駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
第四章 第一話『少年は水禍の主へ挑む』
◆
水禍渡りの主が、こちらへ向かって動き始めた。
遠くに見えていた黒い巨体が僅かに前へ傾いただけで、その周囲に集まっていた海水が一斉に押し出される。
崩れた防波壁の残骸へ水がぶつかり、まだ形を残していた石組みの一部が音も届かないほど遠くで崩れた。
……あれが、こっちへ来る。
そう考えた途端、握った片刃剣の柄から自分の震えが伝わってきた。
「前衛、勝手に出るな!」
背後からギルドマスターの声が飛ぶ。
「残っている盾を中央へ! 左右は間を空けろ! あんなものを正面から全員で受けたら纏めて潰されるぞ!」
返事と一緒に足音が動き始める。
僕の後ろでも、さっきまで座り込んでいた人たちが少しずつ配置を変えていた。
矢も。
薬も。
魔力も。
どれだけ残っているのかは分からない。
それでも、もう誰も地面へ座ったままではなかった。
「主」
隣から声がする。
フレイヴィアさんは大剣を下げたまま、近づいてくる巨体を見ていた。
「はい」
「余が前へ出る」
「僕も――」
「来るなとは言わぬ」
言いかけたところで先に返される。
「ただし、余と同じものを相手にしようなどとは思うな」
「……分かってます」
「本当か?」
「たぶん」
「そこは言い切れ」
黄金の瞳が一瞬だけこちらへ向いた。
でも、それ以上は何も言わない。
フレイヴィアさんも分かっているんだと思う。
僕がここで後ろへ下がるつもりなんてないことを。
僕も分かっている。
あの巨大なものと正面から殴り合ったところで、僕なんか一度踏まれれば終わる。
……じゃあ。
何をする。
考えながら前を見る。
主との距離は、もうさっきより明らかに縮まっていた。
月明かりの下へ巨体が入り、ようやく輪郭らしいものが見えてくる。
「……なんだ、あれ」
後ろから誰かが声を漏らした。
僕も同じことを思った。
遠くから見た時は、水の中に巨大な影があるようにしか見えなかった。
でも、近づいてくるそれには確かに身体がある。
黒く濡れた分厚い皮膚。
地面を抉るほど大きな前脚。
頭らしい場所には横へ大きく裂けた口があり、その上にいくつもの窪みが並んでいる。
目なのかどうかは分からない。
何よりおかしいのは、その身体の半分以上が絶えず形を変えていることだった。
皮膚の上を水が流れているんじゃない。
身体そのものの中を、大量の水が巡っている。
黒い肉の隙間から水が噴き出し、次の瞬間には別の場所へ吸い込まれていく。
傷なのか。
そういう身体なのか。
見ていても分からない。
「……気持ち悪いですね」
「同感だ」
いつの間にか少し後ろまで来ていたガルドさんが答える。
剣を握っている腕には疲れが残っているけれど、視線は主から外れていない。
「坊主、前へ出過ぎんなよ」
「はい」
「フレイヴィアの嬢ちゃんが派手にやり始めたら、特にな」
「分かってますって」
「お前の分かってるは半分くらい信用ならねえんだよ」
「そんなにですか?」
「そんなにだ」
聞き慣れた答えだった。
少しだけ息を吐く。
その瞬間。
――主が口を開いた。
「っ!」
海鳴りが来ると思い、反射的に身体へ力が入る。
でも、甲高い音は響かなかった。
代わりに口の奥から大量の水が溢れ出し、そのまま地面へ落ちる。
……何を。
水の塊が石畳へ叩きつけられる。
飛沫が大きく上がり、その中心で黒い何かが蠢いた。
「構えろ!」
誰かが叫ぶ。
水の中から一本の腕が出る。
次に脚。
頭らしきものが持ち上がった。
「……え?」
一体じゃない。
最初に四足の何かが這い出し、その横では人の腕みたいに細長い前脚を何本も持つものが身体を起こしている。
さらに別の塊からは、牙鼠に似ているのに頭が二つ途中まで繋がったようなものが現れた。
どれも、今まで戦ってきた水憑きとは違う。
形が。
まともじゃない。
「散れ!」
ギルドマスターの声が飛ぶ。
「小さい方を街へ通すな! 大型へ全員寄るな!」
異形が走り出す。
先頭の一体が僕たちへ向かってきた。
脚は四本ある。
でも左右で長さが違うせいか、走るたびに身体が大きく揺れていた。
……遅い?
そう思った直後。
長い方の前脚が、地面を掻いた。
「っ!」
身体が一気に前へ飛ぶ。
僕は横へ踏み込み、振り下ろされた腕を避ける。
石畳が砕けた。
「ルキウス!」
「見えてます!」
ガルドさんの声。
異形は僕を追って身体を捩る。
……左側が遅い。
脚の長さが違うから、こっちへ回る時だけ身体が沈む。
なら。
一歩だけ踏み込む。
沈んだ首らしき部分へ片刃剣を振る。
――刃が入った。
「っ……!」
感触がおかしい。
肉を斬ったはずなのに、その奥で水を叩いたみたいに刃が持っていかれる。
すぐに引く。
傷口から黒い血ではなく、大量の水が噴き出した。
「まだだ!」
ガルドさんが叫ぶ。
異形が振り返る。
傷は開いたまま。
それでも動いている。
……なら。
もう一度。
今度はガルドさんが先に入った。
剣で長い前脚を外へ弾く。
「首!」
「はい!」
さっきと同じ場所へ踏み込む。
足から。
腰を回す。
片刃剣を深く通す。
異形の頭が半分近くずれた。
それでも一歩だけ動き、そこでようやく身体が崩れる。
形を保てなくなった肉の塊が石畳へ落ち、その隙間から水だけが流れ出した。
「……なんなんですか、これ」
「俺に聞くな」
ガルドさんが正面へ戻る。
「次来るぞ!」
主の身体から、また何かが落ちた。
今度は口からじゃない。
脇腹にあたる場所が膨らみ、その一部が水と一緒に剥がれ落ちた。
地面へぶつかった塊が動く。
脚が生える。
頭が持ち上がる。
……生んでる?
違う。
そんな綺麗なものじゃない。
自分の身体を千切って。
そのまま別のモンスターにしている。
「数えるな!」
ギルドマスターの声が響いた。
「出てきた奴から止めろ! 街側へ抜かせるな!」
ハンターたちが異形へ向かう。
槍が伸びる。
剣が振られる。
残っていた矢が一本だけ飛び、細長い脚を持つ個体の胴へ刺さった。
その向こうで。
フレイヴィアさんが動いた。
「主」
呼ばれた気がした。
顔を向ける。
黒髪が風に流れる。
青緑色の髪飾りが、一瞬だけ月明かりを反した。
「余から目を離すなよ」
それだけ言って。
フレイヴィアさんが走った。
「――っ」
速い。
何度も見ているはずなのに。
疲れているはずなのに。
石畳を蹴った一歩で、僕では到底追いつけない距離まで進む。
主も気づいた。
巨大な前脚が持ち上がる。
「フレイヴィアさん!」
叫ぶより早く。
――大剣が振り抜かれた。
巨大な爪と、大剣がぶつかる。
身体の芯まで響くような音が街へ広がった。
「っ……!」
風が来る。
離れている僕の外套まで揺れた。
押し潰される。
一瞬。
本当にそう思った。
主の前脚は、フレイヴィアさんの身体なんて何人分もありそうなくらい大きい。
その全部が上から落ちてきた。
でも。
「……ふん」
フレイヴィアさんの足は。
止まっていた。
石畳が足元から割れている。
それでも大剣を両手で支え、巨大な前脚を真正面から受け止めている。
「軽いな」
……絶対、軽くない。
そう思った直後、フレイヴィアさんが腰を落とした。
「余を潰したいのなら――」
大剣が動く。
「山でも持ってくるがよい!」
主の前脚が弾き上げられた。
「うおおっ!?」
後ろから声が上がる。
僕も何も言えなかった。
浮いた前脚へ。
フレイヴィアさんが踏み込む。
一閃。
大剣が。
巨大な脚を。
半ばから斬り飛ばした。
凄い。
今思うと、フレイヴィアさんが本気で戦っているところは初めて見る。
あまりにも圧倒的。あまりにも暴力的。
あれが、ランク7か。
「……っ!」
落ちた前脚が石畳を叩く。
主の身体が大きく傾いた。
「やったか――」
誰かが言いかける。
でも。
「……待って」
僕は。
斬られた場所を見ていた。
傷口から、水が噴き出している。
大量に。
滝みたいに。
その水が地面へ落ちる前に、逆向きへ動いた。
「……え」
主の身体を覆っていた水が、一斉に傷口へ集まっていく。
千切れたはずの前脚にも水が伸びる。
細い糸みたいな流れが何本も繋がり、そのまま脚を引き寄せた。
「フレイヴィアさん!」
「見えておる!」
大剣がもう一度振られる。
繋がろうとしていた水を断つ。
それでも別の場所からまた水が流れ込み、失われた脚の形を少しずつ埋めていった。
肉が生えているわけじゃない。
水が。
なくなった場所の形を作っている。
「……再生?」
「違うね」
すぐ近くから声がした。
「メルシアさん」
いつの間に来たのか。
深い藍色の外套を纏ったメルシアさんが、僕たちより少し前に立っていた。
フードの奥から見える赤紫色の瞳は、主の傷口から一度も離れていない。
「何が違うんですか?」
「治してるわけじゃない」
右手が上がる。
その直後、こちらへ飛んできた水の塊が空中で曲がった。
「っ!」
僕の横を通るはずだった水が、不自然に角度を変えて石畳へ落ちる。
メルシアさんはそちらを見ようともせず、主だけを見ていた。
「欠けたところへ、水を流してるだけさ」
「水を?」
「そう。見た目だけなら戻ってるように見えるけどね」
主の脚を見る。
斬られた場所は、もう形だけなら元に戻り始めている。
でも。
フレイヴィアさんが斬った黒い肉まで戻ったわけじゃない。
その部分を大量の水が埋め、脚として無理やり動かしている。
「……じゃあ、削り続ければ」
「いつかはなくなるかもしれないね」
メルシアさんが答える。
「海一つ分と根比べする覚悟があるなら、だけど」
……無理だ。
見えるだけでも、主の周りにはまだ大量の水がある。
その後ろには、もっと大きな水の壁が残っている。
「じゃあ、どうすれば」
「それを考えてる」
メルシアさんの声から、いつもの軽さが少しだけ消えた。
その時。
主が大きく身体を捩った。
「フレイヴィアさん!」
振り上げられた前脚が横へ薙がれる。
フレイヴィアさんは大剣を立てる。
――ぶつかる。
今度は受け止めない。
斜めに刃を当て、巨大な脚の軌道を上へ逸らす。
「ぬっ……!」
それでも勢いまでは殺し切れず、フレイヴィアさんの身体が石畳を滑った。
「行くな!」
一歩前へ出かけたところで、ガルドさんに肩を掴まれる。
「でも!」
「今のお前があそこへ行って何すんだ!」
言葉が詰まる。
……何を。
片刃剣で脚を斬る?
僕の刃で?
無理だ。
「周り見ろ!」
言われて正面を見る。
「っ!」
主から剥がれた異形が三体、こちらへ向かってきていた。
「そっちはあいつに任せろ!」
「……はい!」
片刃剣を構える。
一体目は腕が長い。
さっきのと似ている。
その後ろに、胴体の半分が水みたいに崩れた四足。
さらに右から、頭らしいものがないまま牙だけを並べた個体が来る。
……全部を見る必要はない。
「右、一体お願いします!」
「おう!」
ガルドさんが牙だけの異形へ向かう。
残り二体。
「俺もいるぞ!」
横から槍が伸びた。
さっきまで一緒だった槍使い。
「まだ折れてなかったんですね!」
「縁起でもねえこと言うな!」
穂先が四足の肩へ刺さる。
……なら、僕は前。
長い腕を持つ異形へ踏み込む。
腕が上がる。
振り下ろす前。
……懐。
一歩深く入る。
相手の腕が僕の背中側へ落ちた。
首は。
……ない。
なら。
身体の中心。
片刃剣を横へ走らせる。
肉を裂き、その奥から水が噴き出した。
「っ!」
すぐ引く。
異形が身体を捩る。
……まだ動く。
傷口を見る。
水が出ている。
でも。
主みたいに戻らない。
「もう一回!」
槍使いの声。
僕が横へずれる。
穂先が異形の胴へ深く刺さった。
動きが止まる。
……今。
足から。
腰を回す。
同じ傷へ片刃剣を入れる。
身体が二つに崩れた。
「次!」
「はい!」
四足へ向く。
槍を抜こうとしているところへ横から入る。
頭らしい場所へ片刃剣を振り下ろす。
……浅い。
すぐ離れる。
「左!」
声に反応して身体を引く。
四足の前脚が鼻先を通った。
槍使いが反対側から突く。
……開いた。
踏み込む。
一度。
もう一度。
二人で傷を広げる。
最後に槍が深く入り、四足が地面へ崩れた。
「……はぁっ」
息を吐く。
すぐに主を見る。
フレイヴィアさんはまだ戦っている。
大剣と巨大な身体がぶつかるたび、石畳が砕けている。
でも。
さっきより。
主の形がおかしい。
「……水が」
傷つけられた場所へ流れている。
フレイヴィアさんが右の肩にあたる部分を大剣で抉る。
すると反対側を巡っていた水が、傷口へ一気に移動した。
その流れを。
目で追う。
傷へ。
違う。
全部が傷へ行っているわけじゃない。
途中で。
身体の奥へ消える水がある。
「……?」
主が前脚を振る。
フレイヴィアさんが避ける。
大剣が脇腹へ入る。
まただ。
水が動く。
外から傷口へ。
その一部が。
奥へ。
「ルキウス」
「はい?」
メルシアさんの声だった。
顔を向ける。
「何を見てる?」
「水です」
「どこの?」
「フレイヴィアさんが斬ったところから……中に流れてます」
メルシアさんの目が僅かに細くなる。
「中?」
「はい。全部じゃないです。でも、傷を埋める水とは別に……もっと奥へ行ってるものがあるように見えて」
口にしてから。
自信がなくなる。
「……気がするだけかもしれませんけど」
「いや」
メルシアさんが主を見る。
「続けて」
「え?」
主がまたフレイヴィアさんへ前脚を振る。
今度は避けられた直後に、大剣が脚の付け根へ入った。
大量の水が動く。
……やっぱり。
傷を埋める。
でも。
奥へ流れる。
一か所へ。
「……同じところです」
「どこ?」
「分かりません。外からだと……でも、流れが途中で全部そっちへ引かれてます」
「なるほどね」
メルシアさんが小さく笑った。
いつもの。
何か面白いものを見つけた時みたいな笑い方だった。
「何か分かったんですか?」
「少しだけ」
右手を上げる。
指先が主へ向く。
「生き物っていうのはね、どれだけ変な身体をしてても、何もない場所を中心にはできない」
「……?」
「動くなら理由がある。形を保つなら、そのための場所がある。あれだけ水を身体中へ回してるなら、流れを作ってる何かがどこかにあるはずだと思ってたんだけど」
メルシアさんの指が、ほんの少し下がる。
「君が見つけた」
「僕が?」
「正確には、入口だけどね」
主を見る。
フレイヴィアさんが傷を作る。
水が集まる。
そして、その一部が身体の奥へ消える。
……あそこへ。
何かがある。
「核、みたいなものですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「中を見てないからね。僕だって何でも知ってるわけじゃない」
こんな時でも。
少しだけ楽しそうだ。
でも。
次の言葉を口にした時。
その声から笑いが消えた。
「ただ、あれをいくら外から削っても終わらないってことだけは、ほぼ間違いない」
主の身体から。
また異形が一体、石畳へ落ちる。
少し離れたところでハンターたちが迎え撃つ。
フレイヴィアさんは巨大な前脚を大剣で弾き、そのまま懐へ踏み込んでいる。
僕は。
水の流れを見る。
身体の奥。
外からは見えない場所。
「……どうやって壊すんですか?」
「さあ?」
「さあって」
「そこはこれから考えるのさ」
メルシアさんが僕を見る。
赤紫色の瞳が。
今度は。
僕の手にある片刃剣へ向いた。
「ただ」
嫌な予感がした。
「ルキウス」
「……はい」
「あれを斬れるかい?」
指先が。
もう一度。
巨大な主へ向く。
僕は目を凝らす。
黒い肉。
その中を巡る水。
フレイヴィアさんが作った傷から、身体の奥へ吸い込まれていく流れ。
「……どれをですか?」
見える範囲には。
何もない。
メルシアさんは。
「決まってるだろう」
それでも。
迷わず答えた。
「あの中にあるものさ」
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします。