ベルフール=デヴィナ修道院の朝は早い。
ここに預けられた貴族の子弟は、これまでに
午後八時に就寝し、午前一時四十五分に起床。すぐに聖堂で
「我らが主の家はいかがでしょう、テレジア様」
「なんて素晴らしい日課なのでしょう。みなさまの無私の祈りが伝わってきました。わたしたちは、同じ山の頂に、違う道から到達しようとしているだけ。その思いが、いっそう強くなりました」
誇らしげに訊ねた修道院長に、テレジア・リーゼロッテは答えた。
修道院長は涙ぐんだ。たとえ宗派が異なろうと、目指す頂は同じ。その言葉を、五百年も対立していた相手から聞けたのだ。
それも、おためごかしではない。
(テレジア様は本心から言ってくださっている――)
彼女は人の嘘を見抜くことにかけては自信がある。それゆえ、断言できる。テレジアは、一度たりとも嘘を言っていなかった。
嘘を見抜くことができる、と公言する人間は概ね間違っている。見抜けなかった嘘が嘘として認識されることはない。
だがこの場合、素晴らしい日課であるというテレジアの言葉に嘘はなかった。
(この日課を考えたお方こそ、最も主に近づいたお方!)
俗世から切り離し、情報を遮断する。そこで権威の導きにしたがい、同じ価値観を持つ仲間と、信仰を深めてゆく。聖務や日々の労働、睡眠時間の削減によって精神的・身体的に疲弊させることで、思考力を奪う。
生活がパターン化されていることも大切だ。考えるまでもなく、体が勝手に動くようにすること。そうすることで人は自発的な行動を起こせなくなる。
こうして空っぽになった頭に繰り返し教義を教え込み、信仰の喪失は神に見捨てられることと同義であると危機感をあおれば、信仰が完成する、というわけだ。
(この見回り制度は勉強になります。ただ、見回りをするときに院長の姿が見えるのはいただけませんね。これでは監視されている時間と、監視されていない時間がわかってしまいます。うちでは、部屋の格子窓を斜めにして、院長から全員を監視できるようにしましょうか。気散じは信仰の障害ですからね。それと、修道士に対して平等すぎました。優秀な人間を贔屓して、修道士同士で相互監視させなくては。賞罰がはっきりしますから、点数制もいいかもしれません)
テレジアは、自身の派閥の修道院の改善計画を素早く頭の中で組み立てた。
視察の最中、テレジアに恐縮しているためか、修道士や修道女たちはよそよそしい態度を取っていた。
馬鹿にむやみに絡まれないのはありがたいことだ。
視察を終えると、テレジアは修道院内の院長の館に招かれた。昼食には、約三百グラムのパン、オートミール、
修道院でのもてなしとしては上等な部類だった。
だがテレジアは、
「わたしには贅沢すぎます。蜂蜜酒だけいただきますね」
と断った。
べちょべちょのオートミール、薄汚い養魚場で育てられた鱒。院長は気づいていないのだろうが、パンは養魚場の水で練り上げたもののようだった。料理人が遠くの井戸まで汲みに行くのを渋っているのだろう。そんなものを食べる気にはなれない。それがベルフール派の修道院で作られたものならなおさらだ。
信仰を盾にすれば、評判が上がりこそすれ、下がることはない。テレジアは自身が聖女であることに感謝した。
「よろしければヨハンさん、あなたが食べてください。院長さん、申し訳ありませんが、蜂蜜酒をもうひとつ」
テレジアは側に控えていた若い修道士に言った。思わぬ恵みにヨハンは目を丸くして「ありがとうございます」と食事を取った。
院長は何かあればヨハンに訊ねるようテレジアに言うと、一時的な用事のために外へ出ていった。
しばしの沈黙ののち、ヨハンは言った。
「テレジア様。じつはお話があります。フローラ様の罪について……」
テレジアは少し考えた。
(そうですね……こんな小物、直々に相手をする価値もありませんが。フローラの悔しがる顔くらい、拝んでもいいかもしれませんね)
これは使えるかもしれない。
テレジアは
「わたしでよければ、お話をお聞きしましょう。ここでは人の耳もあるかもしれませんし、終課のあとに、わたしのお部屋に来ていただけますか?」
* * *
ヨハンは羊飼いの家の三男坊であった。
上に兄が二人いたが、両親と二人の兄が発熱をしたかと思えば、体中に黒い
