駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 最終話『少年は五つ目の印を受け取る』

 

 ◆

 

 翌朝。

 目を覚ました僕は、寝台へ横になったまま右手を開いた。

 指を曲げ、手首を回す。次に腕を持ち上げ、肩をゆっくりと動かしてみた。

 深く息を吸うと右脇腹が僅かに引きつったものの、昨日ほどではない。両脚にも重さは残っているが、ギルドまで歩くくらいなら問題なさそうだった。

 

「……大丈夫そうだ」

 

 上体を起こし、寝台の端へ足を下ろす。

 壁際には、鞘へ収めた片刃剣が立てかけられていた。

 いつものように手を伸ばしかけ……昨日、武器は持ってくるなと言われたことを思い出す。

 

 ギルドマスター。

 アルナさん。

 治療役。

 

 それから、女将さんにも念を押されていた。

 

「置いていこう」

 

 誰もいない部屋で、念のため声に出した。

 言葉にしておかなければ、部屋を出る直前に持っていきそうな気がしたからだ。

 

 フード付きの外套を羽織り、階段を下りる。

 朝の角兎亭には、肉と豆を煮込んだ匂いが満ちていた。大鍋の前に立つ女将さんは、浮かんできた角兎肉を大きな匙で押し戻している。

 僕に気づくと、その視線が頭から足元までゆっくりと動いた。

 

「動けるのかい」

「はい。昨日よりは」

 

 女将さんは僕の腰へ片刃剣がないことを確かめ、口元を大きく緩めた。

 

「偉いじゃないか。言われた通りに武器は持っていないね」

「昨日、何度も言われたので」

 

 そう言うと、女将さんは豪快に笑いながら僕の前へ皿を置いてくれる。

 

「普通は、言われなくても武器は握らないんだけどね」

 

 目の前に置かれた器には、いつもの朝食より明らかに多く角兎肉が入っていた。

 黒パンが二つ。

 炙った野菜まで、普段の倍近く盛られている。

 

「随分と多くありませんか」

「今日はギルドマスターに呼ばれてるんだろ?」

「はい。先日の雪原について、詳しい報告をしてほしいそうです」

 

 女将さんは僕の返事を聞きながら、煮込みの隣へ肉の載った小皿まで追加した。

 

「だったら腹へ入れていきな。話の途中で倒れられたら、縁起が悪いよ」

「空腹では倒れません」

「傷だらけでは帰ってくるくせに、妙なところで自信があるね」

「……いただきます」

 

 これ以上は増やされそうだった。

 器を両手で持ち上げ、煮込みを口へ運ぶ。温かな汁が身体の内側へ落ちるたび、寝起きの重さが少しずつ抜けていった。

 

 今日聞かれるのは、北部簡易拠点までの経路や現場の状況についてだろう。

 戦闘のおおまかな経緯は伝えているものの、調査報告としては足りない部分も多い。

 白い大型が纏っていた水についても、詳しく聞かれるかもしれなかった。

 

 報告する内容を頭の中で整理しながら、どうにか皿を空にする。

 さすがに腹が重い。

 今日は安静にしろと言われているのだから、これだけ食べれば昼食は必要ない気がした。

 

「ごちそうさまでした」

「残さなかったね。偉いじゃないか」

「残したら、さらに増やされそうだったので」

「よく分かってるじゃないか」

 

 女将さんは笑いながら空いた器を回収する。

 僕は席を立ち、食堂の扉へ向かった。

 

「行ってきます」

「ああ」

 

 扉へ手を伸ばしたところで、背中から声が飛んでくる。

 

「昼には腹を空かせてな」

 

 取っ手へ触れた手が止まった。

 

「……昼ですか?」

「そうだよ」

「今、これだけ食べたばかりですが」

「動けば空くさ」

「今日は安静にするよう言われています」

「なら、安静にしながら空かせな」

 

 難しいことを言われている。

 

 女将さんから、昼までに腹を空かせろなどと言われたことは一度もなかった。

 朝食を残すなとは何度も言われたが、次の空腹まで指定されたのは初めてだ。

 

「何かあるんですか」

「さあねぇ」

 

 女将さんは大鍋へ向き直り、何事もなかったように匙を動かし始めた。

 太い肩が僅かに揺れている。

 笑いを堪えているようにも見えた。

 

「……分かりました」

 

 尋ねても教えてくれそうにない。

 小さな疑問を残したまま、角兎亭をあとにした。

 

 ◆

 

 朝のエルドランは、すでに多くの人で賑わっていた。

 荷車が石畳を進み、露店から焼きたてのパンと香辛料の匂いが漂ってくる。

 昨日の帰還騒ぎも落ち着いたのか、今日は足を止められることもなくギルドへ向かえた。

 

 建物が見えてきたところで、横の通りから大柄な人影が現れる。

 肩へ外套を掛け、大きな犬耳を朝風に揺らしていた。

 

「ガルドさん」

「おう。早いな、坊主」

「ガルドさんも」

 

 ガルドさんは、自分が泊まっている南通りの宿から来たらしい。

 短い髪はまだ僅かに湿っており、傷ついた肩には新しい包帯が巻かれていた。左腕を大きく動かさないよう気をつけてはいるものの、歩き方に問題はなさそうだった。

 

「肩は大丈夫ですか」

「宿を出る前に治療役へ見せてきた。あとは無茶せず休めとよ」

 

