目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
教会での事前祈誓から三日後。
ヴァレスト侯爵家に、ベルンハルト家から書簡が届いた。
封蝋は薄青。
花模様は控えめ。
クラリス・ベルンハルトの書簡だ。
ルシアンは、当然のように自分宛だと思った。
俺もそう思った。
だが、宛名を見た瞬間、二人とも少し黙った。
書簡は、ルシアン宛ではなかった。
ヴァレスト侯爵夫人宛だった。
(……お前宛じゃないのか)
——母上宛だ。
(クラリス、そっちに行ったか)
——正しい。
ルシアンの返答は短かった。
だが、内側には少し驚きがあった。
先日の教会で、クラリスは神前で言った。
ルシアン・ヴァレストの名を軽んじぬことを。
その家が背負う沈黙、剣、祖霊、責務を、ベルンハルトの言葉で薄めぬことを。
その中の「剣」。
クラリスは、それを流さなかった。
ただし、剣を見せてください、と言ったわけではない。
剣術を学びたい、と言ったわけでもない。
彼女は、侯爵夫人へ尋ねたのだ。
武門侯爵家に嫁ぐ女は、剣をどう受け止めるべきなのか。
ヴァレスト侯爵夫人は、書簡を静かに読んだ。
場所は夫人の私室だった。
華やかな部屋ではない。
もちろん、貴族の部屋らしく調度は上品だ。
だが、甘くない。
窓辺には刺繍台。
壁際には家政記録の棚。
机には封書と帳簿。
黒いリボンで束ねられた古い書簡が、鍵つきの箱のそばに置かれていた。
花の香りは薄い。
代わりに、紙とインクと乾いた布の匂いがする。
ここは、美しく飾るための部屋ではない。
家の痛みを整理するための部屋だ。
そんな気がした。
侯爵夫人は、書簡を読み終えると、しばらく黙った。
静かな人だった。
ルシアンの銀髪は、母親譲りなのだと分かる。
瞳は青灰色。
顔立ちは柔らかい。
しかし、柔らかいだけではない。
沈黙の底に、刃ではなく針のような細さがある。
「良い問いです」
夫人は言った。
ルシアンが少しだけ目を上げる。
「よい、ですか」
「ええ」
夫人は書簡を畳む。
「剣を見せてください、と書かなかったことが、よいのです」
(あ、やっぱり練武場じゃないんだ)
——母上は、そう見るか。
(お前も今ちょっと学んだだろ)
——黙れ。
侯爵夫人は、もう一度書簡に視線を落とした。
「クラリス嬢は、自分が剣を振るう者ではないと分かっている。その上で、剣を持つ家に嫁ぐ者が何を知るべきかを問うている」
「はい」
「ならば、答えねばなりません」
静かな声だった。
それだけで、面会は決まった。
数日後。
クラリスはヴァレスト家を訪れた。
付き添いの侍女を一人だけ伴っている。
母ベルンハルト夫人は来ていない。
これは、クラリス自身の問いだからだろう。
今日のクラリスは、華やかではなかった。
淡い灰青のドレス。
装飾は最小限。
髪もきっちりまとめている。
香りはほとんどない。
教会での祈誓の日より、さらに静かな装いだった。
(覚悟して来た感じだな)
——ああ。
ルシアンは出迎えたが、同席は許されなかった。
侯爵夫人が、はっきりと言ったのだ。
「これは、クラリス嬢と私の話です」
ルシアンは一礼した。
「承知しました」
(え、聞けないの?)
