駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
オルディアさんから許可をもらった翌日。
僕は朝から、エルドランの上層区にある資料館の前へ立っていた。
石造りの建物は周囲の家より一回り大きいものの、入口に目立った看板はなく、知らなければ何の建物なのかも分からない。窓も少なく、古びた扉の横に『資料館』とだけ彫られた小さな石板が埋め込まれていた。
……二年もこの街に住んでいて、こんな場所があるなんて知らなかった。
「お待たせしました、ルキウスさん」
「おはようございます」
後ろから声を掛けられて振り返ると、アルナさんが小さな鞄を抱えて坂を上ってきた。
今日は仕事ではないからかギルドの制服ではなく、白い上着に膝下まである落ち着いた色のスカートという私服姿で、歩くたびに猫耳が軽く揺れている。
「本当に来てくれたんですね」
「昨日、手伝うって言ったじゃないですか」
「そうですけど、せっかくのお休みなのに悪いかなって」
「気にしないでください。私も人間のことは気になってますから」
アルナさんは僕の隣まで来ると、資料館を見上げた。
「それに、ここは私も初めてです」
「アルナさんも?」
「はい。ギルドにも古い記録はありますけど、ここに入れるのは一部の研究者や役職持ちの方くらいなので」
「……僕、本当に入っていいんでしょうか」
「今さら不安になったんですか?」
「だって、僕ただのハンターですよ」
「ランク5です」
「それでもハンターですよ」
昨日はオルディアさんがあっさり許可を出してくれたから深く考えなかったけれど、こうして目の前まで来ると急に場違いな気がしてくる。
そのまま扉を見ていると、隣でアルナさんがくすりと笑った。
「大丈夫ですよ。オルディア様の許可証があるんでしょう?」
「あります」
外套の内側へ手を入れ、折り畳んだ紙を確認する。
昨日受け取ったばかりなのに、今日だけでもう三回くらい確認していた。
「じゃあ行きましょう」
「はい」
アルナさんに促され、重い扉を押し開けた。
中へ入った途端、古い紙と木、それから少しだけ埃っぽい匂いが鼻へ届いた。
正面には受付らしい小さな机があり、その先には天井近くまで届く棚が何列も続いている。普通の本だけでなく、紐で束ねられた紙や木箱、革張りの分厚い冊子まで収められていて、奥へ進むほど外の音まで遠くなっていった。
ギルドの資料室とはまるで違う。
依頼書を探す場所というより、昔から積み重なった時間をそのまま棚へ押し込んだような場所だった。
「……すごいですね」
「ですねぇ」
アルナさんも珍しそうに辺りを見回している。
受付に座っていた年配の小人族へ許可証を渡すと、老眼鏡越しに僕と紙を何度か見比べたあと、人間についての資料が置かれている区画を教えてもらった。
「ただ、期待はせん方がいいぞ」
許可証を返しながら、お爺さんが付け加える。
「人間の資料ですか?」
「うむ。残っとらんからな、ほとんど」
やっぱり。
昨日オルディアさんから聞いた通りらしい。
「分かってます。それでも見てみたくて」
「そうか」
お爺さんは僕の顔をしばらく眺めてから、棚の奥を指差した。
「一番奥、左から三列目じゃ。赤い札が下がっとる棚の周辺がそうじゃが……触る時は慎重にな」
「分かりました」
「破いたら弁償では済まんぞ」
「絶対に破きません」
「ルキウスさん、本当に気をつけてくださいね」
「アルナさんまで!?」
まだ何も触っていない。
お爺さんに笑われながら、僕たちは奥の棚へ向かった。
教えられた場所まで来ると、確かに赤い小さな札が紐で吊るされていた。
ただ、最初に感じたのは驚きよりも違和感だった。
「……少ないですね」
「そうですね」
人間についての区画は、棚一つ分すらなかった。
少し離れた場所にある竜族や獣人族に関する資料は何段もの棚を埋めているのに、人間の札がついた場所に置かれているのは十数冊ほどの本と、いくつかの紙束だけ。
しかも、その大半が薄い。
僕は一番手前にあった冊子を手に取り、近くの机へ運んだ。
表紙には古い文字で『八種族概説』と書かれている。
アルナさんと向かい合わせに座り、慎重にページをめくっていくと、竜族、天使族、エルフ、獣人族と順番に特徴が記され、最後の方になってようやく人間という名前が出てきた。
「ありました」
「どれです?」
アルナさんが身を乗り出し、僕も文字を追う。
地の民。
かつて存在した種族。
他種族と比較して身体能力、魔力量ともに低く、目立った種族的特異性を持たない。
遠い昔に衰退し、現在は絶滅したものとされる。
……それだけだった。
「終わりですか?」
「終わりですね」
次のページには、もう別の種族について書かれている。
人間について使われていたのは半頁にも満たなかった。
「昨日聞いた話と、ほとんど同じです」
「そうですね」
力が弱い。
魔力も少ない。
特異性もない。
そして滅びた。
どうして。
いつ。
どこで。
肝心なことは何も書かれていない。
別の資料を開く。
そこでも人間について書かれているのは数行だけだった。
次も、その次も大して変わらない。
人間という言葉すら出てこないものも多く、一刻ほど経つ頃には机の上へ何冊も積み上がっていたのに、新しく分かったことはほとんど増えていなかった。
「……本当に何もないですね」
思わず椅子へ深く座る。
アルナさんも読み終えた冊子を閉じ、小さく息を吐いた。
「想像以上ですね。何か一つくらい、生活について書いたものがあっても良さそうなのに」
「何を食べてたとか、どこに住んでたとか。それくらいは残っててもいい気がするんですけど」
昨日から引っ掛かっている。
人間は存在した。
そして滅びた。
そこだけは何冊読んでも同じなのに、その間がほとんど存在しない。
「種族についてまとめた本以外も見てみましょうか」
「はい。街の古い記録とかなら何かあるかもしれません」
二人で立ち上がり、棚を探し始める。
人間。
地の民。
エルドランの古い記録。
復興。
建築。
目につく言葉を手掛かりに本を抜いては、中身を確かめていく。
「ルキウスさん。その上の本、取れますか?」
「これですか?」
アルナさんが指差したのは、僕の頭より少し高い場所に置かれた分厚い冊子だった。
背伸びをして指を掛け、引っ張る。
「……重っ」
見た目以上に重い。
両手で抱えるようにして引き抜いた瞬間、中途半端に乗っていた別の本まで一緒に滑り落ちてきた。
「あっ」
頭の上へ落ちる。
そう思って身を縮めるより早く、横から伸びてきた手がそれを受け止めた。
「危ないですよ」
「……」
アルナさんが片手で分厚い本を持っている。
僕は両手で一冊を抱えている。
「大丈夫ですか?」
「はい。……それ、重くないんですか?」
「これくらいなら平気ですよ」
「僕、こっち両手なんですけど」
「ルキウスさんは人間ですから」
「最近それ、便利な理由になってません?」
「事実ですから」
猫耳が楽しそうに揺れる。
昨日から、人間という言葉を随分と都合よく使われている気がする。
「でも、本当に力が違うんですね」
アルナさんは受け止めた本を机へ置く。
「今までずっとルキウスさんはルキウスさんだったので、人間だって聞いても実感がなかったんです。でも、こうして比べると違う種族なんだなって」
「僕からすると、皆さんが力強すぎるんですけどね」
「そういうものなんでしょうね」
二人で少し笑う。
少なくとも、人間が身体的に弱かったという記録は間違っていないらしい。
新しい情報ではないけれど、ここ数日で嫌というほど実感している。
そのあとも資料を探し続けた。
けれど、めぼしいものは見つからない。
昼が近づき始め、さすがに今日はここまでかと思い始めたところで、棚の一番下に押し込まれていた古い木箱が目に入った。
「……これは?」
表面には薄く文字が残っている。
しゃがみ込み、埃を払って読む。
「『エルドラン再建記録』……?」
「街の記録みたいですね」
アルナさんも隣へしゃがむ。
木箱を勝手に開けていいのか分からなかったので受付のお爺さんへ確認すると、許可範囲に含まれているから構わないと言われた。
二人で机へ運び、留め具を外す。
中には何冊かの古い冊子と、束ねられた紙が入っていた。
ほとんどは街の復興についての記録だった。
水路の整備。
倉庫の配置。
井戸。
食料の保管。
家屋の建て方。
道路の幅。
何度も補修されて今とは形が違うものも多いけれど、読んでいるうちに見覚えのある言葉がいくつも出てくる。
「これ……」
ある一冊で手が止まった。
他とは違う。
表紙に題名らしいものがない。
中を開くと、整った文字で細かな図と文章がびっしり書かれていた。
「何ですか?」
「分かりません。ただ……」
ページをめくる。
雨水を街の外へ逃がすための排水路。
井戸と汚水を遠ざけるための配置。
食料を長く保管するため、風通しと湿気を考えた倉庫の作り。
火事が広がりにくいよう、建物と建物の間隔を空けること。
海から運ばれる荷物を効率よく市街へ流すための道路。
そして。
海から大きな災害が来た時、街の中へ入るまでの時間を少しでも稼ぐための防波壁。
「……これ」
見たことがある。
全部ではない。
でも、この街で二年間暮らしていれば分かる。
今のエルドランにも、形を変えながら残っているものばかりだった。
「アルナさん」
「はい?」
「これ、今の街と似てません?」
冊子を向ける。
アルナさんも隣から覗き込み、僕が指差した図を一つずつ確かめていく。
「……本当ですね。この排水路、中央区のものと配置が似ています」
「倉庫の方も。港の古い区画、今も大体こんな並びですよね」
「はい。もちろん何度も建て替えられてますけど……考え方はほとんど同じです」
ページをめくる。
どこを見ても、今の街に繋がるものがある。
その横には細かな理由まで記されていた。
何故そうするのか。
何が起きるのか。
失敗した時にはどう直すのか。
僕には理解できない部分も多いけれど、ただ思いつきを書いたものではないことくらいは分かる。
「これ、誰が書いたんでしょう」
アルナさんが表紙を裏返す。
名前はない。
ただ、木箱の中に入っていた別の紙へ目を通していたアルナさんが、不意に動きを止めた。
「……ルキウスさん」
「はい?」
「これ」
差し出された紙を見る。
後世の誰かが、この木箱の内容を簡単にまとめたものらしい。
掠れた文字を追っていく。
そして、その途中にあった一文で目が止まった。
――これらは、かつてエルドランに滞在した地の民が残した記録を写したものとされる。
「……地の民」
人間だ。
「これ……人間が書いたんですか?」
「そう、みたいですね」
もう一度冊子を見る。
さっきまでとはまるで違って見えた。
手書きの線。
街の図。
細かく書き込まれた数字。
僕にはよく分からない計算。
全部。
昔ここにいた人間が残したものだ。
防波壁だけじゃなかった。
排水路も。
倉庫も。
井戸も。
道路も。
今のエルドランで当たり前に使われているものの中に、この人が残した考えがいくつも混ざっている。
「……」
ページをめくる手が遅くなる。
昨日、オルディアさんから聞いたことを思い出す。
人間は弱かった。
身体能力も低い。
魔力も少ない。
種族として目立った特異性も持たない。
それゆえに衰退し、遠い昔に滅びたとされている。
それは。
たぶん本当なんだと思う。
僕自身がそうだ。
力比べなら他種族に負けるし、魔力だって少ない。
特別な何かがあるわけでもない。
でも。
目の前の冊子を見る。
弱すぎて滅んだとされている種族の一人が。
一つの街の生活を支えるほどの知識を残している。
もちろん。
この人が特別だっただけなのかもしれない。
人間の中でも、たまたま頭が良くて、たくさんのことを知っていた人だったのかもしれない。
……でも。
もし、そうじゃなかったら。
この人だけじゃなく。
人間という種族が、こういう知識を持っていたのだとしたら。
弱いから滅びた。
本当に。
それだけなんだろうか。
「……」
気づけば、同じ頁をずっと見ていた。
文字を読んでいるはずなのに、頭にはほとんど入ってこない。
昨日から感じていた小さな違和感が、少しずつ輪郭を持ち始める。
「――ルキウスさん」
「……」
「ルキウスさん?」
「っ」
肩が跳ねた。
顔を上げる。
すぐ隣でアルナさんが心配そうに僕を見ていた。
「どうしました?」
「……すみません。考え事してました」
「何度か呼びましたよ」
猫耳が少しだけこちらへ傾いている。
そう言われて、ガルドさんにも昨日似たようなことを言われた気がした。
「そんなに集中してたんですか?」
「はい。この本……何か、変だなと思って」
「変?」
「上手く言えないんですけど」
もう一度冊子を見る。
「人間って、弱すぎて滅びたって書かれてるじゃないですか」
「はい」
「でも、この人は今のエルドランの基盤になるくらい色んなことを知ってた」
指で頁をなぞる。
「この人だけが特別だったのかもしれません。でも……もし、人間がこういう知識を持った種族だったなら」
そこで一度言葉を止める。
「本当に、弱いってだけでいなくなるのかなって」
アルナさんも冊子へ目を落とした。
少しの間、何も言わない。
「……分かりませんね」
「はい」
「でも」
猫耳が僅かに動く。
「気になる理由は、分かった気がします」
「……そうですか?」
「はい。私もちょっと気になりました」
そう言って、アルナさんが小さく笑う。
「また探しましょう」
「はい」
結局、その日見つけられたものはそれだけだった。
人間がどうして滅びたのか。
どんな種族だったのか。
その答えは何一つ見つかっていない。
ただ。
僕と同じ人間が、この街にいた。
そして。
今もエルドランに残るものを作った。
それだけは、昨日までとは違っていた。
資料館を出ると、昼の日差しが思ったより眩しく、思わずフードの端を少しだけ下げた。
静かな建物の中に長くいたせいか、通りから聞こえてくる人の声や荷車の音が妙に大きく感じる。
「疲れましたね」
「アルナさん、結構楽しんでませんでした?」
「ちょっとだけです」
両腕を上へ伸ばすアルナさんに合わせて、猫耳までぴんと伸びた。
「ルキウスさんは?」
「僕も……思ってたよりは」
「本を読むの苦手そうなのに」
「何で皆さん、僕を本が読めない人みたいに扱うんですか」
「読めないとは言ってませんよ」
「苦手そうって言いました」
「印象です」
反論しようと思ったけれど、資料館で本を落としかけたことを思い出してやめた。
二人で坂を下り、中央区へ向かう。
復興中なのは変わらないけれど、昨日より開いている店は増えていた。仮設の屋台からは威勢のいい声が飛び、鍛冶屋からは金属を叩く音が響き、道の端では子どもたちが大人に邪魔だと怒られながら走り回っている。
何度も歩いてきた道だ。
資料館で昔のエルドランについて読んだ直後だからか、普段なら気にもしない水路や道の幅まで妙に目についた。
……あの人が書いたものが、ここにもあるんだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると。
「あっ、ルキウス兄ちゃん!」
「ん?」
声に振り返る。
獣人族の男の子が二人と、小さな角の生えた竜族らしい女の子が、通りの向こうからこちらへ駆けてきた。
何度か街で会ったことのある子たちだ。
「こんにちは」
「兄ちゃん、今日暇!?」
「暇ではないかな」
「じゃあ明日!」
「何が?」
「鬼ごっこ!」
「……僕と?」
三人が揃って頷く。
どうやら僕の意思はあまり関係ないらしい。
「ルキウス兄ちゃん捕まえるの難しそうだから、鬼な!」
「それ僕がずっと追いかける側じゃない?」
「そう!」
「嫌だよ」
即答すると、三人揃って不満そうな顔になった。
「えー!」
「大人げない!」
「大人げないって言葉、どこで覚えたの?」
一番小さな女の子が得意げに胸を張る。
「お母さん!」
「たぶん今の使い方、ちょっと違うからね」
男の子の一人が僕の外套を引っ張った。
「じゃあ今度、剣教えて!」
「それも駄目。危ないから」
「木の棒で!」
「それなら……」
少し考える。
三人の顔が一斉に期待するようにこちらへ向いた。
「ちゃんと家の人に聞いて、フレイヴィアさんが一緒なら」
「竜姫様!?」
「何で!?」
「僕が教えるより絶対上手いから」
「やだ! 怖い!」
「……本人に言わないでね、それ」
僕も最初は同じことを思っていたけれど。
「じゃあまたな、ルキウス兄ちゃん!」
「約束だからね!」
「してないよ!」
勝手に約束したことにされ、そのまま三人は別の子どもたちの方へ走っていった。
背中を見送っていると、隣から小さな笑い声が聞こえる。
「何です?」
アルナさんを見る。
猫耳をゆっくり揺らしながら、どこか楽しそうにこちらを見ていた。
「いえ。随分と馴染みましたね」
「……僕がですか?」
「はい」
アルナさんが通りへ視線を向ける。
さっきの子どもたち。
店先から僕を見て軽く手を上げる人。
向こうから歩いてきた顔見知りのハンターへ会釈すると、向こうも手を振り返してきた。
「初めてギルドに来た頃のルキウスさん、覚えてます?」
「もちろんですよ」
「ずっとフードを深く被っていて、声も小さくて。百ソルしか持ってなくて」
「そこまで覚えてるんですか」
「受付嬢ですから」
少し誇らしそうに胸を張る。
「角兎亭の場所を教えた時も、本当に大丈夫かなって思ってました」
「そんなに頼りなかったです?」
「はい」
「即答……」
少しくらい考えてほしかった。
「でも、今は違います」
アルナさんがこちらを見る。
「街を歩いていれば誰かに声を掛けられて、子どもたちも普通にルキウスさんのところへ寄ってくる。皆、ルキウスさんのことを知ってます」
言われて、改めて辺りを見る。
最初にエルドランへ来た時は、何も知らなかった。
今日歩いているこの道がどこへ続くのかも。
どこで飯を食べればいいのかも。
どこで仕事を受ければいいのかも。
全部知らなかった。
それが今では。
角を曲がれば何の店があるか分かる。
ギルドへ行けば知っている人がいる。
街を歩けば名前を呼ばれる。
「……そうですね」
自分では、あまり考えたことがなかった。
いつの間にか。
ここを歩くことが当たり前になっていた。
「僕も、エルドランの人になったんですかね」
「なったんじゃないですか?」
アルナさんが笑う。
「少なくとも、私はそう思ってますよ」
「……ありがとうございます」
何となく照れくさくなって、フードを少しだけ深く被る。
それを見たアルナさんの猫耳が楽しそうに揺れた。
「何で隠れるんですか?」
「こういう時に便利なんですよ」
「正体を隠すためのものじゃなかったんですか?」
「今は照れた時にも使えます」
「随分と用途が増えましたね」
並んで歩き出す。
見慣れた街並みなのに、さっきの話をしたせいか少しだけ違って見えた。
しばらく中央通りを歩いていると、不意にアルナさんが足を止めた。
「ルキウスさん」
「はい?」
猫耳がぴこりと動く。
視線の先を見ると、通りの脇に小さな店があった。
窓から見える棚には焼き菓子が並び、入口には果物と甘い乳を使った菓子の絵が描かれている。
扉が開くたびに、甘い匂いが通りまで漂ってきた。
「少し、寄っていきませんか?」
「ここですか?」
「はい」
アルナさんが期待するように店を見る。
「資料館でずっと頭を使いましたし、甘いものでも食べて休憩しましょう」
「僕、ほとんど本を読んでただけですけど」
「読むのも頭を使います」
「アルナさんが食べたいだけじゃないですか?」
ぴたりと猫耳が止まった。
「……ルキウスさん」
「はい」
