駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
――それからのエルドランは、慌ただしく動き始めた。
ギルドから出された緊急要請は行政や教会、商会を通じて街中へ広がり、港に近い区域から順番に住民の避難が始まった。
まだ水禍渡りが起きると決まったわけじゃない。
それでも街のすぐ近くでは水憑きが現れ、海の水位まで下がり続けている。
何も起きなければそれでいい。
そう説明されても、港の近くに住む人たちの顔から不安が消えることはなく、最低限の荷物を抱えた人の列が朝から高台へ続いていた。
同時に、港では防衛の準備が急ピッチで進められている。
昔から海沿いに残されていた巨大な防波壁には職人とハンターが集まり、傷んだ箇所を石材で補強しながら、長く使われていなかった通路や射撃台を一つずつ確認していた。
その後ろに広がる倉庫街では、石造りの建物を利用する形で荷車や木材、鉄柵が運び込まれ、モンスターが一度に通れる幅を狭めるための二つ目の防衛線が作られている。
さらに後ろ。
高台へ続く道と避難所の手前にも資材が積み上げられ、もし港も倉庫街も抜かれた時に備えるため、最後の防衛線まで形になり始めていた。
……水禍渡りの話を聞いてから、まだ一日も経っていない。
それなのに。
昨日まで見慣れていた街は、目に見えて違う姿へ変わろうとしていた。
「そこ! もうちょい右だ!」
「右ってどっちだよ!」
「お前から見て右だ!」
「最初からそう言え!」
怒鳴り合う声を聞きながら、僕は隣にいる獣人族の男性と一緒に太い木材を持ち上げた。
二人で持ってもかなり重く、肩へ掛かる重さに合わせて歩幅を調整する。
「行けるか、坊主?」
「はい。大丈夫です」
「なら、せーので行くぞ。せーの!」
――木材を持ち上げる。
向かい側の人と歩調を合わせ、倉庫と倉庫の間まで運んでいく。
周りでも同じように資材が運ばれ、大工らしい人たちが次々と組み上げていた。
「ここでいいですか?」
「おう、下ろしてくれ!」
声に合わせて膝を曲げる。
木材が地面へ置かれると、待っていた職人たちがすぐに縄を掛け始めた。
「助かった! 次も頼めるか?」
「はい」
「返事が早えな。ちったぁ休めよ?」
「まだ大丈夫です」
「若いねぇ」
笑われた。
……別に無理をしているつもりはない。
朝から何度か荷物を運んではいるけれど、昨日までの依頼と比べれば危険もない。
「お兄ちゃん!」
声に振り向く。
道の端で、小さな小人族の男の子が僕を見上げていた。
両手で木の杭を抱えているけれど、身体と大して変わらない長さがあるせいで前がほとんど見えていない。
「それ、どこまで持っていくの?」
「あっち!」
杭の向こうから小さな手だけが伸びる。
……あっちと言われても、どこだろう。
「父ちゃんが、こっち持ってこいって!」
「お前、勝手に持ってくんなって言ったろ!」
少し離れたところから声が飛んできた。
髭の生えた小人族の男性がこちらへ駆け寄ってくる。
「ったく、邪魔になるから向こうで待ってろって言ったじゃねえか」
「でも、父ちゃん忙しそうだったから」
「だからって、お前がこれ運んだら転ぶだろうが」
言いながらも、男性は怒っているというより困っているように見えた。
「僕が運びますよ」
「悪いな、兄ちゃん」
「僕が持ってきたのに!」
「じゃあ、一緒に持つ?」
杭の片側を掴む。
男の子が一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに頷いた。
「うん!」
僕がほとんど重さを受け持ちながら、二人で歩く。
男の子はそれに気づいていないのか、額に力を入れて真剣な顔で杭を抱えていた。
「どこ?」
「ここ!」
「ここか」
「父ちゃん! 運んだ!」
「おう。ご苦労さん」
父親に頭を撫でられ、男の子が得意そうに胸を張る。
「お兄ちゃんもありがと!」
「どういたしまして」
手を振って別れる。
……みんな動いてる。
大人も。
子どもも。
できることは全然違うけれど、それぞれが街のために何かをしようとしている。
「おい、兄ちゃん!」
さっきの小人族の男性に呼ばれ、もう一度振り返る。
