駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第三章 第九話『少年は古い唄を聞く』

 

 ◆

 

 フレイヴィアさんが帰ってきてから、街の準備は目に見えて早く進んだ。

 もちろん、全部がフレイヴィアさん一人のおかげというわけじゃない。

 職人も。

 ハンターも。

 ギルドの人たちも。

 昨日からほとんど休まず動いている。

 それでも、僕たちが何人も掛かって運んでいた資材をまとめて担ぎ、防波壁へ必要な石材まで平然と運んでいくフレイヴィアさんが加わったことで、遅れていた場所が一気に追いついたのは間違いなかった。

 それに何より。

 あの人が街の中を歩いているだけで、周りの人たちの顔が少し違った。

 まだ怖い。

 海は戻ってこない。

 あれから海鳴りも何度か響いている。

 ……それでも、昨日みたいに誰もが海を見て黙り込んでしまうことは減っていた。

 

 ――そうして。

 水禍渡りに備えた準備を始めてから、二日目の夕方。

 

「ルキウスさん。ギルドマスターがお呼びです」

 

 第三防衛線へ木箱を運び終えたところで、ギルド職員の人に声を掛けられた。

 

「僕をですか?」

「はい。フレイヴィア様も一緒にとのことです」

「余もか?」

 

 すぐ隣で木材を地面へ下ろしていたフレイヴィアさんが顔を上げる。

 黒髪の横には、昨日渡した青緑色の髪飾りがついたままだった。

 ……本当にずっとつけてる。

 朝もつけていたし、重い資材を運んでいる間も外さなかった。

 

「防衛に参加するハンターの最終確認を行うそうです」

「分かった。すぐ行きます」

「うむ」

 

 職員の人が次の場所へ走っていく。

 僕も腰へ下げた水筒を一度確認し、ギルドへ向かおうとした。

 

「主」

「はい?」

 

 呼び止められる。

 フレイヴィアさんが僕の顔を見たあと、腰へ目を向けた。

 

「片刃剣は?」

「ありますよ」

 

 鞘へ手を置く。

 いつでも抜ける。

 

「予備の道具は」

「包帯と薬。それから砥石も持ってます」

「食料は?」

「少しだけ」

「水は」

「さっき補充しました」

 

 答えるたびにフレイヴィアさんが頷く。

 

「よし」

「……お母さんみたいですね」

「誰が母だ」

「確認することが」

「主が放っておくと何を忘れるか分からぬからであろう」

「そんなに忘れませんよ」

 

 ……たぶん。

 

 少し間が空く。

 フレイヴィアさんの目が細くなった。

 

「今、考えたな?」

「行きましょうか」

「誤魔化すでない」

 

 背中から追ってくる声を聞きながら、少しだけ歩く速度を上げた。

 

 ◆

 

 ギルドへ入ると、昨日までとは違う意味で騒がしかった。

 依頼を受けに来るハンターはいない。

 受付の前には各防衛線へ運ぶ物資が並べられ、壁際では武器や防具の最終確認が行われている。

 何人もの職員が紙を抱えて走り回り、名前を呼ばれたハンターが返事をしては外へ出ていった。

 

「ルキウスさん!」

 

 人の間から、アルナさんがこちらへ向かってくる。

 昨日からほとんど休めていないのか、少しだけ目元に疲れが見えた。

 

「アルナさん。まだ受付にいたんですか?」

「受付というより、今日は全部です」

 

 両腕に抱えた紙を持ち直す。

 耳も忙しそうにあちこちへ向いていた。

 

「避難状況の確認、負傷者用の空き部屋、物資の振り分け、防衛参加者の登録……やることが多すぎます」

「休んでます?」

「ルキウスさんにだけは言われたくありません」

 

 ……正論だ。

 

「避難はどれくらい終わったんですか?」

「港側の区域はほとんど終わっています。今はその次の区域と、まだ家を離れたくないと言っている方たちへの説得を続けています」

 

 アルナさんの表情が少しだけ曇る。

 

「全部終わるまでには、もう少し時間が必要です」

「……そうですか」

「だから」

 

 アルナさんの耳が僅かに伏せられる。

 

「まだ来ないでほしいですね」

 

「……はい」

 

 僕も同じだった。

 昨日、海鳴りを聞いた時から何度も思っている。

 

 間に合ってほしい。

 

 防衛線も。

 避難も。

 治療の準備も。

 

 全部。

 

「会議室ですよね?」

「はい。二階です。ガルドさんたちはもう入っています」

「分かりました」

 

 横を通り過ぎようとする。

 

「ルキウスさん」

 

 また呼び止められた。

 

「なんですか?」

 

 アルナさんは少しだけ迷ってから、僕の腰にある片刃剣へ視線を落とした。

 

「……無茶はしないでください」

「はい」

「本当に」

「分かってます」

 

 答える。

 でも、アルナさんはまだこちらを見ていた。

 

 ……信用されてない。

 

「ちゃんと周りの人の話も聞きます」

「……それなら、少しだけ安心します」

 

 ようやく耳が少し持ち上がる。

 

「帰ってきてくださいね」

「はい」

 

 今度はちゃんと答えて、階段へ向かった。

 

 ◆

 

 会議室には、前に集められた時より多くの人がいた。

 中央の大きな机にはエルドランの地図が広げられ、その周りをギルドマスターやガルドさん、各防衛線の責任者らしいハンターたちが囲んでいる。

 壁際にも何人か立っていて、その中には教会の人や、港で何度か見掛けた職人の姿もあった。

 机の上の地図には、港から高台まで三本の線が引かれている。

 

「来たか」

 

 ギルドマスターがこちらを見る。

 

「はい」

「うむ」

 

 僕とフレイヴィアさんが空いている場所へ入る。

 ガルドさんが軽く手を上げたので、その近くへ立った。

 

「全員揃ったな」

 

 ギルドマスターが室内を見回す。

 さっきまで小さく交わされていた会話が止まり、視線が一斉に地図へ集まった。

 

「まず、避難状況からだ」

 

 担当者らしい女性が紙を開く。

 

「港湾区画の住民避難は九割以上終了しています。残りは自力での移動が困難な者と、避難拒否者への対応中。倉庫街から中央区画についても順次避難を開始しています」

「高台側の受け入れは?」

「まだ余裕があります。オルディア様の施設、教会、学校、各商会の倉庫を開放していただいています」

「食料は」

「最低限ですが数日分を確保済みです」

 

 質問へ次々と答えが返る。

 ギルドマスターは一度だけ頷き、今度は地図へ手を置いた。

 

「防衛について再確認する」

 

 指先が一番海に近い線へ移る。

 

「第一防衛線。港の防波壁だ」

 

 昨日も何度も資材を運んだ場所。

 オルディアさんから聞いた、遠い昔の人間が残した案を元に作られた壁。

 

「現在、破損箇所の補強はほぼ終了。射撃台も使えるものは全て使用する。投射器については三基が復旧した」

 

 小人族の職人が腕を組む。

 

「完全じゃねえぞ。ずっと使ってなかった代物だ。途中で止まっても文句言うなよ」

「動くだけありがたい」

「ならいい」

 

 ギルドマスターが次の線へ指を移す。

 

「第一が突破された場合、第二へ後退する。倉庫街だ。石造りの建物と狭い通路を利用して進路を限定する」

 

 地図を見る。

 昨日、僕たちが木材や鉄柵を運んでいた場所だった。

 

「撤退の合図は鐘を三度。聞いたら第一線は戦闘を続けず、すぐに後退しろ」

「壁に残って時間を稼ぐ奴は?」

 

 誰かが聞く。

 ギルドマスターが顔を上げた。

 

「いない」

 

 迷いのない返事だった。

 

「一人も残すな。防衛線はハンターを捨てるために作ったんじゃない」

「……了解」

 

「第二も同じだ。持たないと判断すれば第三へ下がる」

 

 指が最後の線へ移る。

 

「ここを抜かれれば、その先には避難区域がある」

 

 室内が少しだけ静かになった。

 

 僕も地図を見る。

 

 ……あの後ろに。

 

 昨日会った人たちがいる。

 

