駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
翌日、いつもの時間にハンターギルドへ入った僕は、受付台の前まで来たところで足を止めた。
アルナさんが普段座っている席には別の職員がいて、積み上げられた依頼書を整理しながら、やってきたハンターへ順番に対応している。
何かの用事で奥へ引っ込んでいるだけかとも思ったけれど、掲示板を眺めながらしばらく待ってみても、見慣れた猫耳が現れることはなかった。
「すみません」
「ん? どうした、ルキウス」
「アルナさんは?」
僕が空いている受付台を示すと、職員は「ああ」と小さく声を漏らした。
「今日は休みだぞ」
「休み?」
「朝に連絡があったらしい。体調が悪いんだと」
「……そうですか」
昨日のことが、すぐに頭へ浮かんだ。
――私が嫌だって言っても、行くんですね。
そう聞かれて、僕は「はい」と答えた。
そのあとアルナさんは話を切り上げ、そのまま帰ってしまった。
追いかけることもできず、夕暮れの広場へ一人残った僕は、しばらくあの言葉のことばかり考えていた。
「風邪ですか?」
「そこまでは聞いてねえな。まあ、一日休めば戻ってくるんじゃねえか?」
「……そうですね」
もう一度、空いた受付を見る。
アルナさんが仕事を休んでいるところなんて、ほとんど見た記憶がない。
とはいえ、本当に具合が悪いのなら家まで押しかける方が迷惑だろうと思い、その日は深く聞かずに依頼を受けてギルドを出た。
明日になれば、またいつもの受付へ戻っている。
その時に昨日の続きを話せばいい。
……そう思っていた。
◆
翌日も、アルナさんの席は空いていた。
「……今日もですか?」
「ああ。まだ体調悪いらしい」
昨日と同じ職員へ聞くと、少し困ったように頷かれる。
「そうですか……」
視線が勝手に、いつもの席へ向かった。
普段なら僕がギルドへ入っただけで猫耳がこちらへ向く。
依頼書を持っていけば推奨ランクを確認され、少し危なそうなものを選べば別の依頼にしませんかと止められる。
依頼から帰れば、報酬の話より先に怪我をしていないか聞かれることだって珍しくない。
そこにいないだけなのに、何となくギルドの中がいつもより広く感じた。
「ルキウス」
「はい?」
「お前ら、何かあった?」
不意に聞かれて、受付職員を見る。
「何でです?」
「何でって……旅の噂が流れ始めてから、アルナずっと変だったろ」
「……皆さん気づいてたんですか?」
「気づいてないと思ってたの、お前くらいじゃねえか?」
「……」
最近、似たようなことを何度も言われている気がする。
「昨日、話しました」
「旅のこと?」
「はい」
「で?」
「行かないでほしいって言われました」
職員は一瞬だけ僕を見たあと、何かを聞こうとするでもなく、小さく息を吐いた。
「……そうか」
「はい」
「まあ、今日は休ませといてやれ」
「そのつもりです」
そう答えて受付を離れたけれど、その日の夜になっても、昨日のアルナさんの顔と声は何度も頭へ戻ってきた。
◆
三日目。
ギルドへ入って受付を見ると、やっぱりアルナさんはいなかった。
さすがに今日は、そのまま帰る気になれなかった。
「すみません」
「ああ。今日もアルナなら休みだぞ」
「ですよね」
「まだ言ってないけどな」
「顔を見たら分かりました」
僕が答えると、職員が少しだけ笑った。
けれど、僕が受付から離れないのを見て、すぐに表情を戻す。
「どうした?」
「アルナさんの家って、どこですか?」
職員の眉が上がった。
「行くのか?」
「はい」
「体調悪いんだぞ」
「それは分かってます。でも、三日も休んでますし……僕との話が原因なら、何もしないまま待ってるのも違う気がするので」
言いながら、自分でも何をすればいいのか分かっているわけじゃない。
ただ。
今のまま放っておくのは嫌だった。
「顔を見るだけでもいいので、場所を教えてもらえませんか?」
「……本人に怒られても、俺から聞いたって言うなよ」
「分かりました」
「即答かよ」
職員は呆れたように笑いながら紙を一枚取り出し、中央区の東側までの簡単な地図を書いてくれた。
受け取って礼を言い、受付から離れようとしたところで、また後ろから呼び止められる。
