駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
「ああ、その前に」
オルディアさんが声を掛けると、部屋の隅に控えていた職員たちが一斉にそちらを向いた。
ギルドマスターたちはすでにギルドへ戻ったけれど、室内にはまだ二人の職員と、扉の近くに護衛らしい人が残っている。
「悪いけど、みんなも少し席を外しておくれ」
「しかし、オルディア様」
護衛の人がすぐに口を開いた。
「大丈夫だから」
「ですが――」
「この坊やと少し話がしたいだけさ。何かあればちゃんと呼ぶから、廊下で待っていておくれ」
穏やかな声だった。
それでも護衛の人はすぐに納得できないらしく、オルディアさんと僕を交互に見ている。
……そんなに警戒されると、こっちまで余計に緊張する。
「心配性だねぇ。私がいいと言ってるんだから、行っておいで」
「……承知いたしました」
ようやく護衛の人が頭を下げると、残っていた職員たちもそれに続いた。
――最後の一人が部屋を出て、扉が閉じられる。
さっきまで何人もいた部屋から人の気配が消え、窓の外から聞こえる街の音だけが妙にはっきり耳へ届いた。
……本当に二人きりになった。
僕だけを残した理由は、まだ聞いていない。
それを考えると胃の辺りがじわじわ重くなり、さっきから身体に入っていた力もまったく抜けてくれなかった。
……吐きそう。
「ふふっ」
顔を上げると、オルディアさんがこちらを見ながら笑っていた。
「な、なんですか?」
「いやいや。随分と分かりやすいものだからね」
「顔は見えてないと思うんですけど」
「顔が見えなくても分かるよ。肩なんて、さっきからずっと固まってるじゃないか」
言われて初めて気づいた。
少し力を抜こうとしてみるけれど、意識したせいで余計に身体が強張った気がする。
「そんなに緊張しなくていいよ。取って食おうってわけじゃないんだから」
「それは分かってるんですけど……」
「どうして自分だけ残されたのか分からない?」
「……はい」
正直に答えると、オルディアさんはまた小さく肩を揺らした。
「素直でよろしい」
椅子へゆっくり身体を預ける。
最初に会った時と同じ穏やかな表情なのに、その瞳だけは僕の何かを確かめるように向けられていた。
「少しだけ、確かめたいことがあってね」
「僕にですか?」
「ああ」
オルディアさんの視線が僕の頭へ上がり、フードの辺りで止まる。
「坊や。顔を、見せてはくれないかね」
「……」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
いや。
分からなかったことにしたかっただけだと思う。
「顔、ですか」
「ああ。そのフードを取ってほしい」
「いや、それは……」
反射的にフードの縁へ手をやる。
この街へ来てから、人前では外さないようにしてきた。
アルナさんの前でも、ガルドさんの前でも、フレイヴィアさんの前でも。
……セラフィーンさんを除けば。
「無理にとは言わないよ」
オルディアさんは急かさなかった。
「ただ、一度ちゃんと見ておきたいんだ」
「……どうしてですか?」
聞くと、オルディアさんの笑みが少しだけ薄くなった。
「それを聞いたら、余計に外したくなくなるかもしれないけどねぇ」
「それでも、理由が分からないまま外すよりはいいです」
「そうかい」
一度だけ頷く。
それから。
「坊や。人間、なんでしょう?」
――息が止まった。
「……え」
それしか出なかった。
フードを掴んでいた指先に、自然と力が入る。
人間。
聞き間違いじゃない。
オルディアさんは確かにそう言った。
オルディアさんがもう一度口にする。
「そうなんだろう?」
否定しないと。
そう思った。
知らない。
何のことですか。
いつもなら、それでいい。
でも。
声が出なかった。
どうして分かった。
どこで。
僕は何かした?
