駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第四章 第十四話『少年は旅立ちを告げる』

 

 ◆

 

 ガルドさんと飲んだ翌朝。

 目を覚まして最初に思い出したのは、昨夜の酒でも、百ソルの話を何度も蒸し返されたことでもなかった。

 

 ――いってこいよ、相棒。

 

 寝台へ仰向けになったまま、しばらく天井を見つめる。

 思い出すと、今さら少しだけ恥ずかしい。

 僕の方も随分と素直なことを話した気がするし、最後には出発の日でもないのに「行ってきます」なんて言ってしまった。

 けれど。

 後悔はなかった。

 

 昨日、ガルドさんへ口にしたことで。

 僕の中でも、ようやく決まった。

 

 世界を見たい。

 人間について、もっと知りたい。

 壊れた片刃剣も、できるなら直したい。

 そのために。

 僕はエルドランを出る。

 

「……よし」

 

 身体を起こす。

 決めたのなら、やらなければならないことがある。

 行き先を決めて。

 街道を調べて。

 長旅に必要なものも用意する。

 ギルドで他の街の支部について聞いておいた方がいいし、鍛冶師さんの故郷についても、もう少し詳しく聞いておきたい。

 

 それから。

 

 この街を出る前に。

 僕自身の口から、ちゃんと話しておきたい人たちがいる。

 

◆

 

 一階へ降りると、角兎亭の食堂にはもう朝食の匂いが満ちていた。

 鍋の中では角兎肉と豆の煮込みが湯気を上げ、炙った野菜と黒パンが次々に卓へ運ばれている。

 まだ少し眠そうな宿泊客たちの声が混じる中、女将さんだけは朝から変わらず大きな身体を動かしていた。

 

「おはようございます」

「おう、おはよう。昨日は遅かったね」

 

 鍋を混ぜながら、女将さんがこちらを見る。

 

「ガルドさんと飲んでました」

「へぇ。二人でかい?」

「はい」

 

 少し意外そうに眉が上がる。

 

「宴じゃ何度も飲んでたけど、二人だけってのは珍しいじゃないか」

「そういえば、初めてでした」

 

「何だい。男同士で何か暑苦しい話でもしてきたのかい?」

「……否定しづらいですね」

 

 最後の方は。

 結構そんな感じだった気がする。

 女将さんが豪快に笑いながら、いつもの席へ朝食を置いた。

 

「ほら。たんと食べな」

「いただきます」

 

 席へ座り、煮込みを口へ運ぶ。

 温かい。

 味も。

 いつも通りだ。

 

 エルドランを出ると決めてから。

 何故か、こういう当たり前のものを少しずつ意識するようになった。

 この椅子も。

 朝の匂いも。

 女将さんが厨房から飛ばしてくる声も。

 別に、もう二度と見られなくなるわけじゃないのに。

 

「……女将さん」

 

「あいよ」

 

 黒パンを割りながら声を掛ける。

 女将さんは厨房の方を向いたまま返事をした。

 

「僕、旅に出ようと思っています」

 

 鍋を混ぜていた手が。

 一度だけ止まった。

 

 でも。

 それだけだった。

 

「……そうかい」

 

「はい」

 

 女将さんが火加減を見てから、ゆっくりこちらを振り返る。

 

「エルドランを出るのかい?」

「そのつもりです。まだ日にちは決めてないんですけど」

 

「行き先は?」

「それも、まだちゃんとは」

 

 今のところ一番気になっているのは、北西にある小人族の街だ。

 壊れた片刃剣を直せるかもしれない。

 けれど、それだけを目的に真っ直ぐ何週間も歩くのか。

 途中の街へ寄るのか。

 人間の記録を探すなら、どこを回るべきなのか。

 

 決めなければならないことは、まだいくらでもある。

 

「でも、かなり遠くまでは行くと思います」

「そうかい」

 

 女将さんは。

 またそれだけ言った。

 

「……止めないんですね」

 

 思わず聞くと。

 大きな眉が少し上がった。

 

「止めてほしいのかい?」

「いえ。そういうわけじゃないですけど」

 

「なら何で止めるんだい」

 

 当たり前みたいに言われる。

 

「ハンターなんだろ?」

「はい」

「だったら、一つの街にずっといる奴もいれば、気が向いたらどこへでも行く奴もいる。あんたがどっちになるかなんて、あたしが決めることじゃないよ」

 

 女将さんは布で手を拭きながら、僕の向かいへ立った。

 

「それに」

 

「はい?」

 

「あんた、ここへ来た時からそうだったじゃないか」

 

「……どういう意味です?」

 

「自分で決めたら、行く」

 

 短い言葉だった。

 でも。

 何となく、返事が遅れた。

 

「ハンターになるって決めた時もそうだったろ。怪我して帰ってきても、次の日にはまた依頼書見てたしねぇ」

「次の日はさすがに寝てたと思いますよ」

「細かいこと言うんじゃないよ」

 

 笑われる。

 

「行きたいんだろ?」

 

 聞かれる。

 もう。

 迷う必要はなかった。

 

「はい」

 

「なら行ってきな」

 

 女将さんが笑った。

 

「若い奴が見たいもんあるって言ってんのに、宿の女将が椅子に縛りつけるわけにもいかないからね」

「それは怖いですね」

「やろうと思えばできるよ」

「やめてください」

 

 普通にできそうなのが余計に怖い。

 

「でも、旅ってなると飯はちゃんと考えなきゃ駄目だよ」

「急にそこなんですね」

「当たり前だろ」

 

 僕の皿へ。

 頼んでもいない煮込みが追加される。

 

「山越えするなら、食える場所なんて限られる。街道だって毎日宿があるわけじゃないんだろ?」

「ガルドさんにも野宿は覚悟しろって言われました」

「なら、保存の利くもんも少し持ってきな。出る前に言えば、こっちで用意してやるよ」

「いいんですか?」

「それくらいするさ」

 

 女将さんが僕の前に立ったまま、少しだけ目を細める。

 

「最初にここへ来た時なんか、百ソル借りて宿に来た坊やだったのにねぇ」

「……その話、ガルドさんだけじゃないんですか」

「本人から聞いたからね」

 

「誰にでも言ってるな、あの人……」

 

 女将さんが声を上げて笑う。

 

「でも、あんたも変わったよ」

「そうですか?」

 

「変わったさ。飯の量も増えた」

「そこ?」

 

「ちゃんと帰ってくるようにもなった」

 

 口元の笑いはそのままだった。

 けれど。

 少しだけ声が柔らかくなる。

 

「最初の頃は、依頼へ行くたびに今日も帰ってくるかねぇって思ってたもんだよ」

「……そんなに心配されてたんですか」

「あんたがあんただからね」

 

 否定できない。

 

「今は?」

 

「今?」

 

「ちゃんと帰ってくると思います?」

 

 聞いてから。

 少しだけ変な質問だった気がした。

 でも。

 女将さんは笑わなかった。

 

「思うよ」

 

 迷わず言う。

 

「だから、旅にも送り出せるんだ」

 

「……」

 

「ただし」

 

 太い指が僕へ向く。

 

「出る日の朝も、ちゃんと食っていきな」

 

「はい」

 

「遠くまで行くんだろうが、腹減らして門を出るなんて許さないよ」

 

「分かりました」

 

「それから――」

 

 女将さんが。

 いつものように笑った。

 

「帰ったら、腹いっぱい食わせてやるよ」

 

 初めて依頼へ出た頃にも。

 似たようなことを言われた気がする。

 

 帰ったら。

 飯を食わせてやる。

 

 その言葉が。

 昔よりずっと嬉しく聞こえた。

 

「……はい」

 

「何だい。変な顔して」

「してませんよ」

「してるよ」

 

 女将さんは笑って、僕の頭を大きな手で一度だけ叩く。

 

「帰ってから礼は聞いてやる。今は食いな」

 

「はい」

 

 僕は。

 増えた煮込みへ匙を入れた。

 

◆

 

 フレイヴィアさんに話せたのは、その翌日の午後だった。

 水禍渡りの後始末はかなり落ち着いてきたけれど、彼女にはまだ上層区から呼び出しが掛かることがあるらしい。

 その日も昼過ぎまで話し合いがあると聞いていたので、中央区の広場で終わるのを待っていると、大通りの向こうから見慣れた黒髪が近づいてきた。

 

「主?」

 

 黄金の瞳が僕を捉える。

 長い黒髪を風に揺らしながら歩いてきたフレイヴィアさんは、僕の前で足を止めると少しだけ首を傾けた。

 

「どうした。立ち合いか?」

「違います」

「そうか」

 

 返事が。

 少しだけ残念そうだった。

 

「そんなに残念そうな顔しないでくださいよ」

「では次はいつやる?」

「前にやった時の痛み、まだ少し残ってるんですよ」

「もう十分に動けるであろう」

 

「そういう問題じゃないです」

 

 この人。

 本当にすぐ戦おうとする。

 

「今日は話があって来たんです」

 

「余に?」

 

「はい」

 

 人通りの邪魔にならない場所へ移る。

 近くには水禍渡りで傷んだ建物を直している職人たちがいて、金槌の音が一定の間隔で聞こえてきた。

 

「僕、旅に出ようと思っています」

 

 伝える。

 

 フレイヴィアさんは。

 ほんの少しだけ黄金の瞳を細めた。

 

「ほう」

 

「……それだけです?」

 

「何だ。驚いてほしかったのか?」

 

「いや、そうじゃないですけど……ガルドさんも似たような反応だったので」

 

 こっちは。

 それなりに大きなことを話しているつもりなのに。

 

「余は主が旅へ出ると知っていたわけではないぞ」

「そうなんです?」

「ああ。ただ、聞いても不思議ではないだけだ」

 

 フレイヴィアさんが腕を組む。

 背後で黒い尾がゆっくり動いた。

 

「ハンターとは元来そういうものだ。ひとところを拠点とする者もいれば、依頼を追って街から街へ渡る者もいる。世界を歩き、自らの技を磨く者もな」

 

「ガルドさんも、似たようなことを言ってました」

 

「当然だ。あやつも元より旅を知るハンターであろう」

 

 言いながら。

 フレイヴィアさんが少しだけ笑う。

 

「まして主は、見たことのないものを前にするとすぐ目を輝かせるからな」

 

「……フレイヴィアさんにも分かります?」

 

「何がだ?」

 

「いや。もういいです」

 

 資料館のおじいさん。

 ガルドさん。

 そしてフレイヴィアさん。

 

 もしかして。

 本当に僕だけが普通にしているつもりだったんだろうか。

 

「それで、何故行く?」

 

「世界を見たいんです」

 

 もう。

 この答えは自分の中に馴染んでいた。

 

「資料館で世界地図を見たんです。僕が知ってる場所なんて、本当に少ししかなくて」

 

