駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
「来るぞ! 前を見ろ!」
バルガスさんの声が防波壁の上を走り、僕は片刃剣を抜いたまま壁の縁へ寄って、暗くなり始めた海底へ目を凝らした。
さっきまで黒い点にしか見えなかったものが、もう形を判別できるところまで近づいている。
泥を蹴りながら走る牙鼠。
濡れた鱗を地面へ擦りつけるように進む鱗蜥蜴。
その間には、潮入り岩礁地帯で戦ったガルグ獣らしい大きな影まで混じっていた。
遠くでは身体が重なって正確な数までは分からない。
……けれど、僕がこれまで一度に相手をした数なんかとは比べものにならない。
「投射器、まだ撃つな! もっと引きつけろ!」
防波壁の上から怒鳴り声が飛ぶ。
少し離れた場所では古い投射器がギィ、と軋みながら角度を変え、その周りを小人族の職人たちが最後まで走り回っている。
「……マジで来やがったな」
「はい」
隣にいた獣人族のハンターが剣を握り直し、大きな耳を後ろへ伏せた。
その手が僅かに震えていることには、たぶん本人も気づいている。
……僕も同じだ。
片刃剣を握る手へ余計な力が入っている。
怖い。
さっきまでなら、その先まで考えていた。
この数を止められるのか。
防波壁は持つのか。
もし抜かれたら街はどうなるのか。
けれど、向こうが近づいてくるにつれて、そんなことを考えている余裕が少しずつなくなっていった。
今どこにいる。
次にどこへ来る。
自分の刃が届くのはどこか。
……今は、それだけでいい。
「構えろ!」
バルガスさんの声が響く。
ほとんど同時に、壁の下から幾つもの咆哮が重なった。
「撃てッ!」
轟音と一緒に投射器の腕が跳ねる。
大きな石塊が僕たちの頭上を越え、引いた海底へ落ちた。
――地面が揺れる。
正面を走っていた牙鼠が何体も巻き込まれ、飛び散った泥の向こうで後続の群れまで足を乱した。
「弓隊! 続けろ!」
今度は矢が飛ぶ。
一本や二本じゃない。
防波壁の上から一斉に放たれた矢が海底へ降り注ぎ、水憑きたちの身体へ次々と突き刺さっていく。
倒れるものもいる。
脚を止めるものもいる。
……でも。
その後ろから、また来る。
「止まらない……」
思わず漏れた声を飲み込み、片刃剣を構え直す。
倒れた仲間を踏み越え、一体の牙鼠が壁の真下まで辿り着いた。
鋭い爪が石壁の隙間へ食い込み、そのまま身体を持ち上げてくる。
続けてもう一体。
さらにその横から、鱗蜥蜴が長い身体を壁へ這わせ始めた。
「近接! 仕事だ!」
「はい!」
壁の縁へ掛かった前脚へ片刃剣を振り下ろす。
――牙鼠が頭を振り上げ、その勢いのまま爪を伸ばしてきたため、僕は半歩だけ身体を引いた。
爪先が胸元を掠める。
……避けられる。
けれど、それだけでは次へ繋がらない。
そう思ったところで右から槍が突き出され、牙鼠の肩を押し止めた。
「今だ!」
「はい!」
止まった首元へ片刃剣を振り抜く。
刃を通して硬い感触が返り、牙鼠の身体から力が抜けた。
そのまま槍を持ったハンターと一緒に押し出すと、死骸が壁の外へ落ちていく。
「次、正面!」
声に反応して視線を戻す。
今度は鱗蜥蜴が頭を出していた。
