駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
アルナさんの家であの騒ぎがあってから、数日が過ぎた。
翌日には本当にギルドへ戻ってきて、僕が受付へ顔を出すなり「先日のことは絶対に誰にも言わないでくださいね」と念を押されたあと、いつも通り依頼書を取り上げられ、旅立つ前に怪我をするつもりですかと散々叱られた。
あれだけ泣いていた人が次の日には僕の受ける依頼へ文句をつけているのだから少し不思議だったけれど、本人曰く、全部が平気になったわけではないらしい。
旅には行ってほしくない。
寂しいし、心配だし、できることならエルドランに残ってほしい。
それでも僕が行くと決めたのなら、もう逃げたり、無理に止めたりはしない――そう言った時のアルナさんは少し寂しそうに笑っていたけれど、猫耳はもう伏せられていなかった。
僕の方も、その数日の間に残っていた準備を終えた。
街道を確認して、旅先で利用できるハンター支部について聞き、必要な荷物をまとめる。
今使っている細身の両刃剣は腰へ差し、壊れた片刃剣は布で丁寧に包んで荷物の中へ収めた。
あとは、エルドランを出るだけだった。
そして。
その朝が来た。
「……」
二年以上使った角兎亭の部屋を、扉の前から見回す。
小さな寝台に机と椅子、朝の光が入る窓――最初に案内された日から大して変わっていないのに、僕の荷物がなくなっただけで妙に広く見えた。
二年前。
ガルドさんに百ソルを借りて、この宿へ来た。
次の日のことすらろくに考えていなかったくせに、ハンターになることだけは決めていた。
あの頃の僕に、ここで二年以上暮らすことになると言っても信じないと思う。
ランク5になることも。
自分が人間だと知ることも。
街を襲った水禍渡りと戦うことも。
ましてや、そのあと自分からエルドランを出て世界を見に行こうとするなんて、きっと一番信じなかった。
「……よし」
荷物を背負う。
肩へずしりと重みが掛かったけれど、この程度なら歩ける。
最後にフードを被り、扉を閉める。
鍵を掛けてから一度だけ振り返り、見慣れた扉を目に焼きつけるように眺めてから、僕は階段を下りた。
◆
「遅い!」
一階へ着いた瞬間、厨房からいつもの大声が飛んできた。
「まだ普段と同じ時間ですよ」
「旅立つ日くらい早起きしな」
「ちゃんと起きましたって」
言い返しながら食堂を見ると、いつもの席にはもう朝食が並べられていた。
角兎肉と豆の煮込みに黒パン、炙った野菜――そこまではいつも通りなのに、今日は焼いた肉や卵料理まで追加されていて、明らかに量がおかしい。
「……女将さん」
「何だい?」
「多くないです?」
「今日は特別だよ」
「このあと歩くんですよ、僕」
「歩くならなおさら食いな」
女将さんが大きな手で椅子を引き、座れと顎をしゃくった。
「ほら。たんと食べな」
「……はい」
席へ座り、煮込みを一口食べる。
何度食べたか分からない味だった。
初めて依頼へ出た日の朝にも食べた。
怪我から復帰した日にも、ランクが上がったあとにも、水禍渡りが終わってようやく普通の朝が戻ってきた時にも食べた。
別にこれが最後になるわけじゃないのに、しばらく食べられないと思うだけで、いつもより少し味を確かめながら食べてしまう。
「女将さん」
「何だい?」
「これ、旅先で食べたくなったらどうすればいいです?」
「帰ってくりゃいいだろ」
「何週間も掛かる場所にいるかもしれませんよ」
「なら何週間掛けて帰ってきな」
「簡単に言うなぁ……」
女将さんは鍋を混ぜながら鼻で笑う。
「帰る場所なんてのは、それくらいでいいんだよ」
「……そういうものですか?」
「そういうもんさ。それとも何だい、もう寂しくなったのか?」
「まだ街から出てもないですよ」
