駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
それから、僕たちはギルドへ戻り、潮入り岩礁地帯で起きたことを報告してから帰路についた。
持ち帰った濁水は調査室へ預け、ガルグ獣が古い取水口を目指していたことも伝えた。
ナッシュさんたちの証言もあり、取水口はひとまず封鎖されることになったらしい。
僕たちも治療室へ送られたが、幸い大きな怪我はなかった。
ミラさんの腕に軽い打撲と、盾に大きなへこみが残ったくらいだ。
作業員を含め、全員で帰ってこられた。
それだけは、本当によかったと思う。
報告と治療を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
ギルドを出た僕たちは、夜の通りを並んで歩き、角兎亭へ続く道の途中で足を止める。
「それでは、私もこの辺で」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
僕が頭を下げると、アルナさんは柔らかく笑った。
「いえいえ。ルキウスさんも、突然のこととはいえ、クエストお疲れさまでした」
そこで一度言葉を切り、抱えていた包みへ視線を落とす。
猫耳が、少しだけ照れくさそうに伏せられた。
「それと、プレゼントも本当にありがとうございました。大切に使いますね」
「はい。喜んでもらえたなら、よかったです」
「とても嬉しかったです」
アルナさんはもう一度小さく頭を下げ、そのまま帰っていった。
夜の人波へ遠ざかっていく背中を見送り、僕も角兎亭へ向かって歩き始める。
通りには、まだ多くの人がいた。
酒場から漏れる笑い声。石畳を進む荷車の音。店じまいを始めた商人たちの呼び声。
いつもと何も変わらない、エルドランの夜だった。
……だからこそ、胸の奥に残ったものが気になった。
ギルドで目にした、何枚もの報告書。
水辺ではない場所で見つかった、全身の濡れた獣。
街道に残されていた、不自然に濡れた足跡。
そして、北の雪原と潮入り岩礁地帯に現れた二体の水憑き。
どれも無関係なのかもしれない。
まだ、水憑きによるものだと決まったわけでもなかった。
けれど……増えている。
水憑きそのものが。
あるいは、その前触れが。
雪原の個体を倒してから、まだほとんど日が経っていない。
詳しい調査すら終わらないうちに、次の一体が街のすぐそばへ現れた。
僕が臆病で、知らないものを必要以上に怖がっているだけならいい。
むしろ、そうであってほしい。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥へ張りついた冷たさが消えてくれなかった。
このまま、一体ずつ増えていくのだろうか。
それとも僕たちは、すでに始まっている何かの端だけを見ているのか。
いくら考えても答えは出ず、気づけば角兎亭へ着いていた。
女将さんへ短く帰宅を告げ、そのまま階段を上がる。
夕食を勧められたけれど、今はあまり食欲がなかった。
今日は戦闘もあった。
身体は疲れているはずなのに、頭の中だけが妙に冴えている。
……部屋へ戻ったら、もう一度今日のことを書き出してみよう。
ガルグ獣の動き。
取水口へ向かって流れた水。
ギルドに届いていた、似たような報告。
並べてみれば、何か分かるかもしれない。
何も分からなかったとしても、じっとしているよりはましだった。
「はぁ」
思わずため息をつきながらも自分の部屋の前へ立ち、鍵を取り出す。
何も考えずに解錠し、取っ手へ手を掛けた。
扉を開ける。
そして、閉める。
「……?」
取っ手を握ったまま、しばらく動けなかった。
今、一瞬だけ。
明らかにおかしな風景が広がっていた気がする。
……疲れているのだろうか。
一度、大きく深呼吸をしてから目元を擦る。ついでに頬も軽くつねってみた。
痛い。
少なくとも、夢ではないらしい。
そこでようやく、部屋を間違えた可能性に思い至った。
扉には見慣れた傷があり、横に掲げられた部屋番号も合っている。手にしている鍵も、毎日使っている僕のものだった。
……どうやら、部屋も鍵も僕も間違っていないらしい。
つまり、僕の部屋に知らない人がいる方がおかしい。
「ふぅ……」
息を整え、もう一度取っ手を握る。
