駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
三日三晩続いた宴が終わってから、さらに数日が経った。
朝、目を覚ました僕が最初に聞いたのは、酒盛りの声でも、復興作業を急かす怒鳴り声でもなく、角兎亭の一階から響いてくる鍋と食器のぶつかる音だった。
寝台の上で身体を起こすと、脇腹を中心にまだ鈍い痛みが残っているものの、セラフィーンさんからはもう普通に生活して構わないと言われている。水禍渡りの前とまったく同じとはいかないけれど、朝から寝台へ縛りつけられるほどでもない。
……久しぶりに、ちゃんとした一日が始まる気がする。
顔を洗って外套へ腕を通し、最後にいつものフードを頭から被る。
水禍渡りの最後には強い風に飛ばされ、そのまま大勢の前で顔を晒してしまった。宴の間も素顔を見られ続けた以上、今さらこれで正体を完全に隠せるとは思っていない。
それでも、視界の端へ布が落ちてくるだけで妙に安心した。
……やっぱり、こっちの方が落ち着く。
片刃剣を腰へ差し、部屋を出る。
階段を下りる途中から、香草と豆、それから焼いた肉の匂いが漂ってきた。
それだけで腹が鳴り、思わず少し笑ってしまう。
こっちは、完全にいつも通りだ。
「おはようございます」
「おう、おはよう。ちょうどいいところに来たね」
厨房にいた女将さんが鍋を掻き混ぜながら、顎でいつもの席を示す。
「座ってな。今出すよ」
「手伝いましょうか?」
「病み上がりに厨房へ入られて、またどっか痛められたら面倒だよ」
「そこまで弱ってませんよ」
「昨日、棚を動かそうとしてアルナに止められてたのは誰だい?」
「……見てたんですか」
「店の前で怒られてりゃ嫌でも見えるよ」
何も言い返せず、大人しく席へ着く。
少しして目の前へ置かれたのは、角兎肉と豆の煮込みに黒パン、それから炙った野菜という、何度も食べてきた朝食だった。
「……これ」
「何だい?」
「いえ。久しぶりだなって思って」
宴の間だって食事はしていたし、むしろ普段よりずっと豪華だった。それでもスプーンで煮込みを掬い、温かな豆と肉を口へ入れた瞬間、ようやく帰ってきたような感覚が胸へ広がった。
「……美味しいです」
「そりゃ良かった」
女将さんはそれだけ言って、また厨房へ戻っていく。
店の中を見れば、入口近くの壁には新しい木材が打ちつけられ、床板も一部だけ色が違う。水に浸かって駄目になったのか見覚えのない椅子も混ざり、窓の一つにはまだ板が張られていた。
それでも厨房には女将さんがいて、客が朝飯を食べている。
水禍渡りの前と同じではないけれど、きっと今はそれでいい。
壊れたものを直しながら、少しずつ元へ戻していけばいいんだから。
朝食を終えて角兎亭を出ると、朝のエルドランにはあちこちから金槌や鋸の音が響いていた。
道の端には撤去しきれていない瓦礫が残り、壁を失った建物の前では職人たちが足場を組んでいる。その間を商人の仮設屋台が埋め、子どもたちが走り回り、荷車を引く男が前を空けろと怒鳴っていた。
三日三晩も騒いだ直後なのに、本当によく動けると思う。
僕なんて酒を一滴も飲んでいないのに、宴が終わった翌日は昼近くまで寝ていた。
「おっ、英雄様じゃねえか」
「……やめてくださいよ」
反射的にフードの奥へ顔を隠すと、材木を肩へ担いだ男が余計に楽しそうに笑った。
「何だ、まだ照れてんのか?」
「照れてるとかじゃなくて……その呼び方、慣れないんです」
「そのうち慣れるって」
「慣れるほど呼ばないでください」
周りで作業していた人たちまで笑い始める。
そのまま通り過ぎようとすると、今度は別の男が僕の頭を見て眉を上げた。
「ていうか、お前またそれ被ってんのか?」
「……これですか?」
フードの端へ触れる。
「宴じゃ普通に顔出してただろ。もういらねえんじゃねえの?」
「宴の時は皆さんが勝手に脱がせようとしたんでしょう」
「そうだったか?」
「そうですよ!」