開いた顎へ刃を合わせようとしたところで、尾が壁の縁を叩く。
「っ!」
身体を引く。
目の前を尾が抜け、その直後に鱗蜥蜴の顎がもう一度開いた。
……今。
半歩踏み込み、顎の横から首の下へ刃を滑らせる。
硬い鱗の隙間へ刃先が入り、黒ずんだ水が傷口から溢れた。
身体から力の抜けた鱗蜥蜴が石壁を滑り、そのまま外へ落ちていく。
残った水だけが壁の表面を伝い、海の方へ流れていた。
……やっぱり、全部同じだ。
「ルキウス!」
「っ!」
名前を呼ばれて顔を上げる。
縁の少し右から、別の牙鼠が身体を乗り上げようとしていた。
咄嗟に片刃剣を上げる。
振り下ろされた爪を刃で受けると、腕へ一気に重さが掛かった。
「くっ……!」
靴底が石の上を滑る。
身体ごと押し込まれそうになったところで、隣にいたハンターが牙鼠の脇腹へ剣を突き込んだ。
「一人で受けんな!」
「すみません!」
牙鼠の力が僅かに緩む。
その隙に刃を外し、身体を横へずらしてから喉へ突き込んだ。
獣の身体が大きく痙攣する。
「押すぞ!」
「はい!」
二人で身体を押し返す。
牙鼠が壁の縁を越え、そのまま海底へ落ちた。
「謝ってる暇あったら次見ろ!」
「分かりました!」
正面へ戻る。
……ソロじゃない。
ガルドさんにも何度も言われた。
全部を一人で何とかしようとするな。
目の前だけを追いかけるな。
周りの声を聞け。
壁の上には僕以外にも何人もいる。
槍。
剣。
弓。
投射器。
それぞれが違うことをしながら、同じ場所を守っている。
「中央、右寄り! 大型来るぞ!」
バルガスさんの声に、すぐ視線を向ける。
牙鼠の群れを押し退けるように、大きな影が近づいてきていた。
ガルグ獣。
この前戦った個体より、少し大きく見える。
「投射器は!?」
「次弾まだだ!」
「なら槍で止めろ! 壁へ何度も当てさせるな!」
縁へ何本もの槍が並ぶ。
ガルグ獣は速度を落とさない。
……ぶつかる。
反射的に足を開いた。
――ドンッ!
「っ……!」
壁全体が大きく揺れた。
石の継ぎ目から細かな砂が落ち、近くにいた何人かが身体をよろめかせる。
僕も片膝をつきそうになり、空いている手を壁へついてどうにか堪えた。
「もう一回来るぞ!」
下を見る。
ガルグ獣が頭を振りながら壁から離れ、数歩だけ後ろへ下がっている。
頭を低くする。
……また。
「槍、前!」
何人ものハンターが一斉に槍を構える。
ガルグ獣が地面を蹴った。
「今だ!」
壁の上から槍が突き出される。
何本かは外れたけれど、二本が肩へ、もう一本が首の近くへ食い込んだ。
それでもガルグ獣は止まらない。
――もう一度、壁が揺れた。
「うわっ!」
隣のハンターが尻餅をつく。
僕も片刃剣を握ったまま膝を曲げ、揺れが収まるのを待った。
「効いてねえぞ!」
「いや、効いてる!」
声に下を見る。
ガルグ獣の動きがさっきより鈍い。
突き刺さった槍の周りから黒い水が流れ、脚元の泥へ落ちていた。
「投射器、次弾準備!」
「壁際から退け!」
声が重なる。
僕も縁から数歩離れた。
――轟音。
石塊が頭上を越え、そのまま壁の下へ落ちる。
直後。
ガルグ獣の背中へ直撃した。
「……!」
