駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
世界地図を見てから、何日かが経った。
依頼へ出ていても、ギルドで報酬を受け取っていても、角兎亭で夕食を食べていても――何かの拍子に、資料館の机いっぱいへ広げられた地図を思い出す。
エルドランから何週間も離れた山岳都市。
白い建物が並ぶという天使族の聖都。
夜になってから賑わい始める夜魔族の街。
竜族の土地に、大河に沿って造られた街、古い遺跡。
そして、そのどこかには。
エルドランでは見つけられなかった、人間についての記録が残っているかもしれない。
……行ってみたい。
最初は、ただそれだけだった。
知らない景色を見てみたい。
色んな街へ行ってみたい。
壊れた片刃剣だって、遠く離れた小人族の街まで持っていけば直せるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか僕は、どうすればそこへ行けるのかまで考えるようになっていた。
たぶん。
もう、答えは出ている。
だったら。
最初に話したい人も決まっていた。
◆
「ガルドさん」
「おう」
夕方。
運送の仕事を終えたガルドさんを見つけたのは、中央区の荷運び場だった。
最後の荷物を倉庫へ運び終えたらしく、荷車の傍でケルンの首元を撫でている。
僕が近づくと犬耳がこちらへ向き、少し汗の滲んだ顔で笑った。
「今日、時間あります?」
「あるぞ」
「飲みに行きません?」
「お! いいな! ちょっと待ってろ」
返事は早かった。
ガルドさんは楽しそうに笑うと、すぐに荷車の手綱を取った。
「こいつ預けてくるからよ」
「はい。待ってます」
そのまま歩いていく背中を見送る。
宴の時にも何度か一緒に飲んでいるから、僕が酒に誘ったくらいでは何も不思議には思わなかったらしい。
むしろ。
僕が想像していたより、ずっと乗り気だった。
……まあ。
話すのは店へ入ってからでいいか。
◆
ガルドさんに連れていかれたのは、中央区の大通りから一本外れたところにある酒場だった。
仕事を終えた職人やハンターで店内はほどよく賑わっていて、奥からは肉の焼ける匂いが漂ってくる。
壁際の席へ座るなり、ガルドさんは慣れた様子で酒を二つと、肉料理をいくつか頼んだ。
「ここ、よく来るんです?」
「たまにな。安くて量が多い」
「味は?」
「うまいぞ。量が多けりゃもっと美味い」
「それはガルドさんだけじゃないですか?」
「腹いっぱい食える飯は美味いんだよ」
そんな話をしているうちに、二つの杯が運ばれてくる。
琥珀色の酒を受け取ると、ガルドさんがすぐに笑いながら杯を持ち上げた。
「よし!」
僕も合わせて持ち上げる。
「何に乾杯します?」
「何でもいいだろ。久しぶりに二人で飲むんだからよ」
ガルドさんが楽しそうに笑う。
つられて僕も笑った。
「じゃあ――乾杯!」
「乾杯!」
杯を打ち合わせる。
澄んだ音が鳴って、そのまま二人で酒を飲んだ。
「……あ、美味しい」
「だろ?」
「宴で飲んだのより少し辛いですね」
「飯に合うんだよ。ほら、肉来たぞ」
ちょうど料理が運ばれてくる。
香草をまぶして焼かれた肉と、油で揚げた芋。
ガルドさんはさっそく肉へ手を伸ばし、僕もその隣から一本取った。
「んまいな」
「ですね」
肉を食べて。
酒を飲む。
まだ本題は話していない。
なのに。
こうしてガルドさんと向かい合っているだけで、少し肩の力が抜けていった。
「んで?」
「……はい?」
突然。
ガルドさんが肉を噛みながら言った。
「んでとは?」
「とぼけんなよ」
呆れたように犬耳が動く。
「何か話があるんだろう?」
「……気づいてたんですか?」
「当たり前だ」
即答された。
「お前からわざわざ俺を飲みに誘って、ただ酒飲みたかっただけですって顔じゃねえだろ」
「そんなに分かりやすいです?」
「分かりやすい」
ガルドさんが杯を傾ける。
「で。何だ?」
逃げ道はなさそうだった。
まあ。
最初から話すつもりで来たんだから、逃げる必要もない。
僕も一口だけ酒を飲み、杯を置く。
「ガルドさん」
「おう」
一度。
息を吐く。
「僕――旅に出ようと思います」
言った。
ここ数日。
何度も頭の中で考えていた言葉だった。
実際に声へすると。
思っていたより、すんなりと出た。
ガルドさんは驚かなかった。
少しだけ目を細めて。
それから、何でもないことみたいに笑った。
「んま、そろそろ言い始める頃かと思ってたよ」
「……え?」
今度は本気で聞き返した。
「分かってたんですか?」
「分からいでか」
ガルドさんが鼻で笑う。
「ここ最近のお前、それはもう楽しそうに外の話してたじゃねえか」
「そうでした?」
「そうでした? じゃねえよ。小人族の街はどうだ。天使族の聖都はどんなところだ。夜魔族の街は。竜族の土地は。旅するハンターはどれくらいいる」
指折り数えられていく。
……そんなに聞いてたっけ。
「俺が他所の街の話すりゃ、羨ましそうな顔して聞いてるしよ」
「羨ましそうな顔なんてしてませんよ」
「してた」
「してません」
「してた」
即答される。
「この間なんか、街道の先ずっと眺めてただろ」
「……見てたんですか?」
「気づいてないと思ってんの、お前だけだよ」
「……」
何も言えなくなった。
自分では。
誰にも言わず、かなり真面目に一人で考えていたつもりだった。
「……恥ずかしいな」
フードを少し引っ張って、顔を隠す。
「はははっ! 何隠れてんだよ!」
「だって、自分では普通にしてるつもりだったんですよ」
「全然できてなかったぞ」
「もういいです」
酒を飲む。
少し多めに。
「アルナさんとかにも気づかれてますかね」
「さあなぁ」
「その言い方、絶対気づいてると思ってますよね」
「俺は何も言ってねえぞ」
「……ちょっと帰りたくなくなってきた」
ガルドさんがまた笑う。
その笑いにつられて、僕も結局笑ってしまった。
「まあまあ。で、旅に出て何すんだ?」
肉を一本取りながら、ガルドさんが聞く。
「二つあります」
僕も揚げた芋を一つ摘まむ。
「一つは――世界を見てみたいです」
「うん」
「僕、エルドランへ来てからずっとここにいましたから。依頼で街の外へ出ることはあっても、結局はエルドランへ戻ってこられる範囲しか知らなくて」
資料館で見た地図を思い出す。
「色んな街があるって知って。資料館のおじいさんとか、ガルドさんから話を聞いて……普通に、見てみたいと思いました」
「いいじゃねえか」
ガルドさんは迷わず言った。
「それで十分だろ」
「……はい」
何故か。
その一言で少し安心した。
「もう一つは、人間のことです」
今度は少しだけ、声が落ち着く。
「エルドランで調べられるものは、大体調べました。でも、やっぱり分からないことの方が多いです」
「そうみてえだな」
「人間は弱くて。魔力も少なくて。他の種族みたいな特別なものもなくて……それで滅びたって」
残っている記録には。
似たようなことばかり書いてある。
「でも、それだけなのかなって思うんです」
僕は生きている。
身体は弱いし。
魔力も少ない。
この前なんて、この世界では軽い方らしい剣を持っただけで重いと思った。
それでも。
二年間、ハンターとして生きてきた。
「昔エルドランに来た人間だって、この街の色んなものの元になる知識を残してました。防波壁だってそうです」
「……ああ」
「だったら、人間って本当に弱いだけの種族だったのかなって」
答えは。
ここにはなかった。
「別の街なら、違う記録が残ってるかもしれません」
エルドランになければ。
もっと外へ。
「僕、自分が人間なのに……人間のことを何も知らないんですよね」
口にすると。
改めて、その事実が少し不思議だった。
「だから、知りたいです」
「……そうか」
ガルドさんがゆっくり頷く。
「あと、片刃剣も直したいです」
「急に俗っぽくなったな」
「大事ですよ!」
思わず身を乗り出す。
「小人族の街まで行けば、直せる人がいるかもしれないんですよ?」
「くっそ遠いけどな」
