駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
――潮入り岩礁地帯に、水憑きが出た。
その言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは北の雪山だった。
濡れた白い毛。
傷口から血よりも多く溢れ続けていた水。
身体が壊れても、それを気にする様子すらなく僕たちへ襲いかかってきた大型。……だとしたら、港の人たちが危ない。
そう思った時には、もう走り出していた。
背後からアルナさんが僕の名前を呼んだ気がする。
けれど、振り返るより先に人の間へ身体を滑り込ませ、港へ続く大通りを駆け下りていた。
腰の片刃剣が外套へ何度もぶつかる。
さっきまで持っていた買い物の荷物をどうしたのかも、その時は頭から抜け落ちていた。
……あれが何なのかは、まだ分からない。
ギルドでも調査中だった。
雪山で見つけた一体だけなら、たまたまあの個体だけに起きた異常だった可能性だってある。
……でも。
同じものが街のすぐ近くに出たなら、話は違う。
石畳を強く蹴る。
港へ近づくほど潮の匂いが濃くなり、行き交う人も商人から港湾作業員へ変わっていった。
「岩礁地帯から戻ってない奴がいるぞ!」
「南だ! 南側へ行け!」
「ハンターはまだ来ねえのか!」
飛び交う声を横切りながら、そのまま南へ向かう。
……間に合ってくれ。
それだけを考えていた。
――石畳が途切れ、足元が湿った岩場へ変わる。
潮入り岩礁地帯へ入ったところで、遠くから金属のぶつかる音が聞こえた。
続いて怒鳴り声。
何かが岩へ叩きつけられるような鈍い音。
そのあと、短い悲鳴が上がった。
「っ……!」
片刃剣を抜く。
濡れた岩へ足を取られないよう踏み込む場所だけを見ながら、声のする方へ走った。
「来るな! 来るなって!」
岩の向こうから聞こえた声に、さらに足へ力を入れ――視界が開ける。
「……っ!」
一人の男が岩を背にして尻餅をつき、その正面で灰褐色の獣が前脚を振り上げていた。
男の手元には折れた棒しかない。
逃げようにも、背中は岩へついている。
そして獣の全身からは――濡れているだけでは説明できないほどの水が流れ落ちていた。
考えるより先に岩を蹴る。
男と獣の間へ身体を滑り込ませ、振り下ろされる前脚へ片刃剣を合わせ――刃と爪がぶつかり、右腕へ重い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
真正面から受けた刃が押し込まれる。
重い。
腕だけでは支えきれない。
片刃剣を僅かに傾け、身体を半歩だけ横へ逃がした。
――爪が刃の上を滑り、そのまま岩へ叩きつけられる。
火花が散る。
獣の頭が僅かに下がった。
……今。
一歩踏み込み、空いた首元へ片刃剣を振り抜く。
――濡れた毛を裂き、その奥へ刃が入る。
獣の身体が大きく揺れた。
すぐに刃を抜き、一歩下がる。
傷口から飛び散ったものが頬へ掛かった。
……冷たい。
血だけじゃない。
薄く濁った水が、切り口から止まることなく流れ出している。
……やっぱり。
雪山と同じだ。
「立てますか!」
獣から目を離さず、背後の男へ声を掛ける。
「え……」
返事が遅い。
荒い呼吸だけが背中越しに聞こえた。
「怪我は!」
「あ、ああ……いや……」
まだ何が起きたのか分かっていないみたいだった。
岩へ手をついたまま、僕と水憑きを交互に見ている。
「あ、ありがとう……」
「下がってください!」
「わ、分かった!」
男が岩へ手をつきながら立ち上がる。
その足音が離れ始めたところで、水憑きがもう一度こちらへ顔を向けた。
……来る。
片刃剣を構える。
――獣が岩場を蹴る。
真正面には残らない。
身体を左へ逃がし、すれ違う瞬間に脇腹へ刃を走らせた。
――また濁った水が散る。
「っ……!」
外套へ冷たい飛沫が掛かる。
それでも獣は止まらなかった。
斬った場所を庇うこともない。
痛みに反応した様子すらなく、すぐ前脚を踏み直す。
「……痛く、ないのか」
違う。
たぶん、痛くないわけじゃない。
雪山の大型と同じなら――身体が壊れることより、別の何かを優先している。
「そっち、一体抜けたぞ!」
少し離れた場所から怒鳴り声が飛んできた。
反射的にそちらへ視線を向ける。
そこで初めて、岩場の奥まで見えた。
「……あれは」
声が漏れた。
一体じゃない。
潮入り岩礁地帯のあちこちで、何人ものハンターと獣が戦っている。
岩陰にも。
浅瀬の手前にも。
数は身体が重なって正確には分からない。
……けれど、僕の位置から見えるだけでも十体近くいる。
そして、そのすべてが全身から水を流していた。
……こんなに?