 老夫婦も。

 避難所で母親とはぐれていた女の子も。

 それ以外にも、今日までに何人もの人が高台へ上がっていった。

 

「勘違いするな」

 

 ギルドマスターの声で顔を上げる。

 

「俺たちの目的は、水禍渡りに勝つことじゃない」

 

 地図の上へ拳を置く。

 

「住民を逃がす時間を作ることだ」

 

 誰も口を挟まない。

 

「昔何があったのかは聞いた。この街がどうなったのかもな。だが、今の俺たちには防波壁がある。防衛線も作った。避難先も用意した」

 

 一度、室内を見回す。

 

「それでも足りないかもしれん」

 

 その言葉だけは、はっきり言った。

 

「だが、足りないかもしれないから何もしない、では一人も助からん」

 

 ……そうだ。

 

 オルディアさんの話を聞いた時。

 僕も似たようなことを考えた。

 

 昔できなかったから。

 今もできないとは限らない。

 

「俺たちは時間を買う」

 

 ギルドマスターが続ける。

 

「一分でも。一秒でも長くな」

 

 部屋の空気が少し変わる。

 

「配置を伝える」

 

 名前が順番に呼ばれていった。

 どの防衛線の。

 どの場所へ。

 誰が入るのか。

 

「ルキウス」

 

「はい」

 

 返事をする。

 

「第一防衛線中央。近接隊だ。現場指揮はバルガスに従え」

「分かりました」

 

 知らない名前だった。

 少し離れた場所にいた大柄な獣人族の男性がこちらを見る。

 

「お前か。よろしくな」

「はい。お願いします」

 

 小さく頭を下げる。

 

「ガルド」

 

「おう」

 

「同じく第一。中央から北寄り」

「了解」

 

 ……近い。

 

 少しだけ安心した。

 

「フレイヴィア殿」

 

「うむ」

 

「第一防衛線南側をお願いしたい。大型が出た場合は、状況に応じてそちらの判断で動いていただいて構わない」

 

 フレイヴィアさんが地図を見る。

 

「主とは別か」

「配置上はな」

 

 一瞬。

 黄金の瞳が僕へ向いた。

 

 ……なんだろう。

 

「不満か?」

「いや」

 

 フレイヴィアさんが首を横へ振る。

 

「主ももう、余が常に横へ立たねば何もできぬほど幼くはない」

 

「……」

 

 なんか。

 

 嬉しいような。

 寂しいような。

 

「ただし」

 

 フレイヴィアさんが僕を見る。

 

「死ぬなよ、主」

「はい」

「余の許可なく勝手に死ぬことは許さん」

「死ぬのに許可制なんですか?」

 

 周囲から小さく笑いが漏れた。

 フレイヴィアさんは気にせず腕を組む。

 

「当然だ」

「じゃあ許可しないでください」

「無論だ」

 

 ……これなら死ねないな。

 

 ほんの少しだけ。

 張り詰めていた室内の空気が緩んだ。

 

「話はまだ終わってねえぞ」

 

 ギルドマスターが呆れたように言う。

 すぐにみんなの顔が地図へ戻った。

 

 その時。

 

「じゃあ、僕からも一ついいかな」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

「……?」

 

 振り返る。

 

 いつからいたのか分からなかった。

 壁際。

 他の人の少し後ろに、深い藍色の外套を着たメルシアさんが立っている。

 

「メルシアさん?」

 

「やあ」

 

 軽く手を上げる。

 

「いつからいたんですか?」

「結構前から」

「普通に入ってきてくださいよ」

「普通に入ってきたよ?」

 

 ……本当かな。

 

 フレイヴィアさんがメルシアさんを見る。

 

「誰だ、そなたは」

「メルシア。ただの旅人だよ。今はね」

「ふむ」

 

 黄金の瞳が細められる。

 ……絶対、怪しんでる。

 

「旅人が何の用だ」

 

 ギルドマスターが尋ねる。

 

「水禍渡りについて、少し」

 

 その言葉で。

 緩みかけていた空気が、また変わった。

 

「何か分かったのか?」

「分かった、というほどじゃないかな」

 

 メルシアさんが壁から背を離し、地図の近くまで歩いてくる。

 

「でも、昔から残ってるものを一つ見つけた」

 

「記録か?」

「唄」

 

 ……唄?