「なら泣くのは門まで取っときな」
「泣きませんって」
「どうだかねぇ」
完全にからかわれている。
少しむっとしながら残りを食べたけれど、結局出された分は全部なくなった。
これだけ食べれば昼はいらないんじゃないかと思いながら立ち上がると、女将さんが厨房の奥から布包みを持ってくる。
「ほら」
「……何です?」
「昼飯」
「今、昼いらないくらい食べさせられたんですけど」
「昼になりゃ腹減るよ」
「荷物、もう結構重いんですよ」
「飯くらいで文句言うんじゃないよ」
有無を言わせず渡される。
包みの隙間から焼いた肉とパンの匂いがした。
「ありがとうございます」
「礼は帰ってから聞くって言ったろ」
「……そうでした」
荷物へ収めると、それだけで少し重みが増した気がする。
「じゃあ、行くかい」
「はい」
女将さんも上着を羽織り、食堂の入口へ向かう。
「門まで見送ってやるよ」
「ありがとうございます」
「だから、そういうのは帰ってからでいいって言ってるだろ」
「難しいなぁ……」
笑われながら。
僕は二年以上暮らした角兎亭を出た。
◆
外へ出ると、朝のエルドランはもういつものように動き始めていた。
店を開ける商人、荷車を引く人、仕事へ向かう職人、依頼へ出るハンター。
見慣れた朝の光景の中を女将さんと並んで歩き始めたところで、向かいの店から獣人族の男性が勢いよく顔を出した。
「おっ! ルキウス! 今日だったのか!」
「おはようございます」
「ちょっと待ってろ!」
返事も聞かずに店の奥へ引っ込み、少しして大きな袋を抱えて戻ってくる。
「ほらよ!」
「何です?」
「干し肉だ。旅すんならいるだろ」
「いや、今女将さんから昼飯も貰ったばっかりなんですけど」
「昼飯と保存食は別だろ!」
袋を押しつけられ、仕方なく受け取る。
「水禍渡りの時、うちの店も守ってもらったからな」
「僕一人で守ったわけじゃないですよ」
「知ってるよ」
男性は笑いながら僕の肩を軽く叩いた。
「でも、お前もあそこにいただろ。それで十分だ」
「……はい」
「向こうでも気ぃつけろよ! ちゃんと帰ってこい!」
「ありがとうございます。行ってきます」
頭を下げて歩き出すと、隣から女将さんの視線を感じた。
「何です?」
「いやぁ、人気者だねぇ」
「たまたまですよ」
そう答えた直後。
「ルキウス!」
市場の方から声が飛んできた。
振り向くと、今度は小人族の女性が果物を抱えて走ってくる。
「旅に出るんだって?」
「はい。今日出ます」
「ならこれ持ってきな!」
また荷物が増えた。
「さっき干し肉も貰ったんですけど」
「肉ばっかじゃ身体に悪いだろ!」
「何で干し肉貰ったこと知ってるんです?」
「見てたからね!」
当然みたいに言われる。
「帰ってきたら店に顔出しなよ!」
「はい。ありがとうございます」
さらに少し進む。
「英雄様ー!」
「……」
聞こえないふりをしたかった。
「おい、英雄様! 無視すんなよ!」
「やめてくださいよ!」
仕方なく振り返る。
港で働く職人たちが数人、仕事の手を止めてこちらへ手を振っていた。
「今度はどこの街を救いに行くんだ?」
「普通に旅するだけですよ!」
「どうだかなぁ!」
「水禍渡りの主ん中まで入ってく奴の普通は信用ならねえぞ!」
「一人で倒したわけじゃないですって!」
言い返すと、周囲から笑い声が上がる。
その中の一人が笑いながら近づいてきて、僕の肩へ大きな手を置いた。
「分かってるよ。あの時、街を守ってたのがお前一人じゃなかったことくらいな」
「……はい」
「でも、お前がいたことも忘れてねえ」
肩を一度強く叩かれる。
「ありがとな、ルキウス」
「……僕の方こそ」
「今度はお前がちゃんと帰ってこいよ!」
「はい。帰ってきます」
「絶対だぞ、英雄様!」
「最後にそれ付ける必要ありました!?」
また笑われる。