教会の神父がヨハンを修道院まで連れてゆき、ヨハンはベルフール=デヴィナ修道院に預けられることになった。
「神様がいるなら、ぼくの家族はどうして死んだの?」
ヨハンは訊ねたが、修道院長はにべもなかった。
「その答えは、信仰の果てに、あなた自身が見つけなさい」
修道院に預けられて四年が経つと、ヨハンは十四歳になった。
四年が経っても家族が死んだ理由はわからなかったが、この頃から、祈りを続けていると、ときどき誰かの視線を感じるようになる。その視線はヨハンの遥か上空から向けられているもののようだった。
「それは主かもしれませんし、悪魔かもしれません。いずれにせよ、いまは、あなたの信仰が試されているときなのです」
修道院長はそう言うと、ヨハンの頭を撫でた。従順な彼は、この四年で、院長のお気に入りになっていたのであった。
ヨハンは自らの信仰を深めていったが、そこに現れたのがフローラであった。
まだベルフールの名を持たなかった彼女は、あっという間に、修道院の花形となった。院長も彼女に夢中になっているようだった。
だから。
ヨハンはフローラの聖書を隠した。
すぐに返してやるつもりだった。
ただ一時、恥を与えてやりたいだけだった。
つまらぬ嫉妬心。
それだけだった。
宵課の時間、フローラは聖書を見ずに朗々と暗唱をしてみせた。宵課が終わるとフローラはヨハンの前まで来、囁いた。
「主はいつでもあなたを見ておりますのよ」
その瞬間、確かにヨハンは視線を感じた。祈りの最中に、時折、感じる視線。その視線がまとわりついて離れない。
見られている。
主に、見られている。
それからだ。
腐った食材が混じるようになった。
鍵が壊れて、部屋に閉じ込められた。
机に広げておいた写本が油まみれにされていた。
「すまなかった」
とヨハンはフローラに謝罪した。
だがフローラは「なんのことでしょうか」と小首を傾げた。
「ぼくが、きみの聖書を隠した……許してくれ」
「まあ……あれはヨハン様が。どうしてそんなことをされたのかお聞きしたいところですが、もちろんです。主はすべてをお赦しになりますわ」
それでヨハンは安堵したが、怪現象は一向に収まらなかった。
修道院長に訴えると、フローラのせいだというヨハンの発言を聞き咎めて、懲罰房で鞭打ちにされた。
そして何年かして、ようやくフローラが修道院を出て行くことになり、
すべての怪現象は、
「ご安心くださいませ。主はいつでもあなたを見ていてくださいますから」
収まらなかった。
フローラじゃ、ない。
部屋の鍵が壊れている。
机に油を塗られている。
料理人がヨハンの皿に腐った材料を混ぜている。
一年後、フローラが修道院に訪問したとき、ヨハンは言った。
「フローラ……様……」
「あら、ヨハン様。どういたしまして? わたくしたちは兄妹でしょう? そんな他人行儀な話し方はやめてくださいませ」
「許してください……この通りです」
ヨハンが地面に頭をこすりつけると、フローラは邪悪な笑みを浮かべた。
「そうね。あと二年で、わたくしは聖女になりますわ。そのとき、この修道院にテレジアという女が訪ねてくるはずです。そのときにあなたが彼女の信頼を得て、わたくしの指示通りのことをしたなら……そのときは、ヨハン様は幸せになれるのではないかしら?」
「二年……耐えろというのですか」
「ですから、ヨハン様が何に耐えておられるのか、わたくしは知らないのですけれど。でもそうね、今日から二年間、ヨハン様は平穏な日々を送ることができるでしょう」
ですが、とフローラは言った。
「どうか、主がいつでもあなたを見ておられることをお忘れなく」
ヨハンはフローラに従うしかなかった。
* * *
窓のない、真っ暗な部屋だった。
光源はろうそくの炎しかない。テレジアの目の奥で、ろうそくの炎が、ちらちらと揺れている。
「まあ、そんなに酷いことが。なぜフローラ様はそのようなことを」
フローラに指示されたのは、テレジアにフローラが「したままのこと」を言い、テレジアにフローラを告発させることであった。そして裁判で証言をするとき、それらの発言はテレジアに脅されてしたものなのだと証言を翻す。こうしてテレジアの名声を地に落とす――というのが、フローラの計画であった。
「ですが、わかりました。テレジア・リーゼロッテ・エピス・デヴィナの名に誓って、ヨハンさんの勇気を無駄にはしません」
