駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第三章 第二話『少年は濡れた獣を斬る」』

 

 ◆

 

 ――潮入り岩礁地帯に、水憑きが出た。

 その言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは北の雪山だった。

 

 濡れた白い毛。

 傷口から血よりも多く溢れ続けていた水。

 身体が壊れても、それを気にする様子すらなく僕たちへ襲いかかってきた大型。……だとしたら、港の人たちが危ない。

 

 そう思った時には、もう走り出していた。

 背後からアルナさんが僕の名前を呼んだ気がする。

 けれど、振り返るより先に人の間へ身体を滑り込ませ、港へ続く大通りを駆け下りていた。

 腰の片刃剣が外套へ何度もぶつかる。

 さっきまで持っていた買い物の荷物をどうしたのかも、その時は頭から抜け落ちていた。

 

 ……あれが何なのかは、まだ分からない。

 ギルドでも調査中だった。

 雪山で見つけた一体だけなら、たまたまあの個体だけに起きた異常だった可能性だってある。

 ……でも。

 同じものが街のすぐ近くに出たなら、話は違う。

 

 石畳を強く蹴る。

 港へ近づくほど潮の匂いが濃くなり、行き交う人も商人から港湾作業員へ変わっていった。

 

「岩礁地帯から戻ってない奴がいるぞ!」

「南だ! 南側へ行け!」

「ハンターはまだ来ねえのか!」

 

 飛び交う声を横切りながら、そのまま南へ向かう。

 ……間に合ってくれ。

 それだけを考えていた。

 

 ――石畳が途切れ、足元が湿った岩場へ変わる。

 潮入り岩礁地帯へ入ったところで、遠くから金属のぶつかる音が聞こえた。

 続いて怒鳴り声。

 何かが岩へ叩きつけられるような鈍い音。

 そのあと、短い悲鳴が上がった。

 

「っ……!」

 

 片刃剣を抜く。

 濡れた岩へ足を取られないよう踏み込む場所だけを見ながら、声のする方へ走った。

 

「来るな! 来るなって!」

 

 岩の向こうから聞こえた声に、さらに足へ力を入れ――視界が開ける。

 

「……っ!」

 

 一人の男が岩を背にして尻餅をつき、その正面で灰褐色の獣が前脚を振り上げていた。

 男の手元には折れた棒しかない。

 逃げようにも、背中は岩へついている。

 そして獣の全身からは――濡れているだけでは説明できないほどの水が流れ落ちていた。

 

 考えるより先に岩を蹴る。

 男と獣の間へ身体を滑り込ませ、振り下ろされる前脚へ片刃剣を合わせ――刃と爪がぶつかり、右腕へ重い衝撃が走る。

 

「ぐっ……!」

 

 真正面から受けた刃が押し込まれる。

 重い。

 腕だけでは支えきれない。

 片刃剣を僅かに傾け、身体を半歩だけ横へ逃がした。

 

 ――爪が刃の上を滑り、そのまま岩へ叩きつけられる。

 火花が散る。

 獣の頭が僅かに下がった。

 ……今。

 一歩踏み込み、空いた首元へ片刃剣を振り抜く。

 

 ――濡れた毛を裂き、その奥へ刃が入る。

 獣の身体が大きく揺れた。

 すぐに刃を抜き、一歩下がる。

 傷口から飛び散ったものが頬へ掛かった。

 

 ……冷たい。

 血だけじゃない。

 薄く濁った水が、切り口から止まることなく流れ出している。

 ……やっぱり。

 雪山と同じだ。

 

「立てますか!」

 

 獣から目を離さず、背後の男へ声を掛ける。

 

「え……」

 

 返事が遅い。

 荒い呼吸だけが背中越しに聞こえた。

 

「怪我は!」

「あ、ああ……いや……」

 

 まだ何が起きたのか分かっていないみたいだった。

 岩へ手をついたまま、僕と水憑きを交互に見ている。

 

「あ、ありがとう……」

「下がってください!」

「わ、分かった!」

 