 包帯の巻かれた肩を、右手で軽く叩く。

 その動きに痛みは出なかったらしく、ガルドさんはいつも通り口元を緩めた。

 

「僕と同じですね」

「俺は二日だ」

「僕は三日です」

 

 ガルドさんが得意げに二本の指を立てる。

 

「勝ったな」

「治るのが早い方が勝ちなんですか」

「そりゃそうだろ」

「では、僕も明日には治します」

「そういう話じゃねぇ」

 

 立てていた指で額を押され、フードが僅かにずれた。

 

「治療役に言われた日数は守れ」

「ガルドさんもですよ」

「俺は大人だからいいんだよ」

「便利ですね、大人」

「お前も二年後には使えるぞ」

「覚えておきます」

 

 並んでギルドの扉をくぐる。

 革と鉄、紙と墨。それから酒場の厨房から、焼いた肉の香りが漂ってきた。

 

 大広間は、普段と変わらない。

 依頼票を確認するハンター。

 受付へ並ぶ人。

 机を囲み、今日の予定を話し合う集団。

 

 僕たちへ何人かの視線が向いたものの、すぐに元の仕事へ戻っていく。

 昨日ほど注目を浴びずに済みそうで、少しだけ安心した。

 

 受付台では、アルナさんが書類を整理していた。

 僕たちに気づくと茶色い猫耳がぴんと立ち、真っ先に僕の腰へ視線を向ける。

 片刃剣を持っていないことを確認すると、その耳が僅かに緩んだ。

 

「おはようございます、ルキウスさん。ガルドさん」

「おはようございます」

「おう」

 

 アルナさんは受付台の脇から出ると、僕たちの歩き方を確かめるように目を細めた。

 

「お二人とも、体調は?」

「問題ありません」

「肩は痛ぇが、動ける」

 

 僕とガルドさんが続けて答える。

 アルナさんの猫耳が、片方ずつ僕たちへ向いた。

 

「無理はしていませんか」

「していません」

「俺もしてねぇ」

 

 アルナさんは僕の外套を見下ろし、腰回りをもう一度確かめる。

 

「武器は?」

「置いてきました」

「よろしいです」

 

 今度はガルドさんへ顔を向け、僅かに鼻を動かした。

 

「酒は?」

「まだ飲んでねぇよ」

「本当ですか」

「朝から疑うなよ」

 

 ガルドさんが顔をしかめる。

 アルナさんは彼の息を確かめるように少しだけ顔を寄せ、それから一歩離れた。

 

「本当ですね」

「俺の信用、坊主より低くないか?」

「種類が違います」

「どう違うんですか」

 

 尋ねると、アルナさんの猫耳が僕へ向く。

 

「ルキウスさんは、注意していないと依頼へ行こうとします」

「ガルドさんは?」

「注意していないとお酒を飲みます」

「どちらも信用されていませんね」

「お前と一緒にすんな」

 

 ガルドさんの犬耳が、僕とは反対側へ向いた。

 

 アルナさんは抱えていた書類を整え、受付を別の職員へ引き継ぐ。

 

「ギルドマスターがお待ちです。こちらへどうぞ」

 

 三人で二階へ続く階段へ向かう。

 大広間はいつも通りの騒がしさを保ったまま、僕たちへ気を向ける者はいなかった。

 

 ◆

 

 ギルドマスター室へ入る。

 大きな机。壁一面へ貼られた周辺地図。棚へ並べられた、何年分もの報告書。

 机の上には北部一帯の地図が広げられ、その隣には複数の小瓶が並べられている。

 どれも薄く濁った水で満たされていた。

 

「来たか。座ってくれ」

 

 ギルドマスターが、机の上へ広がっていた書類を端へ寄せる。

 ガルドさんと並んで椅子へ腰を下ろすと、アルナさんは僕の斜め後ろへ立ち、抱えてきた報告書を開いた。

 

「で、今日はどうして俺たちは呼び出されたんだ?」

 

 ガルドさんが椅子へ深く腰を掛け、大きな犬耳をギルドマスターへ向ける。

 ギルドマスターはすぐには答えず、机の端に置かれていた小さな呼び鈴を手元へ引き寄せた。

 

「大したことじゃない。まあ、そう急ぐな」

 

 鈴を一度だけ鳴らす。

 澄んだ音が部屋へ広がり、ほどなくして扉の外から返事が聞こえた。

 

「何か飲み物はいるか?」

「あ、では僕は温かい香草茶を」

「酒はないのか?」

 

 ガルドさんが当然のように尋ねる。

 ギルドマスターは手元の書類から顔を上げ、眉間へ深い皺を刻んだ。

 

「あるわけないだろう、馬鹿が」

 

 その言葉に、ガルドさんがわざとらしく舌打ちする。

 不満そうに伏せられた犬耳まで含めて、あまりにもガルドさんらしい。

 口元から、少しだけ笑いが零れた。

 

「何笑ってんだ、坊主」

「いえ。ガルドさんらしいと思って」

「朝から酒の一杯も出せねぇ方がおかしいんだよ」

 

 ガルドさんは椅子の背へ体重を預け、まだ納得できないらしく腕を組む。

 

「お前の基準でギルドを運営する気はない」

「少しは景気がよくなるかもしれねぇぞ」

「仕事にならなくなる方が先だ」

 

 ギルドマスターが呆れたように息を吐く。

 その横で、アルナさんの猫耳が会話に合わせて左右へ揺れていた。

 