今度はすぐに開けず、ほんの少しだけ扉を押した。
細く開いた隙間から、部屋の中を覗く。
窓。机。寝台――そして、人。
静かに扉を閉めた。
……いる。
やはり、いる。
いたよな?僕の見間違いじゃないよな。
念のため、もう一度だけ部屋番号を見る。
当然、さっきと同じだった。僅かな時間で部屋番号が変わってくれるほど、世の中は親切ではないらしい。
女将さんを呼ぶことも考えた……が、しかし、まずは相手が何者なのか確かめた方がいいかもしれない。
危ない人なら、すぐに逃げればいい。
窓から入ってきたらしい人を相手に、廊下へ逃げるだけで間に合うのかは分からないけれど。
「……よし」
もう一度、深く息を吸う。
覚悟を決め、今度こそ扉を開けた。
さっきよりも、ゆっくりと。
見間違いであってほしいと願いながら、部屋の奥へ目を向けた。
「やぁ」
けれど、残念ながらその人は僕の見間違いではなかった。
何度目をこすっても、瞬きを繰り返しても消えることはなく。
「おかえり、ルキウス」
そこには、息をのむほど美しい女の人が僕の部屋の窓際に腰かけていた。
◆
――ゴクリ。喉が鳴る。
見てはいけないものを見ているような感覚に陥りながらも、僕は遠目に彼女を観察する。
全身を覆っている、夜の色を溶かしたような深い藍の長外套。
足首近くまで垂れた裾が、開け放たれた窓から吹き込む風にゆっくりと揺れている。
頭には大きなフードを被っていたが、僕のものとは少し違って見える。
「えっ……と」
月明かりが、フードの内側を淡く照らしていた。
柔らかな銀白色の髪は顎の辺りで切り揃えられ、猫の毛並みのように毛先が軽く跳ねている。
その一房が白い頬へ掛かると、彼女は慣れた手つきで耳へ払った。
「こんばんは。今夜はいい夜だね」
冷涼な、鈴を転がすような声。
瞳は、赤みを帯びた深い紫。
穏やかに細められているのに、目が合うと心の奥まで見透かされるようで落ち着かない。薄く色づいた唇には、僕の反応を楽しむような笑みが浮かんでいた。
綺麗な人だった。
……綺麗すぎるくらいに。
目を逸らした方がいいと思うのに、気づけばもう一度見てしまう。
……いや、落ち着こう。
今、優先するべきなのは、この人が綺麗かどうかではない。
鍵の掛かった僕の部屋で、知らない女性が当たり前のように帰宅を迎えていることだ、と自分を厳しく叱咤する。
「えっと……」
「うん?」
「ここ、僕の部屋ですよね」
「うん。そうだよ」
「間違えて入ったわけでは?」
「間違えてないよ」
即答だった。
彼女は窓枠へ片手をつき、楽しそうに脚を揺らしている。
「君の部屋だと知っていて入ったからね」
「それは、もっと駄目なのでは……」
「そうかな?」
「たぶん、かなり」
本人に悪びれた様子はない。
僕の方が間違っているのかと思いそうになったが、知らない人の部屋へ窓から入るのは、やはり駄目だと思う。
僕は部屋へ一歩入り、背中で扉を閉めた。
ただし、鍵は掛けない。何かあればすぐ廊下へ出られるよう、扉から離れすぎない位置に立つ。
右手は、いつでも片刃剣の柄へ届くところへ下げた。
女性の赤紫の瞳が、扉から僕の足元へ移り、最後に右手で止まる。
一連の動きを見終えると、満足そうに目を細めた。
「うん。いい警戒心だね」
「……褒められることなんでしょうか」
「もちろん。知らない人が自分の部屋にいたのに、何も考えず近づく方が心配だよ」
もっともなことを言っている。
知らない人の部屋へ勝手に入った本人の言葉でなければ、素直に頷けたと思う。
「でも安心して。別に僕は、君に危害を加えに来たわけじゃあないんだ」
彼女は両手を軽く広げてみせた。
武器を持っていないと示しているのだろう。
それでも、隙があるようには見えなかった。
僕が剣を抜くかもしれないことさえ、最初から何の問題にもしていない。そんな余裕が、穏やかな笑みの奥に滲んでいる。
「それじゃあ、どうしてあなたは僕の部屋に?」
「どうしてと言われるとなぁ。うーん……」
女性は唇へ指を当て、本当に今から理由を考えるように視線を泳がせた。
「よっと」
軽い掛け声とともに、窓枠から床へ降りる。
外套の裾がふわりと広がったが、靴底はほとんど音を立てなかった。
そのまま、彼女はこちらへ歩いてくる。
不審者。
というより、侵入者だった。