言って、テレジアは微笑した。
その威厳ある名乗りにあわせて、薄桃色の幼い
「正直なところ、まだこの名乗りには慣れていない、頼りない聖女なのですが……ご相談には、微力を尽くしますね」
こんなに健気な聖女――フローラのような偽物の聖女とは違って――を陥れようとしていることに罪悪感がないではなかった。
だが、こんな少女にフローラに対抗する力があるはずもない。虫の一匹だって殺せなさそうな顔をしているではないか。
「ところでヨハンさん、最近、痛みを感じましたか?」
安心したのも束の間、テレジアの質問に、ヨハンは緊張した。どういう意図の質問なのか、わからない。
だが、答えないわけにはいかない。ヨハンは首を横に振った。
「そうなのですね。それは幸いでした。ですが、左手の指に傷跡があります。新しい傷です」
テレジアの視線に合わせて、自分の指を見た。
確かに、傷がある。数日前に、ナイフをすべらせて怪我をしたのだ。幸いにも軽傷だったが、忘れていた。
テレジアが、ヨハンの目を覗き込んだ。彼女の藍色の瞳は、優しげな光をまとっている。目の奥で、ろうそくの火が揺れている。
「嘘――ではなかったのでしょう。痛みを忘れることは、自然なことです。記憶は、あなたの味方です。だから、都合の悪いことは、忘れてしまうようになっています。
じつはわたしも、悪いことをしてしまったことがあるんですよ。最近まで、わたしは一度もミサを休んだことがないのだと思い込んでいました。でも、牧師様によると、小さな頃にミサを何度もズル休みしていたようなのです。痛みや罪悪感などの、自分にとって辛かったり、都合が悪かったりする記憶は、忘れてしまうものなのですね」
テレジアは寛大に言った。
「ですが、時には思いだすことも必要です。神は
厳かに言って、すぐに慈悲深い声音に戻る。
「ヨハンさんのお家は、羊を飼っていたのですね」
なぜそれを? とヨハンは疑問に思った。
「飼っていた羊は、一、二、三……」
テレジアはあたかも眼の前の羊を数えるように指を動かした。「四頭、いえ、五頭でしょうか?」
的中していた。
ヨハンは驚愕する。この人には、千里眼があるのかもしれない。
テレジアは正確に、ヨハンの過去の思い出をなぞってゆく。
「当時のことを、頭の中で思いだしてください。思いだせなくても、イメージしてください。それが、あなたの記憶を呼びもどすのに大切です。口の中で、いえ、頭の中でも構いません。繰り返してください。思いだせなかったら、イメージ。わかりましたか? さあ、思いだしましょう。イメージしましょう。羊の毛の色、柔らかさ、独特な匂い、草を踏む感覚、真っ青な空に浮かぶうつくしい太陽……当時の光景が、頭の中に蘇ってきませんか? 教えてください、ヨハンさん。羊の毛の色は、何色ですか? 白ですか? 土埃がついて、灰色もほんのり混じっていませんか?」
テレジアは身を乗り出して畳み掛ける。だが、すぐに顔を赤らめて、
「すみません、急ぎすぎましたね。わたしのこと、お行儀の悪い聖女だと思ったでしょう?」
居住まいを正して、修道服のしわを伸ばす。
「思いだせますか? イメージできますか? 羊の毛の色について……」
それから、ゆっくりとヨハンの返事を待った。
「土埃は、黄色でした……」
「教えてくれて、ありがとうございます」
テレジアは、胸元の十字架に手を重ねた。最初に右手を、次いで左手を。ヨハンは、その手を見た。美しい、真っ白な手。
「ここだけの話ですが、わたしにはあなたの過去が見えています。はっきりしたものではなく、ぼんやりとしたものなのですけれど……たとえばあなたが羊飼いの家に生まれたこと、羊の数が五匹だったこと、ご家族がなくなって修道院に引き取られたこと。そしてあなたが、」
テレジアは痛ましそうに言った。
「自傷行為をしたこと。あなたは自ら首を吊ろうとしたのです」
「違います」
ヨハンはとっさに答えた。そんな記憶はない。
「ですが……いえ、そうなのですね。では、仮にでよいので、イメージしてください。もし当時、首を吊ろうとしたとしたら、それはどんなロープだったと思いますか?」
言って、テレジアは机にロープを乗せた。
