駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
予定より、少し早いですが第三章を投稿し始めたいと思います。
ps.私事になりますが、第二章を読んでいただき、そして第三章まで手に取っていただき本当にありがとうございます。
物語の転換点となるこの章を、ルキウスの物語をこれからも楽しんで頂けると、私としてはこれ以上の喜びはありません。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
第三章 第一話『少年は受付嬢と街を回る』
◆
外套の留め具が、うまく噛み合わない。
一度外して留め直し、これでいいと思って肩へ鞄を掛けようとしたところで、今度は紐が椅子の背へ引っかかった。
そのまま引けば椅子までついてきて、床を擦る音が部屋へ響く。
「……どうして急いでる時に限って」
鞄を外し、椅子を元の場所へ戻す。
腰には片刃剣。
財布も持った。
注文の参考にするため、古い手袋と手入れ道具も鞄へ入れてある。
……忘れ物は、ないはず。
もう一度だけ部屋を見回してから扉を閉め、階段へ向かう。
そのまま駆け下りようとして――二段目へ足を乗せたところで止まった。
怪我は、もう治っている。
……だからといって、ここから転げ落ちて新しい怪我を作ったらどうなる?
たぶんアルナさんからの信用が、僕より先に一階まで落ちる。
手すりを掴み、ほんの少しだけ速度を緩める。
それでも普段より慌ただしい足音は隠せなかったらしく、食堂へ顔を出したところで、大鍋の前に立っていた女将さんの大匙が止まった。
「どうしたんだい、そんな急いで」
朝の角兎亭には、肉と豆を煮込んだ匂いが満ちている。
僕を見る女将さんの視線が、外套から鞄へ移り、最後に腰の片刃剣で止まった。
「今日、アルナさんと出かける約束をしているんです」
「へえ」
太い眉が持ち上がる。
……たった一音なのに、妙に色々な意味が入っている気がする。
「装備を見直すためです」
「まだ何も言ってないだろ」
女将さんの口元が少しだけ上がった。
……やっぱり何か言うつもりだったじゃないか。
「言いそうな顔をしていました」
「顔まで見えるようになったのかい?」
「雰囲気です」
アルナさんがよく使う言葉を借りると、女将さんは大きな腹を揺らして笑った。
そのまま鍋から煮込みを掬い、僕がいつも使っている席へ器を置く。
「だったら、なおさら食べていきな」
「待ち合わせまで、あまり時間がないんです」
僕が扉へ視線を向けると、女将さんは大匙を片手に眉を寄せた。
「腹を空かせたまま女の子を連れ回す気かい?」
扉へ向けていた身体を戻す。
……言い方には少し引っかかる。
けれど、空腹のまま買い物へ付き合わせるのがよくないことくらいは分かる。
「……いただきます」
「最初からそうしな」
椅子へ腰を下ろし、黒パンを煮込みへ浸す。
温かな汁を吸ったパンを口へ運ぶと、さっきまで少し速かった呼吸がようやく落ち着いてきた。
……おいしい。
やっぱり急いでいても、食べてから出るべきだったかもしれない。
ランク5へ昇格してから、今日で一週間になる。
三日間の安静を終えてからは、すでにいくつか依頼にも出ていた。
倉庫から商店への荷運び。
街道沿いでの薬草採取。
近隣の畑へ入り込んだ小型モンスターの追い払い。
ランク5らしい仕事かと聞かれれば、たぶん違う。
……けど、五本目の印が増えたからといって荷物が勝手に歩くようになったわけでも、畑へ入ったモンスターが僕を見て遠慮してくれるようになったわけでもない。
困っている人がいるなら、それで依頼としては十分だと思っている。
右脇腹の傷は、もう引きつらない。
肩も脚も問題なく動き、治療役からも普段通り活動していいと言われた。
だから今日は、次の依頼へ進む前に装備を整える。
その話をアルナさんへしたのは――三日前のことだった。
◆
「ルキウスさん、新しい防具はまだ注文していませんよね?」
「これから見に行こうかとは思っています」
「いつですか?」
依頼の報告を書き終えたアルナさんが筆を置き、受付台の向こうからこちらを見る。
僕はその視線から逃げるように、ほんの少しだけ顔を横へ向けた。
「近いうちに」
「日付でお願いします」
茶色い猫耳が、逃げ道を塞ぐみたいにこちらへ傾く。
……近いうち、では通してくれないらしい。
「……三日後くらいに」
「一人で選ぶおつもりですか?」
「そのつもりでしたが」
そう答えながら、受付台の端へ置かれた自分の手を見る。
装備の良し悪しには、まだあまり自信がない。
武具屋へ行っても、とりあえず軽いものを尋ねるくらいしかできないと思う。
そして値札を見たあと、今の防具をもう一度修理して帰る。
……たぶん、かなりあり得る。
「あのー……」
受付台の端へ指を置く。
一人で行くよりアルナさんに相談した方がいいのは分かっている。
……けど、休日まで付き合わせるのは悪い気がして、続く言葉が少し遅れた。
「……よければ、なんですけど」
「はい」
「……一緒に来てもらえたり、とか?」
「行きます」
返事が早かった。
……というより、僕が頼み終えるより少し早かった気さえする。
「い、いいんですか?」
「もちろんです」
アルナさんはすぐ新しい紙を取り出し、そこへ筆を走らせ始める。
猫耳まで筆先に合わせるみたいに、忙しなく動いていた。
「まず武具屋ですね。そのあと道具屋へ行きます。今の装備も着けてきてください」
「はい」
「片刃剣の鞘と、手入れ道具も確認しましょう」
……もう予定ができてる。
僕が横から紙を覗き込んでいる間にも、項目が一つ増えた。
「三日後ですね?」
「あ、はい」
「朝から空けておきます」
「お仕事は大丈夫ですか?」
筆先が止まる。
アルナさんは何でもないことみたいに顔を上げた。
