駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
防波壁を下りても、街の空気はまだ戦いの中に残っていた。
負傷者を乗せた担架が行き交い、空になった矢箱や壊れた武器が次々と運び出されている。
壁の上では交代したハンターたちが海底を監視し続け、その横を小人族の職人たちが走り回って、壊れた射撃台や投射器の状態を確認していた。
襲ってきた水憑きは、もう防波壁へ向かってこない。
少なくとも今は。
その事実だけを考えれば、僕たちはひとまず防ぎ切ったことになる。
……なのに。
防波壁から離れる前、僕は何度も海の方を振り返った。
戻っていない。
あれだけのモンスターが襲ってきて。
それが全部止まったのに。
遥か向こうまで引いた海は、まだそのままだった。
濡れた海底だけがどこまでも広がり、その先にあるはずの水面は暗くなったせいでほとんど見えない。
……どうして?
水禍渡りが終わったなら。
海だって戻ってきてもいいんじゃないだろうか。
「ルキウス」
「……はい」
前を歩いていたガルドさんが振り返る。
「また海見てただろ」
「海が戻ってないなって」
「俺も見えてる」
ガルドさんも一度だけ防波壁の向こうへ目を向けた。
さっきまでより声が低い。
「嫌な感じはするな」
「ですよね」
「ああ。だが、今のお前が海睨んでても水は戻らねえ」
すぐにこちらへ視線が戻る。
「まず怪我だ」
「……はい」
言われた通り歩き出す。
背中を動かすたび、肩の下から脇腹へかけて熱い痛みが走った。
……戦ってる時より痛い。
気が抜けたせいだろうか。
さっきまではほとんど気にならなかったのに、一度意識してしまうと歩くだけでも傷が引っ張られる。
「顔しかめんな」
「見えてないですよね?」
「動きで分かる」
「……最近そればっかり言われます」
ガルドさんが鼻で笑う。
「分かりやすいんだよ、お前は」
「そうですかね」
「戦ってる時以外はな」
少し引っ掛かったけれど、聞き返す前に仮設の治療所へ着いた。
◆
防波壁から少し離れた広場には、大きな布を張った治療所が作られていた。
教会から運び込まれた寝台がいくつも並び、白い服を着た治療師たちが負傷者の間を忙しなく行き来している。
腕へ包帯を巻かれている人。
脚を固定され、そのまま横になっている人。
僕より酷い怪我をしている人はいくらでもいた。
「こいつ、背中やられてる」
ガルドさんが近くにいた治療師へ声を掛ける。
「爪ですか?」
「牙鼠です」
「傷を見せてください」
言われたところで。
「その方は、私が診ます」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
「セラフィーンさん」
人の間から、白い翼を僅かに畳んだセラフィーンさんがこちらへ歩いてきた。
いつもの教会で会う時とは違い、袖を少し捲り、腰には治療道具を入れた小さな鞄を下げている。
髪にも僅かに乱れがあって、ここへ来てからずっと治療を続けていることが分かった。
「ガルドさん。こちらへ」
「頼む」
それだけ言うと、ガルドさんは僕を見る。
「俺は戻る」
「もうですか?」
「中央の様子見てくる。治療終わるまで勝手に戻ってくんなよ」
「分かってます」
「本当だな?」
じっと見られる。
「……たぶん」
「おい」
「冗談です」
すぐに言い直す。
ガルドさんはまだ何か言いたそうだったけれど、セラフィーンさんへ目を向けてから諦めたらしい。
「頼んだ」
「はい」
ガルドさんが治療所を出ていく。
その後ろ姿を見送っていると。
「では、ルキウスさん」
セラフィーンさんが笑顔で寝台を指した。
「脱いでください」
「……え」
「上だけですよ?」
「分かってます」
なんで補足されたんだろう。
◆
外套と上着を脱ぎ、寝台へ座る。
身体を捻って傷を確認することはできないけれど、セラフィーンさんの顔を見る限り、思っていたより酷いのかもしれない。
傷へ触れられた瞬間、背中に鋭い痛みが走った。
「っ……」
「痛みますか?」
「少し」
「少し、ですか」
背後から呆れたような声がする。
「傷はかなり深いですよ」
「でも、動けます」
「動けるかどうかで怪我の程度を決めないでください」
……怒られた。
「すみません」
「謝ってほしいわけではありません」
セラフィーンさんの手が傷の近くへ添えられる。
淡い光が広がり、さっきまで熱を持っていた場所が少しずつ冷えていった。
「牙鼠に?」
「はい」
「防波壁でですか?」
「いえ」
少し迷う。
「避難が遅れていた子がいて」
