駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
第一防衛線へ戻った時には、さっきまで座り込んでいた人たちはもう一人も残っていなかった。
治療を受けて戻ってきたハンターも、交代で身体を休めていた人も、それぞれ武器を手に防波壁の上を走っている。
僕も中央へ向かいながら片刃剣を抜き、壁の縁まで来たところで引いた海の底へ目を向けた。
「……」
思わず足が止まった。
暗くなった海底の上を、無数の影がこちらへ向かっている。
牙鼠や鱗蜥蜴だけじゃない。
その間にはガルグ獣が何体も混じり、さらに後ろには僕の知らない大型の影まで見えた。
遠くでは互いの身体が重なって正確な数なんて分からない。
……けれど、さっきより多いなんて言葉では足りない気がした。
「戻ったか!」
バルガスさんが僕に気づき、こちらへ駆けてくる。
「怪我は?」
「治療してもらいました。動けます」
「なら中央に入れ。ただし無理はするな。今度はさっきみてえにはいかんぞ」
「はい」
短く答えて持ち場へ向かう。
防波壁の上に残っている矢箱は、さっきより明らかに少ない。
投射器の周りでは小人族の職人たちが慌ただしく動いているけれど、一基は完全に止まったままで、残った二基にも何人もの職人が張りついていた。
僕たちは、さっき戦ったばかりだ。
腕にも脚にも疲れが残っているし、武器も道具も減っている。
それなのに向こうは、そんな事情なんて知るはずもなく、前より多い数でこちらへ向かってきていた。
……怖くないわけじゃない。
でも、さっきまでとは少し違った。
『帰れる?』
胸に人形を抱いていた女の子の顔が浮かぶ。
『だから余は、前に立ってやることしかできない』
フレイヴィアさんの声も。
僕には、この先どうなるのかなんて分からない。
この街が無事なのか。
僕たちがこの数を止められるのか。
明日になれば、みんなが家へ帰れるのか。
……だったら。
もう、それは考えなくていい。
今、一体でも多く倒す。
一秒でも長くここで止める。
その一秒で、一人でも多く逃げられるなら。
僕が考えるのは、それだけでいい。
「中央近接、前へ!」
バルガスさんの声に、自分の位置へ入る。
隣にはさっき一緒に戦った槍使いがいて、目が合うと疲れた顔のまま片手を上げた。
「また一緒だな」
「お願いします」
「こっちの台詞だ」
槍を握り直しながら、男が海底を見る。
「……多すぎるだろ」
「はい」
「嘘でも大丈夫だって言ってくれねえか?」
「それ、今日できないって分かったところです」
一瞬だけこちらを見たあと、男が小さく笑った。
「そりゃ残念だ」
「その代わり、できるだけ倒します」
「……そっちの方が頼もしいな」
槍の穂先が海へ向く。
僕も片刃剣を構えた。
「投射器! 構えろ!」
前方を走る牙鼠なら、もう濡れた毛並みや開いた口まで見える。
「まだだ!」
壁の上から怒鳴り声が飛ぶ。
投射器の古い機構がギィ、と軋み、その間にも牙鼠の群れが距離を詰め、すぐ後ろから鱗蜥蜴が泥を掻き分けるように続いてくる。
「撃てッ!」
――轟音。
二つの石塊が僕たちの頭上を越えていった。
一つが群れの中央へ落ち、牙鼠や鱗蜥蜴をまとめて吹き飛ばす。
もう一つは少し手前へ落ちたものの、跳ねた石が何体もの脚を巻き込み、前方の群れが一瞬だけ崩れた。
「弓隊! 続けろ!」
矢が飛ぶ。
壁の上からだけじゃなく、その後ろに作られた射撃台からも一斉に放たれ、水憑きの身体へ次々と突き刺さっていく。
何体も倒れている。
確実に数を減らしているはずなのに、空いた場所へ後ろの個体が入り込み、群れ全体はほとんど速度を落とさなかった。