——聞く場ではない。
(気にならないのか)
——気になる。
(素直)
——だから黙っている。
ルシアンは隣室で待つことになった。
扉一枚向こう。
声は、ほとんど聞こえない。
時折、衣擦れ。
カップを置く微かな音。
低い声の断片。
それだけ。
俺は落ち着かなかった。
(なあ、めちゃくちゃ大事な話してそうなんだけど)
——そうだろうな。
(聞かなくていいのか)
——聞く場ではない。
隣室で、ルシアンは静かに座っていた。
姿勢は整っている。
だが、内側には明らかに緊張があった。
自分の話ではない。
けれど、自分に深く関わる話。
母と、婚約者候補。
剣を持つ家の妻となる者の話。
ルシアンは、それを聞きたい。
しかし、踏み込まない。
支えすぎず。
見落としすぎず。
ここにも、その距離感がある。
やがて、扉の向こうで侯爵夫人の声が少しだけ聞こえた。
「剣を知るとは、刃の重さを量ることではありません」
ルシアンの内側が、静かに止まった。
俺も黙る。
夫人の声は低く、穏やかだった。
「その剣が抜かれた後、屋敷に何が残るかを知ることです」
それきり、また声は小さくなった。
だが、その一文だけで十分だった。
(……重いな)
——ああ。
剣が抜かれた後。
戦場へ行った後。
男たちが出ていった後。
そこに何が残るのか。
それを知るのは、練武場ではない。
おそらく、この部屋だ。
夫人の私室。
家政記録。
封書。
黒いリボンの束。
戦場は、ここへ届く。
しばらくして、また声が漏れた。
今度はクラリスの声だった。
少し震えている。
「私は……剣を振るう者ではありません」
侯爵夫人の声は、聞き取れない。
クラリスが続ける。
「けれど、知らぬままでは、神前で申し上げた言葉を軽くしてしまう気がいたしました」
沈黙。
長い沈黙。
そして侯爵夫人の声。
「その恐れは、大切になさい」
俺は思わず息を止めた。
「怖くない者に、帰らぬ者の名は読めません」
その言葉は、ガイゼルの言葉と響き合った。
怖くない者に、兵は命を預けない。
怖くない者に、帰らぬ者の名は読めない。
剣を持つ者と、剣を持たぬ者。
立つ場所は違う。
だが、恐怖の置き場所を知る必要があるのは同じだった。
隣室のルシアンは、ほとんど動かない。
ただ、指先だけが微かに硬くなっていた。
(お前の母さん、すごいな)
——ああ。
(戦場に出てないだけで、戦場を受けてたんだな)
——……ああ。
返答が少し遅れた。
ルシアンにとっても、それは新しい理解なのかもしれない。
父が戦場を知っていることは分かっていた。
騎士長が剣と恐怖を知っていることも分かっていた。
だが、母が何を受け止めてきたか。
それを、彼はどれだけ知っていたのだろう。
時間は、思ったより長く過ぎた。
扉が開いた時、クラリスの顔色は少し白かった。
だが、目は逃げていない。
泣いた跡はない。
しかし、泣かなかった人間の顔だった。
侯爵夫人は、いつもと同じ静けさで立っている。
「ルシアン」
「はい」
「クラリス嬢を玄関まで」
「承知しました」
クラリスは侯爵夫人へ深く一礼した。
普段より深い。
感謝だけではない。
受け取った重さへの礼だった。
「本日は、ありがとうございました」
「一度で分かることではありません」
侯爵夫人は言った。
「けれど、一度目を逸らしたものは、次に見ようとしても遅れることがあります」
「はい」
「ですから、今日、聞きに来たことは良いことです」
クラリスは、もう一度頭を下げた。
その姿は、少しだけ大人びて見えた。
玄関へ向かう廊下。
ルシアンとクラリスは並んで歩いた。
侍女は少し後ろ。
使用人たちは距離を取る。
完全な二人きりではない。
だが、言葉を交わす余地はあった。
「ご無理をされましたか」
ルシアンが聞いた。
クラリスは、少しだけ微笑んだ。
「はい。少し」
正直だった。
ルシアンは足を止めそうになり、止めなかった。
「母は、厳しい話をしたようですね」
「はい」
「申し訳ありません」
クラリスは首を横に振った。
「謝らないでください。私が伺いたいと願ったことです」
「ですが」
「重かったです」
クラリスは静かに言った。
「とても、重かったです」
廊下に沈黙が落ちる。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
言葉を休ませるための沈黙だった。
「けれど、知らないままより、よかったと思います」
「そうですか」
「はい」
クラリスは、少しだけ視線を伏せる。
「今日は、言葉にするには少し重いです」
ルシアンは、すぐに答えなかった。
だが、急かさなかった。
以前なら、正解を探したかもしれない。
今は待つ。
彼女が言葉にできるまで。
「分かりました」
ルシアンは言った。
「今は、言葉にしなくてよいと思います」
クラリスが顔を上げる。
「よろしいのですか」
「重いものを見た日には、沈黙も必要です」
クラリスの目が少し揺れた。
「それは、侯爵家の作法ですか」
「いえ」
ルシアンは少しだけ考えた。
「今、そう思いました」
クラリスは、かすかに笑った。
「では、覚えておきます」
玄関に着いた。
馬車が待っている。
クラリスは乗る前に振り返った。
「ルシアン様」
「はい」
「私は今日、剣を知ったとは言えません」
「ええ」
「けれど、剣を持たぬ者にも、戦場が届くのだと知りました」
クラリスは、飾るためにそう言ったのではない。
本当に、そう感じたのだ。
「それを、忘れないようにします」
ルシアンは深く一礼した。
「私も、忘れません」
クラリスは馬車に乗った。
扉が閉まる。
馬車が動き出す。
その姿が門の向こうへ消えるまで、ルシアンは見送っていた。
(クラリス、大丈夫かな)
——疲れただろう。
(だよな)
——だが、来てよかったのだと思う。
(うん)
屋敷へ戻ると、侯爵夫人がルシアンを呼んだ。
再び、夫人の私室。
クラリスが座っていた椅子には、まだわずかな気配が残っている。
茶は冷めていた。
机の上には、黒いリボンで束ねられた古い冊子が置かれている。
ルシアンは、それを見た。
知っているようで、知らないものだった。
「母上」
「これは、私が初めて受け取った戦死者名簿です」
侯爵夫人は言った。
声は静かだった。
だが、その静けさが重い。
ルシアンの内側が沈む。
俺も黙った。
戦死者名簿。
名前の列。
帰らなかった人たち。
それを最初に受け取った時、侯爵夫人は何歳だったのだろう。
どんな顔で読んだのだろう。
誰の前で泣かずにいたのだろう。
夫人は、冊子へ手を置いた。
「剣を持つ者は、戦場で責任を負います」
「はい」
「剣を持たぬ者は、その後に残るものを引き受けます」
ルシアンは黙っていた。
夫人は続ける。
「出陣の日、泣いてはならない日があります」
低い声。
「兵たちは、主の背だけでなく、主を送り出す妻の顔も見ています。屋敷の使用人たちも、子どもたちも、領地から来た使者も」
「……はい」
「けれど、泣かないことが強さなのではありません」
夫人の指が、黒いリボンに触れる。
「泣く場所と時を間違えないことです」
その言葉に、ルシアンの呼吸が少しだけ深くなった。
恐怖の置き場所。
涙の置き場所。
感情を消すのではない。
置き場所を知る。
ここでも同じだった。
「侯爵家の妻は石ではありません」
夫人は言った。
「石のように見せなければならない日があるだけです」
(……きついな)
——ああ。
母の言葉を聞くルシアンの内側には、驚きがあった。
自分が知らなかった母。
父の隣に静かに立つ夫人。
食卓で多くを語らない母。
その母が、戦場の後に残るものをずっと受け止めてきた。
ルシアンは、それを今、初めてはっきり見ている。
夫人はルシアンを見た。
「ルシアン」
「はい」
「戦場から戻った男は、自分が背負ったものだけを重いと思いがちです」
鋭い言葉だった。
「けれど、待つ者にも重さはあります」
「心得ます」
「まだ心得なくてよいのです」
夫人は静かに首を振った。
「今は、覚えておきなさい。いつか必要になります」
