駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
――海鳴りが響いた翌日も、エルドランの準備は止まらなかった。
むしろ昨日より人の動きは増えていて、港へ続く通りでは朝早くから資材を積んだ荷車が行き交い、高台へ向かう道には避難する住民の列が続いている。
第一防衛線となる防波壁では補修が進み、倉庫街に作られている第二防衛線も、昨日までは積まれているだけだった木材や鉄柵が少しずつ形になっていた。
さらにその後ろでは、最後の防衛線へ運ぶための資材が山のように積み上げられている。
……それでも。
街の空気は、昨日より重い気がした。
水禍渡りは、本当に来るのか。
もし来たら。
昔と同じことが起きたら。
……この街は、どうなってしまうのか。
誰も口にはしない。
作業の手を止める人だって、ほとんどいない。
けれど荷物を運ぶ人も、避難する人も、何かの拍子に海が見えるたび、ほんの一瞬だけそちらへ目を向けていた。
海はまだ遠い。
昨日よりさらに引いているようにも見える。
いつ戻ってくるのか。
それとも、このままなのか。
何も分からない。
……分からないということが、一番嫌だった。
「ルキウス! そっち押してくれ!」
「はい!」
呼ばれて荷車の後ろへ回り、両手を掛ける。
荷台には切り出された石材が積まれていて、前では二人の小人族が太い縄を肩へ掛けていた。
「行くぞ!」
「はい!」
腰を落として押す。
最初はびくともしなかった車輪が石畳の上で軋み、それでも前の二人に合わせて力を込めると少しずつ回り始めた。
「そのまま! あと少しだ!」
「分かりました!」
腕に力を込める。
昨日も似たようなことを何度もしたせいか、朝から身体は少し重かった。
寝たはずなのに疲れが抜けきっていない。
……でも、まだ動ける。
車輪が石畳の継ぎ目へ乗り上げたところでさらに押し込み、ようやく荷車が坂を越えた。
「よし! 止めろ!」
足を踏ん張る。
前の二人も縄を強く引き、荷車をその場へ止めることができた。
「助かった、兄ちゃん!」
「いえ」
荷車から手を離す。
掌を見ると、昨日から何度も擦れたところが少し赤くなっていた。
「また手伝ってんのか?」
荷台から石材を下ろしていた小人族の男性が、呆れたようにこちらを見る。
「はい」
「昨日も一日中いたろ」
「今日はまだ朝ですよ」
「そういう問題じゃねえんだよなぁ」
隣にいた職人まで笑い出す。
「この兄ちゃん、昨日何往復したんだ?」
「途中から分かんなくなったらしいぞ」
「怖えな、若いの」
……昨日も同じことを言われた気がする。
「お前も少し休めよ。まだ何日続くか分かんねえんだから」
「分かってます」
「その返事、昨日も聞いたぞ」
言われてしまった。
「……じゃあ、今日はちゃんと気をつけます」
「今日だけかよ」
また笑われる。
僕も苦笑しながら、次に運ぶ石材へ向かおうとした。
その時。
「――おい」
誰かの声がした。
大きな声じゃなかった。
それでも、周囲で作業をしていた人たちが一人、また一人と手を止めていく。
「……?」
僕も足を止める。
みんなが見ている方向へ顔を向けた。
街の外へ続く大通り。
その向こうから、一人の人影が歩いてきていた。
最初は誰なのか分からない。
距離があるうえ、朝の光が正面から差していて姿もはっきり見えなかった。
……でも。
黒い髪が見えた。
その背中には、見慣れた大剣。
歩くたび、その後ろで長い尾がゆっくりと揺れている。
見間違えるわけがなかった。
「……フレイヴィアさん?」
僕が名前を口にする。
ほとんど同時に。
「フレイヴィア様だ!」
少し離れた場所から声が上がった。
――街の空気が変わった。
「戻ったぞ!」
「竜姫様だ!」
「おい、フレイヴィア様が帰ってきた!」
声があっという間に広がっていく。
作業をしていた職人たちが顔を上げ、通りを行き交っていた人たちまで足を止めた。
避難の荷物を抱えていた女性が隣の人へ何かを話し、小さな子どもが親の袖を引きながら通りの先を指差している。
