駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第三章 第十四話『少年は最後の壁で抗う』

◆

 

「第一、第二から下がった者は空いている場所へ入れ!」

 

 少し高い場所からギルドマスターの声が響く。

 

「負傷の重い者は後ろへ! 動ける者も無理に前へ詰めるな! 今いる人数で列を崩さず持たせるぞ!」

 

 僕も前へ進もうとしたところで、肩を掴まれた。

 

「お前はこっちだ」

 

「ガルドさん」

 

 振り返る。

 ガルドさんもかなり疲れている。

 鎧にはいくつも新しい傷が増え、犬耳の片方には乾いた血までついていた。

 

「怪我してるじゃないですか」

「お前にだけは言われたくねえよ」

「耳、血が出てます」

「掠っただけだ。聞こえてるなら問題ねえ」

 

 そう言いながら、今度は僕の背中へ視線が向く。

 

「そっちは?」

「まだ動けます」

「聞き飽きたな、その答え」

「本当なので」

 

 ガルドさんが鼻から息を吐く。

 

「なら俺の横にいろ。さっきと同じだ」

「はい」

 

 その言葉だけで、少し気持ちが楽になった。

 今度は最初から分かっている。

 全部を一人で見なくていい。

 ガルドさんがいるし、周りにも一緒に戦う人がいる。

 

「お、また一緒か」

 

 反対側から声を掛けられる。

 見ると、第一防衛線から何度も一緒になった槍使いが、傷だらけの槍を持って立っていた。

 

「まだ槍残ってたんですね」

「これで最後だ」

 

 男が手にしている槍を軽く持ち上げる。

 穂先は欠け、柄にもいくつも傷が入っている。

 

「折れたら?」

「その辺の剣拾う」

「使えるんですか?」

「槍よりは下手だな」

「じゃあ折らないでください」

「お前も片刃剣折るなよ」

 

 少し笑う。

 ……この二人となら。

 そう思ったところで、前列から声が飛んだ。

 

「来るぞ!」

 

 倉庫街へ続く坂の下を見る。

 暗い街路の奥から、水憑きたちが姿を現していた。

 防波壁からここまでずっと戦ってきたせいか、最初に見た時ほど密集してはいない。

 それでも牙鼠や鱗蜥蜴がいくつも続き、その後ろにはガルグ獣らしい大きな影まで見えた。

 ……まだ、これだけいる。

 僕たちは矢も減っている。

 槍も。

 盾も。

 何より、ここにいる人たちにはもうほとんど交代が残っていない。

 

「弓隊! 近づくまで撃つな!」

 

 ギルドマスターの声が響く。

 

「前衛は柵より前で受けろ! 押されたら一列ずつ下がれ! 絶対に一人で前へ残るな!」

 

 返事が重なる。

 僕も片刃剣を構えた。

 ……一人で残らない。

 大丈夫。

 今なら、その意味も分かる。

 

 水憑きが坂を上がってくる。

 最初の牙鼠が松明の明かりへ入った。

 

「撃て!」

 

 残っていた矢が飛ぶ。

 第一防衛線の時みたいな数じゃない。

 それでも坂道を上っていた牙鼠へ何本かが刺さり、二体が転がるように地面へ倒れた。

 後ろの鱗蜥蜴がそれを避け、左右へ広がろうとする。

 

「前衛! 構えろ!」

 

 武器が一斉に上がる。

 僕も足を開き、最初に来る牙鼠を見る。

 少し左。

 ……あれなら槍が届く。

 僕が無理に前へ出る必要はない。

 

「もらった!」

 

 隣から槍が伸びる。

 肩へ穂先が入り、牙鼠の身体がこちらへ傾いた。

 

 ……首。

 

 一歩だけ踏み込み、片刃剣を振り抜く。

 身体から力が抜けたところで、槍使いがそのまま押し返した。

 

「次!」

 

 正面へ顔を戻す。

 今度は鱗蜥蜴。

 開いた顎が僕へ向く。

 半歩だけ外へずれ、噛みつきが身体の横を抜けたところで首を狙おうとして――右にいるガルドさんが見えた。

 

