駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第四章 第十五話『少女は少年を引き止める』

 

 ◆

 

 ギルドを出たあと、僕とアルナさんはほとんど会話をしないまま中央区の通りを歩いていた。

 仕事を終えた人たちが行き交う時間で、道の両側では店仕舞いを始める声や、これから酒場へ向かうハンターたちの笑い声が聞こえてくる。

 普段なら僕たちも、その中で今日の依頼がどうだったとか、また怪我をしていないかとか、角兎亭の夕食は何だろうとか――そんな何でもない話をしていたはずだった。

 

 ……けれど、今日は何を話せばいいのか分からない。

 

 少し前を歩くアルナさんの猫耳は、ギルドを出た時からずっと伏せられたままだった。

 こちらを振り返ることもなく、普段より僅かに速い足取りで歩いていく。

 僕が追いつこうとするとほんの少しだけ距離を取るのに、本気で置いていこうとしているわけでもないらしく、それ以上離れることはなかった。

 

 ここ数日ずっと僕から逃げていたことを考えれば、話したくないのだろうということくらいは分かる。

 それでも、噂だけを聞かせたまま何も言わずに旅へ出るなんてできなかった。

 

「アルナさん」

「……はい」

 

 返事はあった。

 ただ、猫耳が僅かに動いただけで、顔はこちらへ向かない。

 

「どこまで行きます?」

「……少し、静かなところまで」

「分かりました」

 

 それ以上は聞かずについていく。

 中央区の大通りを外れ、人通りの少ない道へ入ると、周囲の喧騒も少しずつ遠ざかっていった。

 水禍渡りで壊れた建物の修復もこの辺りではかなり進み、以前は道端へ積まれていた資材も随分と減っている。

 

 さらに少し歩いた先に、小さな広場があった。

 何本かの木と古い石造りの噴水があるだけの場所で、夕方だからか他に人はいない。

 アルナさんは噴水から少し離れたところで足を止め、それからようやくこちらへ身体を向けた。

 

「……ここで」

「はい」

 

 僕も足を止める。

 向かい合って初めてまともに見えたアルナさんの顔は、さっきギルドの扉越しに見た時とほとんど変わっていなかった。

 猫耳は伏せられ、視線は少し下を向いている。

 両手は制服の裾を握っていて、指先だけが落ち着かないように何度も布を摘まんでいた。

 

「……」

「……」

 

 何から話そうかと一瞬考える。

 でも、遠回しにしたところで意味はない。

 僕はこれを伝えるために、何日も逃げられながらアルナさんを追いかけたのだから。

 

「アルナさん」

「……はい」

 

 一度だけ息を吸う。

 

「僕、エルドランを出ようと思っています」

「……い、いやです」

 

 返事は、ほとんど重なるくらい早かった。

 

「……え?」

 

 思わず聞き返す。

 アルナさん自身も、自分が何を口にしたのか一瞬遅れて気づいたみたいに目を見開いていた。

 けれど、取り消すことも、言い直すこともしない。

 握っていた制服の裾へさらに力を込め、そのまま小さく首を横へ振った。

 

「嫌です」

 

 今度は。

 さっきよりもはっきり聞こえた。

 

「アルナさん……?」

「駄目です」

 

 俯いていた顔が上がる。

 目の奥に浮かんでいるものを見て、僕は続けようとしていた言葉を止めた。

 

「行かないでください」

 

 いつものアルナさんなら、たぶん最初に理由を聞いたと思う。

 どこへ行くのか。

 何のためなのか。

 どれくらいの期間を考えているのか。

 それを聞いたうえで、危険だとか無茶だとか、きっと僕を叱ったはずだ。

 

 ……でも、今は違った。

 何も聞かないまま、ただ「嫌だ」と言った。

 

 止められる可能性を考えていなかったわけではない。

 女将さんも、フレイヴィアさんも、セラフィーンさんも、オルディアさんも、皆があまりにも自然に送り出してくれたから、僕の方がそれに慣れてしまっていただけなのかもしれない。

 

 それでも。

 アルナさんの反応は、僕が想像していた心配とは少し違って見えた。

 

「……理由、聞かないんですか?」

「聞きたくありません」

 

 すぐに返ってきた言葉に、また少し驚く。

 

「聞いたら……行く理由があるって、分かってしまいますから」

「もう、理由はありますよ」

「……知ってます」

 

 今度は声が僅かに震えた。

 

「知ってますよ」

 

 伏せられた猫耳が、さらに下がる。

 

「人間のことを調べたいんですよね」

「……はい」

「世界を見てみたいんですよね」

「はい」

「片刃剣だって、直せる人を探したい」

「……そこまで知ってたんですね」

「噂になっていますから」

 

 少しだけ。

 責められているように聞こえた。

 

「ギルドでも皆さん話していました。ルキウスさんが他の街のことを聞いているとか、街道の地図を見ているとか、旅に必要なものを調べているとか……」

 

「すみません」

「謝らないでください」

 

 すぐに否定される。

 アルナさんは何かを言おうとして口を開き、それでも一度言葉に詰まった。

 猫耳だけが小さく震え、視線が僕の顔から外れる。

 

「違うんです。そうじゃなくて……」

 

 しばらく迷ったあと。

 ようやく絞り出したように続けた。

 

「……エルドランでも、ハンターはできます」

「はい」

「依頼だって、たくさんあります。ルキウスさんはもうランク5なんですから、以前より受けられる依頼だってずっと増えています」

 

「そうですね」

「だったら、ここでいいじゃないですか」

 

 少しずつ。

 声が早くなっていく。

 

「人間のことだって、ここで調べればいいです。資料館にないなら、オルディアさんにお願いして、他の街から資料を取り寄せてもらうことだってできるかもしれません」

「できるかは分かりませんよ」

「聞いてみればいいです!」

 

 強い声が返ってくる。

 

「私も探します。ギルドに来る旅人にも聞きますし、商人の方にも尋ねます。他の街へ向かうハンターがいるなら、向こうの資料館で調べてもらえるよう頼むことだってできます」

 

「アルナさん」

「片刃剣だって――」

 

 僕の腰へ視線が落ちる。

 今差している細身の両刃剣を見て、一瞬だけ表情が曇った。

 

「わざわざルキウスさん本人が行く必要はありません」

「それは……」

「信頼できる商人を探せばいいです。小人族の街まで行く人だっているでしょうし、向こうで直せる人が見つかったら、その人に預けて――」

 

「アルナさん」

 

 名前を呼ぶと。

 ようやく言葉が止まった。

 

 僕が何か理由を口にするたびに、アルナさんはすぐ別の方法を探している。

 人間の資料も。

 片刃剣も。

 僕がエルドランから出なくても済むように、一つずつ代わりの方法を並べている。

 

 たぶん。

 本人も分かっているはずだ。

 

 全部が本当の理由じゃないことくらい。

 

「世界を見たいっていうのは?」

 

「……」

 

 やっぱり。

 そこでは答えが止まった。

 

「僕自身が見てみたいんです」

 

 アルナさんの指が、制服の裾を強く握る。

 

「資料館で地図を見て、ガルドさんから色んな街の話を聞きました。僕が知ってる場所って、本当に少ししかなかったんです」

 

 小人族の山岳都市。

 天使族の聖都。

 夜魔族の街。

 大河沿いの土地。

 古い遺跡。

 

 聞いただけの景色を。

 自分の目で見たい。

 

「人間のこともそうです。誰かに資料を探してもらうだけじゃなくて、自分で行って、自分で見て、自分で調べたいんです」

 

「……どうしてですか」

 

「え?」

 

「どうして、ルキウスさんが行かないといけないんですか」

 

 顔が上がる。

 

「知りたいだけなら、ここでもできます。時間が掛かっても、少しずつ探せます」

「でも――」

「世界なんて、全部見なくても生きていけます」

 

 思わず。

 返事が止まった。

 

 アルナさんも、自分が何を言ったのか分かったらしい。

 猫耳が僅かに震え、視線がすぐに下へ落ちた。

 

「……すみません」

「いえ」

「違うんです。そういうことを言いたいんじゃなくて……」

 

 一度唇を結び。

 小さく息を吸う。

 

「ただ……危ないじゃないですか」

 

 ようやく出てきた言葉は。

 これまで何度もアルナさんから聞いたものだった。

 

「エルドランの外なんて、何があるか分からないんですよ」

「それは分かってます」

「分かってません」

 

 珍しく。

 はっきりと否定された。

 

「ルキウスさんは分かってません」

 

 その声に押されて。

 僕は何も挟めなくなる。

 

「旅の途中でモンスターに襲われるかもしれません。盗賊だっているでしょうし、悪い人だっています。ルキウスさんが人間だと知られたら、オルディアさんが言っていたような人に目をつけられるかもしれません」

 

「……はい」

「でも、エルドランなら皆がいます」

 

 胸元で両手が握られる。

 

「ガルドさんがいて、フレイヴィアさんがいて、セラフィーンさんがいて、ギルドだってあります。何かあれば助けられますし、私だって――」

 

 そこで。

 言葉が切れた。

 

「……私だって」

 

 その先が続かない。

 

「アルナさんも、いてくれます」

 

 僕が言うと。

 猫耳が小さく揺れた。

 

「……だからです」

 

「え?」

 

「だから……」

 

 アルナさんが顔を上げる。

 目が少し潤んでいた。

 

「ここにいればいいじゃないですか」

 

 今度の声は。

 さっきよりずっと弱かった。

 

「エルドランにいれば、私がいます」

「……はい」

「依頼へ行くなら、どこへ行くのか分かります。帰ってくる予定だって分かります。危ない依頼なら止められますし、怪我して帰ってきたら教会へ行ってくださいって言えます」

 

 いつものアルナさんなら。

 ここで少し怒ったような顔をして、僕がどれだけ心配を掛けているのかと続けただろう。

 

 でも。

 今は笑わない。

 

「私は……ずっと怖かったんです」

 

 その言葉に。

 僕も何も言えなくなった。

 

「ルキウスさんが依頼へ行くたびに」

 

「……」

 

「最初の頃なんて、毎回でした」

 

 僕がまだランク1だった頃。

 初めての討伐で怪我をして。

 教会へ運ばれて。

 それからも何度か、無茶をして帰ってきた。

 

「今日はちゃんと帰ってくるかなって。怪我してないかなって。また何か無茶してないかなって……ずっと思ってました」

 

 伏せられた猫耳が動かない。

 

「でも、最近は」

 

 一度。

 言葉を飲み込むように息が止まる。

 

「少しだけ、安心できるようになってたんです」

 

「安心?」

 

「ルキウスさん、ちゃんと帰ってくるようになりましたから」

 

 その言葉は。

 少し前、女将さんにも言われた。

 

「強くなって。周りの方と一緒に戦うようになって。水禍渡りだって……あんなことがあったのに、ちゃんと帰ってきて」

 

「はい」

 

「だから」

 

 アルナさんが僅かに俯く。

 

「エルドランにいるなら、大丈夫かもしれないって思えるようになってたんです」

 

 ……そうか。

 

 僕にとっては。

 外へ行くことと、依頼へ出ることはどこか似ている気がしていた。

 

 知らない場所へ行って。

 危険があって。

 終われば帰ってくる。

 

 でも。

 アルナさんにとっては違う。

 

 今までなら。

 僕がどこへ行ったのか分かった。

 いつ頃戻るのかも。

 何かあればギルドに情報が入る。

 

 旅へ出たら。

 それすら分からなくなる。

 

「どれくらい行くんですか?」

 

 不意に聞かれた。

 

「……分かりません」

 

 嘘はつけなかった。

 

「最初の目的地も、まだ完全には決めてないですから」

「一ヶ月?」

「それより長いと思います」

「半年?」

「……分かりません」

「一年?」

 

「アルナさん」

 

 呼ぶ。

 でも。

 彼女は止まらなかった。

 

「じゃあ、いつ帰ってくるんですか?」

 

 返事をしようとして。

 息が一度喉につかえた。

 

 帰ってくる。

 

 そのつもりだ。

 ガルドさんにも。

 女将さんにも。

 フレイヴィアさんにも。

 セラフィーンさんにも。

 オルディアさんにも、そう言った。

 

 でも。

 

 何月何日に帰るなんて。

 今の僕には言えない。

 

「……分かりません」

 

 正直に答える。

 

「……そう、ですよね」

 

 アルナさんが笑おうとした。

 けれど。

 口元はほんの少し動いただけで、笑顔にはならなかった。

 

「分からないんですよね」

「はい」

「どこまで行くのかも」

「はい」

「いつ帰ってくるのかも」

 

「……はい」

 

 一つ答えるたび。

 アルナさんの顔が曇っていく。

 

「だったら」

 

 僕を見る。

 

「やっぱり、駄目です」

「……」

「行かないでください」

 

 最初と同じ言葉なのに。

 今度はずっと弱く聞こえた。

 

「お願いします」

 

 猫耳を伏せたまま。

 少しだけ頭が下がる。

 

「ルキウスさん。エルドランにいてください」

 

 すぐには。

 返事ができなかった。

 

 僕だって。

 この街が好きだ。

 

 角兎亭で朝食を食べて。

 ギルドへ行って。

 依頼を受けて。

 帰ればアルナさんに報告をして。

 

 時々フレイヴィアさんと立ち合って。

 教会へ行けばセラフィーンさんがいて。

 ガルドさんと依頼へ出たり、酒を飲んだりする。

 

 そんな毎日を続けても。

 きっと楽しい。

 

 目の前にいるアルナさんが望んでいるのも、たぶんそういう日々なんだと思う。

 

 それでも。

 資料館で見た地図が頭から離れなかった。

 

 僕の知らない街がある。

 僕の知らない人がいる。

 人間について、まだ知らないことがあるかもしれない。

 

 それを知ってしまったのに。

 ここへ残ることを選んだ自分を。

 

 たぶん。

 僕はずっと気にする。

 

「……ごめんなさい」

 

 口にすると。

 アルナさんの肩が僅かに揺れた。

 

「僕、行きたいです」

「……」

「エルドランが嫌だからじゃありません」

「分かってます」

 

 返事は。

 すぐだった。

 

「そんなこと、分かってます」

 

 その言い方の方が。

 かえって苦しかった。

 

「僕、ここが好きです」

「はい」

「帰ってきたいと思ってます」

「……はい」

「でも、ここしか知らないままではいたくないんです」

 

 僕を見る目が。

 僅かに揺れる。

 

「人間のことも知りたい。世界も見てみたい。自分で歩いて、自分で見て……それで、またここへ帰ってきたいです」

 

「……」

 

「帰ってきたい場所があるから、行けるんだと思います」

 

 ガルドさんへ話した時は。

 それでいいと思えた。

 

 エルドランは、僕が帰ってきたい場所だ。

 だから旅に出られる。

 

 でも。

 今のアルナさんにとって、その言葉は何の慰めにもならなかったらしい。

 

「……帰ってくる」

「はい」

「絶対に?」

 

 返事が。

 一瞬遅れた。

 

「帰ってきます」

「絶対ですか?」

 

 同じことを聞かれているのに。

 今度は答えが出てこなかった。

 

 旅の途中で何が起きるのかなんて分からない。

 僕はハンターで。

 これまでだって何度も死にかけている。

 

 帰りたい。

 帰るつもりだ。

 

 でも。

 絶対なんて言葉を口にして、それでアルナさんを安心させるのは違う気がした。

 

「……絶対とは、言えません」

 

 猫耳が。

 小さく震えた。

 

「でも、帰ってくるつもりです」

「……つもり」

「アルナさん」

「つもり、なんですよね」

 

 声が。

 少しだけ低くなる。

 

「それは……」

「分かってます」

 

 アルナさんが自分で言葉を切った。

 

「分かってるんです」

 

 握られた両手が震えている。

 

「そんなこと約束できないって。ハンターなんですから、エルドランにいたって絶対なんてないって」

「……はい」

「分かってますよ。そんなこと」

 

 分かっている。

 だからこそ。

 納得できないんだと思う。

 

 しばらく。

 どちらも何も言わなかった。

 

 広場の木々が風に揺れ、少し離れた大通りから誰かの笑い声が聞こえてくる。

 いつものエルドランの夕方なのに、僕たちの周りだけそこから切り離されたみたいに静かだった。

 

 やがて。

 アルナさんがゆっくり顔を上げる。

 

「……私が嫌だって言っても、行くんですね」

 

 返事をしようとして。

 今度は本当に言葉が出なかった。

 

 これまでアルナさんが並べていた理由は、もう何も残っていない。

 

 危険だからでもない。

 エルドランで人間の資料を探せるからでもない。

 片刃剣を誰かへ預ければいいからでもない。

 

 今聞かれているのは。

 もっと単純なことだった。

 

 ……私が嫌だと言っても、それでも行くのか。

 

 そう聞かれている。

 

 目を逸らしたくなった。

 でも。

 それをしたら駄目だと思った。

 

「……はい」

 

 短く答える。

 

 アルナさんの顔から。

 何かが抜け落ちたように見えた。

 

「……」

 

「……」

 

 言い訳を探す。

 帰ってくるからとか。

 手紙を書くからとか。

 大丈夫だからとか。

 

 いくらでも言える気がした。

 

 でも。

 今どれを言っても。

 ただ自分が楽になりたいだけの言葉になる気がして、口にはできなかった。

 

「……そう、ですか」

 

 やがて。

 アルナさんが呟いた。

 

 俯いたせいで。

 表情はほとんど見えなくなる。

 

「アルナさん」

「すみません」

「え?」

「今日は、もう……これ以上、話せそうにないです」

 

 猫耳は。

 伏せられたまま動かない。

 

「帰ります」

 

 ゆっくり顔が上がる。

 

 一瞬だけ。

 目が合った。

 

 いつも僕を見つけると、ぴこりと猫耳を動かして笑ってくれた人。

 無茶をすれば怒って。

 怪我をすれば心配して。

 それでも最後には、帰ってきた僕を迎えてくれた人。

 

 なのに。

 今のアルナさんが何を考えているのか。

 

 僕には。

 ほとんど分からなかった。

 

「……分かりました」

 

 止めることができない。

 

 アルナさんが一歩下がる。

 

「今日は……すみませんでした」

 

「アルナさんが謝ることじゃ――」

「失礼します」

 

 僕の言葉が終わるより先に。

 アルナさんは小さく頭を下げ、そのまま背を向けた。

 

「あ……」

 

 呼び止めようとして。

 声が止まる。

 

 追いかけることならできる。

 今からでも隣へ行って。

 もう少し話そうと言うこともできる。

 

 でも。

 

 行かないとは。

 言えない。

 

 だったら。

 今追いかけても、また同じ言葉を聞かせるだけだ。

 

 猫耳を伏せた後ろ姿が、少しずつ遠ざかっていく。

 曲がり角の向こうへ消えるまで見送っても、僕はその場から動けなかった。

 

 話せてよかったはずだった。

 

 噂だけで終わらせず。

 僕自身の口から。

 旅に出ることを伝えられた。

 

 なのに。

 そんな達成感は少しもなかった。

 ――私が嫌だって言っても、行くんですね。

 その声だけが。

 何度も頭の中へ戻ってくる。

 

「……」

 

 僕は旅に出たい。

 それは、今も変わらない。

 世界を見たい。

 人間のことを知りたい。

 

 そのために。

 エルドランを出ると決めた。

 ……でも。

 自分が行くことで、あんな顔をする人がいることを僕は今までちゃんと考えたことがなかった。

 

 夕暮れの広場で。

 アルナさんが消えた道を見たまま。

 僕はしばらく。

 そこから動くことができなかった。

 

 ◆

 

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