「……それは覚悟してます」
「普通に行くだけで何週間だぞ」
「分かってますよ」
そこは資料館で嫌というほど聞いた。
少し足を伸ばして寄ってくるような距離じゃない。
往復するだけでも、かなり長い旅になる。
「まあ」
ガルドさんが笑いながら酒を注ぎ足す。
「世界見てえ。自分のこと知りてえ。剣も直してえ」
「全部大事です」
「欲張りでいいじゃねえか」
「そういうものです?」
「旅するなら、それくらいあった方が楽しいだろ」
ガルドさんが自分の杯にも酒を足す。
それから僕を眺め。
急におかしそうに口元を緩めた。
「にしても」
「はい?」
「お前さんが旅ねぇ」
「……何ですか」
にやにやしている。
何となく。
嫌な予感がした。
「最初は百ソルで困ってた奴がなぁ」
「……」
やっぱり。
「またその話します?」
「そりゃするだろ!」
ガルドさんが声を上げて笑う。
「懐かしいな! エルドラン着いた時なんか宿代すら怪しかったじゃねえか」
「だから百ソル借りたんでしょう」
「威張るところじゃねえよ」
「ちゃんと返しましたよ」
「借りた金返すのは当たり前だ」
「じゃあもういいじゃないですか」
言い返しながら。
僕も笑っていた。
「いやぁ、最初に会った時は本当に何も持ってなかったよな」
「武器はありましたよ」
「ろくなもんじゃなかっただろ」
「……それはそうですけど」
「金もねえ」
「ちょっとはありました」
「街も知らねえ」
「初めて来たんだから当たり前でしょう」
「宿も知らねえ」
「だから教えてもらいました」
「ハンターのことも大して知らねえ」
「……」
最後は否定できなかった。
「なのに」
ガルドさんが楽しそうに僕を見る。
「『ハンターになる』だもんな」
「なりましたよ」
「ああ」
その返事だけ。
少し声が変わった。
「なったな」
ガルドさんが酒を飲む。
「ちゃんとな」
「……」
胸の奥に。
酒とは違う熱が少しだけ広がった。
「最初、無理だと思ってました?」
「なるだけならできると思ってたぞ」
「続けるのは?」
「怪しいと思ってた」
「やっぱり」
「そりゃそうだろ」
ガルドさんが僕を指差す。
「ひょろひょろ。力もねえ。魔力も大したことねえ。ついでに世間知らず」
「最後は関係ないでしょう」
「大ありだ」
笑われる。
「最初の依頼は何だったっけな」
「スノウラビの捕獲ですよ」
「ああ。で、そのあと早速怪我してたな」
「……そんなすぐでしたっけ?」
「すぐだ」
「覚えてないなぁ」
「都合の悪いとこだけ忘れてんじゃねえ」
今になっても怒られた。
「フレイヴィアさんと会ったのも、あの頃ですね」
「あの姫さんとお前がここまでつるむとは思わなかったな」
「僕もです」
「片刃剣まで貰ってよ」
「今は壊れてますけどね」
「……直るといいな」
「はい」
そこだけは。
二人とも少しだけ笑いが止まった。
でも。
すぐに次の話が出てくる。
「ランク2の試験とかもありましたね」
「姫さんが監督やったやつか」
「そうです」
「そっから一気だったな」
「そうですか?」
「お前からすりゃ色々あったんだろうけどよ」
ガルドさんが指を折る。
「ランク上げて、依頼増えて、雪山まで行って」
「雪山……」
「お前、それは忘れてねえだろうな」
「忘れませんよ」
あれは。
さすがに忘れようがない。
「死にかけただろ」
「生きてました」
「結果から話すな」
「でも生きてましたよ」
「便利だな、お前その言葉」
ガルドさんが呆れた顔をする。
「でも、あの辺からかねぇ」
「何がです?」
「お前が少しずつ周りを見るようになったの」
「……そうですか?」
「そうだよ」
即答された。
「最初のお前、本当に自分と目の前のモンスターしか見てなかったからな」
「モンスターと戦ってるなら普通じゃないですか?」
「そういう意味じゃねえよ」
ガルドさんが酒を飲みながら笑う。
「敵がいりゃ倒す。それ以外後回し。自分が怪我しようが、周りに誰がいようが関係なし」
「そこまでじゃないですよ」
「そこまでだった」
「……」
「最近はマシだぞ」
「褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
絶対少し楽しんでいる。
「この前の依頼でも、ちゃんと他の二人見てただろ」
「それくらい見ますよ」
「だから前は見てなかったっつってんだよ」
どうにも。
昔の僕は、僕が覚えているより酷かったらしい。
「まあ、フレイヴィアさんにも散々叩き込まれましたし」
「文字通りな」
「本当に叩かれますからね、あの人」
「それでも嬉しそうに行くじゃねえか」
「……強くなれますから」
「それだけか?」
犬耳がこちらへ向く。
何となく嫌な予感がして、酒を飲んだ。
「それだけですよ」
「ふぅん」
「何です?」
「別に」
何故か笑われた。
理由は聞かないことにした。
「それで」
ガルドさんが杯を置く。
「水禍渡りだ」
「……はい」
それだけで。
少しだけ思い出すものが変わった。
防波壁。
倉庫街。
最後の防衛線。
押し寄せてきた水憑き。
海から現れた、水禍渡りの主。
「さすがにあれは色々ありすぎたな」
「僕もそう思います」
「お前が来てからエルドラン、騒がしくなってねえか?」
「僕のせいにしないでくださいよ」
「何か起きるたびお前いるぞ」
「住んでるんだから当たり前でしょう」
「それもそうか」
二人で笑う。
今なら。
笑える。
あの時は。
そんな余裕なんてなかったけれど。
「……でも」
杯の中で揺れる酒を見る。
「皆、生きてましたね」
「ああ」
「本当に、それだけでよかったです」
街は壊れた。
防波壁も。
倉庫も。
家も。
それでも。
誰も死ななかった。
最後には。
みんな帰ってきた。
「お前、目ぇ覚ました時すげえ顔してたけどな」
「……見てたんです?」
「見た見た。世界終わったみてえな顔」
「街があんなことになってたんですから仕方ないでしょう」
「自分らが負けたと思ったんだろ?」
「……ちょっとだけ」
「嘘つけ」
また笑われる。
「女将さんにも怒られました」
「何て?」
「建物が壊れたくらいで、この街がなくなったことにするんじゃないって」
あの言葉は。
今でも残っている。
「ここに住んでる人たちがいるなら、エルドランはまだここにあるって」
「正しいな」
ガルドさんが頷く。
「この街は、しぶてえからな」
「ガルドさんもその一人ですよ」
「お前もだろ」
「僕も?」
「何だよ、その顔」
ガルドさんが呆れたように笑う。
「二年住んで、ギルドで仕事して、街守るために死にかけて。それでまだ自分はエルドランの奴じゃありませんって顔してんのか?」
「……」
アルナさんにも。
似たようなことを言われた。
「この前、アルナさんにも言われました」
「だろうな」
「僕もエルドランの人になったって」
「なっただろ」
簡単に言われる。
でも。
その簡単な言葉が。
少し嬉しかった。
「……最初は」
「ん?」
「ただの知らない街だったんですよね」
荷台に乗って。
ガルドさんに連れてきてもらった。
「宿も知らなくて」
「金もなかった」
「だから百ソル借りました」
「ようやく素直に認めたな」
「返しましたけど」
「そこ大事なんだな」
笑う。
「ギルドへ行って。アルナさんに会って」
「うん」
「フレイヴィアさんに会って。セラフィーンさんに会って」
色んな人に会った。
「ガルドさんには、一番最初でした」
「そうだな」
ガルドさんが肉を一つ取る。
「僕がエルドランで知り合った最初の人って、ガルドさんなんですよね」
「今さら気づいたのか?」
「知ってましたよ」
「じゃあ言え」
「今言ったじゃないですか」
くだらない言い合いをする。
酒を飲む。
また笑う。
思い出話は。
一つ始めると、いくらでも出てきた。
「そういやお前、初めてまともな報酬貰った時すげえ嬉しそうだったな」
「そうでした?」
「袋何回も開けてたぞ」
「……そんなことしてました?」
「してたしてた」
「見ないでくださいよ」
「今さら何言ってんだ」
ランクが上がった時。
初めて少し大きな依頼を任された時。
怪我をして帰った時。
怒られた時。
気づけば。
笑いながら話せることばかりになっていた。
「……二年なんですね」
「何が?」
「エルドランに来てから」
「ああ」
たった二年。
でも。
こうして話してみると。
ずっと長くここにいる気がした。
「最初、角兎亭に一晩泊まれればそれでいいと思ってたんですよ」
「次の日どうするつもりだったんだ?」
「ハンターになります」
「そうじゃなくてよ」
「……何とかなるかなって」
「お前、よく生きてたな」
「僕も最近そう思います」
ガルドさんが腹を抱えて笑う。
「本当に何も考えてなかったんだな」
「ハンターになることは考えてました」
「それしか考えてねえじゃねえか」
何も言い返せなかった。
「でも」
少しだけ。
声が落ち着く。
「ガルドさんがいなかったら、今みたいにはなってなかったと思います」
「ん?」
「百ソルもそうですし。角兎亭を教えてもらったことも。それから……色々」
「何だよ急に」
「いいじゃないですか」
酒が入っているから。
普段よりは、こういうことも言いやすい。
「ありがとうございました」
ガルドさんが少しだけ目を丸くする。
「荷台に乗せてもらったことも。エルドランまで連れてきてもらったことも。ハンターになってからも、ずっと色々教えてもらいましたし」
「……百ソルは返してもらったぞ」
「だから、そこは分かってますって」
「利子取っときゃよかったな」
「今さら駄目です」
結局。
いつもみたいに笑う。
でも。
それでいい。
「まあ」
ガルドさんが酒を一口飲む。
「こっちも、結構楽しかったけどな」
「え?」
「お前拾ってから」
犬耳が少しだけ動く。
「ハンター辞めて、運び屋やって。それで別に困ってなかったんだよ。もう自分で剣持ってあっちこっち行くこともねえだろうと思ってた」
「はい」
「なのに変な坊主拾ったら、何だかんだ面倒なことばっか起きてよ」
「僕のせいです?」
「半分くらい」
「多くないですか?」
「雪山行くわ、水禍渡りじゃ街の前に立つわ。挙げ句、俺までまたハンターやってる」
そう言って。
ガルドさんが笑う。
「でも、悪くなかった」
「……」
「お前がどうなっていくのか、見てるの結構楽しかったんだよ」
胸の奥が。
少しだけ熱くなる。
「最初は百ソルで困ってた坊主がな」
「また戻りましたね、その話」
「大事だからな」
「何がそんなに大事なんです?」
「今じゃランク5だろ」
笑いながら。
でも。
その声は少しだけ真面目だった。
「俺と同じだ」
「……はい」
「街一つ守って。今度は世界を見に行くって言ってる」
ガルドさんが僕を見る。
「大したもんだよ」
「……そうですかね」
「そうだ」
迷いなく言われた。
「まあ、馬鹿なのは変わってねえけど」
「余計ですよ」
「最初は、自分より弱え奴見ててこんなに怖くなるとは思わなかったぞ」
「何ですか、それ」
「身体は弱え。魔力もねえ。なのに気づいたら一番前にいる」
「……」
「昔はそれだけだったけどな」
ガルドさんが杯を回す。
「今は、ちゃんと周り見てる。誰かに背中預けるのも覚えた。自分だけで何とかしようとしなくなった」
「そんなに変わりました?」
「変わったよ」
僕には。
まだあまり実感がない。
「その上で」
ガルドさんが笑う。
「まだ一番前に行くんだから、結局馬鹿なんだけどな」
「結論そこですか」
また二人で笑った。
話して。
飲んで。
料理を食べて。
気づけば。
店に入った頃よりずっと時間が経っていた。
「それで」
ガルドさんが新しい酒を注ぎながら聞く。
「いつ行くんだ?」
「まだ決めてません」
「皆には?」
「これから話します」
女将さん。
フレイヴィアさん。
セラフィーンさん。
オルディアさん。
それから。
「……アルナさんにも」
名前を口にすると。
何故か少しだけ言いづらかった。
「一番最後か?」
「たぶん」
「何で?」
「……何となく」
自分でも分からない。
いや。
少しは分かっている気もする。
