駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
「さて」
オルディアさんが僕たちを順番に見渡す。
その視線が最後にギルドマスターへ止まると、皺の刻まれた口元が僅かに緩んだ。
「坊やが直々に来るなんて、随分と久しぶりじゃないかい」
「ご無沙汰しております、オルディア殿」
ギルドマスターが深く頭を下げる。
ギルドで僕たちへ指示を出している時とは違い、背筋を伸ばした姿からは普段以上の緊張が伝わってきた。
「このたびは突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「いいよ、いいよ。そんなに畏まらなくても。それにしても、坊やも随分立派になったものだねぇ」
オルディアさんが懐かしそうに目を細める。
ギルドマスターは一度だけ口を閉ざし、それから少し困ったように眉を下げた。
「……オルディア殿」
「なんだい?」
「私ももう、この街のギルドを預かる者です。さすがに人前で坊やと呼ぶのは、おやめいただけませんでしょうか」
言葉遣いは丁寧なのに、どこか照れくさそうだった。
「おや。嫌だったのかい?」
「嫌と申しますか……立場というものがございますので」
「私から見れば、いくつになっても坊やは坊やだけどねぇ」
「……ご勘弁ください」
隣から、ガルドさんが小さく吹き出す音が聞こえた。
「ガルド」
「いや、何でもねえ」
「後で覚えていろ」
「坊や、部下を脅すものじゃないよ」
「オルディア殿まで乗らないでください……」
ギルドマスターが小さく息を吐く。
さっきまで張りつめていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けていた。
……この人がこんな顔をするのは、初めて見たかもしれない。
「ふふ」
オルディアさんも満足そうに笑う。
けれど、その柔らかな空気は長く続かなかった。
机の上へ重ねられた両手が静かに止まり、オルディアさんの目がギルドマスターへ向く。
「それで?」
短い一言だった。
「坊やが朝からそんな顔をして、わざわざ私のところまで来た理由を聞かせてもらおうか」
空気が変わる。
ギルドマスターもすぐに表情を戻し、持ってきた報告書を机の上へ置いた。
「はい。恐れ入ります。では、現在までに確認された事象について、順を追ってご説明いたします」
それから僕たちは……というより、主にギルドマスターが、この数日でエルドラン周辺に起きている異変について話してくれた。
北の雪山で確認された、全身から異常な量の水を流す大型。
本来の生息域から大きく離れたガルグ獣が、何体も街のすぐ近くへ現れたこと。
戦っている途中で僕たちへ背を向け、傷つきながらも海へ向かっていったこと。
倒した個体から流れ出した濁水まで、地面の傾きを無視するように海側へ進んでいたこと。
街道や森からも、似た痕跡が報告され始めていること。
そして今朝、どこからとも分からない甲高い音が街中へ響き、その直後から港の水位と水路の流れに異常が出ていること。
最初、オルディアさんは何も言わなかった。
机の上へ両手を重ね、時折小さく頷きながら話を聞いている。
「昨日確認されたガルグ獣については、現場にいた複数名から同様の証言を得ております」
「……そうかい」
「また、回収した個体から流出した水についても、海側へ向かう性質が確認されました」
オルディアさんの指先が僅かに止まった。
「そうかい」
さっきより、少しだけ声が低い。
「今朝の港からは、潮の満ち引きでは説明できない水位の低下が続いているとの報告が上がっております。現時点ではまだ小規模ですが、長く港にいる漁師たちが揃って異常だと判断しております」
――オルディアさんの目元から、ゆっくりと笑みが消えていく。
「井戸は?」
「現在、確認を急がせております」
「川は?」
「そちらにも人員を送っております」
質問が続くたび、オルディアさんの表情が険しくなっていった。
……知ってる。