「このロープを見てください。結い方、ほつれ方、手触り、匂い……よく観察して、思いだしてください。あなたは森に、どんなロープを持っていきましたか? それはどこにあって、どんなロープでしたか? どんな細かいことでも教えてください」
ヨハンは、眼の前の縄を見て想像した。森に持っていくなら、実家にあるロープだろう。
確か、羊小屋に、ロープがあった。柵を修繕するためのものだ。
あのロープは麻でできていて、麻の匂いのほか、羊たちの匂いも染みついていた……。
「羊小屋から、ロープを持っていったんですね。そのあと、羊小屋から、どうやって森に行きましたか? 最初に頭の中でイメージして、それから教えてください。まず、小屋の出口からです。どんな風景が見えますか? 当時の気温は、どうだったと思いますか? 風は穏やかでしたか? それとも、強かったですか?」
「風は……あまり吹いていませんでした。暖かくて、風が草を揺らしていました」
と、ヨハンは言った。
「心地のよい日だったのですね。それでヨハンさんは、どちらに向かいましたか?」
「右です。森に行くためには、柵を出る必要がありますから」
「左に行けない理由は、他にもありませんでしたか?」
「そうですね……」
「何でも良いんですよ。思いついたことを、言ってください」
「水たまりでも、あったのだと思います」
「なるほど、それなら左には行けませんね。では、前日に雨が降ったのでしょうか。それとも当日?」
「当日です」
「地面から、草の匂いに混じって、雨の匂いがしたでしょうね」
「そうですね」
「その水たまりを覗き込んでみてください。濁っていましたか? 澄んでいましたか? 水たまりの底には何がありますか? イメージがくっきりと浮かぶまで、じっくり観察してください」
そんなやり取りが続いて、ヨハンは、自分が首を吊るための木へと辿りつく。
そして、木の種類、色、形、匂い、触覚、周囲の音……そのすべてを再現させられる。それらは、ふだんの記憶よりも鮮明で、自分が本当にそんなことを体験したかのような……いや、そんなはずはない。自分は自殺をしようとなんて……本当にそうか? 存在しない光景が、こんなに鮮明なわけが……
「でも幸運なことに、失敗したのですよね」
「……はい」
「どうして失敗したのですか?」
「木の枝が折れたんです。細い枝でしたから」
「それはよかった。主の思し召しだったのでしょう。木が折れたとき、どんな感じでしたか? 首元にかかっていた圧力が一気に消えて、ぬかるんだ地面に落ちたんですよね。どんな感触だったか、説明してください」
「すっと軽くなって……地面に、尻から着地しました。最初は固くて、腰も傷みましたが……そのあとで、べちょべちょした感覚に気がつきました」
テレジアの誘導に慣れてきたヨハンは、迷わずに感覚を語るようになっていた。
「そのとき、どんな気持ちになりましたか? 言ってみれば、失敗したわけですよね。以前に、死にたい、という気分になったことは? そのときと同じだったでしょうか? それとも、違いましたか?」
「そうですね……悲しかったです」
「失敗して、悲しかったのですね。では、なぜ自ら死を選ぼうとしたのでしょう? 何か、罪を犯したのでしょうか? よく思いだしてください」
「……わかりません、わからないんです、本当です……」
「悪夢を見たことはありますか? 人を殺めてしまった、物を盗んでしまった……そんな悪夢を。悪夢の大半はまやかしですが、中には真実もあるのです。あなたが犯した罪を示す悪夢……それを教えてください。できるだけ、はっきりと」
それでヨハンはすべてを
「私は……砂糖を盗んだのです。甘い砂糖が欲しくて……店主の目を盗んで、懐に入れました」
「その店主さんの姿を思い出してください。どんな服を着ていましたか?」
「黄色っぽい、くるぶしまである服です……六十をすぎていたと思います」
「骨で筋張った手をしていましたか?」
「はい……」
「どうやら、わたしが見たものと、同じ光景のようです。そのおじいさんは孫娘の結婚式のために資金を必要としていました」
「私が、罪を犯した……」
「そうです。だからあなたは自殺をしようとした。ですが、あなたは生き延びた。主の怒りの矛先は、どこに向いたのでしょう」
「あ……ああ……」
神様がいるなら、ぼくの家族はどうして死んだの?
ここに引き取られたときに、修道院長に訊ねた質問が脳裏をよぎった。
ぼくの家族は。
神様が、いるから。
死んだ。
「あなたが犯した罪、他にもありませんか? たとえば……フローラ様の罪に加担したことは?」
テレジアは慈悲深い笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、ヨハンさん。主はいつでもあなたを見ておられます。あなたが罪を認めれば、あなたをお赦しになるでしょう」
* * *
ヨハンを部屋から追い出したテレジアは屈辱に震えていた。
(こんな弱い駒でわたしをハメられると思われたことが屈辱ですね)
ヨハンは、簡単な誘導にもすぐに引っかかる能なしだ。
(いえ……このような雑魚だからこそなのでしょうか。土壇場で裏切られても、この程度ならなんとかなりますからね)
計画を乗っ取るためにはヨハンを使わなくてはならない。だが、ヨハンを使った計画などリスクが高すぎる。だからこそ、フローラはヨハンを使ったのだろう。
ヨハンほど与し易い人間はいない。あんなチャチな手品に騙されるくらいなのだから。
ヨハンは羊飼いであることを当てられたことに驚いていたが、あんなのは事前に情報を収集すれば誰でも知ることができる。羊の数は、数えあげるふりをして、相手の反応をうかがっていただけだ。あんな教養のなさそうな人間、羊を十頭も飼う家の出ではないだろう。三頭を数えた辺りで緊張していたので、続く数字はわずかにテンポを落とし、さらに緊張を煽るようにした。少し訓練すれば誰でもできる技術だ。
その上で偽の記憶を植えつけた。
自身の罪に向き合わせ、擬似的な死を与えることで、人間はとても操りやすくなる。人間にはリアルな想像を現実と思い込んでしまう癖があることを、テレジアは実践の経験から知っていた。
悪夢が過去を示すなら、世の中の人間は誰だって殺人鬼だが、簡単な暗示状態にかかっていたためか、ヨハンはすんなりと受け入れた。本来なら一週間くらいかけて、じっくりとやるものなのだが……。
この分では、神の視線とやらも妄想だろう。
仮に神がいたとして、ヨハンのような下等な人間に目を向けることはないだろうが。
そう思ってテレジアは視線を上に向け、
(ああ、なるほど。これが主の視線とやらですか)
テレジアの視線の先には、小さな穴が開いている。板をスライドさせることで、穴を隠すことのできる仕組みのようだった。
穴の真下にはろうそくがある。
すっと陰がさして、
ろうそくに向けて、油が垂れてきた。
普通の人間は、罪悪感なく人に害を加えることができない。修道院の習俗に染まった人間ならなおさらだ。
だが、適切な正当化をしてやり、責任を分散させ、何度も繰り返させたのなら――
ヨハンに与えられた食事は腐っていた。
ヨハンの机の写本には油が垂らされていた。
ヨハンへのいやがらせは、
(すべて今日このときのための訓練――)
テレジアは、ここに来たときの修道士たちの異様によそよそしい態度を思いだす。
机に広がった油を舐めて、炎は猛烈な勢いで広がった。
窓はない。
テレジアはドアノブに手をかけた。
当然、部屋の鍵は壊されていた。