駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~

 前回はハンターズギルドにてルキウスが無事にハンターになれたところで終わりました。
 なので今回は、その続きからとなります!


第一章 第四話『少年は角兎を追いかける』

 

 ◆

 

 手のひらに載せたギルドカードは、まだ少し冷たかった。

 剣と盾の紋章。その裏に刻まれた僕の名前と、ハンターランク1の文字……何度見ても、消えていない。

 

「……へへ」

 

 口元が、また勝手に緩む。

 

「ルキウスさん」

 

 名前を呼ばれて顔を上げると、アルナさんが受付台の向こうから困ったように笑っていた。

 

「カードは、きちんとルキウスさんのものですよ」

「分かっています」

「では、そろそろしまいましょうか」

「あと一回だけ」

「先ほども、そう聞いた気がします」

 

 最後にもう一度だけ名前を指でなぞり、外套の内側へ大切にしまう。

 ――僕は、ハンターになった。

 まだカードを一枚受け取っただけ。

 何かを成し遂げたわけでも、急に強くなったわけでもない。

 それでも、胸の奥では確かに何かが始まっていた。

 

「それでは、最初の依頼を選びましょう」

 

 アルナさんが受付台から出て、依頼掲示板へ向かう。

 栗色の尻尾が制服の後ろで揺れ、僕は慌ててそのあとを追った。

 

「もう依頼を受けてもいいんですか?」

「登録は完了していますから。ただし、ランク1向けの依頼だけですよ」

「はい!」

 

 元気よく答えると、前を歩いていた猫耳がぴこりと動いた。

 

「先ほどお話しした、一番大切なことは覚えていますか?」

「生きて帰ることです」

「よくできました」

 

 アルナさんの猫耳が、少しだけ持ち上がる。

 

 依頼掲示板は近くで見ると、入口から眺めた時よりもずっと大きかった。

 色も大きさも異なる紙が隙間なく並び、討伐、採取、調査、護衛と、それぞれの分類を示す札が掛けられている。

 

「こちらが、ランク1の方でも受けられる依頼です」

 

 アルナさんが、掲示板の下側を指した。

 

「倉庫への荷運び。街道沿いの清掃。薬草採取……こちらは、角兎亭で使用する香草の納品ですね」

「角兎亭?」

「宿屋です。食事も美味しいですよ」

「宿……」

 

 そういえば、今夜眠る場所をまだ決めていない。

 お金も、ガルドさんから借りた百ソルしか持っていなかった。

 

 かなり重要な問題だ。

 重要な問題なのだけれど――僕の視線は、その隣へ貼られた依頼票へ吸い寄せられていた。

 

 白い毛並み。

 頭から伸びた、短い一本角。

 丸い身体をしたモンスターの絵。

 

「スノウラビ……」

 

 依頼内容は、スノウラビ一体の生体捕獲。

 場所は、エルドラン東側にある渓流地帯の一番域。

 

 対象は小型。

 報酬もランク1向け。

 

 生体捕獲。

 モンスター。

 初依頼。

 

 その三つが、頭の中で綺麗に並んだ。

 

「アルナさん」

「はい」

「これにします!」

 

 依頼票を指差すと、アルナさんが僕と紙を交互に見る。

 

「スノウラビの捕獲依頼ですか」

「はい!」

「小型とはいえ、モンスターですよ?」

「はい!」

「動きもかなり素早いです」

「はい!」

 

 答えるたび、アルナさんの猫耳が僅かに傾いていく。

 

「……ずいぶん元気ですね」

「初めての依頼ですから」

「それは結構ですが、勢いだけで突っ込まないでくださいね」

「気をつけます!」

 

 アルナさんは少しだけ不安そうに眉を下げたものの、すぐに依頼票へ視線を戻した。

 

「スノウラビは小型ですが、れっきとしたモンスターです。追い詰められると、角を向けて突進してきます」

「避ければいいんですね」

「簡単そうに言わないでください」

 

 猫耳がぴんと立った。

 

「身体が小さいぶん、急に方向を変えます。正面から追いかけても、まず捕まりません」

「では、後ろから追いかけます」

「そういう問題でもありません」

 

 違うらしい。

 