「……全然減ってねえ」
隣の槍使いが呟く。
僕にも、そう見えた。
……でも。
全部を見る必要はない。
「近接!」
バルガスさんの声が響く。
「来るぞ!」
最初の牙鼠が壁へ飛びついた。
爪が石の隙間へ食い込み、その身体が一気に持ち上がってくる。
「右、任せた!」
「はい!」
槍使いが先に動く。
壁の縁から伸びた穂先が牙鼠の肩へ突き刺さり、這い上がろうとしていた動きが止まった。
……首が空く。
一歩踏み込み、片刃剣を振り抜く。
刃が通った感触と一緒に身体から力が抜け、槍を押し出すのに合わせて牙鼠が壁の外へ落ちていった。
次は左。
鱗蜥蜴が顎を開きながら這い上がってくる。
この距離なら、僕が剣を振るより噛みつく方が早い。
……一度、待つ。
半歩だけ身体を引くと、牙が目の前を通り過ぎた。
顎が伸びきった瞬間に右足を踏み込み、首の下へ片刃剣を滑らせる。
「押すぞ!」
「はい!」
横から盾持ちが身体をぶつけてくる。
僕も柄を押し込み、二人で鱗蜥蜴を壁の外へ落とした。
「正面!」
声に顔を戻す。
牙鼠の前脚が縁へ掛かり、右の爪が高く上がっている。
……左。
身体を入れ替えるように踏み込み、爪が下りる前に前脚の内側へ片刃剣を合わせる。
斬る必要はない。
刃を滑らせるように動かすと、振り下ろされた爪が僕の身体から外れた。
――姿勢が崩れる。
横から槍が伸び、牙鼠の頭へ突き刺さった。
「もらった!」
……なら、あれは任せていい。
僕はもう次を見る。
鱗蜥蜴。
その右後ろに牙鼠。
先に壁へ届くのは牙鼠だけど、鱗蜥蜴の方には隣の盾持ちが気づいている。
……だったら牙鼠。
縁へ爪が掛かる。
すぐには振らない。
肩まで壁の上へ出るのを待ってから、首へ一度だけ片刃剣を走らせた。
刃を引くと同時に身体を左へ向ける。
――尾。
鱗蜥蜴の長い尾がこちらへ回ってくる。
「っ!」
身体を沈める。
頭上を尾が抜け、その勢いで胴体が僅かに横へ向いた。
……鱗の継ぎ目。
見えた場所へ踏み込み、刃を差し込む。
黒ずんだ水が溢れ始めるより早く片刃剣を抜き、次に壁へ伸びた前脚へ視線を向けた。
身体が、勝手に動く。
そんな感覚だった。
何かを一つずつ考えてから動いているわけじゃない。
目に入ったものから必要な情報だけが残って、それ以外が少しずつ遠くなっていく。
爪の高さ。
牙の向き。
味方の槍がどこまで届くのか。
後ろから飛んでくる矢の軌道。
石の床が濡れている場所。
背中の傷が痛む動き。
全部見えているはずなのに、頭の中は不思議なくらい静かだった。
……一体でも多く。
でも、一人で倒す必要はない。
槍が止めるなら、その隙を使う。
盾が受けるなら、空いた場所を斬る。
僕へ相手の注意を向ければ、別の誰かが攻撃できる。
その場で一番早く。
一番少ない動きで。
一体ずつ。
身体より先に、頭が答えを出していく。
いや。
答えが出た時には、もう身体が動き始めていた。
「左から二体!」
牙鼠と鱗蜥蜴。
牙鼠の方が速い。
正面から伸びた爪を避けると、牙鼠の顔がこちらを追う。
「槍!」
「おう!」
隣から穂先が伸びる。
肩を貫かれて牙鼠の動きが止まったところへ一歩入り、首だけを斬る。
すぐに振り返る。
遅れてきた鱗蜥蜴の顎へ盾が入り、牙がその表面へ噛みついていた。
「今だ!」
「はい!」
首の下へ刃を入れる。
引き抜く。
盾持ちが押す。
落ちていく身体を確認する前に、僕はもう次に壁へ伸びてくる爪を見ていた。
「……すげぇ」
――少し離れたところで、一人のハンターが剣を構えたまま呟いた。
視線の先では、フードを被った少年が一体を倒し終えるより早く次の相手へ身体を向けている。
派手な一撃はない。