「これなら……」
「ああ。フレイヴィア様がいるなら……」
「もしかしたら、なんとかなるかもしれねえな」
近くから聞こえた言葉に、もう一度フレイヴィアさんを見る。
本人は周囲の声が聞こえているのかいないのか、いつもと変わらない顔で大通りを歩いていた。
道を空けた人たちへ時折小さく頷き、そのまま真っすぐこちらへ近づいてくる。
すごいな、と素直にそう思った。
昨日から……いや、水禍渡りの話が街へ広まってからずっと。
みんなの身体へ絡みついていた何かが、ほんの少しだけ薄くなったように見えた。
恐怖がなくなったわけじゃない。
海は今も引いている。
水禍渡りが来ないと決まったわけでもない。
……それでも、あの人が帰ってきた。
それだけで、もしかしたらなんとかなるかもしれない。
そんな顔をしている人が、周りに何人もいた。
僕は強い人としてのフレイヴィアさんを知っている。
ランク七のハンターで。
僕なんかとは比べものにならないくらい強くて。
どんな相手を前にしても、当たり前みたいに大剣を構える人。
……でも。
今、街の人たちが見ているのは、きっとそれだけじゃない。
フレイヴィアさんが帰ってきた。
それだけで、下を向きかけていた人たちが少しだけ顔を上げている。
……この人は。
この街にとって、希望みたいな存在なんだ。
「――主」
「え?」
聞き慣れた声に意識を戻す。
いつの間にか、黄金の瞳がこちらへ向いていた。
目が合う。
フレイヴィアさんの足が止まり、僅かに目が見開かれた。
――次の瞬間には、迷うことなくこちらへ歩いてくる。
「フレイヴィアさん」
「主」
僕の目の前まで来る。
黒い髪。
黄金色の瞳。
背中に負った大剣と、感情に合わせるように僅かに揺れる尾。
間違いなく、いつものフレイヴィアさんだった。
……帰ってきた。
そう思った途端、自分でも気づいていなかったところから力が抜けた。
「お帰りなさい」
「ああ」
短く返し、フレイヴィアさんが僕を上から下まで見回す。
「……なんですか?」
「いや。少し見ぬ間に、随分と顔つきが変わったと思ってな」
「顔、見えてないですよね?」
フレイヴィアさんが僅かに目を細める。
「そういう意味ではないわ」
「……最近みんなそれ言いますね」
フード越しでも僕の顔が分かる人が増えている気がする。
「それより、帰るの遅かったですね」
「ああ。それについては謝らねばならんな」
珍しくフレイヴィアさんが素直に頭を下げた。
「すまなかった、主。予定より随分と帰還が遅れた」
「えっ」
思わず一歩引く。
「な、なんで謝るんですか」
「余ももう少し早く片がつくと思っておったのだがな。思いのほか手こずった」
顔を上げたフレイヴィアさんへ、僕はすぐに視線を走らせる。
目立った怪我は見当たらない。
けれど鎧には細かな傷が増え、背負っている大剣にも以前はなかった擦れ跡が残っていた。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
即答されたけれど、念のためもう一度見る。
フレイヴィアさんが呆れたように息を吐いた。
「主。余を誰だと思っておる」
「フレイヴィアさんです」
「ならば問題あるまい」
「その理屈はよく分かりません」
でも、本当に怪我はなさそうだ。
それだけ確認できて、少しだけ安心した。
「戻る途中で街の異変について聞いた」
フレイヴィアさんの視線が僕から港の方角へ移る。
「水憑きが複数現れ、海までおかしな動きをしておるそうだな」
「はい」
「水禍渡り、と言ったか」
頷く。
「それも聞いたんですか?」
「最低限はな。街道ですれ違ったギルドの者から聞いた」
「捕まえたんですか?」
聞くと、フレイヴィアさんが当然のように頷いた。
「うむ」
「……普通に声を掛けました?」
「何を当然のことを聞いておる」
「よかった」
少し安心する。
「馬から降ろして聞いただけだ」
「全然よくなかった」
何をしたんだろう。
詳しく聞くのはやめておこう。
「事情を聞いてからは、そのまま急いで戻ってきた。道中で取るつもりだった休息も最低限にした」
「無理してるじゃないですか」
「この程度で無理とは言わん」
そう言い切るところは、やっぱりフレイヴィアさんだった。
「それで」
黄金の瞳がまた僕へ向く。
「主も随分と動き回っておるようだな」
「……それ、誰から聞いたんですか?」
「先ほどから、そなたの話を何度も聞いたぞ」
フレイヴィアさんが周囲へ軽く目を向ける。
「フードを被った若いハンターが、昨日から街中を走り回っておるとな」
「僕だけじゃないですよ。みんなやってます」
「であろうな」
あっさり頷かれた。
「だが、余が言っておるのはそこではない」
「?」
フレイヴィアさんが腕を組む。
「主。余が街を離れる前のそなたならば、今頃一人で海へ向かっていたのではないか?」
「……」
すぐには答えられなかった。
……否定しづらい。
「図星か」
「いや、その……」
言葉を探していると、フレイヴィアさんの口元が僅かに緩んだ。
「責めておるのではない。むしろ逆だ」
「逆?」
「ああ」
フレイヴィアさんが周囲を見渡す。
石材を運ぶ職人。
木材を担いで走るハンター。
避難する人たちへ道を教えているギルド職員。
そして、その中にいる僕。
「何が起きているのかも分からぬまま、一人で答えを探しに走るのではなく、今の自分にできることをしておる」
「……はい」
「一人で戦うことしか知らなかった主が、人と共に動いている」
黄金の瞳が僕へ戻る。
「成長したではないか」
「……」
真正面から褒められた。
……なんだろう。
ものすごく居心地が悪い。
「ありがとうございます」
頬を掻く。
「でも、昨日も一人で海の方へ行きそうになって止められましたけど」
「……主」
声が一段低くなった。
「はい?」
「今の言葉を返せ」
「えぇ……」
真顔だった。
「いや。でも、ちゃんと止まりました」
「止められたからであろう?」
「そうですけど」
フレイヴィアさんが額へ手を当てる。
「……まだまだだな」
「ちょっと前まで褒めてくれてたじゃないですか」
「評価を訂正しただけだ」
ひどい。
「まあよい。止める者の声を聞けるようになっただけでも進歩ではある」
「ありがとうございます」
「今度は余が止める」
その自信はどこから来るんだろう。
「できれば、その前に自分で止まれるようになります」
「期待はしておらん」
「ひどくないですか?」
思わず笑う。
フレイヴィアさんの口元も、ほんの僅かに緩んだ。
周囲では相変わらず槌を打つ音が続いている。
避難する人も。
資材を運ぶ人もいる。
水禍渡りの問題がなくなったわけじゃない。
それでも。
久しぶりにフレイヴィアさんとこうして話していると、昨日から胸の奥へ居座っていたものが少しだけ軽くなった気がした。
「……あ」
「なんだ?」
思い出した。
「あ、そうだ」
腰へ下げていた小袋へ手を伸ばす。
「フレイヴィアさん」
「うむ」
「これ」
包みを取り出して差し出す。
買った日から持ち歩いていたもの。
本当ならもっと早く渡すつもりだったのに、本人が帰ってこなかったせいで、ずっと機会を逃していた。
「……なんだ?」
「フレイヴィアさんに」
伸ばされかけた手が止まった。
「余に?」
「はい」
「主が、余に?」
黄金の瞳が僕の手元へ落ちる。
「そうです。受け取ってもらえます?」
「無論だ」
返事だけはものすごく早かった。
フレイヴィアさんが両手で包みを受け取る。
普段なら大剣を片手で振り回す人が、妙に慎重な指先で紐を解いていった。
「大したものじゃないですけど」
「主」
「はい?」
フレイヴィアさんは包みから目を上げない。
「今、話しかけるでない」
「……はい」
真剣だった。
そんなに集中するところなんだろうか。
包みがゆっくり開かれていく。
中から現れたのは、青緑色の石を嵌めた髪飾りだった。
派手なものではないけれど、陽の光を受けると石の奥で青と緑が混ざり、見る角度によって少しずつ色が変わる。
「……」
フレイヴィアさんの手が止まった。
「どうですか?」
「……」
返事がない。
……気に入らなかった?