僕は扉の近くから動かず、片刃剣へ手が届く距離を保つ。
けれど彼女は、僕の警戒を気にした様子もなく、ゆったりと距離を詰めてきた。
「君に会いに来た……とか?」
「どうしてあなたが疑問形なんですか」
訳の分からない答えに、思わず首を傾げる。
僕とこの人に面識はない。少なくとも、僕の記憶にはなかった。
それなのに名前を知られ、わざわざ窓から会いに来られる理由となると、まったく思いつかない。
「そもそも、あなたは一体――」
「あ」
僕の言葉を遮るように、彼女が小さく声を漏らした。
何か重大なことに気づいたのかと思ったが、彼女は額へ手を当て、やってしまったとばかりに笑っている。
「そういえば、自己紹介がまだだったね」
僕の前で足を止めると、外套の裾を軽く摘まみ、芝居がかった仕草で頭を下げた。
「僕の名前はメルシア。親しみと愛情を込めて、メルと呼んでよ」
「初対面で、愛情まで込めるんですか?」
「これから込めてくれればいいでしょう?」
「では、メルシアさんで」
「堅いなぁ」
メルシアさんは少し不満そうに唇を尖らせた。
その表情まで妙に絵になっていて、また目を逸らすのが遅れる。
「あなたは僕の名前を知っているんですね」
「うん。ルキウス」
「どうして知っているんですか?」
「それは、もう少しあとで」
「あとで?」
「順番があるんだよ。たぶん」
「今、決めましたよね」
「よく分かったね」
楽しそうに笑う。
まともに答える気があるのか、少し不安になってきた。
「それで、メルシアさんは何者なんですか?」
「ただの旅人だよ」
「ただの旅人は、窓から人の部屋へ入るんですか?」
「好奇心が強い旅人なら、たまに」
「そんな旅人がいてたまるか!」
思わずツッコミが口から出る。
当の本人は、
「手厳しいなぁ」
と言いながらも、まったく堪えていない。
メルシアさんは僕の横を通り過ぎ、遠慮なく寝台の端へ腰を下ろした。
「座っても?」
「もう座っていますよね」
「駄目だった?」
「……今から立ってもらうほどではないです」
「ありがとう。優しいね」
長い脚を組み、その膝へ片肘を置いて頬杖をつく。
借り物の部屋ではなく、自分の部屋で寛いでいるような自然さだった。
……ここは僕の部屋のはずなのだけれど。
「君も座れば?」
「僕の部屋なので、言われなくても座りますよ」
「少し慣れてきたね」
「何にですか」
「僕に」
けらけらと笑うメルシアさんに僕は頭痛がしてくる。
……どうやら、この人の調子に合わせていたら、いつまで経っても話が進まないらしい。
結局言われるがまま、椅子へ腰を下ろす。
扉までの距離も、窓の位置も、メルシアさんとの間合いも確認しておく。
彼女はそれを止めなかった。
頬杖をついたまま、赤紫の瞳で僕の顔から肩、胸元、指先へとゆっくり視線を滑らせていく。
好奇心を隠すつもりはないらしい。
それでも不思議と、不快には感じなかった。僕が嫌がる一歩手前で、きちんと視線を外している。
こちらの反応を、一つずつ確かめている。
……観察されているのだと思う。
メルシアさんはしばらく僕を眺めたあと、楽しそうに目を細めた。
「何やら、お困りごとがあるみたいだね」
◆
「何やら、お困りごとがあるみたいだね」
「……そんなに分かりやすいですか?」
「うん。さっきから、ずっと難しい顔をしているからね」
言われて、眉間へ指を当てる。
自分ではいつも通りのつもりだったけれど、触れてみれば確かに力が入っていた。
メルシアさんは寝台の上で頬杖をつき、そんな僕の様子を楽しそうに眺めている。
ただ、その赤紫の瞳は笑っていなかった。
僕の表情だけではなく、その奥にあるものまで確かめようとしているように見えた。
「水に濡れた獣のこと?」
「……どうして、それを」
「僕も調べていたからね」
「メルシアさんも?」
思わず身を乗り出す。
彼女は頬から手を離すと、組んでいた脚をゆっくり解いた。
「今日、潮入り岩礁地帯に現れた獣もですか?」
「それだけじゃないよ。森や街道、それから北の雪山でも似たものを見ている」
北の雪山。
その言葉を聞いた瞬間、吹雪の向こうに立っていた人影が脳裏をよぎった。
白い獣と戦っていた最中、遠くからこちらを見ていた何者か。
追いかける余裕もなく、見間違いだったと思うことにしていた。
けれど、目の前にいる彼女なら。