何を知っているのかまでは分からない。
でも、初めて聞いた異変に戸惑っているようには見えなかった。
「最後に、今朝確認された音についてですが」
ギルドマスターが一度だけ息を整える。
「発生源は特定できておりません。ギルド、港、街の高所――離れた場所でほぼ同時に確認されました。金属を強く擦り合わせたような、非常に高い音だったとの証言が一致しております」
オルディアさんは答えなかった。
伏せられた目が机の上へ落ちる。
ほんの数秒だったと思う。
それでも、その僅かな沈黙だけで部屋の空気が重くなった。
「……そうかい」
やがて、小さく息が吐かれる。
「オルディア殿」
ギルドマスターが慎重に呼びかける。
「何か、お心当たりがおありなのでしょうか」
オルディアさんはすぐには答えなかった。
椅子へ身体を預けたまま、ゆっくりと窓の向こうへ視線を移す。
僕たちが上ってきた街。
その先にある港。
さらに遠くの海を見ているようだった。
しばらくして、その口が開く。
「――水禍渡り」
知らない言葉が、静かな部屋へ落ちた。
「……水禍渡り?」
思わず繰り返す。
オルディアさんの瞳が僕へ戻った。
「ああ」
「それは……どのようなものなのでしょうか」
ギルドマスターが尋ねる。
オルディアさんはしばらく僕たちを見つめ、それから目を伏せた。
「昔のことだよ」
皺の刻まれた指が、机の上をゆっくりと撫でる。
オルディアさんはすぐには話し始めなかった。
窓の向こうへ目を向け、その先に広がっている今のエルドランをしばらく眺めている。
けれど、その瞳だけはここではないどこか――もっとずっと遠い場所を見ているようだった。
「あの日も、今日みたいな……なんでもない一日だったんだよ」
静かな声が落ちる。
「今ほど街は発展していなかったし、人も建物も少なかった。それでも当時の人たちは互いに助け合って、笑って、喧嘩して……毎日を楽しく、それから懸命に生きていた」
オルディアさんの目が僅かに細められる。
「その日もね。そんな、なんでもない毎日が明日も続くんだって――私はそう思っていたよ」
◆
「オルディアー! ちょっと来ておくれ!」
母さんの声が家の奥から飛んできて、私は食べかけのパンを持ったまま台所へ顔を出した。
「なにー?」
「これ、高台のミレナさんのところまで届けてきてくれないかい?」
母さんが机の上へ置いたのは、布で包まれた荷物だった。
紐でしっかり縛られていて、持ち上げてみると思ったより重い。
「今から?」
「今から」
「あとじゃ駄目?」
「昨日も同じこと言って、そのまま忘れたのは誰だったかね」
「……誰だろ」
「オルディア」
「はい」
名前まで言われた。
……これは逃げられない。
「中は?」
「薬草と干し肉。それから頼まれてた布だよ。落とすんじゃないよ」
「分かってるって」
「寄り道もしない」
「分かってるってば」
もう一度念を押され、荷物を抱え直す。
残っていたパンを口へ押し込み、そのまま玄関へ向かった。
「行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい」
――外へ出る。
よく晴れた日だった。
雲は少なく、海から吹いてくる風も少し湿っているくらいで心地いい。
朝から港では船乗りたちの声が飛び交い、魚を積んだ荷車が軋みながら通りを上ってくる。
「おはよう、オルディア!」
「おはよー!」
道端で野菜を並べていたおばさんへ手を振る。
「またお使いかい?」
「母さんが行けって」
「偉いねえ」
「子ども扱いしないでよ」
笑われた。
……別に、そんなに小さくないのに。
少し膨れながら、そのまま通りを進む。
道の端では子どもたちが木の棒を振り回して遊び、その横を大きな荷物を背負った小人族のおじさんが文句を言いながら避けていた。
酒場の前では昨夜飲み過ぎたらしい男が座り込み、向かいの店から出てきた女の人に水を掛けられている。
笑い声が聞こえた。
怒鳴り声も。
港からは魚と潮の匂いが流れてくる。
――いつも通りだった。