「フレイヴィアさん?」
「主」
ようやく顔が上がった。
「これは、本当に余が貰ってよいのか?」
「そのために買ったんですから」
「……そうか」
表情はほとんど変わらない。
いつものフレイヴィアさんにしか見えない。
――その後ろで、尾が大きく左右へ揺れていた。
「……」
右。
左。
右。
……分かりやすい。
「何故笑っておる」
「笑ってません」
「笑っておる」
髪飾りを胸元へ大事そうに持ったまま睨まれる。
……でも、尾は止まらない。
「気のせいですよ」
「むぅ……」
納得していない顔だったけれど、すぐに髪飾りへ視線を戻した。
「……ふむ」
しばらく眺めたあと、フレイヴィアさんが頷く。
「つける」
「今ですか?」
「今だ」
即答だった。
「主。どこへつけるのがよいと思う」
「僕が決めるんですか?」
「主が選んだものだ。当然であろう」
……当然なのかな。
改めてフレイヴィアさんの髪を見る。
陽の下でも色を薄めない、艶のある黒髪。
風が吹くたび一房ずつ滑るように揺れ、黄金の瞳の横を流れて肩の向こうへ落ちている。
普段は背負った大剣や尾の方へ目が行くことが多く、髪をこんなにじっくり見ることなんてほとんどなかった。
「この辺り……ですかね」
自分のこめかみの少し上を指す。
「ここか?」
「もう少し下です」
「この辺り?」
「少し後ろ……いや、もうちょっと前かも」
何度か位置を変える。
そのたびにフレイヴィアさんの眉が僅かに寄っていった。
「主」
「はい」
「主がつけよ」
「……え?」
髪飾りを差し出される。
「その方が早い」
「いや、それは……」
反射的に周囲を見る。
作業をしている人がいる。
避難している人もいる。
しかも、さっきから何人かこっちを見ている気がする。
「何を気にしておる」
「気にしますよ」
「余は気にせぬ」
フレイヴィアさんは本当に何とも思っていないらしい。
「僕が気にするんです」
「早くせよ」
「……分かりました」
逃げられそうにない。
「じゃあ、少し屈んでもらえます?」
「うむ」
何の躊躇もなく身体を屈める。
「……」
近い。
思っていたより、ずっと。
目の前に黒い髪が落ちてくる。
陽を受けた表面だけが僅かに艶めき、風に揺れるたび細い光がその上を滑っていった。
遠くから見ている時には気づかなかったけれど、一房一房が綺麗に揃っていて、黒一色なのに光の当たり方で僅かに色まで違って見える。
「主?」
「い、今つけます」
髪飾りを右手へ持つ。
留める場所を作るため、左手でフレイヴィアさんの髪を少し持ち上げた。
――指先へ、黒髪が触れる。
「……っ」
柔らかい。
思っていたより、ずっと。
指の間をするりと滑り、一度持ち上げてもすぐ形を崩して落ちていく。
竜族だからという理由もよく分からないのに、勝手にもっと硬いものを想像していた。
……何を考えてるんだ、僕は。
もう一度髪を取る。
今度は少し丁寧に指へ掛ける。
さらさらしてる。
……いや、だから。
今は髪飾りをつけるだけだ。
「主。まだか?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
近い。
髪に触れている。
それだけじゃない。
この距離だと、いつもフード越しに見ている時よりフレイヴィアさんの顔までずっと近い。
本人は何とも思っていないらしく、僕が作業しやすいよう素直に頭を傾けている。
黒髪の隙間から耳の横が見え、その先には白い頬まである。
……駄目だ。
意識した途端、心臓が急にうるさくなった。
ドクン、と胸の奥が鳴る。
自分にしか聞こえないはずなのに、こんな距離だと気づかれそうな気がした。
「主?」
「動かないでください」
「動いておらぬぞ」
「じゃあ、そのままで」
できるだけ髪以外を見ない。
髪飾りの留め具を開き、まとめた髪へ当てる。
……違う。
一度外す。
「痛くないですか?」
「この程度で痛むものか」
「そうじゃなくて。髪、引っ張ってないかなって」
「問題ない」
もう一度やり直す。
指先へ滑らかな髪が触れるたび、余計なところへ意識が行きそうになる。
……これ、思ってたより難しい。
「主」
「はい?」
「耳が赤いぞ」
「……」
手が止まった。
「気のせいです」
「そうか?」
すぐに返した。
絶対に今こっちを見ないでほしい。
「そうです」
「ふむ」
……納得してない。
それでも追及はされなかった。
どうにか髪をまとめ、その間へ青緑色の髪飾りを留める。
「……できました」
すぐに一歩下がった。
距離が開いた途端、少しだけ呼吸が楽になった気がする。
「どうだ?」
フレイヴィアさんが身体を起こす。
黒髪の横で、青緑色の石が小さく光る。
深い黒の中へ色が差したことで思っていた以上に目立ち、それでいて黄金色の瞳とも不思議とよく合っていた。
「……似合ってますよ」
「そうか」
フレイヴィアさんが髪飾りへそっと指を添える。
「似合っておるか」
「はい」
「そうか」
もう一度言った。
――尾がさらに速く揺れ始める。
「……ふふ」
「主」
すぐに睨まれた。
「すみません」
「今笑ったな」
「ちょっとだけ」
フレイヴィアさんが僅かに眉を寄せる。
「何故だ」
「いや……すごく嬉しそうだなって」
尾が止まった。
「……」
黄金の瞳がこちらを見る。
……言わない方がよかったかも。
「嬉しいに決まっておろう」
「……え?」
今度は僕が止まった。
「主から物を貰ったのだぞ」
何を当然のことを、とでも言いたげな顔だった。
「嬉しくないわけがなかろう」
「……そうですか」
「ああ」
髪飾りへもう一度触れる。
「大事にする」
「はい」
さっき指に触れた黒髪の感触を思い出した。
……やめよう。
また心臓がうるさくなる。
「ただし」
フレイヴィアさんの目が細められる。
「これを壊した者は許さん」
「許さないくらいにしてくださいね」
「程度による」
「人を殺したら駄目ですよ」
フレイヴィアさんが真顔で首を傾げる。
「何故だ」
「髪飾り一つで人を殺さないでください」
「一つではない。主が余へ贈った髪飾りだ」
……そういう問題じゃない。
「余計に駄目です」
「ふふ」
今度はフレイヴィアさんが笑った。
「冗談だ」
「本当ですか?」
「半分はな」
「半分」
全然安心できない。
それでも。
僕も笑った。
ほんの少しだけ。
水禍渡りのことを忘れた。
昨日からずっと胸の奥へこびりついていた不安も。
遠くまで引いてしまった海も。
いつまた響くか分からない海鳴りも。
ほんの僅かな時間だけ。
いつもの日常へ戻れた気がした。
「おーい! そっち手ぇ空いてんなら来てくれ!」
遠くから声が飛んでくる。
「……」
「……」
二人でそちらを見る。
職人が両手を振りながら、積み上げられた資材を指差していた。
「余たちは手が空いているように見えるらしいぞ」
「実際、今は空いてますね」
「仕方あるまい」
フレイヴィアさんが身体を起こし、背中の大剣の位置を直す。
黒髪の横で、さっきつけたばかりの青緑色の石が朝の光を受けて小さく輝いた。
「主」
「はい」
「休憩は終わりだ」
「休憩だったんですか、今の?」
フレイヴィアさんが当然のように頷く。
「余がそう決めた」
「便利ですね、それ」
「主も使ってよいぞ」
「たぶん怒られるのでやめておきます」
アルナさん辺りに使ったら、間違いなく怒られる。
フレイヴィアさんの視線が港の方角へ移った。
そこには昨日までより遠くなった海と、その手前で急いで作られている防衛線がある。
「水禍渡りとやらが、どれほどのものなのかは余にも分からぬ」
黄金の瞳が僅かに細められる。
「だが、ここは余の知る街だ」
「……はい」
「そなたらが守ろうとしているのであれば、余も力を貸そう」
フレイヴィアさんが僕を見る。
「主も、まだ動けるのであろう?」
「もちろんです」
「よい返事だ」
満足そうに頷いた。
「ならば行くぞ」
「はい!」
二人で職人たちの方へ向かう。
「まず何をすればよい?」
「あそこに積んである木材を、第二防衛線まで運ぶみたいです」
「あれか」
「はい。結構重いので、何人かで――」
言い終わる前に。
――フレイヴィアさんが、木材の束をまとめて持ち上げた。
「……」
僕たちが何人も掛かって運んでいた量だった。
「これでよいか?」
「それですけど……一人で持つんですか?」
「余に何人いるように見える」
「一人です」
フレイヴィアさんが木材を肩へ担ぎ直す。
「ならば一人で持つしかあるまい」
「そういう意味ではないんですけど」
何でもないことみたいに歩き出す。
「ほら、主。何をしておる」
「いや……」
周囲を見る。
職人たちも口を開けていた。
「おおっ!」
誰かが声を上げる。
「流石フレイヴィア様だ!」
「おい、あっちの石材も頼めるんじゃねえか!?」
「これなら今日中にかなり進むぞ!」
声が次々と上がる。
そのうち、笑い声まで混じり始めた。
「何を騒いでおる。運べばよいのであろう?」
「頼もしすぎるんですよ、フレイヴィアさん」
「当然だ」
そのまま歩いていく。
昨日から、街には重たい不安が渦巻いていた。
何が来るのか。
本当に来るのか。
来た時、自分たちの街がどうなってしまうのか。
誰にも分からない。
……今だって。
何一つ解決していない。
海は引いたまま。
防衛線はまだ作りかけ。
避難だって終わっていない。
それでも。
黒い髪に僕が渡した髪飾りをつけた竜が、何人分もの木材を平然と抱えて歩いている。
その姿を見ながら、街の人たちが少しだけ笑っていた。
「主! 次はどれだ!」
「今行きます!」
僕もその後を追う。
さっきまで重かった身体が、不思議と少し軽く感じた。
水禍渡りが来るまで。
あとどれだけ時間が残っているのかは分からない。
……でも。
今は。
昨日より少しだけ。
間に合うかもしれないと思えた。
◆
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