衝撃に地面が揺れ、泥が壁の高さまで跳ね上がる。
少し待ってから縁へ戻ると、ガルグ獣は横倒しになっていた。
脚はまだ動いている。
……今なら。
そう思ってしまった。
「下りるなよ!」
バルガスさんの怒声が飛ぶ。
「っ……」
縁へ掛けかけた足が止まった。
……危ない。
倒しきれると思った。
下りれば、すぐにトドメを刺せるかもしれないって。
「ルキウス!」
今度は少し離れたところからガルドさんの声が届く。
人の間に隠れて姿まではほとんど見えない。
「聞こえてんのか!」
「聞こえてます!」
「なら持ち場離れんな!」
「はい!」
完全に読まれてる。
片刃剣を構え直し、倒れたガルグ獣から視線を外す。
下りない。
追わない。
次に壁へ来る相手を見る。
◆
そこからどれくらい戦っていたのかは分からない。
空はいつの間にか暗くなり、壁の内側と射撃台には松明が灯されていた。
腕は重く。
息も荒い。
柄を握る手には汗が滲み、何度か握り直さないと指が滑りそうになる。
……まだ動ける。
「左!」
声に反応して身体を向ける。
縁を越えた鱗蜥蜴が壁の上へ飛び込んできた。
前脚を踏み込み、首へ片刃剣を振る。
――弾かれる。
鱗へ当たった。
その反動で腕が外へ流れ、鱗蜥蜴の顎がすぐ目の前で開いた。
「っ!」
身体を横へずらす。
牙が左腕のすぐ横を通り抜ける。
振り抜いた片刃剣をそのまま返し、今度は首の下へ刃先を差し込んだ。
……入った。
「押せ!」
「はい!」
隣から肩をぶつけるようにハンターが加わる。
二人で鱗蜥蜴の身体を壁際まで押し、そのまま蹴り出した。
「まだ来るぞ!」
息を整える暇もなく正面へ戻る。
……でも。
最初より少ない?
遠くの海底にはまだ影が動いている。
けれど、壁へ辿り着く数は少しずつ減っていた。
投射器も矢も撃ち続けている。
壁の下には、倒れた水憑きの身体までいくつも重なっていた。
「押してるぞ!」
誰かが声を上げる。
「気を抜くな!」
すぐにバルガスさんの怒声が返った。
僕も片刃剣を握り直す。
……そうだ。
まだ終わってない。
その時。
「お母さん……!」
背後から声がした。
「……?」
反射的に振り返る。
戦っている人の声じゃない。
高い。
小さな子どもの声だった。
「お母さん……どこ……」
防波壁の内側。
倉庫街へ続く通りの途中に、小さな女の子が立っていた。
「……え?」
一瞬、目の前の光景が理解できなかった。
どうして。
どうして、こんなところに。
避難は港側から優先して進めていたはずだ。
昨日の時点でも、ほとんどの人が高台へ移っていた。
なのに。
女の子はそこにいた。
大きな瞳いっぱいに涙を溜め、胸には布で作られた兎の人形を強く抱き締めている。
「おい! なんで子どもがいる!」
近くのハンターも気づいた。
「避難班は!?」
「分からねえ!」
女の子はこちらを見ても動かない。
怖くて身体が固まっているのか、泣きながら周囲へ視線を動かすだけだった。
……まずい。
この辺りまで戦闘が広がっているわけじゃない。
でも、防波壁の端や港の水路まで全部を完全に塞げているわけでもない。
女の子から少し離れた倉庫の陰。
――濡れた前脚が出た。
「……っ!」
牙鼠。
どこから入った?