まったく覚えていない顔で笑われる。
僕はフードを少し深く被り直してから、肩を竦めた。
「もう顔を見られたくないってわけじゃないんです。ただ……こっちの方が落ち着くんですよ」
「ふぅん」
男たちが僕を上から下まで見て、互いに顔を見合わせる。
「まあ、確かにな」
「そっちのが見慣れてるわ」
「顔出して歩いてる方が何か違和感あるんだよな」
「お前はそれ被ってる方がルキウスって感じだ」
「……そんなものですか?」
「そんなもんだ!」
大声で笑われ、それで話は終わった。
周りの人たちも何でもなかったみたいに作業へ戻っていく。
正体を隠すために被り始めたものなのに、いつの間にかこれも僕を見分けるものの一つになっているらしい。
……変な感じだ。
「英雄様ー! 今日は街を救わねえのか!」
「だから、やめてくださいって!」
背中からまた笑い声が飛んでくる。
恥ずかしくて振り返れず、片手だけ上げてギルドへ向かった。
ハンターギルドの中は、街中よりさらに普段通りだった。
掲示板の前では朝から依頼を選ぶハンターたちが騒ぎ、受付には長い列ができている。壁の一部には新しい板が張られ、受付台の端にはまだ修理道具が残っていたけれど、紙の匂いも、依頼内容を説明する受付嬢の声も、水禍渡りの前と変わらない。
列へ並んで少しずつ前へ進み、僕の番になると、書類を整理していた猫耳がぴこりと動いた。
「次の方――あ。おはようございます、ルキウスさん」
「おはようございます」
宴で受付嬢仲間に引きずられていった時とは別人みたいに、今日はいつものアルナさんだった。
あの夜のことをどこまで覚えているのかは、まだ聞いていない。
……たぶん、お互いのために聞かない方がいい。
「今日はどうされたんですか?」
「そろそろ依頼を受けようかなと思って」
「討伐依頼は駄目です」
「まだ討伐って言ってませんよ?」
「ルキウスさんなので」
「それ、どういう意味ですか?」
答えてくれない。
猫耳が一度だけ動き、アルナさんはそのまま僕の身体を確認するように視線を下ろした。
「セラフィーン様からは、普通の生活なら問題ないと言われたんですよね?」
「はい」
「普通の生活にモンスター討伐は含まれません」
「ハンターにとっては普通なんですけど」
「含まれません」
「……はい」
これ以上粘っても無駄そうなので諦める。
結局選んだのは、旧倉庫街に設けられた臨時詰所へ書類と小さな荷物を届ける依頼だった。
復興作業でギルド職員の手が足りず、こうした雑務にもハンターを回しているらしい。報酬は討伐依頼とは比べるまでもなく少なかったけれど、内容を確認してそのまま依頼書へ署名した。
「意外ですね」
「何がです?」
「もう少し報酬の高い依頼を探すかと思いました」
「仕事に地味も派手もありませんよ」
顔を上げると、アルナさんが少しだけ目を丸くしていた。
「誰かがやらないと困る仕事だから、依頼として出てるんでしょう?」
「……そうですね」
「なら、これでいいです。受けた以上はちゃんとやります」
依頼書を返すと、アルナさんは一瞬だけこちらを見てから、柔らかく笑った。
「では、お願いします。ルキウスさん」
「はい。行ってきます」
書類と荷物を受け取り、受付を離れようとする。
「あ、ルキウスさん」
「はい?」
一度周囲を確認してから、アルナさんが少しだけ声を落とした。
「……身体、本当に大丈夫ですか?」
「はい」
「無理してません?」
「してませんよ」
しばらく見つめられる。
何かを確かめるみたいに。
やがて猫耳から僅かに力が抜けた。
「なら、いいです」
「心配しすぎですよ」
「誰のせいだと思ってるんですか?」
「……僕ですね」
「分かっているならいいです」
少し笑われ、僕も笑い返してギルドを出た。
旧倉庫街へ向かう途中、中央広場を抜けたところで、道の端へ見覚えのある荷車が止まっているのが見えた。
荷台には木材や麻袋が積まれ、その横で犬耳の男が縄を締め直している。