「……子どもが?」
手が僅かに止まった。
「人形を取りに戻ったみたいで。一人で港の方まで来てしまって」
「それで庇ったんですね」
「……はい」
答えると、背後から小さなため息が聞こえた。
「ルキウスさんらしいと言えば、ルキウスさんらしいですけれど」
「ちゃんと助けられましたよ」
「そういう問題ではありません」
即答だった。
「女の子は無事でした」
「ルキウスさんは無事ではありません」
「でも、このくらいなら――」
「アルナさん」
「……はい?」
急に名前が出た。
振り返ろうとすると傷が痛み、途中で止める。
「今のルキウスさんをアルナさんに見せたら、どうなるでしょうね」
「……」
想像する。
血の染みた服。
爪で裂かれた背中。
それから。
たぶん。
『ルキウスさん!!』
耳をぺたりと倒しながら怒るアルナさんが、簡単に浮かんだ。
「……大変ですね」
「でしょう?」
セラフィーンさんの声に笑いが混じる。
「こんなところ、アルナさんにでも見られたら大変ですね」
「確かに」
僕も苦笑する。
「ものすごく怒られそうです」
「怒るだけならいいですけど」
「泣かれますかね」
「それはルキウスさん次第では?」
……それは困る。
アルナさんには何度も心配を掛けている。
今回も出る前に帰ってきてくださいと言われた。
「ですから」
セラフィーンさんの声が少しだけ変わった。
さっきまでの冗談めいた響きが消える。
「帰ってきてくださいね、ルキウスさん」
「……」
傷に触れていた手はそのまま。
でも。
何故か、その言葉だけがはっきり胸へ入ってきた。
「アルナさんのためにも」
一度、間が空く。
「もちろん、私のためにも」
「……はい」
返事をする。
「帰ってきます」
セラフィーンさんはそれ以上何も言わなかった。
ただ、背中に触れていた手から流れ込む光が少しだけ強くなった。
◆
治療が終わる頃には、背中の痛みはかなり引いていた。
傷そのものが完全に消えたわけではないらしく、無理に身体を捻ると少し引っ張られる。
それでも片刃剣を振れないほどじゃない。
「本当ならもう少し休んでほしいんですけど」
「警戒は続いてますから」
「分かっています」
上着を着直す僕を、セラフィーンさんが少し困ったように見ていた。
「だから止めません」
「ありがとうございます」
「その代わり」
人差し指を立てられる。
「傷が開いたらすぐ戻ってくること」
「はい」
「無理をしないこと」
「はい」
「一人で走っていかないこと」
「……はい」
少し返事が遅れた。
「今の間は何ですか?」
「何でもありません」
「ルキウスさん」
「気をつけます」
先に言っておく。
セラフィーンさんはまだ少し疑っているようだったけれど、最後には仕方なさそうに笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
治療所を出る。
外はもうかなり暗くなっていた。
通りのところどころに松明が灯され、防波壁へ向かう人と、高台へ物資を運ぶ人がまだ行き交っている。
襲撃が止まったことで、少しだけ空気は緩んでいた。
荷物を運びながら笑っている人もいる。
道端へ座り込み、水を飲んでいる職人もいた。
……でも。
誰も完全には帰ろうとしていない。
海が戻っていないから。
僕だけじゃない。
みんな。
どこかで同じことを気にしているんだと思う。
「な、なぁおい」
声を掛けられた。
「……?」
足を止める。
近くの建物の軒下にいた男が、こちらへ歩いてきていた。
ハンターじゃない。
作業着を着た獣人族の男性で、胸元には避難者へ配られているらしい札が下がっている。
「お前、ハンターだろ?」
「はい」
答える。
男が一歩近づく。
「さっきまで壁にいたのか?」
「いました」
「じゃあ……」
声が小さくなる。
「街は、どうなっている」
「……」
「大丈夫なのか?」
答えようとする。
でも。
言葉が出なかった。
大丈夫。
そう言えばいいのかもしれない。
襲ってきたモンスターは止めた。
防波壁も残っている。
住民の避難だって進んでいる。
でも。
海は戻っていない。
水禍渡りが終わったのかも分からない。
「……」
男の後ろを見る。
いつの間にか、何人もの人がこちらを見ていた。
荷物を抱えた女性。
子どもを連れた獣人族。
年老いた小人族の男性。
みんな。
同じ目をしている。
……怖いんだ。
この人たちも。
「なぁ」
男がもう一度聞く。
「大丈夫なんだよな?」
「それは……」
喉が詰まる。
僕には分からない。
大丈夫だって言って。
もし。
このあと何か起きたら?