壁の端。
港の水路。
それとも別の隙間。
そんなことは今どうでもいい。
牙鼠が女の子へ顔を向けた。
「バルガスさん!」
叫ぶ。
「行け!」
返事を聞いた瞬間には走り出していた。
階段へ向かう。
一段ずつ下りている暇がなく、途中から何段か飛ばすように駆け下りた。
着地した時に膝へ痛みが走る。
……間に合え。
「動かないで!」
女の子へ叫ぶ。
涙で濡れた顔がこちらを向いた。
牙鼠も動く。
低く身体を沈めた。
「っ……!」
駄目だ。
間に合わない。
だったら。
女の子と牙鼠の間へ滑り込む。
「伏せて!」
身体を捻る。
女の子を片腕で抱えるようにして、自分の背中側へ隠した。
――直後。
「ぐっ……!」
背中へ強い衝撃が走った。
続いて、肩の下から脇腹へ鋭い熱が抜ける。
息が止まる。
爪。
……やられた。
身体が前へ押される。
それでも倒れないよう足を踏ん張り、女の子だけは巻き込まないよう腕の中へ抱え込んだ。
「きゃっ……!」
「大丈夫」
声が少し掠れた。
背中が熱い。
痛みはある。
……でも。
腕は動く。
脚も動く。
女の子を一歩後ろへ押し、自分だけ振り返る。
牙鼠が前脚を引いた。
背中から何かが流れる感覚がある。
……血。
でも、今は見せるな。
目の前には女の子がいる。
片刃剣を持ち直す。
牙鼠が低く唸り、もう一度こちらへ踏み込んできた。
前脚が上がる。
……見える。
振り下ろされる前に一歩踏み込んだ。
身体を外へずらしながら牙鼠の懐へ入り、その勢いのまま片刃剣を顎の下へ突き込む。
「っ……!」
硬い感触を越えて、刃が入る。
そのまま押す。
牙鼠の身体が震え、持ち上がっていた前脚から力が抜けた。
刃を引き抜く。
まだ倒れない。
だったら。
踏み込み直して首筋へ横薙ぎに振る。
――刃が抜ける。
牙鼠の身体が傾き、そのまま地面へ崩れ落ちた。
「……っ」
一度息を吐く。
背中の傷が呼吸に合わせて痛んだ。
……大丈夫。
まだ立てる。
振り返る。
女の子はさっきと同じ場所にいた。
大きな目いっぱいに涙を溜め、胸へ抱いた人形を潰してしまいそうなくらい強く抱き締めている。
「……お、お兄ちゃん」
その視線が僕の身体へ向かう前に、少しだけ立つ位置を変えた。
背中を見せない。
幸い、外套の色も濃い。
……笑え。
怖がらせるな。
できるだけ、いつも通りに。
「お、お兄ちゃん、ご、ごめ、ごめんなさ」
今にも泣きだしてしまいそうな少女の頭に手をおいて笑って声を掛ける。
ちゃんと笑えているかは分からない。
それでも女の子は少しだけ瞬きをした。
「僕は大丈夫」
続きまで言わせる前に答え、目線を合わせるためにしゃがむ。
背中が引っ張られて痛んだけれど、顔には出さない。
「君は? どこか痛い?」
「……ない」
涙を拭いながら、小さく首を横へ振る。
手。
脚。
顔。
見える範囲に血はない。
……よかった。
「どうしてここにいたの?」
責めないように聞く。
女の子は胸元へ抱いていた人形を、さらに強く抱き締めた。
「これ……忘れて……」
「その人形?」
「うん……おうちに置いてきちゃって……」
そこでまた涙が溢れる。
「取りに戻ったの?」
「……うん」
なるほど。
避難の途中で気づいて、一人で戻ってしまった。
それで家から出た頃には、周りに誰もいなくなっていたんだと思う。
……危なかった。
本当に。
あと少し遅かったら。
そこから先は考えない。
「そっか」
できるだけ優しく返す。
「大事な人形なんだね」
「……うん」
女の子が小さく頷く。
「でも、ここはもう危ない」
背後ではまだ武器がぶつかる音がしている。
壁の向こうからはモンスターの声も聞こえる。
「向こうに、腕章をつけた人たちがいるの見える?」
倉庫街の奥を指す。
避難確認をしているギルド職員が何人かいて、そのうち一人がこちらに気づいて走ってきていた。
「……うん」
「あそこまで走れる?」
女の子は少し迷ってから頷いた。
「じゃあ、行って」
「でも……」
僕を見る。
「お兄ちゃんは?」
背中の傷がまた痛む。
それでも、笑ったまま片刃剣を軽く上げて見せた。
「僕は大丈夫」
もう一度。
「ここで、みんなを守る仕事があるから」
女の子の目が僕を見る。
その奥にまだ不安が残っている。
「だから、君は早くあっちへ行って。お母さんもきっと探してる」
「……うん」
ようやく一歩動いた。
それから二歩。
途中まで走ったところで、女の子が振り返る。
「お兄ちゃん!」
「なに?」
「……ありがとう!」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも大きな声だった。
「うん」
空いた手を上げる。
「気をつけて」
今度こそ女の子が走り出す。
こちらへ向かっていたギルド職員が途中でその手を取り、そのまま倉庫街の奥へ連れていった。
姿が見えなくなるまで待つ。
「……っ」
そこで初めて、壁へ片手をついた。
痛い。
さっきよりはっきり分かる。
傷は浅くない。
けれど。
……まだ動ける。
「ルキウス!」
声に顔を上げる。
北側からガルドさんが走ってきていた。
「お前、何やって――」
途中まで言って、その顔が変わる。
僕の背中へ視線が止まった。
「……おい。血出てんじゃねえか」
「大丈夫です」
「その量で言う台詞じゃねえだろ」
ガルドさんが僕の後ろへ回ろうとするので、身体を少し向ける。
「見せろ」
「まだ戦ってます」
「だからって、そのまま戻る気か?」
返事をする前に、防波壁の上から怒鳴り声が落ちてきた。
「中央! 人が足りねえ! 戻れる奴は戻れ!」
僕もガルドさんも顔を上げる。
壁の縁では、また牙鼠の頭が見えていた。
……戻らないと。
「行けます」
「ルキウス」
「本当に動けます」
ガルドさんを見る。
傷がないとは言わない。
痛くないとも言わない。
「無理になったら下がります」
数秒。
ガルドさんの耳が後ろへ倒れた。
「……絶対だぞ」
「はい」
「腕が上がらなくなったら終わり。脚が鈍っても終わり。分かったな」
「分かりました」
ようやく頷かれる。
「戻るぞ」
「はい」
二人で階段へ向かう。
「それと」
「なんですか?」
ガルドさんが走りながら僕を見る。
「子どもに笑って誤魔化すのはいい」
「……見てたんですか」
「でも俺にはやんな」
少しだけ言葉に詰まる。
「……はい」
「よし」
それだけ言って、ガルドさんが先に階段を上がっていった。
僕も背中の痛みを堪えながら、その後を追った。
◆
防波壁へ戻ると、さっきまでより敵の密度が薄くなっているのが分かった。
完全にいなくなったわけじゃない。
壁へ取りつく牙鼠も。
上まで這い上がってくる鱗蜥蜴もいる。
けれど、最初みたいに途切れないわけではなかった。
「ルキウス! 戻ったなら左見ろ!」
「はい!」
バルガスさんの声に身体を向ける。
ちょうど牙鼠が縁へ前脚を掛けたところだった。
片刃剣を構える。
背中が痛む。
……さっきまでと同じ動きはできない。
なら。
一人で全部やろうとしなければいい。
「槍、借ります!」
「おう!」
隣の槍使いが意図を察したのか、一歩前へ出る。
牙鼠が壁の上へ身体を引き上げたところで、その槍が肩へ突き刺さった。
――動きが止まる。
僕は一歩だけ踏み込み、空いた首元へ片刃剣を振り抜いた。
「次、正面!」
身体を戻す。
鱗蜥蜴が顎を開いている。
自分で受けない。
横から飛んできた矢が目元へ刺さり、鱗蜥蜴の頭が僅かに逸れた。
……今。
その隙だけ使う。
壁の縁へ寄り、首の下へ片刃剣を差し込んだ。
「押すぞ!」
「はい!」
隣のハンターと一緒に身体を押し出す。
鱗蜥蜴が外へ落ちる。
……こうすればいい。
全部、自分でやらなくていい。
槍が止める。
矢が逸らす。
僕が斬る。
逆に僕が止めれば、誰かが倒してくれる。
背中の痛みがあるせいで。
今までより、それがよく分かった。
「右!」
声に反応する。
牙鼠の爪が縁を掴んだ。
片刃剣を振る前に、隣から剣が前脚を斬る。
「首頼む!」
「はい!」
体勢を崩した牙鼠へ刃を落とす。
倒れる。
次を見る。
……いない。
「……?」
構えたまま海底へ目を凝らす。
壁のすぐ下には倒れた水憑きがいくつもいる。
その向こう。
まだ動く影はある。
けれど。
こっちへ来ていない。
「……止まった?」
隣のハンターが呟く。
「構えたまま待て!」
バルガスさんの声が飛ぶ。
誰も武器を下ろさない。
僕も片刃剣を握ったまま待つ。
海底を見る。
一秒。
二秒。
……来ない。
さっきまで、倒しても倒しても壁へ押し寄せていたのに。
新しい牙鼠が見えない。
鱗蜥蜴も。
ガルグ獣も。
「弓隊、そのまま警戒!」
返事が上がる。
壁の上に残ったのは、荒い呼吸と武器を握り直す音だけだった。
「南側、どうだ!」
バルガスさんが声を張る。
少し遅れて。
「敵影、途切れてる! 新しい個体は見えない!」
返事が届く。
「北!」
「こっちもだ! 近づいてくる奴はいない!」
その声を聞いても、誰もすぐには喜ばなかった。
僕も海底から目を離せない。
……本当に?
終わった?
それとも。
どこかにまだいる?
分からない。
だから待つ。
片刃剣を構えたまま。
背中の傷がじわじわ痛む。
腕も重い。
喉も乾いている。
それでも。
何かが動いたら、すぐに反応できるように。
「……」
時間が過ぎる。
来ない。
さらに待つ。
それでも。
来ない。
「……警戒継続」
バルガスさんがようやく口を開く。
「ただし、負傷者は下げろ。交代できるところから交代に入れ」
その声を聞いて。
近くにいたハンターの一人が、長く息を吐いた。
「……終わったのか?」
「分からねえよ」
別の人が答える。
「でも……もう来てねえ」
誰かがその場へ座り込む。
剣を持ったまま壁へ背中を預ける人もいた。
歓声は上がらなかった。
勝った、と叫ぶ人もいない。
ただ。
今まで止めていた息を、みんなが少しずつ吐き出していくようだった。
僕も片刃剣を下ろす。
「……っ」
肩が下がったことで、背中の傷が急に存在を主張した。
痛い。
戦っている間は考えないようにしていたのに。
今になって、爪が通った場所から脇腹まで一気に熱が広がった。
「ルキウス」
横から低い声がする。
見なくても分かった。
「……はい」
「医療班」
「でも、まだ警戒が――」
ガルドさんが僕の背中へ目を向ける。
「医療班」
「……はい」
二回言われた。
これはもう、何を言っても駄目だ。
片刃剣についた汚れを簡単に拭い、鞘へ戻す。
その前に。
もう一度だけ、海の方を見た。
暗くなった海底。
倒れたモンスターたち。
傷口から流れた水だけが、泥の上を細く伝って遠くの海へ向かっている。
その向こうに、新しくこちらへ走ってくる影はない。
……終わったのかな。
本当に。
これで全部なら。
明日になって。
海が戻って。
避難しているみんなが家へ帰れるなら。
……それがいい。
心からそう思った。
「ほら、行くぞ」
「はい」
ガルドさんに促され、防波壁の階段へ向かう。
まだ警戒を続ける人たちの横を通り、ゆっくりと壁を下りていった。
背中は痛い。
身体も重い。
それでも。
あの女の子が無事に避難できたことを思い出すと、少しだけ足取りが軽くなった。
……終わったなら。
本当に。
それでいいんだ。
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