駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
水禍渡りを乗り越えたエルドランの宴は、一晩どころか三日三晩続いた。
とはいっても、三日間ずっと酒を飲んで騒いでいたわけではない。
朝になれば酔い潰れた人を広場の端へ転がし、動ける人たちはそのまま復興作業へ向かう。
泥を掻き出し、瓦礫を運び、壊れた建物へ木材を打ちつけて、日が傾けばまた広場へ戻って酒を飲む。
そして夜通し騒いだあと、少し眠ってまた街を直す。
……やっぱり、この街の人たちは少しおかしいと思う。
宴が始まった一日目の夕方。
セラフィーンさんから「歩き回るくらいなら」と許可をもらった僕が中央広場へ着いた時には、朝まで瓦礫が積まれていた場所へ長机が何列も並べられていた。
壁の一部が崩れた建物には布や灯りが掛けられ、その前では大きな鉄板を使って肉や野菜が焼かれている。
まだ潮と泥の匂いは残っているのに、それを押し退けるように香辛料と酒の匂いが広場を満たしていた。
……本当にやるんだ。
昨日まで街を呑み込もうとしていた災いと戦っていたとは思えない。
そう思いながら広場へ足を踏み入れた瞬間、正面からやってきた大柄な獣人族の男性と目が合った。
「おっ! 来たぞ!」
「……はい?」
男性が僕を指差す。
嫌な予感がした時には、もう遅かった。
「英雄様だ!」
「捕まえろ!」
「逃がすな!」
「逃げてませんって!」
左右から腕を掴まれ、そのまま人の輪へ引きずり込まれる。
「まず飲め!」
「僕、まだ酒は禁止されてるんですけど!」
「じゃあ食え!」
「何で二択なんですか!?」
右手へ肉の刺さった串を二本押しつけられ、左手には果実水の入った杯を持たされる。
断る暇もなく両手が塞がり、今度は後ろから背中を叩かれた。
「よくやったな!」
「痛っ……!」
「あっ、悪い! まだ怪我人だった!」
「見れば分かりません!?」
謝りながら笑っている男の横から、今度は知らない女の人に手を握られた。
「本当にありがとうね」
「いえ、僕だけじゃ」
「はいはい、それはもう聞いたよ」
「……あれ?」
先回りされた。
さらに横から別の人が杯を掲げる。
「竜姫様もギルドの連中も、全員すげえ! お前もすげえ! これでいいだろ!」
「……ずるくないですか、その言い方」
「細けえこと言うな! 乾杯!」
「乾杯!」
思わず返してしまった。
そこからは、ほとんど流されるままだった。
名前も知らない人と乾杯して。
料理を食べさせられて。
子どもたちから主の中はどうなっていたのかと質問攻めにされる。
やっと一つの輪から抜けても、すぐ別の誰かに見つかる。
……宴って、こんなに体力を使うものだったんだ。
さすがに少し休もうと、人の少ない広場の端へ向かいかけたところで。
「ルキウスさぁん」
「……はい?」
聞き慣れた声なのに、何だか妙に間延びしている。
声のした方を見ると、長椅子へ座ったアルナさんが僕へ向かって大きく手を振っていた。
頬は真っ赤。
普段なら感情に合わせて忙しなく動く猫耳も、今は左右へゆっくり揺れている。
何より、片手に握っている木の杯がどう見ても空だった。
「……アルナさん?」
「はい、アルナですよぉ。ルキウスさん、こっちです」
「もしかして酔ってます?」
「酔ってません」
「本当ですか?」
「本当ですよ。ちょっとだけ、気分がいいだけです」
「それを酔ってるって言うんじゃ……」
「ルキウスさん」
「はい」
「座ってください」
「……はい」
逆らわない方がいい気がした。
隣へ腰を下ろすと、アルナさんは待っていたように身体をこちらへ寄せてくる。
肩が触れる寸前くらいまで近づかれ、思わず少しだけ身体を引いた。
「何で離れるんですか?」
「近いかなって」