 ほどなくして、彼女が盆へ二つの杯を載せて戻ってくる。

 僕の前には湯気の立つ香草茶。

 ガルドさんの前には、冷たい果実水が置かれた。

 

「酒じゃねぇ」

「果実水です」

「見れば分かる」

「では、問題ありませんね」

 

 アルナさんは何事もなかったように盆を脇へ抱える。

 ガルドさんは何か言い返そうとして口を開いたものの、諦めたように杯を持ち上げた。

 

「俺の扱い、年々悪くなってねぇか」

「ガルドさんの行動が、年々分かりやすくなっているだけです」

「それ、俺が悪いって言ってるか?」

「はい」

「聞かなきゃよかった」

 

 犬耳が力なく横へ倒れる。

 また笑いそうになり、僕は香草茶へ口をつけて誤魔化した。

 柔らかな香りと温かさが、喉から胸へゆっくりと落ちていく。

 

 僕たちが一息ついたのを確かめてから、ギルドマスターは北部一帯の地図を机の中央へ引き寄せた。

 

「呼んだ理由は、先に伝えていた通りだ。昨日だけでは確認しきれなかった、雪原での行動と現場の状況を聞いておきたい」

「正式な報告ってわけか」

 

 ガルドさんが杯を机へ戻す。

 先ほどまでの軽い表情が少しだけ引き締まり、犬耳も地図へ向けられた。

 

「そういうことだ。難しく考える必要はない。覚えている範囲で構わん」

「分かりました」

 

 ギルドマスターが地図上の街道へ指を置く。

 僕たちはそこから、拠点へ向かうまでの経路を順番に説明していった。

 

 どの道を通ったのか。

 拠点へ近づくまでに、何を見たのか。

 生存者を発見した場所。

 救助信号を上げ、白い大型と接触するまでの流れ。

 

 内容は、本当に大したことではなかった。

 ギルドマスターが短く尋ね、僕とガルドさんが覚えていることを答える。

 そのたびにアルナさんの筆が紙の上を走り、時折、聞き取った内容を確かめるように猫耳がぴくりと動いた。

 

 話の流れが変わったのは、白い大型について説明していた時だった。

 

「その大型は、水に濡れていなかったか」

 

 ギルドマスターが、不意にそう尋ねた。

 ――机の上の小瓶が、揺れた気がした。

 思わず息を呑む。

 まさしく、その通りだった。

 

「はい」

 

 小瓶へ目を向けたまま頷く。

 

「雪原にいたのに、全身が濡れていました。傷口からも、血とは別に水が流れていて」

「潮臭かったな」

 

 ガルドさんも杯から手を離し、表情を引き締める。

 

「寒さの中でも凍らなかった。あれが普通じゃねぇのは、俺でも分かる」

「……やはりか」

 

 ギルドマスターは神妙な顔つきで腕を組んだ。

 その視線が、机の上へ並べられた小瓶へ落ちる。

 

「何か知っているんですか」

「似た個体が、最近ほかの地域でも確認されている」

 

 ギルドマスターは小瓶の一つを持ち上げ、僕たちの前へ置いた。

 薄く濁った液体が、瓶の内側で静かに揺れる。

 

「種類も生息地も違う。だが、体内へ異常な量の水を宿し、傷口から潮臭い液体を流すという特徴は共通している」

「病気か何かですか?」

「まだ分からん」

 

 ギルドマスターの太い指が、瓶の側面を一度だけ叩いた。

 

「ギルドでは、この現象を仮に『水憑き』と呼んでいる」

「水憑き……」

 

 水に憑かれたもの。

 白い大型の姿を思い返すと、妙に納得できる名前だった。

 

「感染するものなのか?」

「それも不明だ。外部から何かを与えられたのか、別の原因があるのか……現時点では、どれも推測の域を出ない」

 

 ギルドマスターは少しだけ考え込むように小瓶を見つめた。

 やがて短く息を吐き、瓶を元の位置へ戻す。

 

「まあ、その話は一旦これくらいにしておこう。何せ分かっていないことが多すぎる」

 

 そう言って、机の上へ広げられていた地図を畳み始める。

 言葉通り、これ以上話しても答えは出ないのだろう。

 

「ただし、水憑きについては現時点で口外するな。原因も危険性も分からないまま噂だけが広がれば、余計な混乱を招く」

「分かりました」

「俺も黙っておく」

 

 ガルドさんが杯を持ち上げ、そのまま果実水を飲み干す。

 アルナさんも報告書の最後へ筆を走らせ、静かに紙を閉じた。

 

「報告は以上だ。助かった」

「はい」

 

 これで終わりらしい。

 

 香草茶の残りを飲み、杯を机へ戻す。

 椅子へ手をついて立ち上がろうとすると、隣でもガルドさんが包帯の巻かれた肩を庇いながら腰を浮かせた。

 

「待て、ルキウス」

 

 ギルドマスターの声に、動きを止める。

 

「まだ何か?」

「お前には、もう一つ話がある」

 

 立ち上がりかけた身体を、もう一度椅子へ戻す。

 何か報告に漏れがあっただろうか。

 雪原の向こうで見た人影についても、昨日のうちに伝えている。

 

 思い返しても、ほかに大きな見落としは浮かばなかった。

 

 ギルドマスターは僕の顔をしばらく見つめたあと、机の引き出しへ手を伸ばした。

 

「ランク五から先の昇格条件については知っているな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、背筋が伸びた。

 

「……はい」

 