 アルナさんは小さく息を吐き、依頼票の注意事項へ指を滑らせた。

 

「今回の依頼は、生きたまま捕獲することが条件です。討伐してしまった場合は失敗になります」

「剣は使わない方がいいですか?」

「身を守るために携帯してください。ただし、対象へ刃を向けるのは最後の手段です」

 

 アルナさんが、受付近くにある貸出窓口を示す。

 

「捕獲網、拘束紐、運搬箱が貸し出されます。紛失や破損をした場合は、報酬から費用が引かれます」

「壊したら、お金が減る」

「そうです」

「絶対に壊しません」

「できれば、ルキウスさん自身も壊れないでくださいね」

「僕は道具ではありません」

「道具より大切だから言っているんです」

 

 柔らかな口調だった。

 けれど、冗談だけではないらしい。

 

「危なくなったら帰ります」

「はい。渓流地帯の二番域には入らないこと」

「一番域まで」

「夕刻前には帰還すること」

「夕刻前」

「無理に追い続けないこと。怪我をした場合は、一度状況を確認すること」

 

 アルナさんが指を一本ずつ折りながら、確認していく。

 

「覚えましたか?」

「たぶん」

「そこは、はいと答えてください」

「はい」

 

 言い直すと、アルナさんが満足そうに頷いた。

 

「では、受注手続きをしますね」

 

 受付台へ戻り、依頼票と僕の登録書類を並べる。

 印章が押され、乾いた音が響いた。

 

「スノウラビ生体捕獲依頼。受注者、ルキウスさん」

 

 アルナさんが依頼票を差し出す。

 

「これで正式に、依頼開始です」

「……はい!」

 

 紙を両手で受け取った。

 

 ギルドカードとは違う、薄くて軽い一枚。

 けれど、手にした瞬間、こちらの方がずっと重く感じられた。

 

 失敗するかもしれない。

 怪我をするかもしれない。

 

 それでも――初めて、僕へ任された仕事だ。

 

「行ってきます!」

「待ってください」

 

 勢いよく振り返ったところで、外套の裾を掴まれた。

 

「……あれ」

 

 ほんの指先だけなのに、身体がぴたりと止まる。

 振り返ると、アルナさんが依頼票とは別の紙を差し出していた。

 

「渓流地帯までの地図です」

「あ」

「それから、東門から出る共同便を利用してください。歩くと時間がかかります」

「ありがとうございます」

「捕獲用の道具も、まだ受け取っていません」

「あ」

 

 完全に忘れていた。

 アルナさんが半分ほど目を細める。

 

「先ほどの注意事項は、本当に覚えていますか?」

「これから思い出します」

「今、思い出してください」

「はい」

 

 まずは、道具を受け取る。

 地図を持つ。

 共同便へ乗る。

 

 大丈夫だ。

 今度こそ覚えた。

 

 ――たぶん。

 

 ◆

 

 エルドランの東門から渓流地帯までは、ケルンの共同便で三十分ほどだった。

 

 荷車には僕のほかにも、薬草採取へ向かう二人組のハンターが乗っている。

 二人とも慣れているらしく、揺れる荷台の上でも地図を広げ、採取場所について話し合っていた。

 

 僕はその向かいで、貸し出された道具を一つずつ確認する。

 

 折り畳まれた捕獲網。

 頑丈な拘束紐。

 蓋へ小さな穴が開いた運搬箱。

 

 それから、餌として使う赤い木の実。

 

「網、紐、箱、木の実……」

 

 何度確かめても、数は変わらない。

 

「兄ちゃん、初仕事か?」

 

 薬草採取の男性が、地図から顔を上げた。

 頭から長い兎耳が伸びている。

 

「はい。分かりますか?」

「さっきから、道具を五回は確認してるからな」

「そんなに」

「緊張するのは悪いことじゃねぇよ。忘れるよりはましだ」

 

 隣へ座っているエルフの女性も、小さく笑った。

 

「渓流地帯は初めて?」

「はい」

「水辺の苔には気をつけて。見た目より滑るから」

「ありがとうございます」

 

 帳面を取り出し、すぐに書き込む。

 ――水辺の苔は滑る。

 

