駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第四章 第四話『少年は皆の手で帰る』

 

 ◆

 

 冷たい。

 それだけは、まだ分かった。

 水に身体を引っ張られ、どちらへ流されているのかも分からないまま、僕は片刃剣を握った右手だけを胸元へ引き寄せた。

 上も下も見えない。

 目を開けても濁った水しかなく、さっきまで周囲を囲んでいた黒い肉さえ、もうほとんど形を残していなかった。

 ……核は。

 壊した。

 あの黒い塊が砕けるところは見た。

 だったら、主は。

 考えようとしたところで胸が苦しくなり、口から残っていた空気が漏れた。

 泡が頬を撫で、どこかへ流れていく。

 ……そっちが、上?

 腕を伸ばそうとする。

 でも、水に押されて身体が回り、すぐに方向が分からなくなった。

 脚が何かへぶつかる。

 崩れた肉なのか、石なのかも分からない。

 痛みだけが遅れて届いた。

 

「――っ」

 

 声を出したつもりだった。

 当然、水の中では何も聞こえない。

 代わりに口へ水が入り、慌てて閉じる。

 ……まずい。

 帰らないと。

 約束した。

 ガルドさんにも。

 あの女の子にも。

 ちゃんと帰るって。

 そう思っているのに、身体が動かなかった。

 右手はまだ片刃剣を握っている。

 でも、それ以外にはほとんど力が入らない。

 水の流れだけが僕を運び、時々身体を何かへぶつけていく。

 目の前が少しずつ暗くなる。

 ……まだ。

 手を伸ばす。

 何もない。

 もう一度。

 今度は指先すら、どこへ伸ばしているのか分からなかった。

 その時。

 濁った水の向こうで、何かが光った。

 金色。

 そう見えた気がした。

 でも、確かめる前に視界が暗くなった。

 

 

 巨大な身体が崩れた瞬間、俺は何が起きたのか理解できなかった。

 さっきまでフレイヴィアと真正面から殴り合っていた化け物が、いきなり力を失った。

 外殻みたいに身体を覆っていた黒い肉が崩れ、その隙間から大量の水が噴き出す。

 同時に、俺たちの前で暴れていた異形も動きを止めた。

 

「……っ!」

 

 目の前にいた奴も同じだった。

 剣を振り下ろそうとしていた腕が途中で止まり、次の瞬間には身体全体が崩れて水へ変わる。

 何がどうなったのかなんて考えるまでもない。

 成功した。

 あの馬鹿が。

 本当に。

 

「やった……?」

 

 近くで誰かが呟いた。

 歓声は上がらなかった。

 上げる暇もなかった。

 巨大な主の身体が内側から崩れ、港側へ凄まじい量の水を撒き散らし始めていたからだ。

 それを見た瞬間。

 胸の奥が冷えた。

 

「……ルキウス」

 

 いない。

 

「おい」

 

 崩れていく主を見る。

 あいつが入った腹の裂け目も、もう見えなかった。

 黒い肉も。

 通路みたいになっていた隙間も。

 全部が水へ変わり、そのまま地面へ落ち続けている。

 

「おい、待て」

 

 勝手に足が前へ出た。

 

「ルキウスはどこだ!」

 

 返事なんてあるわけがない。

 それでも叫んだ。

 

「フレイヴィア!」

「分かっておる!」

 

 俺より先に動いた奴がいた。

 フレイヴィアが大剣を投げ捨て、崩れ続ける主へ走っていく。

 

「くそ!どこだ、ルキウス!」

「どこだ、どこにいるんだ」

 

 主の身体だった水は、もう膝より高いところまで広がっている。

 それだけじゃない。

 崩れた巨体の中心から外へ向かって水が噴き出し続け、近づくだけで足を持っていかれそうになる。

 

「メルシア!」

 

 俺が叫ぶより早く、フレイヴィアが振り返った。

 

「ルキウスはどこだ!」

「今見てるよ!」

 

 少し離れたところで、あの旅人が両手を水へ向けていた。

 普段のふざけた顔は消えている。

 赤紫色の目だけが、流れ続ける水を追っていた。

 

「急げ!」

「うるさいな! これだけ滅茶苦茶になった流れから一人探してるんだよ!」

 

 メルシアが右手を動かす。

 俺には何をしているのか分からない。

 ただ、その動きに合わせて地面を流れていた水の一部が僅かに向きを変えた。

 

「……入った場所から真っすぐじゃない。中でかなり奥まで行ってる」

「それで!?」

「核があったのは中央より少し海側! 崩れた水は今、外へ流れてる!」

 