 ――ランク五。

 そこから先は、ランク四までとは扱いが大きく異なる。

 規定数の依頼をこなせばいいわけでも、決められた試験へ合格すればいいわけでもない。

 

 膨大な経験。

 成し遂げた偉業。

 純粋な強さ。

 

 何か一つに明確な基準があるわけではなく、ギルドがその者の実績と能力を総合して判断する。

 だからこそ、全ハンターの八割ほどがランク四以下に留まっている。

 逆に言えばランク5以上のハンターは文字通り別格として見られる……そんなランクだ。

 

 ギルドマスターが、なぜ今その話をするのか。

 すぐには分からなかった。

 

「二年前、お前はランク一としてこのギルドへ登録した」

「はい」

 

 ギルドマスターは引き出しから何枚もの書類を取り出し、机の上へ重ねていく。

 見覚えのある依頼名が、紙の端へいくつも記されていた。

 

「それから採取、調査、護衛、討伐。依頼の種類を選ばず、地道に実績を積み重ねてきた」

「……はい」

「決して派手な依頼ばかりではない。むしろ、お前が受けてきたのは誰もが避けるような小さな仕事が多い」

 

 薬草の採取。

 荷運び。

 逃げた家畜の捜索。

 街道沿いの小型モンスターの駆除。

 

 どれも、英雄譚には残らないような仕事だった。

 それでも、困っている人がいるならと思い、一つずつ受けてきた。

 

「失敗もある」

「……はい」

 

 ギルドマスターが一枚の報告書を持ち上げる。

 端へ押された赤い印に、見覚えがあった。

 

「負傷による中断も多い」

「はい」

「多すぎる」

「すみません」

 

 背後で、アルナさんの猫耳が大きく動いた気配がした。

 振り返らなくても、強く同意していることだけは分かる。

 

「だが、同じ失敗は減っている」

 

 報告書が机へ戻される。

 ギルドマスターの指が、積み重なった依頼記録の上をゆっくりと滑った。

 

「無謀に踏み込んでいた者が、周囲を見るようになった。

 自分だけで動いていた者が、仲間へ頼ることを覚えた。

 倒すことばかり考えていた者が、守るべきものを優先するようになった」

 

 ギルドマスターの瞳に僕が映る。

 

「一歩ずつ。しかし確かにお前は強くなっていっている」

 

 胸の奥へ、一つずつ言葉が落ちてくる。

 自分では、変わったつもりなどなかった。

 ただ、できなかったことを覚えた。

 失敗したから、次は同じ失敗をしないようにした。

 それだけだった。

 

「二年前、お前は白い大型から逃げたな」

「はい」

 

 あの日の雪原が、瞼の裏へ蘇る。

 濁った青白い瞳。

 何もできず、ただ逃げた自分。

 

「そして今回、お前は仲間と共に同じ個体へ立ち向かい、生存者三名を守ったまま討ち取った」

 

 今度は、ガルドさんの背中が浮かぶ。

 白い爪を止める大盾。

 大きく開いた傷口。

 そこへ何度も通した、僕の刃。

 

「俺がいなきゃ、坊主一人では無理だった」

 

 ガルドさんが椅子へ背を預け、包帯の巻かれた肩を軽く押さえる。

 

「だが、逆も同じだ。俺だけでも倒せなかった」

「その通りだ」

 

 ギルドマスターは短く頷く。

 

「一人で届かない相手へ、仲間となら届く。それを理解し、実行できることもハンターの力だ」

 

 僕一人では勝てなかった。

 ガルドさん一人でも倒せなかった。

 

 だから、二人で戦った。

 それを特別なことだとは思っていなかった。

 できないことを任せ、できることをしただけだ。

 

「経験だけなら、まだ足りない。純粋な強さだけを見れば、上位の者には及ばない」

 

 ギルドマスターの声は、決して甘くなかった。

 事実を一つずつ並べるように、静かに続く。

 

「だが、二年間積み重ねてきた実績。危険の中で生存者を見つけた観察力。大型を拠点から引き離した判断。そして、格上の個体を仲間と討ち取った功績」

「……」

「そのすべてを踏まえ、審議を行った」

 

 ギルドマスターが、再び机の引き出しへ手を入れる。

 今度は書類ではなかった。

 取り出されたのは、細長い黒い箱。

 目立つ装飾はなく、銀色の留め具だけが光を反射している。

 

 箱が机の中央へ置かれた。

 胸の奥で、何かが小さく鳴った。

 

 けれど、考えがまとまるより先に打ち消す。

 そんなはずはない。

 

 僕はまだ二年と少ししか活動していない。

 できないことも多い。

 今回の大型だって、ガルドさんがいなければ何もできなかった。

 

 ギルドマスターの手が、黒い箱へ置かれる。

 

「審議の結果、ギルドはお前が次の段階へ進むに値すると判断した」

 

 銀色の留め具へ、太い指が掛かった。

 ――かちり。小さな音が、やけに大きく聞こえた。

 蓋が、ゆっくりと持ち上がる。

 

 黒い布の上へ、一枚のギルドカードが収められていた。

 銀色の薄い金属板。

 形も、大きさも、今胸元へ入れているものとほとんど変わらない。

 

 違うのは、表面に刻まれた線。

 一。二。三。四。

 その下に、もう一本。

 ――五本目。

 何度見ても、線は消えなかった。

 

 息の仕方を忘れたように、胸が止まる。

 目の前にあるものを理解しているはずなのに、頭がそれを受け入れてくれない。

 