「もしかして雪山で、僕たちを見ていたのはメルシアさんですか?」
「気づいていたんだ」
「一瞬だけですけど。見間違いかと思っていました」
「見間違いじゃないよ。あそこにいたのは僕だ」
メルシアさんは隠す必要もないとばかりに、あっさり認めた。
あの吹雪の中に立っていた人物が、今は僕の寝台で寛いでいる。
そう考えると、急に目の前の女性が現実から少し外れた存在のように思えた。
「どうして、あそこに?」
「水に濡れた獣を追っていたんだ。その途中で、偶然君たちを見つけた」
「僕たちを追っていたわけではないんですね」
「あの時までは、ね」
意味ありげな言葉とともに、メルシアさんが唇の端を持ち上げる。
「……今は違うんですか?」
「だから今、君の部屋にいるんでしょう?」
笑顔で返されたけれど、納得できた気はしなかった。
むしろ、どうして窓から入ってきたのかという疑問が余計に深まっただけだ。
それでも今は、そちらを問い詰めている場合じゃない。
彼女は僕たちより前から、あの異常なモンスターを追っていた。
なら。
「メルシアさん」
「何かな?」
「あれが何なのか、知っているんですか?」
尋ねると、メルシアさんはすぐには答えなかった。
開け放たれた窓の向こうへ一度だけ視線を向け、それから小さく肩を竦める。
「正体までは分からないよ」
「……正体までは?」
「うん。ただ、追っていて分かったことはいくつかある」
身体が自然と前へ傾いた。
「教えてください」
「まず、あれは同じ種類のモンスターじゃない」
「それは……僕もそう思います。雪山の白い獣とガルグ獣は、全然違いましたから」
「そう。住んでいる場所も、習性も、身体の作りも違う。なのに、同じような水をまとってる」
メルシアさんが指を一本立てる。
「だから僕は、ああなった連中を水憑きって呼んでる」
「水憑き……」
「分かりやすいだろう?」
水に憑かれたモンスター。
呼び方だけを聞けば、そのままだ。
でも、メルシアさんがわざわざ普通の個体と分けて呼んでいる以上、それだけでは終わらないらしい。
「それと、もう一つ」
立てていた指が窓の向こうへ向けられる。
「どの水憑きも、だいたい同じ方向へ進んでる」
「同じ方向?」
「海だよ」
「……海」
潮入り岩礁地帯で見たガルグ獣を思い出した。
あの時も、最初から僕たちを狙っていたようには見えなかった。
海へ向かう途中で僕たちに気づき、邪魔だから襲ってきた。
そう考えた方が、あの動きには納得できる。
「雪山にいた個体もですか?」
「山を下りてから先まで全部追えたわけじゃないけど、向かっていた方角は同じだった。他の場所で見つけた連中もね」
「何のために海へ?」
「それは分からない」
あっさり言われた。
「じゃあ、分かっているのは海へ向かっていることだけですか?」
「いや」
メルシアさんの声が少しだけ低くなる。
「気になるのは、そこじゃないんだ」
「……?」
「僕も最初は、モンスターたちが何かを求めて海へ向かってるんだと思ってた」
寝台から立ち上がり、メルシアさんが窓へ近づく。
月明かりの中で深い藍色の外套が揺れた。
「でも、何体か追っているうちに少し違う気がしてきた」
「違う?」
「モンスターが海へ行きたいんじゃない」
メルシアさんが振り返る。
「まとわりついてる水の方が、海へ行きたがってるように見えるんだ」
「……水が?」
意味を理解するのに少し時間がかかった。
「水に意思があるってことですか?」
「そこまでは言ってないよ」
すぐに否定される。
「ただ、水憑きになった連中は妙に海へ向かいたがる。それに、あの水は普通に身体が濡れてるのとは違う。走っても振り落とされないし、乾きもしない。まるでモンスターへ張りついたまま、何かに引っ張られてるみたいなんだ」
「……何かに」
「うん」
「それが、海にある?」
「かもしれない」
そこで初めて、メルシアさんも曖昧に笑った。
「あるいは海そのものかもしれないし、まったく別の理由かもしれない。そこから先は、まだ僕にも分からないよ」
窓の外へ目を向ける。
ここから海は見えない。
それでも、昨日までとは違って、その先にあるものが妙に気になった。
モンスターが海へ向かっている。
そう考えるのと。
まとわりついている水が、モンスターごと海へ引っ張っている。