「近くないです」
「そうですか?」
「近くないですぅ」
駄目だ。
これは間違いなく酔っている。
「いいですか、ルキウスさん」
「はい」
「私、ずっと言いたかったことがあるんです」
「……お説教じゃないですよね?」
「お説教です」
「ですよね」
赤くなった顔がこちらへ向く。
アルナさんは指を一本立てると、それを僕の目の前で揺らした。
「ルキウスさんは、無茶をしすぎです」
「……はい」
「本当に分かってます?」
「分かってます」
「分かってません」
「どっちですか?」
「私が分かってないって言ったので、分かってないんです」
「無茶苦茶ですよ」
いつものアルナさんなら、絶対にこんな理屈は言わない。
でも本人は至って真剣らしく、そのまま二本目の指を立てた。
「初めて依頼へ行った時からそうなんです。怪我して帰ってきて、治ったらまたすぐ依頼へ行って」
「それはハンターなので」
「言い訳は駄目です」
「はい」
「雪山でも無茶しました」
「はい」
「昇格してからも何度も怪我しました」
「……はい」
「それで今回なんて、最後には主の中です! モンスターのお腹の中ですよ!?」
「核へ行く道があったので」
「道があったら入るんですか!?」
「……入っちゃいました」
「そういうところですぅ!」
机へ手をついたアルナさんの身体が少し傾き、慌てて腕を支える。
本人は一度机を見てから、何事もなかったみたいに座り直した。
「今、危なかったですよね?」
「危なくないです」
「倒れかけてましたよ」
「机が動いたんです」
「動いてませんよ」
「細かいです」
……かなり酔ってる。
「そもそもですねぇ、ルキウスさんは自分がどれだけ周りを心配させているのか分かってないんですよ」
「聞いてます」
「まだ聞いてるか確認してません」
「すみません」
「すぐ謝るのも駄目です」
「……はい」
「怪我しても大丈夫って言うし、痛くても平気な顔をするし、本当に駄目になるまで止まらないし……私は受付で待ってるしかないんですよ?」
「……アルナさん」
今まで勢いよく続いていた言葉が、そこで止まった。
アルナさんは両手で空の杯を握り、そこへ視線を落とす。
「今回も……本当に、怖かったんです」
酒で赤くなっていたはずの顔が、少しだけ違って見えた。
「主の中へ入ったって聞いて。それから全然出てこなくて……フレイヴィアさんがルキウスさんを抱えて戻ってきた時も、全然動かなくて」
肩へ触れていた猫耳が伏せられる。
「セラフィーン様が呼吸はあるって言ってくださるまで、私……今度こそ、本当に死んじゃったんじゃないかって思ったんですからね」
「……すみません」
「だから謝らないでください」
「はい」
昨日も同じことを言われた。
でも、何か言わずにはいられなかった。
アルナさんが少しだけ僕へ顔を向ける。
「ちゃんと帰ってきてください」
「……はい」
「次も」
「はい」
「その次もです」
「分かりました」
「約束ですよ?」
「約束します」
そう答えると、しばらく僕の顔を見ていたアルナさんの表情がようやく緩んだ。
そのまま身体を寄せてきて、今度は僕の腕へ額を預ける。
「……あと」
「はい?」
「ありがとうございます」
「……僕にですか?」
「ルキウスさん以外に誰がいるんですかぁ」
少し怒られた。
「街を守ってくれて、ありがとうございます。それと……ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとうございます」
いつもなら。
たぶんここで、僕だけじゃないと言っていた。
でもこの三日間、それを言うたびに何度も同じことを返されている。
みんなが頑張ったからといって、僕がやったことまでなくなるわけじゃない。
アルナさんにも、昨日そう言われた。
「……はい」
だから。
今度はそのまま受け取る。
「どういたしまして」
「……ふふ」
腕へ額をつけたまま、アルナさんが笑った。
「やっと言いましたね」
「かなり練習させられましたから」
「もっと練習してください」
「まだですか?」
「まだまだですよ。あとですね、ルキウスさんには言いたいことがたくさんあって――」
「お説教ですか?」
「お説教もあります」
「やっぱり」
「それから、次の依頼のこともです。それと、怪我した時は絶対にすぐギルドへ報告してください。それから――」
「はいはい、アルナ。そこまで」
「そろそろ回収するよー」
「……え?」
アルナさんの後ろから二人の女性が現れた。
どちらもギルドで何度か見たことのある受付嬢で、妙に楽しそうな笑顔を浮かべている。
そのまま左右からアルナさんの肩を掴んだ。
「ちょっと、何するんですかぁ!」
「何って、酔っ払いの回収」
「探したんだからね、アルナ」
「私は酔ってません!」
「さっき酒樽に『お疲れさまです』って頭下げてたじゃない」
「あれは人だと思ったんです!」
「もっと駄目じゃないですか?」
思わず口を挟むと、アルナさんが勢いよく僕を見る。
「ルキウスさんまで!?」
「ほら、行くよ」
「嫌です! 私、まだルキウスさんとお話があります!」
「明日でいいでしょ」
「明日じゃ駄目ですぅ!」
「どうして?」
「今、話したいからです!」
両脇を抱えられ、ずるずると長椅子から引き離されていく。
それでもアルナさんは僕の袖を最後まで掴もうとしていた。
「ルキウスさぁん!」
「はい」
「まだ終わってませんからね!」
「何がですか?」
「お話です! あとお説教も!」
「お説教は終わってもいいですよ!」
「駄目ですぅ! あとでちゃんと来てくださいねぇ!」
「どこにですか!?」
返事はなかった。
受付嬢二人に引きずられながら人混みの向こうへ消え、最後まで猫耳だけが僕の方を向いているのが見えた。
……明日、何を言われるんだろう。
「主ぃぃぃぃ!」
今度は反対側から、アルナさん以上に大きな声が響いた。
声の方を見ると、長机の横で杯を掲げたフレイヴィアさんがいる。
黒髪は普段より少し乱れ、黄金の瞳も楽しそうに細められていた。
その周囲では何人ものハンターが笑いながら酒を飲んでいる。
「聞け、貴様ら!」
「もう聞いたぞ!」
「俺なんか八回目だ!」
「ならば九回目を聞け!」
……こっちも完全に酔ってる。
「あの最後の襲撃の時だ! 皆が力尽き、立つことすらままならぬ中――余は見た!」
「また最初からだ!」
「竜姫様、そこ何回聞かせるんだよ!」
「黙って聞け!」
杯を机へ置き、フレイヴィアさんが胸を張る。
「あの化け物を前にして、それでも武器を取った者がおった! 二人だ!」
「一人は?」
「当然、余だ!」
「自分で言ったぞ!」
「事実なのだからよい!」
笑い声が広がる。
そしてフレイヴィアさんは、その全部を黙らせるように片手を上げた。
「そして、もう一人が――我が弟子だ!」
嫌な予感がしていた。
でも。
実際に周囲の視線が全部こっちへ向くと、やっぱり逃げたくなる。
「いたぞ!」
「あいつか!」
「竜姫様の弟子!」
「何でみんなこっち見るんですか!?」
「見よ!」
フレイヴィアさんが僕を指差す。
「あれが余の弟子だ!」
「そんな紹介の仕方しないでください!」
「あの時の主は実に見事であったぞ! 余が隣へ立てば、主もまた立った! あれほど傷つき、疲れ果てておったにもかかわらずな!」
「フレイヴィアさん、それもう何回も話してますよね!?」
「何度話してもよいだろう!」
「よくないです!」
「しかも主は笑っておった!」
「それは本当に言わなくていいです!」
「何故だ! あの時の主ほど勇敢な者を、余はそう知らぬぞ!」
本人より誇らしげに言われると、余計に困る。
周囲から「おお」と声が上がり、僕は思わず顔を伏せた。
「竜姫様、それ十回目!」
「ならば次は十一回目だ!」
「まだ話すのかよ!」
「当然だ! 余の弟子なのだからな!」
……このままだと三日目まで同じ話をしていそうだ。
「おいおい! さっきから一人で自慢してんじゃねえぞ!」
別の方向から聞き慣れた声が飛んだ。
ガルドさんだ。
何人ものハンターと肩を組みながらこちらへ歩いてくる。
額や腕にはまだ包帯が巻かれているのに、その手にはなみなみと酒の注がれた杯があった。
「ガルドさんまで飲みすぎじゃないですか?」
「今日はいいんだよ! 祝いなんだからな!」
そう言いながら僕の肩へ腕を回す。
「いいか、お前ら! こいつはなぁ――俺様の相棒だ!」
「だから俺様って何ですか!?」
「今はどうでもいいんだよ!」
周囲のハンターたちが笑う。
「第二防衛線でも第三でも、こいつと組んだ時のやりやすさったらなかったぞ! 俺が止めりゃこいつが斬る! こいつが前へ出りゃ、俺が横を取る!」
「ガルド! 主を勝手に相棒扱いするでない!」
すぐにフレイヴィアさんが食いついた。
「何でだよ! 実際組んでただろうが!」
「主は余の弟子だ!」
「弟子と相棒は両立するだろ!」
「何だと?」
「じゃあ嬢ちゃんも俺の相棒ってことでいいな!」
「斬るぞ」
「何でそこだけ急に素面なんだよ!」
周囲から大きな笑い声が上がる。
そのままフレイヴィアさんとガルドさんは、どちらが僕をよく知っているかみたいな話を始めてしまった。
止める気力もなく、果実水を一口飲みながら眺める。
……何を競ってるんだろう、この二人。
「随分と人気者になりましたね」
今度は、すぐ横から穏やかな声がした。
「セラフィーンさん」
白い服を着たセラフィーンさんが、小さな杯を片手に立っていた。
アルナさんほどではないにしても、普段より少しだけ頬が柔らかく見える。
「セラフィーンさんも飲んでるんですか?」
「ほんの少しだけです」
「本当に?」
「ええ。酒樽を人と間違えたりはしていませんよ」
「アルナさんに聞かれたら怒られますよ」
「では、内緒にしておいてください」
口元へ指を立てながら笑う。
……セラフィーンさんも、いつもより楽しんでる。
「本当に賑やかですね」
「はい」
二人で広場を見る。
頭や腕へ包帯を巻いた人。
松葉杖を横へ置いて酒を飲んでいる人。
昨日まで防衛線で一緒に戦っていたハンターたちも、今は肩を組んで笑っている。
少し視線を上げれば壊れた建物が見えて、遠くには崩れた防波壁だって残っている。
それなのに、今のエルドランでは瓦礫を崩す音より笑い声の方がずっと大きかった。
「良い光景ですね」
「……はい」
僕もそう思う。
「ルキウス様」
周囲へ紛れるくらいの静かな声で呼ばれ、セラフィーンさんを見る。
「本当に、お疲れさまでした。そして――ありがとうございます」
「セラフィーンさんまで」
「私も言いたかったんです」
「でも」
「『僕だけじゃありません』でしょう?」
「……まだ何も言ってませんよ」
「もう何度も聞きましたから」
にこにこと笑っている。
反論しようとして。
やめた。
たぶん、また同じことを言われる。
「もちろん、皆さんのおかげです。フレイヴィア様も、ガルドさんも、メルシアさんも、ギルドの方々も……たくさんの人が戦いました」
「はい」
「そして、その皆さんの中にはルキウス様もいます」
「……はい」
「だから今日は、素直に感謝されてください」
アルナさんにも似たようなことを言われたばかりだ。
少し前なら、それでも何か言い返していた気がする。
「……分かりました」
「ふふ。良いお返事です」
「練習しましたから」
「では、もう一つ」
「はい?」
「今夜はたくさん楽しんでください。無理をしない範囲で、ですが」
「それなら」
広場を見渡す。
フレイヴィアさんはまた誰かを捕まえて僕の話をしている。
ガルドさんはいつの間にか腕相撲を始めた。
広場の中央では楽器を持ち出した人たちが演奏を始め、その周りでは酔っ払いが踊っている。
少し離れた場所からは、受付嬢仲間に捕まったアルナさんの「まだルキウスさんと話すんですぅ!」という声まで聞こえてきた。
「もう十分、楽しんでます」
「それなら何よりです」
セラフィーンさんが微笑む。
僕も笑いながら、もう一度杯を掲げた。
宴は、その夜だけでは終わらなかった。
二日目の朝になれば、広場で眠っていた人たちは適当に起こされ、そのまま復興作業へ向かっていく。
昼の間に開通した道が一つ増えた。
泥に埋もれていた店の商品が見つかった。
壊れていた屋根が直った。
そんな話を持ち帰っては、夜になると前日以上に盛り上がる。
三日目にもなると、木材を運びながら歌っている人や、昼から酒の入った杯を持っている人まで見かけるようになった。
……もう復興しているのか宴をしているのか、僕にもよく分からない。
たぶん、この街の人たちにとってはどちらも同じなのかもしれない。
そんな騒ぎの中で、一人だけまだ姿を見ていないことに気づいたのは、二日目の夜だった。
広場の端へ立ち、人の間を見渡す。
大勢いるせいで探すだけでも大変だけれど、深い藍色の外套なら見つけられると思っていた。
「……メルシアさん」
いない。
長机の周りにも。
酒樽の近くにも。
何となく普通の場所だけ探しても駄目な気がして、建物の屋根や路地、窓枠の辺りまで見てみたけれど、あの姿はどこにもなかった。
あの人が水の流れを止めてくれなかったら、僕は主の核まで辿り着けなかった。
ちゃんと礼を言いたかったのに。
……もう、行ってしまったんだろうか。
もともとかなり自由そうな人だった。
僕の部屋へだって窓から入ってきたし、水禍渡りについてもまだ調べたいことがあると言っていた。
それなら、宴へ残らずどこかへ向かっていても不思議じゃない。
「……次に会った時でいいか」
少しだけ寂しい。
でも。
何故か、もう二度と会えないような気はしなかった。
あの人なら、またこっちが驚くようなところから突然現れそうな気がする。
「その時は、ちゃんと言おう」
ありがとう、と。
そう決めてから、また誰かに名前を呼ばれた広場へ戻った。
三日目の夕方。
僕は宴の騒ぎから少しだけ抜け出し、上層区へ向かっていた。
この三日間ずっと行こうと思っていたけれど、復興の相談や街の人たちへの対応でオルディアさんも忙しかったらしい。
ようやく少し時間ができたと聞き、前にも訪れた屋敷までやってきた。
「入りな」
扉を叩こうとしたところで中から声がした。
……どうして分かるんだろう。
相変わらず不思議に思いながら扉を開けると、オルディアさんは以前と同じ椅子へ腰掛けていた。
「失礼します」
「ほっほっ。随分賑やかなところから逃げてきたみたいだね」
「逃げたわけじゃないですよ」
「そうかい?」
窓の外から、ここまで宴の笑い声が届いてくる。
それを聞いて。
「……少しだけ、静かなところに来たかったのは本当です」
「坊やも大変だねぇ」
「オルディアさんまで他人事みたいに……」
小さく笑われながら、向かいの椅子へ腰を下ろす。
オルディアさんは僕の顔を見たあと、ゆっくり身体の方へ視線を落とした。
「身体はどうだい?」
「まだ痛いところはありますけど、普通に歩くくらいなら大丈夫です。セラフィーンさんにも許可をもらいました」
「それは良かった」
オルディアさんの目元が柔らかくなる。
「ありがとうね、坊や」
「……オルディアさんまで」
「その顔は、随分言われたみたいだね」