そこからは、もうまともに歩けなかった。
「ルキウス! 向こうでも頑張れよ!」
「知らねえ街で金なくすなよ!」
「百ソル借りんなよー!」
「何でその話まで広がってるんですか!?」
反射的に女将さんを見る。
「……女将さん?」
「あたしじゃないよ」
「じゃあガルドさんだ」
「多分そうだねぇ」
あとで文句を言おう。
「ルキウスお兄ちゃん!」
子供たちが何人か駆け寄ってくる。
その後ろから、以前水禍渡りのあとに顔を合わせた母親たちが慌てて追いかけてきた。
「お兄ちゃん、どこいくの?」
「まだちゃんとは決めてないんだ」
「帰ってくる?」
「帰ってくるよ」
「じゃあ、おみやげ!」
「……何で皆、そこだけは共通してるんだろう」
僕が困っていると、母親の一人がくすりと笑った。
「無理しなくていいですよ」
「助かります」
「でも」
女性が子供の手を握ったまま、僕へ深く頭を下げる。
「あの時は、本当にありがとうございました」
「……僕だけじゃありませんよ」
「はい。分かっています」
顔を上げた女性は、穏やかに笑っていた。
「それでも、ルキウスさんにも言わせてください。この子が今こうして笑っていられること、本当に感謝しています」
「……」
何を返せばいいのか少し迷ってから、僕も頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それはこっちの台詞です」
子供たちが一斉に手を振る。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい!」
「……行ってきます」
僕も手を振り返す。
そこからも商人から保存食を渡され、職人から丈夫な紐を押しつけられ、知らないおばあさんからは旅の安全を願う小さなお守りまで貰った。
顔を知っている人も、名前しか知らない人も、本当に見覚えのない人まで僕の名前を呼び、礼を言って、気をつけろと声を掛けてくれる。
「……女将さん」
「何だい?」
「門に着くまでに荷物、倍くらいになりません?」
「人気者は大変だねぇ」
「完全に他人事だと思ってますよね」
そう言いながらも、僕は少し笑っていた。
たぶん。
嬉しかった。
◆
大通りを抜け、門が見え始める。
そこまで来たところで、僕は足を止めた。
「……え?」
最初は、何か催しでもやっているのかと思った。
門の周りに人が多すぎる。
旅商人が出発を待っているにしてもおかしい。
依頼へ出るハンターだけでもない。
道の両側から門の外まで人が集まり、そのほとんどがこっちを見ていた。
その中心で。
「遅えぞ!」
犬耳を立てて大きく手を振っている人がいる。
「ガルドさん?」
「おう!」
その横には、腕を組んだフレイヴィアさんがいた。
黒い尾をゆったり揺らし、黄金の瞳をこちらへ向けている。
「随分ゆっくり来たな、主」
「途中で全然進めなかったんですよ」
「私もいますよ、ルキウスさん」
白い翼が見える。
セラフィーンさんが柔らかく手を振り、そのすぐ隣では見慣れた猫耳がぴこりと動いた。
「おはようございます、ルキウスさん」
「アルナさん……おはようございます」
そこまでは。
まあ、分かる。
問題はその後ろだった。
「何ですか、これ……」
知っているハンターたちがいる。
ギルドの受付職員たちまで仕事前に集まっていて、港の職人、市場の商人、教会の人たちもいる。
「ルキウス!」
人混みの中から聞き覚えのある声が飛んできた。
「リュシアさん?」
以前助けたエルフのリュシアさんが手を上げ、その隣では小柄な小人族のミミルさんが両手を大きく振っている。
「ミミルさんも」
「久しぶり、ルキウス!」
二人とも元気そうだった。
特にミミルさんは、以前負傷していた時とは違い、自分の足でしっかり立っている。
「元気そうですね」
「誰のおかげで元気だと思ってるの?」
「……僕だけじゃないですよ」
「そういうところ、相変わらずね」
リュシアさんが苦笑する。
「あの時、本当に助かったわ」
「僕はミミルさんを運んだだけですよ。救援を呼びに行ったのはリュシアさんですし」
「その間、大型を引き受けて残ったのは誰だったかな?」
「……」
返事に詰まる。
「とにかく、今度は知らない土地で同じことしないようにね」
「気をつけます」
「絶対ですよ!」
ミミルさんまで身を乗り出してくる。
「今度は誰か背負ったまま格上相手に残ったりしないでね!」
「……そこまで具体的に言われると耳が痛いです」
周囲のハンターたちから笑い声が上がる。
「おい、ルキウス!」
今度は別の声が飛んできた。
振り向くと、少し前にガルドさんと一緒に討伐依頼へ出た時、臨時でパーティーを組んだエイレスさんとミレイアさんがいる。
「エイレスさん。ミレイアさんも」
「一度組んだ仲間が街を出るって聞いたら、見送りくらい来るだろ」
エルフのエイレスさんが肩をすくめる。
その隣でミレイアさんが白い翼を小さく動かした。
「外で天使族のハンターを見つけても、最初に『飛べますか?』と聞くのはやめた方がいいですよ」
「……まだ覚えてるんですか」
「忘れません」
「ルキウス、そんなこと聞いたのか?」
ガルドさんが声を上げて笑う。
「初めて一緒に依頼へ行く天使族のハンターだったんですよ! 気になるじゃないですか!」
「だからって最初に聞くか普通!」
「飛べるかどうかは重要でしょう!」
「何にだよ!」
門前に笑い声が広がる。
ガルドさんは腹を抱え、フレイヴィアさんまで口元を緩めている。
セラフィーンさんは手を口元へ当てて笑いを堪え、アルナさんに至っては猫耳まで楽しそうに揺れていた。
「……皆さん、最後だからって好き勝手言ってません?」
「最後じゃねえだろ」
ガルドさんの声が、笑いながら返ってくる。
「帰ってくるんだからよ」
その言葉を聞いて。
僕も少しだけ笑った。
「……そうですね」
「ああ」
「帰ってきます」
すると、それを聞いていた街の人たちから一斉に声が飛んできた。
「ちゃんと帰れよ!」
「待ってるぞ!」
「土産話頼むぞー!」
「手紙も忘れんなよ!」
「英雄様ー!」
「最後の人はやめてくださいよ!」
どっと笑いが起きる。
「誰が集めたんです、こんなに」
「別に誰かが呼び集めたわけじゃありませんよ」
アルナさんが答えた。
「ルキウスさんが今日出ることは、もう街中に知られていましたから」
「それで、こんなに?」
「皆さん、ルキウスさんに言いたいことがあったんだと思います」
そう言って。
アルナさんも少しだけ悪戯っぽく笑う。
「大人気ですね、英雄様」
「アルナさんまでやめてくださいよ」
「ふふっ」
「おーい、英雄様! 向こうでもちゃんと飯食えよ!」
「怪我すんなよ!」
「モンスター見て笑うなよ!」
「それ誰から聞いたんですか!?」
「姫様ー!」
「余は何も言っていないぞ」
「絶対フレイヴィアさんじゃないですか!」
「さてな」
黄金の瞳が楽しそうに細くなる。
うるさい。
皆、最後だからって好き勝手なことばかり言う。
でも。
嫌じゃなかった。
むしろ。
門前に集まった人たちを見渡しているうちに、少しずつ胸の奥が詰まるような感覚が強くなっていった。
ガルドさんがいる。
フレイヴィアさんがいる。
セラフィーンさんとアルナさん、女将さんもいる。
リュシアさんとミミルさん。
エイレスさんとミレイアさん。
受付の人たち。
依頼先で顔を合わせた人。
市場の店員。
港の職人。
教会の人。
子供たち。
名前を知っている人も。
知らない人も。
二年前、この門をくぐった時には。
ガルドさん以外、誰一人として僕を知らなかった。
百ソルを借りて。
角兎亭を紹介してもらった。
女将さんに会った。