 ……なら。

 

 刃の腹を鱗蜥蜴の頭へ当て、そのまま顔を僕の方へ向ける。

 反対側の首筋が空いた。

 

「いいぞ」

 

 ガルドさんの剣が入る。

 痛みに身体を捩った鱗蜥蜴がこちらへ向き直ったところで、今度は僕が首の下へ片刃剣を差し込んだ。

 

「押すぞ!」

「はい!」

 

 二人で身体を前へ押す。

 鱗蜥蜴が後ろの牙鼠へぶつかり、二体とも僅かに足を止めた。

 

「槍!」

「任せろ!」

 

 横から穂先が飛び、牙鼠の胸元へ刺さった。

 

 ……やっぱり、やりやすい。

 

 僕が一つ動けば、その続きを誰かがやってくれる。

 ガルドさんが相手の向きを変えれば、僕が斬る場所が空く。

 槍使いが止めた相手なら、そこへ一度だけ刃を通せばいい。

 自分一人で一体を最初から最後まで倒す時より、ずっと少ない力で戦えている。

 

「右!」

 

 ガルドさんの声に身体を向ける。

 牙鼠が一体、隣の列を抜けかけていた。

 けれど、その前にはもう別の剣士が入っている。

 ……あっちは任せられる。

 僕が見るのは正面だ。

 

「来ます!」

「おう!」

 

 今度は僕たちへ二体。

 牙鼠と鱗蜥蜴。

 先に届く牙鼠の爪を外へ流す。

 ガルドさんがいる場所を塞がないよう、身体を少し左へ動かすと、そのまま剣が牙鼠の肩へ入った。

 身体がガルドさんへ向く。

 なら、僕は首。

 片刃剣を通し、刃を抜くのと同時に反対を見る。

 鱗蜥蜴の顎は槍使いが穂先で押さえていた。

 

「頼む!」

「はい!」

 

 空いた首の下へ踏み込み、片刃剣を入れる。

 倒れた二体を押し出してから、すぐに次を探す。

 

 もう、一体を最後まで自分で倒そうとは思わなかった。

 

 槍が止めたなら任せる。

 ガルドさんが相手をこちらへ向けたなら斬る。

 僕が崩した相手を、別の誰かが仕留めてもいい。

 

 第二防衛線で教わったことを、今度はいちいち考えなくても身体が選び始めていた。

 

「右、抜けるぞ!」

 

 少し離れたところから声が上がる。

 顔を向けかけて、すぐ正面へ戻した。

 

 向こうにはもう別の剣士が走っている。

 

 なら、僕が見る必要はない。

 

「前!」

「はい!」

 

 ガルドさんの声に合わせ、飛び込んできた牙鼠の爪を半歩ずれて躱す。

 追いかけて首まで斬ろうとはせず、身体の向きだけを変えた。

 

 横から槍が伸びる。

 

 牙鼠が止まる。

 

 その脇を抜けてきた鱗蜥蜴へ、今度は僕が片刃剣を向けた。

 

 ……これでいい。

 

 全部を自分でやらなくていい。

 周りを見て、任せられるところは任せる。

 

 そうしている方が、ずっと少ない力で戦える。

 

 ――それでも。

 

 戦いが続くにつれて、第三防衛線から少しずつ余裕がなくなっていった。

 

 最初は何列かに分かれていた前衛も、負傷者が後ろへ運ばれるたびに間が広がり、その穴へ別の人が入っていく。

 屋根や高台側から飛んできていた矢も目に見えて減り、少し前なら一体へ何本も刺さっていたものが、今では本当に必要な時にしか飛んでこない。

 

「交代!」

 

 少し離れたところから声が上がる。

 

「交代できる奴は!」

「いねえ! 今いる奴で回せ!」

 

 ……もう、新しく前へ出られる人はいない。

 

「弓、残り!」

「十本切った!」

「こっちは五本!」

「撃つな! 大型まで残せ!」

 

 それでも、水憑きは止まらなかった。

 

「右列、押されてる!」

 

 声に顔を向けかける。

 けれど、僕の正面にも牙鼠がいる。

 ……あっちは任せる。

 

「前!」

「はい!」

 

 ガルドさんの声に合わせ、振り下ろされた爪を避ける。

 身体を戻しながら片刃剣を振ろうとしたところで、右腕が思ったより動かなかった。

 

「っ……!」

 

 刃先が落ちる。

 慌てて柄を握り直した指まで、僅かに震えていた。

 

「ルキウス!」

「大丈夫です!」

「大丈夫じゃねえだろ!」

 

 ガルドさんが僕の前へ割り込み、牙鼠の爪を剣で外へ流した。

 そのまま相手を押し返しながら、一瞬だけこちらを見る。

 

「お前、疲れてからずっと肩と腕だけで振ってる!」

「腕だけ?」

「見てろ!」

 

 ガルドさんが踏み込む。

 最初に動いたのは、剣ではなかった。

 

 足が雪でも泥でもない石畳を踏み込み、そこから腰が回る。

 肩が続き、最後に腕と剣が走った。

 

 大きく力んだようには見えない。

 なのに、牙鼠の身体が横へ弾かれた。

 ……身体全部を使ってる。

 

「腕で振るんじゃねえ! 足から動け! 腰を回せ! 腕は最後についてくるだけでいい!」

「足から……」

「次、お前!」

 

 考える暇もなく、鱗蜥蜴が飛び込んでくる。

 いつものように片刃剣を持ち上げかけて、途中で止めた。

 ……足。

 半歩、踏み込む。

 腰を回す。

 その動きに、肩と腕を乗せる。

 片刃剣が横へ走り、鱗蜥蜴の首へ食い込んだ。

 

「……っ!」

 

 軽い。

 剣が軽くなったわけじゃない。

 腕だけで振らなかったから、さっきまでよりずっと少ない力で刃が走ったのだ。

 

「そうだ!」

 

 ガルドさんの声が飛ぶ。

 

「次もそれでやれ!」

 

 牙鼠が来る。

 

 爪を避けるために足を動かし、そのまま踏み込んだ足へ体重を乗せる。

 腰を回して片刃剣を通すと、今度もさっきまでより刃が速かった。

 

「なんで今まで教えてくれなかったんですか!」

「今までのお前は言っても自分のやり方でやっただろうが!」

「そんなこと――」

 

 一瞬考える。

 

「……あったかもしれません」

「だろうな!」

 

 ガルドさんが笑う。

 僕も少しだけ笑いそうになったけれど、もう次の水憑きが来ていた。

 

「前!」

「はい!」

 

 今度は腕で追わない。

 足を動かし、腰を回し、その流れのまま片刃剣を首へ通す。

 抜く時も腕だけで引っ張らず、身体ごと少し回る。

 ……楽だ。

 今まで、ずいぶん無駄に力を使っていたらしい。

 

「ガルドさん!」

「何だ!」

「これ、すごく楽です!」

「感想は後にしろ!」

「はい!」

 

 言われながら次へ向く。

 でも、少し嬉しかった。

 

 腕が限界に近づいていたのに、まだ動ける。

 第二防衛線で覚えたのは、周りと一緒に戦うこと。

 そして今度は――自分の身体の使い方を教わっている。

 戦いはまだ終わっていない。

 なのに僕は、こんな状況でもまた一つ、知らなかったことを知っていた。

 

「お前、急に振り方変わったな」

 

 横から槍使いが言う。

 

「教えてもらいました」

「今かよ!」

「僕もそう思います!」

 

 男が声を上げて笑った。

 

「じゃあ俺も槍の使い方教えとくか」

「何でですか?」

「片刃剣折れたら使え!」

「だから槍を折らないでください!」

 

 こんな状況なのに、ほんの一瞬だけ周りからも笑いが漏れた。

 怖くないわけじゃない。

 身体も痛い。

 いつ突破されるかだって分からない。

 ……それでも、まだこうして話せている。

 

「大型!」

 

 その一声で、笑いはすぐに消えた。

 

 坂の下。

 水憑きたちの間からガルグ獣が上がってくる。

 

「正面!」

 

 ギルドマスターの声が響く。

 

「前衛、左右へ開け! 正面で受けるな!」

 

 ……同じだ。

 

 防波壁でも。

 倉庫街でもやった。

 

 ガルグ獣が速度を上げる。

 

「開け!」

 

 僕たちが左右へ分かれる。

 巨体がその間へ突っ込んできた。

 

「脚!」

 

 ガルドさんの声。

 僕は右。

 槍使いは左。

 ガルドさんが少し後ろ。

 

 ガルグ獣の頭が僕へ向く。

 

 ……今は斬らない。

 

 一歩下がる。

 巨体が追ってくる。

 

 もう一歩。

 

「今!」

 

 左から槍が前脚へ刺さった。

 ガルグ獣の身体が僅かに傾く。

 

 ……足から。

 

 一歩入る。

 腰を回す。

 後脚の付け根へ片刃剣を振り下ろした。

 

「っ……!」

 

 硬い。

 それでも刃は入った。

 

 すぐ抜いて離れる。

 ガルグ獣がこちらへ振り返ろうとした瞬間、ガルドさんの剣が首の横へ入った。

 

「もう一回!」

「はい!」

 

 三人で、一体を少しずつ崩していく。

 僕が注意を引けば槍が脚を止める。

 ガルドさんへ頭が向けば、僕が横から入る。

 僕へ向き直れば、今度は反対から剣が来る。

 

 ……やりやすい。

 

 全員、疲れている。

 身体だって思うようには動かなくなってきている。

 それなのに三人で戦っている間だけ、ガルグ獣の動きが少なくなったように感じる。

 

 ……違う。

 

 相手が動ける場所を、僕たちで減らしてるんだ。

 

「ルキウス、次そっち向くぞ!」

「はい!」

 

 ガルドさんが首へ浅く剣を入れる。

 ガルグ獣がそちらへ頭を向けたところで、僕が反対の脚へ斬りつけた。

 痛みにこちらへ振り向けば、今度は槍が肩へ入り、また頭の向きが変わる。

 

「今だ!」

 

 巨体の首が三人の間へ落ちた。

 僕とガルドさんがほとんど同時に踏み込み、別々の方向から刃を首へ入れる。

 ガルグ獣の身体が大きく揺れ、そのまま坂道へ倒れ込んだ。

 

「……っ、はぁ……!」

 

 息を吐く。

 槍使いも柄へ身体を預けるようにしている。

 

「きっつ……」

「大丈夫ですか?」

「お前に言われたくねえ」

 

 どこかで聞いた言葉だった。

 横を見ると、ガルドさんも肩で息をしている。

 

「ガルドさん」

「何だ」

「僕に言われたくないでしょうけど、大丈夫ですか?」

「お前ら揃ってうるせえよ」

 

 そう言いながらも、その口元はほんの少し笑っていた。

 

 そこから先は、誰かが倒れるたびに列が薄くなった。

 負傷者を後ろへ運び、その穴を隣の人が少しずつ詰める。

 また誰かが怪我をすれば同じことを繰り返し、最初は何列もあったはずの人の壁が、僕のいる場所ではいつの間にか二列ほどにまで減っていた。

 

「もう少し詰めろ!」

 

 指示に合わせて一歩横へ動く。

 隣にいた知らないハンターとの距離が近くなる。

 

「悪い」

「いえ」

 

 それだけ言って前を見る。

 牙鼠が一体。

 その後ろに鱗蜥蜴。

 

 ……まだ来る。

 

 でも。

 

「……減ってないか?」

 

 隣の人が呟いた。

 僕も同じことを感じていた。

 少し前までは、一体倒した直後に次のモンスターが飛び込んできた。

 今は、その間に僅かな時間がある。

 

「気を抜くな!」

 

 すぐに声が飛ぶ。

 片刃剣を構え直す。

 

 ……そうだ。

 