防波壁が壊れたら。
街が。
オルディアさんから聞いた昔みたいになったら。
僕が言った言葉は。
嘘になる。
「……すみません」
それしか言えなかった。
男の顔から何かが落ちる。
「分からないんです」
言葉にするたび、周りの空気が重くなっていく気がした。
「今は襲ってきていません。でも、海はまだ戻ってなくて……だから、これで終わりなのかも僕には――」
「ルキウス」
後ろから声がした。
「……ガルドさん」
振り返る。
ガルドさんがこちらへ歩いてくる。
「治療は?」
「終わりました」
「ならいい」
僕の横まで来る。
それから、目の前の男と、その後ろにいる住民たちを見た。
「街が大丈夫かって聞かれてました」
「そうか」
「でも、僕……」
どう答えればいいか分からない。
そのまま言おうとしたところで、ガルドさんが僕の肩へ手を置いた。
「分からなくていい」
「……え?」
「お前が全部分かってる必要なんざねえよ」
ガルドさんが住民たちを見る。
「俺らにも分からん」
あっさり言った。
男の顔が強張る。
でも、ガルドさんは続ける。
「水禍渡りが終わったのか。海がいつ戻るのか。このあと何が起きるのか。んなもん知ってる奴がいるなら、俺が今すぐ教えてほしいくらいだ」
「じゃ、じゃあ……」
「だが」
男の声を止める。
「俺らはまだここにいる」
ガルドさんが親指で背後を指した。
防波壁。
その上には、今も武器を持ったハンターたちが並んでいる。
壊れた設備の横では、職人たちが修理を続けている。
「壁も残ってる」
「……」
「ハンターも残ってる。職人も。ギルドも。教会もな」
住民たちの視線が、防波壁の方へ向く。
「何か来たら、俺らがまた止める」
「でも……勝てるのか?」
別の誰かが聞いた。
ガルドさんは少しだけ眉を上げた。
「保証が欲しいなら、俺にはやれねえ」
正直な答えだった。
「ただ」
一度だけ僕を見る。
「何か起きる前から諦めるつもりもねえ」
胸の奥へ、言葉が落ちる。
……そうか。
僕は。
大丈夫だと答えようとしていた。
何も起きない。
絶対に守れる。
そういう答えを求められているんだと思っていた。
でも。
そんなこと。
誰にも分からない。
「だから今は、上で待ってろ」
ガルドさんが男へ言う。
「逃げろって言われたら逃げろ。待てって言われたら待て。俺らは俺らで、やることやるからよ」
男はしばらくガルドさんを見ていた。
「……分かった」
小さく頷く。
「頼む」
「ああ」
ガルドさんが短く返す。
住民たちが少しずつ離れていく。
不安が消えたわけじゃない。
さっきと同じように、何度も海の方を振り返っている。
それでも。
ほんの少しだけ。
表情が違って見えた。
「……すみません」
僕が言うと、ガルドさんがこちらを見る。
「何がだ」
「何も言えなくて」
「だから、お前が全部答える必要ねえって言ってんだろ」
頭を軽く叩かれた。
「痛いです」
「治療してもらったばっかだろ。頭は無傷だ」
「そういう問題じゃないですよ」
ガルドさんが笑う。
「お前は真面目に考えすぎるんだよ」
「……でも」
「大丈夫じゃねえかもしれない時に、大丈夫だなんて言えねえんだろ?」
図星だった。
「はい」
「なら言うな」
あっさり言われる。
「その代わり」
肩を一度強く叩かれる。
「自分がやれることだけは、嘘つくな」
「……やれること」
「ああ」
それだけ言うと、ガルドさんは防波壁の方へ顎を向けた。
「戻るぞ」
「はい」
並んで歩き出す。
◆
高台へ続く道と防波壁へ向かう道が分かれるところまで来た時だった。
「お兄ちゃん!」
声が聞こえた。
「……?」
振り返る。
道の脇。
避難する人たちの中から、小さな女の子が走ってきた。
「あ」
すぐに分かった。
さっき助けた子だ。
胸には、あの布で作られた兎の人形が抱かれている。
今度は一人じゃない。
少し後ろから母親らしい女性が慌てて追いかけてきていた。
「こら! 勝手に行っちゃ――」
「大丈夫です」
僕が言うと、女性がこちらを見た。
「あ……あなたが」
どうやら聞いているらしい。
深く頭を下げられそうになり、慌てて手を振る。