「うむ」

 

「天使族の聖都も。竜族の街も。夜魔族の街も。小人族の山岳都市も……話を聞いてるうちに、自分でも見てみたくなりました」

 

 フレイヴィアさんは。

 何も挟まずに聞いている。

 

「それと、人間のことです」

 

「……」

 

「エルドランに残っている資料は、大体見ました。でも、分からないことばかりでした」

 

 弱い。

 魔力が少ない。

 特異性を持たない。

 そして。

 遠い昔に滅んだ。

 

 それ以上のことは。

 ほとんど何も分からない。

 

「他の街なら、何か違う記録が残ってるかもしれません。だから、探してみたいです」

 

「そうか」

 

「あと」

 

 少しだけ間を置く。

 

「片刃剣も、直したいです」

 

 黄金の瞳が。

 僕の腰へ落ちる。

 

 今差しているのは。

 彼女から貰った片刃剣じゃない。

 鍛冶屋で用意してもらった、僕には少し重い細身の両刃剣だ。

 

「……すみません」

 

「何を謝る」

 

「貰ったものなのに、壊してしまったので」

 

「主」

 

 フレイヴィアさんの声が。

 僅かに低くなる。

 

「余は、あの剣を何のために渡した?」

 

「……戦うためです」

 

「そうだ」

 

 返事は早かった。

 

「飾って眺めるためでも、傷一つつけずに後生大事に抱えるためでもない。主が戦うために渡した」

 

「はい」

 

「ならば、戦い抜いた末に壊れたことを何故謝る」

 

 言われて。

 少しだけ視線を落とす。

 

「……大事だったので」

 

「知っている」

 

 思わず。

 顔を上げた。

 

 フレイヴィアさんは。

 いつものように堂々と立っている。

 

「主が大事に使っていたことくらい、見れば分かる」

 

「……」

 

「ならば十分だ」

 

 黒い尾が、一度だけ地面近くを揺れる。

 

「武器は使えば傷む。いつかは壊れる。それでも、最後まで主の手にあり、主を生かして帰したのなら――良き武器であった」

 

「鍛冶屋さんにも似たようなこと言われました」

 

「ほう」

 

 少しだけ。

 満足そうに笑う。

 

「その者は分かっているな」

 

「ただ、その人には直せないらしいです」

 

 鍛冶屋での話をする。

 片刃剣そのものが珍しいこと。

 無理に直して壊れても責任を持てないと言われたこと。

 そして。

 その鍛冶師の故郷にいる変わり者たちなら、何か知っているかもしれないこと。

 

「普通に行くだけで何週間も掛かるみたいです」

 

「ならば行けばよい」

 

「軽いなぁ……」

 

「距離など歩けば縮む」

 

「フレイヴィアさんだから言えるんですよ、それ」

 

 竜族の身体で言われても。

 人間にはもう少し大きな問題だ。

 

「何週間だろうと何ヶ月だろうと、主が行きたいのであれば行けばいい。それだけだ」

 

「……はい」

 

「主」

 

 改めて呼ばれる。

 

 顔を上げる。

 黄金の瞳が、真っ直ぐ僕を見ていた。

 

「行くのであろう?」

 

「はい」

 

「ならば――己の脚で歩け」

 

 フレイヴィアさんが笑う。

 

「己の目で世界を見ろ」

 

 風が吹いて。

 長い黒髪が肩から流れる。

 

「話に聞くだけでは分からぬものなど、幾らでもある。街も。人も。モンスターも。強者も。余ですら見たことのない景色が、この世界にはまだ山ほどある」

 

「フレイヴィアさんでも?」

 

「当然だ」

 

 少し。

 意外だった。

 

 フレイヴィアさんは。

 何でも知っていて。

 どこへでも行けるような印象があったから。

 

「余が見た世界と、主が見る世界が同じであるとも限らぬ」

 

「……同じ場所でも?」

 

「ああ」

 

 フレイヴィアさんが少しだけ目を細める。

 

「主の目で見れば、主にしか見えぬものもあるだろう」

 

 何故か。

 その言葉が少し残った。

 

「だから、見てこい」

 

「はい」

 

「知りたいことがあるなら探せ。戦いたい相手がいるなら――」

 

 そこで。

 声が止まる。

 

「……フレイヴィアさん?」

 

「いや」

 

 何故か僕の顔を見ている。

 

「主の場合、それを言うと本当に探し始めそうだな」

 

「何の話ですか?」

 

「何でもない」

 

 絶対何かある。

 

「ただし。強者を見つけたからといって、片っ端から戦いを挑むなよ」

「僕、そんなことしませんよ」

 

「余には挑んだだろう」

「あれは立ち合いでしょう」

 

「余が誘えば、主は毎度嬉しそうに受けるではないか」

 

「……強くなれますから」

 

「そういうところだ」

 

 何故か笑われた。

 

「まあよい」

 

 フレイヴィアさんが腕を解く。

 

「主が旅から戻る頃には、また少し変わっているのだろうな」

 

「そうですかね」

 

「二年前の主が、今の自分を想像できたか?」

 

「……無理ですね」

 

 即答だった。

 

 ランク5になって。

 街を守る戦いに立って。

 自分が人間だと知って。

 その上。

 これから世界を見に行こうとしている。

 

 二年前。

 ガルドさんの荷台に乗っていた僕に言っても、絶対に信じない。

 

「ならば、次も同じだ」

 

 フレイヴィアさんが笑う。

 

「戻った時の主を楽しみにしておく」

 

