駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
――扉を叩く音で目が覚めた。
一度目ではまだ身体を起こせず、続けて響いた二度目の音でようやく寝台から顔を上げる。
「ルキウスさん! いらっしゃいますか!」
聞き覚えのない男の声だった。
窓を見る。
薄い朝日がカーテンの隙間から差し込み、机の上には昨夜書いた紙がそのまま散らばっていた。
……寝たの、いつだっけ。
メルシアさんから聞いたことを書き出しているうちに、かなり遅くなったのは覚えている。
「はい! 今開けます!」
寝台から降り、椅子へ掛けていた外套を取る。
フードだけ被り、急いで扉の鍵を外した。
廊下に立っていたのは、灰色の制服を着た若い獣人族の男性だった。
短い犬耳が僅かに伏せ、ここまで走ってきたのか肩が小さく上下している。
「ルキウスさんですね?」
「はい」
「ギルドから緊急の集合要請です。できるだけ早く本部へ来てほしいとのことです」
緊急の集合要請。
その言葉を聞いた途端、眠気が一気に消えた。
昨夜、窓際で笑っていたメルシアさんの声がそのまま頭へ蘇る。
『まぁ、明日にでも緊急で集められるんじゃない?』
……メルシアさんの言った通りになった。
「何かあったんですか?」
「詳しい内容までは私も。ただ、昨日の岩礁地帯に関係する方や、調査担当の方々が集められていると聞いています」
「分かりました。すぐに向かいます」
「お願いします」
男性が頭を下げ、早足で廊下を戻っていく。
その背中が階段の向こうへ消えるまで見送り、僕は部屋へ戻った。
腰へ片刃剣を差し、机の上へ散らばった紙を一枚ずつ重ねる。
水憑き。
生息域から離れていたガルグ獣。
海へ向かって走っていった個体。
死骸から流れ出した水。
それから、メルシアさんが追っていた似たような痕跡。
……持っていこう。
昨夜まとめた紙を折り畳み、外套の内側へ入れる。
部屋を出て階段を下りると、食堂では女将さんが朝食の準備をしていた。
僕を見るなり、大きな身体がこちらを向く。
「おや。朝から慌ただしいね」
「ギルドから緊急で呼ばれました」
「そうかい。朝飯は?」
「時間がないので――」
「あるよ」
「……あります」
聞き方を間違えた。
女将さんから黒パンを渡され、その場で一口齧る。
「何があったか知らないけどね。腹を空かせて行ったって頭も身体も動かないよ」
「はい」
「帰ったらちゃんと食べな」
「分かりました」
残りの黒パンを受け取り、入口へ向かう。
「行ってきます」
「気をつけて行ってきな」
――角兎亭を出る。
朝のエルドランには、もういつもの音が戻っていた。
店先へ商品を並べる商人。
石畳を進む荷車。
通りの端では獣人族の子どもが二人、追いかけっこをしながら走っている。
昨日、街のすぐそばで何体もの水憑きと戦ったなんて嘘みたいだった。
……何も変わってない。
そう見える。
でも、本当に何も変わっていないのかは分からない。
黒パンを口へ押し込みながら、ギルドへ向かって足を速めた。
◆
ギルドの扉を開けた瞬間、いつもの朝とは違うことが分かった。
依頼板の前にいるハンターが少ない。
代わりに受付の奥を何人もの職員が行き交い、紙束や地図を抱えた人が早足で廊下へ消えていく。
酒場側から聞こえる声も、普段よりずっと小さかった。
「ルキウスさん!」
受付の奥からアルナさんがこちらへ来る。
茶色い猫耳は真っすぐ立ち、表情にも昨日までの柔らかさがほとんどなかった。
「来ました」
「ありがとうございます。こちらへお願いします」
「昨日のことで?」
「それもあります」
アルナさんが歩き始め、僕もその横へ並ぶ。
「今朝までに、いくつか新しい報告が届きました」
「新しい……」
「会議でまとめて説明されます」
そこまで言うと、アルナさんは口を閉じた。
……今ここで聞くより、全員揃った場所で聞いた方がいいらしい。