 

 何人かが顔を見合わせる。

 

「港の古い集落を回ってた時に聞いたんだ。今じゃ意味も分からず歌ってる人の方が多いみたいだけどね」

 

 メルシアさんが机へ片手を置く。

 

「水禍渡りについて歌ったものらしい」

 

「聞かせてくれ」

 

 ギルドマスターが言う。

 メルシアさんは一度だけ頷いた。

 

 それから。

 

 小さく息を吸う。

 

「とおりゃんせ。とおりゃんせ。

 水のひく道、とおりゃんせ。

 井戸の底から、母が呼ぶ。

 川の子どもは、海へ行く。

 戻るな、戻るな、振り向くな。

 名を呼ぶ声に、答えるな。

 一つの波は、門を叩き。

 二つの波は、灯をさらい。

 三つの波は、街を呑む。

 朝を見たけりゃ、丘へ行け」

 

 ……。

 

 唄が終わる。

 

 誰もすぐには口を開かなかった。

 

 子どもでも覚えられそうな。

 単純な唄だった。

 

 なのに。

 

 オルディアさんから聞いた話を知っているせいか、一つ一つの言葉が妙に重く感じる。

 

 水のひく道。

 井戸。

 川。

 海。

 

 ……全部。

 

 今、この街で起きてる。

 

「一つ、二つ、三つ……か」

 

 誰かが呟く。

 

「波が三回来るってことか?」

 

「さあ」

 

 メルシアさんはあっさり肩を竦めた。

 

「そこまでは分からないよ」

「唄にそうあるだろ」

「昔の唄なんて、事実そのままとは限らない」

 

 メルシアさんが指を一本立てる。

 

「数が意味を持ってるのかもしれない。単に繰り返しやすいから三つなのかもしれない。そもそも途中で歌詞が変わってる可能性だってある」

 

 ……確かに。

 

 これだけで三回何かが来ると決めるのは危ない。

 

「ただ」

 

 メルシアさんの声が少しだけ低くなる。

 

「最後だけは、かなり分かりやすいと思うけどね」

 

「朝を見たけりゃ、丘へ行け……」

 

 ギルドマスターが繰り返す。

 

「逃げろってことか」

「たぶん」

 

 メルシアさんが頷く。

 

「昔の人たちは知ってたんじゃないかな。水禍渡りが来たら、何をするべきなのか」

 

「防衛ではなく避難」

 

「そう」

 

 地図へ向けられていた目が、ゆっくり上がる。

 

「水禍渡りに対策なんかするものじゃない」

 

 室内が静かになる。

 

「逃げなきゃ死ぬ。それだけだ」

 

 軽い声だった。

 

 でも。

 冗談には聞こえなかった。

 

「なら」

 

 ギルドマスターが口を開く。

 

「俺たちがやろうとしていることも間違っちゃいない」

 

 メルシアさんが僅かに眉を上げる。

 

「逃げる時間を作るために戦う」

「……なるほど」

 

 少しだけ笑った。

 

「意外と頑固なんだね」

「そりゃどうも」

 

 ギルドマスターが地図へ視線を戻す。

 

「他にあるか?」

「今のところはそれだけ」

「十分だ。助かる」

 

 メルシアさんが一歩下がる。

 

「ただし」

 

 もう一度口を開いた。

 

「逃げる時は、本当に逃げた方がいいよ」

 

 今度は誰も笑わなかった。

 

「戦ってれば何とかなる、とか。あと少しなら持つ、とか。そういう判断が一番危ない」

 

 赤紫色の瞳が僕たちを順番に見る。

 

「昔の人たちは、たぶんそれで死んだ」

 

 ……オルディアさんの話が蘇る。

 

 水が引いたあと。

 家族を探しに戻った人。

 もう大丈夫だと思って下へ降りた人。

 

 そして。

 

 また海が来た。

 

「分かった」

 

 ギルドマスターが頷く。

 

「撤退の鐘は徹底する。一度鳴ったら、誰であろうと残らせない」

「それがいい」

 

 メルシアさんもそれ以上は言わなかった。

 

 ◆

 

 会議が終わると、全員がそれぞれの準備へ散っていった。

 僕も外へ出る。

 空はもう赤くなり始めていた。

 港へ続く通りでは、最後の資材を運ぶ荷車が何台も走っている。

 

「ルキウス」

 

「はい」

 

 後ろからガルドさんが追いついてくる。

 

「配置聞いたな」

「第一の中央です」

「俺も近くにはいる。だが、戦闘が始まったらお前の面倒まで見てられねえぞ」

 

 歩きながら言われる。

 

「分かってます」

「本当に分かってるか?」

「……たぶん」

「たぶんじゃねえ」

 

 頭を軽く小突かれた。

 

「痛いです」

「痛くしてんだよ」

 

 少し笑われる。

 

「いいか。あの時みたいに、一人で目についた奴全部追っかけんな」

「はい」

「目の前の相手だけ見て、横から食われるな」

「はい」

「味方の声を聞け」

 

 そこでガルドさんが足を止めた。

 僕も止まる。

 

「ソロじゃねえんだからな」

 

「……はい」

 

 今度はしっかり頷く。

 

「よし」

 

 ガルドさんが僕の肩を一度叩いた。

 

「んじゃ、あとでな」

「はい」

 

 北寄りの防衛線へ向かって歩いていく。

 

 ……あとで。

 

 その言葉が妙に残った。

 

 またあとで。

 

 当たり前みたいに。

 戦いが終わってから会うための言葉。

 

 僕も。

 

 そうしないと。

 

「主」

 

 今度はフレイヴィアさんだった。

 

「フレイヴィアさん」

「余も行く」

 

 南側へ続く道を見る。

 

「はい」

「……主」

 

 少しだけ間があった。

 

「なんですか?」

「いや」

 

 フレイヴィアさんが僕を見る。

 黒い髪の横で、青緑色の石が夕日を受けて淡く光っている。

 

「先ほども言ったが」

 

 大剣の肩紐を直す。

 

「死ぬなよ」

「フレイヴィアさんも」

「誰に言っておる」

「だから、そういうところですよ」

 

 僕が笑うと。

 フレイヴィアさんもほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「ではな、主」

「はい。またあとで」

 

 尾が一度だけ揺れる。

 

「ああ。またあとでだ」

 

 そのまま南へ歩いていく。

 僕は少しだけ後ろ姿を見送ったあと、自分の持ち場へ向かった。

 

 ◆

 

 第一防衛線へ着いた頃には、日がほとんど沈みかけていた。

 防波壁の上にはハンターたちが並び、職人たちが最後の点検を続けている。

 投射器の周りでは小人族が何人も工具を持って走り回り、矢や石の入った箱が壁沿いへ積まれていた。

 

「ルキウスだな」

 

「はい」

 

 さっき会議室で顔を合わせた大柄な獣人族の男性が近づいてくる。

 

「バルガスだ。中央近接を預かる」

「よろしくお願いします」

「堅苦しいのはいらん。俺の声だけ聞き逃すな」

 

 犬とも狼とも違う大きな耳が一度動く。

 

「前へ出ろと言ったら出ろ。下がれと言ったら下がれ。それだけだ」

「分かりました」

「あと鐘三つで撤退だ」

「はい」

 

 バルガスさんが満足そうに頷く。

 

「なら持ち場につけ」

 

 指定された場所へ向かう。

 防波壁の縁。

 そこから海を見る。

 

「……」

 

 遠い。

 

 何度見ても慣れない。

 普段ならすぐ下まで水があるはずなのに、今は遥か向こうまで濡れた岩と海底が続いている。

 夕日も沈みかけているせいで、その先は暗くてよく見えなかった。

 

 ……何もいない。

 

 少なくとも。

 

 今は。

 

 片刃剣の柄へ手を置く。

 

 周囲でも武器を確認する音が聞こえていた。

 誰も喋らない。

 少し前まで聞こえていた職人たちの声も、点検が終わるにつれて減っていく。

 

 ――カチャ。

 

 隣のハンターが剣を一度抜き、すぐ鞘へ戻す。

 