近くでハンターへ角を振り上げている個体を見る。
灰褐色の太い毛。
頭から前へ伸びた二本の角。
低く太い身体。
……ガルグ獣?
依頼書で何度か見たことがある。
乾いた岩山や荒地を好むモンスター。
水辺へ近づくこと自体が珍しい種類だったはずだ。
それが、どうして海沿いにいる?
しかも、一体じゃない。
ガルグ獣の生息域からここまではかなり離れている。
偶然迷い込んだと言うには、数も距離もおかしい。
……街の近くまで来てる。
ここは門からでてすぐの場所だ。
そのくらい近い場所に。
本来ならもっと遠くにいるはずのモンスターが、水憑きになって何体もいる。
「危ない!」
声に反応して正面へ戻る。
――目の前のガルグ獣が、太い角を振り上げる。
身体を引く。
角の先端が外套の胸元を掠めて抜けていった。
すぐ横へ回り込み、さっき斬った前脚の付け根へもう一度片刃剣を入れる。
――刃が肉へ入り、濁水が勢いよく流れ出す。
ガルグ獣の身体が沈んだ。
前脚が支えられなくなったところへ踏み込み、首元へ片刃剣を走らせる。
――巨体が岩場へ倒れる。
「……っ」
片刃剣を抜き、すぐ周囲を見る。
まだ終わっていない。
少し離れた場所では丸盾を持ったハンターが一体を押し止め、その後ろから槍が突き出されている。
さらに奥でも二人がかりで一体と戦っていた。
「手が空いたなら、こっちを頼む!」
丸盾を構えている小人族の女性から声が飛ぶ。
「はい!」
岩を蹴り、そちらへ向かう。
――ガルグ獣が丸盾へ頭を叩きつける。
「ぐっ……!」
小柄な身体が後ろへ押される。
僕は右側から回り込み、獣の後脚へ片刃剣を入れた。
――刃が毛皮を裂き、また水が飛び散る。
「そっちから来たのか!」
「今着きました!」
「なら話はあとだね!」
女性が盾を押し返す。
ガルグ獣の顔が僅かに持ち上がった。
「右、空いたよ!」
「はい!」
一歩踏み込む。
今度は首ではなく、前脚の関節へ刃を走らせた。
――ガルグ獣が姿勢を崩す。
「今!」
女性の声とほとんど同時に、後ろから長い槍が伸びてきた。
穂先が首元へ深く入り、ガルグ獣の身体が大きく震える。
僕も片刃剣をもう一度振るう。
――巨体が崩れ、濡れた岩へ横倒しになる。
「助かったよ」
「いえ」
丸盾を持った女性が短く息を吐く。
盾の中央にはすでにいくつか新しい傷があった。
「ルキウスです」
「ミラだ」
名前だけを交わし、すぐ二人とも周囲を見る。
……今は、それだけで十分だ。
「上から行くぞ!」
声に顔を上げる。
――高い岩の上で、大きな弩を構えた犬耳の獣人族が弦を放つ。
太い矢が一体の肩へ突き刺さった。
ガルグ獣が身体を揺らす。
「ナッシュ! 次、左!」
「見えてる!」
少し離れた場所で、長い耳を持つエルフ族の男性が槍を構えていた。
……もう何人かハンターが来てる。
なら、僕だけで何とかしようとしなくていい。
「そっちのフード!」
ナッシュさんらしい獣人族から声が飛ぶ。
「足止めできるか!」
「やります!」
近くのガルグ獣を見る。
前脚。
首。
傷ついても止まらない。
……だったら、動けなくする。
横から走る。
ガルグ獣が僕へ顔を向けた。
――太い角が横へ薙がれる。
上体を伏せる。
頭の上を角が抜けた瞬間に一歩踏み込み、右前脚へ片刃剣を振り下ろした。
――刃が関節へ入る。
「今です!」
「おう!」
弩弦が鳴る。
――太い矢がガルグ獣の首へ突き刺さる。
巨体が大きく傾いた。
完全には倒れない。
僕はすぐ一歩離れた。
「もう一発――」
言いかけたところで、ガルグ獣の動きが変わった。
僕を見る……いや、見ていない。
顔が僕の横を通り過ぎ、その向こう、その先――海。
「……え?」
――ガルグ獣が、突然こちらへ背を向ける。
一瞬、逃げたのかと思った。
違う。
傷ついた前脚を引きずりながら、一直線に岩場を走り始める。
人のいない方向じゃない。
安全な岩陰でもない。……海?
「おい! そいつ止めろ!」
近くにいたハンターが進路へ入る。
ガルグ獣は止まらない。
――頭を下げ、そのまま盾へ身体を叩きつける。
「ぐっ!」
盾ごとハンターが横へ弾かれた。
「大丈夫ですか!」
駆け寄ろうとして、足が止まる。
……違う。
ガルグ獣は倒れた人へ見向きもしなかった。
追い打ちも。
噛みつきも。
こちらへ戻ってくることすらない。
――道が開いた瞬間、また海へ向かって走り始める。
「何だ……?」
ナッシュさんの声が聞こえる。
僕も同じものを見ていた。
ガルグ獣が浅瀬へ入る。
水が脚を覆う。
腹まで浸かる。
……止まらない。
水辺を好む種類じゃない。
泳ぐモンスターでもない。
――それでもガルグ獣は速度を落とさず、そのまま海へ飛び込んだ。
大きな水飛沫が上がる。
少しして灰褐色の背中も見えなくなった。
「……なんで」
呟いたところで、別の方向から声が上がる。
「おい、こいつもだ!」
振り向く。
――二人のハンターと戦っていた一体が、突然動きを止める。
剣を構える人。
槍を向ける人。
そのどちらにも目を向けない。
ゆっくりと。
……同じ方を向いた。
海。
「……また?」
――ガルグ獣が走り出す。
「止めろ!」
槍が肩へ刺さる。
剣が脇腹を裂く。
それでも振り返らない。
――海へ。
ただ、海へ向かって走っていく。
「何なんだよ、こいつら!」
誰かが叫ぶ。
その声に答えるものはない。
――岩陰から現れた別の一体も、海へ向きを変える。
その後ろでも。
さらに奥でも。
一体。
また一体。……逃げてる?
そうは見えない。
逃げるなら、もっと近い岩陰がある。
人から離れればいい。
わざわざ苦手な水へ入る必要なんてない。
それなのに。
――傷ついたガルグ獣が、脚を引きずりながら海へ進んでいく。
途中にハンターが立てば押し退ける。
攻撃されても、相手を倒そうとはしない。
道さえ開けば、すぐにまた進む。
……海へ。
波の音。
濡れた岩を蹴る足音。
水憑きの身体から流れ落ちる水。
その全部が、同じ方向へ進んでいるように見えた。
……気持ち悪い。
背中へ寒気が走る。
「海へ行かせるな!」
ミラさんの声で我に返る。
「分かりました!」
考えるのはあとだ。
海へ入った個体がどうなるのかも分からない。
だったら、今止められるものは止める。
――僕は片刃剣を構え、海へ走り始めた一体の横へ回り込む。
「前へ入るよ!」
ミラさんが先に進路を塞いだ。
「お願いします!」
ガルグ獣の頭が下がる。
……やっぱり。
ミラさんを狙ったんじゃない。
その向こうにある海を見たままだ。
――角が丸盾へ叩きつけられる。
「っ……!」
ミラさんの身体が押される。
その間に僕は横へ踏み込み、前脚の付け根へ片刃剣を深く入れた。
ガルグ獣の身体が沈む。
「右!」
後ろから声。
反射的に身体を引く。
――長い槍が僕の前を抜け、ガルグ獣の首へ突き刺さる。
「助かりました!」
「ティオルだ!」
エルフ族の男性が槍を引き抜く。
「名前は後でいい! 次が来る!」
……確かに。
倒れた個体の奥から、また一体がこちらへ走ってくる。
でも目は僕たちに向いていない。
海。
……全部、同じだ。
「来ます!」
僕が言うと、ミラさんが丸盾を構え直す。
ティオルさんがその後ろで槍を引く。
岩の上ではナッシュさんが次の矢を番えている。
「今度は脚から!」
「分かった!」
今度は、言えた。
……三人いる。
僕一人じゃない。
ガルグ獣が迫る。
ミラさんが正面へ入る。
――角と丸盾がぶつかる。
その右側へ回る。
刃を低く構え、前脚の関節へ片刃剣を走らせる。
「ティオルさん!」
「見えてる!」
反対側から槍が入る。
――ガルグ獣の前脚が折れ、身体が大きく崩れる。
「ナッシュさん!」
「呼ばなくても撃つ!」
弩弦が鳴る。
――矢が首へ突き刺さる。
倒れた。
すぐ次を見る。
……一体。
右。少し遠い。
その向こうでもまだ戦ってる。
「行きます!」
「一人で行くな!」
ミラさんの声に足が止まる。
「……あ」
「今四人だよ! 使いな!」
丸盾を叩かれる。
「はい!」
……危なかった。
また一人で走るところだった。
僕たちは次の一体へ向かった。
◆
それから、どれくらい戦っていたのかは分からない。
一体を倒す。
次へ向かう。
海へ走り始めるものがいれば進路を塞ぐ。
間に合わず、浅瀬へ飛び込んでいく個体もいた。
――片刃剣を振り抜く。
濁水が散る。
「左!」
声に反応して一歩退く。
――ミラさんの盾が僕のいた場所へ滑り込み、横から振られた角を受け止める。
「ありがとうございます!」
「次!」
右へ回る。
――ティオルさんの槍がガルグ獣の顔を逸らす。
首元が空く。
片刃剣を振るう。
――刃が深く入る。
巨体が岩へ崩れた。
「これで何体だ!」
ナッシュさんの声が岩場へ響く。
「数えてません!」
「数えとけ!」
「戦ってるので無理です!」
「そりゃそうだ!」
弩弦が鳴る。
――僕たちから少し離れた個体へ矢が突き刺さった。
そのまま走る。
息が上がってきた。
右腕も少し重い。
……でも、まだ動く。
岩場のあちこちに水憑きの死骸が増えていく。
その身体から流れ出した水が、岩の溝を伝っていた。
……まただ。
走りながら足元を見る。
本来なら岩の傾斜に沿って散っていくはずの水が、細い筋になって同じ方向へ流れている。
海。
……水まで?
「ルキウス!」
ティオルさんの声に顔を上げる。
「前!」
「っ!」
――ガルグ獣の頭が目の前まで迫っていた。
身体を横へ投げる。
角が外套を掠める。
危ない。
今は足元を見るな。
「すみません!」
「見るなとは言わん! 戦ってる最中に下ばかり見るな!」
「はい!」
言われた通りだった。
……ガルドさんにも似たようなことを言われそうだ。
ガルグ獣が向きを変える。
こっちへ来る。
……いや。
違う。また海を見た。
「また行く!」
ミラさんが先に気づく。
「止めます!」
三人で進路へ入る。
――ガルグ獣が迷うことなく突っ込んでくる。
怖がってない。
怒ってもいない。
僕たちを倒そうとしているようにも見えない。
ただ、邪魔だから退かそうとしている。
……何がそこまで。
角を避ける。
脚を斬る。
ティオルさんの槍が入る。
ミラさんが押し返す。
――ナッシュさんの矢が首へ刺さる。
ガルグ獣が倒れた。
「次!」
顔を上げる。
……いない。
「……え?」
岩場を見回す。
倒れている水憑き。
戦っていたハンター。
負傷した港湾作業員。
浅瀬。
立っているガルグ獣は、もう見えなかった。
「終わりか?」
ナッシュさんが高い岩の上から周囲を見渡す。
「北側、動いてるのはいない!」
「こっちもだ!」
離れた場所から別のハンターの声が返る。
「岩陰確認するよ!」
ミラさんが盾を持ったまま進む。
僕も後ろへ続いた。
一つ。
二つ。
岩陰を確かめる。
動かない――最後の岩陰にも、水憑きの姿はなかった。
「……終わった」
息と一緒に声が漏れる。
片刃剣を下ろす。
……でも、鞘には戻せなかった。
周囲から少しずつ荒い呼吸が聞こえてくる。
座り込む人。
武器を岩へついて身体を支える人。
怪我人のところへ走る人。
「さっきの人は……」
最初に助けた港湾作業員を探す。
少し離れた岩陰で、別の作業員に肩を借りながら立っていた。
僕と目が合う。
一瞬驚いたような顔をしたあと、小さく頭を下げた。
……無事だ。
それを見て、ようやく少しだけ胸の力が抜ける。
「ルキウスさーん!」
遠くから聞き慣れた声がした。
振り返る。
――岩礁地帯へ続く道を、アルナさんがこちらへ走ってきていた。
「……アルナさん?」
思わず声が出る。
私服のまま。
肩には自分の鞄。
さらに反対の腕には、僕が商業区へ置いてきたはずの荷物まで抱えている。
……持ってきたんだ。
「はぁ……っ、はぁ……!」
濡れた岩へ足を取られないよう慎重に進みながら、それでもかなりの速度でこちらへ近づいてくる。
僕の前まで来たところでようやく足を止め、膝へ片手をついた。
茶色い猫耳まで、荒い呼吸に合わせるように上下している。
「だ、大丈夫ですか?」
「誰のせいだと……思っているんですか……!」
息を整えながら顔が上がる。
……怒ってる。
「すみません」
「もうっ!」
アルナさんが抱えていた僕の鞄を胸元へ寄せる。
頬を少し膨らませ、猫耳も不満そうにこちらへ向いていた。
「水憑きと聞いた途端、すぐに走っていかないでください!」
「でも、雪山と同じものだったら危ないと思って」
「それでもです!」
ぴしゃりと返される。
僕が口を閉じると、アルナさんは一度大きく息を吐いた。
「せめて一言くらい残してください。荷物を置いたまま、私の声も聞かずにいなくなるんですから」
「……名前を呼ばれた気はしました」
「聞こえていたんですか!?」
猫耳がぴんと立つ。
「気がしただけです」
「同じです!」
……たぶん違うと思う。
でも、今言ったらさらに怒られそうなので黙っておく。
アルナさんはまだ何か言いたそうに僕を見ていたけれど、その視線が外套へ移ったところで表情が変わった。
裾には濁った水が染みつき、ところどころにガルグ獣の血も残っている。
「……怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい。これはほとんど水憑きのものです」
両腕を軽く動かして見せる。
アルナさんはすぐには信用せず、肩から脇腹、脚まで一通り確認した。
それからようやく小さく息を吐く。
「……あとで、ちゃんと確認しますからね」
「はい」
返事をすると、猫耳がほんの少しだけ下がった。
……怒っていたというより、心配していたんだろう。
「それで」
アルナさんが顔を上げる。
その視線が僕の後ろへ向いた。
「……これは」
声からさっきまでの不満が消える。
岩場へ倒れている何体ものガルグ獣。
その身体から今も流れ続けている濁水。
へこんだ盾や折れた武器。
そして、浅瀬へ続く濡れた足跡。
アルナさんの猫耳がゆっくりと立った。
「全部、水憑きですか?」
「はい」
僕も振り返る。
「僕が着いた時には、もうこれくらいいました」
「これだけの数が……」
アルナさんの視線が一体の死骸で止まる。
「ガルグ獣、ですよね?」
「たぶん。ほかの人もそう言っていました」
少しだけ間を置く。
「でも、本来はこの辺りにいないそうです」
「はい。私もそう記憶しています」
アルナさんが岩場を見回す。
その目はもう、さっきまで一緒に買い物をしていた時のものじゃなかった。
何が起きたのかを一つずつ確かめるように、死骸と周囲の傷跡へ視線を動かしていく。
「生き残った個体は?」
「何体か、海へ行きました」
視線が止まる。
「……海へ?」
「はい」
僕は浅瀬の方角を指す。
「戦っている途中で急に僕たちへ背を向けて、そのまま海へ走っていったんです」
「逃げた、ということですか?」
「僕も最初はそう思いました」
でも。
違った。
「途中に人がいれば押し退けるんです。でも、倒れた人には何もしませんでした」
「……」
「とにかく海へ行こうとしているように見えました」
アルナさんが何も言わず、浅瀬を見る。
波が岩へぶつかっている。
今はもう、水憑きの姿は一体も見えない。
「それと」
しゃがみ、近くに倒れているガルグ獣を指す。
「身体から出た水も、おかしいです」
死骸の下から流れ出した濁水が、岩の溝を伝っている。
アルナさんもしゃがみ込み、その流れを目で追った。
「……海へ?」
「はい」
岩の傾きとは違う。
細い水の筋が、ゆっくりと海側へ伸びていく。
アルナさんの表情が僅かに強張った。
「触りましたか?」
「触ってません」
「よかったです」
すぐに立ち上がる。
――アルナさんが鞄から帳面を取り出し、頁を開く。
「確認された水憑きの数は?」
「正確には分かりません。僕が来た時に見えただけでも十体くらいです」
「海へ入った数は?」
「それも全部は……何体かは止められましたけど、何体かは間に合いませんでした」
筆が素早く動く。
少し離れた場所にいたミラさんがこちらへ近づいてきた。
「私が見たのは四体だね。ほかにも抜けてるかもしれない」
「ありがとうございます」
アルナさんが数字を書き加える。
そのままナッシュさんとティオルさんにも状況を尋ね、見たものを短く帳面へまとめていった。
……早い。
さっきまで息を切らしていたのに。
「ルキウスさん」
帳面を閉じ、アルナさんがこちらを見る。
「私は一度ギルドへ戻って報告してきます」
「分かりました」
「調査員と回収を行える人もこちらへ向かわせます。死骸とこの水には、できるだけ触れないよう皆さんへ伝えてください」
僕が頷くと、アルナさんの視線がもう一度僕の外套へ落ちた。
「それから」
「はい」
「ルキウスさんも、勝手にどこかへ行かないでください」
「ここにいます」
猫耳が少しだけこちらへ傾く。
「本当に?」
「……少なくとも、アルナさんが戻ってくるまでは」
「そこは最後までここにいると言ってください!」
また怒られた。
「分かりました。います」
「お願いします」
アルナさんが小さく息を吐く。
それから僕が置いてきた荷物を見て、少し困ったように眉を下げた。
「こちらも一度ギルドへ持って帰りますね」
「すみません」
「本当ですよ」
言葉は不満そうなのに、抱え直す手つきは丁寧だった。
中に贈り物が入っていることを覚えてくれているらしい。
「……でも」
アルナさんが一度だけ岩場を振り返る。
「間に合って、よかったです」
何に対して言ったのかは聞かなかった。
僕にも分かったから。
「はい」
短く答える。
アルナさんは小さく頷くと、今度は来た道をギルドへ向かって戻っていった。
その背中を少しだけ見送ってから、僕はもう一度海へ顔を向けた。
――波が岩へぶつかる。
さっきまで何体もの水憑きが飛び込んでいった海には、もう何も見えなかった。
それなのに。
胸の奥へ残ったものだけは、どうしても消えてくれなかった。
……どうにも嫌な予感がする。
何も起こらないなら、それでいい。
今日のことが偶然で。
雪山で見たものとも関係がなくて。
僕が勝手に考えすぎているだけなら、その方がいい。
……杞憂なら、それでいい。
けれど、そう思おうとするたび。
胸の奥をゆっくりと締めつけるような悪寒だけが、少しずつ強くなっていった。
――潮風が岩礁地帯を吹き抜ける。
波が岩へぶつかる。
さっき何体もの水憑きが飛び込んでいった場所には、もう何も残っていない。
僕は片刃剣を下ろしたまま、しばらくその海を見つめていた。
……この時の僕はまだ。
あの海の向こうで何が起きようとしているのか、その正体を知るはずもなかった。
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
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