「そこまでしなくても、覚えられるだろ」

「大事なことなので」

 

 兎耳の男性が笑い、エルフの女性は少し感心したように頷いた。

 

 やがて、森の匂いへ冷たい水気が混じり始める。

 葉を揺らす風。石を撫でる流れの音……それらが少しずつ近づき、荷車は渓流地帯の入口にある停留所へ止まった。

 

「帰りの便は、日が傾く前だ。遅れるなよ」

 

 御者に声を掛けられ、僕は運搬箱を背負う。

 

「はい。必ず戻ります」

 

 荷車を降りると、湿った土と苔、青い葉の匂いが一度に鼻へ入ってきた。

 森の奥から響く水音は近く、木漏れ日を弾いた渓流が、岩の隙間を縫うように流れている。

 

「ここが、渓流地帯……」

 

 モンスターがいる場所。

 依頼を遂行する場所。

 

 物語の中では、ハンターが足を踏み入れれば、すぐに何かが始まっていた。

 けれど、現実には――何も起こらない。

 

 水が流れている。

 鳥が鳴いている。

 小さな虫が、目の前を飛んでいった。

 

「まずは、探さないと」

 

 依頼票へ添えられた簡単な図を開く。

 

 スノウラビは水辺近くの草地を好み、柔らかい木の芽や赤い木の実を食べる。

 白い毛皮のため開けた場所では目立つが、逃げ足は非常に速い。

 

 僕は辺りを見回した。

 

 白いもの。

 白いもの……。

 

「あ」

 

 少し先にある岩へ、白いものが付着していた。

 

 近づいて指で摘まむと、柔らかな毛だった。

 岩の下には、小さな足跡がいくつも残っている。

 

「これかな」

 

 足跡は水辺に沿って、茂みの奥へ続いていた。

 

 母と暮らしていた森でも、獣の痕跡を追ったことはある。

 折れた枝。食べられた葉。柔らかい土へ残る足跡……モンスターでも、その辺りは同じらしい。

 

「よし」

 

 捕獲網を手に持ち、足跡を追う。

 

 茂みを抜けた先には、陽の差し込む小さな草地があった。

 その中央で、白い塊が何かを食べている。

 

 丸い身体。

 長い耳。

 額から伸びる、短く尖った角。

 

 スノウラビだ。

 

「いた……」

 

 声を抑え、身を低くする。

 

 まだ、こちらには気づいていない。

 赤い木の実を取り出し、地面へ置いた。

 

 あとは、近づいてきたところへ網を掛ける。

 簡単だ――少なくとも、その時の僕はそう思っていた。

 スノウラビの耳が動く。

 木の実へ顔を向け、鼻を小さく鳴らした。

 

 一歩。

 もう一歩。

 

「今だ!」

 

 立ち上がり、網を投げる。

 ――遅かった。

 白い身体が横へ跳ぶ。

 網は何もない草の上へ落ち、スノウラビは僕の横を風のように駆け抜けた。

 

「速っ……!」

 

 慌てて追いかける。

 

 けれど、二歩で距離が開いた。

 三歩目には茂みへ飛び込み、白い姿は完全に見えなくなる。

 

「……正面から追いかけても、まず捕まらない」

 

 アルナさんの言葉が、頭の中へ蘇る。

 確かに、その通りだった。

 

 早くも一つ賢くなった。

 できれば、捕まえる前に賢くなりたかった。

 

「もう一度です」

 

 網を畳み直し、逃げた方向へ向かう。

 

 茂みの向こうには、別の足跡が続いていた。

 スノウラビは真っすぐ逃げるのではなく、木や岩の間を縫うように何度も進路を変えている。

 

 速い。

 小さい。

 

 そして――たぶん、僕より賢い。

 

「……負けませんよ」

 

 誰もいない森で、一人だけ宣言した。

 

 ◆

 

 二度目は、投げた網の端へ前脚だけが掛かった。

 

「やった!」

 

 喜んだのは、一瞬だった。

 スノウラビは身体を捻って網から抜け、そのまま僕の顔へ向かって跳んでくる。

 

「え」

 

 白い塊が、急に大きくなった。

 避けようと踏み出した足が、濡れた苔の上で滑る。

 

「うわっ!」

 

