駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第四章 第三話『少年は水禍の核へ刃を届かせる』

 

 ◆

 

 水禍渡りの主の中へ踏み込んだ瞬間、外から聞こえていた戦いの音が遠くなった。

 何も聞こえなくなったわけじゃない。

 大剣が何かへぶつかるたびに身体の奥まで振動が伝わり、遠くでは誰かが叫んでいるような声も聞こえる。

 ただ、その全部が厚い水の向こう側にあるみたいにぼやけていた。

 代わりに近くなったのは、水の音だった。

 右から左へ。

 上から下へ。

 目の前を塞いでいる黒い肉の隙間を、何本もの水の流れが走っている。

 メルシアさんが止めているのは、そのうち僕が入ってきた一本だけらしい。

 少し横では、止まっていない水がものすごい速さで奥へ吸い込まれていた。

 ……触れたら。

 そう考えた途端、さっき頬へ掠った水の痛みを思い出した。

 身体ごとあそこへ入れば、たぶん流されるだけでは済まない。

 

「……っ」

 

 足元が揺れる。

 主が外で動いたらしい。

 壁だと思っていた黒い肉が大きく歪み、身体ごと横へ持っていかれそうになった。

 片刃剣を握ったまま膝を落とし、近くの肉へ左手をつく。

 柔らかい。

 でも、生き物の身体へ触れた時の感触とは少し違う。

 皮膚のすぐ下を大量の水が走っているせいか、触れた場所が内側から絶えず形を変えていた。

 ……気持ち悪い。

 手を離し、もう一度奥を見る。

 ここへ来たのは観察するためじゃない。

 メルシアさんが水を止めていられる間に、核を見つけないといけない。

 

 走る。

 足場は平らじゃない。

 肉と肉の間に水が溜まり、その上へ足を置くたびに靴底が滑る。

 少しでも速度を上げようとすると身体が横へ流されるので、壁へ手をつきながら奥へ進んだ。

 ……どっちだ。

 外で見ていた時、水は傷口から中へ入っていた。

 そこから先。

 何度見ても、ほとんど同じ方向へ流れていた。

 目の前には二つの隙間がある。

 左は細い。

 右は広い。

 でも、水が強く動いているのは左。

 

 ……こっち。

 

 身体を横にして、狭い方へ入る。

 肩が黒い肉へ擦れた。

 次の瞬間、すぐ横を大量の水が通り抜ける。

 

「っ!」

 

 反射的に身体を引く。

 水そのものに腕を掴まれたみたいに外套が引かれ、布の端が奥へ吸い込まれた。

 慌てて片刃剣で切り離す。

 千切れた布は一瞬で流れの向こうへ消えた。

 ……止まってない。

 メルシアさんが止めてくれた道から外れた。

 ここから先は、流れそのものを避けないと進めない。

 

 水を見る。

 ずっと同じように流れているわけじゃない。

 強くなる。

 弱くなる。

 また強くなる。

 主が外で身体を動かすたび、その速さまで変わっている。

 ……だったら。

 待つ。

 目の前を横切る水流が弱くなった瞬間、身体を低くして反対側へ走る。

 背中のすぐ後ろで水が勢いを取り戻した。

 間に合った。

 そのまま次の流れを見る。

 

 ……一つずつ。

 

 全部まとめて考える必要はない。

 今、目の前を通れるか。

 次にどこへ足を置くか。

 それだけでいい。

 

 右から水。

 少し待つ。

 弱くなる。

 進む。

 足元から別の流れが来る。

 踏み込まず、一度止まる。

 流れが上へ抜けたところで、その下を潜るように前へ出る。

 身体が勝手に動いているみたいだった。

 怖い。

 さっきから何度も、あと少し遅れていたらと思う。

 それでも不思議なくらい、目の前だけはよく見えた。

 水がどこから来るのか。

 次にどこへ向かうのか。

 黒い肉が動いた時、どちらへ足場が傾くのか。

 頭の中から余計なものが消えて、必要なものだけが残っていく。

 

 ……もっと奥。

 

 水の流れが少しずつ太くなっている。

 外側では何本にも分かれていたものが、進むほど一つへ集まっていた。

 なら、方向は間違っていない。

 

 ――身体全体が大きく揺れた。

 

「っ!」

 