受付の奥へ入り、長い廊下を進む。
普段なら職員同士の話し声が聞こえてくる場所なのに、今日は妙に静かだった。
何人かとすれ違ったけれど、立ち止まる人はいない。
抱えた書類を落とさないよう胸へ寄せ、そのまま早足で横を通り過ぎていく。
……やっぱり、普通の呼び出しじゃない。
廊下の一番奥まで進んだところで、アルナさんが大きな扉の前へ立った。
見覚えはある。
僕が普段使うような部屋ではなく、もっと人数の多い打ち合わせで使われている会議室だった。
「こちらです」
アルナさんが扉へ手を掛ける。
「……僕も入っていいんですよね?」
「そのために呼ばれたんですよ」
少しだけ笑われた。
けれど、猫耳は真っすぐ前を向いたままだった。
――扉が開く。
中へ入った瞬間、思わず足を止めかけた。
長い机を囲むように、すでに十人以上が集まっている。
昨日一緒に戦ったミラさん。
ナッシュさん。
ティオルさん。
見覚えのないハンターも何人かいる。
壁際にはギルドの調査員らしい人たちが立ち、そのうちの一人は何枚もの報告書を抱えていた。
誰も大きな声では話していない。
聞こえるのは短く交わされる低い声と、紙を捲る音くらいだった。
――机の中央には、エルドラン周辺の大きな地図が広げられている。
街だけじゃない。
北の雪山も、周囲の森も、街道も、港の先まで描かれていた。
……昨日の件だけで、これだけの人が集められた?
「おう」
横から聞き慣れた声が飛んできた。
顔を向ける。
「ガルドさん」
「お前も呼ばれたか」
「はい」
ガルドさんが隣の空いている椅子を軽く引く。
腰を下ろした途端、その視線が僕の肩から腕へ落ちた。
「昨日また戦ったらしいな」
「少しだけです」
「怪我は?」
「ありません」
「本当にか?」
「今回は本当にありません」
数秒だけ見られる。
……今回は信用してほしい。
「ならいい」
短く返され、ようやく視線が外れた。
「ガルドさんは、どうして?」
「昨日の雪山の件で呼ばれた。水憑きを直接見てる奴は、できるだけ集めてるらしい」
なるほど。
僕だけじゃない。
そこへ最後らしい一人が会議室へ入ってくる。
アルナさんが人数を確認し、その人が席へ着いたのを見届けてから扉の横へ立った。
――会議室の扉が閉じる。
廊下から聞こえていた足音まで遠くなり、それまで小さく続いていた話し声も一つずつ消えていった。
誰に言われたわけでもない。
けれど、部屋にいる全員の視線が自然と一番奥へ向く。
そこにはギルドマスターが立っていた。
椅子には座らず、広げられた地図へ両手をついている。
……ここからだ。
昨日、潮入り岩礁地帯で何が起きたのか。
雪山で見たものと、本当に繋がっているのか。
そしてギルドは、僕たちの知らないところで何を掴んでいるのか。
膝の上へ置いた手に、少しだけ力が入った。
――ギルドマスターがゆっくりと顔を上げる。
「揃ったな」
低い声が、静かな会議室へ通る。
「朝から急に呼び出して悪い。だが、昨日の件だけで済ませられない報告が上がっている」
誰も口を挟まない。
ギルドマスターの指が机の上に広げられた地図へ落ちる。
「これから、現時点でギルドが確認している異常について共有する」
一度、部屋全体を見回す。
「緊急会議を始める」
その言葉と同時に、アルナさんが帳面を開いた。
「まず、北側の雪山で確認された大型モンスターについてです」
聞き覚えのある場所に、自然と背筋が伸びる。
「全身が不自然に濡れ、傷口から血とともに大量の水を流していたことが確認されています。討伐時の状況については、ルキウスさんとガルドさんからすでに報告を受けています」
調査員の一人が、地図の北側へ小さな印を置いた。
「次に、昨日の潮入り岩礁地帯。本来は乾燥した岩山や荒地を主な生息域とするガルグ獣が複数確認され、そのすべてに同様の異常が見られました」
今度は港に近い場所へ印が増える。