いつか。
その言葉は、遠い未来の扉を少しだけ開ける。
ルシアンが戦場へ行く日。
クラリスが屋敷に残る日。
俺がその身体の中で、何を見ることになるのか。
まだ分からない。
分からないが、その言葉は胸の奥に残った。
「クラリス嬢は、よい方ですね」
夫人が言った。
ルシアンは、少しも迷わなかった。
「はい」
(即答した)
——うるさい。
夫人の口元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「剣を見たいのではなく、剣の後に残るものを知ろうとしていました」
「はい」
「あなたは、剣を持つ側です。けれど、剣を抜いた後、彼女の部屋に何が届くかも考えなければなりません」
ルシアンは深く頭を下げた。
「覚えておきます」
「覚えておくことから始めなさい」
夫人は冊子を閉じた。
黒いリボンを結び直す。
その手つきは丁寧だった。
名前をしまう手つきだった。
夜。
ルシアンは書斎で、クラリスへの書簡を書いた。
今日は青いインクだった。
強すぎない色。
近すぎず、遠すぎない。
しばらく、書き出しに迷っていた。
(難しいな)
——ああ。
(軽く励ますのは違うよな)
——違う。
(大丈夫です、も違う)
——違う。
大丈夫な話ではない。
今日クラリスが受け取ったものは、簡単に慰めるものではない。
ルシアンは、ようやくペンを走らせた。
『本日、母よりお話をお聞きになったこと、私も伺いました』
『すぐに言葉にする必要はございません』
『重いものを見た日には、沈黙もまた必要です』
そこで一度止まる。
そして、続けた。
『いつか、貴女が言葉にできる時、私は聞きます』
短い。
だが、十分だった。
(お前、待てるようになったな)
——待つことも、時には礼だ。
(いいこと言う)
——茶化すな。
(茶化してない)
今回は、本当に茶化していなかった。
ルシアンは封をした。
深い青の封蝋。
ヴァレスト家の紋章。
その書簡は、夜のうちにベルンハルト家へ届けられる。
寝台に入る前、ルシアンは窓の外を見た。
北の練武場は暗い。
だが今日、クラリスはそこへ行かなかった。
剣を見なかった。
槍も見なかった。
それでも彼女は、ヴァレスト家の「剣」に触れた。
むしろ、剣より奥のものに触れたのかもしれない。
戦場は、刃が鳴る場所だけではない。
戦場は、書簡になる。
名簿になる。
沈黙になる。
出征の日の顔になる。
戻らぬ者の名前を読む声になる。
そして、待つ者の部屋にも届く。
(なあ、ルシアン)
——何だ。
(お前の母さん、今まであんまり前に出てこなかったけどさ)
——ああ。
(すごい人だな)
ルシアンは、しばらく黙った。
そして静かに答えた。
——ああ。
その声には、息子としての敬意があった。
少しの驚きと、少しの申し訳なさも。
(クラリスも、たぶん疲れたな)
——ああ。
(でも、聞きに来てよかった)
——そう思う。
沈黙。
今日の沈黙は、冷たくなかった。
何かを置くための沈黙だった。
俺は思う。
この世界は、知るほど重くなる。
食卓の作法。
婚約の言葉。
教会の誓約。
馬上の恐怖。
そして、剣を持たぬ者に届く戦場。
知らなければ、軽く見られる。
知れば、重くなる。
だが、重さを知ることは、たぶん相手を軽んじないことでもある。
クラリスはそれを選んだ。
ルシアンも、それを見た。
そして俺も、また一つ、この貴族社会の面倒くささを知った。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
だが、今日の面倒くささには、人の名前と涙の置き場所があった。
それは、雑に笑い飛ばしていいものではなかった。
ルシアンが目を閉じる。
意識が薄れていく。
眠る直前、彼が小さく呟いた。
——剣を持たぬ者にも、戦場は届く。
その言葉は、母のものだった。
クラリスのものでもあった。
そして、いつかルシアン自身が忘れてはならない言葉になるのだと思った。