 足元が跳ねる。

 肩から壁へぶつかった。

 治してもらったはずの背中に痛みが走り、息が詰まる。

 外で何が起きているのかは見えない。

 でも、今の衝撃は主が自分で動いたものじゃない気がした。

 もっと鋭い。

 外側から強く叩かれたような。

 

 ……フレイヴィアさん。

 

 たぶん。

 今も戦っている。

 僕が中に入っている間も。

 主が自由に動けないように。

 

「……行かないと」

 

 立ち上がる。

 足が少し震えた。

 でも、動く。

 

 次の隙間へ入ったところで、目の前の水が突然膨らんだ。

 

「え――」

 

 避ける場所がない。

 左右は黒い肉。

 後ろへ戻っても間に合わない。

 

 ……下。

 

 しゃがみ込む。

 頭のすぐ上を水が通り抜ける。

 勢いだけでフードのない髪が引かれ、頬へ何滴か飛沫が当たった。

 

「っ……!」

 

 痛い。

 顔を上げる。

 その先。

 

 何かが。

 

 動いた。

 

「……?」

 

 水じゃない。

 黒い肉でもない。

 流れの中に、人の腕くらいのものが浮かんでいる。

 細い指。

 肘らしき関節。

 でも、その先に肩も身体もない。

 水の中で何度か形を変え、そのまま壁へ溶けるように消えた。

 

 ……今の。

 

 考える前に、今度は反対側の肉が膨らむ。

 そこから小さな頭のようなものが押し出された。

 眼窩だけが開いている。

 口も鼻もない。

 首から先もないまま数秒だけ蠢き、水が流れ込んだ瞬間に形が崩れた。

 

「……」

 

 外へ出てきてたやつ。

 

 主から分裂した異形。

 あれは外で作られていたんじゃない。

 ……この中で。

 身体の中を流れている水と肉が途中で形を作って、それが外へ押し出されている。

 

 気づいた瞬間、奥から何かが這うような音がした。

 

「っ」

 

 片刃剣を構える。

 狭い隙間の向こうから、四本の指が現れた。

 次に腕。

 肩。

 頭。

 まだ身体の半分が壁へ繋がったままなのに、それは僕へ腕を伸ばしてくる。

 

 ……こいつ。

 

 中でも動ける。

 

 爪が来る。

 身体を引く場所はない。

 片刃剣を斜めに当てて、腕を下へ流す。

 狭いせいで勢いを逃がし切れず、右腕まで大きく沈んだ。

 

「っ……!」

 

 でも。

 相手も動きづらい。

 まだ下半身が壁から抜けていない。

 

 ……今。

 

 足を前へ置く。

 腰を回す。

 空いた首らしき場所へ片刃剣を振る。

 

 刃が入る。

 水が噴き出す。

 異形が口のない顔をこちらへ向けた。

 

「まだ……!」

 

 もう一度。

 今度は同じ傷へ。

 腕だけで振らない。

 踏み込んだ力を、そのまま腰から刃へ乗せる。

 

 異形の頭が落ちた。

 残った身体も壁から剥がれきる前に崩れ、水だけになって足元へ流れていく。

 

「……はぁっ」

 

 片刃剣を戻す。

 腕が重い。

 握っている指にも、また力が入りづらくなってきている。

 でも。

 まだ動く。

 

 奥へ進む。

 

 異形が一体いたということは、またいるかもしれない。

 水だけじゃなく、肉も見る。

 膨らんでいるところ。

 動きがおかしい場所。

 そこを避けながら進む。

 

 ……水。

 

 やっぱり。

 

 集まってる。

 

 流れが一本になってきた。

 ここまで来ると、どちらへ向かえばいいのか考える必要もない。

 僕の横を通る水が全部、同じ方向へ吸い込まれている。

 

 その先に。

 

 何かがある。

 

 走る。

 

 足場が大きく下がる。

 主がまた動いた。

 

 ――今度は、すぐ後ろで何かが裂ける音がした。

 

「っ!」

 

 振り返る。

 さっき通ってきた道へ、大量の水が流れ込んでいる。

 最初にメルシアさんが止めていたはずの流れが、少しずつ動き始めていた。

 

 ……まずい。

 

 止め切れなくなってる。

 

 どれだけ時間が経った?

 

 十秒?