「ルキウス」

 

 名前を呼ばれる。

 返事をしなければ。

 そう思うのに、喉がうまく動いてくれなかった。

 

 

 

「これまでの実績、今回の救助及び討伐功績をもって――お前を本日付でランク五へ昇格させる」

 

 

 

 言葉は、確かに聞こえた。

 けれど、その意味が胸へ落ちてくるまでに、随分と時間が掛かった。

 

「……僕が?」

 

 ようやく出たのは、それだけだった。

 

「お前以外に誰がいる」

「でも……」

 

 視線を黒い箱へ戻す。

 五本の線が刻まれたカードは、変わらずそこにあった。

 

 夢にも思っていなかった。

 

 遠い場所だと思っていた。

 いつか辿り着ければいいと考えることすら、今の僕には早いと思っていた。

 

 そこへ、自分の名前が並ぶ。

 

「何かの間違いでは」

「審議を経て決定したことだ。間違いではない」

 

 ギルドマスターは表情を変えず、黒い箱を僕の方へ押し出した。

 机を擦る音と共に、五本の線が少しずつ近づいてくる。

 それでも、手を伸ばせなかった。

 

「アルナさん」

 

 斜め後ろを振り返る。

 アルナさんの猫耳は真っすぐに立ち、抱えた書類へ指を添えていた。

 受付台ではあまり見せない、柔らかな笑みが浮かんでいる。

 

「本当なんですか」

「はい」

 

 アルナさんは迷わず、一度だけ強く頷いた。

 

「おめでとうございます、ルキウスさん」

 

 その言葉を聞いても、まだ信じきれない。

 今度はガルドさんを見る。

 ガルドさんは椅子へ座ったまま、犬耳をこちらへ向けていた。

 

「ガルドさん」

「何だよ」

「僕……ランク五になるそうです」

「聞いてたよ」

「本当に?」

「何度聞くんだ」

 

 呆れた声だった。

 けれど、口元は大きく緩んでいる。

 

「受け取れ」

 

 ギルドマスターの声に、膝へ置いていた両手を持ち上げる。

 指先が震えていた。

 

 白い大型を前にした時とは違う。

 恐怖ではない。

 嬉しいはずなのに、胸の奥が苦しくて、うまく呼吸ができない。

 

 机の上へ手を伸ばす――けれどカードへ触れる直前で、また動きが止まった。

 

「どうした」

「……少し、怖くて」

「カードがか?」

「受け取ったら、本当になってしまう気がして」

 

 ギルドマスターが僅かに眉を上げる。

 

「受け取らなくても、お前はもうランク五だ」

「そうなんですか」

「そういうものだ」

 

 ガルドさんが吹き出した。

 アルナさんも口元へ手を添え、笑いを堪えている。

 

 恥ずかしい。

 けれど、その笑い声を聞いているうちに、胸の強張りが僅かに解けた。

 

 もう一度、手を伸ばす。

 指先がカードへ触れた。

 

 ――冷たい。

 いつものギルドカードと変わらない、金属の冷たさ。

 指を差し込み、黒い布の上からゆっくりと持ち上げる。

 

 ――軽い。

 重さも、今までのカードとほとんど変わらなかった。

 それなのに両手の上へ載せた瞬間、腕ごと沈んでしまいそうなほど重く感じられた。

 

 これまで終わらせてきた依頼。

 失敗した日。

 怪我をした日。

 助けられなかった日。

 

 そして、助けることができた命。

 すべてが、この小さな金属板へ詰まっているような気がした。

 

「……五本ある」

 

 思わず声が漏れる。

 数え間違いではない。

 指先で、一つずつ線をなぞる。

 

 一。二。三。四。五。

 本当に――五本ある。

 

 胸の奥から、じわじわと熱が広がっていく。

 驚きが消えたわけではない。

 まだ夢の中へいるような、足元のない感覚も残っている。

 けれど、指先へ触れる線は本物だった。

 

「アルナさん」

「はい」

「僕、ランク五です」

「はい」

 

 アルナさんの猫耳が、嬉しそうに小さく揺れた。

 

「ガルドさん」

「何だ」

「ランク五になりました」

「見りゃ分かる」

「僕が」

「そうだよ」

 

 何度聞いても、同じ答えが返ってくる。

 そのたびに、胸の奥へ溜まっていた何かが、少しずつ形を変えていった。

 信じられない。

 

 嬉しい。怖い。

 僕はまだ、先へ進める。

 たくさんの感情が一度に込み上げ、どれを先に言葉へすればいいのか分からなかった。

 

「……やった」

 

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

 けれど、一度口へ出すと止められない。

 

「やりました」

「ああ」

「僕、本当にランク五になりました」

「おう」

 

 ガルドさんが笑いながら、僕のフードへ大きな手を置く。

 二度、三度と乱暴に撫でられ、フードが目元までずれた。

 

「夢では?」

「しつこいな!」

 

 さらに強く頭を掻き回される。

 アルナさんが慌てて止めようとしていたが、僕はカードから目を離せなかった。

 

 口元が、勝手に緩んでいく。

 隠そうとしても、どうにもならなかった。

 

 嬉しい。

 ようやく、はっきりとそう思えた。

 

 責任が増える。

 危険な依頼も増える。

 今の僕では足りないことも、まだいくつもある。

 

 それでも。

 

 二年前、何者でもなかった僕が。

 門前で百ソルすら持っていなかった僕が。

 今、この場所にいる。

 

「嬉しいです」

 

 五本の線が刻まれたカードを、胸元へ引き寄せる。

 自分の声が、少しだけ震えていた。

 

「……とても」

 

 アルナさんが書類を胸元へ寄せ、柔らかく目を細める。

 

「私が最初のカードをお渡しした時は、ランク一でした」

「覚えています」

 

 あの日の受付台。

 何度も説明を聞き返しながら、受け取ったばかりのカードを見つめていた。

 

「説明を聞きながら、ずっとカードを見ていましたね」

「嬉しかったので」

 

 アルナさんの猫耳が、こちらへ少しだけ傾く。

 

「今日も、同じ顔をしています」

「顔が見えるんですか」

「雰囲気です」

「便利ですね、雰囲気」

「ルキウスさんは、分かりやすいですから」

 

 今日は隠せていない自覚がある。

 たぶん、フードがなくても同じだっただろう。

 

「それと、報酬の話だが」

 

 ギルドマスターの声に、カードから顔を上げる。

 机の横から数枚の書類が取り出され、僕たちの前へ並べられた。

 

「今回の報酬は三つだ。北部簡易拠点の現地調査に対する基本報酬。生存者三名の発見及び救助に対する追加報酬。そして、大型個体の討伐報酬」

「はい」

 

 ギルドマスターが、それぞれの金額を読み上げていく。

 一つ目。二つ目。三つ目。

 頭の中で足そうとして、途中で分からなくなった。

 最後だけ、桁が一つ多かったような気がする。

 

「……もう一度、お願いします」

「聞こえなかったか?」

「聞こえました。ですが、最後の数字が少し多かったような」

 

 ギルドマスターは書類へ目を落とし、もう一度同じ金額を告げた。

 

「気のせいではない」

「間違いでは?」

「今日はそればかりだな」

 

 ガルドさんが、呆れたように犬耳を傾ける。

 

「昇格も報酬も、間違いじゃねぇよ」

「でも、こんなに」

「大型一体を倒したんだぞ。安い方が困るだろ」

 

 ガルドさんは机の上の書類へ身を乗り出し、記された金額へ目を走らせた。

 

「倒したのは、僕一人ではありません」

「ああ。討伐報酬は俺とお前で分ける。調査と救助の功績分は、それぞれに支払われる」

 

 ギルドマスターが一枚目の書類を指で押さえる。

 

「大型の素材については、水憑きの調査が終わるまでギルドが保管する。通常なら素材の売却分も討伐者へ還元されるが、今回は調査協力費を別途支払う」

「素材は使えないんですか」

「現時点ではな。肉も皮も、通常の個体と同じ安全性があるとは限らない」

「分かりました」

 

 報酬は、このあと受付で受け取れるらしい。

 書類へ記された金額をもう一度見る。

 五本の線と同じで、目を離した途端に数字が変わってしまいそうだった。

 

「これだけあれば、防具を一式替えられるな」

 

 ガルドさんが書類から顔を上げる。

 

「今のものも、まだ使えます」

「大型の爪で裂かれてるだろうが」

「縫ってあります」

「縫えば何でも元通りになると思うな」

 

 ガルドさんは僕の外套へ残る縫い目を指で示した。

 

「外套は使えています」

「防具の話をしてんだよ」

「報酬は、できれば貯めようかと」

「何のために?」

 

 犬耳が、呆れたように横へ倒れる。

 

「今後、必要になるかもしれないので」

「今必要なんだよ。武器と防具は命を預ける道具だ。金を残して本人が死んだら意味がねぇ」

「ですが、全部使う必要は」

「全部とは言ってねぇ。必要な分を使えと言ってる」

 

 言っていることは正しい。

 それでも、大きな金額を一度に使うのは少し落ち着かなかった。

 エルドランへ来たばかりの頃、百ソルを持っていなかったことを今でも覚えている。

 

「その件については、私からもお話しするつもりでした」

 

 斜め後ろから、アルナさんの声がした。

 振り返ると、すでに別の紙へ何かを書き込んでいる。

 

「信頼できる防具店を何軒か選びます。怪我が治ったら、必ず見に行ってください」

「修理を頼む店ですか」

「新調する店です」

 

 アルナさんは筆を止め、真っすぐに僕を見る。

 

「今の防具を見てもらってからでも」

「新調する店です」

「……はい」

 

 選択肢がない。

 アルナさんの猫耳は穏やかに立っていたが、反論を受け入れる様子もなかった。

 

「宿代と食費の分は残してください」

「当然です」

「それなら安心しました」

「安心する基準がおかしいですよ」

 

 アルナさんが小さく息を吐く。

 ガルドさんは隣で肩を揺らして笑っていた。

 

「報酬の配分や装備について考えるのも、ハンターの仕事だ」

 

 ギルドマスターが書類をまとめる。

 

「必要な装備や物資を自分で判断し、次の依頼へ備えろ」

「はい」

 

 新しいギルドカードへ、指先で触れる。

 受けられる依頼が増える。

 得られる報酬も増える。

 けれど、その分だけ必要になるものも、背負うものも増えていくのだろう。

 

「話は以上だ」

 

 ギルドマスターが報告書を閉じる。

 

「今日は依頼を受けるな。手続きと報酬の受け取りが終わったら休め」

「分かりました」

「ガルドもだ」

「俺まで?」

 