昨日も見た景色で、きっと明日も見る景色。
……早く届けて帰ろう。
戻ったら残してきたパンを食べる。
それから友達のところへ行って、昨日途中になった遊びの続きをする。
そんなことを考えながら、港から離れて坂道を上っていった。
当時の街は、今みたいに広くなかった。
港の周りに家や店が集まり、そこから少し離れれば建物はすぐ疎らになる。
今この建物がある辺りも、当時は数軒の家と小さな倉庫が並んでいるくらいだった。
……風、強いな。
吹き上がってきた潮風に髪を押さえながら坂を上る。
高い場所まで来ると街を遮るものが減り、振り返れば港から海まで一望できた。
でも、わざわざ見る理由もない。
毎日のように見ている景色だから。
「ミレナさーん!」
目的の家へ着き、扉を叩く。
「はーい」
少しして、腰の曲がった女の人が顔を出した。
「あら、オルディアちゃん」
「母さんから。頼まれてたものだって」
「あらあら、ありがとうねぇ」
抱えていた荷物を渡す。
ミレナさんは嬉しそうに受け取ると、そのまま家の中へ持っていった。
「ちょっと待ってなさい。何か持たせてあげるから」
「いいよ。寄り道するなって言われてるし」
「あの子もすっかり母親になったねぇ。昔はあんなに――」
「昔は?」
「聞きたい?」
「聞きたい」
「じゃあ中へお入り」
「……やっぱり今度にする」
母さんに怒られる未来が見えた。
「また来るから、その時に教えて!」
「はいはい。気をつけて帰るんだよ」
手を振り、来た道へ戻る。
――そこで、足が止まった。
「……あれ?」
何かが変だった。
目の前にあるものは、何も変わっていない。
坂の下には家が並んでいる。
その向こうでは港の人たちが働き、桟橋には船が繋がれている。
いつもの街。
いつもの海。
……海?
一歩だけ道の端へ寄り、目を細める。
「海……遠くない?」
桟橋の下に見えている柱が、いつもより長い。
その根元には、普段なら水の中に隠れているはずの黒い岩まで僅かに姿を見せている。
……潮が引いてる?
それだけなら珍しいことでもない。
海の近くで暮らしていれば、水が増えたり減ったりするくらいは知っている。
だから、その時はまだ帰ろうと思った。
――水面が下がる。
「……え?」
今度は、はっきり見えた。
さっきまで岩の半分ほどを覆っていた水が、その下まで落ちている。
船が僅かに傾き、港から誰かの声が上がった。
「おい、なんだこれ!」
「船を見ろ!」
坂の上からでも、人が集まり始めているのが分かった。
私は帰る方向へ向いていた身体を、もう一度海へ戻した。
……速い。
潮の満ち引きなんかじゃない。
水が沖へ向かって流れている。
波が戻っているんじゃなく、海そのものが街から離れていく。
桟橋の下から水が消える。
船底が泥へ沈み、普段なら絶対に見えない場所まで海底が露わになっていった。
「何……あれ……」
気づけば、私も道の端まで出ていた。
海は止まらない。
遠くなる。
どんどん。
誰かに沖から引っ張られているみたいに。
港では最初こそ騒ぎになっていたけれど、しばらくすると声の中に笑いが混じり始めた。
「すげえぞ! 海の底が見えてる!」
「魚がいる!」
「おい、子どもを連れてくるな!」
「平気だって! こんなの滅多に見られねえぞ!」
何人かが水のなくなった場所へ降りていく。
取り残された魚を拾う人。
傾いた船を調べる船乗り。
見たことのない海底を面白がり、もっと沖へ向かって歩いていく人までいた。
……大丈夫なのかな。
変だとは思った。
さっきから胸の奥が落ち着かない。
でも。
何が危ないのかは分からなかった。
「……」
そこで、もう一つ気づいた。
静かだった。
港なのに。
いつもなら聞こえているはずの波の音がない。
桟橋へ水が当たる音も、船腹を叩く小さな波も聞こえない。
人の声だけが、妙にはっきり届いてくる。
……こんなに静かだったっけ。
風は吹いている。
人もいる。
なのに、海だけがいなくなったみたいだった。
鳥の鳴き声がした。
空を見る。
港の上を飛んでいた海鳥が、何羽も街の方へ向かっている。