「休みを取ります」
「そこまでしてもらわなくても」
「放っておいたら、また修理だけで済ませるでしょう?」
真っすぐな視線を向けられ、言葉が止まった。
……しない。
とは、ちょっと言い切れない。
「……しないとは言い切れません」
「では、同行します」
アルナさんが再び筆を走らせる。
……反論する場所がなくなった。
◆
その約束が、今日だった。
「それで、受付嬢ちゃんとの約束へ遅れそうになってるってわけかい」
女将さんの声で、意識が食堂へ戻る。
目の前を見ると、煮込みの器はいつの間にか半分ほど空になっていた。
「遅れてはいません。少し早く着こうとしているだけです」
「同じようなもんだよ」
女将さんはそう言いながら僕の外套へ残る縫い目を眺め、腰へ手を当てた。
「何度も繕って使うのは立派だけどね。命まで繕えると思うんじゃないよ」
「アルナさんにも、似たようなことを言われました」
「なら今日は、あの子の言うことをよく聞きな」
女将さんが黒パンをもう一つ皿へ追加する。
僕はその黒パンと女将さんを見比べた。
「……そうですね」
「それと、妙な安物で済ませるんじゃないよ」
女将さんがこちらへ大匙を向ける。
先端から落ちた汁が一滴、大鍋へ戻った。
「分かりました」
「今、少し迷ったね」
……見られてる。
「大きなお金を使うことに、まだ慣れていなくて」
「お金は、持ってるだけじゃ働かないよ」
女将さんは大匙を鍋の縁へ掛け、太い腕を組んだ。
「使うべきところで使って、ようやく役に立つ。坊やの場合は、まず命に関わるものだね」
「はい」
「それから飯」
思わず顔を上げる。
「飯」
「一番大事だよ」
真顔だった。
「装備よりも?」
「飯を食えないやつは、装備を着て歩けないだろ」
「なるほど」
すぐに納得すると、女将さんの眉が少し上がった。
「納得するのが早いね」
「女将さんが言うと、正しい気がするので」
「実際、正しいのさ」
女将さんが胸を張る。
かなり強い理屈ではある。
……けど、今食べている煮込みがおいしいので反論する理由もなかった。
残っていた朝食を平らげ、器を机へ戻す。
「ごちそうさまでした」
席を立ち、今度こそ扉へ向かう。
「行ってきます」
「ああ。受付嬢ちゃんを待たせるんじゃないよ」
「まだ少し早いです」
外套を整えていると、背中からもう一度声が飛んできた。
「だったら、途中で走るんじゃないよ」
「……見ていたんですか」
「階段が壊れるかと思ったよ」
壊れるほどではない。
……たぶん。
そう言い返している間に本当に遅れたら困るため、僕は口を閉じて角兎亭をあとにした。
◆
ギルドの前へ着くと、アルナさんはすでに待っていた。
受付嬢の制服ではなく、落ち着いた色合いの上着と動きやすそうな長いスカートを身につけている。
肩から下げた小さな鞄からは、帳面の角が少しだけ覗いていた。
……やっぱり持ってきたんだ、帳面。
僕を見つけると、茶色い猫耳がぴんと立つ。
「おはようございます、ルキウスさん」
「おはようございます」
「早かったですね」
アルナさんが空を見上げ、そのまま鐘楼の方角を確かめる。
……遅れてはいない。
よかった。
「待たせてはいけないと思ったので」
「私も同じことを考えていました」
「では、どちらも待たずに済みましたね」
猫耳が機嫌よさそうに揺れる。
「そうですね」
その視線が僕の顔から肩へ下がり、腰の片刃剣で止まった。
「体調は?」
「もうすっかり治っています」
「痛みもありませんか?」
アルナさんが僕の歩き方まで確かめるように、足元へ視線を落とした。
「ありません。昨日も依頼へ行きました」
「街中の荷運びですよね」
「はい」
少しだけ間を置いてから、アルナさんが頷く。
「それなら、ひとまず信用します」
「ひとまず」
「これまでの積み重ねがありますので」
……どっちの積み重ねだろう。
聞く前に、なんとなく分かった。
「信用を失う方の?」
「はい」
迷いのない返事だった。
がっくりと頭がうなだれる。
……一週間前の雪原が、思った以上に尾を引いている。
アルナさんは鞄から帳面を取り出し、今日の予定が書かれた頁を開いた。
「最初は武具屋です。そのあと道具屋と仕立て屋。必要なら薬屋にも寄ります」
「かなり回りますね」
「装備を一式見直すのですから、当然です」
横から覗き込む。
店の名前。確認するもの。必要な道具。
買い物の予定というより、依頼へ出る前の行動計画に近い。
「今の防具は、修理して予備へ回します」
「まだ主装備として使えると思いますが」
「使えません」
即答だった。
アルナさんは帳面から顔すら上げない。
「早いですね」
「考える必要がありませんので」
「少しくらい見てからでも」
そこでようやく顔が上がった。
猫耳と一緒に、その視線が僕の外套へ残る無数の縫い目へ向く。
「見たから言っています」
「……なるほど」
どうやら、すでに審査は終わっていたらしい。
――僕たちは並んで商業区へ向かって歩いていく。
朝の大通りはすでに多くの人で賑わい、荷車が石畳を進むたびに車輪の音が響いていた。
開いたばかりの店先から商人の声が飛ぶ。
焼き菓子の甘い匂い。
革へ塗る油の匂い。
どこかから流れてくる、熱せられた金属の匂い。
……今日も、いつものエルドランだ。
「新しい防具は、重くすればよいというものではありません」
人の流れを避けながら、アルナさんが帳面へ目を落とす。
「ルキウスさんの場合、機動力が命、という感じですし。防御を上げすぎて動けなくなれば、本末転倒です」
「そうですね」
何より、店で売られている大半の装備は僕には重すぎてつけられない。
一度憧れてつけたことがあるが、その時は町を歩くだけで翌日筋肉痛になったほどだ。
なんてことを思い出していれば、アルナさんが「聞いていますか?」と僕のかを覗く。
「は、はい!聞いてますよ!」
「じゃあ、私がなんて言ったかいてみてください」
えーっ、と。
気まずさに頬を掻けば、ジトーとした非難の目が刺さる。
「もぉ」
そして、大きなため息。……ごめんなさい、と頭を下げる。
「毎回すべて避けられる前提で選ぶのは禁止ですよ、といったのです」
言いながら、アルナさんの視線が僕の右脇腹へ落ちた。
……そこを見ると説得力が強い。
「胸、脇腹、肩。それから膝と脛。動きを妨げない範囲で、急所を守る必要があります」
「ほとんど全部では?」
「本当は、頭も守っていただきたいです」
アルナさんが僕のフードへ視線を上げる。
「フードを外せないので」
「分かっています」
そこで一度帳面を閉じ、アルナさんが少しだけ首を傾げた。
「そういえば、なんですが」
そういって、アルナさんの瞳が僕を映す。
「ルキウスさんはどの種族なのですか?」
「……僕ですか?」
あまりにも軽い調子だったため、返事が一瞬遅れた。
「はい。身体に合う既製品が少ないですし、力や魔力の基準もほかの方とは違いますよね」
問い詰めるような声じゃない。
防具の話をしている途中で、本当にただ疑問へ思っただけなんだと思う。
……だからこそ、何と答えればいいのか分からなかった。
「特徴を知っていた方が装備も選びやすいかと思ったのですが……答えにくい質問でしたか?」
僕が黙ったことに気づき、アルナさんの歩調が少しだけ遅くなる。
茶色い猫耳まで申し訳なさそうに伏せられた。
「あー、と」
「……もしかして、秘密の話でした?」
「……ごめんなさい」
「いえいえ! でしたら気にしないでください」
アルナさんが慌てて帳面を閉じる。
「すみません。受付の癖で、必要そうなことはすぐに確認してしまって」
「謝らないでください」
言いながら、僕も足を止める。
アルナさんは数歩先まで進み、それからこちらへ振り返った。
「アルナさんには、僕も話したいと思っています」
言葉へすると、自分で考えていたよりも強い声が出た。
アルナさんの猫耳が僅かに持ち上がる。
「ただ今は、まだ話せません。
――でも、絶対に話しますから」
外套の上から胸元へ手を当てる。
五本の印が刻まれたギルドカードの硬さが、指へ触れた。
「いつか、絶対に」
アルナさんの目が僅かに見開かれる。
しばらくこちらを見たあと、伏せられていた猫耳がゆっくりと持ち上がった。
「……そんなに力を入れて約束していただかなくても」
「約束しておきたいんです」
少し困ったように、アルナさんが笑う。
「ルキウスさんは、変なところで真面目ですね」
「変ですか?」
「少しだけです」
――アルナさんが再び歩き出す。
僕もその隣へ追いついた。
「では、その時まで待っています」
「はい」
「急がなくても大丈夫ですから」
柔らかい声だった。
……それでも。
「でも、忘れないでください」
「忘れません」
茶色い猫耳が小さく揺れる。
「ルキウスさんのことは、心配なので」
「種族が分かれば、心配しなくなりますか?」
「いいえ」
即答された。
「では、あまり変わりませんね」
アルナさんは少しだけ考え、それから真面目な顔で頷いた。
「そうですね。たぶん、何を知っても心配します」
「それは困ります」
「諦めてください」
……自分のことなのに、こちらへ選択肢がない。
そのまま歩いていると、アルナさんの視線が僕の腰へ移った。
緩やかに反った鞘が、足取りに合わせて外套へ触れている。
「それにしても、その片刃剣にも随分と馴染みましたね」
「そう見えますか?」
「はい。最初は普通の剣と盾でしたから」
当時を思い出したのか、猫耳が僅かに傾く。
僕がエルドランで最初に揃えた初心者用の剣と小盾。
登録した日から僕を見ているアルナさんなら、当然覚えている。
「そういえば、そうでしたね」
腰の片刃剣へ視線を落とす。
……自分でも、ずっとこれを使っていたような気がしていた。
「いつの間にか、今の武器を使う姿が当たり前になっていました」
「僕もです」
「フレイヴィア様から頂いたのでしたよね?」
僕が頷くと、アルナさんも片刃剣へ視線を戻した。
「はい。普通の剣と盾が、僕には合わなかったので」
「でも、盾がないとモンスターの攻撃とか大丈夫なんですか?」
茶色い猫耳が心配そうにこちらへ向く。
少し考え、フレイヴィアさんに言われた言葉をそのまま思い出した。
「かわせばよい、ってフレイヴィアさんが」
「……フレイヴィア様らしいですね」
アルナさんの視線が、今度は僕の脇腹へ向く。
「それで、全部かわせていますか?」
「全部ではありません」
「でしょうね」
猫耳が呆れたように横へ倒れた。
……答えを知っていて聞いたらしい。
「ですが、盾を持っていた頃よりは避けられています」
「盾に振り回されなくなったからですか?」
「はい」
片刃剣の鞘へ手を添える。
「たぶん、フレイヴィアさんも最初からそれが分かっていたんだと思います」
「訓練を始めた頃から?」
「はい。最初に剣と盾を見てもらった時に――」
鞘越しに伝わる硬い感触へ指を置く。
……思い出す。
石畳を踏む人の音が少しだけ遠くなり、代わりに浮かんできたのは、防具屋の裏にある訓練場だった。
◆
「ところで主、なぜそのような武器を使っておる」
「この剣ですか?」
「ああ」
フレイヴィアさんから修行を受け始めて、まだ間もない頃だった。
僕は初心者用の剣を右手へ、小盾を左手へ構えている。
……構えている、つもりではある。
剣の重さへ腕が引かれ、盾を上げれば今度は身体までそちらへ傾く。
たぶん傍から見れば、かなり酷かったと思う。
「初心者向けで、扱いやすいと聞きました」
「まずいな」
「そんなにですか」
即答だった。
フレイヴィアさんは腕を組んだまま僕の周囲を半周し、足元から肩までを眺めていく。