そう考えるのでは、意味がまるで違う。
「……危ないことなんでしょうか」
「さてね」
「またそれですか」
「分からないものを、分かった顔で危険だと言うのも違うだろう?」
いつもの調子で笑う。
けれど、メルシアさんはすぐに続けた。
「ただ、何でもないとは思ってないよ」
さっきまでより少し低い声だった。
「雪山の一体だけなら偶然で済ませられる。けど、別の場所に住んでるモンスターまで同じ状態になって、同じ方角へ向かってる。そこまで重なるなら、何か理由があると思う方が自然だ」
胸の奥へ残っていた嫌な感覚が、また僅かに強くなる。
何が起きようとしているのかは分からない。
でも、僕が考えすぎていただけでもないらしい。
「ギルドには話したんですか?」
「まだ全部はね」
「どうしてです?」
「確証がないからさ。水が海へ行きたがってるように見えます、なんて話を真顔で持ち込んだら、ちょっと面白い人だと思われるだろう?」
「……メルシアさんなら、普段から思われてそうですけど」
「酷いなぁ」
口ではそう言いながら、本人は楽しそうだった。
「まあ、僕が何も言わなくても、明日にはギルドも動くんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「ここまで広い範囲で同じ異常が起きてる。港にも出たなら、街の中に報告が集まるのも時間の問題さ」
そう言ってから、メルシアさんは窓際を離れる。
「僕が知っているのは、今のところこれくらい」
「……十分です。ありがとうございます」
「どういたしまして」
十分どころか、聞く前より考えることが増えた気がする。
水憑き。
海へ向かうモンスター。
そして、モンスターではなく、水そのものが何かに引かれている可能性。
……明日、ギルドへ行ったら話しておこう。
アルナさんたちなら、僕たちが知らない報告も集めているかもしれない。
「さて」
考えていたところへ、メルシアさんの声が割り込んだ。
「……何ですか?」
再び寝台の端へ腰を下ろした彼女が、今度は僕の方へ身体を向ける。
赤紫の瞳が、さっきまで水憑きを見ていた時よりも楽しそうに細められた。
「僕の知ってることは話した」
「はい」
「なら、今度は僕の知りたいことを聞いてもいいだろう?」
「……知りたいこと?」
「うん」
メルシアさんが少し身を乗り出す。
僕の目を覗き込むように、顔が近づいてきた。
「近くないですか?」
「そう?」
「そうです」
思わず身体を引く。
綺麗な人にこんな距離から見つめられると、さすがに落ち着かない。
そんな僕を見て、メルシアさんは楽しそうに笑った。
「僕が気になってるのは、水憑きだけじゃないんだ」
「……?」
「むしろ今は、こっちの方が気になってるかもしれない」
指先が、僕へ向く。
「君だよ、ルキウス」
「僕?」
「うん」
思わず身体を少し後ろへ引く。
それでもメルシアさんは離れようとせず、僕の反応を面白がるように目を細めた。
……顔が近い。
綺麗な人にこんな距離から見つめられると、さすがに落ち着かない。
「雪山で初めて君を見た時から、ずっと気になってたんだ」
「僕を?」
「正確には、君が抱えてるものを」
「……何の話ですか?」
メルシアさんは答えない。
代わりに、さっきまでよりずっと楽しそうに笑った。
「君が何を考えているのか。どうしてあの雪山で立ち続けたのか。それから――君が何を目指しているのか」
思ってもいなかったことを聞かれ、何度か瞬きをする。
「僕のことを聞くために、ここへ?」
「それもあるね」
「それも、なんですね」
「僕は欲張りなんだ」
悪びれる様子もない。
メルシアさんは再び寝台の端へ腰を下ろすと、膝の上へ両手を重ねた。
「聞かせてもらってもいい?」
「別に構いませんけど……そんなに面白い話じゃないですよ」
「それを決めるのは、聞く方だろう?」
どこか楽しそうに言われる。
ただし、何でも正直に答えられるわけではなかった。
僕が人間であることだけは、たとえ相手が誰であっても簡単に話せない。
「答えられないこともあると思います」
「その時は、答えられないと言ってくれればいい。無理に聞き出すのは趣味じゃないから」
「僕が嘘をついていたら、どうするんですか?」
問いかけると、メルシアさんは一度だけ瞬きをした。