フードは外していない。
種族のことだって話していない。
……なのに。
「そんな顔をしなくてもいいよ」
オルディアさんが苦笑する。
「誰かに言うつもりはない」
「……どうして」
ようやく声が出た。
「どうして、分かったんですか」
「長く生きているとね。知りたくなくても覚えてしまうものがあるんだよ」
オルディアさんの視線が、僕の手へ落ちる。
「立ち方も。身体の動かし方も。魔力の気配もね。今を生きる種族とは少し違う」
言われても、自分では分からない。
僕にとってはこれが普通だから。
「もちろん、それだけで決めつけたわけじゃないよ」
オルディアさんの目が再び僕のフードへ向けられる。
「坊やを見ていると、どうにも昔を思い出すことが多くてね。だから一度、この目で確かめておきたくなったのさ」
昔。
その言葉が引っ掛かった。
オルディアさんがどれだけ長く生きているのかは分からない。
でも、この街ができた頃からいるなんて話が本当なら――人間がまだ生きていた時代を知っていても、おかしくない。
「この部屋には、今は私しかいないよ」
静かな声に、周囲へ目を向ける。
扉は閉じられている。
窓際にも、人の姿はない。
……もう。
ここまで言われて、隠し続ける意味もない。
オルディアさんは僕が人間だと、ほとんど確信している。
それに何故だろう。
この人になら見られても大丈夫な気がした。
「……分かりました」
フードの縁を掴む。
ゆっくりと後ろへ下ろした。
髪が外へ落ち、頬へ直接朝の空気が触れる。
顔を隠していないだけなのに、身体の前を全部晒したみたいで妙に落ち着かない。
オルディアさんを見る。
「……」
反応がない。
さっきまで細められていた瞳が大きく見開かれ、そのまま僕の顔へ縫いつけられていた。
「オルディアさん?」
「これは……」
掠れた声だった。
何度か瞬きをしているのに、その視線は僕から離れない。
「……よくぞ、ここまで……」
「……?」
――椅子が小さく鳴る。
オルディアさんが机へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「え?」
思わず僕も腰を上げる。
歳を重ねた身体で一歩ずつ近づいてくるオルディアさんを前に、どうすればいいのか分からずその場へ立っているしかなかった。
「あ、あの……」
目の前まで来る。
オルディアさんは何かを確かめるように僕の顔を見上げ、その手を一度だけ伸ばしかけた。
――けれど、頬へ触れる前に止まる。
「ふふ……」
その口元がゆっくりと緩んだ。
「そっくりじゃないか」
「……誰に、ですか?」
思わず聞き返す。
オルディアさんの瞳が僅かに揺れ、僕ではない誰かを見るように細められた。
「昔、とてもよく知っていた人にさ」
「その人も……人間だったんですか?」
「ああ。そうだよ」
それ以上は続かなかった。
ただ、懐かしいものを前にしたように僕を眺めている。
……誰なんだろう。
ものすごく気になる。
でも、その表情を見ていると簡単に聞いていいことではないような気もした。
「あの……」
「いや、すまないね」
僕の声で我に返ったのか、オルディアさんが小さく瞬きをする。
「少し昔のことを思い出してしまった」
「はあ……」
結局、それ以上は教えてもらえなかった。
オルディアさんが椅子へ戻ったので、僕も向かいへ座り直す。
フードへ手を伸ばす。
「そのままでいいよ」
「……このままですか?」
「今は誰も見ていないんだから」
仕方なく手を下ろした。
……ものすごく落ち着かない。
「坊や」
「はい」
声が変わった。
さっきまでの懐かしそうな響きが薄れ、オルディアさんが真っすぐ僕を見る。
「この街を離れなさい」
「……え?」
意味を理解するまで少し掛かった。
「できるだけ早く、エルドランから離れるんだ」
「どうしてですか?」
身体が自然と前へ傾く。
「水禍渡りが来るからですか?」
「ああ」
「だったら、どうして僕だけ――」
「だからだよ」
静かな声に言葉を止められた。
「さっき話したものが、本当にもう一度この街へ来るのなら……これから何が起きるのかは私にも分からない」
オルディアさんの両手が机の上で重なる。
「ギルドの坊やたちは住民を逃がし、防衛線を作ると言っていた。あの子ならできるだけのことはするだろうし、私だって上手くいってほしいと心から思っているよ」
「……はい」
「でもね。どれだけ準備しても、誰も死なない保証なんてどこにもない」
さっき聞いた昔の光景が頭へ戻ってくる。
濡れたモンスター。
遠くまで引いた海。
そこから街へ戻ってきた巨大な波。