 

 そんなわけない。

 もっとだ。

 最初に言っていた十秒なんて、とっくに過ぎている気がする。

 

 ……メルシアさん。

 

 まだ。

 

 止めてくれてる。

 

 完全には戻っていない。

 あれだけの水を。

 ずっと。

 

「急がないと」

 

 前へ向く。

 もう足元なんて気にしている余裕はない。

 流れを見る。

 強いところだけ避ける。

 弱いところなら多少濡れても走る。

 

 水が左から来る。

 その直前に一歩前へ。

 足首へ当たる。

 身体が持っていかれそうになる。

 

「っ!」

 

 右足を踏ん張る。

 壁へ左手をつく。

 

 止まらない。

 

 そのまま前へ。

 

 ……まだ。

 

 奥。

 

 もっと。

 

 水が全部向かっている場所。

 

 その時。

 

 ――見えた。

 

「……あ」

 

 今までずっと黒い肉ばかりだった場所に。

 違うものがあった。

 

 最初は石だと思った。

 黒く。

 大きく。

 僕の身体よりもずっと大きい塊が、肉の奥へ埋まっている。

 

 でも。

 

 動いている。

 

 ゆっくり。

 

 縮む。

 

 膨らむ。

 

 そのたびに。

 

 周囲の水が吸い込まれ。

 

 また。

 

 外へ送り出されている。

 

「……これ」

 

 核。

 

 たぶん。

 

 いや。

 

 他にない。

 

 今まで追ってきた水の流れが全部、ここへ集まっている。

 

 黒い塊の表面には、太い筋のようなものが何本も走っていた。

 そこから水が入り。

 別の筋から出ていく。

 一度脈打つたび、主の身体全体が僅かに動く。

 

 ……これを。

 

 壊せば。

 

 片刃剣を構える。

 

 一歩。

 

 近づく。

 

 その瞬間。

 

 ――核が大きく脈打った。

 

「っ!?」

 

 水が。

 

 一斉に動いた。

 

 周囲の流れが全部、核から外へ向かう。

 身体を押し返される。

 

「う、わっ……!」

 

 踏ん張れない。

 足が滑る。

 壁へ手をつく。

 

 でも。

 

 止まらない。

 

 身体ごと後ろへ押される。

 

「くっ……!」

 

 片刃剣を黒い肉へ突き立てる。

 刃が途中まで入り、それを支えにしてどうにか踏み止まった。

 

 ……気づかれた?

 

 分からない。

 

 でも。

 

 水がさっきまでと違う。

 

 核から外へ。

 僕が入ってきた方向へ。

 大量に流れ始めている。

 

 まるで。

 

 僕を。

 

 外へ押し出そうとしているみたいに。

 

「……させない」

 

 片刃剣を抜く。

 水が来る。

 

 進む。

 

 押される。

 

 また進む。

 

 一歩進むだけで脚が後ろへ滑る。

 足元へ力を入れても、流れが身体全体を押してくる。

 

 ……どうする。

 

 このままじゃ近づけない。

 

 水を避ける場所もない。

 核の周り全部から流れが出ている。

 

 だったら。

 

 避けない。

 

「っ……!」

 

 身体を低くする。

 片刃剣を正面へ向ける。

 

 一歩。

 

 水が胸へぶつかる。

 息が詰まる。

 

 もう一歩。

 

 今度は肩。

 後ろへ押される。

 

 足を置き直す。

 

 ……前。

 

 それだけ。

 

 一歩進む。

 

 半歩戻される。

 

 また一歩。

 

 腕が痛い。

 脚が震える。

 顔へ水が当たるたび、皮膚を切られるように痛んだ。

 

 でも。

 

 近づいてる。

 

 少しずつ。

 

 核が。

 

 大きくなる。

 

 ……届く。

 

 あと。

 

 少し。

 

 その時。

 

 外から。

 

 大きな衝撃が来た。

 

「っ!」

 

 主の身体が横へ大きく傾く。

 核も。

 僕も。

 

 一緒に揺れた。

 

 でも。

 

 水の流れが。

 

 一瞬だけ弱くなった。

 

「……!」

 

 誰かが外から攻撃した。

 

 たぶん。

 

 フレイヴィアさん。

 

 今。

 

 主の意識が。

 

 そっちへ向いた。

 

 ……なら。

 

 走る。

 

 足を踏み込む。

 水が弱いうちに距離を詰める。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 核が目の前へ来る。

 

 片刃剣を振り上げる。

 

「はぁっ!」

 

 足から。

 腰を回す。

 全身の力を刃へ乗せる。

 

 ――片刃剣が核へ食い込んだ。

 

「っ……!」

 

 硬い。

 

 思っていたより。

 

 ずっと。

 

 硬い。

 

 刃は入った。

 でも。

 

 浅い。

 

「……嘘」

 

 核が脈打つ。

 

 水が戻る。

 

「っ!」

 

 片刃剣ごと身体が押される。

 柄を両手で握る。

 

 抜く。

 

 もう一度。

 

 振る。

 

 同じ場所へ。

 

 ――ガッ。

 

「っ……!」

 

 今度も止まった。

 

 傷はできている。

 

 でも。

 

 割れない。

 

 ……これ。

 

 一回じゃ。

 

 無理。

 

 核がまた脈打つ。

 

 水が強くなる。

 足元が滑る。

 

「くっ……!」

 

 片刃剣を抜く。

 

 もう一度。

 

 同じ傷。

 

 踏み込む。

 

 腰を回す。

 

 刃を入れる。

 

 ――少し。

 

 深くなった。

 

 でも。

 

 まだ。

 

 壊れない。

 

「……っ、はぁ……!」

 

 腕が。

 

 上がらない。

 

 右手が。

 

 震える。

 

 指も。

 

 また固まり始めている。

 

 ……あと。

 

 何回。

 

 考えるな。

 

 斬る。

 

 一回で駄目なら。

 

 もう一回。

 

 それでも駄目なら。

 

 また。

 

 水が来る。

 

 避けられない。

 

 背中を押される。

 

 それでも。

 

 核から目を離さない。

 

 傷。

 

 今までつけた傷。

 

 そこだけ。

 

 見ればいい。

 

 ……あそこ。

 

 片刃剣を上げる。

 

「っ……!」

 

 上がらない。

 

 腕だけじゃ。

 

 もう。

 

 無理。

 

『腕で振るんじゃねえ!』

 

 頭の中に。

 

 ガルドさんの声が浮かんだ。

 

『足から動け! 腰回せ! 腕は最後に付いてくるだけでいい!』

 

「……」

 

 そうだ。

 

 僕は。

 

 腕だけで。

 

 斬る必要なんてない。

 

 足を置く。

 

 滑る。

 

 もう一度。

 

 今度は。

 

 しっかり。

 

 踏む。

 

 膝を曲げる。

 

 腰を落とす。

 

 片刃剣は。

 

 持ち上げるだけ。

 

 力は。

 

 足から。

 

「……っ」

 

 一歩。

 

 踏み込む。

 

 腰を回す。

 

 肩。

 

 腕。

 

 最後に。

 

 刃。

 

「はぁぁっ!」

 

 片刃剣が。

 

 同じ傷へ。

 

 入る。

 

 ――硬い感触。

 

 そこで。

 

 止まりかけた。

 

「っ……!」

 

 でも。

 

 止めない。

 

 踏んだ足を。

 

 さらに前へ。

 

 腰を。

 

 最後まで。

 

 回す。

 

「――っ、あああああッ!」

 

 刃が。

 

 入った。

 

 さっきより。

 

 深く。

 

 傷の奥で。

 

 何かが。

 

 鳴った。

 

 小さな。

 

 ひび割れるような音。

 

「……!」

 

 核を見る。

 

 黒い表面に。

 

 一本。

 

 白い線が走っている。

 

 ……割れた。

 

 まだ。

 

 ほんの少し。

 

 でも。

 

 割れる。

 

「……いける」

 

 口から。

 

 勝手に出た。

 

 勝てる。

 

 そうじゃない。

 

 まだ。

 

 そこまでは分からない。

 

 でも。

 

 壊せる。

 

 それが分かった。

 

 怖い。

 

 身体も。

 

 もう動かない。

 

 なのに。

 

 目の前だけが。

 

 さっきより。

 

 よく見えた。

 

 核の傷。

 

 そこから伸びる細い亀裂。

 

 次に。

 

 どこへ刃を入れれば。

 

 広がる。

 

 ……ここ。

 

 片刃剣を抜く。

 

 腕が痛い。

 

 でも。

 

 もう一度。

 

 足。

 

 腰。

 

 刃。

 

 振り下ろす。

 

 ――亀裂が伸びる。

 

 核が大きく脈打った。

 

 水が暴れる。

 

 今度は押すんじゃない。

 左右から。

 上下から。

 方向なんて関係なく、水が身体へ叩きつけられる。

 

「っ……!」

 

 肩が壁へぶつかる。

 片刃剣を離しそうになる。

 

 ……駄目。

 

 握る。

 

 立つ。

 

 核を見る。

 

 まだ。

 

 壊れてない。

 

 外で。

 

 誰かが。

 

 待ってる。

 

 メルシアさんが水を止めている。

 フレイヴィアさんが主を押さえている。

 ガルドさんたちが、外へ出てくる異形を止めている。

 

 ここまで。

 

 僕一人で来たわけじゃない。

 

 僕が。

 

 あそこへ行きたいと言って。

 

 道を作ってもらったわけでもない。

 

 みんなが。

 

 自分にできることをした。

 

 その結果。

 

 僕が。

 

 ここまで来られた。

 

 だったら。

 

 僕がやることは。

 

 一つだけ。

 

 核へ向かう。

 

 一歩。

 

 水を受ける。

 

 もう一歩。

 

 片刃剣を上げる。

 

 傷を見る。

 

 亀裂を見る。

 

 ……ここ。

 

 最後に。

 

 踏み込む。

 

「――っ!」

 

 足から。

 

 腰。

 

 肩。

 

 腕。

 

 全部を。

 

 一つに。

 

 片刃剣を。

 

 振り抜く。

 

 ――刃が亀裂へ入った。

 

 一瞬。

 

 何も。

 

 起こらなかった。

 

「……?」

 

 核を見る。

 

 白い線が。

 

 増える。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 そこから。

 

 蜘蛛の巣みたいに。

 

 黒い塊全体へ。

 

 広がっていく。

 

「……あ」

 

 ――砕けた。

 

 音は。

 

 思っていたより。

 

 小さかった。

 

 黒い核が中央から割れ、いくつもの欠片になって崩れていく。

 その瞬間、今まで絶えず行き来していた水が止まった。

 

「……」

 

 全部。

 

 止まった。

 

 核へ入っていた水も。

 外へ出ていた水も。

 足元を流れていたものも。

 

 まるで。

 

 何をすればいいのか。

 

 分からなくなったみたいに。

 

 宙へ浮いた水滴が。

 

 一つ。

 

 落ちた。

 

 それを合図にしたように。

 

 ――主の身体が。

 

 崩れ始めた。

 

「え」

 

 足元がなくなる。

 黒い肉が水へ変わる。

 さっきまで壁だった場所が一気に形を失い、大量の水が僕の周囲へ流れ込んできた。

 

「ちょ――」

 

 逃げる。

 

 どこへ?

 

 入口。

 

 来た道。

 

 振り返る。

 

 ……ない。

 

 さっきまで通ってきた隙間も。

 メルシアさんが止めてくれていた水の道も。

 

 全部。

 

 崩れていく主の身体と一緒に。

 

 水へ。

 

 変わっている。

 

「っ……!」

 

 走ろうとする。

 

 足が沈む。

 

 膝まで。

 

 次には。

 

 腰。

 

「待っ――」

 

 片刃剣を持ったまま。

 

 手を伸ばす。

 

 何も。

 

 掴めない。

 

 周りにあるのは。

 

 水だけ。

 

 ……そっか。

 

 核を壊したら。

 

 こいつの身体も。

 

 なくなる。

 

 そこまで。

 

 考えてなかった。

 

 水が胸まで上がる。

 

 息を吸う。

 

 外。

 

 どっち。

 

 見えない。

 

 全部。

 

 水。

 

 身体が浮く。

 

 次の瞬間。

 

 足元から。

 

 何かに引かれた。

 

「――っ!」

 

 大量の水が、一斉に崩れた主の外へ向かって動き出す。

 身体ごとその流れへ巻き込まれた。

 

 上も。

 

 下も。

 

 分からない。

 

 片刃剣だけは。

 

 離さない。

 

 でも。

 

 息が。

 

 続かない。

 

 ……まずい。

 

 視界が。

 

 暗くなる。

 

 その中で。

 

 最後に。

 

 頭へ浮かんだのは。

 

『ちゃんと帰ってこいよ、ルキウス!』

 

 ガルドさんの声だった。

 

 ……はい。

 

 返事をした。

 

 つもりだった。

 

 でも。

 

 口から出たのは。

 

 僅かな。

 

 泡だけだった。

 

 ◆

 




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