 男が岩へ手をつきながら立ち上がる。

 その足音が離れ始めたところで、水憑きがもう一度こちらへ顔を向けた。

 

 ……来る。

 片刃剣を構える。

 

 ――獣が岩場を蹴る。

 真正面には残らない。

 身体を左へ逃がし、すれ違う瞬間に脇腹へ刃を走らせた。

 ――また濁った水が散る。

 

「っ……!」

 

 外套へ冷たい飛沫が掛かる。

 それでも獣は止まらなかった。

 斬った場所を庇うこともない。

 痛みに反応した様子すらなく、すぐ前脚を踏み直す。

 

「……痛く、ないのか」

 

 違う。

 たぶん、痛くないわけじゃない。

 雪山の大型と同じなら――身体が壊れることより、別の何かを優先している。

 

「そっち、一体抜けたぞ!」

 

 少し離れた場所から怒鳴り声が飛んできた。

 反射的にそちらへ視線を向ける。

 そこで初めて、岩場の奥まで見えた。

 

「……あれは」

 

 声が漏れた。

 一体じゃない。

 

 潮入り岩礁地帯のあちこちで、何人ものハンターと獣が戦っている。

 岩陰にも。

 浅瀬の手前にも。

 数は身体が重なって正確には分からない。

 ……けれど、僕の位置から見えるだけでも十体近くいる。

 

 そして、そのすべてが全身から水を流していた。

 ……こんなに?

 近くでハンターへ角を振り上げている個体を見る。

 灰褐色の太い毛。

 頭から前へ伸びた二本の角。

 低く太い身体。

 

 ……ガルグ獣?

 依頼書で何度か見たことがある。

 乾いた岩山や荒地を好むモンスター。

 水辺へ近づくこと自体が珍しい種類だったはずだ。

 

 それが、どうして海沿いにいる?

 しかも、一体じゃない。

 

 ガルグ獣の生息域からここまではかなり離れている。

 偶然迷い込んだと言うには、数も距離もおかしい。

 

 ……街の近くまで来てる。

 

 ここは門からでてすぐの場所だ。

 そのくらい近い場所に。

 本来ならもっと遠くにいるはずのモンスターが、水憑きになって何体もいる。

 

「危ない!」

 

 声に反応して正面へ戻る。

 ――目の前のガルグ獣が、太い角を振り上げる。

 身体を引く。

 角の先端が外套の胸元を掠めて抜けていった。

 

 すぐ横へ回り込み、さっき斬った前脚の付け根へもう一度片刃剣を入れる。

 ――刃が肉へ入り、濁水が勢いよく流れ出す。

 ガルグ獣の身体が沈んだ。

 前脚が支えられなくなったところへ踏み込み、首元へ片刃剣を走らせる。

 ――巨体が岩場へ倒れる。

 

「……っ」

 

 片刃剣を抜き、すぐ周囲を見る。

 まだ終わっていない。

 少し離れた場所では丸盾を持ったハンターが一体を押し止め、その後ろから槍が突き出されている。

 さらに奥でも二人がかりで一体と戦っていた。

 

「手が空いたなら、こっちを頼む!」

 

 丸盾を構えている小人族の女性から声が飛ぶ。

 

「はい!」

 

 岩を蹴り、そちらへ向かう。

 ――ガルグ獣が丸盾へ頭を叩きつける。

 

「ぐっ……!」

 

 小柄な身体が後ろへ押される。

 僕は右側から回り込み、獣の後脚へ片刃剣を入れた。

 ――刃が毛皮を裂き、また水が飛び散る。

 

「そっちから来たのか!」

「今着きました!」

「なら話はあとだね!」

 

 女性が盾を押し返す。

 ガルグ獣の顔が僅かに持ち上がった。

 

「右、空いたよ!」

「はい!」

 

 一歩踏み込む。

 今度は首ではなく、前脚の関節へ刃を走らせた。

 ――ガルグ獣が姿勢を崩す。

 

「今!」

 