 ――ギィ。

 

 投射器の角度を調整する音。

 

 ――カツ。

 

 誰かの靴が石壁を叩く。

 

 それ以外。

 

 ほとんど何も聞こえない。

 

 ……静かだ。

 

 あれだけ慌ただしかった街が。

 

 今は。

 

 何かを待っているみたいに静かだった。

 

「……」

 

 息を吐く。

 

 怖い。

 

 それは、ちゃんと分かる。

 

 何が来るのか。

 どれくらい来るのか。

 

 そもそも。

 

 本当に来るのか。

 

 ……いや。

 

 来ないなら。

 

 それが一番いい。

 

 今日も何も起きなくて。

 明日になって。

 海が戻って。

 

 全部ただの取り越し苦労だったと笑えるなら。

 

 その方がいい。

 

「兄ちゃん」

 

 隣から声を掛けられた。

 見ると、僕より少し年上くらいの獣人族のハンターがいた。

 

「はい?」

「手、震えてるぞ」

 

「……え」

 

 柄を握っている手を見る。

 

 少し。

 

 本当に。

 

 震えていた。

 

「すみません」

「謝るなよ」

 

 その人が笑う。

 

「俺もだ」

 

 見せられた手も、ほんの僅かに震えていた。

 

「怖いですよね」

「当たり前だろ」

 

 肩を竦める。

 

「昔の街を丸ごと持ってった災害だぞ。怖くねえ奴の方がどうかしてる」

 

 ……そっか。

 

「でも」

 

 男が後ろを見る。

 

 僕も振り返る。

 

 防波壁の向こう。

 倉庫街。

 そのさらに向こうには、いつも見ているエルドランの街並みが続いている。

 角兎亭も。

 ギルドも。

 教会も。

 

 そのずっと先の高台には。

 

 避難している人たちがいる。

 

「逃げる時間くらいは作らねえとな」

 

「……はい」

 

 そうだ。

 ここで全部止めなくてもいい。

 僕たちがいる理由は。

 時間を作ること。

 少しだけ手の震えが止まった。

 その時。

 

 

 

 ――キィィィィィィイイン。

 

 

 

「っ!」

 

 耳の奥へ鋭い痛みが走った。

 反射的に顔を顰める。

 

 ――海鳴り。

 

 防波壁の上にいた獣人族たちが一斉に耳を伏せる。

 投射器の横に積まれた金属部品が細かく震え、壁の内側に置かれた水桶の表面へ無数の波紋が広がっていった。

 

「海鳴り……!」

 

 誰かが呟く。

 ――キィィィィィィイイン。

 もう一度。

 今までより。

 長い。

 強い。

 

「……」

 

 海を見る。

 

 暗い。

 何も見えない。

 

 でも。

 

 身体の奥が勝手に強張った。

 

 ……何か。

 

 来る。

 

 そう思った。

 

「全員、構えろ!」

 

 バルガスさんの声が飛ぶ。

 

 ――一斉に武器が抜かれる。

 

 僕も片刃剣を抜き、防波壁の縁へ寄った。

 目を凝らす。

 

 暗い海底。

 

 岩。

 

 泥。

 

 その向こう。

 

「……?」

 

 何か。

 

 動いた。

 

 一つ。

 

 いや。

 

 違う。

 

 もっと。

 

「……あれ」

 

 隣の人も気づいた。

 

 黒い点が。

 

 増えていく。

 

 海の向こうから。

 

 こちらへ。

 

 走ってくる。

 

「……来る」

 

 誰かが呟く。

 

 その直後。

 

「き、きたぞぉぉぉぉおおおおおおお!」

 

 焦った声が、防波壁の上を走った。

 

 そして。

 

「水禍渡りだ!」

 

 悲鳴にも近い声が響いた。

 

 ――その場にいた全員が跳ねるように動き出す。

 

 投射器へ。

 射撃台へ。

 壁の縁へ。

 それぞれが決められた持ち場へ駆けていく。

 

 僕も片刃剣を握り直した。

 

 ――水禍渡りが。

 

 エルドランへ、来た。

 

 ◆

 




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