……二つ。
そう思ったところで、アルナさんが次の頁を捲った。
「さらに、ここ数日で届いた報告を再確認した結果、直接水憑きと確認できてはいませんが、似た特徴を持つ事例が複数見つかっています」
調査員の手がまた動く。
「東街道沿いで発見された、不自然に濡れた獣の足跡。水辺から離れた林の中で見つかった、全身が濡れた小型モンスターの死骸。そして港の外れで、身体から水を垂らしながら海側へ移動するモンスターが目撃されています」
地図へ一つ。
また一つ。
報告が読み上げられるたびに、小さな印が増えていく。
……昨日だけじゃない。
北の雪山にも。
街道にも。
森にも。
そして、エルドランのすぐ近くにも。
「ただし、これらすべてが同じ原因によって起きていると確認されたわけではありません」
アルナさんが顔を上げる。
「偶然や、別の要因によるものが含まれている可能性もあります。ですが、無関係として扱うには共通点が多すぎるというのが、現在の調査班の判断です」
「つまり、全部を水憑きと決めつけるなってことか」
ナッシュさんが腕を組む。
犬耳が僅かに動いた。
「はい。ですが、警戒対象から外す理由もありません」
アルナさんが席へ戻る。
ギルドマスターが地図の港付近へ指を置いた。
「昨日現場にいた奴らへ確認する。ガルグ獣は、人を狙っていたのか?」
最初に答えたのはミラさんだった。
「最初はそう見えました。ただ、途中から明らかに動きが変わった個体が何体もいました」
「どう変わった?」
「海へ向かいました」
ギルドマスターの眉が僅かに動く。
「ルキウス。お前も見たな」
「はい」
一度、昨日の岩場を思い出す。
「戦っている途中で突然僕たちへ背を向けて、そのまま海へ走っていきました」
「逃走じゃないのか?」
机の向こうにいたハンターから声が飛んでくる。
「僕も最初はそう思いました。でも、逃げるなら人から離れればいいはずです」
傷ついた脚。
こちらには目も向けず、海だけを見ていたガルグ獣。
「途中に人が立っていると攻撃しました。でも、その人が倒れたあとは何もしませんでした。追い打ちもしないで、そのまま海へ向かっていました」
少しだけ会議室が静かになる。
「人を倒すのが目的じゃなかった」
ティオルさんが続けた。
「進路を塞がれたから排除した。それだけに見えました」
「俺も同じだ」
ナッシュさんが頷く。
「一体じゃない。少なくとも俺が見た範囲じゃ、何体も同じ動きをしてた」
ギルドマスターが何も言わず、地図の海側へ視線を落とす。
「もう一つ、昨日の回収班から報告があります」
アルナさんが再び立ち上がった。
今度は帳面ではなく、一枚の報告書を手にしている。
「討伐されたガルグ獣の一部を運搬した際、死骸から流れ続けていた水に異常が確認されました」
「異常?」
ガルドさんが低く聞き返す。
「運搬台の傾きを変えても、水の多くが一定の方向へ流れ続けたそうです」
「どっちだ」
アルナさんが一度だけ息を吸う。
「海側です」
誰もすぐには話さなかった。
……やっぱり。
昨日、僕も見ている。
岩の傾斜とは違う方向へ進んでいた濁った水。
水憑きのガルグ獣も。
その身体から出た水まで。
……全部、海へ向かってる。
「何らかの魔術的な作用がある可能性についても調査中ですが、現時点では原因を特定できていません」
アルナさんが報告書を机へ置く。
その隣では、調査員の一人が地図へ書き込みを続けていた。
ばらばらの場所へ置かれていた印。
でも、昨日目の前で見たものまで含めれば、その全部が少しずつ同じ方向へ向いているように見える。
「……多すぎる」
思わず声が漏れた。
「何がだ?」
ガルドさんがこちらを見る。
「同じ方向を向いているものが、です」
地図へ視線を落とす。
「水憑きも。身体から流れた水も。それに……昨日会った人から聞いた話も」
何人かの視線がこちらへ向いた。
ギルドマスターも顔を上げる。
「昨日会った人?」
「メルシアさんという旅人です。僕たちより前から、水憑きみたいなモンスターを調べていたらしくて」
横を見ると、ガルドさんの眉が寄っていた。
「知り合いか?」
「昨日初めて会いました」
「昨日初めて会った旅人に、何でそんな話を聞いてるんだ」
「……色々ありまして」
「その色々が気になるんだが」
「今はこっちの話をさせてください」
納得していない顔をされた。
……窓から部屋へ入ってきました、なんて言ったら絶対に話が逸れる。
「続けろ」
ギルドマスターに促され、僕は外套の内側から折り畳んだ紙を取り出した。
「メルシアさんが追ったモンスターも、森や街道から水のある方角へ向かっていたそうです。それから、昔にも水が妙な動きをしたあとで大きな災いが起きたという話が残っている、と」
「災い?」
「はい。海が大きく引いた時や、川や井戸の水がおかしな動きをした時は、高い場所へ逃げろ……そういう古い話らしいです」
紙へ書いていた内容を確かめながら伝える。
「名前は?」
「分からないそうです。メルシアさんも、今起きていることと同じなのかまでは分からないと言っていました」
ギルドマスターが黙り込む。
調査員たちも互いに顔を見合わせた。
「信憑性は?」
「僕には分かりません。ただ、水のある方へ向かうモンスターをメルシアさん自身も追っていたそうです」
全部が繋がっているとは、まだ言えない。
けれど、昨日まで感じていた嫌な予感が、少しずつ形を持ち始めている気がした。
「伝承一つで街を動かすわけにはいかん」
ギルドマスターが口を開く。
「だが、今ある報告と重なる部分を無視する理由もない。調査班は古い記録を洗え。水害、海難、モンスターの大量移動。水に関わる記録は年代を問わず全部だ」
「承知しました」
「港の監視も増やす。海へ向かうモンスターを見つけても単独では追うな。必ず報告を上げろ」
職員たちの筆が一斉に動く。
「井戸と水路も確認させろ。今のところ異常がなくても構わん。妙な動きが一つでもあれば――」
――キィィィィイイン。
ギルドマスターの言葉が途中で止まった。
「っ……!」
耳の奥へ鋭い痛みが走り、反射的に手で押さえる。
高い。
金属同士を無理やり擦り合わせたような音。
それなのに、ただ近くで鳴っているようには聞こえなかった。
――窓硝子が細かく震える。
机の上に置かれた水差しまで揺れ、中の水面へ細かな波紋が広がった。
「なんだ、これ……!」
ナッシュさんの犬耳が頭へ張りつくほど伏せられている。
ガルドさんも窓へ顔を向けた。
「外からか?」
「分かりません」
音の方向を探す。
右。
左。
上。
……違う。
どこから聞こえているのか、分からない。
まるで遠くにある何かの声が、街全体を震わせながら届いているみたいだった。
甲高い音はしばらく続いたあと、急に途切れた。
「……」
誰もすぐには口を開かなかった。
耳の奥にだけ、まだ細い音が残っている。
窓硝子の震えが収まり、水差しの波紋もゆっくり消えていく。
「今の……何ですか」
アルナさんの猫耳も低く伏せられていた。
――会議室の外から、何人もの声が聞こえる。
走る足音。
何かを叫ぶ声。
その中に混じって、遠くから犬の吠える声まで聞こえた。
そして。
――会議室の扉が勢いよく開いた。
「ギルドマスター!」
職員の男性が息を切らして立っている。
「何だ!」
「港から報告です!」
「言え!」
男性が乱れた呼吸を一度だけ整える。
「海の様子がおかしいと、漁師と港湾作業員から複数の報告が来ています!」
……海。
胸の奥が冷たくなる。
「具体的には?」
「潮の時間と合いません。水位が下がり始めています。それから、港へ流れ込む水路でも、海側への流れが急に強くなったと!」
ざわめきが広がる。
ギルドマスターの視線が地図へ落ちた。
「どれくらい下がった」
「まだ大きな変化ではありません! ですが、長く港にいる者たちが口を揃えておかしいと」
「船は?」
「一隻、沖へ出る準備をしていた船があります」
「止めろ。今は一隻も出すな」
声が鋭くなる。
「港の人間を全部退かせる必要はまだない。だが、すぐ動かせるよう準備だけさせろ。水路と井戸も優先して確認しろ」
「はい!」
職員がすぐに走り去る。
扉が閉じても、部屋の空気はもう元へ戻らなかった。
……海へ向かった水憑き。
海へ流れた水。
そして今度は、海そのものがおかしい。
まだ何が起きているのかは分からない。
なのに。
一つずつ、同じ場所へ繋がり始めている。
「ギルドマスター」
壁際にいた年配の調査員が口を開いた。
「通常のモンスター異常として扱う範囲を、もう超えているのでは」
「……ああ」
ギルドマスターはすぐには続けなかった。
地図を見る。
港を見る。
そこへ置かれたいくつもの印を順番に追い、最後に顔を上げる。
「オルディア殿のところへ行く」
聞いたことのない名前だった。
「オルディアさん……?」
小さく呟くと、隣のガルドさんがこちらを見る。
「知らねえか」
「はい」
「まあ、お前がこの街に来てからじゃ、関わることもなかっただろうな」
それだけ言って、ガルドさんも机の向こうへ視線を戻した。
「アルナ。ここまでの報告をまとめろ」
「はい」
「調査班から一人、俺について来い。残りは古い記録を洗い続けろ」
「承知しました」
ギルドマスターが次々と指示を出していく。
「港の監視は増やす。海、水路、井戸――何でもいい。少しでも妙な動きがあればすぐ上げろ。今の段階で市民を煽るな。俺たちにもまだ、何が起きているのか分かっていない」
返事が重なる。
壁際にいた職員たちがすぐに動き始め、机の上へ広げられていた報告書も次々と回収されていった。
……会議は終わり?
そう思って椅子から立ち上がったところで、ギルドマスターの視線がこちらへ向いた。
「ルキウス」
「はい」
「お前も来い」
「僕もですか?」
「ああ。雪山と昨日の岩礁地帯、二度とも水憑きを直接見ている。俺が又聞きで話すより、お前自身から聞かせた方が早い」
……なるほど。
「分かりました」
頷くと、今度はガルドさんが椅子から腰を上げた。
「俺もだろ?」
「当然だ。雪山のことはお前からも聞く」
「了解」
ガルドさんが肩を軽く回す。
僕も椅子を戻し、外套の内側へ昨夜の紙が入っていることを確かめた。
「ギルドマスター」
アルナさんがまとめた報告書を差し出す。
「現時点までのものです。昨日の岩礁地帯についても、今朝届いた回収班からの報告まで入れてあります」
「助かる」
厚みのある紙束を受け取ると、ギルドマスターがその場で数枚だけ内容を確認する。
「……オルディアさんって、どんな人なんですか?」
聞いてみる。
ギルドマスターは紙から目を離さなかった。
「古いことを知っている人だ」
「古いこと?」
「ああ」
そこでようやく報告書を閉じる。
「俺たちなんかより、ずっとな」
それだけではよく分からない。
ガルドさんを見ると、向こうも僕の視線に気づいたらしい。
「行きながら教えてやるよ」
「お願いします」
「話は歩きながらだ。急ぐぞ」
――会議室の扉が開く。
さっきまで張り詰めていた空気が、一気に廊下へ流れ出した。
僕たちより先に職員が走っていき、その横を何枚もの書類を抱えた調査員が通り過ぎていく。
「ルキウスさん」
廊下へ出たところでアルナさんに呼び止められた。
「はい」
「気をつけてくださいね」
茶色い猫耳が少しだけこちらへ傾いている。
「話を聞きに行くだけですよ?」
「ルキウスさんですから」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
それ以上は教えてくれなかった。
「行くぞ、ルキウス」
「あ、はい!」
先を歩き始めたガルドさんを追う。
そのさらに前では、ギルドマスターと一人の調査員がすでに廊下を曲がるところだった。
――ギルドを出る。
朝の通りには、まだいつもと変わらない景色が残っていた。
商人が声を上げ、荷車が石畳を進み、人々がそれぞれの目的地へ向かっている。
けれど、さっきの甲高い音のせいだろう。
足を止めて港の方角を見ている人が、いつもより少し多かった。
僕も一度だけそちらへ目を向ける。
建物に遮られ、ここから海は見えない。
……今、どうなってるんだろう。
「ルキウス」
「はい」
ガルドさんに呼ばれ、前へ向き直る。
「置いてくぞ」
「すみません」
足を速め、横へ追いつく。
ギルドマスターたちが向かっているのは港とは反対――街の高い方だった。
「それで、オルディアさんってどんな人なんですか?」
「ん?」
ガルドさんが前を歩きながら少しだけ考える。
「説明しろって言われると難しいな」
「難しいんですか?」
「ああ。偉い人ではある」
「では、街のお偉いさん?」
「……まあ、間違ってはいねえんだが」
歯切れが悪い。
「この街で何か大きなことを決める時は、最後にはオルディア殿へ話が行く。役人も商人も、ギルドだってそうだ」
「街の一番上の人、ということですか?」
「今はそんな感じだな」
……今は?
聞き返そうとしたところで、ガルドさんが続けた。
「別に本人が『自分がこの街を治める』なんて言い出したわけじゃねえよ。長くここにいて、色んな奴から頼られて、そのうち何かあればみんなが話を持っていくようになった」
それで今の立場になったらしい。
「どれくらい長くいるんですか?」
「知らん」
「ガルドさんも?」
「俺だけじゃねえよ。詳しいこと知ってる奴なんて、たぶんほとんどいねえ」
ガルドさんが肩を竦める。
「この街が始まった頃からいる、なんて話は聞くけどな」
「……そんなに?」
思わず足が少し遅くなる。
エルドランがいつからあるのか、正確なところまでは知らない。
でも、僕が想像できるよりずっと長いことだけは分かった。
「竜族だからな。長生きなのは珍しくねえが、オルディア殿はその中でも別格だ」
「怖い人ですか?」
「いや」
今度はすぐに否定された。
「寛大な方だよ。滅多なことで怒らねえし、相手が誰でも話は聞く。だからこそ、みんな頼るんだろうな」
……少し安心した。
「ただし」
「ただし?」
「俺みたいな若造が何考えてるかなんて、だいたい見透かされる」
「ガルドさんが若造なんですか?」
「オルディア殿の前じゃな」
そこまで長く生きている人なら、そうなるのかもしれない。
通りは少しずつ坂へ変わっていく。
港に近い倉庫や商店が減り、代わりに石造りの大きな建物が増えていった。
役所や街の管理に関わる施設が集まっている辺りだ。
僕も何度か来たことはあるけれど、さらに上まで登るのは初めてだった。
――坂の途中で、一度だけ振り返る。
建物の隙間から街の屋根が広がり、そのずっと向こうに港が見えた。
……海は。
距離がある。
ここからでは、はっきりとは分からない。
ただ、普段なら水があるはずの岸際が、少し広く見える気がした。
「どうした?」
「海が……少し遠くなってるような」
ガルドさんも足を止め、同じ方向を見る。
「ここからじゃ判断できねえな」
「……はい」
港には監視が出ている。
今は僕が見続けても仕方がない。
前へ向き直り、また坂を上った。
しばらくして、ギルドマスターが足を止める。
――正面には、大きな石造りの建物があった。
派手ではない。
高い塀で囲われているわけでもなければ、豪華な飾りが並んでいるわけでもない。
それでも太い柱と広い入口、そこへ絶えず出入りする役人らしい人たちを見れば、街の中心に近い場所なのだと分かる。
階段の両脇には衛兵が立っていた。
「ギルドマスター殿」
僕たちを見ると、そのうちの一人がすぐ姿勢を正す。
「オルディア殿に会いたい。急ぎだ」
「承知しております。中へどうぞ」
……承知してる?