「大丈夫ですから」
「でも、娘を助けていただいて……」
「本当に、怪我もなかったので」
女の子を見る。
さっきまで泣いていた顔は少し落ち着いていた。
「お母さん、見つかったんだね」
「うん!」
人形を抱いたまま、大きく頷く。
「よかった」
それだけで。
本当に安心した。
「お兄ちゃん」
「ん?」
女の子が僕を見る。
「大丈夫?」
「……え?」
思っていなかった言葉だった。
「お兄ちゃん、けがしてたから」
背中へ意識が向く。
「大丈夫だよ」
今度は、すぐに答えられた。
「治してもらったから」
「ほんと?」
「うん」
しゃがんで目線を合わせる。
女の子が僕をじっと見る。
それから。
「おうちも……大丈夫?」
今度は。
すぐには答えられなかった。
「おうち?」
「うん」
人形を胸へ抱き締める。
「帰れる?」
……。
さっきの男と同じだった。
大丈夫なのか。
街は。
家は。
戻れるのか。
僕には分からない。
でも。
今度は。
何を言えばいいのかが、少しだけ分かった。
「……絶対とは、言えない」
女の子の目が僅かに揺れる。
「ごめんね」
でも。
そこで終わらない。
「僕たちも、まだ分からないんだ」
ちゃんと顔を見る。
「でも」
片刃剣の柄へ手を置く。
「君たちが帰れるように、僕たちはここにいる」
女の子が瞬きをする。
「お兄ちゃんも?」
「うん」
頷く。
「僕も」
それから。
少し考える。
「だから」
人形を抱いている小さな頭へ手を伸ばした。
ゆっくり撫でる。
「君は、お母さんと一緒に待ってて」
「……うん」
「帰れるように、僕も頑張るから」
絶対に大丈夫とは言えない。
でも。
これは嘘じゃない。
僕がやれること。
僕がこれからやること。
それだけなら。
ちゃんと言える。
「お兄ちゃんも帰ってくる?」
「……」
今度は僕のことだった。
セラフィーンさんの言葉が蘇る。
『だから帰ってきてくださいね、ルキウスさん』
アルナさんにも言われた。
ガルドさんにも。
そして、フレイヴィアさんにも。
「うん」
頷く。
「僕も帰ってくる」
女の子の顔が、ようやく少しだけ明るくなった。
「約束?」
「約束」
小さな手が差し出される。
少し迷ってから、小指を出していることに気づいた。
僕も同じように指を出すと、女の子の小さな指が絡んでくる。
「これでいい?」
「うん!」
満足そうに頷く。
「じゃあ、お母さんのところに戻って」
「うん!」
手が離れる。
女の子は胸に人形を抱え直し、母親のところへ駆けていった。
今度は途中で振り返らない。
母親の手をしっかり握って、高台へ続く人の列へ戻っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
「……約束しちまったな」
横からガルドさんの声がした。
「はい」
「破んなよ」
「分かってます」
今度は迷わず答えられた。
さっき住民たちに囲まれた時は、何を言えばいいのか分からなかった。
大丈夫だと言うこともできない。
絶対に守ると言い切ることもできない。
今だって、この先どうなるのかなんて分からない。
……でも。
帰れるように戦う。
自分も帰ってくる。
それなら言える。
未来を約束するんじゃない。
僕がこれから何をするのかなら、自分で決められる。
「主」
聞き慣れた声に顔を上げた。
防波壁へ続く道の先から、フレイヴィアさんがこちらへ歩いてくる。
鎧には戦った跡が残っているものの、大きな怪我は見当たらない。
黒髪の横には、昨日渡した青緑色の髪飾りがまだついたままだった。
「フレイヴィアさん」
「治療は終わったのか?」
「はい。もう大丈夫です」
答えると、黄金の瞳が僕の肩から脇腹の辺りまでゆっくり動いた。
「ガルドから聞いたぞ。余が少し目を離した間に、また怪我を増やしたそうだな」
「……ガルドさん」
横を見る。
ガルドさんは知らん顔で海の方を見ていた。
「子どもを庇ったんだとよ」
「言わなくてもいいじゃないですか」
「本当だろ」
フレイヴィアさんの目が僕へ戻る。
「そうなのか?」
「はい」
少し身構える。
怒られると思った。
けれど、フレイヴィアさんは一度だけ目を閉じた。
「ならば仕方あるまい」
「……いいんですか?」
「そこで見捨てていれば、余が主を殴っておった」
「どっちにしても痛いですね」
フレイヴィアさんが鼻を鳴らす。
「だが、主まで死んでは意味がない」
「はい」
「そこは分かっておるな?」
「分かってます」
今度は、ちゃんと答えられた。
「帰るって約束したので」
「誰とだ?」
高台へ続く道を見る。
もう女の子の姿は人の中へ紛れて見えない。
「さっきの子と」
「……そうか」
フレイヴィアさんも同じ方向へ目を向けた。
青緑色の髪飾りが、松明の明かりを受けて僅かに光る。
「家に帰れるかって聞かれました」
「うむ」
「絶対に大丈夫とは言えませんでした」
フレイヴィアさんは何も言わない。
「さっきも、街の人に大丈夫なのかって聞かれて……何も答えられなくなりました」
思い出す。
縋るように僕を見ていた人たち。
「僕には、この先どうなるのか分かりません。水禍渡りがこれで終わったのかも。海が戻るのかも」
遠くにある防波壁の向こうを見る。
海はまだ戻っていない。
「なのに、みんな答えを欲しがってて」
「当然であろうな」
フレイヴィアさんが静かに答えた。
「怖いのだ。何が起こるのか分からぬ時、人は誰かに大丈夫だと言ってもらいたくなる」
「……はい」
「主も同じであろう?」
聞かれて、少し考える。
僕だって。
オルディアさんから話を聞いた時。
海鳴りが響いた時。
さっき壁の向こうから大量の水憑きがやってきた時。
誰かに大丈夫だと言ってもらえたなら。
少しは安心できたのかもしれない。
「そうですね」
頷く。
「でも、僕には言えませんでした」
「それでよい」
すぐに返ってきた。
「……いいんですか?」
「分からぬものを分かると言う必要はない。守れる保証もないのに、必ず守るなどと口にする必要もない」
黄金の瞳が、真っすぐ僕を見る。
「余とて、この街がどうなるかなど知らぬ」
「フレイヴィアさんでも?」
「余を何だと思っておる」
「なんでもできる人だと思ってました」
「買い被るな」
呆れたように言われる。
でも。
周りの人たちは本当にそう思っているように見えた。
フレイヴィアさんが帰ってきた時。
それだけで、街の空気が少し変わった。
「でも、みんなはフレイヴィアさんを見ると安心してましたよ」
「……」
今度はフレイヴィアさんが黙った。
「昨日、帰ってきた時です」
思い出す。
「フレイヴィアさんがいるなら、なんとかなるかもしれないって。そう言ってる人がいました」
「そうか」
「僕も、ちょっと思いました」
フレイヴィアさんがこちらを見る。
「主もか?」
「はい」
なんとなく恥ずかしくなって頬を掻く。
「だって、フレイヴィアさんですし」
「意味が分からぬぞ」
「僕も上手く説明できません」
でも。
あの時は本当にそう思った。
この人が帰ってきた。
だったら。
もしかしたら。
「……だから、すごいなって」
口にすると、フレイヴィアさんは少しだけ目を細めた。
「余は、何もしておらぬぞ」
「え?」
「帰ってきただけだ」
確かに。
あの時はまだ資材を運んですらいなかった。
「水禍渡りを止めたわけでもない。海を戻したわけでもない。それどころか、何が起きておるのかすら主たちから聞くまで知らなかった」
「……はい」
「それでも安心したというのなら」
フレイヴィアさんが防波壁へ目を向ける。
「それは、余がそこにいたからであろう」
少しだけ風が吹く。
黒髪が揺れ、その横についた髪飾りも小さく動いた。
「不安を消してやる言葉など、余は知らぬ」
その声はいつもと変わらなかった。
「必ず勝てるとも言えぬ。何も失わぬとも言えぬ。明日もこの街が今のまま残っているなど、余にも約束はできん」
……僕と同じだ。
フレイヴィアさんだって。
分からない。
「だから余は、前に立ってやることしかできない」
「……前に?」
「ああ」
大剣の柄へ片手を置く。
「余が立っておれば、まだ戦えると思う者がいるのだろう?」
「はい」
「なら、立つ」
あまりにも簡単に言った。