「まず盾に振り回されておる。剣を持つ腕にも力が入りすぎだ。重さへ耐えるだけで、刃を届かせるどころではない」
「これでも、店で一番軽いものを選びました」
「一番軽い?」
黄金の瞳が僅かに細くなる。
フレイヴィアさんが片手をこちらへ差し出した。
「貸せ」
「はい」
剣を渡す。
――フレイヴィアさんが片手だけで受け取り、重さを確かめるように軽く上下させる。
姿勢はまるで揺れない。
僕が両手でも重いと思っていた剣が、あの人の手にあると子どもの玩具みたいに見える。
「……軽いな」
ぽつりと零れた声へ、僅かな驚きが混じっていた。
……そうですよね。
僕にとっては重いけれど、フレイヴィアさんにとっては軽い。
分かっていたことではある。
それでも、その目は笑っていなかった。
「……主は、その」
「はい」
珍しく言葉を選ぶように、フレイヴィアさんが剣と僕を見比べる。
「思っていた以上に、非力なのだな」
「はい」
悔しくないわけじゃない。
……けど、否定したところで剣が軽くなるわけでも、僕の腕力が増えるわけでもない。
「これでも、以前よりは鍛えました」
「そうか」
「はい」
フレイヴィアさんがもう一度、手の中の剣を見る。
「それで、これか」
「はい」
「……そうか」
返された剣を受け取った瞬間、腕が僅かに沈んだ。
……フレイヴィアさんの手では、あんなに軽そうだったのに。
考えてみれば、当たり前のことだ。
今の七種族へ合わせて作られた武具が、僕には合わない。
この世界にもし本当に僕以外に人間がいないのなら、人間のために作られた武器が残っていないのだって当然なのかもしれない。
「主」
顔を上げる。
フレイヴィアさんは僕ではなく、手元へ戻った剣を見ていた。
「数日待て」
「数日?」
「主に合いそうなものを探してくる」
「あるんですか?」
「知らぬ」
思わず顔を見る。
黄金の瞳は真面目だった。
「知らないんですか」
「知らぬが、余の蔵にはいろいろと物が多い。一つくらいは使えるものがあるかもしれん」
――そう言い残し、フレイヴィアさんは訓練場を出ていった。
そして、一か月ほど帰ってこなかった。
◆
「それで、一か月帰ってこなかったんですよね」
「はい」
「数日と言っていたのに?」
アルナさんの声で、訓練場の景色が朝の商業区へ戻る。
「竜族にとっては誤差だそうです」
茶色い猫耳が少しだけ横へ倒れた。
「便利ですね、竜族」
「僕もそう思いました」
歩きながら片刃剣の鞘へ触れる。
「そのあと、この片刃剣を?」
「はい。何に使う武器か分からないまま、蔵へ置いてあったそうです」
腰から鞘を少し持ち上げる。
朝日が金具の縁へ細く反射した。
「持ってみたら、驚くほど軽くて……初めて、武器に振り回されずに済みました」
「それから、ずっと?」
「はい」
アルナさんはしばらく片刃剣を眺め、それから柔らかく目を細めた。
「フレイヴィア様は、ルキウスさんに合うものを探すため、一か月も」
「本人は、蔵を探しただけだと言っていました」
「どれほど大きな蔵なのでしょう」
「僕も知りません」
少しだけ間が空く。
「少し怖いですね」
「物を捨てられない人なので」
「……納得しました」
妙に実感のこもった声だった。
……アルナさんも、フレイヴィアさんの部屋を見たことがあるんだろうか。
少し気になった。
けれど、尋ねるのはやめておく。
……知らない方がいいこともある。
「なら今日は、その片刃剣を長く使うための準備も整えましょうか」
アルナさんが正面を指す。
気づけば、もう武具屋の前まで来ていた。
「はい」
扉へ手を掛ける。
――開いた隙間から、金属を打つ音と炉の熱気が一度に押し寄せてきた。
◆
武具屋の奥では、大柄な獣人族の女性が槌を振るっていた。
――赤く熱した金属へ槌が落ちるたび、火花が細かく散っていく。
店内には焼けた鉄と油の匂いが満ち、外とは空気そのものが違って感じられた。
店番をしていた小人族の男性が顔を上げ、アルナさんを見るなり片手を上げる。
「いらっしゃい。お、アルナ嬢じゃないか」
「おはようございます。今日は装備の相談で伺いました」
アルナさんが一礼する。
男性の視線が、その隣にいる僕へ移った。
「そっちのフードの兄ちゃんは……ああ、北の雪原から帰ってきたっていう」
「ええと、はい」
腰へ手を当てた男性が、僕の外套を上から下まで眺める。
「ランク5になったんだってな。そりゃ、ただの修理じゃ済まなさそうだ」
「見ただけで分かるんですか?」
「縫い目の数を見りゃな」
言われて、自分でも外套を見る。
女将さんが丁寧に縫ってくれた跡が、右にも左にも走っていた。
……少し誇らしい気もする。
ただ、防具として褒められているわけではなさそうだ。
「ランク5への昇格に伴い、装備の新調をお願いします」
アルナさんが僕より半歩前へ出て、帳面を開く。
「本人は重い装備を扱えません。動きを阻害しないことを最優先に、胸、脇腹、膝、脛の防御を強化したいです」
「力で受けるんじゃなく、避ける型か」
「はい。今の防具は修理して、予備へ回します」
店番が頷き、奥へ声を掛けた。
――槌を置いた獣人族の女性が、額の汗を腕で拭いながらこちらへ歩いてくる。
「武器は?」
「こちらです」
片刃剣を鞘ごと差し出す。
鍛冶職人はその形を見るなり眉を寄せた。
「……何だい、こりゃ」
「分かりませんか?」
「少なくともうちじゃ扱ったことがないね。剣にしちゃ細い。短剣にしちゃ長い。しかも片刃で、妙な反りまである」
鞘を両手で受け取った鍛冶職人が、光の下へ翳す。
少し眺めたあと、僕へ顎をしゃくった。
「抜いてみな」
「はい」
鞘から片刃剣を引き抜く。
――炉の赤い光が、細い刃の表面を滑っていく。
鍛冶職人が正面から。
次に横から。
最後に刃先へ顔を寄せ、短く息を吐いた。
「珍しいなんてもんじゃない。あたしも初めて見る」
「武具屋の方でも?」