ギルドマスターも特に驚いた様子はなく、そのまま入口へ向かう。
僕とガルドさんも後へ続いた。
――建物の中へ入る。
高い天井。
磨かれた石床。
壁際にはいくつもの扉が並び、職員らしい人たちが書類を抱えて行き交っている。
僕が想像していた「偉い人の屋敷」とは少し違った。
誰か一人のための場所というより、この街そのものを動かすための建物に見える。
……ここに住んでるのかな。
「オルディアさんって、ここに住んでいるんですか?」
「住んでるっつうか……いることが多いな」
「曖昧ですね」
「そういう人なんだよ」
よく分からない。
ギルドマスターは迷うことなく奥へ進んでいく。
何度も来たことがあるらしい。
いくつか廊下を曲がり、緩やかな階段を上ると、それまでより人通りが少なくなった。
――一番奥に、大きな扉がある。
僕たちを案内していた衛兵が、その前で足を止めた。
「少々お待ちください」
中へ入っていく。
扉が閉じると、急に周囲が静かになった。
ギルドマスターは報告書を抱えたまま黙っている。
同行した調査員も口を開かない。
隣を見ると、ガルドさんまで少し姿勢を正していた。
……緊張してる?
「ガルドさん」
「なんだ」
「もしかして緊張してます?」
「してねえ」
「そうですか」
「お前こそフードの端いじるのやめろ」
手を見る。
……触ってた。
慌てて離す。
「別に取って食われたりしねえよ」
「分かってます」
「なら落ち着け」
そう言うガルドさんの腕も、さっきからずっと組まれたままだった。
……やっぱり少しは緊張している気がする。
ほどなくして、扉が開いた。
「どうぞ。お待ちです」
ギルドマスターが先に中へ入る。
僕も一度息を整え、そのあとへ続いた。
――最初に目へ入ったのは、大きな窓だった。
朝の光が差し込み、広い室内を淡く照らしている。
中央には長い絨毯。
その先には大きな机と、いくつかの椅子。
壁際には本棚や古そうな地図、僕には読めない文字が刻まれた石板まで並んでいた。
豪華というより。
……古い。
長い時間を掛けて、必要なものが一つずつ増えていったような部屋だった。
そして、その奥。
――一人の老女が座っていた。
長い白髪。
ゆったりとした衣服。
その上へ薄い羽織を重ね、小柄な身体を椅子へ預けている。
額の左右からは竜族らしい角が伸び、手の甲には歳月を重ねたような色合いの鱗が僅かに見えた。
……この人が、オルディアさん。
想像していたより、ずっと普通のおばあさんに見えた。
もっと威圧感のある人なのかと思っていた。
けれど。
――こちらへ向けられた瞳だけが、不思議なくらい澄んでいる。
目が合った瞬間、背筋が自然と伸びた。
怖いわけじゃない。
睨まれているわけでもない。
ただ、僕なんかより遥かに長い時間を見てきた人なのだと、なぜかそれだけは分かった。
ギルドマスターが一歩前へ出る。
「オルディア殿。突然押しかけてすまない」
「いいさ」
オルディアさんが小さく笑う。
その声は穏やかで、ガルドさんの言っていた通り、こちらを警戒させるようなものは何もなかった。
ゆっくりと僕たちを見渡す。
ギルドマスター。
調査員。
ガルドさん。
最後に僕へ視線が止まり、僅かに目が細められた。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
ギルドマスターの表情が僅かに動く。
「……何か、ご存じなのか?」
「さてね」
オルディアさんはすぐには答えなかった。
窓の向こうへ視線を移す。
――その先には、街。
そして、もっと遠くに海がある。
「まずは座りなさい」
もう一度こちらを見る。
柔らかな笑みは変わらない。
「何やら、大変なことになっているみたいだね」
僕たちは促されるまま、オルディアさんの前へ進んだ。
――この街で起き始めていることを、話すために。
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします。