駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第一章 第八話『少年は聖女にも怒られる』

 

 ◆

 

 さらさらと流れる水音が、白い回廊の奥まで静かに響いていた。

 昨日とう血の匂いだけが、この場所にはひどく不似合いだった。

 

「……早かったなぁ」

 

 白い尖塔を見上げ、小さく呟く。

 

 昨日、ハンターとして教会登録を済ませたばかりだ。

 セラフィーンさんからは、怪我をした時には自己判断をせず、早めに教会へ来るように言われた。

 

 だから、言いつけは守っている。

 

 守っているのだけれど――登録した翌日に利用するとは、自分でも思っていなかった。

 

「早すぎるよね……」

 

 受付で事情を伝えると、白い衣を着た男性は一瞬だけ僕の姿を見つめた。

 頬の傷。裂けた袖。血の滲んだ脇腹……何かを言いたそうな顔をしたものの、何も聞かずに奥へ案内してくれる。

 

 その気遣いが、今は少し痛かった。

 

 昨日と同じ処置室の前で待っていると、白い扉が静かに開く。

 

「お待たせしましたー」

 

 白と淡い青の衣をまとい、セラフィーンさんが姿を現した。

 朝日に透けるような金色の髪。その背中には大きな白い翼が寄り添い、深い青の瞳が僕の姿を上から下まで確かめていく。

 

 そして――ほんの少しだけ、目が細くなった。

 

「ずいぶんと、お早いご利用でしたねー」

「はい……」

 

 気まずい。

 

 かなり気まずい。

 

「昨日、登録をされたばかりだったと思うのですが」

「はい」

「できれば、もう少し先までお会いしないことを願っていました」

「僕もです」

 

 セラフィーンさんは怒鳴らなかった。

 声も、昨日と変わらず穏やかだった。

 

 それなのに、静かな分だけ一つ一つの言葉が胸へ刺さる。

 

「ひとまず、傷を確認します。こちらへどうぞ」

「はい」

 

 先に処置室へ入る白い翼を、僕はおとなしく追いかけた。

 

 ◆

 

 白い布を敷いた寝台へ腰掛け、外套と革鎧を外す。

 室内には薬草の匂いが漂い、机の上には水を張った器と、何枚もの清潔な布が並べられていた。

 

「服へ張りついていますね。少し痛みますよー」

「分かりました」

 

 セラフィーンさんが脇腹の布を、ゆっくりと傷口から剥がしていく。

 乾きかけた血が皮膚を引っ張り、細い痛みが走った。

 

「……っ」

 

 思わず息を止める。

 

 セラフィーンさんの視線が、まず頬へ向いた。

 次に腕と肩。そして最後に、ほかより深く切られた脇腹で止まる。

 

「ナイフバードですねー」

「傷を見ただけで分かるんですか?」

「はい。これだけ多くのハンターさんを診ていますと、傷の形にも覚えができますから」

 

 すごい。

 

 熟練の治癒術士ともなれば、傷跡だけでモンスターの種類まで分かるらしい。

 

「では、まず脇腹から――」

「いたっ」

 

 傷の周囲へ指が触れ、声が漏れる。

 

 セラフィーンさんはすぐに手を止めた。

 青い瞳が傷の角度を辿り、そのまま僕の顔へ持ち上がる。

 

「……この傷、避け損ねたものではありませんねー」

「…………」

「ルキウスさん?」

「はい」

「どうして、急に黙ってしまったのですか?」

「正直に言ったら、怒られる気がして」

「正直に話さなければ、もっと怒りますよー」

「ごめんなさい」

 

 ほとんど反射で頭を下げる。

 

 セラフィーンさんは小さく息をつくと、器の水へ布を浸した。

 

「どうして分かったんですか?」

「傷の向きが不自然です。普通にすれ違って切られたのなら、この角度にはなりません」

 

 濡らした布で、血の固まった部分を丁寧に拭われる。

 

 誤魔化せそうにない。

 もっとも、最初から誤魔化すつもりはあまりなかった。

 

 たぶん。

 

「どうして、わざと攻撃を受けるような真似をしたのですか?」

 

 優しい声だった。

 けれど――逃げ道はなかった。

 

「捕まえるためです」

「捕まえるために、刃の翼を脇腹で受けたのですか?」

「はい」

 

 答えると、セラフィーンさんの長い睫毛が伏せられた。

 青い瞳へ淡い影が落ちる。

 

「……そうですか」

 

 ただ、それだけだった。

 

 怒鳴られたわけでも、呆れられたわけでもない。

 それなのに、僕は自然と背筋を伸ばしていた。

 

「それでは、先に傷を塞ぎましょう」

「お願いします」

 

 セラフィーンさんが脇腹へ手をかざす。

 細い指先から、水に朝日を溶かしたような光がこぼれた。

 

 光が、熱を持った傷へ静かに染み込んでくる。

 

「……っ」

 

 痛みが引いていく。

 脇腹へ残っていた熱が、冷たい水に流されるように薄れていく。

 

 二度目でも、まだ慣れない。

 

 身体の内側へ細い流れが生まれ、傷ついた場所まで迷わず届いてくる。

 血が止まり、裂けていた皮膚がゆっくりと元の形へ戻っていった。

 

「やっぱり、すごいな……」

 

 思わず呟く。

 

 その直後――セラフィーンさんの指先が、ほんの僅かに止まった。

 

「……やはり、治癒の通りがとても良いですねー」

「良いこと、なんですよね?」

「はい。治療をする上では、とても助かります」

 

 治療をする上では。

 

 少しだけ、言い方が引っかかった。

 

 それ以外では、何か問題があるのだろうか。

 尋ねようと顔を上げる。

 

 けれど、セラフィーンさんはすでに次の傷へ視線を移していた。

 

「腕も治しますねー」

「はい」

 

 それ以上聞く機会を逃し、僕は差し出した腕を見つめた。

 

 淡い光が、腕から肩、頬へと順番に移っていく。

 小さな傷が一つずつ消えていき、身体が少しずつ軽くなっていった。

 

「それで――」

 

 頬の傷へ手をかざしたまま、セラフィーンさんが口を開く。

 

「どうして、攻撃を受けなければならないと思ったのですか?」

「普通に戦っても、当てられなかったんです」

「はい」

「速すぎて、目で追えなくて。剣を振っても、避けられてばかりでした」

 

 セラフィーンさんは何も挟まず、続きを待っている。

 

「でも、ナイフバードが攻撃する時だけは、向こうから近づいてきます」

「それで、自分の身体を餌にして動きを止めようと思ったのですね」

「……はい。それしか思いつきませんでした」

 

 光だけが、二人の間で静かに揺れていた。

 

 セラフィーンさんはしばらく黙り、僕の頬から手を離す。

 そこにあった痛みは、もうほとんど残っていない。

 

「それは、勝つための方法にはなります」

「はい」

「ですが――生き残るための方法とは限りません」

 

 静かな言葉が、胸の奥へ落ちた。

 

 勝つための方法。

 生き残るための方法。

 

 僕は、ナイフバードに勝った。

 依頼を達成し、素材も持ち帰った。

 

 けれど、そのために自分から脇腹を差し出した。

 

 ――それでも、勝ちは勝ちだ。

 

 そう思う。

 

 けれど、セラフィーンさんが伝えたいのは、そういう話ではないのだろう。

 

「傷つくことを前提とした戦い方は、何度も続けられるものではありません」

「……はい」

「痛みに耐えられることと、身体が壊れないことも別です」

「…………」

 

 自分が痛みに強いことは、昔から知っていた。

 

 母との訓練でも、転んだり殴られたりしたくらいなら、すぐに立ち上がれた。

 今日だって、傷は痛かったけれど、動けないほどではなかった。

 

「私の治癒術も、万能ではありません」

 

 セラフィーンさんの手が、塞がったばかりの脇腹へ新しい布を当てる。

 

「治せない傷もあります。取り戻せないものもありますし、すべての病を癒せるわけでもありません」

「……そうなんですか」

「もちろん、そうあれるように日々努力はしていますけどねー」

 

 そこでようやく、表情が少しだけ柔らかくなった。

 

 けれど、何も言い返せなかった。

 

 治癒術を使えば、傷は消える。

 痛みもなくなる。

 

 だから、傷ついても最後に治せばいい。

 

 心のどこかで、そんなふうに考えていたのかもしれない。

 

「弱いんです、僕」

 

 気づけば、言葉が口からこぼれていた。

 

 セラフィーンさんの手が止まる。

 

「追えなくて、当てられなくて。避けるのも下手で……普通に戦っていたら、勝てませんでした」

「はい」

「肯定」

 

 思わず顔を上げる。

 

「否定しても、傷は減りませんからー」

「…………」

 

 予想していたより、かなり真っすぐ肯定された。

 

 少し痛い。

 

 先ほどまでの傷より、こちらの方が痛いかもしれない。

 

「もう少し、励ますような言葉が入ると思いました」

「嘘を言っても、ルキウスさんが強くなるわけではありませんから」

「それは……そうですね」

 

 正しい。

 

 正しすぎて、何も言えない。

 

「それに、弱いことと、自分の命を雑に扱ってよいことは別です」

 

 セラフィーンさんの声は、相変わらず穏やかだった。

 

 けれど、その柔らかな声音の奥には、曲がらない芯がある。

 静かな水の底に、動かない石が沈んでいるようだった。

 

「私は、傷を治します」

「はい」

「ですが、傷ついていた時間までは戻せません」

 

 脇腹へ当てられた白い布を見る。

 

 傷は塞がっている。

 もう血も流れていない。

 

 けれど、外套は大きく裂けたままだ。

 布へ染み込んだ赤い跡も、なくなったわけではない。

 

「流れた血も、怖かった思いも……誰かがルキウスさんを心配していた時間も、なかったことにはできません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、アルナさんの顔が浮かんだ。

 

 受付台から飛び出してきた時の顔。

 僕の傷を見て、猫耳と尻尾を大きく膨らませていた姿。

 

 本気で心配して。

 本気で怒っていた。

 

 それなのに、僕は大丈夫だと笑っていた。

 

 歩けるから。

 意識もあるから。

 依頼を達成したから。

 

 ――けれど、それは僕だけの話だった。

 

「……すみません」

「私へ謝るより、次へ活かしてください」

「はい」

「本当に分かりましたか?」

「本当に本当です」

 

 セラフィーンさんが、僅かに首を傾げる。

 

「……少し不安ですが、信じることにしましょー」

「セラフィーンさんにも不安がられた……」

「人を不安にさせている自覚はありますか?」

「少し」

「少し」

「……かなり」

「はい」

 

 セラフィーンさんが、ふっと小さく笑った。

 それまで張っていた空気が、ようやく少しだけ柔らかくなる。

 

「治療は終わりましたよー」

「ありがとうございます」

 

 脇腹へ手を当てる。

 

 傷は塞がっている。

 腕も肩も、頬も痛まない。

 

 先ほどまで身体へ残っていた熱と重さが、嘘のように消えていた。

 

「すごい……」

「ですが、今日はもう依頼を受けないでくださいねー」

「え」

 

 反射的に声が出た。

 

「ルキウスさん?」

「あ、いえ。もちろん分かっています。怪我を治したばかりですからね」

 

 青い瞳が、じとりとこちらを見る。

 

「……本当に?」

「本当に本当です」

「そうですか。まあ、すでにギルドへもお伝えしてありますが」

「そこまで」

 

 逃げ場がなくなっていた。

 

 いや、逃げるつもりなどない。

 たぶん。

 

「次は、できれば怪我をする前に来てくださいねー」

「怪我をする前に教会へ来るのは、難しくないですか?」

「では、怪我をしないようにしてください」

「それは、もっと難しい気がします」

「それでも、目指してください」

 

 セラフィーンさんは真顔だった。

 

 たぶん、冗談ではない。

 

 ハンターとして活動する以上、一度も怪我をしないのは難しいのだと思う。

 それでも、怪我を減らすことはできる。

 

 少なくとも――わざと脇腹を差し出すのは、もうやめた方がいい。

 

 それくらいは、僕にも分かった。

 

「ありがとうございました、セラフィーンさん」

「はい。どうか、お大事にー」

 

 深く頭を下げ、処置室をあとにする。

 

 白い回廊を進む途中、流れる水の音へ耳を澄ませた。

 

「勝つ方法と、生き残る方法……」

 

 同じではない。

 

 その言葉を忘れないよう、もう一度だけ口にしてから、教会を出た。

 

 ◆

 

 ギルドへ戻ると、アルナさんは受付台の前で待っていた。

 僕の姿を見つけるなり、栗色の猫耳をぴんと立て、すぐにこちらへ歩いてくる。

 

「大丈夫でしたか?」

「はい。セラフィーンさんに、全部治してもらいました」

 

 両腕を軽く広げてみせる。

 

 アルナさんは頬と腕、それから脇腹へ視線を走らせたあと、胸へ手を当てて息を吐いた。

 

「よかったです……」

 

 本当に安心したような顔だった。

 

 その表情を見ていると、治ったはずの胸が少しだけ痛む。

 

「あの、アルナさん」

「はい?」

「心配をかけて、すみませんでした」

 

 頭を下げる。

 

 アルナさんは少しだけ目を丸くした。

 それから、柔らかく眉を下げる。

 

「ハンターに怪我は付き物です。怪我をしたこと自体を、責めているわけではありませんよ」

「はい」

「ですが、怪我を顧みない戦い方は別です」

「もう、自分から攻撃を受けるのはやめます」

「絶対ですよ」

「はい」

 

 右手の小指へ視線を向ける。

 

 今度は指を結ばなくても、約束は伝わったらしい。

 アルナさんの猫耳が、ようやく普段の位置へ戻った。

 

「それでは、今回の依頼の報告を済ませましょう」

 

 受付台へ戻ると、依頼達成の確認書と、小さな革袋が置かれていた。

 

「ナイフバード一体の討伐。依頼達成です」

「ありがとうございます!」

 

 革袋を受け取る。

 初報酬の時ほど珍しくはない。

 

 それでも、自分で受けた仕事の報酬は、やはり嬉しかった。

 硬貨が触れ合う小さな音を聞くだけで、頬が緩む。

 

「それと、今回は素材の状態がよかったので、買取額を少し上乗せしています」

「本当ですか?」

「はい。昨日の剥ぎ取り講習が、きちんと身についていたようですね」

 

 アルナさんが、素材確認の書類を見せてくれる。

 

 硬羽根。

 嘴。

 状態良好。

 

「グラムさんも褒めていましたよ」

「グラムさんが?」

「はい」

 

 アルナさんは喉を低く鳴らし、眉間へ力を入れた。

 

「『昨日の今日にしては、なかなかやるじゃねぇか』――だそうです」

「似ています」

「本当ですか?」

「耳以外は」

「そこは似せられません」

 

 さすがに、猫耳を獅子の耳へ変えることはできないらしい。

 

 でも、よかった。

 

 昨日、頭の中で何度も手順を思い返した成果が出ている。

 失敗していなかったことへ、胸を撫で下ろす。

 

「…………」

 

 ふと顔を上げると、アルナさんがじっとこちらを見ていた。

 

 それはもう、声へ出してしまうほどじっと。

 

「えっと……」

「ルキウスさん」

「はい」

「装備が、ぼろぼろですね」

 

 言われて、自分の姿を見下ろす。

 

 外套は裂けている。

 袖にも何本もの切れ目が入り、脇腹の布は大きく開いていた。

 

 革鎧にも、浅い傷がいくつも残っている。

 手袋は薄く、靴の底も少し擦り減っていた。

 

「……確かに」

 

 改めて見ると、かなり心許ない。

 

 アルナさんが、人差し指をぴしりと立てる。

 

「というわけで、ルキウスさん」

「はい!」

「装備を整えましょう」

「装備?」

「はい。装備です」

 

 首を傾げる僕へ、アルナさんが真剣な顔で頷いた。

 

「さすがに、必要でしょうか」

「さすがに必要です。それに、もともとルキウスさんの装備は、最低限のものでしたし」

「必要最低限」

「……いえ」

「え?」

「必要最低限にも届いていませんね」

「届いていなかった……」

 

 衝撃だった。

 

 自分では、それなりに準備をしてきたつもりだった。

 母から持たされた片手剣も、革鎧もある。

 

 けれど、最低限にも届いていなかったらしい。

 

「ナイフバードの攻撃も、腕当てや厚手の手袋、首元を守る防具があれば、かなり防げます」

「そうなんですか?」

「脇腹も、きちんと補強されていれば、これほど深い傷にはならなかったかもしれません」

「僕が弱いから、というだけではないんですね」

 

 アルナさんが、ゆっくり頷く。

 

「弱いからこそ、装備で補うのです」

 

 優しい声だった。

 けれど、言葉ははっきりしている。

 

 装備は、強い人がさらに強くなるためだけのものではない。

 

 弱い僕が、生きて帰るためのものなのだ。

 

「買います!」

「では、予算を確認しましょう」

「予算」

「当然です。無料で装備を配っている防具屋さんはありませんから」

 

 それは、そうだ。

 

 僕は腰から小銭入れを外し、受付台へ置いた。

 初依頼から貯めてきた報酬が入り、少しだけ重くなっている。

 

 アルナさんが中身を出し、硬貨を種類ごとに分けていく。

 

「…………」

 

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 

 数え終えたところで、猫耳が横へ傾いた。

 

「全然足りませんね」

「ですよね」

 

 届かなかった。

 

 薄々分かってはいたけれど、やはり駄目だったらしい。

 

 宿代も必要だ。

 食事代もかかる。

 

 剥ぎ取り用の道具を揃えたばかりで、ガルドさんへ返す百ソルも貯めなければならない。

 

 英雄への道は、とてもお金がかかる。

 

「すぐに装備一式を揃える必要はありません」

 

 肩を落とした僕へ、アルナさんが依頼書の束を取り出す。

 

「まずは最低限、傷んだ部分の補修と、足りない防具を追加しましょう。それでも、ある程度のお金は必要になります」

「どれくらいですか?」

「ルキウスさんの現在の装備で、無理なく受けられる依頼を続ければ……一週間ほどでしょうか」

「一週間」

「はい。明日から受ける依頼を、こちらで見繕っておきます」

 

 何枚かの依頼書が、受付台へ並べられる。

 

「採取、運搬、簡単な捕獲に、ギルド内での素材整理。剥ぎ取りの練習も続けましょう」

「討伐依頼は?」

「控えめにします」

「……はい」

 

 本当は、もっと討伐依頼を受けたい。

 

 けれど、この場で無理に頼めばどうなるかは、想像できる。

 アルナさんだけでなく、セラフィーンさんにまで話が届くかもしれない。

 

 二人から同時に怒られるのは避けたい。

 

「報酬は、宿代と食費を引いて貯金します」

「はい」

「一週間後、必要な装備を買いに行きましょう」

「分かりました!」

 

 大きく頷く。

 

「一人では行かせません。私もついていきます」

「え」

「変なものを買いそうですので」

 

 即答だった。

 

「僕は買い物をしたことくらいあります」

「どこでですか?」

「……母と暮らしていた森では、ありません」

「では、初めてですね」

「初めてです」

 

 抵抗は一瞬で終わった。

 

 一体、どこでここまで信用を落としてしまったのだろう。

 

 何の経験もないまま、ハンター登録へ来た。

 

 初依頼で泥と血にまみれ。

 その次の依頼では、わざと攻撃を受けて帰ってきた。

 

「……仕方ないかもしれません」

「何がですか?」

「何でもありません」

 

 自分の過去の行動を思い返し、おとなしく頷く。

 

「分かりました。でも、よいのですか? 僕の買い物に付き合ってもらって」

「はい。これも受付の仕事ですから」

「ありがとうございます!」

 

 受付嬢という仕事は、装備を買うところまで手伝ってくれるらしい。

 改めて、アルナさんには助けられてばかりだと思う。

 

「ひゅー! よかったなぁ、アルナちゃん!」

 

 背後から、楽しそうな声が飛んできた。

 

 振り返ると、灰色の毛並みをした獣人族の男性が、酒杯を片手にこちらを見ている。

 

「初めてのデートの約束、無事にできたじゃねぇか!」

「デート?」

 

 知らない言葉ではない。

 

 男女が二人で出かけること。

 物語にも、たまに出てくる。

 

「ち、違います!」

 

 アルナさんの猫耳と尻尾が、一瞬でぴんと立った。

 

「これはルキウスさんの装備を整えるためで、受付業務の一環です!」

「でもでもー」

 

 今度は、小人族の女性が頬杖をつきながら笑う。

 

「私がこの前、遊びに誘った時は、『仕事がありますので』って断ったじゃない」

「マ、マキアさん。それは、本当に仕事がありましたから!」

「あーあ。私も装備を新しくしたかったのになぁ」

「からかわないでください!」

 

 頬を赤くして弁解するアルナさん。

 周囲のハンターたちも、面白そうに笑っている。

 

 困ってはいるようだけれど――どこか楽しそうにも見えた。

 

「ルキウスさんも、笑わないでください!」

「すみません。皆さん、仲がよいんだなと思って」

「そりゃあ、仲はいいとも!」

 

 灰色の獣人族が、酒杯を一息に空ける。

 

「俺たちは、アルナちゃんがこのくらいの頃から知ってるからな!」

 

 親指と人差し指で、小さな隙間を作る。

 

 小さすぎる。

 

 あれでは、酒杯くらいしかない。

 

「さすがに、そこまで小さくはありませんよね?」

「当たり前です!」

 

 アルナさんが振り返る。

 

 獣人族の男性は豪快に笑い、僕へ手招きをした。

 

「お前もこっちへ来いよ、ルキウスだったか? アルナちゃんの小さい頃の話を聞かせてやる!」

「いいんですか?」

「よくありません!」

 

 僕が一歩踏み出すより先に、アルナさんが声を上げた。

 

「ほら、何を飲む? 今日は俺の奢りだ」

「では、果実水を」

「ちょっと、ルキウスさん!」

「これは、アルナちゃんが八歳の頃なんだけどねぇ」

 

 マキアさんが楽しそうに口を開く。

 

「こ、こらー! やめてください!」

 

 アルナさんが受付台から飛び出した。

 

 話を止めようとマキアさんの口へ手を伸ばす。

 けれど、小柄な身体でするりと避けられた。

 

 獣人族の男性が笑う。

 近くのハンターたちも、次々と面白そうに声を上げる。

 

 その中心で、アルナさんは頬を赤くして怒っていた。

 

 でも――やはり、少し楽しそうだった。

 

「……ふふ」

 

 僕の口からも、自然と笑いが漏れた。

 

 怪我をした。

 怒られた。

 

 自分の弱さを認め、装備を買うために一週間、お金を貯めることになった。

 

 それでも、こうして笑える場所がある。

 

 そのことが――少しだけ嬉しかった。

 

 結局、その日は夜までギルドの食堂へ残ることになった。

 

 聞かされたアルナさんの幼い頃の話が、どこまで本当で、どこから大げさに盛られているのかは分からない。

 

 ただ一つ、確かに分かったことがある。

 

 この街には、僕の知らないことがまだたくさんある。

 

 そして明日からは――装備を買うための、地道な一週間が始まるのだった。

 

 




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、教会での治療、そしてアルナとのデートの約束でした。
次回はルキウスの愉快な一週間の話です。

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