「ルキウス」
「はい?」
「ちゃんと話せよ」
何についてとは聞かなかった。
たぶん、聞く必要もなかった。
「……はい」
今度は、ちゃんと頷いた。
◆
教えてもらった場所までは、それほど時間が掛からなかった。
中央区の大通りを外れ、住宅が並ぶ細い道を何本か進む。
地図へ書かれた目印と周囲を見比べながら歩いていくと、二階建ての集合住宅の端に目的の部屋番号を見つけた。
「……ここか」
階段を上がり、扉の前へ立つ。
ここまで来てから、体調の悪い人の家へ突然押しかけるのはやっぱり迷惑なんじゃないかとも思ったけれど、このまま帰る気にはなれなかった。
軽く扉を叩く。
「アルナさん」
返事はない。
「僕です。ルキウスです」
今度は、扉の向こうから僅かに物音がした。
……いる。
「三日も休んでるって聞いたので、様子を見に来ました」
「……」
「顔だけ見たら帰りますから」
しばらく待つ。
やっぱり帰った方がいいのかと思い始めた頃になって、ようやく小さな足音が近づいてきた。
「……何で来たんですか」
「心配だったので」
「大丈夫です」
「三日休んでる人の言葉としては、あんまり信用できないんですけど」
「……大丈夫です」
同じ返事だった。
「アルナさん」
「……」
「この前のことも気になってます。少しだけ、話せませんか?」
扉の向こうが完全に静かになる。
それでも待っていると、やがて鍵が外れる音がして、扉が僅かに開いた。
「……少しだけです」
「はい」
中へ通される。
アルナさんの部屋へ入るのは初めてだった。
小さな台所に、一人で使うには十分な卓と椅子。
壁際には本棚があり、窓の近くには寝台が置かれている。
部屋そのものは綺麗に片付いていたけれど、卓の上だけは随分と散らかっていた。
開いた本。
何枚もの紙。
細かな文字が書き込まれた帳面。
積み重ねられた古い資料。
その中に、見覚えのある言葉があった。
「……地の民?」
思わず足が止まる。
僕が資料館で何度も目にした、人間を示す古い呼び方だった。
アルナさんが慌てて卓へ近づき、開いていた本を閉じようとする。
「見ないでください」
「人間のこと、調べてたんですか?」
閉じようとしていた手が止まった。
「アルナさん?」
「……座ってください」
答えの代わりみたいに椅子を示され、言われた通り腰を下ろす。
アルナさんは向かいには座らず、卓の横へ立ったままだった。
制服ではなく、薄い部屋着の上に羽織を重ねている。
いつも綺麗に整えられている髪も少し乱れ、猫耳は力なく伏せられていた。
目元も少し赤くて、少なくとも風邪を引いて寝込んでいた人には見えない。
「本当に体調悪いんですか?」
「……悪いですよ」
「熱とか?」
「そういうのじゃありません」
少し迷ってから聞く。
「……僕のせいですか?」
アルナさんの肩が僅かに動いた。
「違います」
「この前は、ごめんなさい」
「何でルキウスさんが謝るんですか」
「僕が話したあとから休んでるので」
「それは私が勝手に休んでるだけです」
「でも――」
「ルキウスさんは悪くありません」
少し強く言われて、僕は口を閉じた。
アルナさんの視線が、また卓へ落ちる。
「……悪くないから、困るんです」
「え?」
「何でもありません」
小さすぎて、上手く聞き取れなかった。
僕も卓へ目を向ける。
「何を調べてたんですか?」
「……」
「僕のことですよね」
しばらく迷ってから、アルナさんが小さく頷いた。
「……はい」
「どうして?」
「ルキウスさんが旅へ出るって聞いてから、私も人間のことを調べました」
卓の上から一冊を取り上げる。
何度も開いたのか、同じページに癖がついていた。
「最初は、本当に少しだけだったんです。ルキウスさんが人間だって知っても、私は人間についてほとんど何も知りませんでしたから」
「それは僕も同じですよ」
「……そうですね」
ページへ視線を落とす。
「身体能力が低い。魔力も少ない。他種族みたいな目立った特異性もない」
「そこはもう、嫌というほど読みました」
少しだけ冗談めかして言ってみる。
でも、アルナさんは笑わなかった。
「それで……寿命のことを知りました」
「寿命?」
「はい。人間は、大体百年ほどしか生きないって」