一人で敵を引き受けてもいない。
ただ、味方が作った隙へ必ず刃が入り、逆に少年が崩した相手へは、周囲の誰かが自然と攻撃を重ねていた。
「なんだよ、あれ……」
思わず見入ってしまいそうになったところで、そのハンターは自分の剣を強く握り直した。
「……呆けてる場合じゃねえな」
目の前では、また牙鼠が壁を登ってくる。
「俺もやらねえと」
そう呟いて、一歩前へ出た。
――その間も、僕には周囲の声なんてほとんど入ってこなかった。
次に壁へ掛かった爪が見える。
その右には味方の槍。
僕がやるのは、首元へ刃を入れることだけ。
「大型、中央へ来るぞ!」
バルガスさんの声で視線を海底へ移す。
牙鼠たちを押し退けるように、二体のガルグ獣がこちらへ向かってきていた。
「二体……!」
「投射器、右を狙え! 左は槍で止める!」
壁の上が一斉に動く。
何人もの槍使いが左側へ集まり、僕たち近接も壁から少し距離を取った。
右のガルグ獣へ投射器が向く。
「二番機、待て!」
職人の声が響いた。
「歯車噛んだ! 今撃つな!」
「直るか!?」
「やってる!」
二体は止まらない。
「左へ集中! 右は壁際から離れろ!」
バルガスさんの指示に従い、僕も近くにいた人たちと一緒に後ろへ下がる。
左では槍が一斉に突き出され、何本かがガルグ獣の肩へ食い込んだ。
……それでも止まらない。
――ドンッ!
「っ!」
防波壁全体が大きく揺れた。
足元から衝撃が突き上げ、僕は片刃剣を握ったまま腰を落として踏ん張る。
石の継ぎ目から細かな砂が零れた。
「右も来る!」
顔を向ける。
もう一体のガルグ獣が頭を下げている。
「退け!」
――直後。
もう一度、壁全体が揺れた。
身体が横へ流れ、片膝をつく。
すぐに立ち上がって壁の向こうを見ると、二体ともまだ動いていた。
「二番直ったぞ!」
「撃て!」
轟音と一緒に放たれた石塊が、右側のガルグ獣の肩へ直撃する。
巨体が横へ転がった。
「一体止まった! 左へ槍!」
残ったガルグ獣が壁から離れ、また助走を取ろうとしている。
槍使いたちが前へ出るのに合わせ、僕も戻ろうとした時だった。
――ミシッ。
「……?」
小さな音が足元から聞こえた。
「そこ下がれ!」
近くにいた小人族の職人が叫ぶ。
「床に亀裂入ってるぞ!」
石の継ぎ目から、さっきまではなかった細い亀裂が伸びていた。
「今ので?」
「たぶんな! 下の壁面も見てくる!」
職人が階段へ走っていく。
……壊れ始めている。
その事実だけを覚える。
「前!」
「はい!」
牙鼠が壁を越える。
今は、こっちだ。
◆
北側へ押し寄せてくるモンスターの数を見て、僕は小さくため息を吐いた。
石造りの防波壁だけなら、まだずいぶん楽だったと思う。
けれど、この辺りには昔から使われている水路や排水口が多く、街側へ繋がる穴を全部石で塞ぐわけにはいかなかったらしい。
その代わりに何人ものエルフが並び、半透明の魔法の壁を張って水路を塞いでいる。
「右! また来るぞ!」
ガルド……確かそう呼ばれていた男の声が響く。
光の壁へ鱗蜥蜴が身体を叩きつけ、そのすぐ後ろから牙鼠まで飛びついた。
壁の表面が大きく歪み、杖を構えていたエルフの顔が苦しそうに歪む。
「まだ持つか!?」
「持たせている! 見れば分かるだろう!」
「見りゃ危ねえのも分かるんだよ!」
ガルドはそう叫びながら、魔法の隙間を抜けてきた牙鼠へ剣を向ける。
振り下ろされた爪を真正面から受けずに横へ流し、体勢を崩したところへ近くの槍使いが穂先を突き込んだ。
……あの人も随分慣れている。
少なくとも、自分一人で全部何とかしようとする誰かさんよりはずっと安心して見ていられる。
とはいえ。
状況そのものは、あまりよくない。
「右側、また押されてるぞ!」
別の水路から声が上がる。
見ると、そちらの魔法壁には鱗蜥蜴が何体も身体を押しつけていて、担当しているエルフの顔色は今にも倒れそうなくらい悪かった。
「交代できる術師は!?」
「いない!」
「魔法使える奴なら誰でもいい!」
「もう全員出ている!」
杖を握り、真正面から押し寄せる力を全部受け止める。
一枚の壁が揺れれば、さらに魔力を注いで強くする。
その繰り返しを見ていると、さすがにもう一度ため息が出た。
「全く情けないねぇ。それでも千を生きると言われるエルフかい?」
「なっ……!」
近くにいたエルフが僕を見る。
随分と元気な顔だ。
「貴様、好き勝手を! これだけの数を相手に、どれだけ魔力を使っていると――」
「はいはい。怒鳴る元気が残ってるなら、まだ大丈夫そうだね」
その横を通り過ぎ、水路の前へ出る。
「おい、お前!」
ガルドが気づいた。
「何しに来た! ここは避難する場所じゃねえぞ!」
「そんなことくらい知ってるよ」
肩を竦める。
「僕だってこんな街早く離れたいよ。でも約束しちゃったんだから仕方ないだろう。それにあの子は逃げる気なんてサラサラないしさ。だからこうして僕が手伝いにきたってわけじゃないか」
「あの子?」
「こっちの話」
答えながら、目の前の魔法を見る。
もう一度ガルグ獣がぶつかれば、この壁はたぶん持たない。
だからといって、さらに魔力を注ぎ込んだところで少し長持ちするだけだろう。
……面倒だなぁ。
「そこ、少し退いてくれる?」
「何をする気だ?」
エルフが杖を握ったまま睨んでくる。
「下手に術式へ触れるな。今崩されたら――」
「いいかい?」
僕は片手を上げた。
「魔法ってのはこう使うんだよ」
指先を動かす。
目の前にあった一枚の光が、薄くなる。
「なっ!?」
エルフの顔が青くなった。
壊したと思ったらしい。
違うよ。
こんなもの。
一枚に全部押し込めるから疲れるんだ。
薄くなった光をいくつかに分け、僅かずつ角度を変えながら水路の奥へ並べていく。
一枚。
二枚。
三枚。
正面から受け止める必要なんてない。
相手が自分から走ってきてくれるなら、その力を少しずつ違う方向へ流してやればいい。
最初の牙鼠が飛び込んできた。
一枚目の光へ触れ、僅かに右へ進路が逸れる。
二枚目では反対へ。
三枚目にぶつかった時には身体の向きそのものが崩れ、後ろから走ってきた鱗蜥蜴へ横からぶつかった。
「……何だ、それ」
ガルドさんの声が聞こえる。
「そんな……」
エルフも自分の杖と僕の魔法を交互に見ていた。
「魔力が……増えてない?」
「増やす必要がないからね」
指先をもう一度動かす。
「相手が勝手に走ってきてくれるんだ。だったら、その力まで使わせてもらえばいい」
奥からガルグ獣が来る。
さすがにあれを見て、ガルドはすぐ剣を構えた。
「大型!」
「待ってていいよ」
「は?」
ガルグ獣が速度を上げる。
一枚目へ触れる。
巨体が僅かに右へ流れる。
二枚目でもう少し。
三枚目にぶつかった時には走っていた向きそのものが変わり、そのまま水路脇の石壁へ肩から激突した。
「……」
動きが止まる。
だったら。
そこだけでいい。
何枚にも分けた魔法のうち一枚を細く収束させ、その先端をガルグ獣の首へ向ける。
――光が走る。
首元を貫かれた巨体が一度だけ震え、そのまま地面へ崩れた。
「……は?」
ガルドが呆けたような声を漏らす。
僕はその横で、今度は押し寄せてきた牙鼠の群れへ魔法を向ける。
光を壁にするんじゃなく、一体ずつ動く方向をずらして狭い場所へ集める。
互いの身体が邪魔になって動きが止まったところだけ、必要な分の光を刃へ変えて通した。
何体もの牙鼠が、ほとんど同時に崩れる。
「……お前」
ガルドを見る。
いつも余裕のある顔をしている人が、珍しく目を見開いていた。
「何者だ?」
「言っただろう?」
少し笑う。
「ただの旅人だよ。今はね」
「ただの旅人が、こんな真似できるかよ……」
まだ僕を見ている。
「ほら」
水路の先を指差した。
「呆けてる暇あるの?」
「……っ」
新しい牙鼠が一体、魔法の外から回り込もうとしている。
「ちっ!」
ガルドがすぐに剣を構え直した。
「言われなくても分かってら!」
「じゃあ頑張って」
僕も前を見る。
……まったく。
早く逃げたいという気持ちは、本当なのに。
でも。
約束しちゃったんだから。
仕方ない。
あの子がここに残るなら、取り返しのつかなくなるそのぎりぎりまでは手を貸そうじゃないか。
◆
中央へ押し寄せる数は、一向に減らなかった。
最初の頃は壁の縁へ爪を掛けたモンスターを落とせばよかったけれど、ガルグ獣が何度も身体をぶつけたせいで亀裂は少しずつ広がり、壁の上まで登ってくる個体も増えている。
「二番機、止まった!」
後ろから声が上がる。
「直せ!」
「もう歯車が駄目だ!」
「なら一番は!?」
「そっちも動かん!」
……残り一基。
振り返って確認する必要はない。
使えないものが増えた。
それだけ覚えておけばいい。
「右!」
「はい!」
牙鼠の爪を身体の外へ流す。
こっちへ向いた頭の横から剣が入る。
……任せる。
次は左。
鱗蜥蜴の顎へ盾が入る。
……首。
そこだけ斬る。
「前から二体!」
一体目は牙鼠。
二体目は鱗蜥蜴。
牙鼠の右側には槍使いがいる。
だったら一歩だけ左へ出る。
僕へ顔を向けさせる。
伸びた爪を避ける。
「今!」
槍が肩を貫く。
牙鼠の身体が止まった瞬間には、僕はもう遅れてきた鱗蜥蜴へ身体を向けていた。
……まだ盾が間に合わない。
僕が顎を外へ流す。
無理に斬らなくていい。
「首、頼む!」
「任せろ!」
後ろから剣が入る。
次。
頭の中では、それしか考えていなかった。
一体倒した。
じゃあ次。
今、僕が動くべき相手はどれか。
どこへ一歩入れば、誰が動きやすくなるのか。
身体は重い。
傷も痛い。
呼吸だって最初より荒くなっている。
なのに。
目だけは、さっきよりよく見えていた。
余計なものが消えていく。
恐怖までなくなったわけじゃない。
この数を見れば怖いし、壁が壊れる音が聞こえるたび胸の奥が冷たくなる。
……でも、それは後でいい。
今やることとは関係ない。
目の前にいる一体を、どう止めるか。
それだけに全力を使う。
「三番機、撃てるぞ!」
職人の声が聞こえた。
「大型来る! 狙え!」
海底を見る。
ガルグ獣が一体。
その後ろにも二つ、大きな影が続いている。
「撃て!」
――轟音。
最後に残った投射器から石塊が飛び、先頭のガルグ獣の前脚へ直撃した。
巨体が大きく横へ転がり、その後ろを走っていた何体もの水憑きまで巻き込んでいく。
「当たった!」
声が上がった。
直後。
――ガキンッ。
金属が砕ける音がした。
「三番機!」
「駄目だ! 歯車が割れた!」
これで投射器は全部使えない。
「弓隊、残りは!?」
「一人十本もねえ!」
バルガスさんが一度だけ海底へ目を向ける。
「槍は?」
「四本!」
「盾は!?」
「使えるのは二枚!」
足りない。
誰もそう口にはしなかったけれど、その程度のことは僕にも分かった。
「それでもやるぞ!」
「はい!」
まだ鐘は鳴っていない。
だったら、ここが僕たちの持ち場だ。
最初のガルグ獣が近づく。
「槍、前!」
残った槍が並ぶ。
ガルグ獣が頭を下げ、そのまま壁へ突っ込んできた。
――ドンッ!
防波壁が大きく揺れる。
槍のうち二本が折れ、石の隙間から大量の砂が零れ落ちた。
「左、亀裂広がった!」
「そこから離れろ!」
二体目が別の場所へぶつかる。
また壁全体へ振動が走った。
「中央!」
バルガスさんの声。
顔を向ける。
三体目。
崩れかけている場所へ真っすぐ向かっている。
「下がれ!」
すぐに後ろへ跳ぶ。
――ドォンッ!!
「っ……!」
足元が沈んだように感じた。
でも、違う。
石床そのものが外側へ傾き、大きな亀裂に沿って崩れ始めている。
「もっと下がれ!」
さらに一歩跳ぶ。
直後、さっきまで僕が立っていた場所が石材ごと外側へ落ちた。
巻き込まれた牙鼠が海底へ消え、その向こうに大きな穴が開く。
「中央一部崩落!」
「補修は!?」
「無理だ! もう塞げる大きさじゃねえ!」
穴の向こうから牙鼠が走ってくる。
もう、壁を登る必要はない。
「来るぞ!」
「塞げ!」
バルガスさんが先に前へ出た。
「鐘が鳴るまで、ここから通すな!」
「はい!」
僕も走る。
最初の牙鼠にはバルガスさんが向かっている。
……なら、僕は二体目。
鱗蜥蜴。
そこには盾持ちがいる。
……違う。
三体目。
牙鼠。
こいつが僕。
振り下ろされた爪を刃の腹で受け、真正面から止めずに外へ滑らせる。
身体が開いたところへ斬り込もうとして、やめた。
「右、お願いします!」
「おう!」
横にいた剣士へ任せる。
その人が牙鼠へ向かった時には、僕は盾へ噛みついた鱗蜥蜴の横へ回っていた。
首の下へ刃を入れる。
引き抜く。
「助かった!」
「次、来ます!」
穴を見る。
また牙鼠。
その横から、もう一体。
……多い。
それでも。
やることは変わらない。
僕が止める相手。
誰かに任せる相手。
どこへ入れば一番少ない動きで次へ繋げられるのか。
答えは勝手に頭の中へ出てくる。
「ルキウス、そっち!」
「はい!」
牙鼠へ一歩入る。
爪が上がる前に肩へ浅く刃を入れ、こちらへ注意を向けさせる。
僕を追って頭が動いたところで半歩だけ外へ抜けた。
「今だ!」
後ろから剣が首へ入る。
……次。
身体は重いはずなのに、動きそのものはむしろ研ぎ澄まされていく。
疲れれば判断も鈍ると思っていた。
でも今は、追い詰められるほど余計なことを考えなくなっていた。
一体でも多く。
一人でも多く助けるために。
今。
ここで。
自分にできる一番いい動きを選ぶ。
それだけだった。
「南側、一部崩落!」
遠くから声が上がる。
……南。
フレイヴィアさんがいる。
一瞬だけ顔を向けかける。
でも、やめた。
僕の位置からは見えない。
あの人がどう戦っているのかも、向こうがどれくらい押されているのかも分からない。
……フレイヴィアさんは、自分の場所で前に立っている。
なら。
僕も、ここでやる。
「中央、前!」
「はい!」
崩れた場所へガルグ獣が入ってくる。
「正面で受けるな!」
バルガスさんが叫ぶ。
「左右へ開け! 通して横から脚を狙え!」
僕たちは一斉に穴の正面から外れる。
ガルグ獣が石を押し崩しながら壁の上へ入り込んできた。
「今だ!」
左右から残っていた槍が伸びる。
一つが前脚へ。
もう一本が肩へ食い込む。
ガルグ獣が身体を振る。
「離れろ!」
槍使いたちが手を放す。
僕は頭の向きを見る。
右。
だったら左へ回る。
後脚の付け根へ片刃剣を振り下ろす。
硬い感触のあと、刃が食い込んだ。
「っ……!」
すぐに抜く。
