駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回はハンターズギルドにてルキウスが無事にハンターになれたところで終わりました。
なので今回は、その続きからとなります!
◆
手のひらに載せたギルドカードは、まだ少し冷たかった。
剣と盾の紋章。その裏に刻まれた僕の名前と、ハンターランク1の文字……何度見ても、消えていない。
「……へへ」
口元が、また勝手に緩む。
「ルキウスさん」
名前を呼ばれて顔を上げると、アルナさんが受付台の向こうから困ったように笑っていた。
「カードは、きちんとルキウスさんのものですよ」
「分かっています」
「では、そろそろしまいましょうか」
「あと一回だけ」
「先ほども、そう聞いた気がします」
最後にもう一度だけ名前を指でなぞり、外套の内側へ大切にしまう。
――僕は、ハンターになった。
まだカードを一枚受け取っただけ。
何かを成し遂げたわけでも、急に強くなったわけでもない。
それでも、胸の奥では確かに何かが始まっていた。
「それでは、最初の依頼を選びましょう」
アルナさんが受付台から出て、依頼掲示板へ向かう。
栗色の尻尾が制服の後ろで揺れ、僕は慌ててそのあとを追った。
「もう依頼を受けてもいいんですか?」
「登録は完了していますから。ただし、ランク1向けの依頼だけですよ」
「はい!」
元気よく答えると、前を歩いていた猫耳がぴこりと動いた。
「先ほどお話しした、一番大切なことは覚えていますか?」
「生きて帰ることです」
「よくできました」
アルナさんの猫耳が、少しだけ持ち上がる。
依頼掲示板は近くで見ると、入口から眺めた時よりもずっと大きかった。
色も大きさも異なる紙が隙間なく並び、討伐、採取、調査、護衛と、それぞれの分類を示す札が掛けられている。
「こちらが、ランク1の方でも受けられる依頼です」
アルナさんが、掲示板の下側を指した。
「倉庫への荷運び。街道沿いの清掃。薬草採取……こちらは、角兎亭で使用する香草の納品ですね」
「角兎亭?」
「宿屋です。食事も美味しいですよ」
「宿……」
そういえば、今夜眠る場所をまだ決めていない。
お金も、ガルドさんから借りた百ソルしか持っていなかった。
かなり重要な問題だ。
重要な問題なのだけれど――僕の視線は、その隣へ貼られた依頼票へ吸い寄せられていた。
白い毛並み。
頭から伸びた、短い一本角。
丸い身体をしたモンスターの絵。
「スノウラビ……」
依頼内容は、スノウラビ一体の生体捕獲。
場所は、エルドラン東側にある渓流地帯の一番域。
対象は小型。
報酬もランク1向け。
生体捕獲。
モンスター。
初依頼。
その三つが、頭の中で綺麗に並んだ。
「アルナさん」
「はい」
「これにします!」
依頼票を指差すと、アルナさんが僕と紙を交互に見る。
「スノウラビの捕獲依頼ですか」
「はい!」
「小型とはいえ、モンスターですよ?」
「はい!」
「動きもかなり素早いです」
「はい!」
答えるたび、アルナさんの猫耳が僅かに傾いていく。
「……ずいぶん元気ですね」
「初めての依頼ですから」
「それは結構ですが、勢いだけで突っ込まないでくださいね」
「気をつけます!」
アルナさんは少しだけ不安そうに眉を下げたものの、すぐに依頼票へ視線を戻した。
「スノウラビは小型ですが、れっきとしたモンスターです。追い詰められると、角を向けて突進してきます」
「避ければいいんですね」
「簡単そうに言わないでください」
猫耳がぴんと立った。
「身体が小さいぶん、急に方向を変えます。正面から追いかけても、まず捕まりません」
「では、後ろから追いかけます」
「そういう問題でもありません」
違うらしい。
アルナさんは小さく息を吐き、依頼票の注意事項へ指を滑らせた。
「今回の依頼は、生きたまま捕獲することが条件です。討伐してしまった場合は失敗になります」
「剣は使わない方がいいですか?」
「身を守るために携帯してください。ただし、対象へ刃を向けるのは最後の手段です」
アルナさんが、受付近くにある貸出窓口を示す。