「怖くて動けぬ者がいるなら、余が先に歩けばよい。下を向く者がいるなら、余が前で大剣を振るえばよい」
黄金の瞳が僕へ戻る。
「それで一人でも顔を上げるのなら、余にはそれで十分だ」
「……」
言葉が出なかった。
昨日。
フレイヴィアさんが帰ってきた時に見たものを思い出す。
作業を止めていた人たち。
不安そうにしていた住民たち。
それが。
彼女を見ただけで。
少しだけ笑った。
……ああ。
そういうことなのか。
……かっこいいなぁやっぱり。
憧れと悔しさが胸を焼く。この人はいつだってこんなに強いのに、僕はどうして、そんな思いばかりが脳裏をめぐる。
けど。おかげで、気持ちは晴れた。
「主」
「はい」
「そなたまで余と同じことをする必要はないぞ」
「……え?」
考えていたことを読まれたようで、思わず顔を上げた。
「主は主にできることをすればよい」
フレイヴィアさんが僅かに口元を緩める。
「余は余の役目を果たす。主は主の役目を果たせ」
聞いたことのある言葉だった。
「……はい」
「ただ」
フレイヴィアさんの目が少しだけ鋭くなる。
「一人で全部背負おうとするでないぞ」
「ガルドさんにも言われました」
「ならば二度言われぬよう覚えよ」
「努力します」
「努力ではなく覚えろ」
隣でガルドさんが吹き出した。
「お前、ほんと信用ねえな」
「ガルドさんまで」
三人で少しだけ笑う。
何も解決していない。
海はまだ戻っていない。
水禍渡りが終わったのかも分からない。
それでも。
さっきまで胸の奥へ溜まっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。
大丈夫だと言えなくてもいい。
分からないものを、分かったふりをしなくてもいい。
その代わり。
自分ができることをする。
フレイヴィアさんが前へ立つように。
僕は。
僕にできることを。
――キィィィィィィイイン。
「っ……!」
耳の奥へ鋭い痛みが走った。
笑い声が消える。
フレイヴィアさんの表情が変わり、ガルドさんの耳が一気に後ろへ伏せた。
――海鳴り。
近くの窓が細かく震える。
道端に置かれていた水桶の表面へ無数の波紋が広がった。
「……また」
思わず海の方を見る。
――キィィィィィィイイン。
今までより長い。
耳を押さえても、頭の内側から直接鳴らされているように響いてくる。
「伝令!」
防波壁の方から叫び声が上がった。
「伝令! ギルドマスターから全防衛線へ!」
走ってきた男の顔は青ざめていた。
「敵影確認!」
周囲から息を呑む音が聞こえる。
「……また?」
「嘘だろ」
「さっき終わったんじゃ……」
小さな声が重なっていく。
ガルドさんが伝令へ一歩近づく。
「数は?」
「……分からない」
「暗くて見えねえのか?」
「違う」
男が首を横へ振った。
「多すぎるんだ」
「……」
「さっきより、ずっと多い」
背中が冷たくなった。
周囲から漏れた声も、今度は隠しようのないものだった。
「そんな……」
「また、あれを?」
「無理だろ……」
「さっきので終わりじゃなかったのかよ……」
――その時。
「次が来たッ!!」
遠くから、ギルドマスターの声が響いた。
「全員配置につけ! 第一防衛線、即時戦闘態勢!」
ざわめきが一瞬だけ止まる。
「負傷者は無理に前へ出るな! 交代要員は第一へ! 第二、第三防衛線も配置につけ!」
号令に押されるように、人が動き始めた。
それでも。
「……勘弁してくれよ」
「またやるのか……?」
絶望の混じった声は、消えなかった。
「主」
フレイヴィアさんが大剣へ手を掛ける。
「はい」
「余は南へ戻る」
黄金の瞳が僕を見る。
「主は主の持ち場へ行け」
「……はい」
一度頷く。
それから。
「フレイヴィアさん」
「なんだ?」
黒髪の横。
青緑色の髪飾りが小さく揺れている。
「前、お願いします」
一瞬だけ。
フレイヴィアさんの目が細められた。
「ああ」
大剣を背負い直す。
「任せておけ」
そして。
誰より先に。
防波壁へ向かって歩き出した。
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします。