駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
水禍渡りの主の中へ踏み込んだ瞬間、外から聞こえていた戦いの音が遠くなった。
何も聞こえなくなったわけじゃない。
大剣が何かへぶつかるたびに身体の奥まで振動が伝わり、遠くでは誰かが叫んでいるような声も聞こえる。
ただ、その全部が厚い水の向こう側にあるみたいにぼやけていた。
代わりに近くなったのは、水の音だった。
右から左へ。
上から下へ。
目の前を塞いでいる黒い肉の隙間を、何本もの水の流れが走っている。
メルシアさんが止めているのは、そのうち僕が入ってきた一本だけらしい。
少し横では、止まっていない水がものすごい速さで奥へ吸い込まれていた。
……触れたら。
そう考えた途端、さっき頬へ掠った水の痛みを思い出した。
身体ごとあそこへ入れば、たぶん流されるだけでは済まない。
「……っ」
足元が揺れる。
主が外で動いたらしい。
壁だと思っていた黒い肉が大きく歪み、身体ごと横へ持っていかれそうになった。
片刃剣を握ったまま膝を落とし、近くの肉へ左手をつく。
柔らかい。
でも、生き物の身体へ触れた時の感触とは少し違う。
皮膚のすぐ下を大量の水が走っているせいか、触れた場所が内側から絶えず形を変えていた。
……気持ち悪い。
手を離し、もう一度奥を見る。
ここへ来たのは観察するためじゃない。
メルシアさんが水を止めていられる間に、核を見つけないといけない。
走る。
足場は平らじゃない。
肉と肉の間に水が溜まり、その上へ足を置くたびに靴底が滑る。
少しでも速度を上げようとすると身体が横へ流されるので、壁へ手をつきながら奥へ進んだ。
……どっちだ。
外で見ていた時、水は傷口から中へ入っていた。
そこから先。
何度見ても、ほとんど同じ方向へ流れていた。
目の前には二つの隙間がある。
左は細い。
右は広い。
でも、水が強く動いているのは左。
……こっち。
身体を横にして、狭い方へ入る。
肩が黒い肉へ擦れた。
次の瞬間、すぐ横を大量の水が通り抜ける。
「っ!」
反射的に身体を引く。
水そのものに腕を掴まれたみたいに外套が引かれ、布の端が奥へ吸い込まれた。
慌てて片刃剣で切り離す。
千切れた布は一瞬で流れの向こうへ消えた。
……止まってない。
メルシアさんが止めてくれた道から外れた。
ここから先は、流れそのものを避けないと進めない。
水を見る。
ずっと同じように流れているわけじゃない。
強くなる。
弱くなる。
また強くなる。
主が外で身体を動かすたび、その速さまで変わっている。
……だったら。
待つ。
目の前を横切る水流が弱くなった瞬間、身体を低くして反対側へ走る。
背中のすぐ後ろで水が勢いを取り戻した。
間に合った。
そのまま次の流れを見る。
……一つずつ。
全部まとめて考える必要はない。
今、目の前を通れるか。
次にどこへ足を置くか。
それだけでいい。
右から水。
少し待つ。
弱くなる。
進む。
足元から別の流れが来る。
踏み込まず、一度止まる。
流れが上へ抜けたところで、その下を潜るように前へ出る。
身体が勝手に動いているみたいだった。
怖い。
さっきから何度も、あと少し遅れていたらと思う。
それでも不思議なくらい、目の前だけはよく見えた。
水がどこから来るのか。
次にどこへ向かうのか。
黒い肉が動いた時、どちらへ足場が傾くのか。
頭の中から余計なものが消えて、必要なものだけが残っていく。
……もっと奥。
水の流れが少しずつ太くなっている。
外側では何本にも分かれていたものが、進むほど一つへ集まっていた。
なら、方向は間違っていない。
――身体全体が大きく揺れた。
「っ!」
足元が跳ねる。
肩から壁へぶつかった。
治してもらったはずの背中に痛みが走り、息が詰まる。
外で何が起きているのかは見えない。
でも、今の衝撃は主が自分で動いたものじゃない気がした。
もっと鋭い。
外側から強く叩かれたような。
……フレイヴィアさん。
たぶん。
今も戦っている。
僕が中に入っている間も。
主が自由に動けないように。
「……行かないと」
立ち上がる。
足が少し震えた。
でも、動く。
次の隙間へ入ったところで、目の前の水が突然膨らんだ。
「え――」
避ける場所がない。
左右は黒い肉。
後ろへ戻っても間に合わない。
……下。
しゃがみ込む。
頭のすぐ上を水が通り抜ける。
勢いだけでフードのない髪が引かれ、頬へ何滴か飛沫が当たった。
「っ……!」
痛い。
顔を上げる。
その先。
何かが。
動いた。
「……?」
水じゃない。
黒い肉でもない。
流れの中に、人の腕くらいのものが浮かんでいる。
細い指。
肘らしき関節。
でも、その先に肩も身体もない。
水の中で何度か形を変え、そのまま壁へ溶けるように消えた。
……今の。
考える前に、今度は反対側の肉が膨らむ。
そこから小さな頭のようなものが押し出された。
眼窩だけが開いている。
口も鼻もない。
首から先もないまま数秒だけ蠢き、水が流れ込んだ瞬間に形が崩れた。
「……」
外へ出てきてたやつ。
主から分裂した異形。
あれは外で作られていたんじゃない。
……この中で。
身体の中を流れている水と肉が途中で形を作って、それが外へ押し出されている。
気づいた瞬間、奥から何かが這うような音がした。
「っ」
片刃剣を構える。
狭い隙間の向こうから、四本の指が現れた。
次に腕。
肩。
頭。
まだ身体の半分が壁へ繋がったままなのに、それは僕へ腕を伸ばしてくる。
……こいつ。
中でも動ける。
爪が来る。
身体を引く場所はない。
片刃剣を斜めに当てて、腕を下へ流す。
狭いせいで勢いを逃がし切れず、右腕まで大きく沈んだ。
「っ……!」
でも。
相手も動きづらい。
まだ下半身が壁から抜けていない。
……今。
足を前へ置く。
腰を回す。
空いた首らしき場所へ片刃剣を振る。
刃が入る。
水が噴き出す。
異形が口のない顔をこちらへ向けた。
「まだ……!」
もう一度。
今度は同じ傷へ。
腕だけで振らない。
踏み込んだ力を、そのまま腰から刃へ乗せる。
異形の頭が落ちた。
残った身体も壁から剥がれきる前に崩れ、水だけになって足元へ流れていく。
「……はぁっ」
片刃剣を戻す。
腕が重い。
握っている指にも、また力が入りづらくなってきている。
でも。
まだ動く。
奥へ進む。
異形が一体いたということは、またいるかもしれない。
水だけじゃなく、肉も見る。
膨らんでいるところ。
動きがおかしい場所。
そこを避けながら進む。
……水。
やっぱり。
集まってる。
流れが一本になってきた。
ここまで来ると、どちらへ向かえばいいのか考える必要もない。
僕の横を通る水が全部、同じ方向へ吸い込まれている。
その先に。
何かがある。
走る。
足場が大きく下がる。
主がまた動いた。
――今度は、すぐ後ろで何かが裂ける音がした。
「っ!」
振り返る。
さっき通ってきた道へ、大量の水が流れ込んでいる。
最初にメルシアさんが止めていたはずの流れが、少しずつ動き始めていた。
……まずい。
止め切れなくなってる。
どれだけ時間が経った?
十秒?
そんなわけない。
もっとだ。
最初に言っていた十秒なんて、とっくに過ぎている気がする。
……メルシアさん。
まだ。
止めてくれてる。
完全には戻っていない。
あれだけの水を。
ずっと。
「急がないと」
前へ向く。
もう足元なんて気にしている余裕はない。
流れを見る。
強いところだけ避ける。
弱いところなら多少濡れても走る。
水が左から来る。
その直前に一歩前へ。
足首へ当たる。
身体が持っていかれそうになる。
「っ!」
右足を踏ん張る。
壁へ左手をつく。
止まらない。
そのまま前へ。
……まだ。
奥。
もっと。
水が全部向かっている場所。
その時。
――見えた。
「……あ」
今までずっと黒い肉ばかりだった場所に。
違うものがあった。
最初は石だと思った。
黒く。
大きく。
僕の身体よりもずっと大きい塊が、肉の奥へ埋まっている。
でも。
動いている。
ゆっくり。
縮む。
膨らむ。
そのたびに。
周囲の水が吸い込まれ。
また。
外へ送り出されている。
「……これ」
核。
たぶん。
いや。
他にない。
今まで追ってきた水の流れが全部、ここへ集まっている。
黒い塊の表面には、太い筋のようなものが何本も走っていた。
そこから水が入り。
別の筋から出ていく。
一度脈打つたび、主の身体全体が僅かに動く。
……これを。
壊せば。
片刃剣を構える。
一歩。
近づく。
その瞬間。
――核が大きく脈打った。
「っ!?」
水が。
一斉に動いた。
周囲の流れが全部、核から外へ向かう。
身体を押し返される。
「う、わっ……!」
踏ん張れない。
足が滑る。
壁へ手をつく。
でも。
止まらない。
身体ごと後ろへ押される。
「くっ……!」
片刃剣を黒い肉へ突き立てる。
刃が途中まで入り、それを支えにしてどうにか踏み止まった。
……気づかれた?
