駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回は、ルキウスが傷だらけで返ってきてアルナに心配されたところで初日が終えましたね。
今回はそんな前回の約束、剝ぎ取り講習になります。
◆
焼いた黒パンと肉の匂いが、階下からゆっくりと昇ってきた。
窓の外では荷車の車輪が石畳を鳴らし、知らない誰かの声が、朝の街を忙しなく行き交っている。
「……ん」
目を開けると、見慣れない木の天井があった。
太い梁に、白い壁。
薄い朝日を通す小さな窓……森の家とは、何もかもが違う。
「ここは……」
一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど、頬へ触れた途端、包帯のざらりとした感触が昨日の出来事を連れてくる。
自由交易都市エルドランへ来た。
ハンターになり、初めての依頼へ出て、スノウラビを捕まえた。
そのあと、アルナさんに傷の手当てをされ――小指を結び、無理をしないと約束した。
そしてギルドを出ようとしたところで、もう一度呼び止められたのだ。
『ところで、ルキウスさん。今夜泊まる場所は決まっていますか?』
『泊まる場所……』
言われて、初めて気づいた。
朝までは荷車の上にいて、昼からはギルドと渓流地帯を行き来していた。
ハンターになり、依頼を終わらせることばかり考えていて、そのあと眠る場所については、まったく考えていなかった。
『決まっていないのですね』
何も答えていないのに、アルナさんの猫耳がゆっくりと横へ倒れた。
『野宿なら慣れています』
『街の中で野宿をしないでください』
『街の外へ出れば――』
『もっと駄目です』
すぐに止められた。
怪我をしたばかりの新人を、夜の街の外へ放り出すわけにはいかない。
受付嬢として当然です――そう言って、アルナさんが紹介してくれたのが、ギルドからほど近い宿屋だった。
『角兎亭という宿です。女将さんへ、この札を見せてください』
『角兎亭……』
『食事も美味しいですよ。それから、初心者のハンターにも慣れているので安心です』
『宿へ泊まるのも初めてですが、大丈夫でしょうか』
『……そこからですか』
アルナさんは少しだけ遠い目をしたあと、宿までの簡単な地図を書いてくれた。
その地図を頼りに辿り着いた先で、大柄な女将さんに迎えられ、部屋と夕食を用意してもらった。
慣れない寝台へ横になったところまでは覚えている。
そのあとの記憶はなかった。
「……角兎亭だ」
ようやく現在地を思い出し、寝台の上で身体を起こす。
腹には、スノウラビに蹴られた鈍い痛みが残っている。
頬と腕の傷も、動かせば僅かに引きつった。
けれど、歩くのに問題はなさそうだ。
「無理はしない……」
右手の小指を立てる。
昨日まで知らなかった約束の仕方。
絡めた指の感触はもう残っていないのに、交わした言葉だけは妙にはっきりと覚えていた。
危なくなったら戻る。
依頼よりも、自分の命を優先する。
「約束」
誰もいない部屋でもう一度口にし、寝台から足を下ろした。
窓から差し込む朝日が、床の上へ細長く伸びている。
今日は、アルナさんに受けるよう言われた剥ぎ取り講習の日だ。
「遅れないようにしないと」
立ち上がった途端、階下から煮込みの匂いが一段と濃くなった。
それに反応するように、腹が小さく鳴る。
「……まずは朝ご飯か」
約束を守るためにも、空腹のまま講習へ行くわけにはいかない。
そう自分へ言聞かせ、僕は階段へ向かった。
◆
「おや、起きたのかい」
階段を下りると、恰幅のよい女将さんが大鍋から煮込みを掬っていた。
頭から伸びた短い兎耳が、こちらへ気づいてぴこりと動く。
「おはようございます」
「はい、おはようさん。身体はどうだい?」
「少し痛いです」