次の日にはハンターギルドへ行き、アルナさんと出会った。
フレイヴィアさんに会って、片刃剣を貰った。
初めて依頼へ出て。
モンスターと戦って。
怪我をして。
教会へ運ばれて、セラフィーンさんと会った。
ランクが上がった。
また怪我をした。
何度も怒られた。
雪原へ行き。
リュシアさんとミミルさんに会った。
怖いと思いながら、それでも格上のモンスターと戦った。
帰ってきた。
また依頼へ出た。
ガルドさんと一緒に戦うようになり、知らないハンターとパーティーを組むことも増えた。
ギルドへ入れば声を掛けられるようになって、いつの間にかランク5になっていた。
そして。
水禍渡りが来た。
防波壁。
倉庫街。
押し寄せる水憑き。
最後に海から現れた主。
あの日。
僕は一人で戦ったわけじゃなかった。
フレイヴィアさんがいた。
ガルドさんがいた。
ハンターたちがいた。
街の人たちがいた。
皆で戦って。
誰一人欠けずに帰ってきた。
……二年と少し。
それだけしか経っていないのに。
今、僕の前にはこんなにもたくさんの人がいる。
「……あれ」
視界が少し滲んだ。
瞬きをしてみても戻らない。
むしろ門前にいる一人一人の顔を見ようとするほど、鼻の奥まで痛くなってくる。
「主?」
フレイヴィアさんの声が聞こえた。
「……何でもないです」
「何でもない顔には見えませんよ、ルキウスさん」
セラフィーンさんにまで言われる。
「いや、本当に……」
何か言い返そうとしたところで、頬へ温かいものが落ちた。
手の甲で拭ってみると、やっぱり涙だった。
「……困るな」
「何がだ?」
ガルドさんが聞いてくる。
「泣くつもりなかったんですよ」
そう言って少し笑うと、ガルドさんの口元がにやりと上がった。
「おいおい、英雄様が泣いてるぞ!」
「ガルドさん!」
すぐに周囲へ声が飛ぶ。
「本当だ!」
「英雄様も寂しいのか!」
「今ならまだ残ってもいいぞー!」
「だから英雄様はやめてくださいって!」
笑い声が広がる。
「主、案外泣き虫だったのだな」
「フレイヴィアさんまで言うんですか!」
「ふふ……」
横を見ると、セラフィーンさんが笑っていた。
けれど、その目元にも薄く涙が浮かんでいる。
「セラフィーンさんも泣いてるじゃないですか」
「これは……貰い泣きです」
「ほら、僕だけじゃないですよ!」
「お前が先だろ!」
ガルドさんに突っ込まれる。
「うるさいですよ」
「おーい! あっちも泣いてるぞ!」
別の誰かが叫ぶ。
見ると、港の職人が腕で目元を乱暴に擦っていた。
「泣いてねえ! 風だ!」
「門前でその言い訳は無理だろ!」
「うるせえ!」
さらに少し離れたところでは、ミミルさんがもう普通に泣いている。
「ミミルさんまで……」
「だ、だってルキウスが泣くからでしょ!」
「僕のせいですか?」
「そうですよ!」
リュシアさんまで笑いながら目元を拭っている。
「人を泣かせるの上手くなったわね」
「そんな上達いりませんよ」
また笑い声が上がる。
泣いている人がいて、その横で笑っている人がいて、誰かがからかえば別の誰かが言い返す。
全然格好のつかない見送りだった。
……でも。
たぶん、僕にはこれくらいがいい。
「ルキウスさん」
そんな騒ぎの中で。
アルナさんが一歩前へ出た。
「はい?」
目元は少し潤んでいたけれど、猫耳はしっかり立っていて、数日前みたいに僕から目を逸らすこともなかった。
「そんなに寂しいなら、エルドランに残ってもいいんですよ?」
「……」
一瞬。
返事が出なかった。
「えっと……」
旅には行く。
それは変わらない。
でも。
今の僕が「寂しくないです」と言ったところで、誰も信じないと思う。
「アルナさん、それは……」
どう答えようか困っているのが顔に出ていたらしい。
アルナさんは数秒だけ僕を見つめたあと、猫耳をぴこりと動かして笑った。
「ふふっ。冗談です」
「……本気かと思いました」
「数日前なら、本気で言っていましたね」
「……そうですね」
そこは否定できない。
「でも、今は冗談です」
アルナさんは一度だけ門の外へ視線を向け、それから僕を見る。
「全部吹っ切れたわけじゃありませんよ。今だって寂しいですし、旅先で怪我をしたらどうしようって思っています。できるなら、ずっとエルドランにいてほしいです」
「……はい」
「でも、それは私の気持ちです」
その言葉を聞いて。
数日前のことを思い出す。
僕の手首を押さえて。
動けない僕を見て。
自分自身を怖がって泣いたアルナさん。
今は。
その人が僕の前で笑っている。
「ルキウスさんが行きたいっていう気持ちは、ルキウスさんのものですから」
「……はい」
「ですから私は、帰ってきたルキウスさんを迎える方にします」
猫耳が、もう一度ぴこりと揺れる。
「閉じ込めるより、その方がいいでしょう?」
「はい」
今度はすぐに答えられた。
「僕も、その方が嬉しいです」
「なら決まりですね」
アルナさんは少し満足そうに頷いたあと、指を一本立てる。
「手紙」
「書きます」
「怪我は?」
「隠しません」
「ギルドのある街へ着いたら?」
「立ち寄ります」
「無茶は?」
「気をつけます」
「……受けないとは言わないんですね」
「ハンターなので」
「もう……」
呆れたように笑われる。
それから、アルナさんの表情が少しだけ柔らかくなった。
「……帰ってきてくださいね」
「はい」
「本当にですよ」
「帰ってきます」
答えると、目元に溜まっていた涙が少しだけ揺れた。
それでもアルナさんは泣かずに一度瞬きをして、受付の向こうで何度も見てきた、いつもの笑顔を僕へ向ける。
「……いってらっしゃい、ルキウスさん」
「……はい」
その言葉を聞くと。
せっかく止まりかけていた涙がまた少し滲んだ。
「行ってきます」
「お前、また泣くぞ」
「ガルドさんは黙っててください!」
「はははっ!」
周囲から笑い声が起きる。
そのままフレイヴィアさんへ顔を向けると、彼女は腕を組んだまま、いつもと変わらない堂々とした姿で立っていた。
「フレイヴィアさん」
「余から言うことは、もうさほどない」
黄金の瞳が真っ直ぐ僕を見る。
「己の脚で歩け。己の目で世界を見ろ。強者と出会い、未知を知り、主自身の答えを持ち帰ればいい」
「はい」
「そして帰ってきたら、立ち合いだ」
「やっぱりそこは忘れないんですね」
「当然だ」
フレイヴィアさんが楽しそうに笑う。
「少しくらい休ませてくださいよ」
「考えておこう」
「その顔、絶対考えないですよね」
「さてな」
黒い尾が機嫌よさそうに揺れた。
「行ってこい、主」
「……はい。行ってきます」
次にセラフィーンさんを見る。
「セラフィーンさん」
「はい」
「色々ありがとうございました」
「それは帰ってきてから聞きます」
「女将さんと同じこと言う人、増えてません?」
「良い言葉ですから」
セラフィーンさんが柔らかく笑う。
「外へ出れば、今まで知らなかったものをたくさん見ることになると思います。良いものも、きっとそうでないものも」
「はい」
「それでも、ルキウスさんならちゃんと自分の目で見て、自分で考えて帰ってくるのでしょうね」
「……たぶん」
「そこは言い切ってください」
「はい。帰ってきます」
白い翼がゆっくりと動く。
「では、また会いましょう。ルキウスさん」
「はい。また会いましょう」
女将さんは少し離れたところで腕を組みながら、僕たちのやり取りを見ていた。
「女将さん」
「何だい」
「二年と少し、お世話になりました」
「だから礼は帰ってからだって言ってるだろ」
「でも――」
「でもじゃないよ」
大きな手が伸びてきて、フードの上から頭を少し乱暴に撫でられる。
「帰ったら、腹いっぱい食わせてやるよ」
また。
鼻の奥が痛くなった。
「……それ、反則じゃないですか」
「何がだい?」
「何でもないです」
女将さんが声を上げて笑う。
「それまでちゃんと腹減らして帰ってきな」
「何週間分も空腹にして帰ったら死にますよ」
「はははっ! なら道中もしっかり食いな!」
「分かりました」
そして。
最後にガルドさんを見る。
「おう」
「……まだ何も言ってませんよ」
「顔見りゃ分かる」
犬耳が少しだけ動く。
「金は持ったか?」
「あります」
「本当に?」
「ありますって!」
「今度は百ソル貸さねえからな」
「もう借りませんよ!」
周囲から笑いが起きた。
「お前らまだその話してんのか!」
「ルキウス、百ソル借りてたの!?」
ミミルさんまで驚いている。
「もういいでしょう、この話!」
「返したのか?」
エイレスさんまで真面目に聞いてくる。
「返しました!」
「ならよし!」
「何でエイレスさんに許可されるんですか!」
また笑われる。
ガルドさんも散々笑ったあと、僕の肩へ大きな手を置いた。
「まあ、困ったら人を頼れ」
「はい」
「知らねえ街でもだ。何でも自分一人でどうにかしようとすんな」
「分かってます」
「怪しいな」
「今回は大丈夫です」
「その台詞が一番怪しいんだよ」
肩を軽く叩かれる。
「それでも、まあ……お前なら大丈夫だろ」
「……珍しいですね」
「何が?」
「ガルドさんがそんなこと言うの」
「取り消すぞ」
「やめてください」
僕が笑うと。
ガルドさんも笑った。
「行ってこい」
酒場で聞いたのと同じ言葉だった。
あの時は、そのあとに「相棒」と続いた。
今日は。
それを改めて言われなくてもいい。
「……はい」
僕も笑う。
「行ってきます」
◆
気づけば、もう出る時間になっていた。
分かっているのに、なかなか門の外へ足が向かなかった。
もう一度、門前に集まった人たちを見る。
ガルドさんも、アルナさんも、フレイヴィアさんも、セラフィーンさんもいる。
女将さんの後ろにはリュシアさんとミミルさんがいて、エイレスさんとミレイアさん、その周りにはギルドの職員やハンター、港の職人、市場の人、教会の人たちまで並んでいる。
二年前、この門をくぐった時には、ガルドさん以外に知り合いなんて一人もいなかった。
それが今では、こんなにもたくさんの人が僕を見送ってくれている。
そう思った途端。
せっかく止まりかけていた涙がまた滲んだ。
「英雄様ー!」
そんな僕へ、遠くからまた声が飛んでくる。
「……やめてくださいよ」
いつも通り言い返したけれど。
今度は、少しだけ笑っていた。
「おっ! 今日は否定が弱いぞ!」
「ついに認めたか!」
「認めてませんよ!」
「英雄様ー!」
「やめてくださいって!」
門前いっぱいに笑い声が広がる。
僕も涙を拭いながら笑った。
二年前。
僕は英雄に憧れていた。
何をすれば英雄になれるのかも知らず、ただハンターになって、強くなって、誰かを助けられるようになれば、いつか近づけるんじゃないかと思っていた。
実際には。
そんなに簡単じゃなかった。
僕は弱かった。
何度も怪我をした。
死にかけたことも一度じゃない。
一人ではどうにもできないことばかりで、そのたびに誰かに助けてもらった。
それでも。
僕も誰かを助けた。
そうやって二年と少しが過ぎた。
今だって、自分が英雄になったとは思わない。
水禍渡りを止めたのは僕一人じゃないし、この街を守ったのも僕だけじゃない。
でも。
この街の人たちが。
僕をそう呼んでくれる。
だったら。
今だけは、何度も必死に否定しなくてもいいのかもしれない。
「……皆さん!」
僕が声を張ると、門前のざわめきが少しずつ静かになった。
何を言おうか。
ずっと考えていたわけじゃない。
ただ。
目の前にいる人たちを見たら、言いたいことは自然と決まった。
「僕が二年前にこの街へ来た時、本当に何も持ってませんでした」
「百ソルもな!」
「ガルドさん!」
いきなり邪魔をされる。
門前から笑い声が上がった。
「……百ソルも借りました!」
「よし!」
「何がよしなんですか!」
僕も笑ってしまう。
その笑いが少し落ち着くのを待ってから。
もう一度、皆を見る。
「宿も知りませんでした。ギルドがどこにあるかも、この街にどんな人が住んでるのかも……人間が滅んだって言われてることさえ、何も知りませんでした」
アルナさんの猫耳が小さく動く。
「ハンターになって、色んな人に会って、依頼へ出て……怪我して、怒られて」
「いっぱい怒りましたね」
アルナさんが笑う。
「はい。いっぱい怒られました」
僕も笑って答える。
「でも、今はその全部が大事です」
少しだけ声が震えた。
角兎亭も。
ギルドも。
教会も。
港も。
市場も。
水禍渡りで傷ついて、それでも皆で直した防波壁も。
そして。
ここにいる人たちも。
「この街で過ごした二年と少しは、僕にとって本当に大事な時間になりました」
視界はもう滲んでいたけれど。
今度は涙を拭わなかった。
「皆さんに会えてよかったです」
一度、深く頭を下げる。
「今まで、本当にありがとうございました!」
一瞬だけ。
門前が静かになった。
次の瞬間。
「こっちの台詞だ!」
誰かが叫んだ。
「ありがとな、ルキウス!」
「助けてくれてありがとよ!」
「うちの街守ってくれてありがとな!」
「また帰ってこい!」
「待ってるぞ!」
「手紙忘れんなよ!」
「土産もな!」
「英雄様ー!」
「最後のはまだ言うんですか!」
泣きながら笑ってしまった。
目の前には、たくさんの笑顔がある。
手を振っている人がいて、泣いている人がいて、その隣ではまた誰かが笑っている。
……ここへ帰ってきたい。
改めて。
そう思った。
僕は荷物の肩紐を握り直し、門の外へ一歩踏み出した。
そこから街道はずっと先まで伸び、その向こうには僕がまだ何も知らない世界がある。
それでも、すぐには前を向かなかった。
もう一度だけ。
振り返る。
二年前には何も知らなかった街が、今では僕が帰ってきたい場所になっている。
その門前で、僕を知っているたくさんの人たちが手を振ってくれている。
「僕、行ってきます!」
声を張る。
「もっと色んなものを見てきます。人間のことも、ちゃんと調べてきます!」
アルナさんが。
ガルドさんが。
フレイヴィアさんが。
セラフィーンさんが。
女将さんが。
そして。
その後ろにいるエルドランの人たちが僕を見ている。
胸いっぱいに息を吸った。
「エルドラン!」
少しだけ声が掠れたけれど。
最後まで、ちゃんと言えた。
「本当に、ありがとうございました!」
大きく手を振る。
「――行ってきます!」
「いってらっしゃい!」
返ってきた声は、一つじゃなかった。
何十もの声が重なり、笑い声や泣き声まで混じって、エルドランの門前いっぱいに響いてくる。
僕も泣きながら笑って。
もう一度、大きく手を振った。
この声を。
きっと忘れない。
そう思いながら。
僕はようやく前を向き、知らない世界へ続く街道を歩き始めた。
第四章、これにて終了となります。
まず初めに、ここまで読んでくださった方本当に、ほんっーーとーに、ありがとうございます!評価感想を下さった方も、ここまで書ききる励みになりました。
これにて、ルキウスの物語は一区切りとなります。エルドランでの冒険を終えて、いよいよ世界に足を踏み出すルキウスがこれから何を知り、何を為していくのでしょう
重ねてになりますが、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!!!
p.s.後一話だけ続きます。