 ガルドさんが、自分の胸元を指差す。

 

「肩を治してから働け」

「運送なら右腕だけでも」

「休め」

「……はい」

 

 犬耳が力なく伏せられる。

 どうやら今日から仕事へ戻るつもりだったらしい。

 

 ギルドマスターの視線が、部屋の扉へ向いた。

 

「外の連中を、あまり待たせるな」

「外?」

 

 何のことか尋ねても、ギルドマスターは書類を片づけるだけだった。

 

「行けば分かる」

 

 五本の線が刻まれたカードを、外套の内側へ大切に収める。

 立ち上がると、金属板が胸元へ触れて小さな音を立てた。

 

 まだ、すべてを信じられたわけではない。

 それでも胸の奥へ広がる熱は、もう抑えられそうになかった。

 

 ◆

 

 ギルドマスター室を出る。

 二階の廊下へ足を踏み出した途端、大広間から賑やかな笑い声が聞こえてきた。

 

 普段の騒がしさとは少し違う。

 杯を打ち鳴らす音。

 酒樽の栓が抜かれる音。

 誰かが歌い始め、すぐに別の誰かから下手だと怒鳴られている。

 

「朝から随分と騒がしいですね」

「いつものことだろ」

「そうでしょうか」

 

 ガルドさんも首を傾げている。

 どうやら彼も、何も聞かされていないらしい。

 

 アルナさんだけは、前を向いたまま茶色い猫耳を落ち着かなさそうに動かしていた。

 

「アルナさん」

「何ですか」

「何か知っていますね」

「知りません」

 

 返事が少し早い。

 僕が猫耳を見ると、アルナさんは片手でそっと耳を押さえた。

 

「耳が動いています」

「気のせいです」

「手で隠しましたよね」

「早く下りましょう」

 

 背中を軽く押され、階段を下りていく。

 

「わ、わわわ。ちょ、アルナさん。――って、え?」

 

 大広間へ顔を出した瞬間、酒と焼いた肉の匂いが押し寄せてきた。

 いつもの机は端へ寄せられ、その上には大皿へ積まれた肉や黒パン、炙った野菜が並んでいる。

 酒樽の栓はすでに開けられ、あちこちで杯が打ち鳴らされていた。

 

 宴は――とっくに始まっていた。

 

 角兎亭の女将さんは、太い腕で料理の大皿を抱えている。

 狐耳を揺らす魚屋のラッツさんは、炙ったリーヴァウォを配っていた。

 マリカさんとボルドさんは酒樽の横で笑い、ギルド職員まで受付台の奥で果実水の杯を持っている。

 さらに、その輪の中には見覚えのある人たちがいた。

 

「ルキウスさん!」

 

 杖を片手に立つミミルさんが、こちらへ大きく手を振る。

 その隣では、以前助けたハンターたちが杯を持ち、無事な姿で笑っていた。

 

 誰かが僕たちに気づく。

 その視線が次々と広がり、宴の輪から声が飛んできた。

 

「主役がやっと来たぞ!」

「遅ぇぞ、ガルド!」

「ルキウス、こっちに料理があるぞ!」

「五本目を見せてくれ!」

 

 何が起きているのか理解できず、階段の前で足が止まる。

 

「……皆さん、知っていたんですか」

「昨日のうちに準備してたんだよ!」

 

 女将さんが大皿を机へ置き、豪快に笑った。

 

「だから腹を空かせてこいって言ったのさ」

「教えてくれてもよかったのでは」

「それじゃ面白くないだろ」

「朝食を減らしてくれても」

「それは別の話だよ」

 

 やはり、朝食は減らしてもらえなかったらしい。

 マリカさんが酒樽から杯を満たし、ガルドさんへ突き出す。

 

「ほらよ。無事に帰った祝いだ!」

「おう、気が利くじゃねぇか」

 

 ガルドさんが右手を伸ばす。

 けれど、渡す直前でマリカさんは杯を引いた。

 

「いやでも、けが人に酒を飲ませるのはご法度か?」

 

 からかうように杯を揺らす。

 酒が縁から少しだけこぼれた。

 ガルドさんの犬耳が、勢いよく立つ。

 

「ばかが! ケガも病気も酒飲んで直すんだよ!」

 

 杯を奪い取ると、包帯の巻かれた肩も忘れたように高く掲げる。

 そのまま宴の輪へ踏み込み、ボルドさんの隣へ肩を並べた。

 

「おら、どけ! 今日の主役が来たぞ!」

「自分で言うのかよ!」

「大型の突進を止めた男だぞ! もっと酒を寄越せ!」

「肩が治ってからにしろ!」

 

 笑い声に包まれながら、ガルドさんの姿が人の輪へ飲み込まれていく。

 階段の前には、僕とアルナさんだけが残された。

 

「……行ってしまいました」

「ガルドさんですから」

 

 アルナさんは困ったように笑い、酒杯を掲げる犬耳を見つめた。

 

「あとで取り上げます」

「今ではないんですか」

「今日だけは、一杯くらいなら」

 

 茶色い猫耳が、宴の音へ合わせるように揺れる。

 その表情は受付台に立っている時よりも、少しだけ柔らかかった。

 

「皆さん、本当に知っていたんですね」

「はい。正式な決定が出たのは、昨日の夕方です」

 

 アルナさんは僕の胸元へ視線を向ける。

 外套の下にしまった、新しいギルドカード。

 見えていないはずなのに、その場所を正確に捉えていた。

 