「なら、飯を食えば治るよ」
ずいぶん力強い治療法だった。
言われるまま卓へ座ると、角兎肉と豆の煮込み、黒パン、それから炙った野菜が置かれる。
立ち昇った湯気には肉と香草の匂いが混ざり、空っぽだった腹が正直に鳴った。
「……いただきます」
木匙で煮込みを掬い、口へ運ぶ。
柔らかく煮込まれた肉。
豆の甘み。
少し濃いめの塩気が、黒パンによく合った。
「美味しいです」
「そうだろう、そうだろう。たんと食べな」
女将さんは満足そうに笑い、僕の前へ黒パンをもう一つ置いた。
「昨日はアルナちゃんに連れられてきたと思ったら、顔へ包帯なんて巻いてるから驚いたよ」
「初めての依頼で、少し」
「何を捕まえたんだい?」
「スノウラビです」
答えた途端、女将さんの兎耳が僅かに傾く。
「うちの店の名前へ喧嘩を売ってるのかい?」
「違います!」
危惧していたことが、早くも起きてしまった。
慌てて首を振ると、女将さんは腹を抱えて笑った。
「冗談だよ。駆け出しにゃ、ちょうどいい相手さ」
「かなり蹴られました」
「角兎種の脚を甘く見ちゃいけないよ。あたしらの脚だって強いんだからね」
「女将さんも、蹴るんですか?」
「試してみるかい?」
「遠慮します」
即答すると、女将さんはまた豪快に笑った。
食事を終え、昨日受け取った報酬から宿代を支払う。
初めて自分で稼いだお金は、思っていたよりも早く減った。
「……生活には、お金がかかる」
革袋の中を覗き、小さく呟く。
「今さら気づいたのかい?」
「昨日、街へ入るまで知りませんでした」
「そりゃまた、随分と大事に育てられたもんだ」
女将さんが呆れたように腰へ手を当てる。
「まあ、宿代を払えるうちはここへ帰ってきな。腹いっぱい食わせてやるよ」
「ありがとうございます」
頭を下げ、角兎亭を出る。
朝のエルドランには、すでに多くの人が行き交っていた。
潮の匂いに焼きたてのパン、露店で炙られている鱗魚種……昨日とは違い、少しだけ知っている場所になった街を歩いていく。
目指すのは、ハンターズギルド。
そして今日は――剥ぎ取り講習だ。
◆
ギルドへ入ると、朝の大広間は依頼へ向かうハンターたちで混み合っていた。
武器や道具を確かめる声に、受付職員が注意事項を伝える声。開け放たれた扉からは冷たい風が流れ込み、革と鉄の匂いを揺らしている。
「おはようございます!」
受付へ声を掛けると、書類を整理していたアルナさんの猫耳がぴんと立った。
「おはようございます、ルキウスさん」
顔を上げたアルナさんの視線が、まず頬の包帯へ向かう。
次に腕。そして、少しだけ腹を庇っている僕の立ち方を確認した。
「傷の具合はいかがですか?」
「少し痛みますが、大丈夫です」
「本当に?」
「本当に本当です」
アルナさんの眉が僅かに下がる。
「……その返事は、まだ信用してよいのでしょうか」
「約束は守ります」
「では、無理はしていませんか?」
「今のところは」
「今のところ」
言葉を繰り返したあと、アルナさんは小さく息を吐いた。
「講習中も、痛みが強くなったらすぐに伝えてくださいね」
「はい」
「我慢して続けるのは禁止です」
「はい」
僕が頷くと、ようやく猫耳が元の位置へ戻った。
「きちんと来てくださって、安心しました」
「来ると約束しましたから」
右手の小指を立てる。
アルナさんは一度目を丸くし、それから少しだけ嬉しそうに自分の小指を見た。
「覚えていたのですね」
「大事なことなので」
「はい。とても大事なことです」
昨日と違い、今日は指を絡めない。
それでも、二人で小指を立てている姿を近くの職員に不思議そうに見られ、僕たちは同時に手を下ろした。
「それでは、講習場へご案内します」
アルナさんが受付台から出て、ギルドの奥へ向かう。
「剥ぎ取り講習は、外で行うのですか?」
「ギルド裏手の解体場です。素材の処理や、大型モンスターの解体もそこで行っています」
「大型も?」
「はい。ただし、本日は初心者用の講習ですから、スノウラビを使用します」
スノウラビ。
昨日、僕が捕まえたものと同じ種類だ。
「捕まえた個体を使うんですか?」
「いいえ。昨日の個体は飼育舎にいます。講習で使用するのは、今朝ほかのハンターが討伐したものです」
少しだけ、胸の奥へ入っていた力が抜けた。
昨日のスノウラビに特別な愛着があるわけではない。
何度も蹴られたし、頬へ傷もつけられた。
けれど、箱の中で元気に暴れていたものが、翌朝には講習台へ載っている。
そう考えると、少し落ち着かなかった。
「……よかったです」
「生きたまま剥ぎ取りはしませんよ?」
「それは分かっています!」
アルナさんが口元を押さえ、小さく笑う。
からかわれたらしい。
「講師は、解体場の責任者を務めているザックさんです。少し口調は荒いですが、腕は確かです」
「怖い人ですか?」
「真面目に受けていれば、優しい方ですよ」
「真面目に受けなかった場合は?」
「……真面目に受けてください」
答えになっていなかった。
ギルドの裏口を抜ける。
冷たい風と一緒に、薬草と石灰、それから濃い血の匂いが鼻へ入ってきた。
広い石造りの作業場には長い台がいくつも並び、床へ掘られた溝を水が流れている。
「ここが……」
奥では職員たちが、大型モンスターの牙や甲殻を運んでいた。
刃物が骨へ当たる硬い音。桶へ水が注がれる音。飛び交う短い指示……ギルドの大広間とは違う、仕事の音が満ちている。
「突っ立ってると邪魔だぞ」
横から低い声が飛んできた。
「あ、すみません!」
慌てて壁際へ寄る。
声を掛けてきたのは、猪に似た耳と短い牙を持つ獣人族の男性だった。
厚い革の前掛けを身につけ、両腕には古い傷がいくつも走っている。
大柄な人だった。
ガルドさんも大きかったけれど、この人は横幅まで広い。
それに、手がすごい。
太い指。
硬そうな掌。
けれど、腰へ下げた短刀を扱う動きは驚くほど静かだった。
「この方がザックさんです」
アルナさんが僕の隣へ並ぶ。
「ザックさん。昨日お伝えした、ルキウスさんをお願いします」
「ああ。初依頼でスノウラビにぼろぼろにされた新人だな」
「捕獲には成功しました」
「ぼろぼろになったのは否定しねぇのか」
「事実なので」
ザックさんが片方の眉を上げる。
少し怖い。
けれど、笑われているようにも見えた。
「素直なのは悪くねぇ。ザックだ。ここの解体と素材処理を任されてる」
「ルキウスです。よろしくお願いします!」
頭を下げると、ザックさんは短く頷いた。
「声はでけぇな。まあいい。まず手を洗え」
「はい!」
作業場の端にある水場へ向かう。
石鹸代わりの灰と薬草を手へ擦り込み、冷たい水で指の間まで洗った。
「爪の中もだ」
「はい」
「傷があるなら先に言え」
「腕と頬にあります」
「手は?」
「ありません」
「なら、手袋はいらん。布越しじゃ刃の感覚が鈍る」
ザックさんは僕の手を取り、指先と掌を確かめた。
掴まれた瞬間、力を入れられたわけでもないのに、まったく動かせなくなる。
「……細いな」
「よく言われます」
「剣を使うんだったか?」
「はい。片手剣です」
「この手じゃ、力任せに刃を押し込むのは無理だな」
即座に言い切られ、少しだけ胸が痛んだ。
僕が非力なことは、分かっている。
母との訓練でも、力では一度も敵わなかった。
けれど、ザックさんは馬鹿にするようには笑わなかった。
「なら、刃に仕事をさせろ」
「刃に?」
「よく研いだ刃物は、力を入れなくても切れる。雑に押せば素材を傷つけるし、自分の指も落とす」
腰の短刀を抜き、刃先を朝日に翳す。
薄い刃は曇り一つなく、光を細く反射した。
「力がねぇなら、角度と手順を覚えろ。力のある奴より丁寧にできることもある」
「……はい!わかりました!」
胸へ引っかかっていたものが、少しだけ軽くなる。
できないから終わりではない。
違うやり方を覚えればいい。
「返事は一度でいい」
「はい!わかりました!」
「それだ」
早速怒られた。
◆
作業台の上には、一体のスノウラビが横たえられていた。
白い毛皮。
長い耳。
額から伸びる短い角。
昨日の個体より、少しだけ大きい。
胸元には、討伐時についたらしい細い傷がある。
「…………」
昨日は動いていた。
こちらを警戒し、木の実を食べ、網へ掛かったあとも必死に暴れていた。
けれど、目の前の個体は動かない。
耳も揺れず、胸も上下していなかった。
「気分が悪いか?」
ザックさんの声に、顔を上げる。
「いえ。ただ……昨日のものと同じだと思って」
「同じ種類だ。別の個体だがな」
「はい」
ザックさんはスノウラビの身体へ手を置いた。
「可哀想だと思うか?」
「少し」
正直に答える。
それを聞いたザックさんは、怒りも笑いもしなかった。
「なら、その気持ちは忘れんな」
「いいんですか?」
「獲物を見て何も感じねぇ方が、俺は怖ぇよ」
太い指が、白い毛並みを一度だけ整える。
「ただし、手は止めるな。こいつはもう死んでる。ここから毛皮を取り、角を取り、肉を取り、使えるもんを使える形へするのが俺たちの仕事だ」
「使えるものを」
「命を奪ったのに、気持ち悪いから放っておく。それが一番失礼だ」
低い声が、作業場の音の中でもはっきり聞こえた。
「狩りは、倒して終わりじゃねぇ。必要なものを持ち帰って、初めて終わる」
昨日、スノウラビを捕まえた時。
僕は依頼を終えたと思った。
けれど討伐依頼なら、その先がある。
倒した命から、必要なものを持ち帰る。
それが誰かの服や道具、食べ物へ変わっていく。
「……狩りの続き」
「ああ。今日はそれを覚えろ」
ザックさんは短刀を僕へ差し出した。
「まず、死んでいることを確認する」
「見れば分かるのでは?」
「分かったつもりで近づいて、最後の力で角を刺された馬鹿が何人もいる」
僕の手が止まる。
「死んだふりをするモンスターもいる。気絶しているだけの場合もある。だから目、呼吸、脈、筋肉の反応を確かめる」
「はい」
「刃物を入れるのは、そのあとだ」
ザックさんに教えられ、目の反応と呼吸を確認する。
首元へ指を当てても、脈は感じられない。
「次は危険な部位だ。スノウラビなら角と脚。死後も筋肉が縮んで動くことがある」
「死んだあとでも?」
「ある。だから正面へ立つな。後ろ脚の延長線上にも入るな」
昨日、何度も蹴られた腹が僅かに痛んだ。
「よく分かります」
「実体験か」
「何度か」
「初日に身体で覚えるな」
アルナさんと同じことを言われた。
ザックさんは個体の身体を横向きへ固定し、後ろ脚を軽く持ち上げる。
「毛皮を取るなら、まず脚の内側へ切れ目を入れる。深く入れるな。皮の下までだ」
「どれくらいですか?」
「それを手で覚える」
短刀を受け取る。
柄は少し太い。
けれど片手剣より遥かに軽く、刃先の向きが指へ伝わってくる。
「やってみろ」
言われた場所へ刃を当てる。
白い毛を分ける。
皮膚へ触れた瞬間、手が僅かに止まった。
「……」
動かないスノウラビ。
細い刃。
昨日とは違う緊張に、指先が冷たくなる。
「息を止めるな」
ザックさんの声が落ちた。
「はい」
ゆっくりと息を吐く。
力で押すのではなく、刃を滑らせる。
そう教えられた通りに手首を動かすと、思っていたよりも簡単に切れ目が入った。
「お」
思わず声が漏れる。
「そこで喜ぶな。まだ始まっただけだ」
「すみません」
「次。腹側へ繋げろ。ただし、刃先を立てるな」
言われた通りに刃を進める。
けれど途中で、少しだけ引っかかった。
「力を入れすぎだ」
直された時には、薄い皮へ小さな穴が開いていた。
「あ……」
「商品なら減額だな」
「すみません」
「俺に謝るな。次は破るな」
ザックさんは穴を指で示し、刃の角度を変えて見せる。
「刃を立てれば皮を突き抜ける。寝かせすぎれば肉を削る。間を探せ」
「間……」
短刀を握り直す。
何度か刃が止まり、そのたびに手の位置を直された。
白い毛へ血が滲む。鼻へ入り込む鉄の匂いも、少しずつ濃くなっていく。
気持ち悪くないわけではない。
けれど、目は逸らさなかった。
「次は皮と肉の間へ指を入れろ」
「指を?」
「刃だけで剥がそうとするな。手で引いて、繋がってるところだけを切る」
切れ目から指を差し入れる。
温かさはもうない。それでも、柔らかな感触に肩へ力が入った。
「引く。切る。引く。切る。一度にやろうとすんな」
「はい」
毛皮を引き、薄い膜だけへ刃を入れる。
少しずつ。
本当に少しずつ。
力を入れれば破れる。
刃を深く入れれば、肉や内臓を傷つける。
――丁寧に。
呼吸を整え、指先へ意識を集める。
「そうだ」
ザックさんの声が、少しだけ柔らかくなった。
「遅くていい。最初から速くやろうとするな」
「はい」
背中側へ回し、前脚を抜く。
角の根元へ近づく時だけ、ザックさんが手を添えた。
やがて、白い毛皮が一枚の形になって作業台へ広がる。
「……できた」
小さな穴が一つ。
端にも少しだけ肉が残っている。
綺麗とは言えない。
それでも、僕が初めて剥ぎ取った毛皮だった。
「六十点だな」
「思っていたより高いです」
「初回にしちゃ、だ。売り物としては三十点」
「半分になりました」
「世間は厳しいんだよ」
ザックさんが毛皮を持ち上げ、光へ透かす。
「穴はある。肉も残ってる。だが、大きく裂いてはいない。手も止まらなかった」
「合格ですか?」
「もう一体やってから決める」
「もう一体」
振り返ると、職員が次のスノウラビを運んできていた。
まだ続くらしい。
「顔が引きつってるぞ」
「頬の傷が痛むだけです」
「なら休むか?」
「いえ。続けます」
答えたあと、昨日の約束が頭をよぎった。
無理はしない。
僕は腕と腹の痛みを確かめる。
強くなってはいない。手も震えていなかった。
「続けても大丈夫です」
「ならやれ。今度は俺の手を借りずにだ」
「はい」
新しい短刀を受け取る。
今度は、最初に目と呼吸を確認する。
危険な角と後ろ脚の位置を見て、作業台へ固定した。
切れ目を入れる。
引く。
切る。
刃が止まったら、無理に押さず角度を変える。
――力ではなく、手順。
僕の身体は、この世界の人たちより弱い。
けれど、丁寧に刃を動かすことならできる。
「……よし」
二枚目の毛皮を作業台へ広げる。
一枚目より時間はかかった。
けれど、大きな穴はない。肉もほとんど残っていなかった。
ザックさんが毛皮の端を摘まみ、裏側まで念入りに確認する。
「七十五点」
「十五点上がりました」
「だから、売り物なら五十点だ」
「また下がるんですね」
「当たり前だ」
口では厳しかったけれど、猪耳は少しだけ上を向いていた。
「まあ、合格だ」
「本当ですか?」
「ああ。遅いが、雑じゃねぇ。自分の手に合う刃を使えば、もう少しましになる」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「ありがとうございます!」
「声がでけぇ」
ザックさんは耳を押さえ、それから作業台に並ぶ角と肉を指した。
「喜ぶのはまだ早い。毛皮だけ取って終わりじゃねぇぞ」
「まだ続くんですか?」
「角の外し方。肉の部位分け。内臓の確認。血抜きと保存処理」
「かなりありますね」
「これでもスノウラビは簡単な方だ」
作業場の奥へ目を向ける。
僕の身体より大きな牙。
分厚い甲殻。
何人もの職員が囲んでいる巨大な脚。
「……あれも、全部?」
「モンスターごとにやり方が違う。だから知らねぇ相手を倒したら、勝手に刃を入れるな」
「ギルドへ持ち帰る」
「持ち帰れねぇなら、知ってる奴へ聞け。分からねぇまま触ると、素材を駄目にするだけじゃ済まん。毒や酸で死ぬこともある」
「分かりました」
今度は、忘れないように静かに頷いた。
知らないことを、分かったふりはしない。
ガルドさんから最初に教えられた言葉が、また一つ形になった。
◆
講習を終える頃には、太陽が作業場の屋根を越えていた。
何度も洗ったはずなのに、指先にはまだ薄く血と薬草の匂いが残っている。
「お疲れさまでした」
裏口の近くで待っていたアルナさんが、僕の姿を上から下まで確認した。
「怪我は増えていませんか?」
「増えていません」
「気分は悪くありませんか?」
「少しお腹が空きました」
「それなら元気ですね」
アルナさんの猫耳が、ほっとしたように持ち上がる。
「講習はどうでしたか?」
「狩りは、倒したあとも続くそうです」
「ザックさんらしい教え方ですね」
僕の後ろから、ザックさんが大きな欠伸をしながら出てきた。
「こいつは合格だ」
「本当ですか?」
「ああ。馬鹿みてぇに慎重だが、雑に刃を振り回すよりはいい」
「褒められました」
「半分は悪口だ」
半分も褒められたのなら、十分だと思う。
ザックさんは講習修了の札をアルナさんへ渡し、僕の手元を顎で示す。
「ただ、腰へ下げてる短刀は剥ぎ取りに向かん。刃が厚すぎる」
「これしか持っていません」
「依頼を受けるなら、安物でいいから専用のものを買え。手入れも忘れるな」
アルナさんが札を受け取り、受付用の帳面へ挟む。
「ギルドの売店に、初心者向けの道具一式があります」
「いくらですか?」
「講習修了者には、少し安く販売されていますよ」
嫌な予感がした。
「……昨日の報酬で買えますか?」
「買えます」
「宿代を払ったあとでも?」
「買えます」
「食事代を残しても?」
「ぎりぎり買えます」
ぎりぎり。
英雄への道は、思っていたよりもお金がかかるらしい。
「ガルドさんへの返済が遠くなります」
「必要な道具を揃えるのも、ハンターの仕事です」
「分かりました。買います」
少し迷ってから頷く。
早く百ソルを返したい。
けれど、道具がなければ次の依頼で稼げない。
稼げなければ、もっと返せない。
難しい。
でも、たぶんこれが生活というものなのだろう。
「では、売店へご案内しますね」
アルナさんが歩き始める。
僕も続こうとして――ザックさんへ振り返った。
「あの、ありがとうございました」
「おう」
「次にモンスターを倒したら、今日教わったことを思い出します」
ザックさんは短く鼻を鳴らす。
「まず、生きて帰れ」
「はい」
「それから獲物を無駄にするな」
「はい」
今度は大きすぎない声で返事をする。
「よし。行け」
太い手が、僕の肩を軽く叩いた。
作業場を出る。
朝とは違い、鉄と革の匂いへ混じる血の匂いを、もう少しだけ具体的に感じられた。
怖さが消えたわけではない。
命を奪うことにも。
刃を入れることにも。
きっと、簡単には慣れない。
「ルキウスさん?」
少し先で、アルナさんが振り返る。
「今行きます!」
小走りになりかけ、すぐに歩調を緩めた。
走らない。
無理をしない。
昨日交わした約束だ。
アルナさんの隣へ追いつき、右手の指先を見る。
初めて剥ぎ取りへ使った手。
剣を握るだけでは、ハンターにはなれない。
モンスターを倒すだけでも、依頼は終わらない。
知らないことは、まだ山ほどあった。
それでも、一つずつ覚えていけばいい。
狩りの先にあるものまで――きちんと持ち帰れるハンターになるために。
◆
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