ガルグ獣が僕へ頭を向ける。
……来る。
追われる前に離れる。
僕へ注意が向いたところへ、反対側から剣が入った。
「こっちだ!」
また頭が動く。
その隙に別のハンターが首へ斬りつける。
僕も次に空いた場所へ入る。
一人なら倒せない。
でも。
五人でも。
六人でも。
ここにいる人を全部使えばいい。
ガルグ獣の前脚が折れ、巨体が石床へ崩れた。
「……やった!」
隣から安堵する声が漏れる。
けれどバルガスさんは海底から目を離さなかった。
「まだだ」
その声に、僕も向こうを見る。
また大型がいる。
その後ろにも、いくつもの影が続いていた。
身体はもう重い。
片刃剣を握る指も痛い。
背中の傷も、セラフィーンさんに治してもらった直後とは比べものにならないくらい熱を持っている。
それでも。
海底から来る影は途切れない。
「北側、壁面損傷!」
遠くから声が届く。
「中央右も亀裂拡大!」
「南、もう一か所崩れたぞ!」
僕の位置から実際に見えるのは中央だけだったけれど、聞こえてくる報告だけで防波壁の限界が近いことは分かった。
「……バルガスさん」
「ああ」
僕が最後まで言う前に頷かれる。
「そろそろだ」
それでも、まだ鐘は鳴らない。
「ここを持たせろ!」
声が飛ぶ。
「あと少しだ!」
あと少し。
その言葉を聞き、崩れた壁の向こうを見る。
牙鼠が来る。
その後ろには鱗蜥蜴。
さらに向こうにも、まだいくつもの影が走っている。
……時間。
そうだ。
僕たちは、ここで全部倒さなくてもいい。
オルディアさんから聞いた。
この壁の始まりを考えた人も、最初から水禍渡りそのものを止めようとはしていなかった。
次に来た時。
一人でも多く逃げられるように。
少しでも長く、海から来たものを止められるように。
そのための壁。
なら。
まだ役目は終わっていない。
壊れ始めても。
穴が開いても。
僕たちがここで戦えている限り、この壁はまだ時間を作ってくれている。
「来るぞ!」
牙鼠が穴から飛び込む。
片刃剣を構え、伸びてきた爪を身体の外へ流す。
「左、お願いします!」
「任せろ!」
剣士へ牙鼠を渡し、僕は後ろから来た鱗蜥蜴へ向かう。
顎を盾持ちが押さえたところへ踏み込み、首の下へ刃を入れた。
……もう少し。
次は牙鼠。
もう槍はない。
だったら僕が姿勢を崩す。
爪を避け、肩へ浅く刃を入れてこちらへ向かせる。
頭が動いたところで横へ抜けた。
「今!」
後ろから剣が首へ入る。
……もう少しだけ。
その一秒が、後ろの誰かへ届くなら。
――カァン。
「……!」
鐘が鳴った。
一つ。
防波壁の上にいた人たちの動きが変わる。
――カァン。
二つ。
「撤退準備!」
バルガスさんが叫ぶ。
「目の前だけ押し返せ! 深追いするな! 動ける奴は負傷者を連れて下がれ!」
僕も少しずつ後ろへ下がる。
穴から入ってきた牙鼠へ片刃剣を向けるけれど、もう倒すためには踏み込まない。
振り下ろされた爪を外へ流し、その次が来る前に距離を取る。
――カァン。
三つ。
「退けッ!!」
バルガスさんの声が響いた。
「第一防衛線放棄! 第二へ下がれ!」
それまで壁へ身体を向けていた人たちが、一斉に後退を始めた。
歩けない人へ肩を貸す者もいれば、まだ使える武器だけを拾って走る者もいる。
最後まで壁際を見ながら下がる人もいたけれど、三度の鐘が何を意味するのかは全員が分かっていた。
僕も片刃剣を握ったまま後ろへ下がる。