 女性の声とほとんど同時に、後ろから長い槍が伸びてきた。

 穂先が首元へ深く入り、ガルグ獣の身体が大きく震える。

 

 僕も片刃剣をもう一度振るう。

 ――巨体が崩れ、濡れた岩へ横倒しになる。

 

「助かったよ」

「いえ」

 

 丸盾を持った女性が短く息を吐く。

 盾の中央にはすでにいくつか新しい傷があった。

 

「ルキウスです」

「ミラだ」

 

 名前だけを交わし、すぐ二人とも周囲を見る。

 ……今は、それだけで十分だ。

 

「上から行くぞ!」

 

 声に顔を上げる。

 ――高い岩の上で、大きな弩を構えた犬耳の獣人族が弦を放つ。

 太い矢が一体の肩へ突き刺さった。

 ガルグ獣が身体を揺らす。

 

「ナッシュ! 次、左!」

「見えてる!」

 

 少し離れた場所で、長い耳を持つエルフ族の男性が槍を構えていた。

 ……もう何人かハンターが来てる。

 なら、僕だけで何とかしようとしなくていい。

 

「そっちのフード!」

 

 ナッシュさんらしい獣人族から声が飛ぶ。

 

「足止めできるか!」

「やります!」

 

 近くのガルグ獣を見る。

 前脚。

 首。

 傷ついても止まらない。

 ……だったら、動けなくする。

 

 横から走る。

 ガルグ獣が僕へ顔を向けた。

 ――太い角が横へ薙がれる。

 

 上体を伏せる。

 頭の上を角が抜けた瞬間に一歩踏み込み、右前脚へ片刃剣を振り下ろした。

 ――刃が関節へ入る。

 

「今です!」

 

「おう!」

 

 弩弦が鳴る。

 ――太い矢がガルグ獣の首へ突き刺さる。

 巨体が大きく傾いた。

 完全には倒れない。

 僕はすぐ一歩離れた。

 

「もう一発――」

 

 言いかけたところで、ガルグ獣の動きが変わった。

 僕を見る……いや、見ていない。

 顔が僕の横を通り過ぎ、その向こう、その先――海。

 

「……え?」

 

 ――ガルグ獣が、突然こちらへ背を向ける。

 一瞬、逃げたのかと思った。

 違う。

 傷ついた前脚を引きずりながら、一直線に岩場を走り始める。

 人のいない方向じゃない。

 安全な岩陰でもない。……海?

 

「おい! そいつ止めろ!」

 

 近くにいたハンターが進路へ入る。

 ガルグ獣は止まらない。

 ――頭を下げ、そのまま盾へ身体を叩きつける。

 

「ぐっ!」

 

 盾ごとハンターが横へ弾かれた。

 

「大丈夫ですか!」

 

 駆け寄ろうとして、足が止まる。

 ……違う。

 ガルグ獣は倒れた人へ見向きもしなかった。

 追い打ちも。

 噛みつきも。

 こちらへ戻ってくることすらない。

 ――道が開いた瞬間、また海へ向かって走り始める。

 

「何だ……?」

 

 ナッシュさんの声が聞こえる。

 僕も同じものを見ていた。

 

 ガルグ獣が浅瀬へ入る。

 水が脚を覆う。

 腹まで浸かる。

 ……止まらない。

 水辺を好む種類じゃない。

 泳ぐモンスターでもない。

 

 ――それでもガルグ獣は速度を落とさず、そのまま海へ飛び込んだ。

 大きな水飛沫が上がる。

 少しして灰褐色の背中も見えなくなった。

 

「……なんで」

 

 呟いたところで、別の方向から声が上がる。

 

「おい、こいつもだ!」

 

 振り向く。

 ――二人のハンターと戦っていた一体が、突然動きを止める。

 剣を構える人。

 槍を向ける人。

 そのどちらにも目を向けない。

 

 ゆっくりと。

 ……同じ方を向いた。

 海。

 

「……また?」

 

 ――ガルグ獣が走り出す。

 

「止めろ!」

 

 槍が肩へ刺さる。

 剣が脇腹を裂く。

 それでも振り返らない。

 

 ――海へ。

 

 ただ、海へ向かって走っていく。

 

「何なんだよ、こいつら!」

 

 誰かが叫ぶ。

 その声に答えるものはない。

 ――岩陰から現れた別の一体も、海へ向きを変える。

 その後ろでも。

 さらに奥でも。

 

 一体。

 また一体。……逃げてる?

 

 そうは見えない。

 

 逃げるなら、もっと近い岩陰がある。

 人から離れればいい。

 わざわざ苦手な水へ入る必要なんてない。

 

 それなのに。

 ――傷ついたガルグ獣が、脚を引きずりながら海へ進んでいく。

 途中にハンターが立てば押し退ける。

 攻撃されても、相手を倒そうとはしない。

 道さえ開けば、すぐにまた進む。

 

 ……海へ。

 

 波の音。

 濡れた岩を蹴る足音。

 水憑きの身体から流れ落ちる水。

 

 その全部が、同じ方向へ進んでいるように見えた。

 ……気持ち悪い。

 背中へ寒気が走る。

 

「海へ行かせるな!」

 

 ミラさんの声で我に返る。

 

「分かりました!」

 

 考えるのはあとだ。

 海へ入った個体がどうなるのかも分からない。

 だったら、今止められるものは止める。

 ――僕は片刃剣を構え、海へ走り始めた一体の横へ回り込む。

 

「前へ入るよ!」

 

 ミラさんが先に進路を塞いだ。

 

「お願いします!」

 

 ガルグ獣の頭が下がる。

 ……やっぱり。

 ミラさんを狙ったんじゃない。

 その向こうにある海を見たままだ。

 ――角が丸盾へ叩きつけられる。

 

「っ……!」

 

 ミラさんの身体が押される。

 その間に僕は横へ踏み込み、前脚の付け根へ片刃剣を深く入れた。

 ガルグ獣の身体が沈む。

 

「右!」

 

 後ろから声。

 反射的に身体を引く。

 ――長い槍が僕の前を抜け、ガルグ獣の首へ突き刺さる。

 

「助かりました!」

「ティオルだ!」

 

 エルフ族の男性が槍を引き抜く。

 

「名前は後でいい! 次が来る!」

 

 ……確かに。

 

 倒れた個体の奥から、また一体がこちらへ走ってくる。

 でも目は僕たちに向いていない。

 海。

 ……全部、同じだ。

 

「来ます!」

 

 僕が言うと、ミラさんが丸盾を構え直す。

 ティオルさんがその後ろで槍を引く。

 岩の上ではナッシュさんが次の矢を番えている。

 

「今度は脚から!」

「分かった!」

 

 今度は、言えた。

 ……三人いる。

 僕一人じゃない。

 

 ガルグ獣が迫る。

 ミラさんが正面へ入る。

 ――角と丸盾がぶつかる。

 その右側へ回る。

 刃を低く構え、前脚の関節へ片刃剣を走らせる。

 

「ティオルさん!」

 

「見えてる!」

 

 反対側から槍が入る。

 ――ガルグ獣の前脚が折れ、身体が大きく崩れる。

 

「ナッシュさん!」

 

「呼ばなくても撃つ!」

 弩弦が鳴る。

 ――矢が首へ突き刺さる。

 倒れた。

 すぐ次を見る。

 

 ……一体。

 右。少し遠い。

 その向こうでもまだ戦ってる。

 

「行きます!」

 

「一人で行くな!」

 

 ミラさんの声に足が止まる。

 

「……あ」

 

「今四人だよ! 使いな!」

 

 丸盾を叩かれる。

 

「はい!」

 

 ……危なかった。

 また一人で走るところだった。

 

 僕たちは次の一体へ向かった。

 

 ◆

 

 それから、どれくらい戦っていたのかは分からない。

 一体を倒す。

 次へ向かう。

 海へ走り始めるものがいれば進路を塞ぐ。

 間に合わず、浅瀬へ飛び込んでいく個体もいた。

 ――片刃剣を振り抜く。

 濁水が散る。

 

「左!」

 

 声に反応して一歩退く。

 ――ミラさんの盾が僕のいた場所へ滑り込み、横から振られた角を受け止める。

 

「ありがとうございます!」

 

「次!」

 

 右へ回る。

 ――ティオルさんの槍がガルグ獣の顔を逸らす。

 

 首元が空く。

 片刃剣を振るう。

 ――刃が深く入る。

 巨体が岩へ崩れた。

 

「これで何体だ!」

 

 ナッシュさんの声が岩場へ響く。

 

「数えてません!」

「数えとけ!」

「戦ってるので無理です!」

「そりゃそうだ!」

 

 弩弦が鳴る。

 ――僕たちから少し離れた個体へ矢が突き刺さった。

 

 そのまま走る。

 息が上がってきた。

 右腕も少し重い。

 ……でも、まだ動く。

 

 岩場のあちこちに水憑きの死骸が増えていく。

 その身体から流れ出した水が、岩の溝を伝っていた。

 

 ……まただ。

 

 走りながら足元を見る。

 本来なら岩の傾斜に沿って散っていくはずの水が、細い筋になって同じ方向へ流れている。

 

 海。

 ……水まで?

 

「ルキウス!」

 

 ティオルさんの声に顔を上げる。

 

「前!」

「っ!」

 

 ――ガルグ獣の頭が目の前まで迫っていた。

 身体を横へ投げる。

 角が外套を掠める。

 

 危ない。

 今は足元を見るな。

 

「すみません!」

「見るなとは言わん! 戦ってる最中に下ばかり見るな!」

「はい!」

 

 言われた通りだった。

 ……ガルドさんにも似たようなことを言われそうだ。

 

 ガルグ獣が向きを変える。

 こっちへ来る。

 ……いや。

 違う。また海を見た。

 

「また行く!」

 

 ミラさんが先に気づく。

 

「止めます!」

 

 三人で進路へ入る。

 ――ガルグ獣が迷うことなく突っ込んでくる。

 怖がってない。

 怒ってもいない。

 僕たちを倒そうとしているようにも見えない。

 

 ただ、邪魔だから退かそうとしている。

 ……何がそこまで。

 角を避ける。

 脚を斬る。

 ティオルさんの槍が入る。

 ミラさんが押し返す。

 ――ナッシュさんの矢が首へ刺さる。

 ガルグ獣が倒れた。

 

「次!」

 

 顔を上げる。

 ……いない。

 

「……え?」

 

 岩場を見回す。

 倒れている水憑き。

 戦っていたハンター。

 負傷した港湾作業員。

 浅瀬。

 立っているガルグ獣は、もう見えなかった。

 

「終わりか?」

 

 ナッシュさんが高い岩の上から周囲を見渡す。

 

「北側、動いてるのはいない!」

「こっちもだ!」

 

 離れた場所から別のハンターの声が返る。

 

「岩陰確認するよ!」

 

 ミラさんが盾を持ったまま進む。

 僕も後ろへ続いた。

 一つ。

 二つ。

 岩陰を確かめる。

 動かない――最後の岩陰にも、水憑きの姿はなかった。

 

「……終わった」

 

 息と一緒に声が漏れる。

 片刃剣を下ろす。

 ……でも、鞘には戻せなかった。

 

 周囲から少しずつ荒い呼吸が聞こえてくる。

 座り込む人。

 武器を岩へついて身体を支える人。

 怪我人のところへ走る人。

 

「さっきの人は……」

 

 最初に助けた港湾作業員を探す。

 少し離れた岩陰で、別の作業員に肩を借りながら立っていた。

 僕と目が合う。

 一瞬驚いたような顔をしたあと、小さく頭を下げた。

 

 ……無事だ。

 

 それを見て、ようやく少しだけ胸の力が抜ける。

 

「ルキウスさーん!」

 

 遠くから聞き慣れた声がした。

 振り返る。

 ――岩礁地帯へ続く道を、アルナさんがこちらへ走ってきていた。

 

「……アルナさん?」

 

 思わず声が出る。

 私服のまま。

 肩には自分の鞄。

 さらに反対の腕には、僕が商業区へ置いてきたはずの荷物まで抱えている。

 ……持ってきたんだ。

 

「はぁ……っ、はぁ……!」

 

 濡れた岩へ足を取られないよう慎重に進みながら、それでもかなりの速度でこちらへ近づいてくる。

 僕の前まで来たところでようやく足を止め、膝へ片手をついた。

 茶色い猫耳まで、荒い呼吸に合わせるように上下している。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「誰のせいだと……思っているんですか……!」

 

 息を整えながら顔が上がる。

 ……怒ってる。

 

「すみません」

「もうっ!」

 

 アルナさんが抱えていた僕の鞄を胸元へ寄せる。

 頬を少し膨らませ、猫耳も不満そうにこちらへ向いていた。

 

「水憑きと聞いた途端、すぐに走っていかないでください!」

「でも、雪山と同じものだったら危ないと思って」

「それでもです!」

 

 ぴしゃりと返される。

 僕が口を閉じると、アルナさんは一度大きく息を吐いた。

 

「せめて一言くらい残してください。荷物を置いたまま、私の声も聞かずにいなくなるんですから」

「……名前を呼ばれた気はしました」

「聞こえていたんですか!?」

 

 猫耳がぴんと立つ。

 

「気がしただけです」

「同じです!」

 

 ……たぶん違うと思う。

 でも、今言ったらさらに怒られそうなので黙っておく。

 

 アルナさんはまだ何か言いたそうに僕を見ていたけれど、その視線が外套へ移ったところで表情が変わった。

 裾には濁った水が染みつき、ところどころにガルグ獣の血も残っている。

 

「……怪我は?」

「ありません」

「本当に?」

「はい。これはほとんど水憑きのものです」

 

 両腕を軽く動かして見せる。

 アルナさんはすぐには信用せず、肩から脇腹、脚まで一通り確認した。

 それからようやく小さく息を吐く。

 

「……あとで、ちゃんと確認しますからね」

「はい」

 

 返事をすると、猫耳がほんの少しだけ下がった。

 ……怒っていたというより、心配していたんだろう。

 

「それで」

 

 アルナさんが顔を上げる。

 その視線が僕の後ろへ向いた。

 

「……これは」

 

 声からさっきまでの不満が消える。

 

 岩場へ倒れている何体ものガルグ獣。

 その身体から今も流れ続けている濁水。

 へこんだ盾や折れた武器。

 そして、浅瀬へ続く濡れた足跡。

 アルナさんの猫耳がゆっくりと立った。

 

「全部、水憑きですか?」

「はい」

 

 僕も振り返る。

 

「僕が着いた時には、もうこれくらいいました」

「これだけの数が……」

 

 アルナさんの視線が一体の死骸で止まる。

 

「ガルグ獣、ですよね?」

「たぶん。ほかの人もそう言っていました」

 

 少しだけ間を置く。

 

「でも、本来はこの辺りにいないそうです」

「はい。私もそう記憶しています」

 

 アルナさんが岩場を見回す。

 その目はもう、さっきまで一緒に買い物をしていた時のものじゃなかった。

 何が起きたのかを一つずつ確かめるように、死骸と周囲の傷跡へ視線を動かしていく。

 

「生き残った個体は?」

「何体か、海へ行きました」

 

 視線が止まる。

 

「……海へ?」

「はい」

 

 僕は浅瀬の方角を指す。

 

「戦っている途中で急に僕たちへ背を向けて、そのまま海へ走っていったんです」

「逃げた、ということですか?」

「僕も最初はそう思いました」

 

 でも。

 違った。

 

「途中に人がいれば押し退けるんです。でも、倒れた人には何もしませんでした」

「……」

「とにかく海へ行こうとしているように見えました」

 

 アルナさんが何も言わず、浅瀬を見る。

 波が岩へぶつかっている。

 今はもう、水憑きの姿は一体も見えない。

 

「それと」

 

 しゃがみ、近くに倒れているガルグ獣を指す。

 

「身体から出た水も、おかしいです」

 

 死骸の下から流れ出した濁水が、岩の溝を伝っている。

 アルナさんもしゃがみ込み、その流れを目で追った。

 

「……海へ?」

「はい」

 

 岩の傾きとは違う。

 細い水の筋が、ゆっくりと海側へ伸びていく。

 

 アルナさんの表情が僅かに強張った。

 

「触りましたか?」

「触ってません」

「よかったです」

 

 すぐに立ち上がる。

 ――アルナさんが鞄から帳面を取り出し、頁を開く。

 

「確認された水憑きの数は?」

「正確には分かりません。僕が来た時に見えただけでも十体くらいです」

「海へ入った数は?」

「それも全部は……何体かは止められましたけど、何体かは間に合いませんでした」

 

 筆が素早く動く。

 少し離れた場所にいたミラさんがこちらへ近づいてきた。

 

「私が見たのは四体だね。ほかにも抜けてるかもしれない」

「ありがとうございます」

 

 アルナさんが数字を書き加える。

 そのままナッシュさんとティオルさんにも状況を尋ね、見たものを短く帳面へまとめていった。

 ……早い。

 さっきまで息を切らしていたのに。

 

「ルキウスさん」

 

 帳面を閉じ、アルナさんがこちらを見る。

 

「私は一度ギルドへ戻って報告してきます」

「分かりました」

「調査員と回収を行える人もこちらへ向かわせます。死骸とこの水には、できるだけ触れないよう皆さんへ伝えてください」

 

 僕が頷くと、アルナさんの視線がもう一度僕の外套へ落ちた。

 

「それから」

「はい」

「ルキウスさんも、勝手にどこかへ行かないでください」

「ここにいます」

 

 猫耳が少しだけこちらへ傾く。

 

「本当に?」

「……少なくとも、アルナさんが戻ってくるまでは」

「そこは最後までここにいると言ってください!」

 

 また怒られた。

 

「分かりました。います」

「お願いします」

 

 アルナさんが小さく息を吐く。

 それから僕が置いてきた荷物を見て、少し困ったように眉を下げた。

 

「こちらも一度ギルドへ持って帰りますね」

「すみません」

「本当ですよ」

 

 言葉は不満そうなのに、抱え直す手つきは丁寧だった。

 中に贈り物が入っていることを覚えてくれているらしい。

 

「……でも」

 

 アルナさんが一度だけ岩場を振り返る。

 

「間に合って、よかったです」

 

 何に対して言ったのかは聞かなかった。

 僕にも分かったから。

 

「はい」

 

 短く答える。

 アルナさんは小さく頷くと、今度は来た道をギルドへ向かって戻っていった。

 その背中を少しだけ見送ってから、僕はもう一度海へ顔を向けた。

 

 ――波が岩へぶつかる。

 さっきまで何体もの水憑きが飛び込んでいった海には、もう何も見えなかった。

 それなのに。

 胸の奥へ残ったものだけは、どうしても消えてくれなかった。

 

 ……どうにも嫌な予感がする。

 何も起こらないなら、それでいい。

 今日のことが偶然で。

 雪山で見たものとも関係がなくて。

 僕が勝手に考えすぎているだけなら、その方がいい。

 

 ……杞憂なら、それでいい。

 けれど、そう思おうとするたび。

 胸の奥をゆっくりと締めつけるような悪寒だけが、少しずつ強くなっていった。

 

 ――潮風が岩礁地帯を吹き抜ける。

 波が岩へぶつかる。

 さっき何体もの水憑きが飛び込んでいった場所には、もう何も残っていない。

 僕は片刃剣を下ろしたまま、しばらくその海を見つめていた。

 

 ……この時の僕はまだ。

 

 あの海の向こうで何が起きようとしているのか、その正体を知るはずもなかった。

 

 ◆

 




 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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