駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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――キィィィィィィイイン。
耳の奥へ突き刺さった海鳴りは、これまで聞いたどの音よりも長く、痛かった。
座り込んだまま反射的に耳を押さえる。
頭蓋の内側へ直接刃を差し込まれたような痛みが走り、視界まで僅かに揺れた。
「っ……」
隣にいたガルドさんも顔を歪めている。
少し離れたところでは、横になっていた槍使いが身体を起こし、獣人族のハンターたちは耳を伏せていた。
誰も声を出さない。
……また。
その言葉だけが頭に浮かぶ。
さっきの襲撃が止まり、何も来ない時間が続いて、ほんの少しだけ終わったのかもしれないと思った。
なのに。
海鳴りが響いた。
「敵影は!?」
ギルドマスターの声が飛ぶ。
「海側を確認しろ! 何が来る!」
屋根や高い建物に残っていた人たちが一斉に港側を見る。
僕も立ち上がろうとして身体へ力を入れた。
「……っ」
脚が重い。
一度座ってしまったせいか、戦っていた時よりずっと身体が言うことを聞かなかった。
どうにか片膝をついたところで、海鳴りが途切れる。
急に静かになった。
……モンスターの声がしない。
前の時は海鳴りのあとに水憑きが来た。
倉庫街へ続く坂道を見ても、牙鼠も鱗蜥蜴も姿を現さない。
「敵影なし!」
高いところから声が落ちてくる。
「倉庫街にもいない!」
「左右は!?」
「見えません!」
ざわめきが広がった。
「……じゃあ、今のは」
誰かの声。
答えが返ってくるより先に、別の場所から叫び声が上がった。
悲鳴にも近い声が。
「海を見ろ!」
「海だ! 沖を見ろ!」
僕のいる場所から海そのものはほとんど見えない。
それでも港側へ顔を向けた瞬間、そこだけ何かがおかしいことは分かった。
暗い夜空の下。
崩れた防波壁のさらに向こう。
引いた海の底、そのずっと先にあった黒い線が、ゆっくりと高くなっていく。
最初は、海が戻ってきているのかと思った。
そうであってほしかった。
……だけど、違う。
戻っているんじゃない。
沖へ引いていた水が、一か所へ集まっている。
遠すぎて細かな形までは見えない。
それでも月明かりを反射する水が持ち上がり、その中心から巨大な黒い影が立ち上がっていくのだけは見えた。
「……」
誰も何も言わない。
黒い影が僅かに動く。
それだけで周囲に集まった水まで持ち上がり、背後へ大きく広がっていった。
……壁。
そう見えた。
海そのものを立ち上げたみたいな水の壁が、夜の向こうにある。
「嘘だろ……」
掠れた声が聞こえた。
「なんだよ、あれ……」
僕にも分からない。
何のモンスターなのか。
どうやって倒せばいいのか。
そもそも、あれをモンスターと呼んでいいのかさえ分からない。
ただ。
これまで街へ向かってきた水憑きとは、明らかに違う。
見た瞬間、それだけは分かってしまった。
……水禍渡りの主。
そう呼ぶしかないものが、海の向こうにいる。
「……無理だ」
誰かが呟いた。
今度は、誰も否定しなかった。
第一防衛線だった場所を見る。
防波壁は大きく崩れ、海から街を隔てる壁としての形をほとんど残していない。
倉庫街も抜かれた。
僕たちがいる第三防衛線だって、さっきの戦いで人の列は大きく削られている。
矢もほとんどない。
薬も。
魔力も。
まともに使える投射器なんて、とっくに残っていない。
そして何より、立っている人がほとんどいなかった。
戦いが止まったあと、その場へ座り込んだ人たちは海の向こうを見たまま動けなくなっている。
武器を手元へ置いた人。
膝をついたまま顔を上げられない人。
傷を押さえながら、水の壁だけを見ている人。
誰が、彼らを責められようか。
僕だって怖かった。
脚が震えている。
呼吸も浅い。
身体中が痛くて、右手はさっきまで片刃剣の柄から離すことすらできなかった。
武器を握ったところで、あれに僕の刃が届くのか分からない。
そもそも、あそこまで辿り着けるのかも分からない。
背後にある水が街へ押し寄せれば、戦う前に全部呑み込まれるかもしれない。
作戦なんてない。
どうすれば勝てるのかも分からない。
……何も残っていない。
今度こそ、本当に。
後ろを見る。
第三防衛線の向こうには、高台へ続く坂道がある。
その先には避難所がある。
女将さんがいる。
アルナさんがいる。
セラフィーンさんがいる。
それから。
『お兄ちゃんも帰ってくる?』
胸へ布の兎を抱いた女の子の顔が浮かんだ。
『僕も帰ってくる』
『約束?』
『約束』
……帰る。
僕は、帰りたい。
この街へ来て。
角兎亭に泊まって。依頼を受けて。怪我をして。怒られて。
色んな人に、本当にいろんな人に助けてもらった。
「帰ったら女将さんのご飯を食べたいな」
――気づけば、体は動いていた。
ギルドへ行ったら、アルナさんにまた怒られるかもしれない。
教会へ行けば、セラフィーンさんにも何か言われる。
ガルドさんとも、まだ話したいことがある。
僕が帰りたい場所が、ここにある。
……だから。
ここで立たなかったら。
帰る場所そのものが、なくなる。
――右手を伸ばす。
「……ルキウス?」
ガルドさんの声がした。
すぐ横に置かれていた片刃剣。
さっきガルドさんが僕の手から外してくれたそれを、もう一度右手で握る。
指が痛い。
それでも、握れる。
「坊主」
今度は少し強い声だった。
聞こえている。
でも、今は立つ。
片刃剣を支えにしないよう脚へ力を込める。
一度膝が揺れたけれど、どうにか身体を起こした。
――ほとんど同時に、少し離れたところから重い金属音がした。
「……」
顔を向ける。
フレイヴィアさんだった。
南側で戦っていたせいか黒髪は乱れ、鎧にもいくつもの傷が残っている。
昨日渡した青緑色の髪飾りだけは、まだ黒髪の横についていた。
その人も、大剣を握って立っている。
「フレイヴィアさん」
「――ルキウス」
黄金の瞳が僕を見る。
それから二人で、ほとんど同じタイミングで前を向いた。
第三防衛線の前。
誰も立っていない場所へ一歩進む。
「逃げぬのか?」
「フレイヴィアさんこそ」
「ふ。誰に向かって口をきいている」
僕の右手には片刃剣。
隣には大剣を持ったフレイヴィアさん。
後ろを振り返らなくても分かった。
今、武器を握って前へ立っているのは、僕たち二人だけだった。
「そうか。余の隣に立つか」
フレイヴィアさんは海の向こうから目を逸らさない。
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
勝てるとは言わない。
大丈夫だとも。
水禍渡りを止めるとも言わない。
何一つ約束しないまま、ただ隣にいる……それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
一人じゃない。
まだ、隣に立つ人がいる。
片刃剣を両手で握り直す。
右手は震えていた。
でも、それでいい。
怖いまま立っていればいい。
海の向こうを見る。
巨大な影。
その周囲へ集まった水。
街まで続く、遮るもののほとんどなくなった道。
勝てる保証なんてどこにもない。
それでも、諦めるつもりはなかった。
――冷たい風が吹いた。
「っ……」
沖から街へ向かって、水の匂いを強く含んだ風が防衛線を抜ける。
残っていた旗が大きくはためき、外套が背中へ煽られた。
次の瞬間、頭へ被っていたフードが外れる。
冷たい風が、初めて人前で晒した顔へ直接触れた。
背中へ手を回せば、すぐに戻せる。
なのに、手は動かなかった……違うか。
動かそうと思わなかった。
今、そんなことをしている場合じゃない。
目の前にいるのは水禍渡りの主。
僕が見るべきものは、それだけだった。
後ろから誰かが息を呑む音が聞こえる。
当然だと思う。
耳も。角も。翼も。僕には何もない。
認識阻害のフードに隠れていたものが全部見えれば、どの種族なのか分からないと思う人だっているはずだ。
……でも。
今は、どうでもいい。
片刃剣を構え、海の向こうにいる巨大な影だけを見る。
怖い。
身体は震えている。
それでも、隣にはフレイヴィアさんがいる。
僕はここに立っている。
「……笑ってる、のか」
「どうして……」
別の誰かが呟く。
「あいつ……なんで、まだ笑えるんだ」
そこで初めて、自分の口元へ意識が向いた。
……僕、笑ってる?
分からない。
怖いのに。
勝てるなんて思っていないのに。
それでも、さっきまで本当に何も残っていないと思っていた。
でも、違った。
隣にはまだ立っている人がいる。
だったら、何もないわけじゃない。
そんな僅かなことに希望を見つけて笑っている自分が、少しだけ馬鹿みたいだと思った。
「絶望だな、お前たち」
後ろから、低い声が響いた。
一歩ずつ足音が近づいてくる。
僕は振り返らなかった。
声だけで、誰なのか分かったからだ。
「物資なんざ、とうに底を突いている」
ギルドマスター。
「まともに動ける奴も、ほとんど残っちゃいない」
その声は、誰かを責めるようなものじゃなかった。
「防波壁は潰れた。倉庫街も捨てた。矢も、薬も、魔石も……使えるものから全部使った」
一度、大きく息を吐く音がする。
「体力だって、とっくに使い果たしてる。気力まで、さっきの戦いで絞り尽くした奴もいるだろう」
誰も何も言わない。
「それでも足りなくて、やっと止まったと思ったところに――あれだ」
海の向こうにいる、水禍渡りの主。
何がおかしいのか、ギルドマスターは豪快に笑う。
「そりゃあ、絶望もする」
静かな声だった。
「膝だってつく。ため息の一つも出る。もう無理だと思う奴がいても、俺には責められん」
僕の後ろにいる人たちへ、ゆっくりと声が届いていく。
「俺だってな」
ギルドマスターの声が少しだけ低くなる。
「どうすりゃ勝てるのか、分からん」
その言葉に胸の奥が強く動いた。
ギルドマスターにも分からない。
何か隠していた策があるわけじゃない。
あれを倒せる方法を、誰も持っていない。
「だがな、お前ら」
足音が止まった。
「そんな状況で、二人立ったぞ」
後ろで、何かが動く音がした。
「顔を上げろッ!!」
今度は第三防衛線全体へ届く声だった。
「見ろ! あの二人を!」
座り込んでいた誰かが、顔を上げる気配がした。
「一人は竜族の姫だ! ランク七だ! あいつなら立てて当然だと思うか!?」
隣でフレイヴィアさんの尾が僅かに動く。
「違うだろうが! 強けりゃ怖くねえのか! どれだけ強けりゃ、あんなものを見ても絶望しなくなる!」
返事はない。
「そして、その隣を見ろ!」
今度は僕だった。
「あの坊主はさっきまで剣を握った指すら開かなかった! 身体もボロボロだ! あれに刃が届く保証なんざ、どこにもない!」
……そこまで言わなくても。
一瞬だけ、そう思った。
「それでも立ったぞ!」
声が夜の街へ響く。
「二人もだ!」
沈黙。
でも、さっきまでとは少し違っていた。
「おいお前ら。このままでいいのか?本当にこのまま終わりを迎え入れるのか!?」
ギルドマスターが叫ぶ。
「思い出せ!お前らが最初に武器を握った日のことを!」
その声だけが、防衛線の端まで届いていく。
「何のためにハンターになった!」
返事はない。
「金か! 名誉か! 強くなりたかったからか!」
どこかから、小さく笑う声が混じった。
「誰かを助けたかった奴もいるだろう!」
僕の頭にも、色んなものが浮かぶ。
「家族を守りたかった奴! この街が好きだった奴! 冒険に憧れた奴! ただ退屈な暮らしが嫌だった奴!」
理由なんて、きっと人の数だけある。
「何だっていい!」
ギルドマスターの声がさらに大きくなる。
「そして、今もここにいる理由を思い出せ!」
その時、後ろで誰かが小さく笑った。
「……はは」
一人。
「確かにな」
また別の場所から声がする。
「あの二人だけに全部背負わせたら……一生の恥だな」
金属が石畳を擦る音がした。
落としていた武器を、誰かが拾った。
「こんな美味しい場面」
ギルドマスターも笑う。
「あいつら二人に持っていかれるのは、癪だろうが!」
「……違いねえ」
また笑い声。
膝をついていた人が、ゆっくりと身体を起こす。
真っすぐには立てていない。
脚も震えている。
それでも剣を持ち、海へ身体を向けた。
「立てよ、お前ら!」
ギルドマスターの声が戦場へ響く。
「この街が大好きなら!」
また一人。
その横でも。
石畳へ手をつき、身体を起こす。
「構えろ、お前ら!」
弓を使い切った人が、腰から短剣を抜く。
「諦めるのも!」
盾を失った人が、壊れた木板を拾い上げる。
「絶望するのも!」
魔力をほとんど使い切ったエルフが、杖を両手で握り直す。
「全部、あとからでもできる!」
ギルドマスターが刃こぼれした武器を持ち上げる。
「今は――まだ戦える!」
後ろから、いくつもの足音が聞こえ始めた。
一つ。
また一つ。
数えられないくらい。
座り込んでいた人たちが、もう一度立ち始める。
僕はそこで初めて、少しだけ振り返った。
さっきまで誰も立っていなかった第三防衛線に、また人がいる。
鎧は壊れている。
武器も足りない。
真っすぐ立つことすら難しそうな人までいる。
それでも、みんな前を見ていた。
ガルドさんも立っている。
剣を握り、僕を見る。
「悪い、少しだけ折れかけた。一人で全部やるなって、あれだけ言ったのな」
「……いえ」
「でも、もう大丈夫だ。だから俺も、お前の隣に立たせてくれ。今度こそ、お前を一人立ち向かわせないから」
何度も言われた。
周りがいるなら、全部込みで戦え。
僕一人で全部やる必要なんてない。
「お願いします」
「おう」
ガルドさんが僕たちの後ろへ並ぶ。
その周囲にもハンターたちが続いていく。
ギルドマスターはもう一度、立ち上がった人たちを見渡した。
「勝てるなんて言わん!」
声が響く。
「どうすりゃ倒せるのかも、まだ分からん!」
誰も目を逸らさない。
「でもよ!」
ギルドマスターが武器を肩へ担ぐ。
疲れ切った顔で。
それでも心底楽しそうに、口元を吊り上げた。
「さぁいこうぜ、お前たち。英雄になりによ」
一瞬だけ。
静かになった。
それから。
「……はっ」
誰かが笑う。
「この状況で言うか、それ」
「いいじゃねえか」
別の声が続く。
「悪くねえ」
武器が上がる。
一つ。
また一つ。
誰かが叫べと命令したわけでもない。
それでも、最初に一人が声を上げた。
「おおおおおおおおおおおおおおお――ッ!!」
その声へ。
別の声が重なる。
さらにもう一つ。
あっという間に数えられないほどの叫びになり、第三防衛線の空気そのものが震えた。
さっきまで地面へ座り込んでいた人たちが、今度は武器を握って海を見ている。
何かが回復したわけじゃない。
矢も増えていない。
薬も戻ってこない。
身体の傷だって、そのままだ。
……でも。
人が立った。
それだけで、さっきまで空っぽに見えていた防衛線に、もう一度何かが戻ってきた。
「残ってる盾を前へ集めろ!」
ギルドマスターがすぐに指示を飛ばす。
「弓は残弾を確認! 無駄撃ちは絶対にするな! 魔術師は今ある魔力で何ができるかだけ考えろ! 負傷者は無茶して前へ出るな!」
人が動き始める。
「勝手に突っ込む奴は止めろ! 今度こそ一人で戦うな!」
……それ。
僕に言ってる?
少しだけそう思って横を見る。
フレイヴィアさんと目が合った。
「主」
「はい」
「聞いたか?」
「聞きました」
「ならばよい」
黄金の瞳が僅かに細くなる。
「行くか」
「……はい」
こんな時なのに、少しだけ笑ってしまった。
その間にも後ろでは人が動いている。
残った盾。
折れていない槍。
最後の矢。
僅かに残った魔力。
何もないと思った。
全部使い切ったと思った。
でも、一人ずつ見れば何もできないほど僅かなものでも、全員分を合わせればまだ何かできるかもしれない。
……勝てる。
そうは思わない。
そこまで都合よくは考えられない。
でも、さっきみたいに何も残っていないとは、もう思わなかった。
前を向く。
水禍渡りの主は、まだ海の向こうにいる。
その背後には巨大な水の壁が立ち上がり、月明かりを受けて鈍く光っていた。
フードは背中へ落ちたまま。
今さら戻そうとは思わなかった。
片刃剣を握り直す。
右手はまだ少し震えている。
隣ではフレイヴィアさんが大剣を構え、その後ろにはガルドさんやギルドマスター、そしてもう一度立ち上がった人たちがいる。
その時。
遠くにいた黒い影が、初めてこちらへ向かって動いた。
巨大な身体が僅かに傾いただけで、その周囲に集まっていた海水が大きく揺れる。
水が前へ押し出され、防波壁の残骸へ触れた。
――次の瞬間。
残っていた石の一部が水に押し潰され、そのまま暗い海の中へ消えていった。
「……」
誰も声を出さない。
僕も片刃剣を構えたまま、それを見る。
怖い。
どうすればいいのか、まだ分からない。
それでも。
さっきまでとは違う。
隣にはフレイヴィアさんがいる。
後ろにも、もう一度武器を取った人たちがいる。
僕一人で何とかする必要なんてない。
僕が見えないところは誰かが見てくれる。
僕が届かないところには、誰かの手が届くかもしれない。
そして僕も、その誰かが作った隙を使えばいい。
だから僕は逃げずに、水禍渡りの主がこちらへ動き始めるのを真正面から見ていた。
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