「まあ、ちゃんと話せよ」
「はい」
「で、最初の行き先は?」
「まだです。でも、小人族の街は行きたいです。片刃剣もありますし」
「普通に行って何週間だぞ」
「覚悟してます」
「野宿もある」
「します」
「モンスターも出る」
「ハンターですよ、僕」
「道に迷う」
「……それは困ります」
「そこだけ弱えな!」
笑われる。
「地図買いますよ」
「買え」
「ガルドさん、昔使ってたの余ってません?」
「人の旅道具を当てにすんな」
「聞いただけじゃないですか」
また酒を飲む。
「でも」
少しして。
僕は続けた。
「帰ってきますよ」
ガルドさんがこちらを見る。
「別に、エルドランが嫌になったわけじゃないですから」
「ああ」
「むしろ」
一度。
言葉を選ぶ。
「ここが好きだから、行けるんだと思います」
最初は。
知らない街だった。
今は違う。
角兎亭へ帰れば女将さんがいる。
ギルドへ行けばアルナさんがいる。
教会へ行けばセラフィーンさんがいる。
フレイヴィアさんも。
ガルドさんもいる。
戻ってくれば。
また会える。
「エルドランは、僕が帰ってきたい場所ですから」
ガルドさんは。
少しの間、黙っていた。
「……そっか」
やがて。
静かに笑う。
「なら、いい」
それだけだった。
でも。
僕には十分だった。
「手紙は寄越せよ」
「ガルドさんに?」
「嫌ならいらねえぞ」
「送りますよ」
「ちゃんと定期的にな」
「分かりました」
「金なくなったら?」
「働きます」
「百ソルくらいなら貸してやるぞ」
「もういりませんって!」
思わず声が大きくなる。
「はははっ!」
「絶対言うと思ってたでしょう!」
「当たり前だろ!」
ガルドさんが腹を抱えて笑う。
僕も。
もう耐えられなくなって笑った。
百ソル。
あの時の僕にとっては。
宿へ泊まるために必要だった、大事なお金。
それが今では。
二人で笑うための思い出になっている。
「……ガルドさん」
「ん?」
「僕、行きますね」
酔った勢いじゃない。
最初に口にした時よりも。
ずっとはっきりしていた。
「世界を見てきます」
「ああ」
「人間のこと、調べます」
「ああ」
「片刃剣も直してきます」
「それは直るか分かんねえだろ」
「そこは直してきますって言わせてくださいよ」
「ははっ、分かった分かった」
ガルドさんが笑う。
僕は。
杯を持ち上げた。
「じゃあ」
まだ出発の日ではない。
それでも。
「行ってきます」
自然に。
その言葉が出た。
ガルドさんが一瞬だけ僕を見る。
二年前。
荷台へ乗せてくれた人。
百ソルを貸してくれた人。
角兎亭を教えてくれた人。
ハンターになったあとも。
何度も僕の隣で戦ってくれた人。
ガルドさんも。
ゆっくり杯を持ち上げる。
「おう」
そして。
いつものように。
少しだけ乱暴に。
でも、楽しそうに笑った。
「いってこいよ、相棒」
「……」
一瞬だけ。
返事が遅れた。
相棒。
その言葉が。
思った以上に胸の奥へ残った。
ガルドさんは。
僕が何も持っていなかった頃から知っている。
ランク1だった僕も。
百ソルを借りた僕も。
何度も怪我をして。
それでも依頼へ行っていた僕も。
全部知っている人から。
今。
そう呼ばれた。
「……はい」
少しだけ。
笑う。
「行ってきます」
杯を前へ出す。
ガルドさんも。
同じように出した。
「じゃあ、もう一回だ」
「え?」
「門出だろ?」
にっと笑う。
僕も。
今度はすぐに笑った。
「……そうですね」
二人で杯を持ち上げる。
「乾杯!」
「乾杯!」
――杯が鳴る。
二年前。
僕は何も知らずに、ガルドさんの荷台へ乗ってエルドランへ来た。
金もなくて。
宿も知らなくて。
この街に誰がいるのかも知らなかった。
そんな僕が。
今度は。
自分の足で。
自分の意思で。
ここから先へ行く。
知らない街へ。
知らない景色へ。
僕がまだ何も知らない世界へ。
そして。
また帰ってくる。
この街へ。
そう決めて。
僕はガルドさんと笑いながら、杯に残っていた酒を飲み干した。
◆