「……はい」

 

「そして、帰ってきたら立ち合いだ」

 

「やっぱりやるんですか」

 

「当然だ」

 

「少しくらい休ませてくださいよ」

 

「旅でどれほど成長したか、早く確かめたいだろう?」

 

「フレイヴィアさんが、ですよね?」

 

「無論」

 

 隠す気もなかった。

 

「分かりましたよ」

 

 ため息をつく。

 でも。

 自然と少し笑ってしまった。

 

「帰ってきたら、お願いします」

 

「ああ」

 

 黄金の瞳が。

 嬉しそうに細くなる。

 

「楽しみに待っているぞ、主」

 

 帰ってきたら。

 また。

 この人に散々転がされるらしい。

 

 ……それも。

 悪くないと思った。

 

◆

 

 セラフィーンさんへ話したのは、さらに二日後だった。

 旅に出る前に身体を診てもらっておこうと思い、教会へ顔を出したついでに時間を作ってもらった。

 

「お待たせしました、ルキウスさん」

 

「いえ。突然来たのは僕ですから」

 

 いつもの個室。

 向かいへ座ったセラフィーンさんは、まず僕の話を聞くより先に身体の調子を確認した。

 水禍渡りの傷。

 フレイヴィアさんとの立ち合いのあとに残っていた打ち身。

 全部ほとんど治っている。

 普通の討伐依頼にも出たと話すと、白い翼が僅かに緩んだ。

 

「怪我は?」

「してません」

「本当に?」

「最近、皆さん最初にそれ聞きません?」

「理由に心当たりはありませんか?」

 

「……多少は」

 

 ある。

 かなりあるかもしれない。

 

「痛みも?」

「大丈夫です。前の討伐で重い剣を振ったから、腕が少し疲れたくらいで」

「その剣も、まだ完全には慣れていないんですよね?」

「はい。でも使えないほどじゃないです」

 

 何度か使えば。

 少しずつ慣れていくだろう。

 

 身体の話が一段落したところで。

 僕は椅子へ座り直す。

 

「セラフィーンさん」

 

「はい?」

 

「今日は、もう一つ話があるんです」

 

 白い翼が。

 僅かにこちらへ傾いた。

 

「僕、エルドランを出ようと思っています」

 

「……」

 

 セラフィーンさんの表情が。

 はっきり止まった。

 

「旅へ……ですか?」

 

「はい」

 

 少し驚いている。

 それでも。

 セラフィーンさんはすぐに表情を整えた。

 

「いつ頃に?」

 

「まだ決めてません。準備しながら、皆に話してるところです」

 

「そう、ですか」

 

 白い翼が。

 少しだけ身体へ近づく。

 

「理由を聞いてもいいでしょうか」

 

「もちろんです」

 

 僕は。

 ここ数日で何度か繰り返した話をする。

 

 世界を見てみたいこと。

 資料館で地図を見て、自分が知っている場所が本当に僅かだと知ったこと。

 

 そして。

 人間について。

 

「エルドランに残っている資料だけだと、やっぱりほとんど分からなくて」

 

「……はい」

 

「僕、人間なのに。人間のことを何も知らないんですよね」

 

 それは。

 話すたびに少し不思議な感覚になる。

 

「人間がどんなふうに生きてたのか。本当に弱かったからいなくなったのか。他の街に行けば、何か違う記録があるかもしれません」

 

「だから、自分で探しに?」

 

「はい」

 

 セラフィーンさんは。

 しばらく何も言わなかった。

 

 僕が人間だと。

 一番最初に知った人。

 

 あの日。

 教会の個室で。

 僕自身すら知らなかったことを教えてくれた。

 

「……寂しくなります」

 

 やがて。

 小さく言われた。

 

「すみません」

 

「謝らないでください」

 

 返事はすぐだった。

 

「寂しいことと、ルキウスさんを止めたいことは別です」

 

 白い翼がゆっくり開き。

 また背中へ戻る。

 

「私は――」

 

 少しだけ。

 言葉を選ぶように間があった。

 

「ルキウスさんが、自分のことを知りたいと思うのは当然だと思います」

 

「……はい」

 

「今まで、ずっと分からなかったんですものね」

 

 僕が。

 何者なのか。

 

 その答えを知ったと思ったら。

 今度はその人間という種族自体が、何も分からない。

 

「それに」

 

 セラフィーンさんが微笑む。

 

「世界を見たいというのも、とてもルキウスさんらしいと思います」

「……僕ってそんなに分かりやすいです?」

「最近は少し」

 

「まただ」

 

 思わず顔を覆いそうになる。

 

「皆さんそれ言うんですよ」

「皆さん?」

「ガルドさんにもフレイヴィアさんにも、外の話すると楽しそうだったって」

「それは……」

 

 セラフィーンさんが少しだけ目を逸らす。

 

「……セラフィーンさん?」

 

「私は何も言っていませんよ」

 

「その反応でもう分かります」

 

 やっぱり。

 僕だけだったらしい。

 

 白い翼が少し揺れて。

 セラフィーンさんが小さく笑った。

 

「でも」

 

 その笑みが。

 少しだけ寂しそうに見える。

 

「本当に、寂しくはなります」

 

「……僕も」

 

 口から出た。

 

「たぶん。寂しいと思います」

 

 旅へ出たい。

 知らない場所へ行きたい。

 

 でも。

 この街を離れることに何も思わないわけじゃない。

 

「エルドランに帰ってきたら、また会えるじゃないですか」

 

「はい」

 

「それに」

 

 セラフィーンさんの笑みが少しだけ戻る。

 

「私も、ずっとエルドランにいるわけではありませんから」

 

「そういえば、前にも言ってましたね」

 

「聖女として他の街へ赴くこともあります。もしかしたら――」

 

 白い翼が柔らかく動く。

 

「エルドランより先に、旅先で会うこともあるかもしれませんよ」

 

「それ、ちょっと楽しそうですね」

 

「でしょう?」

 

 その時のことを想像する。

 知らない街。

 歩いていたら。

 そこにセラフィーンさんがいる。

 

「声掛けますね」

 

「お願いします」

 

「僕の方が先に気づけばですけど」

「では、私からも探します」

 

「そんなに人混みの中から見つけられます?」

 

「ルキウスさんなら見つけられる気がします」

 

「何でです?」

 

「秘密です」

 

 少しだけ。

 悪戯っぽく笑う。

 

 こうして話していると。

 旅へ出ても。

 関係がなくなるわけじゃないんだと思える。

 

「ただ」

 

 セラフィーンさんの表情が。

 静かに変わった。

 

「外へ行くのであれば、今まで以上に気をつけてください」

 

「……人間のことですか」

 

「はい」

 

 僕が先に言うと。

 セラフィーンさんが頷いた。

 

「エルドランでは、ルキウスさん自身を知っている人が増えています」

 

 正体を知らなくても。

 僕を僕として知ってくれている人がいる。

 

「でも、外では違います。もし人間だと知られた時に、相手がどんな反応をするか分かりません」

 

「オルディアさんにも言われました」

 

「誰に話すか。どこまで話すか。必ず考えてください」

 

「はい」

 

「それから、危険を感じたら離れてください」

「はい」

「怪我をしたら近くの教会へ」

「はい」

「治療が必要かどうかをご自身だけで判断しないでください」

「……はい」

 

 また増えてきた。

 

「それから――」

 

「まだあります?」

 

「あります」

 

「即答……」

 

 少し困って笑うと。

 セラフィーンさんも笑った。

 

「無茶をしないでください」

 

「それは……努力します」

 

「努力ではなく」

 

「……気をつけます」

 

「はい」

 

 満足そうに頷く。

 

「約束できますか?」

 

 聞かれる。

 僕は。

 少しだけ考えてから頷いた。

 

「無茶を絶対しないとは言えませんけど」

 

「ルキウスさん」

 

「でも」

 

 言葉を続ける。

 

「ちゃんと帰ってきます」

 

 セラフィーンさんの声が止まった。

 

「だから、帰ってくるために気をつけます」

 

「……」

 

 少しの間。

 白い翼が静かに揺れる。

 

「それなら」

 

 やがて。

 柔らかく笑った。

 

「信じます」

 

「はい」

 

「また会いましょう、ルキウスさん」

 

 まだ。

 出発の日でもないのに。

 

 その言葉を聞くと。

 少しだけ、本当に旅立ちが近づいた気がした。

 

「はい。セラフィーンさん」

 

 僕も笑う。

 

「また会いましょう」

 

◆

 

 そうして旅の準備を進めながら、数日が過ぎた。

 行き先についてギルドで相談し。

 街道の地図を何枚か見せてもらい。

 鍛冶屋へもう一度顔を出して、小人族の街について詳しく聞く。

 

 その間にも。

 女将さん。

 フレイヴィアさん。

 セラフィーンさん。

 

 少しずつ。

 僕が旅へ出ることを知っている人が増えていった。

 

 当然というべきか。

 その結果。

 

「おう、ルキウス! 旅に出るんだって?」

 

「……誰から聞きました?」

 

 朝。

 角兎亭を出たところで。

 向かいの店から声を掛けられた。

 

「誰って……知らねえな!」

「知らないのに僕へ聞いたんです?」

「まあいいじゃねえか。気ぃつけて行けよ!」

 

「まだ出発日も決まってませんよ」

 

 笑いながら手を振られる。

 

 市場を通れば。

 

「英雄様、今度は世界を救いに行くのか?」

 

「やめてくださいよ。普通の旅です!」

 

「帰ってきたら土産な!」

 

「何で僕が買う前提なんです?」

 

 笑われる。

 

 ギルドへ近づけば。

 今度は顔見知りのハンターから肩を叩かれた。

 

「聞いたぞルキウス。他所の支部回るんだって?」

「……何で僕より詳しいんです?」

「噂じゃそんなもんだろ」

 

 どうやら。

 僕が一人ずつ話している間に。

 

 ――ルキウスが旅へ出るらしい。

 

 そんな話が。

 僕より先にエルドランを走り回っていた。

 

 別に。

 隠すつもりはなかった。

 

 でも。

 

「……これ」

 

 一つだけ。

 かなりまずいことに気づく。

 

 まだ。

 僕自身から話していない人がいる。

 

◆

 

「おや、坊や」

 

「こんにちは」

 

 オルディアさんの家を訪れたのは、さらにその翌日だった。

 中へ通されると、オルディアさんはいつもの椅子に腰掛けたまま僕を迎えてくれた。

 

「旅へ出るそうじゃないか」

 

「……もう知ってるんですね」

 

「街中で話題になっているよ」

 

「何でこんなに広がってるんだろう……」

 

 思わず肩が落ちる。

 オルディアさんが楽しそうに笑った。

 

「皆、坊やのことが気になるんだろうさ」

「まだ出発日も決めてないんですけど」

「だから好き勝手に話せるんじゃないか」

 

「なるほど」

 

 ……納得はしたくないけれど。

 

「でも、僕からちゃんと話したかったので」

 

「ああ」

 

 向かいへ座る。

 改めて。

 自分の口から話す。

 

「僕、エルドランを出ようと思っています」

 

「そうかい」

 

「はい」

 

「理由は?」

 

 聞かれて。

 僕は一つずつ話した。

 

 世界を見たいこと。

 人間について知りたいこと。

 壊れた片刃剣を直せる人を探したいこと。

 

 そのどれも。

 今は同じくらい大事だった。

 

「ずいぶんと欲張りな旅になりそうだねぇ」

 

「ガルドさんにも同じこと言われました」

 

「いいじゃないか。若いうちは、それくらい欲張りな方がいい」

 

 オルディアさんが柔らかく笑う。

 

「ましてや――人間の生は短い」

 

「……短い?」

 

 思わず聞き返した。

 

「ああ。他の種族と比べればね」

 

「……」

 

 今まで。

 考えたことがなかった。

 

 僕が何歳まで生きるのか。

 

「人間って、そんなに短いんですか?」

 

「そうだねぇ」

 

 オルディアさんが少しだけ目を細める。

 

「私たちと比べれば、驚くほど」

 

「……」

 

 何となく。

 自分の手を見る。

 

 十九歳。

 

 今まで。

 その数字を若いかどうかなんて考えたこともなかった。

 

「でもね、坊や」

 

 オルディアさんの声で顔を上げる。

 

「人生というものは、長ければ長いほど良いというものでもないよ」

 

「……オルディアさんが言うと、すごいですね」

 

「ふふ」

 

 オルディアさんが笑う。

 

「そうかもしれないねぇ」

 

 この街が始まった頃からいるとも言われる人だ。

 僕が想像もできないくらい長く生きている。

 

「長く生きれば、たくさんのものを見ることはできる」

 

 皺の刻まれた手が。

 ゆっくり膝の上で重なる。

 

「たくさんの人と出会う。街が変わる。国が変わる。生まれるものもあれば、なくなるものもある」

 

「はい」

 

「それはそれで、悪くない」

 

 オルディアさんが。

 少しだけ遠くを見る。

 

「だけど、長かったから良い人生だったとは限らない」

 

「……」

 

「大事なのはね」

 

 視線が。

 僕へ戻る。

 

「最後に、自分で納得できるかどうかだよ」

 

「納得……」

 

「ああ」

 

 その言葉を。

 口の中で一度繰り返す。

 

「昔、この街へ来たあの人も似たようなことを言っていた」

 

「……人間の人ですか?」

 

「そう」

 

 オルディアさんの口元に。

 静かな笑みが浮かぶ。

 

「私がね。人の生は短すぎる、と言ったことがあった」

 

 どういう時に。

 どういう顔で言ったのか。

 

 それは。

 聞かない。

 

「そうしたら、あの人は笑ったよ」

 

「何て?」

 

「長ければいいってものじゃない、と」

 

 オルディアさんの目が。

 ほんの少しだけ昔へ向く。

 

「最後に振り返った時、自分で『悪くなかった』と思えればそれでいい。何年生きたかより、そっちの方が大事だ――そう言っていた」

 

「……悪くなかった」

 

「ああ」

 

「何というか」

 

 少しだけ。

 笑ってしまった。

 

「普通の言い方ですね」

 

「そうだろう?」

 

 オルディアさんも笑う。

 

「大層なことを言う男ではなかったからねぇ」

 

 それだけ聞くと。

 何故か少しだけ。

 遠い昔にいた人間が、今までより近く感じた。

 

「……僕も」

 

 自分の手を見る。

 

「最後に、そう思えるんですかね」

 

「さあ?」

 

 返事は。

 驚くほど軽かった。

 

「分からないんですか」

 

「分かるわけがないだろう」

 

 オルディアさんが楽しそうに笑う。

 

「坊やの人生だよ。私が答えを知っていたら、それこそつまらないじゃないか」

 

「……確かに」

 

「旅へ出て後悔するかもしれない」

 

「はい」

 

「出なかったことを後悔するかもしれない」

 

「……はい」

 

「人間のことを何も見つけられないかもしれない。思っていたのとは違う答えを見つけるかもしれない」

 

 どれも。

 あり得る。

 

「だから、自分で決めるしかないんだよ」

 

 オルディアさんが。

 穏やかに笑う。

 

「坊やが最後に振り返った時、自分で納得できるように」

 

「……」

 

 世界を見たい。

 

 人間について知りたい。

 

 それだけで。

 旅へ出ていいんだろうかと。

 ほんの少しだけ思っていた。

 

 でも。

 

「なら」

 

 口を開く。

 

「行ってみたいです」

 

「ああ」

 

「行かないで後悔するより。僕は、自分で見たい」

 

「そうかい」

 

 オルディアさんの目が。

 優しく細くなる。

 

「なら、行っておいで」

 

「はい」

 

「見たいものを見なさい。知りたいものを探しなさい」

 

「はい」

 

「そして」

 

 少しだけ。

 間を置いて。

 

「疲れたら帰っておいで」

 

「……」

 

 まただ。

 

 女将さんも。

 フレイヴィアさんも。

 セラフィーンさんも。

 ガルドさんも。

 

 皆。

 帰ってくる話をする。

 

「僕、帰ってきてもいいんですね」

 

 思わず言うと。

 

 オルディアさんが。

 少し呆れたように笑った。

 

「坊や」

 

「はい?」

 

「誰が帰ってくるなと言ったんだい」

 

「……誰も」

 

「なら、帰ってくればいい」

 

 簡単に。

 言われる。

 

「エルドランは、坊やが少し旅へ出たくらいで逃げたりしないよ」

 

「……はい」

 

 胸の奥が。

 少しだけ温かくなる。

 

「帰ってきます」

 

「ああ」

 

 オルディアさんが笑う。

 

「楽しみにしているよ」

 

◆

 

 オルディアさんの家を出て。

 僕はそのままハンターギルドへ向かった。

 

 もう。

 残っているのは一人しかいない。

 

 正確には。

 一番最初から話さなければいけないと思っていたのに。

 何となく。

 一番最後まで残ってしまった人。

 

 アルナさん。

 

 ……噂は。

 当然。

 もう聞いているはずだ。

 

 ギルドの扉を開く。

 

 夕方前。

 依頼から戻ってきたハンターが増え始める時間で、受付には何人か列ができていた。

 

 その向こう。

 見慣れた猫耳がある。

 

 書類を受け取り。

 討伐証明を確認し。

 いつものように丁寧に対応している。

 

 僕は列の途切れるのを待って。

 受付へ近づいた。

 

「アルナさん」

 

 猫耳が。

 

 ――ぴくりと動いた。

 

 聞こえている。

 

 なのに。

 顔が上がらない。

 

「次の方、どうぞ!」

 

「……」

 

 僕の後ろを見る。

 

 一人。

 ちょうど受付へ来ようとしていたハンターがいる。

 

「あ、俺?」

 

「はい! どうぞ!」

 

「は、はい」

 

 ハンターが。

 何故か僕へ申し訳なさそうな顔をして横を通る。

 

 仕方なく待った。

 

 依頼報告が終わる。

 報酬が渡される。

 ハンターが離れる。

 

「アルナさん」

 

「すみません、ルキウスさん」

 

 今度は。

 顔だけこちらへ向いた。

 

「少し立て込んでいまして」

 

「待ちますよ」

 

「いえ、その……次の方が!」

 

 また後ろを見る。

 

「……いませんけど」

 

「これから来ます!」

 

「そういうものなんです?」

 

「受付ですから!」

 

 何の説明にもなっていない。

 

「じゃあ、仕事が終わってからでいいです」

 

「本日の業務はここまでなので!」

 

「……今、立て込んでるって言いませんでした?」

 

「……」

 

 猫耳が。

 ぴんと立った。

 

 僕と。

 アルナさん。

 

 少しだけ見つめ合う。

 

「と、とにかく!」

 

 書類を抱える。

 

「今日は無理です!」

 

「あ、アルナさん」

 

「失礼します!」

 

 逃げるように。

 奥へ消えた。

 

「……」

 

 取り残された。

 

 何だ、今の。

 

「ルキウス」

 

 横から声がする。

 別の受付台にいた職員が。

 何とも言えない顔でこちらを見ていた。

 

「何です?」

「……頑張れ」

「何を?」

 

「頑張れ」

 

 何故か。

 二回言われた。

 

◆

 

 翌日。

 

「アルナさん」

 

「あっ、ルキウスさん! ちょうどよかったです!」

 

「はい?」

 

「私、今から資料室へ行かなければなりませんので!」

 

 書類の束を抱える。

 

「じゃあ僕も行きますよ。その途中で」

「いえ! 一人で大丈夫です!」

 

「話すだけですよ?」

 

「資料室は静かにするところですので!」

 

「……会話禁止なんです?」

 

「禁止です!」

 

 そんな決まり。

 聞いたことない。

 

「では!」

 

「あ」

 

 行ってしまった。

 

◆

 

 さらに翌日。

 

「アルナさん」

 

「あっ、すみません!」

 

 呼んだ瞬間。

 猫耳が跳ねる。

 

「あちらのハンターさんに呼ばれてますので!」

 

 指を差される。

 

 見る。

 

 少し離れた卓で。

 一人のハンターが飲み物を飲んでいた。

 

「呼んでないみたいですよ」

 

「今から呼ばれます!」

 

「未来が見えるんですか?」

 

「受付ですから!」

 

「受付ってすごいですね」

 

「すごいんです!」

 

 そのまま逃げた。

 

「……」

 

 ここまで来れば。

 さすがに分かる。

 

 避けられている。

 

 アルナさんは。

 僕が何を話そうとしているのか知っている。

 

 旅の噂は。

 街中に広がっている。

 

 聞いていないはずがない。

 

 だから。

 僕が声を掛けるたび。

 あの手この手で逃げている。

 

 ……困った。

 

 嫌がっているなら。

 無理に話すのも違う気がする。

 

 でも。

 

 このまま。

 噂だけ聞かせて。

 僕自身から何も言わずに出ていくなんて。

 それはもっと違う。

 

 アルナさんには。

 ちゃんと僕から言いたい。

 

◆

 

 その日の夕方。

 僕はハンターギルドの入口近くで、仕事を終える時間を待っていた。

 受付へ行くたびに逃げられるのなら、もうアルナさんが外へ出てくるところを待つしかない。

 ……やっていることだけ聞けば、少し嫌な感じがするけれど。

 別に後をつけるわけでもないし、話をしたいだけなのだから、たぶん大丈夫だと思いたい。

 

「ルキウス、お前何してんだ?」

 

