、アルナさん。――って、え?」
大広間へ顔を出した瞬間、酒と焼いた肉の匂いが押し寄せてきた。
いつもの机は端へ寄せられ、その上には大皿へ積まれた肉や黒パン、炙った野菜が並んでいる。
酒樽の栓はすでに開けられ、あちこちで杯が打ち鳴らされていた。
宴は――とっくに始まっていた。
角兎亭の女将さんは、太い腕で料理の大皿を抱えている。
狐耳を揺らす魚屋のラッツさんは、炙ったリーヴァウォを配っていた。
マリカさんとボルドさんは酒樽の横で笑い、ギルド職員まで受付台の奥で果実水の杯を持っている。
さらに、その輪の中には見覚えのある人たちがいた。
「ルキウスさん!」
杖を片手に立つミミルさんが、こちらへ大きく手を振る。
その隣では、以前助けたハンターたちが杯を持ち、無事な姿で笑っていた。
誰かが僕たちに気づく。
その視線が次々と広がり、宴の輪から声が飛んできた。
「主役がやっと来たぞ!」
「遅ぇぞ、ガルド!」
「ルキウス、こっちに料理があるぞ!」
「五本目を見せてくれ!」
何が起きているのか理解できず、階段の前で足が止まる。
「……皆さん、知っていたんですか」
「昨日のうちに準備してたんだよ!」
女将さんが大皿を机へ置き、豪快に笑った。
「だから腹を空かせてこいって言ったのさ」
「教えてくれてもよかったのでは」
「それじゃ面白くないだろ」
「朝食を減らしてくれても」
「それは別の話だよ」
やはり、朝食は減らしてもらえなかったらしい。
マリカさんが酒樽から杯を満たし、ガルドさんへ突き出す。
「ほらよ。無事に帰った祝いだ!」
「おう、気が利くじゃねぇか」
ガルドさんが右手を伸ばす。
けれど、渡す直前でマリカさんは杯を引いた。
「いやでも、けが人に酒を飲ませるのはご法度か?」
からかうように杯を揺らす。
酒が縁から少しだけこぼれた。
ガルドさんの犬耳が、勢いよく立つ。
「ばかが! ケガも病気も酒飲んで直すんだよ!」
杯を奪い取ると、包帯の巻かれた肩も忘れたように高く掲げる。
そのまま宴の輪へ踏み込み、ボルドさんの隣へ肩を並べた。
「おら、どけ! 今日の主役が来たぞ!」
「自分で言うのかよ!」
「大型の突進を止めた男だぞ! もっと酒を寄越せ!」
「肩が治ってからにしろ!」
笑い声に包まれながら、ガルドさんの姿が人の輪へ飲み込まれていく。
階段の前には、僕とアルナさんだけが残された。
「……行ってしまいました」
「ガルドさんですから」
アルナさんは困ったように笑い、酒杯を掲げる犬耳を見つめた。
「あとで取り上げます」
「今ではないんですか」
「今日だけは、一杯くらいなら」
茶色い猫耳が、宴の音へ合わせるように揺れる。
その表情は受付台に立っている時よりも、少しだけ柔らかかった。
「皆さん、本当に知っていたんですね」
「はい。正式な決定が出たのは、昨日の夕方です」
アルナさんは僕の胸元へ視線を向ける。
外套の下にしまった、新しいギルドカード。
見えていないはずなのに、その場所を正確に捉えていた。
「ルキウスさんには、絶対に伝えないようお願いしました」
「どうしてですか」
「驚いてほしかったので」
猫耳が、少しだけ伏せられる。
「……迷惑でしたか?」
「いえ」
すぐに首を横へ振る。
迷惑なはずがない。
信じられないくらい嬉しかった。
カードを受け取ったことも。
皆がそれを知り、こうして待っていてくれたことも。
「驚きました」
「よかったです」
「まだ、少し信じられていません」
「カードを見ますか?」
「さっきから何度も見ています」
胸元へ手を添える。
指先へ、外套越しに硬い感触が伝わった。
「では、今度は私が確認しましょうか」
「消えていたら教えてください」
「消えませんよ」
アルナさんが小さく笑う。
「改めて、おめでとうございます。ルキウスさん」
「ありがとうございます」
五本の線が刻まれたカードは、変わらずそこにあった。
「二年前、僕へ最初のカードを渡してくれたのも、アルナさんでした」
「覚えています」
「僕もです」