「捕獲網、拘束紐、運搬箱が貸し出されます。紛失や破損をした場合は、報酬から費用が引かれます」
「壊したら、お金が減る」
「そうです」
「絶対に壊しません」
「できれば、ルキウスさん自身も壊れないでくださいね」
「僕は道具ではありません」
「道具より大切だから言っているんです」
柔らかな口調だった。
けれど、冗談だけではないらしい。
「危なくなったら帰ります」
「はい。渓流地帯の二番域には入らないこと」
「一番域まで」
「夕刻前には帰還すること」
「夕刻前」
「無理に追い続けないこと。怪我をした場合は、一度状況を確認すること」
アルナさんが指を一本ずつ折りながら、確認していく。
「覚えましたか?」
「たぶん」
「そこは、はいと答えてください」
「はい」
言い直すと、アルナさんが満足そうに頷いた。
「では、受注手続きをしますね」
受付台へ戻り、依頼票と僕の登録書類を並べる。
印章が押され、乾いた音が響いた。
「スノウラビ生体捕獲依頼。受注者、ルキウスさん」
アルナさんが依頼票を差し出す。
「これで正式に、依頼開始です」
「……はい!」
紙を両手で受け取った。
ギルドカードとは違う、薄くて軽い一枚。
けれど、手にした瞬間、こちらの方がずっと重く感じられた。
失敗するかもしれない。
怪我をするかもしれない。
それでも――初めて、僕へ任された仕事だ。
「行ってきます!」
「待ってください」
勢いよく振り返ったところで、外套の裾を掴まれた。
「……あれ」
ほんの指先だけなのに、身体がぴたりと止まる。
振り返ると、アルナさんが依頼票とは別の紙を差し出していた。
「渓流地帯までの地図です」
「あ」
「それから、東門から出る共同便を利用してください。歩くと時間がかかります」
「ありがとうございます」
「捕獲用の道具も、まだ受け取っていません」
「あ」
完全に忘れていた。
アルナさんが半分ほど目を細める。
「先ほどの注意事項は、本当に覚えていますか?」
「これから思い出します」
「今、思い出してください」
「はい」
まずは、道具を受け取る。
地図を持つ。
共同便へ乗る。
大丈夫だ。
今度こそ覚えた。
――たぶん。
◆
エルドランの東門から渓流地帯までは、ケルンの共同便で三十分ほどだった。
荷車には僕のほかにも、薬草採取へ向かう二人組のハンターが乗っている。
二人とも慣れているらしく、揺れる荷台の上でも地図を広げ、採取場所について話し合っていた。
僕はその向かいで、貸し出された道具を一つずつ確認する。
折り畳まれた捕獲網。
頑丈な拘束紐。
蓋へ小さな穴が開いた運搬箱。
それから、餌として使う赤い木の実。
「網、紐、箱、木の実……」
何度確かめても、数は変わらない。
「兄ちゃん、初仕事か?」
薬草採取の男性が、地図から顔を上げた。
頭から長い兎耳が伸びている。
「はい。分かりますか?」
「さっきから、道具を五回は確認してるからな」
「そんなに」
「緊張するのは悪いことじゃねぇよ。忘れるよりはましだ」
隣へ座っているエルフの女性も、小さく笑った。
「渓流地帯は初めて?」
「はい」
「水辺の苔には気をつけて。見た目より滑るから」
「ありがとうございます」
帳面を取り出し、すぐに書き込む。
――水辺の苔は滑る。
「そこまでしなくても、覚えられるだろ」
「大事なことなので」
兎耳の男性が笑い、エルフの女性は少し感心したように頷いた。
やがて、森の匂いへ冷たい水気が混じり始める。
葉を揺らす風。石を撫でる流れの音……それらが少しずつ近づき、荷車は渓流地帯の入口にある停留所へ止まった。
「帰りの便は、日が傾く前だ。遅れるなよ」
御者に声を掛けられ、僕は運搬箱を背負う。
「はい。必ず戻ります」
荷車を降りると、湿った土と苔、青い葉の匂いが一度に鼻へ入ってきた。
森の奥から響く水音は近く、木漏れ日を弾いた渓流が、岩の隙間を縫うように流れている。
「ここが、渓流地帯……」
モンスターがいる場所。
依頼を遂行する場所。
物語の中では、ハンターが足を踏み入れれば、すぐに何かが始まっていた。
けれど、現実には――何も起こらない。
水が流れている。
鳥が鳴いている。
小さな虫が、目の前を飛んでいった。
「まずは、探さないと」
依頼票へ添えられた簡単な図を開く。
スノウラビは水辺近くの草地を好み、柔らかい木の芽や赤い木の実を食べる。
白い毛皮のため開けた場所では目立つが、逃げ足は非常に速い。
僕は辺りを見回した。
白いもの。
白いもの……。
「あ」
少し先にある岩へ、白いものが付着していた。
近づいて指で摘まむと、柔らかな毛だった。
岩の下には、小さな足跡がいくつも残っている。
「これかな」
足跡は水辺に沿って、茂みの奥へ続いていた。
母と暮らしていた森でも、獣の痕跡を追ったことはある。
折れた枝。食べられた葉。柔らかい土へ残る足跡……モンスターでも、その辺りは同じらしい。
「よし」
捕獲網を手に持ち、足跡を追う。
茂みを抜けた先には、陽の差し込む小さな草地があった。
その中央で、白い塊が何かを食べている。
丸い身体。
長い耳。
額から伸びる、短く尖った角。
スノウラビだ。
「いた……」
声を抑え、身を低くする。
まだ、こちらには気づいていない。
赤い木の実を取り出し、地面へ置いた。
あとは、近づいてきたところへ網を掛ける。
簡単だ――少なくとも、その時の僕はそう思っていた。
スノウラビの耳が動く。
木の実へ顔を向け、鼻を小さく鳴らした。
一歩。
もう一歩。
「今だ!」
立ち上がり、網を投げる。
――遅かった。
白い身体が横へ跳ぶ。
網は何もない草の上へ落ち、スノウラビは僕の横を風のように駆け抜けた。
「速っ……!」
慌てて追いかける。
けれど、二歩で距離が開いた。
三歩目には茂みへ飛び込み、白い姿は完全に見えなくなる。
「……正面から追いかけても、まず捕まらない」
アルナさんの言葉が、頭の中へ蘇る。
確かに、その通りだった。
早くも一つ賢くなった。
できれば、捕まえる前に賢くなりたかった。
「もう一度です」
網を畳み直し、逃げた方向へ向かう。
茂みの向こうには、別の足跡が続いていた。
スノウラビは真っすぐ逃げるのではなく、木や岩の間を縫うように何度も進路を変えている。
速い。
小さい。
そして――たぶん、僕より賢い。
「……負けませんよ」
誰もいない森で、一人だけ宣言した。
◆
二度目は、投げた網の端へ前脚だけが掛かった。
「やった!」
喜んだのは、一瞬だった。
スノウラビは身体を捻って網から抜け、そのまま僕の顔へ向かって跳んでくる。
「え」
白い塊が、急に大きくなった。
避けようと踏み出した足が、濡れた苔の上で滑る。
「うわっ!」
尻餅をつく。
同時に、短い角がフードの端を掠めた。
布が裂け、頬へ熱い線が走る。
「痛っ……」
指で触れると、僅かに血が付いた。
大した傷ではない。
けれど、ほんの少し位置が違えば、目に当たっていた。
スノウラビは少し離れた場所へ着地し、こちらへ角を向けている。
丸くて白い姿は可愛らしい――顔だけ見れば。
「小さくても、モンスター」
片膝を立て、ゆっくりと起き上がる。
追い詰めれば、突進してくる。
アルナさんは、それも教えてくれていた。
僕は知らなかった。
だから教えてもらった。
教えてもらったのに、今の僕は捕まえることしか考えていなかった。
「一度、落ち着こう」
深く息を吸う。
追いかければ逃げる。
網を投げれば避ける。
捕まりかければ、こちらへ向かってくる。
なら――追いかけなければいい。
周囲へ目を向ける。
倒木。
大きな岩。
根元に隙間のある二本の木。
足元には、同じ場所を何度も通ったような細い獣道がある。
スノウラビの足跡も、その道へ重なっていた。
「ここを通る……?」
森の獣は、好き勝手に歩いているように見えて、実際には通りやすい場所を選ぶ。
母と暮らしていた頃、何度か罠を作る練習をした。
実際に何かを捕らえたことはない。
母が、罠へ掛かる前にすべて解除してしまったからだ。
『小さな動物が可哀想でしょう!』
それなら、どうして作り方を教えたのだろう。
今でも少し不思議である。
「でも、役には立ちそうです」
捕獲網を、二本の木の間へ低く張る。
葉と細い枝を使い、正面からは見えにくいように隠した。
網の奥へ赤い木の実を置く。
その周囲にも一つずつ、道を作るように並べていく。
最後に、逃げ道になりそうな隙間を落ちた枝で塞いだ。
「……たぶん、これで」
自信はない。
けれど、正面から追いかけるよりは可能性がある。
僕は倒木の陰へ身を隠した。
水音が響く。
葉が揺れる。
どこかで、小さな鳥が鳴いた。
「…………」
何も来ない。
少し待つ。
「…………」
やっぱり来ない。
もしかすると、先ほどのスノウラビはもう遠くへ逃げてしまったのかもしれない。
それとも、罠が見破られているのだろうか。
僕は息を殺し、網の向こうを見つめ続ける。
やがて――茂みが小さく揺れた。
「来た」
白い耳が、葉の間から覗く。
先ほどと同じ個体かは分からない。
けれど、額には同じように短い角がある。
スノウラビは周囲を警戒しながら、一つ目の木の実へ近づいた。
一つ食べる。
顔を上げる。
もう一つ食べる。
――まだ。
網の手前まで進んでくる。
あと一歩。
その瞬間、風向きが変わった。
スノウラビの鼻が動く。
僕が隠れている倒木へ、顔が向いた。
「……まずい」
目が合った。
白い身体が反転する。
「待って!」
思わず飛び出した。
当然、待ってはくれない。
スノウラビは獣道に沿って駆け、二本の木の間を抜けようとする。
けれど、そこには隠しておいた捕獲網がある。
前脚が網へ掛かった。
白い身体が宙へ跳ね、そのまま地面へ転がる。
「掛かった!」
僕は走った。
スノウラビが暴れ、網から抜けようと身体を捻る。
このままでは、また逃げられる。
「今度こそ!」
剣ではなく、身体ごと飛び込んだ。
肩から泥の上へ落ちる。
冷たい水が跳ね、外套へ染み込んだ。
腕の中に、柔らかな毛の感触がある。
「捕まえ――いたっ!」
後ろ脚で腹を蹴られる。
角が腕を掠め、外套の袖を裂いた。
痛い。
けれど――離せない。
片腕で身体を押さえ、もう一方の手で拘束紐を探る。
「暴れないで……ください!」
頼んでみる。
当然、聞いてはくれない。
「ですよね!」
何度も蹴られながら、どうにか後ろ脚へ紐を回す。
きつく締めすぎないように。それでも、抜けないように。
次に、角を避けながら前脚を固定する。
最後に網ごと身体を包み、恐る恐る力を緩めた。
「…………」
逃げない。
腕の中で荒い呼吸を繰り返しているけれど、大きな怪我もしていないように見える。
「……捕まえた」
声にすると、急に身体から力が抜けた。
泥の上へ座り込み、空を見上げる。
木々の隙間から差し込む光が眩しい。
頬はひりひりする。
腹も蹴られた場所が痛い。
服は泥だらけ。
フードの端も裂けている。
物語の英雄なら、もっと格好よく捕まえていたかもしれない。
飛びかかるモンスターを軽々と避け、網を一投。
何事もなかったように捕獲完了。
少なくとも、泥の中で蹴られながら紐を結んだりはしない。
「……でも」
目の前には、確かに捕らえたスノウラビがいる。
僕が痕跡を探して。
失敗して。
考えて。
そして、自分の手で捕まえた。
「やった……!」
胸の奥から、嬉しさが一気に込み上げてきた。
「やりました!」
渓流の音へ負けないように、もう一度声を上げる。
スノウラビが驚いたように身体を跳ねさせた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて声を抑え、運搬箱へ入れる。
蓋を閉じると、内側からごとごとと音が鳴った。
元気そうだ。
「一緒に帰りましょう」
返事の代わりに、箱がもう一度揺れた。
◆
帰りの荷車へ乗る頃には、陽が少し西へ傾いていた。
行きに一緒だった二人のハンターも、大きな籠へ薬草を詰めて戻ってくる。
兎耳の男性は、僕の泥だらけの姿と、膝の上で揺れる運搬箱を見比べた。
「捕まえたのか」
「はい!」
「初仕事で?」
「はい!」
男性は感心したように口笛を鳴らし、僕の肩を軽く叩いた。
「そりゃ、やるじゃねぇか」
「ありがとうございます」
叩かれた衝撃が、蹴られた腹へ響く。
「……っ」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
「その返事、大丈夫じゃねぇ奴がよくするやつだぞ」
エルフの女性が、僕の頬を覗き込んだ。
「血も出てる」
「掠っただけです」
「ギルドへ戻ったら、傷を診てもらって」
「分かりました」
頷くと、女性はようやく少し安心したようだった。
荷車が動き出す。
車輪が石を踏み、荷台が揺れる。
膝の上に置いた箱も、そのたび小さく音を立てた。
――行きと同じ道。
けれど、見える景色は少し違っていた。
朝は、何が待っているのか分からなかった。
今は、泥と傷と、それから一つの成果がある。
胸元には、ランク1のギルドカード。
膝の上には、初めて捕まえたモンスター。
「……ふふ」
笑みが漏れる。
頬の傷が引きつり、少し痛い。
でも、今はそれすら嬉しかった。
◆
夕方のギルドは、朝とは違う騒がしさに包まれていた。
依頼から戻ったハンターたちの報告に、素材を運ぶ職員の声。酒場からは、焼いた肉と香草の匂いが漂ってくる。
その中へ、運搬箱を抱えて入った。
「ただいま戻りました!」
声を上げると、受付の奥にいたアルナさんの猫耳がぴんと立つ。
「ルキウスさん、おかえりなさ――」
こちらを向いたアルナさんの声が、途中で止まった。
泥に汚れた外套。
裂けた袖。
頬へ残った細い血の跡。
それらを順番に見て、猫耳がゆっくりと横へ倒れていく。
「……どうして、初依頼からそんな姿になっているんですか」
「捕まえました」
胸を張り、運搬箱を少し持ち上げる。
内側から、ごとん、と元気な音が返ってきた。
「それは見れば分かります!」
アルナさんは受付台から出てくると、僕の前で足を止めた。
大きな怪我がないか確かめるように、頭から足元まで視線を往復させる。
「頬と腕から血が出ています」
「どちらも掠っただけです」
「お腹も押さえていませんでしたか?」
「何度か蹴られました」
「何度も?」
猫耳が、ぴくりと立った。
「スノウラビは小さいですが、後ろ脚の力は強いんですよ」
「よく分かりました」
「実際に蹴られて覚えないでください」
アルナさんが呆れたように息を吐く。
「医務室で傷だけ確認します」
「先に依頼の報告をした方が」
「スノウラビは職員が確認します。ルキウスさんはこちらです」
「でも――」
「こちらです」
笑顔だった。
けれど、逆らってはいけない種類の笑顔だった。
「……はい」
近くにいた職員へ運搬箱を預け、アルナさんに連れられてギルド奥の簡易医務室へ向かう。
頬と腕の傷を洗われ、蹴られた腹も確認された。
幸い、どれも大きな怪我ではないらしい。
アルナさんは消毒液を染み込ませた布を、頬の傷へそっと当てる。
「痛みますか?」
「少しだけ」
「痛い時は、きちんと痛いと言ってください」
「はい」
傷口を覆い、細い包帯を結んでいく。
手つきは慣れていたけれど、頬は少しだけ膨らんだままだった。
「すみません。心配をかけました」
「もぉー」
アルナさんは頬を膨らませ、少しだけ僕を睨む。
「本当に心配したんですからね!」
「次からは、もっと上手くやります」
「そういうことではありません」
包帯を結び終えた指が、僕の腕を軽く叩いた。
「上手くできなければ、戻ってきてください」
「はい」
「依頼を失敗しても、怒りません」
「はい」
アルナさんは念を押すように、僕の顔を覗き込む。
「ですから……無理だけはしないでください。これは、私との約束です」
そう言って、右手の小指を立てた。
「……指ですか?」
「はい。小指です」
「見れば分かります」
「では、ルキウスさんも出してください」
「小指を?」
言われた通り、右手の小指を立てる。
けれど、その先をどうすればいいのか分からず、僕はアルナさんの手と自分の手を見比べた。
「それで、どうするんですか?」
「もしかして、指切りを知らないのですか?」
「指を切るんですか?」
反射的に手を引く。
「切りません!」
アルナさんの猫耳が、ぴんと立った。
「約束をする時に、小指同士を結ぶんです」
「どうして小指なんですか?」
「そういうものです」
「大人はよく、それで説明を終わらせますね」
「いいから、手を出してください」
少し強引に右手を取られる。
アルナさんの小指が、僕の小指へ絡んだ。
細くて、柔らかい指だった。
「こうして結んで、約束をするんです」
「なるほど……」
絡んだ小指を見つめる。
どうしてこれで約束になるのかは、やはり分からない。
けれど、言葉だけよりもずっと形に残るような気がした。
「無理はしない。危なくなったら戻ってくる」
「はい」
「依頼より、自分の命を優先する」
「はい」
アルナさんが、確認するように小指へ僅かに力を込める。
「守れますか?」
「守ります」
僕も、絡めた小指をそっと曲げた。
「はい、約束です」
そう答えると、アルナさんはようやく満足そうに笑った。
横へ倒れていた猫耳も、少しずつ元の位置へ戻っていく。
「絶対ですよ」
「絶対です」
「本当に?」
「本当に本当です」
いつもの答えを返すと、アルナさんはまた少しだけ頬を膨らませた。
「……その返事、少し信用できなくなってきました」
「約束までしたのに」
「だから、今度は守ってくださいね」
小指が、ゆっくりと離れる。
指先へ残った僅かな温かさを眺めてから、僕はもう一度頷いた。
「分かりました。必ず守ります」
今度は、冗談に聞こえないように。
アルナさんは僕の顔をしばらく見つめたあと、ようやく柔らかく目を細めた。
「では、依頼の確認へ戻りましょう」
「はい!」
立ち上がったところで、アルナさんの猫耳がまた僅かに伏せる。
「……走らないでくださいね」
「まだ走っていません」
「今にも走りそうだったので」
「見る目がありますね」
「誰かさんを心配しているうちに、身につきそうです」
誰のことだろう。
少し考え――たぶん僕だろうな、と気づいた。
受付へ戻ると、運搬箱はカウンターの奥へ置かれていた。
担当の職員が状態を確認し、アルナさんへ報告書を渡す。
「対象一体。大きな外傷なし。捕獲状態も問題ありません」
「ありがとうございます」
アルナさんが書類へ目を通し、依頼票と重ねた。
「おめでとうございます、ルキウスさん」
印章が押される。
「スノウラビ生体捕獲依頼。達成です」
「……達成」
その二文字が、胸の中へゆっくりと染み込んでくる。
「僕、できたんですね」
「はい。初依頼、無事完了です」
無事という部分だけ、アルナさんの声が少しだけ強かった。
けれど、口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
報酬の入った小さな革袋が、カウンターの上へ置かれた。
「こちらが報酬です」
「これが……」
手に取ると、硬貨が触れ合って小さな音を立てた。
初めて、自分で働いて手にしたお金。
ガルドさんから借りた百ソルには、まだ届かない。
それでも、返すための最初の一歩だ。
「……へへ」
「また、その顔ですね」
「どんな顔ですか?」
「とても嬉しそうな顔です」
アルナさんの猫耳が、ようやく普段の位置へ戻った。
僕は報酬を腰の袋へしまい、運搬箱の方を見る。
「スノウラビは、このあとどうなるんですか?」
「ギルドの飼育舎へ運ばれます。依頼主が明日、引き取りに来る予定です」
「食べられたりは」
「今回の依頼では、飼育用です」
「よかった」
思わず息を吐く。
アルナさんが、少し不思議そうに首を傾げた。
「討伐依頼は、苦手ですか?」
「分かりません。まだ、やったことがないので」
今日だって、必要なら剣を抜くつもりだった。
けれど、実際にモンスターを討伐したあと、どうすればいいのかは知らない。
「そういえば」
気になったことを、そのまま口にする。
「もし途中でスノウラビを倒してしまったら、どうすればよかったんでしょう」
「今回の依頼は失敗になりますが、素材を持ち帰れば買取対象にはなります」
「素材」
「毛皮、角、肉などですね」
アルナさんが答え、そこで僅かに目を細めた。
「ルキウスさん」
「はい」
「モンスターの剥ぎ取りはできますか?」
「できません」
正直に答える。
猫耳が、ゆっくりと横へ倒れた。
「やり方は知っていますか?」
「何となく、短刀を使うことは」
「どこから刃を入れるかは?」
「分かりません」
「素材を傷つけない方法は?」
「分かりません」
アルナさんの眉が、質問を重ねるたびに少しずつ下がっていく。
「毒を持つ部位や、触れてはいけない器官の見分け方は?」
「……分かりません」
アルナさんが目を閉じた。
短い沈黙。
「アルナさん?」
「明日です」
「はい?」
「明日の朝、ギルドへ来てください」
目を開いた時には、受付嬢の笑顔が戻っていた。
ただし、反論を許さない種類の笑顔だった。
「初心者向けの剥ぎ取り講習を受けていただきます」
「講習」
「はい。必ずです」
「依頼より先に?」
「先です」
「絶対に?」
「絶対に」
とても強い。
フレイヴィアさんとは違う種類だけれど、逆らってはいけない強さを感じた。
「分かりました」
「本当に?」
「本当に本当です」
アルナさんはまだ少し疑うように僕を見ていた。
僕は背筋を伸ばし、もう一度大きく頷く。
「明日、必ず来ます」
「……分かりました」
ようやく、柔らかな笑顔へ戻る。
外を見ると、窓から差し込む光が赤くなっていた。
初めてエルドランへ来て、ハンターになって、依頼へ出て。
長い一日だった。
「あの、アルナさん」
「はい」
「今日はありがとうございました」
深く頭を下げる。
「依頼を選ぶところから、道具や地図まで。アルナさんが教えてくれなかったら、僕は何もできませんでした」
「私は、受付として当然のことをしただけです」
「それでもです」
顔を上げると、アルナさんの猫耳が僅かに揺れていた。
「また明日、よろしくお願いします」
「はい」
アルナさんは小さく笑う。
「また明日、お待ちしています」
報酬の入った袋を握り、ギルドの扉へ向かう。
身体は疲れている。
頬も腕も、少しだけ痛い。
それでも、足取りは軽かった。
今日、僕はハンターになった。
そして――初めての依頼を、自分の力で終えた。
◆
重たい扉が閉まり、深いフードを被った少年の背中が見えなくなる。
アルナはしばらく、その扉を眺めていた。
「……また明日、ですか」
小さく呟くと、自然に笑みがこぼれる。
今日登録したばかりの、ランク1のハンター。
戦闘経験はない。
モンスターを捕らえた経験もない。
剥ぎ取り方どころか、街へ入るために通行料が必要なことさえ知らなかったらしい。
――危なっかしい。
けれど、初めての依頼を選んだ時には、そこまで深刻には考えていなかった。
初心者が少し張り切りすぎるのは、珍しいことではない。
転んで泥だらけになり、擦り傷を作って帰ってくることだってある。
だから、夕刻までに戻ってくればよい。
その程度に考えていた。
それでも、予定していた共同便が帰ってくる時刻になると、扉が開くたびに猫耳がそちらへ向いていた。
そして、血と泥に汚れたルキウスを見た瞬間――驚いた。
「もう……」
怪我は、どれも軽いものだった。
捕獲したスノウラビにも、大きな傷はない。
追いかけて失敗し。
教えられた注意を思い出し。
森で学んだことを使って、簡単な罠を組み立てた。
初めてにしては、十分すぎる成果だった。
だから、褒めてあげたい。
褒めてあげたいのだけれど、その前に少しくらい怒ってもよいはずだ。
「本当に、心配したんですからね」
小指を結んだ時の感触を思い出し、自分の右手を見る。
約束。
危なくなったら、戻ってくる。
依頼より、自分の命を優先する。
本人は、小指を結ぶことさえ知らなかった。
約束の意味は、きちんと伝わっただろうか。
「……伝わっていますよね?」
返事はない。
当然だった。
ルキウスはもう、ギルドを出ている。
アルナは受付台へ戻り、彼の登録書類をもう一度開いた。
出身地、リューネ山奥地。
使用武器、片手剣。
実戦経験、なし。
その下へ、新しい記録を書き加える。
――初依頼、スノウラビ生体捕獲。達成。
少し考えてから、明日の予定欄にも文字を記した。
――初心者向け剥ぎ取り講習。要受講。
「……これでよし」
筆を置き、書類を丁寧にしまう。
また明日。
その言葉を思い返すと、アルナの猫耳が僅かに持ち上がった。
無事に帰ってきて。
次の日も、同じ場所へ来てくれる。
それだけのことが――今は、少し嬉しかった。
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします