駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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第三防衛線へ辿り着いた時には、すでに前へ出る場所が決められていた。
高台へ続く坂道を横切るように木柵と荷車が並べられているけれど、防波壁ほど高くもなければ、倉庫街みたいにモンスターの進路を大きく制限してくれる建物もない。
その代わり、柵のさらに前には何列ものハンターたちが立っていた。
第一防衛線から下がってきた人も、第二で戦っていた人も、最初からここを守っていた人もいる。
鎧が壊れている人。
包帯を巻いたまま剣を握っている人。
肩で息をしながら、それでも槍を構えている人。
誰も無傷には見えなかった。
……ここを抜かれたら。
列の後ろへ目を向ける。
坂を上った先には避難している人たちがいる。
ここからでは建物の陰になって姿までは見えないけれど、あの女の子も、その母親もいるはずだ。
アルナさんも。
セラフィーンさんも。
それ以外にも、この街で出会った大勢の人がいる。
そして、その人たちと僕たちの間には、もう次の防衛線なんてなかった。
「第一、第二から下がった者は空いている場所へ入れ!」
少し高い場所からギルドマスターの声が響く。
「負傷の重い者は後ろへ! 動ける者も無理に前へ詰めるな! 今いる人数で列を崩さず持たせるぞ!」
僕も前へ進もうとしたところで、肩を掴まれた。
「お前はこっちだ」
「ガルドさん」
振り返る。
ガルドさんもかなり疲れている。
鎧にはいくつも新しい傷が増え、犬耳の片方には乾いた血までついていた。
「怪我してるじゃないですか」
「お前にだけは言われたくねえよ」
「耳、血が出てます」
「掠っただけだ。聞こえてるなら問題ねえ」
そう言いながら、今度は僕の背中へ視線が向く。
「そっちは?」
「まだ動けます」
「聞き飽きたな、その答え」
「本当なので」
ガルドさんが鼻から息を吐く。
「なら俺の横にいろ。さっきと同じだ」
「はい」
その言葉だけで、少し気持ちが楽になった。
今度は最初から分かっている。
全部を一人で見なくていい。
ガルドさんがいるし、周りにも一緒に戦う人がいる。
「お、また一緒か」
反対側から声を掛けられる。
見ると、第一防衛線から何度も一緒になった槍使いが、傷だらけの槍を持って立っていた。
「まだ槍残ってたんですね」
「これで最後だ」
男が手にしている槍を軽く持ち上げる。
穂先は欠け、柄にもいくつも傷が入っている。
「折れたら?」
「その辺の剣拾う」
「使えるんですか?」
「槍よりは下手だな」
「じゃあ折らないでください」
「お前も片刃剣折るなよ」
少し笑う。
……この二人となら。
そう思ったところで、前列から声が飛んだ。
「来るぞ!」
倉庫街へ続く坂の下を見る。
暗い街路の奥から、水憑きたちが姿を現していた。
防波壁からここまでずっと戦ってきたせいか、最初に見た時ほど密集してはいない。
それでも牙鼠や鱗蜥蜴がいくつも続き、その後ろにはガルグ獣らしい大きな影まで見えた。
……まだ、これだけいる。
僕たちは矢も減っている。
槍も。
盾も。
何より、ここにいる人たちにはもうほとんど交代が残っていない。
「弓隊! 近づくまで撃つな!」
ギルドマスターの声が響く。
「前衛は柵より前で受けろ! 押されたら一列ずつ下がれ! 絶対に一人で前へ残るな!」
返事が重なる。
僕も片刃剣を構えた。
……一人で残らない。
大丈夫。
今なら、その意味も分かる。
水憑きが坂を上がってくる。
最初の牙鼠が松明の明かりへ入った。
「撃て!」
残っていた矢が飛ぶ。
第一防衛線の時みたいな数じゃない。
それでも坂道を上っていた牙鼠へ何本かが刺さり、二体が転がるように地面へ倒れた。
後ろの鱗蜥蜴がそれを避け、左右へ広がろうとする。
「前衛! 構えろ!」
武器が一斉に上がる。
僕も足を開き、最初に来る牙鼠を見る。
少し左。
……あれなら槍が届く。
僕が無理に前へ出る必要はない。
「もらった!」
隣から槍が伸びる。
肩へ穂先が入り、牙鼠の身体がこちらへ傾いた。
……首。
一歩だけ踏み込み、片刃剣を振り抜く。
身体から力が抜けたところで、槍使いがそのまま押し返した。
「次!」
正面へ顔を戻す。
今度は鱗蜥蜴。
開いた顎が僕へ向く。
半歩だけ外へずれ、噛みつきが身体の横を抜けたところで首を狙おうとして――右にいるガルドさんが見えた。
……なら。
刃の腹を鱗蜥蜴の頭へ当て、そのまま顔を僕の方へ向ける。
反対側の首筋が空いた。
「いいぞ」
ガルドさんの剣が入る。
痛みに身体を捩った鱗蜥蜴がこちらへ向き直ったところで、今度は僕が首の下へ片刃剣を差し込んだ。
「押すぞ!」
「はい!」
二人で身体を前へ押す。
鱗蜥蜴が後ろの牙鼠へぶつかり、二体とも僅かに足を止めた。
「槍!」
「任せろ!」
横から穂先が飛び、牙鼠の胸元へ刺さった。
……やっぱり、やりやすい。
僕が一つ動けば、その続きを誰かがやってくれる。
ガルドさんが相手の向きを変えれば、僕が斬る場所が空く。
槍使いが止めた相手なら、そこへ一度だけ刃を通せばいい。
自分一人で一体を最初から最後まで倒す時より、ずっと少ない力で戦えている。
「右!」
ガルドさんの声に身体を向ける。
牙鼠が一体、隣の列を抜けかけていた。
けれど、その前にはもう別の剣士が入っている。
……あっちは任せられる。
僕が見るのは正面だ。
「来ます!」
「おう!」
今度は僕たちへ二体。
牙鼠と鱗蜥蜴。
先に届く牙鼠の爪を外へ流す。
ガルドさんがいる場所を塞がないよう、身体を少し左へ動かすと、そのまま剣が牙鼠の肩へ入った。
身体がガルドさんへ向く。
なら、僕は首。
片刃剣を通し、刃を抜くのと同時に反対を見る。
鱗蜥蜴の顎は槍使いが穂先で押さえていた。
「頼む!」
「はい!」
空いた首の下へ踏み込み、片刃剣を入れる。
倒れた二体を押し出してから、すぐに次を探す。
「お前、さっきより余計な力抜けてきたな」
「分かります?」
「分かる。前まで柄握り潰す気かと思ったぞ」
「そんなにですか?」
「そんなにだ」
言いながらガルドさんが牙鼠の爪を外へ流す。
今度は僕の正面へ身体が開いた。
……ここ。
踏み込み、首へ刃を走らせる。
「その代わり、前より周りは見えてる」
「それも分かります?」
「俺を使い始めたからな」
「使うって……」
言い方は悪いけれど。
たぶん、その通りだった。
ガルドさんがどこにいるのか。
どこへ相手を向ければ、次の剣が入りやすいのか。
槍使いの間合いはどこまでなのか。
それを考えながら動いている。
「じゃあガルドさんも、僕を使ってるんですか?」
「当たり前だろ」
即答だった。
「使えるもんは全部使う。お前も、俺も、そこにいる槍もだ。一人だけで綺麗に戦おうなんて考えるな」
「はい」
「周りがいるなら、全部込みで戦え」
その言葉を聞いた直後、障害物の残骸を越えて牙鼠が二体同時に飛び込んできた。
「左やる!」
「僕は右!」
二人で動く。
右の牙鼠へ一歩入り、こちらへ爪を誘う。
振り下ろされたところで身体を外へずらした。
……後ろに槍がある。
「お願いします!」
「任せろ!」
穂先が牙鼠の肩へ刺さる。
動きが止まったことだけ確認し、僕は反対へ向いた。
ガルドさんがもう一体の爪を剣で流し、その身体がちょうど僕の方へ開いている。
……こっち。
一歩入って、首へ片刃剣を通す。
牙鼠が倒れたところで振り返ると、さっき槍を受けた個体には別の剣士がもうトドメを入れていた。
……これでいい。
僕が一体を最後まで倒す必要なんてない。
誰かが続きをやれるなら、僕は次へ行けばいい。
「ルキウス」
「はい」
「今の忘れんなよ」
「忘れません」
今度は、すぐに答えた。
戦いが続くにつれて、第三防衛線から少しずつ余裕がなくなっていった。
最初は何列かに分かれていた前衛も、負傷者が後ろへ運ばれるたびに間が広がり、その穴へ別の人が入っていく。
屋根や高台側から飛んできていた矢も目に見えて減り、少し前なら一体へ何本も刺さっていたものが、今では本当に必要な時にしか飛んでこない。
「交代!」
少し離れたところから声が上がる。
「交代できる奴は!」
「いねえ! 今いる奴で回せ!」
……もう、新しく前へ出られる人はいない。
「弓、残り!」
「十本切った!」
「こっちは五本!」
「撃つな! 大型まで残せ!」
それでも、水憑きは止まらなかった。
「右列、押されてる!」
声に顔を向けかける。
けれど、僕の正面にも牙鼠がいる。
……あっちは任せる。
「前!」
「はい!」
ガルドさんの声に合わせ、振り下ろされた爪を避ける。
身体を戻しながら片刃剣を振ろうとしたところで、右腕が思ったより動かなかった。
「っ……!」
刃先が少し下がる。
「ルキウス!」
「大丈夫です!」
反射的に答えたけれど、柄を握り直した指まで僅かに震えている。
「大丈夫じゃねえだろ!」
ガルドさんが僕の前へ出て、牙鼠の爪を剣で流す。
「お前、疲れてからずっと肩と腕だけで振ってる!」
「腕だけ?」
「見てろ!」
ガルドさんが牙鼠へ踏み込んだ。
先に足が動く。
腰が回り、その続きで肩が入り、最後に剣が走った。
腕で力任せに振っているようには見えない。
……身体全部を使ってる。
「腕で振るんじゃねえ! 足から動け! 腰回せ! 腕は最後についてくるだけでいい!」
「足から……」
「次、お前!」
鱗蜥蜴が来る。
いつものように片刃剣を上げかけて、意識して止めた。
……足。
半歩踏み込む。
腰。
身体を回す。
その動きに肩と腕を乗せる。
片刃剣が横へ走り、鱗蜥蜴の首へ入った。
「……っ!」
軽い。
剣が軽くなったわけじゃない。
腕だけで振らなくなったことで、さっきまでよりずっと少ない力で刃が動いた。
「そうだ!」
ガルドさんの声。
「次もそれでやれ!」
牙鼠が来る。
爪を避けるために一歩動き、そのまま踏み込んだ足へ体重を乗せる。
腰を回して片刃剣を通すと、今度もさっきまでより刃が速かった。
「なんで今まで教えてくれなかったんですか!」
「今までのお前は言っても自分のやり方でやっただろうが!」
「そんなこと――」
一瞬考える。
「……あったかもしれません」
「だろうな!」
ガルドさんが笑う。
僕も少しだけ笑いそうになったけれど、もう次の水憑きが来ていた。
「前!」
「はい!」
今度は腕で追わない。
爪を避けるために足を動かし、その流れのまま腰を回して片刃剣を首へ通す。
抜く時も腕だけで引っ張らず、身体ごと少し回る。
……楽だ。
今までずいぶん無駄に力を使っていたらしい。
「ガルドさん」
「何だ!」
「これ、すごく楽です!」
「感想は後にしろ!」
「はい!」
言われながら次へ向く。
でも、少し嬉しかった。
腕が限界に近づいていたのに、まだ動ける。
身体の使い方を変えれば、もう少しここに立っていられる。
「お前、急に振り方変わったな」
横から槍使いが言う。
「教えてもらいました」
「今かよ!」
「僕もそう思います!」
男が声を上げて笑った。
「じゃあ俺も槍の使い方教えとくか」
「何でですか?」
「片刃剣折れたら使え!」
「だから槍を折らないでください!」
こんな状況なのに、ほんの一瞬だけ周りからも笑いが漏れた。
怖くないわけじゃない。
身体も痛い。
いつ突破されるかだって分からない。
……それでも、まだこうして話せている。
「大型!」
その一声で、笑いはすぐに消えた。
坂の下。
水憑きたちの間からガルグ獣が上がってくる。
「正面!」
ギルドマスターの声が響く。
「前衛、左右へ開け! 正面で受けるな!」
……同じだ。
防波壁でも。
倉庫街でもやった。
ガルグ獣が速度を上げる。
「開け!」
僕たちが左右へ分かれる。
巨体がその間へ突っ込んできた。
「脚!」
ガルドさんの声。
僕は右。
槍使いは左。
ガルドさんが少し後ろ。
ガルグ獣の頭が僕へ向く。
……今は斬らない。
一歩下がる。
巨体が追ってくる。
もう一歩。
「今!」
左から槍が前脚へ刺さった。
ガルグ獣の身体が僅かに傾く。
……足から。
一歩入る。
腰を回す。
後脚の付け根へ片刃剣を振り下ろした。
「っ……!」
硬い。
それでも刃は入った。
すぐ抜いて離れる。
ガルグ獣がこちらへ振り返ろうとした瞬間、ガルドさんの剣が首の横へ入った。
「もう一回!」
「はい!」
三人で、一体を少しずつ崩していく。
僕が注意を引けば槍が脚を止める。
ガルドさんへ頭が向けば、僕が横から入る。
僕へ向き直れば、今度は反対から剣が来る。
……やりやすい。
全員、疲れている。
身体だって思うようには動かなくなってきている。
それなのに三人で戦っている間だけ、ガルグ獣の動きが少なくなったように感じる。
……違う。
相手が動ける場所を、僕たちで減らしてるんだ。
「ルキウス、次そっち向くぞ!」
「はい!」
ガルドさんが首へ浅く剣を入れる。
ガルグ獣がそちらへ頭を向けたところで、僕が反対の脚へ斬りつけた。
痛みにこちらへ振り向けば、今度は槍が肩へ入り、また頭の向きが変わる。
「今だ!」
巨体の首が三人の間へ落ちた。
僕とガルドさんがほとんど同時に踏み込み、別々の方向から刃を首へ入れる。
ガルグ獣の身体が大きく揺れ、そのまま坂道へ倒れ込んだ。
「……っ、はぁ……!」
息を吐く。
槍使いも柄へ身体を預けるようにしている。
「きっつ……」
「大丈夫ですか?」
「お前に言われたくねえ」
どこかで聞いた言葉だった。
横を見ると、ガルドさんも肩で息をしている。
「ガルドさん」
「何だ」
「僕に言われたくないでしょうけど、大丈夫ですか?」
「お前ら揃ってうるせえよ」
そう言いながらも、その口元はほんの少し笑っていた。
そこから先は、誰かが倒れるたびに列が薄くなった。
負傷者を後ろへ運び、その穴を隣の人が少しずつ詰める。
また誰かが怪我をすれば同じことを繰り返し、最初は何列もあったはずの人の壁が、僕のいる場所ではいつの間にか二列ほどにまで減っていた。
「もう少し詰めろ!」
指示に合わせて一歩横へ動く。
隣にいた知らないハンターとの距離が近くなる。
「悪い」
「いえ」
それだけ言って前を見る。
牙鼠が一体。
その後ろに鱗蜥蜴。
……まだ来る。
でも。
「……減ってないか?」
隣の人が呟いた。
僕も同じことを感じていた。
少し前までは、一体倒した直後に次のモンスターが飛び込んできた。
今は、その間に僅かな時間がある。
「気を抜くな!」
すぐに声が飛ぶ。
片刃剣を構え直す。
……そうだ。
前にも止まった。
終わったと思った。
そのあと、もっと多いのが来た。
坂を上がってきた牙鼠へ向かう。
振り下ろされた爪を外へ流し、足から踏み込んで腰を回す。
片刃剣が首へ通り、牙鼠が地面へ倒れた。
すぐに顔を上げる。
次は――まだ来ない。
少し右に鱗蜥蜴がいる。
「右!」
「見えてる!」
ガルドさんが先に入る。
顎を剣で外へ流したところへ僕が踏み込み、首の下へ片刃剣を入れた。
二人で身体を押し返してから、もう一度坂の下を見る。
……やっぱり。
影が少なくなっている。
「弓、撃つな!」
ギルドマスターの声が響く。
「見える奴だけ確実に仕留めろ! まだ警戒を解くな!」
誰も喜ばなかった。
たぶん、みんな同じことを考えている。
前にも一度、水憑きは止まった。
その時に少し安心して。
そして今度は、さっきより遥かに多い数が押し寄せてきた。
……だから。
まだ信じられない。
「来るぞ!」
一体の牙鼠が坂を上がってくる。
僕は構える。
けれど、さっきまでみたいに、その後ろから何体も続いてはいなかった。
牙鼠が僕たちへ飛び込む。
ガルドさんが爪を外へ流す。
……僕の正面へ首が来る。
一歩踏み込み、腰を回して片刃剣を振り抜く。
牙鼠が地面へ倒れた。
すぐに次を探す。
……来ない。
坂の下。
暗い倉庫街。
その入口まで目を凝らしても、こちらへ向かってくる影は見えなかった。
「左は!」
「敵影減少! こちらへ来る個体は見えません!」
「右!」
「同じです! 今は止まっています!」
今は。
その言葉だけが妙に耳へ残った。
「全員、そのまま警戒!」
誰も武器を下ろさない。
「前衛は列を維持! まだ終わったと思うな!」
返事がいくつも上がった。
僕も片刃剣を握ったまま坂の下を見る。
呼吸は荒いし、腕ももうかなり重い。
それでも構えたまま、何かが動けばすぐ反応できるよう待ち続けた。
「……悪い」
隣から声がする。
槍使いが槍の石突きを地面へつけ、そこへ少しだけ身体を預けていた。
「ちょっとだけ支えにする」
「折らないでくださいよ」
「もう戦ってねえ時くらいいいだろ」
まだ戦っていないとは決まっていない。
でも、それは言わなかった。
ガルドさんを見る。
剣はまだ下ろしていない。
ただ、さっきまで上がっていた肩がほんの少しだけ落ちている。
また待つ。
坂の下には何も来ない。
少し遠くで誰かの荒い呼吸が聞こえ、その向こうから負傷者を運ぶ人たちの声が重なる。
あれほど近くで響き続けていたモンスターの声だけが、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「……来ないな」
誰かが呟く。
返事をする人はいなかった。
僕も何も言えない。
終わった。
そう言ってしまうのが怖かった。
前にも、同じことを思ったからだ。
それでも時間だけは過ぎていく。
誰も数えてなんていないはずなのに、ほんの僅かな時間がずいぶん長く感じられた。
「……前方、敵影なし」
屋根の上から小さな声が落ちてくる。
「倉庫街入口も動きなし!」
別の声も続いた。
ギルドマスターはすぐには何も言わなかった。
僕たちも武器を構えたまま待つ。
やがて。
「……警戒は続ける」
低い声が響いた。
「前衛から順番に休ませろ。負傷者は治療へ。動ける者は武器を持ったまま待機だ」
そこで初めて、隣にいた誰かが長く息を吐いた。
その場へ座り込む人がいる。
剣を持ったまま柵へ背中を預ける人もいる。
槍使いも、ようやく地面へ腰を下ろした。
「……無理」
「大丈夫ですか?」
「立てるけど、今は立ちたくねえ」
「……分かります」
僕も同じだった。
でも、座る前に一度だけ後ろを見る。
高台へ続く坂道。
その向こうにいる避難した人たちのところまで、モンスターは一体も来ていない。
……守れた。
少なくとも。
今、この時間までは。
胸に人形を抱いた女の子を思い出す。
『帰れる?』
まだ帰れるとは言えない。
海も戻っていないし、水禍渡りそのものが終わったのかだって分からない。
それでも、ここより後ろへは一体も通さなかった。
「ルキウス」
「……はい」
ガルドさんの声に振り返る。
「剣」
「え?」
「もういい。少し下ろせ」
言われて初めて、自分がまだ片刃剣を構えたままだったことに気づいた。
「……あ」
腕を下ろそうとする。
でも。
動かない。
「……?」
片刃剣を握っている指へ視線を落とす。
力を入れているつもりなんて、もうない。
それなのに、指が柄へ張りついたみたいに離れなかった。
「おい」
ガルドさんが近づいてくる。
「ちょっと待ってください」
自分で指を開こうとする。
親指へ力を入れる。
少しだけ動く。
でも、人差し指も中指も思ったようには開かなかった。
……身体だけ。
まだ戦ってるみたいだ。
「無理に動かすな」
ガルドさんが僕の手を見る。
「握り込みすぎて固まってるだけだ」
「これ、どうすれば」
「だから待てって」
ガルドさんの手が僕の指へ触れる。
親指から一本ずつ、柄から剥がすようにゆっくり開いていく。
「……痛っ」
「我慢しろ」
「戦ってる時より痛いんですけど」
「気が抜けたからだ」
人差し指。
中指。
そこまで外れたところで片刃剣の重さが急に手から抜けた。
「おっと」
落ちる前にガルドさんが柄を掴む。
「危な……」
「だから任せろって言っただろ」
そのまま片刃剣を僕へ返さず、自分の剣と一緒に持つ。
「少し休め」
「でも、警戒が」
「他の奴がやってる」
周囲を見る。
確かに、まだ前を向いて武器を構えている人がいる。
僕が今だけ剣を持っていなくても、誰かが坂の下を見てくれている。
……そっか。
「じゃあ……少しだけ」
「ああ」
その場へ腰を下ろす。
座った途端、身体の重さが一気に戻ってきた。
背中の傷も。
腕も。
脚も。
乾いた喉も。
戦っている間は後回しにしていたものが、今になって全部まとめて存在を主張し始める。
「……疲れた」
思わず口から漏れた。
「そりゃそうだろ」
ガルドさんも僕の横へ腰を下ろす。
僕の片刃剣は、自分の剣と一緒にすぐ手の届くところへ置いた。
少し離れた場所では、槍使いが地面へ仰向けになっている。
「寝てません?」
「起きてる」
「目閉じてますよ」
「起きてる」
……まあ。
今くらいはいいか。
前を見る。
暗い坂道には、もう動く影がない。
歓声は上がらなかった。
勝ったと叫ぶ人もいない。
ただ、武器を手元へ残したまま座り込んでいる人たちと、負傷者を運ぶ足音だけが、静かになった第三防衛線に残っている。
「……終わった、のか?」
誰かの声が、小さく街路へ落ちた。
誰も答えなかった。
――キィィィィィィイイン。
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