 壁際に立っていると、通りがかったハンターから声を掛けられた。

 

「人を待ってます」

「誰?」

「アルナさんです」

「……ああ」

 

 僕の答えを聞いた途端、何故か全部分かったみたいな顔をされた。

 

「何です、その顔」

「いや。頑張れよ」

「最近そればっかり言われるんですけど」

「そうか。じゃあ、なおさら頑張れ」

 

 肩を軽く叩かれ、そのまま笑いながら去っていく。

 ……何を頑張ればいいのかくらい、教えてくれてもいいと思う。

 

 それからも入口近くで待っていると、依頼受付の時間が終わり、ギルドを出入りするハンターの数も少しずつ減っていった。

 窓から差し込んでいた光も赤みを増し、職員たちが受付台の書類を片付け始める。

 

 そろそろだろうか。

 

 そう思って扉の方へ目を向けたところで――少しだけ、隙間が開いた。

 

「……」

 

 その向こうから。

 猫耳が覗いている。

 

「……アルナさん?」

 

「……」

 

 呼ぶより先に目が合った。

 次の瞬間、開きかけていた扉が何事もなかったみたいにゆっくり閉まり始める。

 

「あっ、待ってください!」

 

 慌てて駆け寄り、閉じる寸前の扉へ手を掛けた。

 

「すみません、ルキウスさん。本日の業務は終了しましたので!」

「知ってます! だから終わるまで待ってたんですよ!」

「私はこのあと用事があります!」

「どこにです?」

「……用事があるところです!」

「だから、その場所を聞いてるんですけど!」

 

 扉を押し開こうとすると、向こう側からすぐに押し返された。

 僕も両手を使って何とか支えるけれど、少しずつこちらへ扉が戻ってくる。

 

「っ……強い……」

 

 別に本気で閉められているわけでもないはずなのに、普通に負けそうだ。

 人間と獣人族の力の差を、こんなところで実感したくなかった。

 

「アルナさん、ちょっと待ってくださいって!」

「待ちません!」

「少し話すだけですから!」

「今日はもう仕事が終わりました!」

「仕事の話じゃないですよ!」

「でしたら、なおさら今日は無理です!」

 

 声はいつも通り丁寧なのに、何としても僕から逃げようとしているのは嫌というほど伝わってくる。

 扉の隙間から見える猫耳もずっと伏せ気味で、僕が少し押すたびにぴくぴくと落ち着かなそうに動いていた。

 

「アルナさん!」

 

「駄目です!」

 

「まだ何も言ってないですよ!」

 

「……言わなくていいです!」

 

 その声だけ。

 今までとは違った。

 

 強く言ったはずなのに。

 最後が僅かに震えている。

 

 僕の手から力が抜けた。

 向こうから扉を押していた力も止まり、狭い隙間を挟んだまま、しばらくどちらも動かなくなる。

 

 ……やっぱり。

 知ってるんだ。

 

 僕が何を話そうとしているのか。

 街中にあれだけ噂が広がっているのだから、知らないはずがない。

 

 それでも。

 アルナさんは聞きたくないから、ずっと僕から逃げていた。

 

「……アルナさん」

 

 さっきまでより声を落として呼ぶ。

 少しだけ見えている猫耳が、ゆっくりと下がった。

 

「僕、ちゃんとアルナさんに話したいです」

 

「……」

 

「噂で聞いただけのままにしたくないんです」

 

 返事はない。

 でも。

 扉は閉まらない。

 

「僕が決めたことだから」

 

 一度だけ息を吐き、扉の向こうへ目を向ける。

 顔はほとんど見えない。

 それでも。

 アルナさんがそこにいることだけは分かる。

 

「アルナさんには、僕から話したいです」

 

 今度は。

 しばらく何も返ってこなかった。

 

 扉越しの沈黙が長くなる。

 無理に開けることもできるかもしれないけれど、そうする気にはなれなかった。

 僕はただ手を添えたまま、アルナさんが何か言うのを待つ。

 

「……」

 

 やがて。

 向こうで小さく息を吸う音がした。

 

 扉が。

 ほんの少しだけ開く。

 

 その隙間から見えたアルナさんの顔を見て、言葉が止まった。

 

 猫耳はすっかり伏せられていた。

 唇をきつく結び、今にも泣きそうなのに泣かないよう堪えているみたいな顔で、僕を見ている。

 聞きたくない。

 そう言っているのは、表情を見れば十分すぎるほど分かった。

 

 それでも。

 

 僕が真剣に頼んだから。

 もう、逃げ続けることができないから。

 

 アルナさんは少し俯いて。

 何度か何かを言おうとして。

 結局、全部飲み込むように唇を閉じた。

 

 そして。

 

「……はい」

 

 本当に小さな声で。

 それだけを呟いた。

 

「……」

 

 胸の奥が。

 少しだけ重くなる。

 

 僕はただ話をしようとしているだけなのに。

 どうしてそんな顔をするんだろう。

 

 それが分からなくて。

 でも。

 何となく聞くのが怖かった。

 

「ありがとうございます」

 

 そう返すと。

 アルナさんは僅かに視線を落とし、扉から手を離した。

 

 ゆっくり開いたその向こうで。

 いつも僕を見る時に浮かべていた笑顔は、どこにもなかった。

 

 ようやく。

 話せる。

 

 そう思ったはずなのに。

 

 この数日。

 アルナさんが僕から逃げ続けていた理由を。

 

 僕は初めて。

 少しだけ怖いと思った。

 

 ◆

 

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