「ああ。けど、いい刃だ」
太い指が、刃へ触れないぎりぎりの位置をゆっくりとなぞる。
「手入れは少し荒いが、使い方は悪くない。刃筋も通ってる」
「見れば分かるんですか?」
「刃には使ったやつの癖が残る。雑に振り回してきた刃じゃない」
褒められたのは片刃剣のはずなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
隣へ目を向けると、アルナさんの猫耳も嬉しそうに動いていた。
「ただ、鞘は替えた方がいい」
鍛冶職人が鞘の口元を指で押す。
「雪と水を随分吸ってるだろ。内側に湿気が残れば、どんな刃でも傷む。形が特殊だから、一から作ることになるよ」
「お願いできますか」
「あたぼーよ」
僕が頷くと、鍛冶職人はすぐ注文書へ何かを書き込んだ。
「手入れ道具も合わせておく。今の油だと、この刃には少し重い」
「それもお願いします」
今度は僕の防具へ手を伸ばし、胸元や脇腹を指で押していく。
革の内側から、小さな軋みが返った。
「胴は軽い革材を重ねる。金属は急所だけ。脇腹と胸を守って、肩は動かせるように空ける」
「脚は?」
「膝と脛だけ補強する。足を止めたら、あんたの戦い方じゃ終わりだろ」
「分かるんですか?」
「そりゃあな。だてに何年もこの仕事してないよ」
雪原で、何度も白い爪を避けたことを思い出す。
……脚が止まれば、刃を届かせる場所へ踏み込むこともできない。
「外套には耐寒と耐水を足す。あとは手袋だね」
「今のものがあります」
「指先をやられたら、その武器を握れないよ」
鍛冶職人が僕の右手を指す。
……反対側からも、アルナさんの視線が刺さる。
「お願いします」
「よろしい」
僕の返事へ、なぜかアルナさんが満足そうに頷いた。
……この買い物の最終決定権、本当に僕にあるんだろうか。
「予算は?」
店番の問いに財布へ手を置く。
「報奨金があります」
答えたものの、声が少しだけ弱くなった。
……自分でも分かるくらいに。
「使うのが惜しいかい?」
「惜しいというか……大きな金額を使うことに慣れていなくて」
横で帳面が開く。
アルナさんが僕より半歩前へ出た。
「必要な範囲でお願いします。ただし、安さを優先して性能を落とすつもりはありません」
「受付嬢が財布番か」
「はい」
店番が笑う。
僕は反射的に頷いた。
「助かります」
「ルキウスさん」
茶色い猫耳がこちらへ向く。
……何かまずかった?
「そこは、もう少し迷ってもよいところですよ」
「ですが、アルナさんに任せた方が確実なので」
一瞬だけ目が丸くなる。
そのあと、アルナさんが少しだけ胸を張った。
「……任せてください」
尻尾まで機嫌よさそうに一度揺れた。
採寸と素材選びが一段落したところで、鍛冶職人が注文書を見ながら口を開く。
「そういや、雪原の大型から取れた素材は、まだギルド預かりだったね」
「はい。水憑きの調査が終わるまでは、使えないそうです」
「許可が出れば、討伐者には優先使用権がある。毛皮も骨も、軽量装備には向きそうだけど」
あの大型の白い毛を思い出す。
何度も僕たちを追い詰めた爪。
硬い骨。
……勝った証として欲しいわけじゃない。
あの戦いで得たものが、次も生きて帰るための形へ変わるなら、その方がいい。
「あの」
「何だい」
少し考えてから、鍛冶職人を見る。
「使用できるようになったら、ガルドさんの盾も補強できますか?」
鍛冶職人の片眉が上がる。
隣ではアルナさんの猫耳までこちらへ向いた。
「あんたの防具じゃなくて?」
「僕の分も必要です。でも、あの時はガルドさんが前にいてくれたから勝てました」
白い爪を受け止めた大盾。
何度弾き飛ばされても、僕の前へ戻ってきた背中。
……あれがなければ、僕の刃は一度も届かなかった。
「ガルドさんの盾が強くなれば、僕ももっと戦えます」
「自分のためでもあるってことかい?」
「はい」
鍛冶職人が豪快に笑った。
「正直でいいね」
注文書へ新しい項目が書き足される。
「使用許可が出る前に、今の盾を見せてもらう必要はある。持ち手や縁の補強なら、先に準備できるだろう」
「武器も必要ですか?」
「片手で使えるものならな。盾役なら、短い斧か打撃武器がいい。ただし本人を連れてこないと調整できないよ」
……本人。
そこが少し困る。
「本人には、渡す時まで内緒にできますか?」
「内緒?」
鍛冶職人とアルナさんが、ほとんど同時に僕を見る。
「はい」
僕が頷くと、アルナさんが帳面から顔を上げた。
「ガルドさんの盾を、どうやって持ってくるつもりですか?」
「宿を聞けば、運び出せると思います」
「それは盗みでは?」
「返します」
アルナさんが額へ指を当てる。
……何か違ったらしい。
「そういう問題でしょうか」
「でも、返しますよ?」
「そこではありません」
困ったような声だった。
ただ、口元には僅かに笑みが浮かんでいる。
「ガルドさん、驚くでしょうね」
「怒られるかもしれません」
「たぶん、照れ隠しで怒ります」
「ありそうです」
鍛冶職人が再び笑い、注文書を机へ置いた。
「いいだろう。素材の件はギルドとも話しておく。ただし、金はかかるよ」
「払います」
今度は迷わなかった。
横から視線を感じる。
見ると、アルナさんが少しだけ驚いた顔をしていた。
「ルキウスさん」
「必要なものなので」
大きな金額を使うのは、まだ怖い。
……けど、ここで惜しいとは思わなかった。
「……はい」
アルナさんが静かに頷く。
「必要なものですね」
僕も頷く。
それはガルドさんへの贈り物で。
同時に、僕がこれからも戦うための備えでもある。
僕が刃を届かせるために。
ガルドさんが、また僕の前へ立てるように。
……そう考えれば、高いとは思わなかった。
◆
武具屋を出た頃には、太陽が随分と高くなっていた。
新しい軽量防具。
今までの防具の修理。
片刃剣へ合わせた鞘と手入れ道具。
耐寒と耐水を備えた手袋。
それから、ガルドさんの盾と武器の相談。
決めることは多く、使う金額も大きかった。
店を出てから改めて計算し、右手を開く。
……震えてる。
「大丈夫ですか?」
隣を歩くアルナさんが、僕の手元を覗き込む。
「はい」
「かなり大きな金額でしたが」
「少し手が震えています」
正直に答えると、アルナさんが小さく笑った。
「正直ですね」
「でも、必要なものだと思います」
「はい。良い使い方だと思います」
迷いのない言葉が返ってくる。
……それだけで、足元が少し安定した気がした。
「次は道具屋です」
アルナさんが帳面の次の頁を開く。
「保存食、予備の包帯、火起こし道具、ロープ、信号筒、耐水袋、薬草入れ。それから予備の水筒です」
「かなりありますね」
「あります」
帳面と自分の財布を見比べる。
……大丈夫かな。
「報奨金は残りますか?」
「残します」
即答だった。
……頼もしい。
僕は素直に頷いた。
◆
道具屋では、アルナさんの本領が発揮された。
「こちらは高すぎます。隣の品で十分です」
「けどよ、嬢ちゃん。こっちは丈夫さが――」
「重量が三割増えています。ルキウスさんには負担です」
――店主が取り出した大きな袋が、アルナさんの手で棚へ戻される。
「なら、この信号筒は?」
「湿気に弱いので、水辺の依頼には向きません」
「こっちなら防湿だ」
店主が別の商品を取り出す。
アルナさんは値札を見た瞬間、猫耳を僅かに動かした。
「値段が二倍です」
「性能もいいぞ」
「必要以上です」
……迷いがない。
僕はすでに購入が決まった荷物を抱えながら、二人のやり取りを見守った。
強い。
受付嬢は強い。
……少なくとも財布を守る戦いでは、僕よりずっと強い。
「保存食は量より携帯性を優先します。予備の包帯は多めに」
「薬はどうする?」
「セラフィーン様にも確認してからにします」
アルナさんの視線が、荷物の向こうにいる僕へ向く。
「ルキウスさんは、痛みを基準に薬を使うと遅れますので」
「なぜ僕を見ながら言うんですか?」
「ルキウスさんの話だからです」
なるほど。
「分かりました」
素直に頷くと、猫耳が僅かに横へ倒れた。
「ルキウスさん」
「はい」
「聞いていますか?」
「聞いています。アルナさんがすごいなと」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
「今は感心する場面ではありません」
「すみません」
アルナさんが手にしていた包帯を、僕の荷物の上へ載せる。
「本当に聞いていました?」
「保存食は軽いもの。包帯は多め。薬はセラフィーンさんへ確認」
猫耳がぴこりと動く。
「……聞いていましたね」
「はい」
僕一人なら、必要そうに見えるものを全部買っていた気がする。
……その結果、道具袋が重くなって、必要な時に必要なものを取り出せなくなっていたかもしれない。
アルナさんは、必要なものと不要なものを分けてくれる。
僕が持てる重さ。
使う状況。
受ける依頼。
道具を取り出す順番。
……そこまで考えて、選んでいる。
「ありがとうございます」
「仕事です」
アルナさんは帳面へ金額を書き込みながら、何でもないことみたいに答える。
……でも、今日は休みなんですよね。
口に出そうとして、尻尾の先が少しだけ嬉しそうに揺れているのを見てやめた。
◆
道具屋を出たところで、僕は足を止めた。
「アルナさん」
「はい」
振り返った猫耳がこちらへ向く。
「このあと、少し別の買い物をしてもいいですか?」
「お礼の品ですね」
「どうして分かったんですか?」
アルナさんの口元へ僅かな笑みが浮かぶ。
「道具屋で、何度も贈り物用の棚を見ていましたから」
「見られていたんですね」
「一緒に買い物をしていますので」
……本人には気づかれないようにしていたつもりだった。
考えてみれば、ずっと隣にいる人の目を盗む方が難しい。
「はい。お礼の品です」
「もちろんです。どなたへ?」
アルナさんが帳面を閉じる。
「女将さんと、セラフィーンさん。それからフレイヴィアさんです。ガルドさんの分は、先ほどお願いしました」
「そうですね」
少し考えてから、鞄の中の空きを確認する。
「ほかにも渡したい人はいますが、今日はまず、いつも助けてもらっている人から」
「良いと思います」
アルナさんの猫耳が穏やかに揺れた。
「お礼をしたいと思えるのは、素敵なことです」
「そうでしょうか?」
「はい。もらったものを、きちんと覚えているということですから」
そう言われると、少しだけ照れる。
僕は荷物を持ち直し、最初の店へ向かった。
女将さんへの品を探すため、香辛料と茶葉を扱う店へ入る。
――棚には形も色も違う小瓶が並び、袋へ詰められた茶葉からいくつもの香りが漂っている。
そして。
……選択肢が多すぎる。
「女将さんは、何が喜ぶでしょう」
「料理に使えるものがよいと思います」
アルナさんが棚を眺め、一つの小瓶を手へ取った。
「珍しすぎるものより、普段の料理へ少し加えられるものがよいかと」
「なるほど」
「本人へ尋ねるのが、一番確実ではありますが」
「それでは贈り物になりません」
僕が首を振ると、アルナさんも小さく笑った。
「そうですね」
店主へ相談しながら、上質な香辛料を数種類と、香りのよい茶葉を選ぶ。
……女将さんなら、自分だけで使わない気がする。
宿の料理へ入れるか。
食後のお茶として、みんなへ出してしまうか。
たぶん、そのどちらかだ。
次に薬草や硝子器を扱う店へ入り、セラフィーンさんには調合した薬や薬草を保管するための小さな硝子瓶を選んだ。
淡い青色の模様が入り、光へ翳すと水紋みたいな影が揺れる。
「綺麗ですね」
「セラフィーンさんに、迷惑ではないでしょうか?」