「説明を三回しました」
「そこまで覚えている必要はありません」
「同じ質問を三回されましたから」
アルナさんの猫耳が、楽しそうに揺れる。
「でも、あの時のルキウスさんが、こんなに早くここまで来るとは思っていませんでした」
「僕も思っていませんでした」
答えると、アルナさんは僕を真っすぐに見上げた。
「本当に、頑張りましたね」
その言葉は、ギルドマスターから評価を告げられた時とは違う形で胸へ入ってきた。
――頑張った。
自分では、まだ足りないとばかり思っていた。
けれど、二年間ずっと見ていたアルナさんがそう言うのなら、少しくらいは認めてもいいのかもしれない。
「はい」
今度は、否定しなかった。
「頑張りました」
アルナさんの目が僅かに見開かれる。
すぐに、その表情が嬉しそうな笑みに変わった。
「ルキウスさん!」
宴の輪から、もう一度名前を呼ばれる。
ミミルさんが杖を掲げ、その隣で何人ものハンターが手招きしていた。
「こっちへ来てください!」
「料理がなくなるぞ!」
「新しいカードを見せろ!」
「白い大型の話も聞かせてくれ!」
一度に呼ばれ、どこへ向かえばいいのか分からない。
「すごいですね」
「ルキウスさんを待っていたんですから」
「でも、どこから行けば」
「こっちですよ!」
ミミルさんが人の輪を抜け、こちらへ歩いてくる。
杖を脇へ抱え直すと、空いた手で僕の右手を掴んだ。
「皆さん、ずっと待っていたんです」
「ミミルさん、歩いて大丈夫なんですか」
「ルキウスさんに心配されたくありません」
「それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
ミミルさんは笑いながら、僕の手を引く。
反対側からは、以前助けたハンターの一人が外套の袖を掴んだ。
「ほら、早く来い!」
「カードを見せろって!」
「料理も残してあるぞ!」
「朝食をかなり食べたのですが」
「宴は別腹だ!」
女将さんと同じことを言われている気がする。
振り返る。
アルナさんは階段の前に立ち、こちらを見ていた。
茶色い猫耳が楽しそうに揺れている。
「アルナさんも」
「はい。すぐに行きます」
アルナさんは受付台へ置かれた書類を指し、それから宴の輪へ視線を向けた。
「先に楽しんでいてください」
「絶対に来てくださいね!」
「はい。約束です」
柔らかな笑みが返ってくる。
手を引かれ、人の輪へ入っていく。
皿を渡され、果実水の杯を押しつけられ、次々に声を掛けられる。
少し離れたところでは、ガルドさんがすでに二杯目へ手を伸ばし、アルナさんの猫耳が鋭く立っていた。
騒がしい。
ひどく騒がしい。
それでも、この場所から離れたいとは思わなかった。
二年前。
この街へ来た時、僕は一人だった。
知っている人も。
帰りを待ってくれる人も。
こうして手を引いてくれる人もいなかった。
今は違う。
胸元では、五本の線が刻まれたカードが、歩くたびに小さく外套へ触れている。
英雄には、まだ遠い。
きっとこれからも、何度も届かないと思うのだろう。
それでも。
憧れているだけだった僕は、いつの間にか一人で歩かなくなっていた。
掴まれた手を握り返す。
そのまま僕は、笑い声に満ちた宴の輪へ踏み込んだ。
胸元で、五本目の印が小さく鳴った。
◆
第二章『英雄を目指した少年』感。
これにて、
『駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~』
第二章は完結となります!
まず初めに。
ここまで読んでくださった読者様。
評価、感想をくれる方々。誤字脱字衍字報告をしてくださる方。
本当に、ありがとうございます。皆様のおかげで、ここまで楽しくルキウスの物語を書き続けていられます。
次話からはいよいよ物語も転機――第三章に入ります。
重ねてになりますが、ここまで読んでくださった読者様、本当にありがとうござます。
そして、もしよろしければ次話からも楽しんで頂ければ、とっっっても嬉しいです。