……怖くないわけがない。
「坊やは人間だ」
オルディアさんの目が僕へ戻る。
「今、この世界に人間がどれだけ残っているのか私は知らない。坊や以外にもいるのか。それとも、本当に坊やだけなのか……私にはそれすら分からない」
「……はい」
「だから、こんなところで失わせるわけにはいかないんだよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ詰まった。
「街なら、また作れる」
オルディアさんが窓の外へ目を向ける。
「家も。道も。港も。時間と人がいれば、何度だって作り直せる」
今のエルドランが、その言葉を証明している。
一度ほとんどすべてを失って、それでもここまで大きくなった街。
「でも、命は戻らない」
視線が僕へ返ってくる。
「それだけは、どれだけ長く生きても変わらないよ」
「……」
「逃げることを恥じる必要はない。坊や一人がここへ残らなければならない理由もないんだ」
優しい声だった。
「戦える者なら他にもいる。ギルドの坊やも、あの獣人の男もいる。フレイヴィアだって戻れば、きっと迷わず戦うだろう」
「はい」
「なら、坊やまで残る必要はない」
……必要。
それだけで考えれば、たぶん正しい。
僕より強い人なんていくらでもいる。
フレイヴィアさんみたいな力はない。
ガルドさんほど経験もない。
ギルドマスターみたいに、人を動かすことだってできない。
僕一人がいなくなったところで、防衛全体が崩れるなんてこともないと思う。
「……心配してくれてるんですね」
口にすると、オルディアさんが少し目を丸くした。
「もちろんだよ」
「ありがとうございます」
頭を下げる。
「本当に」
まだ会ったばかりなのに。
人間だと分かっただけの僕を、ここまで気に掛けてくれている。
ありがたい。
……でも。
「それでも、僕は行けません」
顔を上げる。
オルディアさんは何も言わず、続きを待っていた。
「理由を聞いてもいいかい?」
「……たくさんあります」
すぐには上手くまとめられなかった。
代わりに、この街へ来てからのことが一つずつ頭へ浮かぶ。
初めてエルドランへ来た日。
何も知らない僕に百ソルを貸してくれたガルドさん。
ハンターになるところから一つずつ教えてくれたアルナさん。
怪我をするたび治してくれたセラフィーンさん。
帰れば食事を出してくれる女将さん。
それから、何度も隣で戦ってくれたフレイヴィアさん。
「僕は、この街へ来た時、本当に何もなかったんです」
ゆっくり言葉にする。
「お金もほとんどなくて、知ってる人もいなくて。ハンターになりたいってだけで来たのに、何をすればいいのかだって全然分かってませんでした」
……よくそれで来たな、と今なら自分でも思う。
「でも、みんな助けてくれました。住む場所を教えてくれて、仕事を教えてくれて。失敗したら助けてもらって、怪我をしたら治してもらって」
僕が今ここにいるのは、僕一人の力じゃない。
「この街で出会った人たちに、たくさん恩があります」
「その恩を返すために命を懸けるつもりかい?」
「違います」
すぐに首を横へ振る。
「死ぬつもりなんてありません」
「でも、残れば死ぬかもしれないよ」
「……はい」
分かっている。
怖い。
さっきの話を聞いたあとなら、なおさら。
「でも、まだ何も決まってません」
オルディアさんを見る。
「昔はどうすることもできなかった。それも、たくさんの人が亡くなったことも分かりました」
それでも。
「昔にできなかったからって、今もできないとは限らないじゃないですか」
水憑きがどうして海へ向かうのか。
あの音が何なのか。
どうして海が引いているのか。
まだ分からないことばかりだ。
「モンスターを止める方法があるかもしれない。波を少しでも弱くする方法があるかもしれない。もっと安全にみんなを逃がす方法だって、探せば見つかるかもしれない」
僕には分からない。
……でも。
分からないから、ないとは決まっていない。
「だから、見つけるまではあがきたいんです」
オルディアさんは何も言わない。
「結局何も見つからなくて、逃げるしかなくなるかもしれません。その時は……ちゃんと逃げます」
僕一人で何でもどうにかできるなんて思っていない。
それでも、最初から全部を諦めることはできなかった。
「この街には、僕を助けてくれた人たちがいます」
膝の上へ置いた手を握る。
「だから――それでも僕は、この街を見捨てることなんてできません」
言い切った。
オルディアさんはしばらく僕の顔を見つめていた。
その目は、フードを外した時とよく似ている。
……また、誰かと重ねてる?