その時、崩れた場所から牙鼠が一体飛び込んできた。
「っ……!」
身体が反応する。
距離。
爪の位置。
踏み込めば倒せる。
そこまで頭の中で答えが出て。
「ルキウス!」
バルガスさんの声が飛んだ。
「下がれ!」
「……はい!」
前へ出かけた足を、そのまま後ろへ切り替える。
今の答えは違う。
ここで一体倒すことより、第二防衛線まで生きて戻ること。
そこでまた戦うこと。
それが今の最適な動きだった。
近くにいた盾持ちが牙鼠の進路へ盾を投げつける。
ぶつかった牙鼠が一瞬だけ足を止めた。
「今だ、行け!」
「はい!」
その隙に階段へ向かう。
途中で脚を引きずっているハンターが見えたため、横へ入り、その腕を肩へ回した。
「歩けます?」
「ああ……走れる!」
「じゃあ、一緒に行きましょう!」
二人で階段を下りる。
背後からはモンスターの鳴き声と、石が砕ける音が絶えず聞こえていた。
追いつかれるかもしれない。
一度だけ確認したくなる。
それでも、今は前を見る。
第二防衛線へ続く道には、先に撤退したハンターたちが走っていた。
倉庫街の向こうでは、すでに次の防衛線に立つ人たちがこちらを受け入れるために動き始めている。
「負傷者こっちだ!」
「通路空けろ!」
声が届く。
まずは、あそこまで連れていく。
肩を貸している人の歩幅に合わせて走っていると、背後から今までで一番大きな崩落音が響いた。
地面まで僅かに震え、隣のハンターが反射的に振り返る。
僕も一度だけ足を緩め、後ろを見た。
防波壁の中央。
さっきまで僕たちが立っていた場所のさらに横が、大きく外側へ崩れていく。
積み重ねられた石が轟音と一緒に落ち、開いた場所へ向かって水憑きたちが押し寄せていた。
もう、あの壁だけで街への道を塞ぐことはできない。
……でも。
崩れずに残った場所では、まだ何体もの水憑きが壁に阻まれていた。
石を登ろうとするもの。
壊れた場所まで回り込もうとするもの。
狭くなった通路へ集まり、互いの身体で進路を塞いでいるもの。
止められてはいない。
それでも。
まだ遅らせている。
遠い昔。
水禍渡りが過ぎたあとのエルドランで、一人の人間が考えたもの。
次に同じものが来た時、一人でも多く逃げられるようにと提案した壁。
今あるものは、その頃とは形も違うとオルディアさんは言っていた。
何度も壊れて。
直されて。
作り替えられて。
それでも、考えたことだけは残っている。
……ちゃんと。
あの人が作ろうとした時間は。
今、僕たちのところまで届いている。
「ルキウス!」
「っ!」
前から呼ばれて顔を戻す。
第二防衛線の入口で、先に着いた人たちがこちらへ手を振っていた。
「負傷者こっちだ! 引き取る!」
「はい!」
肩を貸したまま、倉庫街へ向かって走る。
防波壁は崩れた。
第一防衛線も抜かれた。
でも、僕たちはまだ次の場所へ向かえている。
負傷した人を連れて走る余裕が残っていて、その先ではもう別の人たちが武器を構えて待っている。
だったら。
あの壁は負けたんじゃない。
止められなくなるまで、僕たちに時間をくれた。
その時間を無駄にしないために、僕はもう後ろを振り返らなかった。
肩を貸したハンターの身体を支え直し、片刃剣を握ったまま、次に戦う場所へ向かって走り続けた。
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