一羽や二羽じゃない。
海の上から逃げるように、次々と高台の向こうへ飛んでいった。
「……?」
嫌な感じがした。
何が嫌なのか分からない。
ただ、腕を擦りたくなるくらい肌が粟立っている。
帰ろう。
そう思った。
母さんに話そう。
海が変だって。
踵を返そうとした、その瞬間。
――キィィィィイイン。
「っ……!」
耳の奥へ痛みが走った。
反射的に両手で耳を塞ぐ。
高い。
金属を無理やり擦り合わせたみたいな音が、頭の中まで突き刺さってくる。
「な、なに……!」
耳を塞いでも聞こえる。
海からなのか。
空からなのか。
……違う。
どこから聞こえているのか、分からない。
家の窓が細かく震える。
屋根の上に残っていた鳥が一斉に飛び立ち、下の通りでは繋がれていた荷運び用の獣が暴れ始めていた。
街のあちこちから悲鳴が上がる。
まるで。
――街そのものが鳴いている。
そんなことを思った。
音は長く続かなかった。
突然始まった時と同じように、何の前触れもなく途切れる。
耳の奥だけに細い響きが残った。
「……何だったの?」
誰に聞いたわけでもない。
答えてくれる人もいない。
港の人たちも動きを止めていた。
さっきまで海底ではしゃいでいた人まで、不安そうに周りを見回している。
……帰らないと。
今度こそ、本気でそう思った。
その時。
遠くで何かが動いた。
「……?」
引いた海の向こう。
水のなくなった海底の上に、小さな影が見えた。
最初は人だと思った。
でも。
速い。
濡れた地面を真っすぐこちらへ向かって走っている。
一つ。
その横に、もう一つ。
さらに後ろにも。
……違う。
一つじゃない。
目を凝らすほど数が増えた。
いや、増えているんじゃない。
こちらへ近づいて、大きく見えるようになっている。
「……モンスター?」
四本脚の獣。
腹を地面へ擦るように走るもの。
見たことのある姿も、知らない姿も混じっている。
何体いるのか分からない。
遠くでは影が重なり、数えることすらできなかった。
……でも。
全部、こっちへ向かってる。
そして。
「濡れてる……?」
身体から水を垂らしていた。
海はあんなに遠くまで引いている。
足元に水なんて残っていない場所を走っているのに、どのモンスターも全身が濡れたままだった。
走るたび、水飛沫が散る。
身体から落ちた水が海底へ筋を作り、その後ろへ黒い跡を残している。
……何、あれ。
胸の奥にあった嫌な感じが、急に大きくなった。
「モンスターだ!」
港から怒鳴り声が上がる。
「海底にモンスターがいるぞ!」
「浜から上がれ!」
「全員戻れ!」
それまで動きを止めていた人たちが、一斉に走り出した。
海底まで降りていた人が港へ戻る。
子どもの手を引く人。
拾った魚を投げ捨てる人。
船を調べていた人たちまで、坂へ向かって走ってくる。
でも。
……間に合わない。
モンスターの方が速い。
考えるより先に身体が動いた。
荷物はもう持っていない。
私は坂を駆け下り、人の流れへ向かって走った。
「早く! 上へ行って!」
まだ何が起きるのかなんて分からない。
ただ。
あそこにいたら駄目だ。
それだけは分かった。
「お母さん!」
泣き声が聞こえた。
振り向く。
小さな女の子が道の途中で立ち尽くし、人の流れに押されながら海の方を見ている。
「っ……!」
すぐそちらへ走った。
「こっち!」
身体を抱き上げる。
「お母さんが! まだお母さんが下に!」
「分かった! でも、まず上へ行こう!」
「やだ! お母さん!」
腕の中で暴れる。
その向こうを見ると、人の流れに逆らって一人の女の人がこちらへ走ってきていた。
「リナ!」
「お母さん!」
……よかった。
近くにいた男の人へ女の子を預ける。
「この子お願い!」
「お前は!?」
「まだ下に人がいる!」
返事を待たず、さらに港側へ走る。
――獣の吠える声が響いた。
「っ!」
目の前で、逃げていた男の人が横へ吹き飛んだ。
その向こう。
水を滴らせた大きなモンスターが港へ上がっている。
すぐに剣を持った人が間へ入る。