「そっちの杭も頼めるか!」
「はい!」
……僕も、まだまだやれそうだ。
◆
午前中はほとんど倉庫街で過ごした。
木材を運び、鉄柵を動かし、通りを塞いでいた荷車を別の場所へ移す。
途中からは荷物を積んだ荷車そのものを何度も押すことになり、昼前には流石に腕が少し重くなっていた。
「ルキウス!」
名前を呼ばれて顔を上げる。
少し先でガルドさんが手招きしていた。
「ガルドさん」
「お前、朝からずっとここにいるのか?」
「途中で港にも行きました」
「そういうこと聞いてねえよ」
目の前まで来ると、上から下まで一度見られる。
「休んだか?」
「まだです」
「休め」
「でも、これを運んだら――」
「休め」
二回言われた。
「……はい」
逆らわない方がよさそうだ。
「ちょうど昼だ。広場に飯が来てるらしいから行ってこい」
「ガルドさんは?」
「俺はあとで行く」
「なら、一緒に――」
「お前が戻ってきたらな」
僕が休んでいる間はここを見ているつもりらしい。
「分かりました」
「ちゃんと食えよ」
「はい」
「あと走るな」
「……はい」
背中を向ける。
「今走ろうとしただろ」
「してません」
「一歩目がもう走る奴だったぞ」
「気のせいです」
呆れたような声を背中で聞きながら、今度こそ歩いて広場へ向かった。
◆
大通り沿いの広場へ近づくと、まず匂いがした。
炊いた米の甘い匂いと、何かを焼いている香ばしい匂い。
そのあとから人の声が聞こえてくる。
「はいはい! 一人二個までだよ! 後ろにも腹空かせた連中が山ほどいるんだからね!」
……聞き覚えしかない。
広場には長い机がいくつも並べられ、その向こうで大きな身体の女将さんが忙しそうに手を動かしていた。
頭にはいつもの布を巻き、袖を肘まで捲り上げている。
目の前には大きな籠がいくつも置かれ、中には白いおにぎりが山みたいに積まれていた。
「女将さん?」
「ん?」
僕を見つける。
「おや、ルキウスじゃないか。なんだいその顔。腹減ってんだろ?」
「えっと……まあ」
「だったら並びな! 順番だよ!」
「僕もですか?」
「当たり前だろ。ここにゃ偉い奴用の列なんてないよ」
言われて後ろを見る。
職人。
ギルド職員。
ハンター。
荷物を運んでいる商人らしい人。
種族も仕事もばらばらな人たちが、同じ列へ並んでいた。
……確かに。
僕も最後尾へ向かう。
「兄ちゃんも朝から働いてたな」
「え?」
前に並んでいた男性から声を掛けられた。
港で荷物を運んでいた人だと思う。
「倉庫の辺りで見たぞ。若いのに感心だな」
「いえ、僕は運んでただけです」
「その運ぶ奴がいねえから大変なんだろ」
笑いながら腕を叩かれる。
「俺なんざ朝から壁に石積んで、腕がもう上がらねえよ」
「大丈夫なんですか?」
「飯食ったら復活する」
「そんなに簡単に?」
「するする。たぶんな」
……たぶんなんだ。
少し笑ってしまう。
列はどんどん進んだ。
女将さんの前まで来ると、木の皿におにぎりを二つ置かれる。
「ほら」
「ありがとうございます」
受け取ろうとする。
「で、代金」
「……え?」
手が止まった。
「代金だよ」
「取るんですか?」
「当たり前だろ!」
思わず女将さんを見る。
広場で炊き出しをしているから、てっきり無料なのかと思っていた。
「いや、だって……炊き出しですよね?」
「だからって米が空から降ってくるわけじゃないんだよ。ほら、払った払った!」
「……ちゃっかりしてるなぁ」
思わず苦笑する。
「聞こえてるよ!」
「すみません」
財布から硬貨を出す。
机の端には大きな木箱が置かれていて、代金はそこへ入れるらしい。
……結構入ってる。
「はい、毎度! 次!」
追い出されるように横へずれる。
近くの石段へ座ろうとしたところで、後ろから聞き覚えのない声がした。
「女将、それじゃほとんど材料代だけじゃねえか」
「うるさいねぇ! ちゃんと儲けてるよ!」
足が止まる。
振り返る。
米袋を運んできた商人らしい男性が、女将さんへ呆れた顔を向けていた。
「どこがだよ。米と塩だけでほぼ消えるだろ」
「薪代くらいは残るさ」
「それ儲けって言わねえぞ」
「いいんだよ! うちの宣伝にもなるんだから!」
「避難してる奴に宿の宣伝してどうすんだ」
「先の客だよ!」
「先っていつだよ」
「水禍渡りが終わってからに決まってるだろ!」
女将さんが笑う。
「終わったら、みんな腹減らして帰ってくるんだからね。その時にうちへ飯食いに来てもらわなきゃ困るんだよ!」
商人の男性が一瞬黙る。
それから。
「……あんたも大概だな」
「何がだい。商売人ってのは先を見てなんぼだよ」
次のおにぎりを握り始める。
僕はしばらく、その姿を見ていた。
……ほとんど原価。
だったら。
あれだけの量を朝から準備して。
ここでずっと作って。
代金までわざわざ取っているのは。
きっと。
ただ施される形にしたくないからなのかもしれない。
いつも通り。
食べたい人が金を払って。
女将さんが飯を出す。
こんな状況でも。
そういう形にしている。
「何ぼさっと突っ立ってんだい!」
「え?」
「冷めるだろ! さっさと食べな!」
「はい!」
慌てて石段へ座る。
おにぎりへ齧りつく。
塩が少し強い。
具は入っていない。
でも、朝から身体を動かし続けていたせいか、ものすごく美味しかった。
……みんな。
できることをしてる。
女将さんも。
職人も。
商人も。
さっきの子どもまで。
僕だけじゃない。
「……よし」
もう一口食べる。
なんだか。
さっきまでより、ずっと動ける気がした。
「ルキウス!」
女将さんの声が飛んでくる。
「はい!」
「食ったらもう一個持ってきな!」
「え、でも二個までですよね?」
「働きすぎの馬鹿は別枠だよ!」
「それ僕のことですか?」
「他に誰がいるんだい!」
周りから笑い声が上がった。
……否定できなかった。
◆
昼を過ぎてからは、避難の手伝いへ回された。
港に近い住宅地は朝よりずっと人が少なくなり、扉を閉めた家も増えている。
道にはギルド職員が立ち、残っている家を一軒ずつ確認していた。
「ルキウスさん、こちらをお願いします!」
「はい!」
呼ばれた家へ向かう。
入口には年配の獣人族夫婦がいて、二人の足元にはいくつもの荷物が並べられていた。
「……これ全部ですか?」
思わず聞く。
「必要なものだけよ?」
「お前、鍋三つも必要ねえだろ」
「いるわよ! 避難先で料理しなきゃいけないでしょう!」
「向こうで食事は出るって言ってただろ!」
「いつまでか分からないじゃない!」
夫婦喧嘩が始まった。
……どうしよう。
「兄ちゃん、悪いけどこの婆さん止めてくれ」
「何言ってるの! あんただって釣り竿持ってるじゃない!」
「これは必要だ!」
「何に使うのよ!」
「避難が長引いたら魚を――」
「高台のどこで釣るのよ!」
「……あの」
二人が同時にこっちを見る。
「とりあえず、今すぐ必要なものから持っていきませんか?」
言ってみる。
「残りは時間があれば、また取りに戻れますから」
「ほら! 兄ちゃんもそう言ってるぞ!」
「あなたの釣り竿も置いていくのよ!」
「それは別だろ!」
「別じゃない!」
……駄目だった。
結局、ギルド職員まで加わって荷物を減らすのにかなり時間が掛かった。
最終的に鍋は一つ。
釣り竿は一本だけ持っていくことで落ち着いたらしい。
「悪かったねぇ、兄ちゃん」
荷車を押しながら、お婆さんが僕へ声を掛ける。
「いえ」
「この人、頑固で」
「お前にだけは言われたくねえ」
また始まりそうになった。
「でも」
お婆さんが少しだけ声を落とす。
「本当に、戻れるんだろうねぇ」
足が僅かに止まった。
見ると。
さっきまで怒っていた顔が、今は自分たちの家へ向けられている。
小さな家だった。
窓辺には植木鉢が並び、扉の横には古い椅子が一つ置いてある。
「ここに住んで、長いんですか?」
「長いよ」
お爺さんが答える。
「俺たちが若い頃からだからな」
「もうずっとよ」
お婆さんが家を見る。
「子どももここで育てたし、孫もよく遊びに来るの」
……帰る場所。
さっきオルディアさんのところで聞いた昔の街が頭を過ぎった。
昨日まであった家が。
朝になったら何も残っていなかった。
「戻れますよ」
気づけば口にしていた。
夫婦がこちらを見る。
「……たぶん、じゃないですけど」
何を言ってるんだろう。
僕に保証なんてできない。
「みんな、そのために準備してますから」
防波壁を直している人。
倉庫街で木材を組んでいる人。
食事を作っている女将さん。
「だから」
一度だけ家を見る。
「帰れるように、できることをします」
お婆さんが目を丸くする。
それから、小さく笑った。
「そうかい」
お爺さんも鼻を鳴らす。
「じゃあ、頼んだぞ。兄ちゃん」
「はい」
……頼まれてしまった。
でも。
嫌じゃなかった。
「行きましょう」
荷車を押す。
二人の歩幅に合わせて、ゆっくりと高台へ向かった。
◆
避難所へ着く頃には、そこも朝とは比べものにならないくらい人が増えていた。
広い建物の中だけでは収まりきらず、庭や廊下にも椅子と毛布が並べられている。
教会の人たちは怪我人や身体の弱い人を優先して中へ案内し、行政の職員が家族ごとに名前を確認していた。
「次の方はこちらです!」
「荷物は壁際へ! 通路を塞がないでください!」
「お子さんとはぐれた方はいませんか!」
声が飛び交う。
その中を歩いていると、袖を小さく引かれた。
「……?」
振り向く。
小さな獣人族の女の子が立っていた。
灰色の耳を伏せ、僕の袖を指先で摘んでいる。
「どうしたの?」
「お母さん、知らない?」
「お母さん?」
周りを見る。
近くにそれらしい人はいない。
「一緒に来た?」
「うん。でも、いっぱい人いて……」
はぐれたらしい。
「名前は?」
「ミナ」
「お母さんの名前は?」
「リサ」
「分かった。じゃあ一緒に探そう」
目線を合わせるためにしゃがむ。
「それとも、ここで待ってる?」
「……やだ」
袖をもう少し強く掴まれた。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「うん」
立ち上がる。
手を出すと、小さな手が握ってきた。
受付をしている職員へ聞き、建物の反対側へ向かう。
人混みを抜ける間も、女の子はずっと僕の手を離さなかった。
「ミナ!」
少し先から声がした。
「お母さん!」
手が離れる。
女の子が走り出し、こちらへ駆けてきた女性の胸へ飛び込んだ。
「どこ行ってたの!」
「ごめんなさい……」
「もう、勝手に離れちゃ駄目だからね!」
抱き締める。
……よかった。
「ありがとうございます!」
母親がこちらへ頭を下げる。
「いえ。すぐ見つかったので」
「本当に、ありがとうございました」
もう一度頭を下げられた。
女の子も母親の腕の中から顔を出す。
「お兄ちゃん、ありがと」
「うん。もう離れないようにね」
「うん!」
手を振る。
僕も振り返し、その場を離れた。
……。
少しだけ。
胸の奥が重くなる。
あの子も。
さっきの夫婦も。
広場で飯を食べていた人も。
みんな。
ここで暮らしてるんだ。
当たり前のことなのに。
今日になって、いつもよりずっと強くそう思った。
◆
夕方が近づく頃、僕は再び港側へ戻っていた。
今度は高台へ続く道の手前――最後の防衛線へ運ぶ資材を積んだ荷車を押している。
午前中より身体は重い。
腕にも疲れが溜まっているけれど、昼に食べたおにぎりのおかげか、まだ足は動いていた。
「兄ちゃん、そこ置いてくれ!」
「はい!」
荷車を止める。
職人たちがすぐに木箱を下ろし始めた。
「これで今日何往復目だ?」
「分かりません」
「数えろよ」
「途中で分からなくなりました」
近くにいた男性が笑う。
「若いって怖えな」
「さっきも言われました」
「そりゃ言われる」
箱を受け取って運ぶ。
最後の防衛線は、第一や第二ほど形になっていなかった。
ここまで敵が来ること自体をできれば避けたい。
それでも石材や木材は次々と積まれ、教会へ続く道を守るための場所が少しずつ作られている。
……ここまで来たら。
この後ろには避難してきた人たちがいる。
さっきの女の子も。
あの夫婦も。
壁を作っている人たちも、それが分かっているんだと思う。
「そこ、もう少し高くできるか?」
「資材が足りねえ!」
「次が来る! 今ある分で先に固定しろ!」
「縄持ってこい!」
誰も手を止めない。
僕も空になった荷車を押し、もう一度港へ向かう。
――その途中。
倉庫街を抜けたところで、海が見えた。
「……」
朝より、さらに遠い。
水は防波壁の向こうへ大きく引き、濡れた岩と海底が夕日に照らされている。
普段なら船でしか近づけないような場所まで地面が露わになり、そのさらに先に細い海面が見えていた。
……どこまで引くんだろう。
荷車の取っ手を握ったまま、少しだけ足を止める。
その時。
――キィィィィイイン。
「っ……!」
耳の奥へ鋭い痛みが走った。
反射的に片手で耳を押さえる。
甲高い音が街の上を走り抜ける。
近くの窓が細かく震え、作業をしていた獣人族の人たちが一斉に耳を伏せた。
「まただ……!」
誰かが叫ぶ。
――キィィィィイイン。
もう一度。
今度はさっきより長く聞こえた。
音の出どころは分からない。
海から聞こえるようにも。
街のどこかから響いているようにも感じる。
……前にも聞いた。
ギルドの会議中。
港の異変が報告される直前に。
「海鳴りだ」
近くで、年配の男が呟いた。
「……海鳴り?」
思わず聞き返す。
「ああ」
男は遠くなった海を見たまま頷いた。
「港の連中は、あの音をそう呼び始めてる」
「あの音を?」
「海が引き始めてから何度か聞いた奴がいるらしい。どこから鳴ってるのか分からねえが……海の方で聞くと、本当に海そのものが鳴いてるみてえだろ」
もう一度、遠くなった海を見る。
――キィィィィイイン。
「っ……」
甲高い音が耳の奥へ突き刺さる。
反射的に耳を押さえながら、それでも海から目を逸らせなかった。
……海鳴り。
頭の中で、その言葉を繰り返す。
確かに。
そう言われてみれば、そんな風にも聞こえた。
海が鳴いている。
ずっと遠くへ引いてしまった海が、見えない場所から何かを訴えるように声を上げている……でも。
その考えが浮かんだ途端、背中を冷たいものが這った。
前にこの音を聞いたのは、ギルドの会議中だった。
あの直後に港から人が飛び込んできて、海がおかしいと報告した。
そして今日。
海は、あの時より遥かに遠くまで引いている。
――キィィィィイイン。
また響く。
音に合わせるように、フードの下で耳の奥が痛んだ。
近くでは獣人族の職人が耳を伏せ、荷物を運んでいた人たちまで手を止めて海を見ている。
……何かが、進んでる。
そう思った。
水禍渡りが本当に来るのかは、まだ分からない。
いつ来るのかだって分からない。
それでも。
昨日、水憑きが現れた。
今朝、海が引き始めた。
水路も、川も、海へ向かっている。
そして、この音。
偶然だと思えるものが、一つずつ減っていく。
荷車の取っ手を握る手に、自然と力が入った。
振り返る。
倉庫街では、まだ何人もの人が木材を運んでいる。
その向こう。
高台へ続く道の手前では、最後の防衛線もまだ作っている途中だ。
避難だって終わっていない。
あの夫婦も。
さっきの女の子も。
高台には、今日一日で避難してきた人たちが大勢いる。
女将さんは今も広場で飯を作っているかもしれない。
ガルドさんも。
アルナさんも。
ギルドの人たちも。
みんな。
まだ準備の途中なんだ。
……間に合う?
胸の奥が強く縮んだ。
朝からずっと動いてきた。
街中の人が、自分にできることをしている。
それでも。
海は待ってくれない。
「……」
取っ手を握り直す。
さっきまで感じていた疲れが、急にどうでもよくなった。
……急がないと。
何が来るのか分からない。
いつ来るのかも分からない。
……でも、このままじゃ駄目だ。
もっと運ばないと。
もっと作らないと。
一人でも多く、上へ逃がさないと。
そんな考えばかりが次々と浮かび、胸の奥で膨らんでいく。
「兄ちゃん?」
近くにいた男の声で顔を上げる。
「……すみません」
空になった荷車を引く。
「僕、戻ります」
歩き出す。
早く。
少しでも早く。
……間に合わせないと。
――キィィィィイイン。
背中から追いかけてくるように、海鳴りが響いた。
一瞬だけ足が止まりかける。
それでも振り返らず、荷車を押して走り出した。
……間に合って。
初めて、そう願った。
僕たちの準備が終わるまで。
どうか。
まだ――来ないでくれ。
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