「この三日で一生分くらい言われた気がします」
「なら、もう一人分増えたところで変わらないだろう?」
「そういうものですか?」
「そういうものさ」
オルディアさんが窓の外を見る。
そこから見える街には、まだ壊れた建物がたくさん残っている。
それでも道には人がいて、あちこちで復興作業が続いていた。
「坊やたちのおかげで、私はまたあの街を見ることができた」
「僕たちだけじゃありませんよ」
「分かってるよ」
もう何度目か分からない返事だった。
「だから、その中にいた坊やへも礼を言っているんだ」
「……はい」
少しだけ迷ってから。
今度はちゃんと言う。
「どういたしまして」
「ほっほっ。随分素直になったじゃないか」
「みんなに練習させられたので」
「それは良いことだ」
楽しそうに笑われる。
僕も少し笑いながら、そこで前から気になっていたことを思い出した。
オルディアさんは人間を知っている。
それどころか、昔。
本当に人間と一緒に過ごしていた。
なら。
聞けるかもしれない。
「あの、オルディアさん」
「何だい?」
「人間のことで、聞きたいことが――」
「ルキウスさぁぁぁん!」
「……え?」
屋敷の外から、ものすごく聞き慣れた声が響いた。
しかも昨日よりさらに元気だ。
「見つけましたよぉぉぉ!」
「アルナさん!?」
次の瞬間、勢いよく扉が開いた。
昨日ほどではないけれど、まだ少し頬の赤いアルナさんが立っている。
その後ろにはガルドさんとフレイヴィアさんまでいた。
「ルキウスさん! 勝手にいなくならないでくださいって言いましたよね!?」
「今日はちゃんと出かけるって言いましたよ!」
「私は聞いてません!」
「ギルドの人には言いました!」
「私に言ってください!」
「何でですか!?」
「いたいた!」
ガルドさんがアルナさんの横から顔を出す。
「おい坊主! 何こんなとこで油売ってんだ!」
「ガルドさんまで何なんですか!」
「お前がいねえと締まらねえんだよ!」
「何がですか!?」
「三日目の締めだ!」
「まだ宴を締めてなかったんですか!?」
「主!」
フレイヴィアさんがずいっと前へ出る。
「宴の主役が勝手に姿を消すでない!」
「だから逃げてませんって!」
「早う来い! 余がもう一度、主の勇姿を皆へ語ってやる!」
「それはもう十分です!」
「まだ三十回程度しか話しておらぬぞ!」
「十分すぎますよ!」
いつの間にか両腕を取られた。
右にアルナさん。
左にガルドさん。
さらに背中をフレイヴィアさんが押してくる。
「ちょっと待ってください! オルディアさんにまだ聞きたいことが――」
「続きはまた今度でいいさ」
振り返る。
オルディアさんは椅子へ座ったまま、楽しそうに手を振っていた。
「でも」
「坊や」
窓の外へ目を向ける。
その瞬間。
「英雄様ー!」
「どこ行ったー!」
「早く来い! 乾杯始めるぞ!」
「弟子ー!」
「坊主ー!」
……いろいろ混ざってる。
屋敷の中まで聞こえてくる声に、オルディアさんが小さく笑った。
「今は、あっちへ行っておいで」
「……はい」
確かに。
ゆっくり話を聞ける状況ではなさそうだ。
「また来ます」
「ああ。いつでもおいで」
オルディアさんに見送られ、三人に連れられるように屋敷を出る。
坂を下りるほど音が大きくなった。
誰かが歌い。
誰かが笑い。
復興作業を終えた人たちまで広場へ向かっている。
そして中央広場へ戻った途端、それまでの騒ぎがさらに大きくなった。
「来たぞ!」
「英雄様だ!」
「遅ぇぞ!」
「主役が逃げるな!」
「だから逃げてませんって!」
「ルキウスさん、こっちです!」
アルナさんに腕を引かれる。
人混みの中央。
大きな酒樽の前へ連れていかれると、周囲で一斉に杯が掲げられた。
「エルドランに!」
誰かが叫ぶ。
「水禍渡りを乗り越えた俺たちに!」
「復興を始めたこの街に!」
「それから――」
嫌な予感がした。
声を上げた男性が僕を見る。
「新しい英雄の誕生に!」
「だから僕はまだ――」
「乾杯ッ!!」
「聞いてくださいよ!」
誰も聞いていない。
何百という杯が鳴り、広場を揺らすような歓声が上がる。
フレイヴィアさんが笑って。
ガルドさんが僕の背中を叩いて。
アルナさんが「怪我人なんですから!」と怒鳴り。
その少し後ろでは、セラフィーンさんがいつものように笑っていた。
つられて。
僕も笑ってしまった。
遠い昔。
エルドランは一度、水禍渡りに多くを奪われた。
街も、港も、そこで暮らしていた人たちも。
それでも生き残った人たちは、何もなくなった場所へもう一度家を建てた。
遠い未来に同じ災いが来ても、一人でも多く逃げられるように防波壁を作り、それを何度も直しながら、この場所で暮らし続けた。
そうして長い年月をかけて大きくなった街へ。
もう一度、水禍渡りはやってきた。
古い防波壁は壊れた。
建物も流された。
道も、港も、昨日までの姿を失った。
それでも。
今度は一人も失わなかった。
そして災いが去った翌日から、この街の人たちはもう瓦礫を運び始めていた。
泣く暇がないからじゃない。
悲しくないからでもない。
またここで暮らすと、最初から決めているみたいに。
笑って。
怒鳴って。
酒を飲んで。
三日三晩も馬鹿みたいな宴を開きながら。
自由交易都市エルドランは、また立ち上がった。
そんな街へ僕が初めて来たのは、少し前のことだ。
荷台へ揺られ、宿代すら持っていなくて、ガルドさんから百ソルを借りた。
ギルドへ行ってアルナさんと出会い。
初めての依頼で怪我をして。
セラフィーンさんには何度も治してもらった。
角兎亭へ帰れば、女将さんが腹いっぱい食べさせてくれた。
フレイヴィアさんと出会ってからは、今まで知らなかったものをたくさん見た。
逃げたこともある。
負けたこともある。
何度も怪我をした。
そのたびに。
誰かがいた。
……そう考えると。
僕はこの街へ来てから、一人だったことなんてほとんどなかったのかもしれない。
「ルキウスさん! ぼーっとしてないでください!」
「はい!」
「主! こちらへ来い! 余の弟子だともう一度紹介してやる!」
「もう全員知ってますよ!」
「坊主! こっち来い! 相棒同士でもう一回乾杯だ!」
「僕、果実水ですよ!」
「ルキウス様。走ると傷に響きますよ」
「セラフィーンさんまで見てないで助けてください!」
「若いの! 食ってるかい!」
「女将さんまで!」
あちこちから名前を呼ばれる。
どこへ行けばいいのか分からなくなって、それでも笑いながら人混みの中へ戻っていく。
僕がこの街へ来た日に口にした夢は、まだ何も叶っていない。
なりたかったものには、たぶんまだ遠い。
自分が本当に英雄なのかと聞かれれば、今だって首を傾げると思う。
でも。
今だけは。
そう呼ばれるたびに否定するのは、やめてもいいのかもしれない。
「英雄ー! 逃げんなよー!」
「だから逃げてませんって!」
また笑い声が弾けた。
僕も、その真ん中で笑う。
水禍渡りを越えたエルドランの三日三晩は、そんな馬鹿騒ぎの中で過ぎていった。
街はまだ壊れている。
直さなければならない場所も、きっと数えきれない。
それでも。
朝になれば、また誰かが瓦礫を運び始める。
昼になれば、誰かが新しい壁を立てる。
夜になれば。
たぶんまた、どこかで誰かが杯を掲げる。
……この街なら、大丈夫だ。
そう思えるくらいには。
エルドランは今日も、どうしようもなく騒がしかった。
◆
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