それから、子供の素朴な疑問を聞いたように柔らかく目を細める。
「ルキウスは嘘をつかないよ」
迷いのない声だった。
窓から入り込んだ夜風が、銀白色の毛先を揺らす。
「ルキウスは、そういう人だから」
「まだ会ったばかりですよね」
「うん」
「それなのに、分かるんですか?」
「分かるよ。少なくとも、僕はそう思っている」
何の根拠も示さないまま、彼女は言い切った。
からかわれているのかとも思ったけれど、その表情には冗談めいた色がない。
本当にそう信じているらしい。
会ったばかりの相手から向けられるには、少し重い信頼だった。
「……分かりました」
居心地の悪さを誤魔化すように膝の上で指を組み直す。
すると、メルシアさんの笑みが少しだけ深くなった。
「ありがとう」
「それで、何から話せばいいですか?」
「そうだなぁ」
唇へ指を添え、少しだけ考える。
けれど、答えは最初から決まっていたらしい。
すぐに手を下ろすと、赤紫の瞳が真っすぐ僕へ向けられた。
自然と背筋へ力が入った。
……何を聞かれる?
僕の種族?
フードを外さない理由?
母のこと?
それとも、故郷のことまで聞かれるんだろうか。
答えられないものなら、そう言えばいい。
さっきメルシアさんも、それで構わないと言っていた。
……それでも、何を聞かれるのか分からない時間は落ち着かない。
膝の上で指を組み、その視線を待つ。
「あはは。まぁ、そんなに警戒しないでよ」
突然笑われ、思わず瞬きをした。
「そんなに顔に出てました?」
「かなりね。今にも僕が、とんでもない秘密を聞き出すみたいな顔をしてる」
「……少しだけ身構えてました」
「素直だねぇ」
メルシアさんは楽しそうに肩を揺らす。
さっきまでこちらを見定めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
「安心して。大したことじゃないさ」
「そうなんですか?」
「うん。ただ、僕が気になっているだけ」
そう言って笑ったあと。
メルシアさんは頬杖をやめ、赤紫の瞳を静かに細めた。
「どうして君はあの時、諦めなかったの?」
軽かった声から、戯けた響きだけが消えていた。
静かな問いだった。
責める響きも、試すような意地の悪さもない。
ただ純粋に、その答えを知りたいのだと伝わってくる声だった。
「あの時?」
「雪山で、大型と戦った時さ」
すぐに、あの戦いの光景が浮かんだ。
吹き荒れる雪。
白い獣の咆哮。
身体のあちこちから流れていた血と、何度立ち上がっても追いついてきた痛み。
そして、隣で戦っていたガルドさんの背中。
「あそこで逃げても、誰も君を責めなかった」
メルシアさんの声から、先ほどまでの戯けた響きが消えていた。
寝台へ腰掛けた姿勢は変わらない。それなのに、部屋の空気だけが少しずつ張り詰めていく。
「あの時の君にできる最善は、逃げることだった。少なくとも、生き残ることだけを考えるならね」
「それは……」
否定する言葉は出てこなかった。
あの時の僕では、まともに敵う相手ではなかった。フレイヴィアさんとの訓練がなければ、一度目の攻撃で死んでいたかもしれない。
「むしろ、戦うという選択肢は考え得る限りで悪手だった。それを、ルキウスも分かっていたはずだ」
「……はい」
分かっていた。
怖かったし、勝てるとも思っていなかった。
足は震えていた。剣を握る手からは力が抜け、息をするだけでも身体中が痛んだ。
それでも僕は立った。
何度倒されても、片刃剣を握り直した。
「あそこで逃げても、君を責める者はいない。逃げる方が正しくて、戦う方が間違っていた」
開け放たれた窓から夜風が入り込み、メルシアさんの銀白色の毛先を揺らす。
彼女は笑っていなかった。ただ真っすぐに、僕の答えだけを待っている。
「それでも君は立った。戦うことを選んだ。それはどうしてなのか、教えてほしい」
答えようとして、口を開く。
けれど、喉まで上がってきた言葉を、そのまま口にすることはできなかった。
ガルドさんがいたから。
最初に浮かんだのは、それだった。
あの人を一人で戦わせたくなかった。僕だけ逃げるなんて、できなかった。
……違う。
それも理由の一つではある。
けれど、それだけなら、ガルドさんが逃げろと言った時に従っていたはずだ。
なら、僕が残れば、少しでも力になれると思ったから?