「こういう時は、気づいても言わない方がいいんですよ」
「すみません」
少しだけ頬を膨らませたまま店へ向かっていく。
慌ててその後を追った。
店の中は思っていたより小さく、壁際に数席と、窓辺に二人掛けの机があるだけだった。
アルナさんに勧められるまま窓際へ座り、しばらく品書きを眺める。
聞いたことのない名前が多く、結局僕は焼いた薄い生地へ甘い乳と果実を重ねたものを選び、アルナさんは蜜をかけた冷たい菓子を頼んだ。
「アルナさん、ここよく来るんですか?」
「たまにですよ」
「本当に?」
「たまにです」
僕の視線から逃げるように、猫耳が横へ向いた。
……たぶん結構来てるな。
しばらくして運ばれてきた菓子を一口食べる。
思っていたより甘い。
でも果実の酸味が混じるせいか、嫌な甘さではなかった。
「……美味しいですね」
「でしょう?」
何故かアルナさんが得意そうだ。
「アルナさんが作ったわけじゃないですよね?」
「私がお勧めしたんですから、少しくらい私の手柄でもいいじゃないですか」
「少しなら」
二人で笑う。
資料館で遠い昔の人間について考えていた時とは、まるで違う時間だった。
窓の外では人が行き交い、荷車が通り、遠くから復興作業の槌音が聞こえてくる。
当たり前の街の音を聞きながら、甘い菓子を食べる。
それだけで少し頭が軽くなった気がした。
「ルキウスさん」
「はい?」
アルナさんが匙を置き、僕を見る。
「人間のこと、これからも調べるんですよね」
「はい。今日みたいに、なかなか何も見つからないかもしれませんけど」
「それでも?」
「それでもです」
今日見つけた一冊を思い出す。
答えはなかった。
でも。
知らなかったことは一つ増えた。
人間がこの街へ残したものは、防波壁だけじゃない。
「少しずつでも分かればいいかなって思ってます」
「そうですか」
アルナさんの猫耳が小さく揺れる。
「じゃあ、また必要なら言ってくださいね」
「手伝ってくれるんですか?」
「もちろんです。今日だけだと思ってたんですか?」
「……ありがとうございます」
「その代わり」
アルナさんが僕の皿へちらりと視線を向けた。
「次は、ルキウスさんが奢ってください」
「え?」
「今日は私が誘ったので、私が出します。だから次はルキウスさんです」
「いや、自分の分くらい払いますよ」
「駄目です」
「何でです?」
アルナさんが一度だけ視線を逸らす。
猫耳が、僅かに外側へ傾いた。
「……次に一緒にお出かけする理由です」
「……」
一瞬だけ。
返事が止まった。
アルナさんも言ってから少し恥ずかしくなったのか、匙で溶け始めた菓子を意味もなく混ぜている。
「資料館じゃなくても、ですよ」
「……はい」
「甘いものでも。買い物でも。別に何でもいいですけど」
そこまで言って、ちらりとこちらを見る。
「次はルキウスさんから誘ってください」
「……分かりました」
何だかこっちまで照れくさくなって、残っていた菓子を口へ運ぶ。
甘い。
「じゃあ、約束ですよ」
「はい。約束です」
アルナさんが嬉しそうに笑った。
猫耳も隠す気がないみたいに、ぴこりと動く。
資料館で分かったことは、まだほんの少しだけだった。
人間がどうして滅びたのかも、どんな種族だったのかも分からない。
むしろ今日、分からないことが増えた気さえする。
弱く。
魔力も少なく。
特別な力もなかったとされる種族。
なのに、その一人が残した知識は、遠い昔から今までエルドランの暮らしの中に生き続けている。
あの人が特別だったのか。
それとも。
人間という種族そのものに、僕がまだ知らない何かがあったのか。
答えはない。
それでも。
もう少し知りたいと思った。
窓の向こうには、僕が見慣れたエルドランの街並みが広がっている。
その足元に流れる水路も。
並んだ建物も。
遠くに見える港も。
もしかすると。
僕が知らなかっただけで、ずっと前から人間の残したものに囲まれて暮らしていたのかもしれない。
◆