 メルシアの指が動く。

 崩れた主から吐き出される水。

 その一部を追うように、指先が右へずれた。

 

「あっち!」

 

 フレイヴィアが走る。

 

「待て!」

 

 止めても聞くわけがない。

 だったら、止めるんじゃなく。

 

「縄!」

 

 後ろへ振り返る。

 

「縄持ってこい! 長いやつだ!」

 

「あるぞ!」

 

 誰かが叫んだ。

 第二防衛線から運んできたらしい太い縄が、壊れた荷車の脇へ転がっている。

 

「持ってこい!」

 

 二人が走る。

 俺も受け取りに向かい、伸ばされた縄を掴んだ。

 

「嬢ちゃん!」

 

 フレイヴィアへ投げる。

 

「これ巻け!」

 

「邪魔だ!」

 

「お前まで流されたら誰が坊主を拾うんだ!」

 

 叫ぶ。

 フレイヴィアが一瞬だけこちらを睨んだ。

 それでも縄を受け取ると、腰へ一周させて乱暴に結ぶ。

 

「絶対離すな!」

 

「誰に言っておる!」

 

 そのまま水へ入った。

 

「手ぇ貸せ!」

 

 俺は縄を握り、近くにいた連中へ叫ぶ。

 

「五人! いや、掴める奴全部だ!」

「おう!」

「こっちも持つ!」

「足場気をつけろ!」

 

 次々と縄へ手が掛かる。

 俺を含めて八人。

 それでも。

 フレイヴィアが腰まで水へ入った瞬間、全員の身体が一斉に前へ引かれた。

 

「っ……!」

 

 強え。

 

「踏ん張れ!」

 

 石畳へ踵を押しつける。

 隣の男が滑り、すぐ後ろの奴が肩を支えた。

 縄が張る。

 腕が軋む。

 あの竜族を引っ張っているんじゃない。

 フレイヴィアにぶつかっている水の力を、こっちで受けている。

 

「メルシア! どうだ!」

 

「もう少し右!」

 

「聞こえたか、嬢ちゃん!」

 

「聞こえておる!」

 

 フレイヴィアが水を掻き分ける。

 膝。

 腰。

 腹。

 進むほど深くなっていく。

 崩れた主の残骸が流れ、その身体へぶつかるたびに黒い肉片が弾けて水へ戻った。

 

「止まって!」

 

 メルシアが叫ぶ。

 フレイヴィアの足が止まった。

 

「そこ! その先で流れが沈んでる!」

「見えぬぞ!」

「当たり前だろう! 水の中なんだから!」

「ならばどうしろ!」

「僕が上げる!」

 

 メルシアが両手を広げる。

 その瞬間。

 フレイヴィアの前を横切っていた水が、不自然に左右へ分かれた。

 

「……っ!」

 

 ほんの一瞬だった。

 水が消えたわけじゃない。

 右と左へ押し退けられ、中央に細い窪みみたいなものができる。

 

「今!」

 

 フレイヴィアが飛び込んだ。

 

「おい!」

 

 縄が一気に引かれる。

 

「持てぇっ!」

 

 全員で引く。

 俺の足が半歩前へ滑った。

 腕が千切れそうになる。

 

「フレイヴィア!」

 

 返事がない。

 黒髪まで水へ沈み、姿が見えなくなる。

 

「メルシア!」

 

「分かってる!」

 

 あいつの声も苦しそうだった。

 両腕が震えている。

 さっきまで主の中の水を止め続けていたんだ。

 余裕があるわけがない。

 

「……あと少し」

 

「何がだ!」

 

「待って!」

 

 水が流れる。

 縄だけが張っている。

 その先に何があるのか、俺には見えない。

 

「……っ」

 

 握っている手が痛い。

 でも離せない。

 

「まだか!」

 

「今――」

 

 メルシアの目が見開かれた。

 

「いた!」

 

 同時に。

 縄がさらに強く引かれた。

 

「嬢ちゃん!」

 

 水の中から黒い頭が出る。

 フレイヴィアだ。

 片腕で水を掻き。

 もう片方の腕には。

 

「……ルキウス!」

 

 力の抜けた身体が抱えられていた。

 フードは外れたまま。

 顔は真っ青で、目も閉じている。

 右手だけが。

 まだ。

 片刃剣を握っていた。

 

「引けぇっ!」

 

 八人で縄を引く。

 フレイヴィアも足を進める。

 でも、行きより重い。

 一人増えただけじゃない。

 主が崩れたことで、水の流れそのものがどんどん強くなっている。

 