僕が瓶を見ながら尋ねると、アルナさんが蓋を一度開いてから閉じた。
「実用品ですし、きっと喜ばれます」
「では、これにします」
「はい。割れないよう、丁寧に包んでもらいましょう」
……問題は、フレイヴィアさんだった。
フレイヴィアさんへの品は、最後まで迷った。
酒は喜びそうだ。
珍しいものを見つければ、たぶん興味も持ってくれる。
……けど、せっかくならもう少し残るものを渡したい。
「難しい顔をしていますね」
隣から声を掛けられ、顔を上げる。
アルナさんの猫耳が、こちらを窺うように少し傾いていた。
「フレイヴィアさんのものが決まらなくて」
「お酒では駄目なのですか?」
「最初はそれも考えたんですけど……飲んだらなくなってしまうので」
アルナさんが一度だけ瞬きをする。
それから、少し柔らかく笑った。
「形に残るものを贈りたいのですね」
「……たぶん、そうです」
自分で口にしてから、店の棚へ視線を戻す。
今いるのは、小物や装飾品を扱う店だった。
首飾り。腕輪。耳飾り。髪留め。
細工の施された小さな箱まで、狭い棚へ所狭しと並んでいる。
……種類が多い。
さっきの香辛料より難しいかもしれない。
「フレイヴィアさんって、こういうものを着けるんでしょうか」
「装飾品ですか?」
「はい」
アルナさんが少し考える。
猫耳も一緒に僅かに傾いた。
「着けない方ではないと思います。ただ、ご自身で選ぶものにはかなり好みがありそうですね」
「ですよね」
……やっぱり難しい。
棚の前をゆっくり歩く。
金色のもの。
銀色のもの。
細かな宝石をいくつも使ったもの。
綺麗ではあるけれど、フレイヴィアさんが身につけている姿はあまり浮かばない。
そのまま隣の棚へ視線を移したところで、一つだけ目に留まった。
「……これ」
足を止める。
小さな台の上に置かれていたのは、細い銀の金具へ青緑色の石を嵌めた髪飾りだった。
大きなものではない。
飾りも派手ではなく、光が当たった時だけ青から緑へ色が揺れて見える。
「わぁー、綺麗ですねー!」
アルナさんも隣へ並ぶ。
僕は少し屈み、角度を変えて石を見る。
「確かにこれは、フレイヴィアさんの黒髪によく映えそうですね」
すぐに返事が来る。
僕はもう一度髪飾りを見る。
「派手すぎますかね?」
「いいんじゃないでしょうか。なにせフレイヴィア様ですし」
「……なるほど」
その一言で、かなり心配が減った。
むしろこれくらいでは大人しい方なのかもしれない。
「でも、こういうものを僕が選んでもいいんでしょうか」
店へ入ってから何度目か分からない迷いが口から出る。
アルナさんは髪飾りと僕を見比べた。
「ルキウスさんが、フレイヴィア様に似合うと思ったのでしょう?」
「はい」
「でしたら、それで十分だと思います」
茶色い猫耳が小さく揺れる。
「贈り物ですから」
「……そうですね」
もう一度、青緑色の石を見る。
フレイヴィアさんなら、値段や珍しさより先に「主が余へ?」と言いそうな気がした。
そのあと、たぶん何でもないような顔をしようとして。
……尻尾だけは、隠せないかもしれない。
少し想像して、口元が緩む。
「決まりましたか?」
「はい」
僕は店主を呼び、髪飾りを指した。
「これにします」
青緑色の石が、夕方の光を受けて小さく色を変える。
……フレイヴィアさんが気に入ってくれるかは分からない。
それでも。
あの黒い髪には、きっと綺麗に映えると思った。
いくつもの包みが、鞄の中へ増えていく。
どれも自分のためのものではない。
誰かへ渡すものだ。
……それが増えるたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
今まで僕は、たくさんのものをもらってきた。
食事。
治療。
言葉。
訓練。
助け。
帰る場所。
そのすべてを、お金で返せるわけではない。
……むしろ、返そうとする方が失礼なものだってあると思う。
でも、返したいと思った気持ちを形にすることならできる。
十分だとは思わない。
……それでも、何もしないよりはずっといい。
◆
買い物を終える頃には、空が茜色へ変わり始めていた。
思っていた以上に歩いたらしく、脚にも少しだけ疲れが溜まっている。
装備の相談。
道具の選別。
贈り物選び。
戦闘とはまるで違う疲れだった。
……でも、不思議と嫌ではない。
「今日は、かなり使いましたね」
アルナさんが歩きながら帳面を確認する。
「はい」
「ですが、新しい装備と道具、それから贈り物を含めても、報奨金は十分に残っています」
帳面の数字を横から覗き、思わず胸を撫で下ろす。
「よかったです」
「ガルドさんの盾と武器に掛かる費用は、後日確定します」
「分かりました」
アルナさんが帳面を閉じ、僕を見る。
「それを含めても、無駄遣いではありません。良い使い方だったと思います」
「ありがとうございます」
……本当に助かった。
アルナさんがいなければ、途中で何を選べばいいのか分からなくなっていたと思う。
どこまで使っていいのか。
何が必要で。
何が余分なのか。
一人では、きっと判断できなかった。
「あの、アルナさん」
「はい」
猫耳がこちらへ向く。
鞄を肩へ掛け直し、一度だけ息を整える。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ。業務ですから」
「今日はお休みですよね」
アルナさんが一瞬だけ言葉を止めた。
手にしていた帳面が、静かに鞄へ戻される。
「……私が同行したかったので、業務ではありません」
「では、余計にありがとうございます」
「どういたしまして」
少しだけ視線が逸れる。
頬へ夕日の色が重なり、尻尾まで落ち着かないように左右へ揺れていた。
僕は鞄の中へ手を入れる。
ほかの包みの間へ隠していた、細長い箱を取り出した。
「それで、その」
「はい?」
アルナさんがこちらを見る。
「これ」
――猫耳がぴんと立つ。
それまで揺れていた尻尾まで、途中でぴたりと止まった。
「私に、ですか?」
「はい」
「ですが、私はずっと一緒にいましたよね」
アルナさんが僕と箱を何度か見比べる。
「なので、最後に渡そうと思っていました」
「最後に……」
差し出すと、アルナさんは両手でそっと箱を受け取った。
「開けてもよろしいですか?」
「もちろんです」
薄い布が解かれる。
中へ収められているのは、一本の筆記具だった。
黒い軸に、淡い銀色の飾り。
派手ではない。
……でも、毎日使えて、なるべく長く持ちそうなものを選んだ。
「これは……」
「いつも、僕の報告を書いてくれているので」
改めて説明すると、少し恥ずかしい。
僕は通りの先へ視線を逸らした。
「それと、いつも心配をかけているお詫びです」
「お詫び……」
アルナさんの指先が、銀色の飾りへそっと触れる。
そのまま黒い軸を撫で、今度は角度を変えて眺め始めた。
……思っていたより、ちゃんと見てくれている。
「気に入りませんでしたか?」
「まさか!」
勢いよく顔が上がる。
茶色い猫耳まで一緒にぴんと立った。
「すごく嬉しいです」
そう言ってから、アルナさんはもう一度筆記具へ目を落とした。
口元が緩んでいる。
隠そうとしているのか少し唇を結んだけれど、今度は尻尾の先が左右へ揺れ始めた。
「ありがとうございます、ルキウスさん」
「はい」
両手で大事そうに筆記具を持ち、胸元へ少しだけ寄せる。
「大切に使います」
「報告を書く時に?」
「もちろんです」
アルナさんが小さく笑う。
「せっかくルキウスさんからいただいたものですから、毎日使ってもいいくらいです」
「毎日だと、すぐに傷みませんか?」
「では、なるべく傷まないように大切に使います」
「難しくなりましたね」
「大丈夫です。得意ですから」
何が得意なのかはよく分からない。
けれど、嬉しそうなのでたぶん大丈夫なんだと思う。
アルナさんはもう一度だけ筆記具を眺め、それから箱へ丁寧に戻した。
包みまできちんと畳み直し、鞄の中へそっと収める。
その間も、茶色い猫耳はずっと機嫌よさそうに揺れていた。
「本当に、ありがとうございます」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
僕が答えると、アルナさんは少しだけ目を丸くした。
それから照れたように頬を緩め、鞄の蓋を大事そうに閉じた。
――茜色の光の中を、夕方の商業区を行き交う人たちが歩いていく。
一日の仕事を終えた店が扉を閉め始め、その間を夕食を買い求める人々の声が埋めていた。
焼いた肉の匂い。
果実を煮詰める甘い香り。
子どもの笑い声。
荷車がゆっくりと石畳を進む音。
……穏やかだ。
装備を選んだ。
贈り物を買った。
アルナさんと色々な話をした。
外套の上から胸元へ触れる。
五本の印が刻まれたカードは、変わらずそこにあった。
ランク5になっても、僕自身が急に変わったわけではない。
できないことは多い。
身体も強くない。
大切な人へ、自分の正体すらまだ話せない。
……それでも。
少しずつ進めばいい。
刃を整えて。
身体を守るものを選んで。
帰りを待ってくれる人へ、必ず帰ると約束する。
……今日は、そんな一日だった。
「では、ギルドへ戻りましょうか」
アルナさんが歩き出そうとする。
――その時、通りの奥で何かが倒れる鈍い音が響いた。
足が止まる。
夕暮れのざわめきの中なのに、その音だけが妙にはっきり聞こえた。
続いて短い悲鳴が上がり、人の流れが不自然に左右へ割れていく。
――通りの奥から、一人の男がよろめくように走ってくる。
港湾作業員らしい厚手の服は、腰の辺りまで濡れていた。
髪も。
腕も。
まるで今しがた海から這い上がってきたみたいに、全身から水を滴らせている。
「道を……空けてくれ!」
掠れた声が通りへ響く。
男は人を押し分けながらギルドの方角へ走ろうとして――足をもつれさせた。
――抱えていた木箱が石畳へ落ち、外れた蓋の向こうから道具が乾いた音を立てて転がる。
さっきまで聞こえていた笑い声が消えた。
商人が口を閉じる。
通行人が道の端へ寄る。
……何だ?
温かな夕暮れの中へ、そこだけ冷たいものが混じったみたいだった。
――空気が変わる。
隣を見る。
アルナさんの表情から、さっきまでの柔らかな笑みが消えていた。
茶色い猫耳が鋭く立ち、受付台へ立っている時と同じ目で男を捉えている。
「何があったのですか!」
アルナさんが駆け出す。
僕も荷物を石畳へ置き、そのあとへ続いた。
男は両手を膝へつき、何度も荒い息を吐いている。
服から落ちた水が、乾いていた石畳へ黒い染みを広げていった。
「潮入り……岩礁地帯に、モンスターが出た」
「種類は?」
アルナさんが男の肩へ手を添える。
男は息を吸おうとして咳き込み、震える指で港の方角を示した。
「分からない。見たことのある獣だったはずなのに……様子が違う」
「どのように?」
濡れた袖から、また一滴。
――石畳へ落ちた水が、夕日に鈍く光る。
男が青ざめた顔を上げた。
「全身から……ずっと水を流してやがる」
その言葉を聞いた瞬間、雪原の冷気が記憶の奥から吹き返した。
濡れた白い毛。
傷口から溢れ続けた水。
血へ混じっていた、あの潮の匂い。
隣を見る。
――アルナさんの猫耳が、張り詰めるように静止する。
僕も胸元から手を下ろした。
五本目の印ではなく、腰の片刃剣へ指を掛ける。
――夕暮れの商業区を、海の方角から冷たい風が吹き抜けていく。
さっきまで胸へ残っていた温かさが、急速に遠のいていった。
……穏やかな一日は、そこで終わった。
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