 尻餅をつく。

 同時に、短い角がフードの端を掠めた。

 

 布が裂け、頬へ熱い線が走る。

 

「痛っ……」

 

 指で触れると、僅かに血が付いた。

 

 大した傷ではない。

 けれど、ほんの少し位置が違えば、目に当たっていた。

 

 スノウラビは少し離れた場所へ着地し、こちらへ角を向けている。

 丸くて白い姿は可愛らしい――顔だけ見れば。

 

「小さくても、モンスター」

 

 片膝を立て、ゆっくりと起き上がる。

 

 追い詰めれば、突進してくる。

 アルナさんは、それも教えてくれていた。

 

 僕は知らなかった。

 だから教えてもらった。

 

 教えてもらったのに、今の僕は捕まえることしか考えていなかった。

 

「一度、落ち着こう」

 

 深く息を吸う。

 

 追いかければ逃げる。

 網を投げれば避ける。

 捕まりかければ、こちらへ向かってくる。

 

 なら――追いかけなければいい。

 

 周囲へ目を向ける。

 

 倒木。

 大きな岩。

 根元に隙間のある二本の木。

 

 足元には、同じ場所を何度も通ったような細い獣道がある。

 スノウラビの足跡も、その道へ重なっていた。

 

「ここを通る……?」

 

 森の獣は、好き勝手に歩いているように見えて、実際には通りやすい場所を選ぶ。

 母と暮らしていた頃、何度か罠を作る練習をした。

 

 実際に何かを捕らえたことはない。

 母が、罠へ掛かる前にすべて解除してしまったからだ。

『小さな動物が可哀想でしょう!』

 それなら、どうして作り方を教えたのだろう。

 今でも少し不思議である。

 

「でも、役には立ちそうです」

 

 捕獲網を、二本の木の間へ低く張る。

 葉と細い枝を使い、正面からは見えにくいように隠した。

 

 網の奥へ赤い木の実を置く。

 その周囲にも一つずつ、道を作るように並べていく。

 

 最後に、逃げ道になりそうな隙間を落ちた枝で塞いだ。

 

「……たぶん、これで」

 

 自信はない。

 けれど、正面から追いかけるよりは可能性がある。

 僕は倒木の陰へ身を隠した。

 

 水音が響く。

 葉が揺れる。

 どこかで、小さな鳥が鳴いた。

 

「…………」

 

 何も来ない。

 少し待つ。

 

「…………」

 

 やっぱり来ない。

 

 もしかすると、先ほどのスノウラビはもう遠くへ逃げてしまったのかもしれない。

 それとも、罠が見破られているのだろうか。

 

 僕は息を殺し、網の向こうを見つめ続ける。

 やがて――茂みが小さく揺れた。

 

「来た」

 

 白い耳が、葉の間から覗く。

 

 先ほどと同じ個体かは分からない。

 けれど、額には同じように短い角がある。

 

 スノウラビは周囲を警戒しながら、一つ目の木の実へ近づいた。

 

 一つ食べる。

 顔を上げる。

 もう一つ食べる。

 

 ――まだ。

 

 網の手前まで進んでくる。

 あと一歩。

 その瞬間、風向きが変わった。

 

 スノウラビの鼻が動く。

 僕が隠れている倒木へ、顔が向いた。

 

「……まずい」

 

 目が合った。

 白い身体が反転する。

 

「待って!」

 

 思わず飛び出した。

 当然、待ってはくれない。

 

 スノウラビは獣道に沿って駆け、二本の木の間を抜けようとする。

 けれど、そこには隠しておいた捕獲網がある。

 

 前脚が網へ掛かった。

 白い身体が宙へ跳ね、そのまま地面へ転がる。

 

「掛かった!」

 

 僕は走った。

 

 スノウラビが暴れ、網から抜けようと身体を捻る。

 このままでは、また逃げられる。

 

「今度こそ!」

 

 剣ではなく、身体ごと飛び込んだ。

 

 肩から泥の上へ落ちる。

 冷たい水が跳ね、外套へ染み込んだ。

 

 腕の中に、柔らかな毛の感触がある。

 

「捕まえ――いたっ!」

 

 後ろ脚で腹を蹴られる。

 角が腕を掠め、外套の袖を裂いた。

 

 痛い。

 けれど――離せない。

 片腕で身体を押さえ、もう一方の手で拘束紐を探る。

 

「暴れないで……ください!」

 

 頼んでみる。

 当然、聞いてはくれない。

 

「ですよね!」

 

 何度も蹴られながら、どうにか後ろ脚へ紐を回す。

 きつく締めすぎないように。それでも、抜けないように。

 

 次に、角を避けながら前脚を固定する。

 最後に網ごと身体を包み、恐る恐る力を緩めた。

 

「…………」

 

 逃げない。

 腕の中で荒い呼吸を繰り返しているけれど、大きな怪我もしていないように見える。

 

「……捕まえた」

 

 声にすると、急に身体から力が抜けた。

 

 泥の上へ座り込み、空を見上げる。

 木々の隙間から差し込む光が眩しい。

 

 頬はひりひりする。

 腹も蹴られた場所が痛い。

 

 服は泥だらけ。

 フードの端も裂けている。

 

 物語の英雄なら、もっと格好よく捕まえていたかもしれない。

 

 飛びかかるモンスターを軽々と避け、網を一投。

 何事もなかったように捕獲完了。

 

 少なくとも、泥の中で蹴られながら紐を結んだりはしない。

 

「……でも」

 

 目の前には、確かに捕らえたスノウラビがいる。

 

 僕が痕跡を探して。

 失敗して。

 考えて。

 

 そして、自分の手で捕まえた。

 

「やった……!」

 

 胸の奥から、嬉しさが一気に込み上げてきた。

 

「やりました!」

 

 渓流の音へ負けないように、もう一度声を上げる。

 スノウラビが驚いたように身体を跳ねさせた。

 

「あ、ごめんなさい」

 

 慌てて声を抑え、運搬箱へ入れる。

 

 蓋を閉じると、内側からごとごとと音が鳴った。

 元気そうだ。

 

「一緒に帰りましょう」

 

 返事の代わりに、箱がもう一度揺れた。

 

 ◆

 

 帰りの荷車へ乗る頃には、陽が少し西へ傾いていた。

 

 行きに一緒だった二人のハンターも、大きな籠へ薬草を詰めて戻ってくる。

 兎耳の男性は、僕の泥だらけの姿と、膝の上で揺れる運搬箱を見比べた。

 

「捕まえたのか」

「はい!」

「初仕事で?」

「はい!」

 

 男性は感心したように口笛を鳴らし、僕の肩を軽く叩いた。

 

「そりゃ、やるじゃねぇか」

「ありがとうございます」

 

 叩かれた衝撃が、蹴られた腹へ響く。

 

「……っ」

「大丈夫か?」

「大丈夫です」

「その返事、大丈夫じゃねぇ奴がよくするやつだぞ」

 

 エルフの女性が、僕の頬を覗き込んだ。

 

「血も出てる」

「掠っただけです」

「ギルドへ戻ったら、傷を診てもらって」

「分かりました」

 

 頷くと、女性はようやく少し安心したようだった。

 

 荷車が動き出す。

 

 車輪が石を踏み、荷台が揺れる。

 膝の上に置いた箱も、そのたび小さく音を立てた。

 

 ――行きと同じ道。

 

 けれど、見える景色は少し違っていた。

 

 朝は、何が待っているのか分からなかった。

 今は、泥と傷と、それから一つの成果がある。

 

 胸元には、ランク1のギルドカード。

 膝の上には、初めて捕まえたモンスター。

 

「……ふふ」

 

 笑みが漏れる。

 

 頬の傷が引きつり、少し痛い。

 でも、今はそれすら嬉しかった。

 

 ◆

 

 夕方のギルドは、朝とは違う騒がしさに包まれていた。

 依頼から戻ったハンターたちの報告に、素材を運ぶ職員の声。酒場からは、焼いた肉と香草の匂いが漂ってくる。

 

 その中へ、運搬箱を抱えて入った。

 

「ただいま戻りました!」

 

 声を上げると、受付の奥にいたアルナさんの猫耳がぴんと立つ。

 

「ルキウスさん、おかえりなさ――」

 

 こちらを向いたアルナさんの声が、途中で止まった。

 

 泥に汚れた外套。

 裂けた袖。

 頬へ残った細い血の跡。

 

 それらを順番に見て、猫耳がゆっくりと横へ倒れていく。

 

「……どうして、初依頼からそんな姿になっているんですか」

「捕まえました」

 

 胸を張り、運搬箱を少し持ち上げる。

 内側から、ごとん、と元気な音が返ってきた。

 

「それは見れば分かります!」

 

 アルナさんは受付台から出てくると、僕の前で足を止めた。

 大きな怪我がないか確かめるように、頭から足元まで視線を往復させる。

 

「頬と腕から血が出ています」

「どちらも掠っただけです」

「お腹も押さえていませんでしたか?」

「何度か蹴られました」

「何度も?」

 

 猫耳が、ぴくりと立った。

 

「スノウラビは小さいですが、後ろ脚の力は強いんですよ」

「よく分かりました」

「実際に蹴られて覚えないでください」

 

 アルナさんが呆れたように息を吐く。

 

「医務室で傷だけ確認します」

「先に依頼の報告をした方が」

「スノウラビは職員が確認します。ルキウスさんはこちらです」

「でも――」

「こちらです」

 

 笑顔だった。

 けれど、逆らってはいけない種類の笑顔だった。

 

「……はい」

 

 近くにいた職員へ運搬箱を預け、アルナさんに連れられてギルド奥の簡易医務室へ向かう。

 

 頬と腕の傷を洗われ、蹴られた腹も確認された。

 幸い、どれも大きな怪我ではないらしい。

 

 アルナさんは消毒液を染み込ませた布を、頬の傷へそっと当てる。

 

「痛みますか?」

「少しだけ」

「痛い時は、きちんと痛いと言ってください」

「はい」

 

 傷口を覆い、細い包帯を結んでいく。

 手つきは慣れていたけれど、頬は少しだけ膨らんだままだった。

 

「すみません。心配をかけました」

「もぉー」

 

 アルナさんは頬を膨らませ、少しだけ僕を睨む。

 

「本当に心配したんですからね!」

「次からは、もっと上手くやります」

「そういうことではありません」

 

 包帯を結び終えた指が、僕の腕を軽く叩いた。

 

「上手くできなければ、戻ってきてください」

「はい」

「依頼を失敗しても、怒りません」

「はい」

 

 アルナさんは念を押すように、僕の顔を覗き込む。

 

「ですから……無理だけはしないでください。これは、私との約束です」

 

 そう言って、右手の小指を立てた。

 

「……指ですか?」

「はい。小指です」

「見れば分かります」

「では、ルキウスさんも出してください」

「小指を?」

 

 言われた通り、右手の小指を立てる。

 けれど、その先をどうすればいいのか分からず、僕はアルナさんの手と自分の手を見比べた。

 

「それで、どうするんですか?」

「もしかして、指切りを知らないのですか?」

「指を切るんですか?」

 

 反射的に手を引く。

 

「切りません!」

 

 アルナさんの猫耳が、ぴんと立った。

 

「約束をする時に、小指同士を結ぶんです」

「どうして小指なんですか?」

「そういうものです」

「大人はよく、それで説明を終わらせますね」

「いいから、手を出してください」

 

 少し強引に右手を取られる。

 アルナさんの小指が、僕の小指へ絡んだ。

 細くて、柔らかい指だった。

 

「こうして結んで、約束をするんです」

「なるほど……」

 

 絡んだ小指を見つめる。

 

 どうしてこれで約束になるのかは、やはり分からない。

 けれど、言葉だけよりもずっと形に残るような気がした。

 

「無理はしない。危なくなったら戻ってくる」

「はい」

「依頼より、自分の命を優先する」

「はい」

 

 アルナさんが、確認するように小指へ僅かに力を込める。

 

「守れますか?」

「守ります」

 

 僕も、絡めた小指をそっと曲げた。

 

「はい、約束です」

 

 そう答えると、アルナさんはようやく満足そうに笑った。

 横へ倒れていた猫耳も、少しずつ元の位置へ戻っていく。

 

「絶対ですよ」

「絶対です」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 いつもの答えを返すと、アルナさんはまた少しだけ頬を膨らませた。

 

「……その返事、少し信用できなくなってきました」

「約束までしたのに」

「だから、今度は守ってくださいね」

 

 小指が、ゆっくりと離れる。

 指先へ残った僅かな温かさを眺めてから、僕はもう一度頷いた。

 

「分かりました。必ず守ります」

 

 今度は、冗談に聞こえないように。

 アルナさんは僕の顔をしばらく見つめたあと、ようやく柔らかく目を細めた。

 

「では、依頼の確認へ戻りましょう」

「はい!」

 

 立ち上がったところで、アルナさんの猫耳がまた僅かに伏せる。

 

「……走らないでくださいね」

「まだ走っていません」

「今にも走りそうだったので」

「見る目がありますね」

「誰かさんを心配しているうちに、身につきそうです」

 

 誰のことだろう。

 少し考え――たぶん僕だろうな、と気づいた。

 

 受付へ戻ると、運搬箱はカウンターの奥へ置かれていた。

 担当の職員が状態を確認し、アルナさんへ報告書を渡す。

 

「対象一体。大きな外傷なし。捕獲状態も問題ありません」

「ありがとうございます」

 

 アルナさんが書類へ目を通し、依頼票と重ねた。

 

「おめでとうございます、ルキウスさん」

 

 印章が押される。

 

「スノウラビ生体捕獲依頼。達成です」

「……達成」

 

 その二文字が、胸の中へゆっくりと染み込んでくる。

 

「僕、できたんですね」

「はい。初依頼、無事完了です」

 

 無事という部分だけ、アルナさんの声が少しだけ強かった。

 けれど、口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。

 

 報酬の入った小さな革袋が、カウンターの上へ置かれた。

 

「こちらが報酬です」

「これが……」

 

 手に取ると、硬貨が触れ合って小さな音を立てた。

 初めて、自分で働いて手にしたお金。

 

 ガルドさんから借りた百ソルには、まだ届かない。

 それでも、返すための最初の一歩だ。

 

「……へへ」

「また、その顔ですね」

「どんな顔ですか?」

「とても嬉しそうな顔です」

 

 アルナさんの猫耳が、ようやく普段の位置へ戻った。

 僕は報酬を腰の袋へしまい、運搬箱の方を見る。

 

「スノウラビは、このあとどうなるんですか?」

「ギルドの飼育舎へ運ばれます。依頼主が明日、引き取りに来る予定です」

「食べられたりは」

「今回の依頼では、飼育用です」

「よかった」

 

 思わず息を吐く。

 アルナさんが、少し不思議そうに首を傾げた。

 

「討伐依頼は、苦手ですか?」

「分かりません。まだ、やったことがないので」

 

 今日だって、必要なら剣を抜くつもりだった。

 けれど、実際にモンスターを討伐したあと、どうすればいいのかは知らない。

 

「そういえば」

 

 気になったことを、そのまま口にする。

 

「もし途中でスノウラビを倒してしまったら、どうすればよかったんでしょう」

「今回の依頼は失敗になりますが、素材を持ち帰れば買取対象にはなります」

「素材」

「毛皮、角、肉などですね」

 

 アルナさんが答え、そこで僅かに目を細めた。

 

「ルキウスさん」

「はい」

「モンスターの剥ぎ取りはできますか?」

「できません」

 

 正直に答える。

 猫耳が、ゆっくりと横へ倒れた。

 

「やり方は知っていますか?」

「何となく、短刀を使うことは」

「どこから刃を入れるかは?」

「分かりません」

「素材を傷つけない方法は?」

「分かりません」

 

 アルナさんの眉が、質問を重ねるたびに少しずつ下がっていく。

 

「毒を持つ部位や、触れてはいけない器官の見分け方は?」

「……分かりません」

 

 アルナさんが目を閉じた。

 短い沈黙。

 

「アルナさん?」

「明日です」

「はい?」

「明日の朝、ギルドへ来てください」

 

 目を開いた時には、受付嬢の笑顔が戻っていた。

 ただし、反論を許さない種類の笑顔だった。

 

「初心者向けの剥ぎ取り講習を受けていただきます」

「講習」

「はい。必ずです」

「依頼より先に?」

「先です」

「絶対に?」

「絶対に」

 

 とても強い。

 フレイヴィアさんとは違う種類だけれど、逆らってはいけない強さを感じた。

 

「分かりました」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 アルナさんはまだ少し疑うように僕を見ていた。

 僕は背筋を伸ばし、もう一度大きく頷く。

 

「明日、必ず来ます」

「……分かりました」

 

 ようやく、柔らかな笑顔へ戻る。

 

 外を見ると、窓から差し込む光が赤くなっていた。

 初めてエルドランへ来て、ハンターになって、依頼へ出て。

 

 長い一日だった。

 

「あの、アルナさん」

「はい」

「今日はありがとうございました」

 

 深く頭を下げる。

 

「依頼を選ぶところから、道具や地図まで。アルナさんが教えてくれなかったら、僕は何もできませんでした」

「私は、受付として当然のことをしただけです」

「それでもです」

 

 顔を上げると、アルナさんの猫耳が僅かに揺れていた。

 

「また明日、よろしくお願いします」

「はい」

 

 アルナさんは小さく笑う。

 

「また明日、お待ちしています」

 

 報酬の入った袋を握り、ギルドの扉へ向かう。

 

 身体は疲れている。

 頬も腕も、少しだけ痛い。

 

 それでも、足取りは軽かった。

 今日、僕はハンターになった。

 そして――初めての依頼を、自分の力で終えた。

 

 ◆

 

 重たい扉が閉まり、深いフードを被った少年の背中が見えなくなる。

 アルナはしばらく、その扉を眺めていた。

 

「……また明日、ですか」

 

 小さく呟くと、自然に笑みがこぼれる。

 今日登録したばかりの、ランク1のハンター。

 

 戦闘経験はない。

 モンスターを捕らえた経験もない。

 剥ぎ取り方どころか、街へ入るために通行料が必要なことさえ知らなかったらしい。

 

 ――危なっかしい。

 

 けれど、初めての依頼を選んだ時には、そこまで深刻には考えていなかった。

 

 初心者が少し張り切りすぎるのは、珍しいことではない。

 転んで泥だらけになり、擦り傷を作って帰ってくることだってある。

 

 だから、夕刻までに戻ってくればよい。

 その程度に考えていた。

 

 それでも、予定していた共同便が帰ってくる時刻になると、扉が開くたびに猫耳がそちらへ向いていた。

 

 そして、血と泥に汚れたルキウスを見た瞬間――驚いた。

 

「もう……」

 

 怪我は、どれも軽いものだった。

 捕獲したスノウラビにも、大きな傷はない。

 

 追いかけて失敗し。

 教えられた注意を思い出し。

 森で学んだことを使って、簡単な罠を組み立てた。

 

 初めてにしては、十分すぎる成果だった。

 だから、褒めてあげたい。

 褒めてあげたいのだけれど、その前に少しくらい怒ってもよいはずだ。

 

「本当に、心配したんですからね」

 

 小指を結んだ時の感触を思い出し、自分の右手を見る。

 約束。

 危なくなったら、戻ってくる。

 依頼より、自分の命を優先する。

 

 本人は、小指を結ぶことさえ知らなかった。

 約束の意味は、きちんと伝わっただろうか。

 

「……伝わっていますよね?」

 

 返事はない。

 

 当然だった。

 ルキウスはもう、ギルドを出ている。

 

 アルナは受付台へ戻り、彼の登録書類をもう一度開いた。

 

 出身地、リューネ山奥地。

 使用武器、片手剣。

 実戦経験、なし。

 

 その下へ、新しい記録を書き加える。

 ――初依頼、スノウラビ生体捕獲。達成。

 

 少し考えてから、明日の予定欄にも文字を記した。

 ――初心者向け剥ぎ取り講習。要受講。

 

「……これでよし」

 

 筆を置き、書類を丁寧にしまう。

 また明日。

 

 その言葉を思い返すと、アルナの猫耳が僅かに持ち上がった。

 

 無事に帰ってきて。

 次の日も、同じ場所へ来てくれる。

 

 それだけのことが――今は、少し嬉しかった。

 

 





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