「っ、くそ!」

 

 一歩。

 引く。

 縄を手繰る。

 

「もう一回!」

 

 また一歩。

 フレイヴィアが流されかける。

 水の中で身体を捻り、ルキウスだけは胸元へ抱え込んだ。

 

「主を引け!」

 

「やってる!」

 

「ならばもっと引かぬか!」

 

「十分やってんだよ!」

 

 怒鳴り返す。

 こういう時まで偉そうだ。

 でも。

 それでいい。

 声が出ているなら、まだいける。

 

「メルシア!」

 

「あと少しなら逸らせる!」

 

 水が少しだけ横へ曲がる。

 その瞬間、縄へ掛かっていた重さが僅かに軽くなった。

 

「今だ!」

 

 全員で引く。

 

「せぇの!」

 

 足を踏ん張る。

 

「おおおおおっ!」

 

 一気に手繰る。

 フレイヴィアの身体が水の浅い場所まで戻ってきた。

 あと数歩。

 

「嬢ちゃん、手ぇ伸ばせ!」

 

「主を取れ!」

 

 フレイヴィアがルキウスをこちらへ押し出す。

 俺は縄から片手を離して前へ出た。

 

「ルキウス!」

 

 腕を掴む。

 冷たい。

 

「もう一人!」

 

「任せろ!」

 

 横から槍使いが来る。

 二人でルキウスの身体を引き寄せる。

 水から肩が出る。

 胸。

 腰。

 最後に脚が抜けた。

 

「引き上げろ!」

 

 そのまま石畳へ寝かせる。

 

「ルキウス!」

 

 反応がない。

 

「おい、坊主!」

 

 顔を寄せる。

 息は。

 

「退け!」

 

 フレイヴィアが横へ膝をついた。

 水に濡れた黒髪が頬へ張りついている。

 そんなことを気にする様子もなく、ルキウスの顔へ手を伸ばす。

 

「主!」

 

「待て!」

 

 俺は口元へ耳を近づける。

 分からない。

 水の音がうるさい。

 

「静かにしろ!」

 

 怒鳴る。

 自分でも無茶だと思った。

 それでも集中する。

 

「……」

 

 僅かに。

 

「息ある!」

 

「本当か!?」

 

「ああ!」

 

 弱い。

 でも、ある。

 

「治療班!」

 

 後ろへ叫ぶ。

 

「こっちだ! 誰か――」

 

「ガルド!」

 

 今度はギルドマスターの声だった。

 振り返る。

 少し離れたところで、海側を見たまま立っている。

 

「何だ!」

 

「それどころじゃねえ!」

 

 何を。

 言い返そうとして。

 あいつが見ている方向へ顔を向けた。

 

「……」

 

 海が。

 

 動いていた。

 

「……嘘だろ」

 

 主は死んだ。

 目の前にあった巨体はほとんど崩れ、水と黒い残骸しか残っていない。

 異形も全部止まった。

 

 でも。

 

 その向こう。

 

 ずっと沖へ引いていたはずの海が。

 

 戻ってきている。

 

「メルシア」

 

 俺より先にギルドマスターが呼ぶ。

 

「止められるか」

 

 メルシアは答えなかった。

 両腕を下ろし、沖を見ている。

 その顔を見ただけで。

 何となく分かった。

 

「……無理だよ」

 

 やっぱり。

 

「あれを集めてた奴は死んだ」

 

 息を整えるように一度言葉を切る。

 

「でも、集まった水まで一緒に消えるわけじゃない」

 

 沖で。

 白い線が。

 

 高くなる。

 

「もう落ち始めてる」

 

「どれくらいだ」

 

「何が?」

 

「ここへ来るまでだ!」

 

 メルシアが海を見る。

 俺には距離なんて分からない。

 でも。

 返事を待つ必要はなかった。

 

「海が戻るぞぉぉぉッ!!」

 

 高い場所から叫び声が落ちてきた。

 それを聞いたギルドマスターの表情が変わる。

 

「全員撤退ッ!!」

 

 声が響いた。

 

「戦闘終了だ! 高台まで下がれ!」

 

 周囲にいた連中が一斉に動き始める。

 

「武器なんざ捨てろ! 歩けねえ奴を運べ! 荷物は後だ!」

 

「負傷者から上へ!」

「こっち担げ!」

「まだ下に人がいるぞ!」

 

 さっきまでモンスターへ向けられていた声が。

 今度は人を逃がすために飛び交う。

 

「フレイヴィア」

 

 俺はルキウスへ手を伸ばす。

 

「俺が担ぐ」

「断る」

 

 即答された。

 

「お前も疲れてるだろうが」

「そなたよりは動ける」

 

 言い返せない。

 フレイヴィアはルキウスの背中と膝裏へ腕を入れ、そのまま軽々と持ち上げた。

 ぐったりした身体が胸元へ預けられる。

 片刃剣だけは、まだ右手から離れていなかった。

 

「主」

 

 返事はない。

 フレイヴィアが一度だけ顔を見る。

 

「帰るぞ」

 

 そのまま高台へ向かって歩き出した。

 

「おい、歩くな! 走れ!」

 

「揺らせば主の身体に障る」

 

「今はそんなこと言ってる場合か!」

 

「ならばそなたが海を止めよ」

 

「できるか!」

 

 俺もその横へ走る。

 

「ほら、もっと速く!」

「うるさい!」

 

 背後から地響きみたいな音が近づいてくる。

 振り返りたくない。

 でも。

 一度だけ見た。

 

「……っ」

 

 海だった。

 

 水禍渡りの主が纏っていたものなんかとは比べものにならない。

 沖へ引いていた海そのものが。

 崩れた防波壁へ向かっている。

 

「急げぇっ!」

 

 前からも声が飛ぶ。

 高台へ続く坂には人が溢れていた。

 負傷者へ肩を貸す奴。

 背負う奴。

 担架を二人で持つ奴。

 自分も脚を引きずりながら、さらに怪我人の腕を担いでいる奴までいる。

 

「押すな! まだ走れる奴は外側へ回れ!」

「担架通すぞ!」

「子ども先に上げろ!」

 

 俺たちもその流れへ入る。

 ここで詰まれば終わる。

 

「道を空けろ!」

 

 フレイヴィアが叫ぶ。

 

「重傷者だ!」

 

 前にいた連中が振り返る。

 抱えられているルキウスを見た瞬間、すぐ左右へ分かれた。

 

「通せ!」

「こっちだ!」

「教会の方へ!」

 

 走る。

 フレイヴィアの後ろ。

 その少し後ろを俺がついていく。

 

 ――ドンッ。

 

 背後で。

 腹へ響くような音がした。

 

「……!」

 

 振り返る。

 

 戻ってきた海が。

 防波壁へぶつかった。

 

 いや。

 

 防波壁だったものへ。

 

 大部分はもう崩れている。

 それでも残っていた石組みが水へぶつかり、巨大な波の先端をいくつにも砕いた。

 飛沫が夜空へ上がる。

 

「止まったか!?」

 

 誰かが叫ぶ。

 

「止まるわけねえ! 走れ!」

 

 砕けただけだ。

 水はそのまま防波壁の残骸を越える。

 

 港へ。

 

 押し寄せる。

 

 ――次にぶつかったのは倉庫街だった。

 

 石造りの建物へ水が当たり、一階部分を呑み込む。

 荷車が浮く。

 積んでいた木材が流される。

 第二防衛線に作った障害物まで、水の中へ消えていく。

 

 でも。

 

 全部が一度に来ていない。

 

「……」

 

 防波壁にぶつかって。

 倉庫にぶつかって。

 荷車や柵を巻き込みながら。

 

 そのたびに。

 

 ほんの少しだけ。

 

 遅くなる。

 

「何見てる!」

 

 前から怒鳴られる。

 

「走れ、ガルド!」

 

「分かってる!」

 

 前へ向き直る。

 

 昔。

 この街にいたっていう人間が考えた壁。

 

 水禍渡りを止めるためじゃない。

 

 勝つためでもない。

 

 逃げる時間を作るため。

 

「……本当に」

 

 思わず。

 口から漏れた。

 

「最後まで働きやがる」

 

 もう一度走る。

 坂はすぐそこだ。

 

「全員上へ!」

「第三防衛線も捨てろ!」

「柵なんざ放っとけ!」

 

 最後尾にいたハンターたちも高台へ上がってくる。

 第三防衛線。

 さっきまで俺たち自身が壁になっていた場所を、今度は誰も守らない。

 守る必要がない。

 

 戦いは。

 

 終わった。

 

 今は。

 

 帰るだけだ。

 

「フレイヴィア!」

 

「何だ!」

 

「坊主は!」

 

「変わらぬ!」

 

 腕の中を見る。

 ルキウスはまだ目を閉じている。

 呼吸も。

 俺の位置からじゃ分からない。

 

「くそ……!」

 

 もう少し。

 高台まで。

 

「ルキウス!」

 

 前から。

 女の声がした。

 

「……アルナ!」

 

 坂の上。

 猫耳をぺたりと伏せたアルナが立っていた。

 その隣にはセラフィーンもいる。

 

「こっちです!」

 

 セラフィーンが叫ぶ。

 

「早く!」

 

「主を頼む!」

 

 フレイヴィアの足が速くなる。

 

「フレイヴィアさん、そのままこちらへ!」

 

「うむ!」

 

 高台へ上がる。

 セラフィーンがルキウスの様子を見るため、その場で膝をついた。

 

「……呼吸はあります!」

 

 その言葉で。

 ようやく。

 胸の奥に詰まっていたものが少し抜けた。

 

「治せるか」

 

 フレイヴィアが聞く。

 

「まず水を吐かせます。すぐに運びますから――」

 

 ――轟音が。

 

 街全体を揺らした。

 

「っ!」

 

 全員が振り返る。

 第二防衛線を越えた海が。

 第三防衛線へぶつかった。

 

 木柵が折れる。

 荷車が浮き上がる。

 俺たちが最後まで立っていた石畳が、一瞬で水へ覆われていく。

 

「まだ下にいる奴は!」

 

 ギルドマスターが叫ぶ。

 

「最終確認!」

「南側全員上がった!」

「中央も!」

「北側、あと六人!」

 

「急がせろ!」

 

 暗い坂の下を見る。

 六人。

 見えた。

 二人が一人を担ぎ。

 その後ろを三人が走っている。

 

「来い!」

 

 誰かが叫ぶ。

 

「早くしろ!」

 

 水が迫る。

 

「走れぇぇっ!」

 

 最後の六人が坂へ入る。

 水が第三防衛線を越える。

 

 一人が足を滑らせた。

 

「っ!」

 

 隣の奴が腕を掴む。

 もう一人も背中を押す。

 

「行け!」

 

 三人で走る。

 

 水が坂の下まで来た。

 

「あと少し!」

 

 先頭が高台へ上がる。

 二人目。

 三人目。

 

「来い!」

 

 最後。

 

 一人。

 

「手ぇ伸ばせ!」

 

 上にいたハンターが身体を伏せ、腕を伸ばす。

 走ってきた男がその手を掴んだ。

 

「引け!」

 

 何人もの手が伸びる。

 男の身体が坂の上へ引き上げられた。

 

 その直後。

 

 水が。

 

 坂道へぶつかった。

 

「……っ!」

 

 全員が数歩下がる。

 先端だけが坂を上ってくる。

 でも。

 勢いは。

 

 さっきまでとは違う。

 

 防波壁。

 倉庫街。

 第三防衛線。

 

 ここまで来る間に。

 

 色んなものへぶつかってきた。

 

 水が足元の少し先まで上がり。

 そこで。

 

 止まった。

 

「……」

 

 誰も。

 

 声を出さない。

 

 水が揺れる。

 瓦礫が浮いている。

 折れた木材。

 荷箱。

 どこかの看板。

 さっきまで街の中にあったものが、暗い水面を流れていく。

 

 ……街が。

 

 見えない。

 

 港も。

 倉庫街も。

 俺たちが戦っていた場所も。

 

 全部。

 

 水の下だった。

 

「……」

 

 横を見る。

 

 フレイヴィアは。

 まだルキウスを抱えている。

 セラフィーンがその顔を見ながら、胸元へ手を当てている。

 

「ルキウスさん」

 

 返事はない。

 

「大丈夫です」

 

 セラフィーンが顔を上げた。

 

「息をしています」

 

 フレイヴィアの肩から。

 ほんの少しだけ。

 力が抜けた。

 

「……そうか」

 

 それだけ言って。

 腕の中のルキウスを見る。

 

 俺も。

 

 そいつを見る。

 

 フードは外れたまま。

 何族なのか分からない顔を隠すものは、もう何もない。

 身体は傷だらけで。

 ずぶ濡れで。

 意識もない。

 

 それでも。

 

 右手には。

 

 まだ片刃剣があった。

 

「……ったく」

 

 笑いそうになった。

 同時に。

 殴ってやりたくもなった。

 

「ちゃんと帰ってこいって言っただろうが」

 

 返事はない。

 

 でも。

 

 ここにいる。

 

 核を斬って。

 あんな化け物を殺して。

 水の中に取り残されて。

 

 それでも。

 

 みんなで。

 

 ここまで連れてきた。

 

「……帰ってきたぞ、坊主」

 

 その向こうで。

 壊れた街を覆う水が。

 

 ゆっくりと。

 

 海へ向かって引き始めていた。

 

 ◆

 




 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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