……それも違う。
あの時の僕では、助けになるどころか足を引っ張る可能性の方が高かった。
そんなことは自分でも分かっていた。それでも、僕は剣を握った。
逃げたくなかったから。
諦めたくなかったから。
英雄なら、あそこで立つはずだと思ったから。
どれも間違いではない。
だけど、どれも一番ではなかった。
吹雪の中で倒れていた人たち。
傷だらけになりながら、それでも僕を逃がそうとしていたガルドさん。
あのまま僕が背を向ければ、誰かが死ぬかもしれない。そのことだけが、何よりも怖かった。
胸の奥へ残っていた光景を、一つずつ思い返す。
そうしてようやく、自分があの時、何を恐れていたのかに気づいた。
膝の上で握っていた指を解き、メルシアさんの瞳を見返す。
「誰にも死んでほしくなかったからです」
口にしてみれば、驚くほど単純な答えだった。
格好のいい理由ではない。
勝てると信じていたわけでも、自分なら全員を救えると思っていたわけでもなかった。
ただ、嫌だった。
目の前にいる誰かが死ぬことも。
自分だけが生き残り、その人がいなくなったあとを歩き続けることも。
「僕が逃げれば、ガルドさんが死ぬかもしれなかった。倒れていた人たちも、助からなかったかもしれない」
声にするたび、あの時の恐怖が胸へ戻ってくる。
吹雪の冷たさも、剣を握れなくなりかけた指の感覚も、今でもはっきりと思い出せた。
「僕にできることがほとんどなくても、何もしないまま誰かが死ぬのを待つことだけは……できなかったんです」
メルシアさんは何も言わなかった。
赤紫の瞳を僅かに細め、しばらく僕を見つめている。
……変な答えだっただろうか。
「それで、君も死んだら?」
「……え?」
「君が残ったせいで状況が悪くなって、助けたかった人も死ぬ。君自身も死ぬ」
メルシアさんの表情に笑みはなかった。
「逃げていれば、少なくとも君だけは助かったかもしれない。それでも?」
すぐには答えられなかった。
それは、あの時だって考えなかったわけじゃない。
僕が残ったせいでガルドさんの邪魔になるかもしれない。
二人とも死ぬかもしれない。
助けたかった誰かまで巻き込むかもしれない。
……怖かった。
今考えたって、正しい選択だったとは言い切れない。
「それでも、です」
口にすると、メルシアさんの瞳が僅かに見開かれた。
「正しかったかどうかは、今でも分かりません。でも、何もしないで逃げて、あとから誰かが死んだと知る方が……僕には耐えられなかったと思います」
「自分が死ぬより?」
もう一度聞かれる。
……少しだけ考える。
「たぶん」
自分でも、変な答えだと思う。
「死ぬのは怖いです。でも、何もしなかったことを後悔し続ける方が、僕は嫌なんだと思います」
メルシアさんは何も言わない。
ただ、さっきまでとは違う目で僕を見ていた。
やがて、その唇が柔らかく弧を描いた。
「……ふふ。まるで、英雄みたいだね」
どくん、と胸が跳ねた。
「えっ」
思いもよらない言葉に、間の抜けた声が出る。
顔へ熱が集まるのを感じ、咄嗟にフードの端を引き下げた。
「い、いえ。僕はまだ、そんなものじゃ……」
「そうかな?」
メルシアさんは楽しそうに笑いながら、寝台の上へ視線を落とした。
そこには、今朝読みかけのまま置いていた一冊の英雄譚がある。
何度も読み返したせいで表紙には細かな傷がつき、頁の端も少し柔らかくなっていた。
メルシアさんはその本へそっと手を伸ばすと、古びた表紙を慈しむように指先で撫でる。
「ずいぶん、大切に読んでいるみたいだね」
「……好きな本なので」
自分の胸の内まで見られたような気がして、まともに彼女の顔を見られない。
英雄みたいだと言われただけでも落ち着かないのに、その直後に英雄譚まで見つけられるのは、さすがに恥ずかしかった。
メルシアさんは表紙へ落としていた視線を、ゆっくりと僕へ戻した。
その瞳に浮かんでいるのは、からかうような色ではない。
何かが、ようやく一つにつながった。
そんなふうに、彼女は静かに目を細める。
「そっか。これが、君の――」
最後まで言わず、メルシアさんは口を閉ざした。
けれど、その表情はひどく満足そうで、長いあいだ探していた答えを見つけたようにも見えた。
「……何ですか?」
「ううん。何でもないよ」
英雄譚から手を離した彼女は、しばらく僕を眺めていた。
やがて一人で納得したように頷くと、寝台から立ち上がる。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰ろうかな」
「もう帰るんですか?」
「聞きたかったことは聞けたからね」
「僕はまだ、聞きたいことがたくさんあるんですけど」
「それは次に会った時のお楽しみだ」
メルシアさんは外套の裾を揺らしながら、開け放たれた窓へ向かう。
来た時と同じように窓枠へ片手をつき、軽やかに足を掛けた。
「扉から帰らないんですか?」
「入ってきた場所から帰るのが礼儀でしょう?」
「礼儀を気にするなら、最初から扉を使ってください」
「それもそうだね」
認めた。
認めたのに、窓枠から降りるつもりはないらしい。
メルシアさんは外へ足を出したところで動きを止め、肩越しに僕を振り返った。
月明かりを浴びた銀白色の髪が、夜風に揺れる。
「ルキウス」
「はい?」
「君の答え、僕は好きだよ」
そう告げると、彼女は満足そうに笑った。
返事を考えるより先に、メルシアさんの身体が窓の外へ消える。
「ちょっ……危ないですよ!」
慌てて立ち上がり、窓へ駆け寄る。
けれど、メルシアさんは隣の屋根へ羽でも生えているように軽く降り立っていた。
深い藍の外套を夜風にはためかせながら、こちらへ片手を振る。
「優しいね、ルキウスは」
「二階から飛び降りた人を心配するのは普通です!」
「はは!そういうことにしておこうか」
鈴を転がしたような笑い声が、静かな夜へ溶けていく。
「また会おうね、ルキウス」
「次は扉から来てくださいね」
「考えておくよ」
「そこは約束してください!」
僕の声が届いたのかどうか。
メルシアさんは答えず、楽しそうに屋根の上を歩いていく。
銀白色の髪が月明かりの中で揺れ、やがて建物の向こうへ消えていった。
しばらく窓の外を眺めていたが、戻ってくる様子はない。
僕は窓を閉め、念のため鍵もしっかりと掛けた。
……窓の鍵を掛けるべきなのは、出かける前だったのかもしれない。
机へ戻り、椅子へ腰を下ろす。
部屋の中には、メルシアさんがいた痕跡など何も残っていなかった。
ただ、寝台の上に置かれた英雄譚だけが、ほんの少し位置を変えている。
僕はその表紙へ手を伸ばし、彼女が撫でた場所を指先でなぞった。
「まるで、英雄みたい……か」
小さく呟いた途端、また顔が熱くなる。
誰も見ていないのにフードを深く被り直し、誤魔化すように机の上へ紙を広げた。
水憑き。
古い伝承。
水禍渡り。
このままでは、エルドランが海に呑まれるかもしれないこと。
そして、それを止める方法はまだ分からないこと。
一つずつ、聞いた内容を書き留めていく。
最後に筆を止め、紙の中央へ残された言葉を見つめた。
――水禍渡り。
今夜まで知らなかったその言葉だけが、ほかの文字よりも黒く、重く見えた。
窓の向こうでは、エルドランの灯りがいつもと変わらず揺れている。
酒場から聞こえる笑い声も、夜道を走る荷車の音も、まだ何一つ変わっていない。
――この街が、なくなるかもしれない。
その言葉を胸の中で繰り返すと、先ほどまで感じていた冷たさとは別のものが、静かに灯った。
僕は窓の向こうに広がる街を見つめ、膝の上で拳を握る。
……なくさせたくない。
この街も。
ここで暮らす人たちも。
今の僕に何ができるのかは、まだ分からなかった。
それでも、何もしないまま失うことだけは嫌だった。
紙の上で乾き始めた『水禍渡り』の文字を見下ろしながら、僕はもう一度だけ、強く拳を握り直した。
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