 前にも止まった。

 終わったと思った。

 

 そのあと、もっと多いのが来た。

 

 坂を上がってきた牙鼠へ向かう。

 振り下ろされた爪を外へ流し、足から踏み込んで腰を回す。

 片刃剣が首へ通り、牙鼠が地面へ倒れた。

 すぐに顔を上げる。

 

 次は――まだ来ない。

 

 少し右に鱗蜥蜴がいる。

 

「右!」

「見えてる!」

 

 ガルドさんが先に入る。

 顎を剣で外へ流したところへ僕が踏み込み、首の下へ片刃剣を入れた。

 二人で身体を押し返してから、もう一度坂の下を見る。

 

 ……やっぱり。

 

 影が少なくなっている。

 

「弓、撃つな!」

 

 ギルドマスターの声が響く。

 

「見える奴だけ確実に仕留めろ! まだ警戒を解くな!」

 

 誰も喜ばなかった。

 たぶん、みんな同じことを考えている。

 前にも一度、水憑きは止まった。

 その時に少し安心して。

 そして今度は、さっきより遥かに多い数が押し寄せてきた。

 

 ……だから。

 

 まだ信じられない。

 

「来るぞ!」

 

 一体の牙鼠が坂を上がってくる。

 僕は構える。

 けれど、さっきまでみたいに、その後ろから何体も続いてはいなかった。

 

 牙鼠が僕たちへ飛び込む。

 ガルドさんが爪を外へ流す。

 

 ……僕の正面へ首が来る。

 

 一歩踏み込み、腰を回して片刃剣を振り抜く。

 牙鼠が地面へ倒れた。

 

 すぐに次を探す。

 

 ……来ない。

 

 坂の下。

 暗い倉庫街。

 その入口まで目を凝らしても、こちらへ向かってくる影は見えなかった。

 

「左は!」

「敵影減少! こちらへ来る個体は見えません!」

「右!」

「同じです! 今は止まっています!」

 

 今は。

 その言葉だけが妙に耳へ残った。

 

「全員、そのまま警戒!」

 

 誰も武器を下ろさない。

 

「前衛は列を維持! まだ終わったと思うな!」

 

 返事がいくつも上がった。

 僕も片刃剣を握ったまま坂の下を見る。

 呼吸は荒いし、腕ももうかなり重い。

 それでも構えたまま、何かが動けばすぐ反応できるよう待ち続けた。

 

「……悪い」

 

 隣から声がする。

 槍使いが槍の石突きを地面へつけ、そこへ少しだけ身体を預けていた。

 

「ちょっとだけ支えにする」

「折らないでくださいよ」

「もう戦ってねえ時くらいいいだろ」

 

 まだ戦っていないとは決まっていない。

 でも、それは言わなかった。

 

 ガルドさんを見る。

 剣はまだ下ろしていない。

 ただ、さっきまで上がっていた肩がほんの少しだけ落ちている。

 

 また待つ。

 坂の下には何も来ない。

 少し遠くで誰かの荒い呼吸が聞こえ、その向こうから負傷者を運ぶ人たちの声が重なる。

 あれほど近くで響き続けていたモンスターの声だけが、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 

「……来ないな」

 

 誰かが呟く。

 返事をする人はいなかった。

 僕も何も言えない。

 

 終わった。

 

 そう言ってしまうのが怖かった。

 前にも、同じことを思ったからだ。

 

 それでも時間だけは過ぎていく。

 誰も数えてなんていないはずなのに、ほんの僅かな時間がずいぶん長く感じられた。

 

「……前方、敵影なし」

 

 屋根の上から小さな声が落ちてくる。

 

「倉庫街入口も動きなし!」

 

 別の声も続いた。

 ギルドマスターはすぐには何も言わなかった。

 僕たちも武器を構えたまま待つ。

 

 やがて。

 

「……警戒は続ける」

 

 低い声が響いた。

 

「前衛から順番に休ませろ。負傷者は治療へ。動ける者は武器を持ったまま待機だ」

 

 そこで初めて、隣にいた誰かが長く息を吐いた。

 その場へ座り込む人がいる。

 剣を持ったまま柵へ背中を預ける人もいる。

 槍使いも、ようやく地面へ腰を下ろした。

 

「……無理」

 

「大丈夫ですか?」

「立てるけど、今は立ちたくねえ」

「……分かります」

 

 僕も同じだった。

 

 でも、座る前に一度だけ後ろを見る。

 高台へ続く坂道。

 その向こうにいる避難した人たちのところまで、モンスターは一体も来ていない。

 

 ……守れた。

 

 少なくとも。

 今、この時間までは。

 

 胸に人形を抱いた女の子を思い出す。

 

『帰れる?』

 

 まだ帰れるとは言えない。

 海も戻っていないし、水禍渡りそのものが終わったのかだって分からない。

 それでも、ここより後ろへは一体も通さなかった。

 

「ルキウス」

 

「……はい」

 

 ガルドさんの声に振り返る。

 

「剣」

「え?」

「もういい。少し下ろせ」

 

 言われて初めて、自分がまだ片刃剣を構えたままだったことに気づいた。

 

「……あ」

 

 腕を下ろそうとする。

 

 でも。

 

 動かない。

 

「……?」

 

 片刃剣を握っている指へ視線を落とす。

 力を入れているつもりなんて、もうない。

 それなのに、指が柄へ張りついたみたいに離れなかった。

 

「おい」

 

 ガルドさんが近づいてくる。

 

「ちょっと待ってください」

 

 自分で指を開こうとする。

 親指へ力を入れる。

 少しだけ動く。

 でも、人差し指も中指も思ったようには開かなかった。

 

 ……身体だけ。

 

 まだ戦ってるみたいだ。

 

「無理に動かすな」

 

 ガルドさんが僕の手を見る。

 

「握り込みすぎて固まってるだけだ」

「これ、どうすれば」

「だから待てって」

 

 ガルドさんの手が僕の指へ触れる。

 親指から一本ずつ、柄から剥がすようにゆっくり開いていく。

 

「……痛っ」

「我慢しろ」

「戦ってる時より痛いんですけど」

「気が抜けたからだ」

 

 人差し指。

 中指。

 そこまで外れたところで片刃剣の重さが急に手から抜けた。

 

「おっと」

 

 落ちる前にガルドさんが柄を掴む。

 

「危な……」

「だから任せろって言っただろ」

 

 そのまま片刃剣を僕へ返さず、自分の剣と一緒に持つ。

 

「少し休め」

「でも、警戒が」

「他の奴がやってる」

 

 周囲を見る。

 確かに、まだ前を向いて武器を構えている人がいる。

 僕が今だけ剣を持っていなくても、誰かが坂の下を見てくれている。

 

 ……そっか。

 

「じゃあ……少しだけ」

「ああ」

 

 その場へ腰を下ろす。

 座った途端、身体の重さが一気に戻ってきた。

 背中の傷も。

 腕も。

 脚も。

 乾いた喉も。

 戦っている間は後回しにしていたものが、今になって全部まとめて存在を主張し始める。

 

「……疲れた」

 

 思わず口から漏れた。

 

「そりゃそうだろ」

 

 ガルドさんも僕の横へ腰を下ろす。

 僕の片刃剣は、自分の剣と一緒にすぐ手の届くところへ置いた。

 

 少し離れた場所では、槍使いが地面へ仰向けになっている。

 

「寝てません?」

「起きてる」

「目閉じてますよ」

「起きてる」

 

 ……まあ。

 今くらいはいいか。

 

 前を見る。

 暗い坂道には、もう動く影がない。

 歓声は上がらなかった。

 勝ったと叫ぶ人もいない。

 ただ、武器を手元へ残したまま座り込んでいる人たちと、負傷者を運ぶ足音だけが、静かになった第三防衛線に残っている。

 

「……終わった、のか?」

 

 誰かの声が、小さく街路へ落ちた。

 誰も答えなかった。

 

 ――キィィィィィィイイン。

 

 ◆

 




 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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