「……本当に」
オルディアさんが小さく息を吐いた。
「困った坊やだねぇ」
「すみません」
「謝るくらいなら、言うことを聞いておくれよ」
「それは……」
「できない?」
「……すみません」
「ほら、また謝る」
少しだけ笑われた。
僕も返す言葉が見つからず、頬を掻く。
「分かったよ」
オルディアさんが椅子へ身体を預ける。
「もう止めない」
「……ありがとうございます」
「ただし、死なないこと」
「はい」
「無理だと思ったら逃げること」
「はい」
「それから、ちゃんと帰ってくること」
「……はい」
約束できるかは分からない。
それでも、そうするつもりで答えた。
「よろしい」
ようやくオルディアさんが笑う。
僕も椅子から立ち上がった。
「オルディアさん」
「なんだい?」
「心配してくれて、ありがとうございました。それから、水禍渡りのことも」
頭を下げる。
「辛い話だったと思います。でも、そのおかげで僕たちは何をすればいいのか考えられます」
「……ああ」
「だから、ありがとうございます」
顔を上げると、オルディアさんは少しだけ目を細めていた。
何も言わず、小さく頷く。
フードへ手を伸ばした。
「もう被っていいですか?」
「ふふ。もちろんさ」
頭へ戻す。
視界が少し狭くなり、ようやくいつもの感覚が戻ってきた。
……落ち着く。
「それじゃあ、僕もギルドへ戻ります」
「ああ。行っておいで」
扉へ向かう。
「坊や」
手を掛けたところで呼ばれ、振り返る。
「はい?」
「気をつけてね」
「はい」
――扉を開ける。
廊下へ出て、そのまま静かに閉じた。
ギルドへ戻らないと。
僕に何ができるのかは、まだ分からない。
……それでも、まずはできることを探そう。
◆
――扉が閉じる。
私はその音を聞いたまま、しばらく椅子から動けなかった。
廊下を遠ざかっていく足音が完全に消えたところで、ようやく背凭れへ身体を預ける。
「……まったく」
逃がすつもりだった。
水禍渡りが来るのなら、あの子だけでもこの街から遠ざける。
そう決めていたはずなのに。
『だから――それでも僕は、この街を見捨てることなんてできません』
目を閉じる。
浮かんだのは、さっき見たルキウスの顔。
その向こうへ、ずっと昔に見た一人の人間の姿が重なった。
あの人がこの街へ来たのは、水禍渡りが過ぎ去ったあとだった。
港も家も流され、生き残った者たちは今日をどう過ごせばいいのかすら分からず、街だった場所には泥と瓦礫ばかりが残っていた頃。
そんな場所へ、一人でやってきた。
変な人だった。
この街の者でもないのに瓦礫を運び、怪我人を手当てし、食べるものが足りなければ保存の利く作り方を教えた。
建物を建て直すとなれば、今まで誰も見たことのない組み方を地面へ描き、雨水の逃がし方から荷車の車輪まで、聞いたこともない知識を次々と口にした。
どこで覚えたのか聞いても、いつも笑って誤魔化していた。
……本当に、不思議な人だった。
何より。
誰もが、もう二度と同じものは来ないでほしいと願っていただけの中で、あの人だけは違った。
『来ないことを願うのはいい。でも、来ないと決めつけるのは駄目だ』
そう言って。
『次に来た時、今度は少しでも多くの人が助かるようにしておこう』
当たり前みたいに笑った。
――今、港へ伸びている防波壁。
何度も補修され。
造り直され。
昔とは随分姿も変わってしまったけれど。
最初にあれを作ろうと言い出したのも、その人だった。
海から押し寄せるものを少しでも受け止められるように。
たとえ止めきれなくても、市民が高台へ逃げるための時間を稼げるように。
水禍渡りが。
もう一度、この街へ来た時のために。
「……本当に」
目を開ける。
「そういうところも、そっくりだね」
ルキウスが座っていた椅子を見る。
何かできるかもしれない。
だったら、見つけるまではあがきたい。
あの人も同じだった。
何もない場所を見ながら、できない理由より先に、何ができるのかを探した。
「……ねぇ、あなた」
返事なんてあるはずもない。
それでも一瞬だけ、昔と同じように困った顔で笑う姿が見えた気がした。
「さて」
身体を少し起こし、窓際へ目を向ける。
「いつまで隠れているつもりだい?」
返事はない。
朝の光が差し込む窓の近くにも、誰の姿も見えなかった。
「随分上手く隠れてるけどねぇ。これでも長く生きてるんだ。年寄りをあまり侮るもんじゃないよ」
少し待つ。
――窓際の空気が僅かに揺れた。
「気づいてたんだ」
深い藍色の外套が、何もなかった場所から姿を現す。
メルシア。
窓枠へ軽く背を預けると、悪びれた様子もなくこちらを見た。
「途中からね」
「じゃあ、追い出さなかったってことは、聞いててもよかった?」
「随分と都合のいい解釈をする子だねぇ」
「結果的には聞けたんだから、いいでしょ」
「まったく」
小さく笑う。
メルシアの赤紫の瞳が、ルキウスの出ていった扉へ向いた。
「それにしても、驚いたよ」
メルシアがルキウスの出ていった扉へ目を向ける。
「まさか、この世界にまだ人間がいるなんてね」
「嘘だね」
「……」
あまりに分かりやすく、言葉が止まった。
赤紫の瞳がこちらへ戻ってくる。
「何が?」
「今さら坊やが人間だったことに驚いた、なんて顔じゃないよ」
そう言うと、メルシアは何も返さなかった。
ただ、こちらの続きを待つように僅かに目を細める。
「坊やがフードを取る前から、知っていたんだろう?」
「……」
「それに」
ルキウスが出ていった扉へ目を向ける。
「そなたがここにいる理由も、元より坊でしょうに?」
「――はぁ」
メルシアが深く息を吐いた。
今まで浮かべていた笑みまで消し、諦めたように肩を落とす。
「本当に、これだから老人の相手は疲れるんだ」
「ほっほっ」
思わず笑ってしまう。
「年を重ねるとね、嫌でもそういうものは分かるようになるのさ」
「僕は別に、分かるようにならなくていいかな」
「そう言わずとも、いずれ分かるようになるよ」
「……その頃まで生きてたらね」
さらりと返してから、メルシアはもう一度扉へ目を向けた。
「まあ、でも」
今度は誤魔化す様子もなく、少しだけ肩を竦める。
「見つけたのは、本当にたまたまだけどね」
「雪山でかい?」
「うん。あそこへ行った理由は水憑きだよ。ルキウスがいるなんて知らなかったし、まして人間が生き残ってるなんて思ってもなかった」
そこで。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「でも、見つけちゃった」
「それで、追ってきた」
「そういうこと」
随分あっさり認めるものだ。
もっと煙に巻かれるかと思っていたけれど、一度見抜かれてしまえば隠し続ける気もないらしい。
「人間だったからかい?」
「最初は、それもあったよ」
メルシアが頷く。
「今の世界じゃ、それだけで十分珍しいからね」
「最初は?」
「うん」
赤紫の瞳が、閉じた扉をじっと見つめる。
「今は、それだけじゃない」
「……そうかい」
それ以上は聞かなかった。
答えるつもりなら、そのうち自分から話すだろう。
何より。
坊やを見るその目に。
少なくとも、悪意だけは感じなかった。
「それにしても」
メルシアが今度はこちらを見る。
「ルキウスの顔を見た時、すごい顔してたね」
「……そんなにかい?」
「かなり」
それは少し恥ずかしい。
「『そっくり』って言ってたけど」
「ああ」
「昔の人間?」
「そうだよ」
窓の向こうへ目を向ける。
今の街並みの向こうに、私には昔の景色が重なって見えた。
「あの人は、水禍渡りのあとにこの街へやってきたんだ」
「あと?」
メルシアの眉が僅かに上がる。
「あの災いを止めた人じゃないんだ」
「違うよ。水禍渡りは、私たちにはどうすることもできないまま過ぎていった」
思い出しただけで、胸の奥が少し冷える。
「街も、人も、ほとんど残らなかった。あの人が来たのは、その後さ」
「じゃあ、街を救ったっていうのは?」
「何もなくなった街を、もう一度立たせてくれたんだよ」
メルシアが黙る。
「変な人だったよ。どこで覚えたのか分からない知識を、たくさん持っていた」
「例えば?」
「食べ物の保存方法。水を汚さず溜める方法。家を丈夫に建てる方法。怪我人の扱い方。荷物を少ない力で運ぶ方法……本当に何でもだね」
聞くたび、当時の私たちは驚かされた。
「今となっては当たり前になったものも多い。誰が最初に考えたのかなんて、知っている者の方が少ないだろうね」
そして。
「港に大きな壁があるだろう?」
メルシアが窓の外へ目を向ける。
「防波壁?」
「ああ。今のものは何度も作り直されているけれど、最初にあそこへ壁を作れと言ったのもあの人さ」
「水禍渡りのために?」
「そうだよ」
あの日の言葉を思い出す。
「『次に同じものが来た時、止められなくてもいい。逃げる時間くらいは作れるようにしよう』ってね」
メルシアの表情から、少しだけ笑みが消えた。
「……なるほど」
「だから今、あの壁がある」
昔の人間が残したもの。
本人がいなくなっても。
名前を知る人がほとんどいなくなっても。
街の中には、まだあの人の考えたものが残っている。
「水禍渡りは止められなかった」
「そうさ」
「じゃあ、今回も結局は通り過ぎるのを待つしかない?」
「今のところはね」
言葉にすると重かった。
「防波壁も、あの人自身が水禍渡りを止めるために考えたものじゃない。次に同じものが来た時、一人でも多く逃げるためのものだよ」
「つまり、勝つためじゃない」
「ああ」
「生き残るため」
「そういうことさ」
メルシアが少し黙る。
やがて窓枠へ背を預けたまま、ルキウスが出ていった扉を見る。
「でも、あの子は何か方法があるかもしれないって言ってたね」
「ああ」
「昔できなかったからって、今もできないとは限らない」
「そう言ってたねぇ」
思わず笑ってしまう。
「何がおかしいの?」
「あの人も似たようなことを言ったんだよ」
メルシアの目がこちらへ戻る。
「復興なんて無理だと、みんな言っていた。この土地を捨てた方がいい。何もないんだから、別の場所へ行った方が楽だって」
私だって、そう思っていた。
「でも、あの人だけは瓦礫の中を歩き回ってね。『何もないなら、作ればいい』なんて言うんだ」
「……それは」
「ああ」
自分でも分かっている。
「似てるだろう?」
メルシアが小さく笑った。
「似てるかもね」
顔だけじゃない。
何も分からないのに。
できる保証もないのに。
まず、できる方法を探そうとする。……人間ってのは、そういう生き物だったのだろうか。それとも、二人が特別なのか。
「馬鹿だったのさ」
「ひどい言い方だ」
「褒めてるんだよ」
メルシアが肩を揺らす。
「昔の人も、ルキウスみたいだった?」
「ああ。どうしようもないくらいね」
思い返せば、困らされたことばかりだった。
無茶をする。
勝手に働く。
誰かが困っていれば、自分のことを後回しにする。
そのくせ、褒めれば困ったように笑う。
「好きだったんだね」
唐突な言葉に、メルシアを見る。
その表情にからかう様子はなかった。
「分かるかい?」
「そりゃあね」
少しだけ目を伏せる。
随分昔のことなのに、口にしようとすると胸の奥が僅かに痛んだ。
「ああ」
それでも。
「恋をしていたよ」
メルシアは何も言わなかった。
ただ、静かに続きを待っている。
「最初は変な人だと思っていた。いつまでこの街にいるつもりなのかも分からないのに、誰より真剣に街の先のことを考えていたからね」
「先のこと?」
「自分がいる間だけ直せばいいんじゃない。十年後、百年後にまた困らないようにしようって、いつもそんなことばかり考えてた」
今の防波壁もそうだ。
水禍渡りがまた来るのが明日なのか。
百年後なのか。
もう二度と来ないのか。
誰にも分からない。
それでも作った。
「自分がもういない時代のことまで?」
「ああ」
「……変な人だね」
「だろう?」
思わず笑う。
「でも、そういう人だったんだよ」
だから惹かれた。
失ったものばかりを見ていた私たちに、まだ先があるのだと教えてくれた。
「それで、ルキウスが似ていた」
「顔を見た時は、本当に驚いたよ」
思い出す。
フードの下から現れた顔。
一瞬。
あり得ないことだと分かっているのに。
あの人が目の前へ帰ってきたのかと思った。
「でも、坊やは坊やだ」
「分かってるんだ?」
「そこまで呆けちゃいないよ」
メルシアが小さく笑う。
「ただね」
今度は私が、ルキウスの出ていった扉を見る。
「性格まで似ているとは思わなかった」
『だから、見つけるまではあがきたいんです』
あの言葉が耳に残っている。
「昔の人も、止めても聞かなかった?」
「聞かなかったねぇ」
瓦礫を運ぶなと言っても運ぶ。
休めと言っても聞かない。
自分の身体くらい大事にしろと言えば、それなら君も休めと返された。
「本当に、困った人だったよ」
「嬉しそうに言うね」
「昔の話だからね」
メルシアがしばらく私を見ていた。
それから、少しだけ声を落とす。
「だからルキウスを逃がしたかった?」
「ああ」
今度は迷わなかった。
「二人は別の人間だ。それくらい分かっているよ」
それでも。
あの人と同じような顔をして。
同じようなことを言う少年が。
また、この街へ来ようとしている災いの前へ立とうとしている。
「怖いんだよ」
口にしてしまえば簡単だった。
「今度は、あの坊やが何かを失う番になるんじゃないかってね」
メルシアの赤紫の瞳が僅かに細くなる。
「街のために?」
「街だけじゃないさ。あの子はきっと、誰かが残っていればそっちへ行く」
「……そうだね」
返事が早かった。
この子も、ルキウスをよく見ているらしい。
「でも、止められなかった」
「困ったことにね」
「もう一回言えば?」
「たぶん同じ答えが返ってくるよ」
それどころか。
次はもっと上手く理由を並べるかもしれない。
「だから、もう止めない」
「随分甘いね」
「歳を取るとね、若い子には甘くなるものさ」
「ギルドマスターには?」
「あれはもう、この街のギルドを預かる立派な大人だからね」
「じゃあ坊や呼びもやめてあげなよ」
「それとこれとは別だよ」
「かわいそう」
二人で少しだけ笑う。
けれど、窓から吹き込んだ潮の匂いに、すぐ今の状況を思い出した。
「ところで」
今度はこちらから尋ねる。
「坊やが人間だと知っていて、どうしてそこまで気に掛けているんだい?」