「ルキウスさんには、絶対に伝えないようお願いしました」

「どうしてですか」

「驚いてほしかったので」

 

 猫耳が、少しだけ伏せられる。

 

「……迷惑でしたか?」

「いえ」

 

 すぐに首を横へ振る。

 迷惑なはずがない。

 

 信じられないくらい嬉しかった。

 カードを受け取ったことも。

 皆がそれを知り、こうして待っていてくれたことも。

 

「驚きました」

「よかったです」

「まだ、少し信じられていません」

「カードを見ますか?」

「さっきから何度も見ています」

 

 胸元へ手を添える。

 指先へ、外套越しに硬い感触が伝わった。

 

「では、今度は私が確認しましょうか」

「消えていたら教えてください」

「消えませんよ」

 

 アルナさんが小さく笑う。

 

「改めて、おめでとうございます。ルキウスさん」

「ありがとうございます」

 

 五本の線が刻まれたカードは、変わらずそこにあった。

 

「二年前、僕へ最初のカードを渡してくれたのも、アルナさんでした」

「覚えています」

「僕もです」

「説明を三回しました」

「そこまで覚えている必要はありません」

「同じ質問を三回されましたから」

 

 アルナさんの猫耳が、楽しそうに揺れる。

 

「でも、あの時のルキウスさんが、こんなに早くここまで来るとは思っていませんでした」

「僕も思っていませんでした」

 

 答えると、アルナさんは僕を真っすぐに見上げた。

 

「本当に、頑張りましたね」

 

 その言葉は、ギルドマスターから評価を告げられた時とは違う形で胸へ入ってきた。

 ――頑張った。

 自分では、まだ足りないとばかり思っていた。

 けれど、二年間ずっと見ていたアルナさんがそう言うのなら、少しくらいは認めてもいいのかもしれない。

 

「はい」

 

 今度は、否定しなかった。

 

「頑張りました」

 

 アルナさんの目が僅かに見開かれる。

 すぐに、その表情が嬉しそうな笑みに変わった。

 

「ルキウスさん!」

 

 宴の輪から、もう一度名前を呼ばれる。

 ミミルさんが杖を掲げ、その隣で何人ものハンターが手招きしていた。

 

「こっちへ来てください!」

「料理がなくなるぞ!」

「新しいカードを見せろ!」

「白い大型の話も聞かせてくれ!」

 

 一度に呼ばれ、どこへ向かえばいいのか分からない。

 

「すごいですね」

「ルキウスさんを待っていたんですから」

「でも、どこから行けば」

「こっちですよ!」

 

 ミミルさんが人の輪を抜け、こちらへ歩いてくる。

 杖を脇へ抱え直すと、空いた手で僕の右手を掴んだ。

 

「皆さん、ずっと待っていたんです」

「ミミルさん、歩いて大丈夫なんですか」

「ルキウスさんに心配されたくありません」

「それは、どういう意味ですか」

「そのままの意味です」

 

 ミミルさんは笑いながら、僕の手を引く。

 反対側からは、以前助けたハンターの一人が外套の袖を掴んだ。

 

「ほら、早く来い!」

「カードを見せろって!」

「料理も残してあるぞ!」

「朝食をかなり食べたのですが」

「宴は別腹だ!」

 

 女将さんと同じことを言われている気がする。

 振り返る。

 アルナさんは階段の前に立ち、こちらを見ていた。

 茶色い猫耳が楽しそうに揺れている。

 

「アルナさんも」

「はい。すぐに行きます」

 

 アルナさんは受付台へ置かれた書類を指し、それから宴の輪へ視線を向けた。

 

「先に楽しんでいてください」

「絶対に来てくださいね!」

「はい。約束です」

 

 柔らかな笑みが返ってくる。

 

 手を引かれ、人の輪へ入っていく。

 皿を渡され、果実水の杯を押しつけられ、次々に声を掛けられる。

 少し離れたところでは、ガルドさんがすでに二杯目へ手を伸ばし、アルナさんの猫耳が鋭く立っていた。

 

 騒がしい。

 ひどく騒がしい。

 

 それでも、この場所から離れたいとは思わなかった。

 

 二年前。

 この街へ来た時、僕は一人だった。

 知っている人も。

 帰りを待ってくれる人も。

 こうして手を引いてくれる人もいなかった。

 

 今は違う。

 胸元では、五本の線が刻まれたカードが、歩くたびに小さく外套へ触れている。

 英雄には、まだ遠い。

 きっとこれからも、何度も届かないと思うのだろう。

 

 それでも。

 憧れているだけだった僕は、いつの間にか一人で歩かなくなっていた。

 

 掴まれた手を握り返す。

 そのまま僕は、笑い声に満ちた宴の輪へ踏み込んだ。

 

 胸元で、五本目の印が小さく鳴った。

 

 

 第二章『英雄を目指した少年』完。

 





 これにて、
『駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~』
 第二章は完結となります!

 まず初めに。
 ここまで読んでくださった読者様。
 評価、感想をくれる方々。誤字脱字衍字報告をしてくださる方。
 本当に、ありがとうございます。皆様のおかげで、ここまで楽しくルキウスの物語を書き続けていられます。

 次話からはいよいよ物語も転機――第三章に入ります。
 重ねてになりますが、ここまで読んでくださった読者様、本当にありがとうござます。
 そして、もしよろしければ次話からも楽しんで頂ければ、とっっっても嬉しいです。
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