分からない。
でも。
水がさっきまでと違う。
核から外へ。
僕が入ってきた方向へ。
大量に流れ始めている。
まるで。
僕を。
外へ押し出そうとしているみたいに。
「……させない」
片刃剣を抜く。
水が来る。
進む。
押される。
また進む。
一歩進むだけで脚が後ろへ滑る。
足元へ力を入れても、流れが身体全体を押してくる。
……どうする。
このままじゃ近づけない。
水を避ける場所もない。
核の周り全部から流れが出ている。
だったら。
避けない。
「っ……!」
身体を低くする。
片刃剣を正面へ向ける。
一歩。
水が胸へぶつかる。
息が詰まる。
もう一歩。
今度は肩。
後ろへ押される。
足を置き直す。
……前。
それだけ。
一歩進む。
半歩戻される。
また一歩。
腕が痛い。
脚が震える。
顔へ水が当たるたび、皮膚を切られるように痛んだ。
でも。
近づいてる。
少しずつ。
核が。
大きくなる。
……届く。
あと。
少し。
その時。
外から。
大きな衝撃が来た。
「っ!」
主の身体が横へ大きく傾く。
核も。
僕も。
一緒に揺れた。
でも。
水の流れが。
一瞬だけ弱くなった。
「……!」
誰かが外から攻撃した。
たぶん。
フレイヴィアさん。
今。
主の意識が。
そっちへ向いた。
……なら。
走る。
足を踏み込む。
水が弱いうちに距離を詰める。
一歩。
二歩。
三歩。
核が目の前へ来る。
片刃剣を振り上げる。
「はぁっ!」
足から。
腰を回す。
全身の力を刃へ乗せる。
――片刃剣が核へ食い込んだ。
「っ……!」
硬い。
思っていたより。
ずっと。
硬い。
刃は入った。
でも。
浅い。
「……嘘」
核が脈打つ。
水が戻る。
「っ!」
片刃剣ごと身体が押される。
柄を両手で握る。
抜く。
もう一度。
振る。
同じ場所へ。
――ガッ。
「っ……!」
今度も止まった。
傷はできている。
でも。
割れない。
……これ。
一回じゃ。
無理。
核がまた脈打つ。
水が強くなる。
足元が滑る。
「くっ……!」
片刃剣を抜く。
もう一度。
同じ傷。
踏み込む。
腰を回す。
刃を入れる。
――少し。
深くなった。
でも。
まだ。
壊れない。
「……っ、はぁ……!」
腕が。
上がらない。
右手が。
震える。
指も。
また固まり始めている。
……あと。
何回。
考えるな。
斬る。
一回で駄目なら。
もう一回。
それでも駄目なら。
また。
水が来る。
避けられない。
背中を押される。
それでも。
核から目を離さない。
傷。
今までつけた傷。
そこだけ。
見ればいい。
……あそこ。
片刃剣を上げる。
「っ……!」
上がらない。
腕だけじゃ。
もう。
無理。
『腕で振るんじゃねえ!』
頭の中に。
ガルドさんの声が浮かんだ。
『足から動け! 腰回せ! 腕は最後に付いてくるだけでいい!』
「……」
そうだ。
僕は。
腕だけで。
斬る必要なんてない。
足を置く。
滑る。
もう一度。
今度は。
しっかり。
踏む。
膝を曲げる。
腰を落とす。
片刃剣は。
持ち上げるだけ。
力は。
足から。
「……っ」
一歩。
踏み込む。
腰を回す。
肩。
腕。
最後に。
刃。
「はぁぁっ!」
片刃剣が。
同じ傷へ。
入る。
――硬い感触。
そこで。
止まりかけた。
「っ……!」
でも。
止めない。
踏んだ足を。
さらに前へ。
腰を。
最後まで。
回す。
「――っ、あああああッ!」
刃が。
入った。
さっきより。
深く。
傷の奥で。
何かが。
鳴った。
小さな。
ひび割れるような音。
「……!」
核を見る。
黒い表面に。
一本。
白い線が走っている。
……割れた。
まだ。
ほんの少し。
でも。
割れる。
「……いける」
口から。
勝手に出た。
勝てる。
そうじゃない。
まだ。
そこまでは分からない。
でも。
壊せる。
それが分かった。
怖い。
身体も。
もう動かない。
なのに。
目の前だけが。
さっきより。
よく見えた。
核の傷。
そこから伸びる細い亀裂。
次に。
どこへ刃を入れれば。
広がる。
……ここ。
片刃剣を抜く。
腕が痛い。
でも。
もう一度。
足。
腰。
刃。
振り下ろす。
――亀裂が伸びる。
核が大きく脈打った。
水が暴れる。
今度は押すんじゃない。
左右から。
上下から。
方向なんて関係なく、水が身体へ叩きつけられる。
「っ……!」
肩が壁へぶつかる。
片刃剣を離しそうになる。
……駄目。
握る。
立つ。
核を見る。
まだ。
壊れてない。
外で。
誰かが。
待ってる。
メルシアさんが水を止めている。
フレイヴィアさんが主を押さえている。
ガルドさんたちが、外へ出てくる異形を止めている。
ここまで。
僕一人で来たわけじゃない。
僕が。
あそこへ行きたいと言って。
道を作ってもらったわけでもない。
みんなが。
自分にできることをした。
その結果。
僕が。
ここまで来られた。
だったら。
僕がやることは。
一つだけ。
核へ向かう。
一歩。
水を受ける。
もう一歩。
片刃剣を上げる。
傷を見る。
亀裂を見る。
……ここ。
最後に。
踏み込む。
「――っ!」
足から。
腰。
肩。
腕。
全部を。
一つに。
片刃剣を。
振り抜く。
――刃が亀裂へ入った。
一瞬。
何も。
起こらなかった。
「……?」
核を見る。
白い線が。
増える。
一つ。
二つ。
そこから。
蜘蛛の巣みたいに。
黒い塊全体へ。
広がっていく。
「……あ」
――砕けた。
音は。
思っていたより。
小さかった。
黒い核が中央から割れ、いくつもの欠片になって崩れていく。
その瞬間、今まで絶えず行き来していた水が止まった。
「……」
全部。
止まった。
核へ入っていた水も。
外へ出ていた水も。
足元を流れていたものも。
まるで。
何をすればいいのか。
分からなくなったみたいに。
宙へ浮いた水滴が。
一つ。
落ちた。
それを合図にしたように。
――主の身体が。
崩れ始めた。
「え」
足元がなくなる。
黒い肉が水へ変わる。
さっきまで壁だった場所が一気に形を失い、大量の水が僕の周囲へ流れ込んできた。
「ちょ――」
逃げる。
どこへ?
入口。
来た道。
振り返る。
……ない。
さっきまで通ってきた隙間も。
メルシアさんが止めてくれていた水の道も。
全部。
崩れていく主の身体と一緒に。
水へ。
変わっている。
「っ……!」
走ろうとする。
足が沈む。
膝まで。
次には。
腰。
「待っ――」
片刃剣を持ったまま。
手を伸ばす。
何も。
掴めない。
周りにあるのは。
水だけ。
……そっか。
核を壊したら。
こいつの身体も。
なくなる。
そこまで。
考えてなかった。
水が胸まで上がる。
息を吸う。
外。
どっち。
見えない。
全部。
水。
身体が浮く。
次の瞬間。
足元から。
何かに引かれた。
「――っ!」
大量の水が、一斉に崩れた主の外へ向かって動き出す。
身体ごとその流れへ巻き込まれた。
上も。
下も。
分からない。
片刃剣だけは。
離さない。
でも。
息が。
続かない。
……まずい。
視界が。
暗くなる。
その中で。
最後に。
頭へ浮かんだのは。
『ちゃんと帰ってこいよ、ルキウス!』
ガルドさんの声だった。
……はい。
返事をした。
つもりだった。
でも。
口から出たのは。
僅かな。
泡だけだった。
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