「ガルドさん」
「ん?」
犬耳がこちらを向く。
「おう、坊主。何してんだ?」
「ギルドの依頼です。旧倉庫街まで書類と荷物を届けに」
「書類?」
ガルドさんが僕の手元を見る。
それから口元を上げた。
「英雄様も随分地味な仕事してんなぁ」
「仕事に地味も派手もありませんよ」
「お?」
「誰かが必要だから依頼を出してるんです。討伐だろうが荷物運びだろうが、受けたならちゃんとやります」
なんかつい前に言ったことがあるようなセリフを繰り返す。
言い終えてから、ガルドさんが妙な顔で僕を見ていることに気づいた。
「何ですか?」
「いや。お前、そういうとこは変わんねえなと思ってよ」
「そうですか?」
「ああ」
何故か少し嬉しそうに笑われた。
ガルドさんは荷車の縄をもう一度引き、緩みがないのを確認する。
「俺は見ての通り資材運びだ。港と上の倉庫を朝から行ったり来たりしてる」
「何往復目ですか?」
「忘れた」
「大丈夫です?」
「お前にだけは言われたくねえよ」
「それ、最近よく言われます」
「言われるだけのことしてるからだろ」
返す言葉がない。
それから少し話して別れようとしたところで、何となく荷台へ目が向いた。
最初にエルドランへ来た日、僕はこの人の荷台へ乗せてもらった。
宿代すら足りなくて、ギルドがどこにあるかも知らず、百ソルまで借りた。
それが今では自分で依頼を受け、この街の道を覚え、こうしてガルドさんと仕事の途中で立ち話をしている。
ずいぶん時間が経った気がするのに、思い返せば二年ほどしか経っていない。
「……何だよ」
「え?」
「また変な顔してんぞ」
「いえ。何でもないです」
「そうか?」
「はい。じゃあ、行ってきます」
「おう。またな、坊主」
「はい。また」
手を上げて別れる。
何でもない「また」という言葉が、今は妙に嬉しかった。
◆
旧倉庫街へ入ると、水禍渡りの被害が特に大きかっただけあって、まだ通れない道も多かった。
崩れた倉庫の前では作業員たちが瓦礫を運び、その横では新しい柱が組まれている。僕たちが第二防衛線として使った道にも壁や石畳へ傷が残っていて、目を向ければあの夜の光景がすぐに戻ってきた。
牙鼠や鱗蜥蜴が道へ入り込み、隣ではガルドさんが戦っていた。
自分に見えているものだけが全部じゃない。
仲間がいるなら、その仲間まで含めて戦えばいい。
あの時ようやく分かったことを思い返しながら、今は同じ場所を普通に歩いていく。
モンスターの声はない。
代わりに職人たちの掛け声が響いていた。
臨時詰所で書類と荷物を渡し、受領印をもらえば依頼は終わりだった。
そのままギルドへ戻るつもりで歩き出したけれど、帰り道の途中で港へ続く道が目に入り、足を止める。
少しだけ迷ってから、僕はそちらへ向かった。
港へ近づくほど潮の匂いが濃くなる。
以前なら船や荷車で埋まっていた場所にはまだ空きが目立ち、岸へ打ち上げられた船を解体している人たちもいる。
そして、そのさらに向こう。
海へ向かって伸びていた防波壁は、途中から大きく崩れていた。
あれだけの水を受けたのだから、残っている方がおかしいのかもしれない。
それでも壁の手前にはすでに大量の石材が積まれ、職人たちが測量を始めている。
僕は邪魔にならない場所まで歩いてから、そこで足を止めた。
最初にこの壁を見た時は、ただ大きいと思った。
港を守るための設備で、エルドランに昔からあるもの。それ以上でも、それ以下でもなかった。
でも今は違う。
この壁を見れば、名前も顔も知らない一人の人間のことを思い出す。
僕が生まれるより、ずっと昔。
一度目の水禍渡りがエルドランを壊したあと、この街へやってきた人。
瓦礫を運び、怪我人を手当てして、食べ物の保存方法や家の建て方まで教えながら、何もなくなった街をもう一度立ち上げるのを手伝った。
そんな人が、いつか同じものが来るかもしれないと考えた。
来ないことを願うのはいい。
でも、来ないと決めつけてはいけない。
次に来た時、一人でも多くの人が逃げられるように。
止められなくても、そのための時間だけは稼げるように。
そう考えて、最初の防波壁を作ろうと言った。
「……」
崩れた壁を見る。
あの防波壁は、水禍渡りを止められなかった。
今回だって最後には壊れた。
それでも僕たちはあの壁の上で戦い、その後ろでは多くの人たちが高台へ逃げていた。
壁が崩れたあとも、次の場所へ退くまでの時間を作ってくれた。
主を倒したあとに海が戻ってきた時だって、残った壁や倉庫、街の建物が水の勢いを少しずつ削ったからこそ、最後まで逃げ切ることができた。
遠い昔に死んだ人が考えたものが、名前さえ知らない僕たちを、今になって守った。
それを考えると、胸の奥に上手く名前をつけられないものが残る。
「……すごいな」
本人は今のエルドランを見ることができない。
自分が作ろうと言った壁がどれだけ形を変えたのかも、今回の水禍渡りで本当に誰かを救ったことも知らない。
それでも、その人が残した考えだけは生きていた。
……人間、か。
かつてここ、エルドランには僕と同じ種族の人が本当にいた。
角も翼もなく、獣人族みたいな耳もなければ鼻が特別利くわけでもない。力は弱く、僕自身を見れば魔力だって大して持っていない。
人間だから何ができるのかなんて僕にはまだ分からないし、そもそも人間がどんなふうに生きていた種族なのかさえ、ほとんど知らない。
それでも、あの防波壁を考えた人も僕と同じ人間だった。
自分がいなくなったずっと先で誰かを守るものを残した人が、僕と同じ種族だった。
……そのことだけが、妙に胸の奥へ残った。
「主」
「……っ」
すぐ後ろから声を掛けられ、肩が跳ねる。
振り返ると、大剣を背負ったフレイヴィアさんが立っていた。
「フレイヴィアさん。びっくりした……」
「随分とぼんやりしておったな」
「少し考え事をしてました」
「ほう」
フレイヴィアさんが僕の横へ並び、黄金の瞳を防波壁へ向ける。
「これを見ておったのか」
「はい」
復旧作業をする人たちの声と、石材のぶつかる音。
その向こうからは、穏やかな波の音が聞こえてくる。
しばらく二人で海を眺めてから、僕は口を開いた。
「水禍渡りの時のことを思い出してました」
「気が合うな」
「フレイヴィアさんも?」
「うむ。特に、あの主が現れた時のことをな」
僕もすぐに思い出せた。
もうまともに立っているだけでも苦しく、周囲にいた人たちも武器を握り直すことさえ難しそうだった。
そこへ、それまでの水憑きとは比較にもならないものが海から現れた。
「余もな。あの時ばかりは、さすがに参ったと思ったぞ」
「……フレイヴィアさんでもですか?」
「余を何だと思っておる」
「強い人」
「間違ってはおらぬな」
フレイヴィアさんが声を上げて笑う。
少ししてその笑いが収まると、黄金の瞳がまた海へ向いた。
「しかし、それでもあの時は余も、すでにかなり力を使っておった。周囲を見れば、誰もまともには動けぬ。ならば余一人で前へ出るしかあるまいとも思った」
「……やっぱり考えてたんですね」
「当然だ。余ならまだ立てたからな」
この人なら本当に一人で行ったと思う。
でも。
あの時は、そうならなかった。
「だがな」
フレイヴィアさんの口元が上がる。
「余が立とうとした時、同じように武器を取った者がおった」
「……はい」
「一人だけだ」
こちらへ顔を向ける。
「主だった」
覚えている。
あの時、どうしてもう一度立てたのかは自分でも上手く説明できない。
身体は限界だったし、怖くなかったわけでもない。
ただ、フレイヴィアさんが立った。
まだ戦う人がいると分かった。
それなら自分も、もう少しくらい立っていられる気がした。
「嬉しかったぞ」
「……え?」
「余はな、嬉しかったのだ」
思ってもいなかった言葉に、思わずフレイヴィアさんを見る。
「誰より先に立ったつもりだった。ところが横を見れば、もう一人がおる。しかも、それが誰かと思えば主ではないか」
黄金の瞳が楽しそうに細くなる。
「主だと気づいた時にはな、心が震えた」
「心が、ですか?」
「うむ。主があれほど傷つきながら立っておるのに、師たる余が疲れたなどと言っておれるものかとな。あの瞬間だけは、随分と身体が軽くなったものだ」
そんなふうに思われていたなんて知らなかった。
僕はただ、この人が隣にいたから立てただけなのに。
「……僕は逆でしたよ」
「何がだ?」
「フレイヴィアさんが立ってたから、僕も立てたんです」
「ほう」
「まだ戦える人がいるって分かったら……だったら僕も、もう少しくらいはって」
言葉にしてみると、あの時の感覚が少しだけ分かった気がする。
一人なら。
たぶん立てなかった。
でも隣にこの人がいた。
「そうか」
フレイヴィアさんは短く答えたあと、満足そうに笑った。
「ならば、互いに同じようなことを考えておったわけだ」
「……そうみたいですね」
二人で少し笑う。
それからフレイヴィアさんが懐かしむように僕を見る。
「それにしても、変わったものだな」
「僕がですか?」
「うむ。初めて会った頃など、余が少し威圧しただけで身体を固くしておった」
「少しじゃなかったですよ。普通に怖かったです」
「今は怖くないと?」
「怖いですよ」
「即答するでない」
尾が地面を軽く叩く。
でも、本人は楽しそうだ。
「ただ、前とは違います」
「何が違う」
「今なら怖くても普通に喋れますし……戦う時だって、昔みたいに何をされたのか分からないまま終わることは減ったと思います」
「ほう?」
黄金の瞳が、少しだけ鋭くなる。
「言うようになったではないか」
「事実ですよ。たぶん」
「最後に弱気になるでない」
笑われる。
それでも、昔のことを思い返せば本当にそうだと思う。
フレイヴィアさんとの鍛錬では、最初の頃なら一方的に転がされて終わっていた。何を見ればいいのかさえ分からず、ただ速くて強いという感想しかなかった。
今なら勝てなくても、せめて何をされたのかくらいは分かる。
……たぶん。
「のぉ。ルキウス」
「はい?」
呼び方が変わった。
横を見ると、フレイヴィアさんがさっきまでとは違う笑い方をしている。
楽しそうで。
どう見ても良くないことを考えている顔だった。
「――立ち会うか。一戦」
胸の奥が、跳ねた。
「……いいんですか?」
「何だ。嫌か?」
「まさか」
むしろ。
今の話をしたあとだからこそ、断る理由なんてなかった。
水禍渡りが終わってからまともに身体を動かしていないし、今の僕がこの人を相手にどこまでできるのかも気になる。
勝てるなんて思っていない。
でも。
それでいい。
「お願いします」
思わず笑う。
「胸を借りるつもりで、本気でいきます」
「――よく言った」
フレイヴィアさんの黄金の瞳が輝いた。
「ならば余も本気で相手をしよう」
「……本気?」
一瞬だけ後悔した。
「安心せよ。殺しはせぬ」
「安心できる要素が少なすぎません?」
「主が本気で来るのだ。余が手を抜いてどうする」
「それは……まあ、そうですけど」
言ってから。
自分でも口元が上がっているのが分かった。
怖い。
でも。
楽しみでもある。
復興作業の邪魔にならないよう港から少し離れた空き地へ移動し、片刃剣と大剣を並べて地面へ置く。
今日は剣を使わない。
僕も。
フレイヴィアさんも。
互いに素手だった。
外套も脱いで畳み、その上へフードを落とす。
拳を軽く握り、開く。
フレイヴィアさんは数歩向こうで肩を回しながら、こちらを見ていた。
武器を持っていない。
なのに、大剣を構えられている時より怖い気がする。
……考えてみれば、相手は竜族なんだから当然か。
「準備はよいか、ルキウス」
「はい」
足を開く。
重心を落とす。
水禍渡りの中でガルドさんに教えられたように、腕だけで動かず、足から身体全体へ力を繋げる。
相手はフレイヴィアさん。
速さでも力でも勝てない。
だったら、最初から全部を見るしかない。
「では――来い」
息を吐く。
「……行きます!」
地面を蹴った。
真正面へ走りながら、間合いへ入る直前に右へ軸をずらす。
最初から正面で力をぶつけるつもりはない。
フレイヴィアさんの視線がこちらを追う。
肩は動いていない。
足も。
なら、もう一歩。
――次の瞬間。
目の前からフレイヴィアさんが消えた。
「っ!」
考えるより先に身体を沈める。
頭上を何かが通る気配。
見えなかった。
でも。
「ほう」
背後から声がした。
振り返らない。
そのまま左へ跳ぶ。
――直前まで僕のいた場所を、フレイヴィアさんの脚が薙いだ。
「……っ!」
見えたわけじゃない。
音と。
空気と。
今まで何度も転がされた経験で、何とか避けただけだ。
「以前なら今ので終わっておったぞ!」
「僕もそう思います!」
答えながら踏み込む。
フレイヴィアさんの蹴りが戻るより先に懐へ入り、右拳を腹へ向ける。
当たる。
そう思った瞬間、手首を掴まれた。
「っ!?」
強い。
止めようとしても、腕が一寸も動かない。
「捕まえたぞ」
「まだです!」
左拳を振る。
フレイヴィアさんの顔ではなく、掴まれている腕へ。
払えなくても、少しくらい緩めばいい。
「悪くない」
手が離れる。
すぐに後ろへ下がる。
――と思った時には、胸元へ掌が触れていた。
「え」
衝撃。
「っぐ……!」
身体が地面から浮き、そのまま背中から転がった。
息を吐き出しながら止まり、すぐ起き上がる。
「まだやれます」
「当然だ」
フレイヴィアさんが笑う。
今度は向こうから来た。
踏み込みを見た瞬間に腕を上げる。
右。
そう判断して身体を捻る。
拳が頬の横を通る。
「っ!」
避けた。
すぐに腰を入れ、拳を返す。
フレイヴィアさんの脇腹へ。
――届く直前、僕の足が地面から離れた。
「……え?」
腕を取られている。
腰も。
景色が回った。
「うわっ――!」
地面へ叩きつけられる。
すぐ横へ転がろうとしたけれど、その前に胸元へ膝が止まった。
「一本」
「……本気って、こういう意味ですか?」
「うむ」
「速すぎません?」
「余だからな」
何の説明にもなっていない。
「もう一度」
「よかろう!」
立つ。
また構える。
二度目は避けられた。
三度目は避けたと思ったところで足を払われた。
四度目は一度だけ肩へ拳が触れたけれど、まともに力を乗せる前に投げられた。
それでも。
最初の頃とは違う。
何をされたのか分かる。
避けられる攻撃もある。
次に何をするべきか考える余裕が、一瞬だけでもある。
……もう一度。
そう思って立つたび。
何故か笑っている自分に気づいた。
「良い顔をするようになったではないか!」
「そんな余裕ないですよ!」
「嘘をつけ! 笑っておるぞ!」
「……フレイヴィアさんもじゃないですか!」
「当然だ!」
フレイヴィアさんが踏み込む。
速い。
でも。
今度は肩の動きが見えた。
左。
身体を右へずらす。
拳が耳の横を抜ける。
そこへ踏み込み、腹へ拳を――触れた。
「っ!」
ほんの少し。
それだけ。
「ほう!」
黄金の瞳が大きく開いた。
「――入った……え――?」
喜んだ瞬間が悪かった。
次に見えたのは空だった。
「……っ!?」
背中から地面へ落ちる。
視界が揺れ、息が全部抜けた。
起き上がろうとしたけれど、今度は腕に力が入らない。
「……無理です」
諦めて仰向けになる。
「もう、動けません」
「うむ」
フレイヴィアさんが僕の横へ立つ。
息一つ乱れていない。
「余の完勝だな」
「……知ってます」
「だが」
黄金の瞳が、嬉しそうに細められる。
「一発入れたではないか」
「あれ、入れたって言っていいんですか?」
「余に拳を触れさせた。以前の主ならば、それすらできなんだ」
空を見ながら息を整える。
確かに。
昔なら、最初の一撃で終わっていたと思う。
「強くなったな、ルキウス」
「……ありがとうございます」
今度は素直に言えた。
「でも、惨敗です」
「当たり前だ」
「そこはちょっと慰めてくれても」