「走れ! ここは俺たちが止める!」
刃が振られる。
モンスターが身を捻る。
その横を二体目が抜けてくる。
さらに後ろからも。
……多い。
海底を見れば、まだこっちへ向かってくる影がいくつもある。
それでも。
その時の私は、まだ思っていた。
モンスターなら。
戦えばいい。
この街にも戦える人はいる。
みんなが逃げるまで止めればいい。
……きっと、それで終わる。
「怪我人を上へ!」
「戦える奴は前へ来い!」
「子どもから逃がせ!」
声が飛び交う。
私は道端で倒れていた人へ駆け寄った。
「大丈夫!?」
「あ、足を……」
足首が不自然な方向へ曲がっている。
「肩に掴まって!」
腕を回してもらい、身体を支える。
重い。
でも。
……動ける。
「ゆっくりでいいから! 上まで行こう!」
少しずつ坂へ向かう。
背後では戦う音が続いていた。
獣の声。
剣が何かへぶつかる音。
誰かの怒鳴り声。
全部聞こえる。
……まだ、大丈夫。
そう思おうとした。
「海!」
誰かが叫んだ。
「海を見ろ!」
身体が止まった。
理由は分からない。
ただ、その声が。
怖かった。
ゆっくり振り返る。
――最初、何を見ているのか分からなかった。
遠くまで引いていた海。
その向こう。
空の下に、青黒いものが横へ伸びている。
目を細める。
「……何、あれ」
高い。
海だったはずなのに。
海面が。
空へ立ち上がっている。
右を見る。
終わりが見えない。
左も。
同じ。
どこまで続いているのか分からないほど巨大な水の壁が、遠くで街を囲むように伸びていた。
「……波?」
誰かが呟いた。
その一言で。
ようやく分かった。
あれが。
こっちへ来る。
「……っ!」
身体が勝手に震えた。
「逃げて!」
声を出したつもりだった。
でも、自分でも驚くくらい掠れていた。
息を吸う。
「逃げて!! 上へ! もっと上へ行って!!」
今度は喉が痛くなるほど叫んだ。
肩を貸していた人を前へ押す。
「行って!」
「お前は!?」
「まだ下に人がいる!」
もう戦っている場合じゃない。
モンスターも。
船も。
家も。
全部置いて。
とにかく上へ。
「波が来る! 早く!」
坂を下る。
逃げる人とすれ違う。
「上へ!」
「早く!」
「荷物なんて置いて!」
声を掛けながら走る。
――ゴォォォォォォ……。
低い音がした。
足が止まりかける。
さっきの甲高い音とは違う。
地面の下。
もっと遠く。
身体の奥へ響くような音だった。
……波の音?
振り向かなくても分かる。
近づいてる。
どんどん。
さっきまで聞こえていたモンスターの声が、その音に埋もれ始める。
人の叫びも。
武器がぶつかる音も。
全部。
「早く!」
前にいた男の人へ手を伸ばす。
その人もこちらへ走ってくる。
あと少し。
「こっち!」
手が届く。
そう思った。
――背後から、光が消えた。
「……え?」
男の人の顔へ影が落ちる。
その後ろに。
青黒い壁があった。
近い。
さっきまで遠くにあったものが。
もう。
すぐそこに。
「走って!」
男の人が手を伸ばす。
私も伸ばす。
指先が触れる。
その瞬間。
――波が港へ届いた。
音が。
全部。
消えた。
違う。
水の音が大きすぎて、他の音が何も聞こえなくなった。
船が浮いた。
桟橋が折れる。
建物が水へ呑まれ、次の瞬間には壁も屋根もばらばらになっていた。
モンスターが流される。
人が流される。
さっきまで立っていた場所へ、水が押し寄せてくる。
「っ……!」
目の前の手を掴む。
掴んだ。
確かに。
指が絡んだ。
でも。
身体ごと引っ張られる。
「待って!」
力を入れる。
向こうもこちらへ手を伸ばしている。
顔が見える。
口が動いている。
……聞こえない。
何を言ってるのか、分からない。
次の瞬間。
何かが横からぶつかった。
手が。
離れた。
「……っ!」
もう一度伸ばす。
水の中に腕が見える。
でも。
届かない。
「待って!」
人の姿が沈む。
「待って!!」
水しか見えなくなる。
「……」
動けなかった。
その足元へ水が届く。
「っ!」
ようやく身体が動いた。
走る。
坂を上る。
背中へ水飛沫が叩きつけられる。
足元まで水が来る。
振り返らない。
振り返ったら止まる。
……上へ。
もっと上。
さっきまで荷物を届けに来ただけだった場所へ。
必死に走った。
高台へ辿り着いた時には、息がうまく吸えなかった。
膝へ手をつき、それでも背後から響き続ける轟音に耐えられず、ゆっくり振り返る。
「……嘘」
街がなかった。
港があった場所も。
さっき歩いてきた通りも。
人と話した店も。
全部、水の下にある。
船が街の中を流れている。
屋根がひっくり返る。
木材。
樽。
荷車。
家具。
何もかもが同じ水の中で回っている。
そして。
……人も。
「っ……」
遠くで、誰かの腕が見えた。
水面から伸びている。
「まだ……!」
一歩、坂を下る。
「駄目だ!」
後ろから腕を掴まれた。
「離して! まだいる!」
「今行ったらお前も流される!」
「でも!」
「無理だ!」
「無理じゃない!」
腕を振りほどこうとする。
その間にも水は動いている。
さっきまで腕が見えていた場所を見る。
……ない。
「……」
何もない。
水だけ。
力が抜けた。
掴まれていた腕を振りほどくこともできなくなり、その場からただ街を見下ろした。
どれくらい経ったのか分からない。
やがて、水が引き始めた。
ゆっくり。
街から海へ戻っていく。
壊れた家が姿を見せる。
泥に埋まった道。
建物へ突き刺さった船。
「……終わった?」
誰かが呟いた。
私も。
そう思いたかった。
「お父さん!」
近くにいた女の人が走り出す。
「待って!」
手を伸ばしたけれど届かなかった。
「家族が下にいるんだ!」
「でも、まだ危ないかもしれない!」
「波は引いたじゃないか!」
一人が下りる。
それを見て、もう一人。
「怪我人がいるかもしれない!」
「俺も行く!」
次々と坂を下っていく。
……私も。
行かないと。
さっき手を離してしまった人。
まだ。
どこかにいるかもしれない。
足を踏み出す。
その時。
――ゴォォォォォォ……。
「……え?」
身体が止まった。
聞き間違えたくなった。
でも。
耳が覚えていた。
ゆっくり海を見る。
引いていたはずの水が。
また。
遠くで盛り上がっている。
「……来る」
声が震えた。
下を見る。
もう何人も降りている。
「戻って!」
叫ぶ。
「戻ってきて!!」
何人かが振り向く。
「波が来る! また来るよ!」
人が走り出す。
でも。
今度は。
分かってしまった。
全員は、間に合わない。
「早く!」
海が戻ってくる。
一度目に残った建物を。
家族を探していた人を。
助けに戻った人を。
全部まとめて呑み込んでいく。
「……やめて」
声が漏れた。
水が引く。
そして。
また戻る。
そのたびに、街から何かが消えた。
家だった場所が瓦礫になる。
瓦礫だったものも、次に水が引いた時にはなくなっている。
知っている道が消えた。
朝に挨拶した店も見つからない。
子どもたちが遊んでいた場所も。
魚を積んだ荷車も。
……どこにもない。
「……やめてよ」
誰に言ったのかは分からない。
海に言ったのか。
空に言ったのか。
それとも。
ただ、自分に言ったのかもしれない。
最初は街中から聞こえていた悲鳴も、少しずつ減っていった。
誰かの名前を呼ぶ声。
泣く声。
助けを求める声。
それが。
水が来るたびに少なくなっていく。
……静かになる。
街が壊れることより。
家がなくなることより。
それが一番怖かった。
人がいなくなるほど。
街から声が消えていく。
最後には。
波の音しか聞こえなくなった。
私は高台から、それを見ていた。
何もできなかった。
助けられた人もいた。
でも。
それよりずっと多くの人が、水の中へ消えていった。
手を伸ばした。
届かなかった。
届いた手も。
離れた。
……怖かった。
次はここかもしれない。
この高台まで水が来るかもしれない。
その時はどこへ逃げればいいんだろう。
もっと高いところ?
そんな場所がどこにある?
考えても分からない。
下を見れば水。
遠くを見ても水。
昨日まで街だった場所まで、もう海と同じになっている。
どこまでが街で。
どこからが海なのか。
分からなくなっていた。
それでも。
夜は来た。
長い夜だった。
水の音がするたびに身体が震えた。
誰かが声を上げるたびに、また来たのかと思って海を見る。
眠れるはずもなかった。
母さんのことを思い出した。
……帰らないと。
朝、家を出た時。
『寄り道もしない』
そう言われた。
私は。
『分かってるってば』
そう答えた。
ただのお使いだった。
荷物を届けたら帰るはずだった。
パンを食べて。
友達と遊んで。
夜になったら母さんに怒られて。
明日になったら。
また。
同じ朝が来るはずだった。
「……母さん」
声にしてみた。
返事はなかった。
家があった方角を見る。
でも。
暗くて。
そこに何が残っているのかすら分からなかった。
……帰りたい。
そう思った。
でも。
どこへ帰ればいいのか、分からなかった。
◇
やがて、朝が来た。
空が白み始め、少しずつ街だった場所が見えるようになった。
海は静かだった。
昨日のことなんて知らないみたいに、遠くで小さな波が揺れている。
私はずっと高台にいた。
立ち上がり。
下を見る。
泥。
砕けた石。
折れた木。
壊れた船。
どこから流されてきたのか分からない荷物。
それから。
街だった場所。
昨日まで家が並んでいた。
人が歩いていた。
笑っていた。
喧嘩していた。
みんな。
毎日を生きていた。
でも。
もう、その声はほとんど聞こえなかった。
「……母さん」
もう一度呼んだ。
返事はない。
私はその場から動けなかった。
下へ行かなきゃいけない。
誰かを探さないといけない。
生きている人がいるかもしれない。
頭では分かっていた。
それでも。
一歩が出なかった。
――朝の光が、泥だらけになった街へ差し込む。
昨日と同じように。
何でもない一日が始まるみたいに。
その光景を見ながら。
私はようやく分かった。
昨日まであった毎日は。
もう。
どこにも残っていなかった。
◆
「朝になった時、残っていたのは泥と瓦礫だけだったよ」
オルディアさんの声で、意識が部屋へ戻ってきた。
「昨日まで街だった場所にね」
誰も何も言わなかった。
僕も口を開けない。
目の前で見たわけじゃない。
全部、オルディアさんから聞いた話だ。
それなのに。
押し寄せるモンスターも。
その向こうに立っていた海も。
流されていく人たちも。
まだ頭から離れてくれなかった。
……それが。
今、この街で起きようとしてる?
昨日見たガルグ獣を思い出す。
海へ向かっていった水憑き。
今朝聞いた甲高い音。
隣を見ると、ガルドさんも黙っていた。
同行した調査員は俯き、握った手を膝の上へ置いている。
――部屋には、遠くから聞こえる街の音だけが残っていた。
まるで通夜みたいだった。
「……」
その中で。
「ありがとうございます」
ギルドマスターだけが口を開いた。
顔を上げる。
――ギルドマスターはすでに立ち上がっていた。
顔色がいいわけじゃない。
僕たちと同じ話を聞いていた。
怖くないはずがない。
それでも。
「オルディア殿。お辛い記憶をお話しいただき、心より感謝申し上げます」
深く頭を下げる。
「おかげで、我々が警戒すべきものが分かりました」
机の上の報告書をまとめ、腕へ抱える。
……もう、次を考えてる。
僕たちが昔の光景に飲まれている間に。
ギルドマスターだけは、今から何をしなければならないのかを考えていた。
「おい」
ガルドさんが顔を上げる。
「どうするつもりだ」
ギルドマスターは迷わなかった。
「住民を避難させる」
短く答える。
「港に近い区域から優先し、高い場所へ移動させる。ギルドだけでは人手が足りん。行政、教会、商会にも協力を要請する」
「全員か?」
「可能な限りだ」
報告書を脇へ抱え直す。
「それと、港から街の中心へ向けて防衛ラインを引く」
「防衛ライン?」
僕が聞き返す。
「水憑きが来る可能性が高い」
ギルドマスターがこちらを見る。
「オルディア殿のお話では、大波より先にモンスターが押し寄せた。昨日のガルグ獣がその兆候なら、同じ事態を想定する必要がある」
……昨日よりも、もっと?
「どれだけ来るかは分からん。そもそも本当に来るのかもな。だが、市民の避難中に街へ雪崩れ込まれてから考えたのでは遅い」
ギルドマスターが机の端へ置かれた街の地図へ手を伸ばす。
港から街の内側へ、その指が動いた。
「港で受ける。その後ろにも防衛線を作る。止め切れなくてもいい。避難するための時間を稼ぐ」
「できるのか?」
ガルドさんの問いに、ギルドマスターは一瞬だけ黙った。
「分からん」
それでも、視線は逸らさなかった。
「だが、そのための準備はできる」
地図から手を離す。
「時間がない」
部屋に残っていた重い空気が、少しだけ変わった。
怖い。
何が来るのかも分からない。
……でも。
やることが、一つずつ形になっていく。
「オルディア殿」
ギルドマスターが身体ごと向き直る。
「恐れ入りますが、一つお願いがございます」
「言ってごらん」
「避難した市民を、この一帯へ受け入れさせていただけないでしょうか」
僕たちがいる場所は街の高い位置にある。
周囲には大きな建物も多く、港からも離れている。
オルディアさんは一度だけ瞬きをした。
「当たり前じゃない」
少し呆れたように笑う。
「この場所は、そのためのものだもの」
「……ありがとうございます」
「空いている部屋は全部使いなさい。廊下も庭も、必要なら倉庫だって開ければいいよ」
「承知いたしました」
「食べ物も毛布も、出せるだけ出させる。こちらの人間には私から話しておこう」
オルディアさんが窓の向こうへ目を向ける。
さっきまで過去を見ていた瞳が、今度は現在のエルドランを見ていた。
「もう一度、あの日みたいにするつもりはないからね」
ギルドマスターが深く頭を下げる。
「はい」
それを境に、全員が動き始めた。
「急いでギルドへ戻る。準備を始めるぞ」
「おう」
ガルドさんが立ち上がる。
調査員も報告書を抱え直し、僕も椅子から腰を上げた。
……僕にできること。
まだ分からない。
でも、ギルドへ戻ればきっと何かある。
そのままガルドさんの後ろへ続き、扉へ向かう。
「あー、ちょっと。そこの坊や」
オルディアさんの声に、全員の足が止まった。
「……?」
ギルドマスターが振り返る。
ガルドさんも。
調査員も。
僕も。
……坊や?
さっきまでギルドマスターをそう呼んでいた。
だから、今度もギルドマスターのことだと思った。
「私でしょうか」
ギルドマスターも少し困ったように振り返る。
「違う違う」
オルディアさんが笑う。
「今回はそっちじゃないよ」
「……?」
誰だろう。
その視線を追う。
――オルディアさんの澄んだ瞳が、真っすぐ僕へ向いていた。
「……僕ですか?」
「そうそう。そこのフードの坊や」
思わず自分を指差す。
オルディアさんが楽しそうに頷いた。
「坊やだけ、ちょっと残っておくれ」
周りを見る。
……やっぱり僕らしい。
「なーに、そう時間は取らせやしないよ」
ギルドマスターが僕とオルディアさんを交互に見る。
「オルディア殿。ルキウスに何か?」
「少し話をしたいだけさ。坊やたちは先にお行き」
ギルドマスターは僅かに考え、それから僕へ視線を向けた。
「……承知いたしました。ルキウス、話が終わり次第ギルドへ戻れ」
「はい」
「先に行ってるぞ」
ガルドさんが僕の肩を一度だけ叩く。
「分かりました」
――扉が開く。
ギルドマスターたちが足早に部屋を出ていく。
最後にガルドさんが一度だけこちらを振り返り、そのまま扉の向こうへ消えた。
扉が閉じる。
急に部屋が広く感じた。
……僕だけ残った。
ゆっくり振り返る。
オルディアさんは椅子へ座ったまま、穏やかな目でこちらを見ている。
「さて」
皺の刻まれた口元が柔らかく緩む。
「こっちへおいで、坊や」
何の話をするつもりなのか分からないまま。
僕はもう一度、オルディアさんの方へ向き直った。
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