「ああ」
僕が頷くと、今度はアルナさんが目を瞬かせた。
「……知ってたんですか?」
「はい。エルドランへ来る前から知ってますよ」
「……」
「母から聞いてました。僕にとっては普通のことなので、そんなに意識したことはなかったですけど」
アルナさんの猫耳が、少しだけ持ち上がる。
「普通……」
「はい」
僕の答えを聞いても、納得したようには見えなかった。
むしろ少し困ったように眉を寄せ、卓の上に広げた別の紙を手に取る。
「私たちは、種族によって差はありますけど……大体三百年くらいが一つの目安なんです」
「それも知ってます」
「だったら、分かってるんですか?」
今度は少し強く聞かれた。
「何がです?」
「百年しかないんですよ」
「……」
「私たちなら、まだ若いって言われているような歳で……ルキウスさんは、もういなくなっているかもしれないんですよ」
その声が震えていて、ようやく少しだけ分かった。
僕が知っている百年と。
アルナさんが見ている百年は、同じ数字でも意味が違う。
僕にとって百年は、人間が生きる普通の時間だ。
でもアルナさんにとっては、自分の生の三分の一ほどしかない。
「僕は人間なので」
「……何ですか、それ」
困って少しだけ頭を掻く。
「僕からすると、百年くらい生きるのが普通なんですよ。他の人たちが長いなとは思いますけど」
「私は逆です」
「逆?」
「私から見たら、百年なんて短すぎます」
アルナさんの指が、資料の端を強く掴む。
「三百年持っていたものを百年に減らされたなら、僕も短いって思うかもしれません。でも僕は最初から人間です」
「……」
「だから、今までそんなに気にしたことなかったです」
「私は気にします」
すぐに返された。
「だって……ルキウスさんなんですよ」
「……はい?」
意味が分からず聞き返す。
けれど、アルナさんはそれ以上説明せず、赤くなった目元のまま僕を見た。
「調べれば調べるほど、怖くなりました」
伏せられた猫耳が僅かに震える。
「最初は、旅へ行くことが怖かっただけなんです。どこへ行くか分からない。いつ帰ってくるか分からない。怪我をしても私には分からないし、何ヶ月も連絡がないかもしれない」
前にも聞いた言葉だった。
でも、今日はその先があった。
「人間のことを調べて……もっと嫌になりました」
「……」
「どうして、そんなに時間がないのに危ないことばかりするんですか」
「危ないことばかりって……」
「します」
「ハンターなので、モンスターとは戦いますけど」
「怪我しても依頼へ行きます」
「治ってからですよ」
「強い相手を見ると嬉しそうにします」
「……それは」
返事に詰まると、猫耳が少しだけ立った。
「否定してください」
「……気をつけます」
「否定できないじゃないですか」
怒られている。
少しだけ、いつものアルナさんに戻ったような気がした。
けれど、耳はすぐにまた伏せられる。
「旅へ出たら、もっと危ないじゃないですか」
「それは……そうかもしれません」
「知らない土地へ行って、知らないモンスターがいて、悪い人だっているかもしれない。人間だって知られたら、何をされるかも分からない」
話すほど声が早くなり、アルナさんは無意識なのか、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
「ただでさえ短いのに」
「アルナさん」
「もっと安全に生きればいいじゃないですか」
「……」
「エルドランにいればいいじゃないですか」
気づけば、僕のすぐ前まで来ていた。
「ここなら私がいます。ギルドがあります。依頼だって選べます。何かあればガルドさんも、フレイヴィアさんも、セラフィーンさんもいます」
「はい」
「だったら、ここにいればいいじゃないですか」
「でも、僕は行きたいんです」
「どうしてですか!」
ほとんど叫ぶような声だった。
「百年しかないんですよ! どうして自分から危ない方へ行くんですか!」
「大事にしてないわけじゃ――」
「してません!」
言葉を重ねられる。
アルナさんの目はもう潤んでいて、握られた両手も僅かに震えていた。
「何度怪我しました? 何度死にかけました? それでもまた依頼へ行って……今度は街の外まで行くって言うじゃないですか!」
「アルナさん、少し落ち着いて――」
「落ち着けません!」
伸びてきた手に、右手首を掴まれた。
「行かないでください!」
「アルナさん?」
強く握られたわけではない。
けれど驚いて少し身体を引いたところで、掴んだ腕をそのまま引かれ、さらに肩へもう片方の手が掛かった。
「だったら、どうすれば……!」
アルナさんの声が震える。
次の瞬間、僕の踵が寝台の縁へ当たった。
「あ――」
身体が後ろへ傾く。
目の前でアルナさんの目が大きく見開かれたけれど、もう止められなかった。
背中が寝具へ落ち、僕の腕を掴んでいたアルナさんも勢いを止められず、そのまま前へ倒れ込んでくる。
顔のすぐ横へ片手がつき、柔らかい寝台が二人分の重さで深く沈んだ。
「……っ」
見上げると、すぐ近くにアルナさんの顔がある。
乱れた髪が頬へ落ち、さっきまで伏せられていた猫耳は驚いたようにぴんと立っていた。
目も大きく見開かれ、呼吸すら止めているみたいに唇を僅かに開いたまま、僕の顔を見つめている。
「……アルナさん?」
呼びかけると、アルナさんの瞳が僅かに揺れた。
僕も身体を起こそうとして左肘へ力を入れたけれど、その時になって右腕が動かないことに気づく。
見れば、さっき掴まれた手首が寝台へ押さえつけられたままになっていた。
「……あれ?」
右手を引いてみる。
けれどアルナさんの腕はほとんど動かず、僕の手首も寝具から離れなかった。
「アルナさん、ちょっと手を――」
返事がない。
アルナさんもようやく自分の手へ視線を落とし、僕の手首を掴んでいる指と、その下で何度か動かそうとしている僕の腕を見たあと、もう一度こちらへ目を戻した。
「……え」
小さな声が漏れる。
「私……そんなに強く引いてないのに」
猫耳が、ゆっくり伏せられていく。
「少し引いただけで……」
視線が僕の身体へ落ちる。
「こんなに簡単に倒れて」
それから、まだ僕の手首を押さえている自分の手を見る。
指先が僅かに動いた。
「この手だって、そんなに力……入れてないのに」
僕ももう一度だけ腕を引いてみた。
やっぱり抜けない。
「まあ……力では勝てませんから」
人間と獣人族なのだから、今さら驚くようなことでもないと思う。
でも、アルナさんは僕の言葉を聞いていないみたいだった。
僕の手首。
自分の指。
僕の顔。
それを何度も見比べているうちに、最初の驚きとは違うものが少しずつ表情へ混じっていく。
呼吸が僅かに速くなり、伏せられた猫耳が落ち着かなそうに震える。
瞳の奥には自分自身を怖がっているような色があるのに、僕の手首を掴む指だけは離れなかった。
「……アルナさん?」
呼んでも、すぐには返事がない。
むしろ僕の声を聞いたことで何かを確かめるみたいに、指へほんの少し力が入った。
「っ……」
手首に痛みが走る。
その声を聞いた瞬間、アルナさんの肩が大きく跳ねた。
「アルナさん」
「……!」
僕へ向いていた瞳が一気に見開かれる。
さっきまでどこか別のものを見ていたみたいだった視線が、ようやく僕へ戻った。
「……あ」
自分が何をしているのか、今になって全部見えたような顔だった。
僕の上にいること。
手首を押さえていること。
その手から、僕が自分の力では抜けられないこと。
アルナさんの顔から、見る間に血の気が引いていく。
「私……」
掴んでいた指が震えた。
「アルナさん?」
「私、今……」
次の瞬間、手が勢いよく離れた。
アルナさんは寝台から転げ落ちそうなほど慌てて後ろへ下がり、胸元へ両手を引き寄せる。
猫耳は頭へ張りつくみたいに伏せられ、目は僕ではなく、自分の指先へ向けられていた。
「す、すみません……!」
「大丈夫ですよ」
「ごめんなさい」
「怪我もしてませんし」
「違うんです」
首を強く横へ振る。
呼吸が乱れ、震える指をどうしていいのか分からないみたいに何度も握ったり開いたりしている。
「違うんです……私……」
声が掠れる。
「ルキウスさんが動けないって分かった時、このままならって思ったんです」
「……」
「私が押さえていれば、ルキウスさんは動けないから……このままここにいてもらえば、旅にも行けないし、危ない依頼にも行けない」
言葉にするほど、自分が何を考えたのかを改めて理解しているみたいだった。
目が大きく揺れ、頬から完全に血の気が引いていく。
「怪我もしないし、どこにも行かない。私が止めていればいいって……」
そこで声が詰まった。
「……行かせなくて済むって、思ったんです」
一粒だけ。
涙が落ちた。
自分の頬を伝ったものにアルナさん自身が驚いたように瞬きをして、震える指で慌てて拭う。
けれど、次の涙がすぐに溢れ、そのあとも止まることなく頬を伝っていった。
「……ごめんなさい」
「アルナさん」
「ごめんなさい……!」
両手で顔を覆う。
嗚咽を押し殺そうとするたびに肩が震え、伏せられた猫耳まで細かく揺れている。
「そんなことしたいわけじゃないんです。ルキウスさんを閉じ込めたいわけじゃないのに……なのに、一瞬、それでいいって思って……」
「……」
「私、そんなこと考えて……ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度も同じ言葉を繰り返すアルナさんを見ながら、僕はゆっくり身体を起こした。
怖くなかったと言えば嘘になる。
押さえられて、自分では腕一本抜けなかった。
もしアルナさんが本気でそのまま力を入れていたら、たぶん僕にはどうすることもできなかった。
……でも。
今、一番怯えているのは僕じゃない。
自分が一瞬何を考えたのか。
自分がその気になれば、僕へ何ができてしまうのか。
それを知ってしまったアルナさん自身が、一番怖がっている。
「……アルナさん」
寝台から足を下ろす。
僕が動いた音に、アルナさんの肩がびくりと揺れた。
「来ないでください」
顔を上げないまま、掠れた声が返ってくる。
「今、私……何するか分からなくて」
「……」
「触らないでください」
その言葉に、一瞬だけ足が止まった。
でも。
このまま一人で自分を怖がらせておく方が、何となく違う気がした。
ゆっくり近づく。
アルナさんが気配に気づいて一歩下がろうとするより先に、僕は震えている身体へ腕を回した。
「……え」
小さな声が、胸のすぐ近くから聞こえた。
「……ルキウス、さん?」
「はい」
抱きしめようと決めて動いたわけじゃない。
ただ。
このまま泣かせているよりは、こうした方がいいと思った。
腕の中でアルナさんの身体が完全に固まっている。
猫耳もぴんと立ち、呼吸まで止まったのが抱いている身体越しに分かった。
「何で……」
「アルナさん、すごく怖そうなので」
「……私が、怖がらせたんですよ」
「僕じゃなくて」
少しだけ腕へ力を入れる。
「アルナさんが、自分のことを怖がってるじゃないですか」
「……」
「だから、大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃありません」
胸元から、くぐもった声が返ってくる。
「私、ルキウスさんを閉じ込めようって考えたんですよ」
「でも、してないでしょう」
「しました!」
「今は離してくれました」
「名前を呼ばれたからです!」
思ったより強い声が返ってきた。
泣いてはいるけれど、少しだけアルナさんらしい勢いが戻っている。
「それでもですよ」
「……」
「僕を傷つけたかったんですか?」
「違います」
「僕を苦しめたかった?」
「違います……」
「だったら」
一度考えてから、なるべくそのまま口にする。
「行ってほしくなさすぎて、変なこと考えちゃったんですよね」
「……変なことって」
「変じゃないです?」
「変です!」
また少し強い声が返ってきた。
「なら、変なことです」
「そんな軽く言わないでください……」
「でも僕は怒ってません」
腕の中で、アルナさんが少しだけ動く。
「びっくりはしましたけど」
「……ごめんなさい」
「それはもう聞きました」
「でも……」
「じゃあ」
身体を少しだけ離す。
ただ、また自分から距離を取ろうとしそうだったので、肩には手を置いたままにした。
「僕も一個、謝ります」
「……何をですか?」
「アルナさんが、こんなに怖がってるって分かってなかったことです」
アルナさんの目が、少しだけ見開かれる。
「僕は旅に行きたいってことばかり考えてました」
「それは……」
「旅に行きたいって思うこと自体は悪いと思ってません。でも、僕がいなくなるかもしれないって考えて、アルナさんがどんな気持ちになるかまではちゃんと考えてなかったです」
少し赤くなった目が僕を見る。
「だから、ごめんなさい」
「ルキウスさんが謝ることじゃありません」
「アルナさんも僕に同じこと言ったじゃないですか」
「それとこれは違います」
「そうですか?」
「そうです」
即答だった。
……やっぱり。
少しずつ、いつものアルナさんに戻ってきている。
「でも、怖いんです」
アルナさんの指が、僕の服をほんの少し掴んだ。
「やっぱり、行ってほしくないです」
「……はい」
「百年しかないんですよ」
「知ってます」
「それなのに、どうしてそんなに簡単に――」
「簡単じゃないですよ」
僕が首を横へ振ると、アルナさんの声が止まった。
「僕だって、自分の命をどうでもいいと思ってるわけじゃないです。人間が百年くらいしか生きないことも、昔から知ってます」
「……」
「でも、僕にとって百年は最初から百年なんです」
アルナさんが黙って聞いている。
「三百年生きられるのに百年へ減らされたなら、たぶん僕も短いって思います。でも僕は、最初から人間です。僕が持ってる時間は、最初からそれくらいなんですよ」
「だから、もっと大事に――」
「大事にしたいから、行きたいんです」
アルナさんの声が止まった。
「……どうして、そうなるんですか」
「僕にも上手く説明できないです」
資料館で見た地図を思い出す。
知らない街。
知らない景色。
そして。
僕がまだ何も知らない、人間のこと。
「行きたいと思ったのに、危ないからってずっとここにいたら、たぶん僕はいつか後悔します」
「……」
「あの時行けばよかったって、ずっと気にすると思います」
オルディアさんから聞いた言葉も頭へ浮かぶ。
「百年しかないなら、なおさらその百年を自分で納得できるように使いたいです」
「……オルディアさんに言われたんですか?」
「はい。長く生きることそのものより、最後に自分で『悪くなかった』って思える方が大事だって」
アルナさんが少しだけ不満そうに眉を寄せる。
「皆さん、ルキウスさんを送り出すんですね」
「アルナさんは嫌です?」
「嫌です」
「今も?」
「今もです」
迷いのない答えだった。
「……そうですか」
「でも、さっきみたいなことはもうしません」
「はい」
「絶対に」
「分かりました」
「……信用してください」
「信用してますよ」
答えると、アルナさんの目が少しだけ揺れた。
「何でですか」
「何でって……アルナさんだからです」
今度は、僕の方が少し困った。
「二年間ずっと、僕のこと心配してくれてた人じゃないですか。危ない依頼を止めて、怪我をしたら怒って、帰ってきたら安心したみたいに笑ってくれて」
「……」
「今日ちょっと変なこと考えたからって、それが全部なくなるわけじゃないでしょう」
「……ルキウスさん」
「はい?」
「そういうところ、ずるいです」
「何がです?」
「何でもありません」
顔を逸らされる。
でも、伏せられていた猫耳は少しだけ上がっていた。
「それに、僕はいなくなるつもりで行くわけじゃないですよ」
「……絶対とは言ってくれませんけど」
「そこは嘘をつきたくないので」
「分かってます」
まだ少し不満そうではある。
それでも、昨日みたいにそれ以上追及してはこなかった。
「でも、帰りたいとは思ってます」
「……エルドランに?」
「はい」
「どうしてですか?」
昨日も似たような話をした。
それでも。
今度はもう一度、ちゃんと口にする。
「エルドランは、僕が帰ってきたい場所ですから」
アルナさんの猫耳が僅かにこちらへ向く。
「角兎亭があります。ギルドがあります。ガルドさんも、フレイヴィアさんも、セラフィーンさんもいます」
「……」
「アルナさんもいます」
今度は猫耳が、はっきりぴくりと動いた。
「……私も?」
「当たり前でしょう」
「……」
「何でそこで自分を抜くんですか」
アルナさんは少しだけ視線を落とす。
「だって……私、さっき」
「それはそれです」
「そんな簡単に分けないでください」
「難しいですね」
困って答えると、アルナさんの口から小さく息が漏れた。
まだ笑ったとまでは言えないけれど、さっきまでの泣き声とは違う。
「僕、帰ってきたらギルドへ行きますよ」
「何番目ですか?」
「え?」
「帰ってきたら、何番目にギルドへ来ます?」
少しだけ。
いつもの調子が戻ってきた。
「……角兎亭に荷物を置くかもしれないので、二番目?」
「一番にしてください」
「何でですか」
「受付として帰還報告を受けなければなりません」
「本当に受付として?」
「受付としてです」
少しだけ頬が膨らむ。
「じゃあ、一番にします」
「今、適当に言いましたね」
「言ってませんよ」
「言いました」
「じゃあ、約束します。エルドランへ帰ったら、まずギルドへ行きます」
アルナさんが少しだけ目を丸くする。
「……本当に?」
「はい」
「私が休みだったら?」
「翌日も行きます」
「その次も休みだったら?」
「家まで来ます」
「……今日みたいに?」
「今日みたいに」
しばらく黙ったあと。
アルナさんの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「……分かりました」
「はい」
「それから、手紙を書いてください」
「旅に出てから?」
「はい。ギルドがある街へ寄ったら、必ず」
「毎回ですか?」
「毎回です」
迷う様子もなく言われる。
「結構大変ですよ」
「書いてください」
「はい」
「怪我をしたら隠さないでください」
「手紙に書くんです?」
「書いてください」
「心配するでしょう」
「隠された方が怒ります」
「……はい」
そこは反論できない。
アルナさんは少しだけ満足そうに頷くと、さらに続けた。
「それから、無茶を――」
「しないように気をつけます」
「先に言わないでください」
「言われると思ったので」
「なら、ちゃんと守ってください」
「分かりました」
猫耳が少しずつ、いつもの位置へ戻っていく。
「旅へ出る前だからこそ、怪我をしないでくださいね」
「出る前くらい好きな依頼を選ばせてくれてもよくないですか?」
「駄目です」
「即答……」
「当然です」
その返しに。
思わず少し笑ってしまった。
「何で笑うんですか」
「いや」
さっきまで泣いていた目元は、まだ赤い。
頬にも涙の跡が残っている。
でも。
もう猫耳は伏せられていない。
「いつものアルナさんに戻ったなって」
「私はずっといつも通りです」
「三日も仕事休んでたじゃないですか」
「それは……」
猫耳が少しだけ横へ倒れる。
「明日は行きます」
「もう大丈夫ですか?」
「全部は、まだです」
その答えだけは、誤魔化さなかった。
「まだ旅へ行ってほしくありません」
「はい」
「今すぐ笑って『いってらっしゃい』なんて、絶対に言えません」
「それでいいですよ」
「……いいんですか?」
「無理に言ってもらうものじゃないでしょう」
僕が答えると、アルナさんはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「でも、明日はギルドへ行きます」
「はい」
「ルキウスさんが危ない依頼を持ってきたら、普通に止めます」
「そこは変わらないんですね」
「変わりません」
ようやく。
アルナさんが笑った。
受付の向こうで。
僕が依頼から帰るたびに見せてくれる。
猫耳をぴこりと動かした、見慣れた笑顔だった。
「ルキウスさん」
「はい?」
「旅から帰ってきたら、全部聞かせてくださいね」
「全部ですか?」
「全部です」
迷う様子もなく返される。
「何ヶ月分になるか分かりませんよ」
「何日掛かっても聞きます」
「……分かりました。じゃあ、帰ってきたら話します」
「約束です」
「はい」
「絶対ですよ」
今度の『絶対』には、少しだけ笑って答えられた。
「約束します」
アルナさんの猫耳が、もう一度ぴこりと揺れる。
昨日、僕は旅へ出ることであんな顔をする人がいることを知り、今日はようやく、その理由も少しだけ分かった。
それでも旅へ出たいという僕の気持ちは変わっていないし、アルナさんだって、まだ僕を送り出したくないと思っている。
……たぶん、今はそれでいいんだと思う。
一度話したくらいで。
全部が綺麗に片付くわけじゃない。
ただ。
さっきまで自分自身を怖がって泣いていたアルナさんが、今はいつものように僕を見て笑っている。
今日は。
それだけで十分だった。
◆