メルシアが少しだけ目を細める。
「さっき言ったでしょ。人間だから気になった。それが最初の理由の一つ」
「今は?」
「面白いから」
あっさりした返事だった。
「面白い?」
「うん」
そのまま扉を見る。
「自分が壊れそうになっても、まだ諦めない。何も持ってないのに、とんでもなく大きなものをずっと追いかけてる」
声は軽い。
けれど、赤紫の瞳だけは笑っていなかった。
「見ていて飽きないよ」
「……それだけかい?」
聞いてみる。
メルシアはこちらへ顔を向けると、いつものように笑った。
「さてね」
教える気はないらしい。
「まあ、いいさ」
無理に聞くつもりもなかった。
「それより、水禍渡りの方は?」
「調べるよ」
メルシアが窓から港の方角を眺める。
「水がどこへ集まってるのか。モンスターがどうして海を目指してるのか。昔と同じなら、何かまだ見えてないものがあるはずだから」
「頼めるかい?」
「そのために残ってるようなものだしね」
そう言うと、窓へ向かう。
「そろそろ行くよ」
「無茶はしないでおくれ」
「それ、ルキウスにも言った?」
「言ったさ」
「聞かなかったでしょ」
「……本当に、よく似てるよ」
メルシアが小さく笑い、窓枠へ手を掛ける。
「メルシア」
「ん?」
呼び止める。
ここから先を言うべきなのか、ほんの少しだけ迷った。
この子の素性を私は知らない。
どこから来たのかも。
何を目的にしているのかも。
本人はただの旅人だと言っているけれど、それをそのまま信じられるほど若くはない。
……それでも。
ルキウスを見る目だけは。
嘘ではないと思えた。
「一つ、頼みがあるんだ」
メルシアが窓枠から手を離す。
「頼み?」
「ああ」
椅子の肘掛けへ手を置き、ゆっくりと身体を起こす。
昔なら何でもなかった動作も、今では一つずつ確かめるようにしなければならない。
メルシアの方へ身体を向ける。
「もしもの時は」
一度、息を吸う。
「ルキウスを連れて、この街を離れなさい」
メルシアは何も答えない。
ただ、その赤紫の瞳がこちらへ向けられている。
「坊やはきっと、自分からは逃げないよ」
今日のやり取りだけでも分かる。
誰かが残っている限り。
まだ何かできると思っている限り。
あの子は、最後までこの街へ残ろうとする。
「だから、その時は無理にでも連れていっておくれ」
そして。
私はゆっくりと頭を下げた。
「どうか、あの子を守ってやってはくれないか」
――静かになった。
長く生きた竜が。
この街で、いつの間にか多くの者から意見を求められるようになった私が。
素性すら知らない旅人へ。
深く頭を下げている。
きっとフレイヴィアが見れば驚くだろう。
いや。
あの子なら、驚いたあとで怒るかもしれない。
竜人は誇りを何よりも大切にするというから。
……それでも。
昔。
私は一人の人間に、この街の先を託された。
次に同じ災いが来た時。
一人でも多く生きられるようにと。
そうして残されたものが、今もこの街を守っている。
だから。
今度は私が。
あの人とよく似た少年の先を、誰かへ頼むくらいは許されてもいいだろう。
しばらく返事はなかった。
頭を下げたまま、その答えを待つ。
やがて、小さく衣擦れの音がした。
「言われなくても」
それだけだった。
顔を上げる。
――もう、窓際には誰もいない。
開いた窓から朝の風だけが入り込み、私の白い髪を僅かに揺らしていった。
「……そうかい」
誰もいなくなった場所へ、小さく笑った。
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