「何故だ。余に勝てぬのは当然であろう」
「腹立つなぁ……」
思わず笑う。
フレイヴィアさんも笑った。
「ならば次は二発だ」
「次もやるんですね」
「当然だ」
「……じゃあ」
一度息を吐く。
まだ身体は全然動かない。
それでも。
「次は、もう少しくらい驚かせます」
一瞬。
フレイヴィアさんが目を丸くした。
そして。
「――よく言った!」
大きな笑い声が響いた。
差し出された手を掴むと、ほとんど引っ張り上げられるように立たされる。
「いつか余に勝ってみせよ、我が弟子!」
「いつかです」
「うむ!」
「明日とかじゃないですからね」
「何故だ?」
「身体が壊れますよ!」
また笑われた。
崩れた防波壁の向こうで、海は何事もなかったみたいに光っている。
少し前まであれほど恐ろしく見えた場所で。
今は。
フレイヴィアさんと笑っていた。
◆
夕方。
依頼の報告をするためギルドへ戻ると、受付にいたアルナさんが僕を見るなり猫耳をぴんと立てた。
「ルキウスさん」
「……はい」
「どうして書類を届けるだけの依頼で、朝よりぼろぼろになって帰ってくるんですか?」
「これは、その」
隣を見る。
フレイヴィアさんがいる。
「余と本気で立ち会った」
「フレイヴィアさん」
「何だ?」
「ルキウスさんは病み上がりです」
「承知しておる」
「承知した上で本気で戦ったんですか!?」
「うむ!」
「僕もやるって言ったので――」
「ルキウスさんもです!」
「はい」
反射的に姿勢を正した。
周りにいたハンターたちが笑い始める。
「まったく……お二人とも、水禍渡りが終わったばかりなんですよ?」
「だが主は一発余へ入れたぞ」
「今は褒めてません!」
「そうなのか?」
「そうです!」
フレイヴィアさんが少し残念そうな顔をする。
それが可笑しくて笑いそうになると、アルナさんの猫耳がこちらへ向いた。
「ルキウスさん」
「はい」
「今、笑いましたね?」
「……ちょっとだけ」
「笑うところじゃありません!」
また怒られた。
でも、その声も。
周りで笑っているハンターたちの声も。
何だか嬉しかった。
水禍渡りは終わった。
傷跡はまだ街の至るところに残っているし、防波壁も壊れたままだ。
直さなければならないものだって、まだ数え切れない。
それでも女将さんの飯を食べ、ギルドでアルナさんに怒られ、ガルドさんと仕事の途中で話し、フレイヴィアさんに完膚なきまでに叩きのめされる。
……ちゃんと、いつものエルドランが戻ってきている。
その日の夜。
角兎亭へ帰ろうとギルドを出たところで、後ろから受付嬢の一人に呼び止められた。
「ルキウスさん。ちょうど良かったです」
「僕ですか?」
「はい。オルディア様から預かっています」
差し出されたのは小さな封筒だった。
表には僕の名前だけが書かれている。
「オルディアさんから……」
礼を言って受け取り、その場で封を開く。
中の紙に書かれていたのは短い文章だけだった。
明日の昼。
屋敷へ来てほしい。
そして――話をするなら、坊やが信頼できると思う者を連れてきても構わない。
「……」
そこまで読んで足を止めた。
オルディアさん。
セラフィーンさん。
フレイヴィアさん。
僕が人間だと知っている人たち。
おそらく、そういう話をするために呼ばれている。
信頼できる人。
その言葉を見ていると、すぐに二人の顔が浮かんだ。
今日も僕が怪我をしないようにと心配し、結局最後には怒ってくれた人。
そして、初めてエルドランへ来た僕を荷台へ乗せ、宿代すら持っていなかった僕へ百ソルを貸してくれた人。
ずっと隠してきた。
けれど。
今なら。
隠さなければならないから話すのではなく、自分から知ってほしいと思える。
「……うん」
紙を折り、封筒ごと外套の内側へしまう。
明日。
僕は二人に話そう。
僕が、人間だということを。
◆
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