目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第30話 待つことだけが、礼ではない

 翌朝。

 

 ルシアンの書斎に、ベルンハルト家からの書簡が届いた。

 

 いつもの淡い紫の封蝋。

 

 だが、受け取ったルシアンはすぐには封を切らなかった。

 

(昨日の続きだな)

 

 ——おそらく。

 

(嫌な予感がする)

 

 ——なぜだ。

 

(お前が昨日、あんな話をしたからだよ)

 

 ルシアンは内心の声に応じることなく、封蝋に指をかけた。

 

 薄紫の蝋が、小さく割れた。

 

 便箋は二枚。

 

 文字は、いつものクラリスの筆致だった。

 

 行の高さ、余白、文の切れ目に至るまで、端正に整っている。

 

 だが、二枚目に進むにつれ、文字の間隔がわずかに詰まっていた。

 

 書きたいことを、どうにか二枚の紙へ収めた跡だった。

 

 ルシアンは、最初の行に視線を落とした。

 

『昨日はお時間をいただき、誠にありがとうございました』

 

『侯爵夫人のお話を伺うまで、私は、ヴァレスト家へ嫁ぐ者としての務めを、分かっているつもりでおりました』

 

『けれど、あなたが戦場へ赴かれた後も、ヴァレスト家で選び、時には決めなければならぬ者になるのだと考えた時』

 

『私はまだ、その重さを自分のこととして受け止めていなかったのだと気付きました』

 

 そこで、ルシアンの目が止まる。

 

 クラリスは、婚約に伴う責務を知らなかったわけではない。

 

 だが、その責務が、ルシアンの不在とともに自分の手へ落ちてくる未来までは、まだ現実のものとして引き受けてはいなかった。

 

『あなたが戦場へ赴かれ、私がヴァレスト家に残る日が来た時』

 

『私は、何を知っておくべきでしょうか』

 

 ルシアンの指先が、紙の端で止まる。

 

『ただ沈黙し、皆様のご判断を待つだけでよいとは思っておりません』

 

『私は、あなたのご不在を理由に、何も決断できぬ者にはなりたくありません』

 

『けれど、家の実情も分からぬまま、あなたのお名前を借りて取り返しのつかない誤りを犯す者にもなりたくないのです』

 

『どうか、私が頼るべき方と、私自身で把握しておくべきことを教えていただけないでしょうか』

 

 最後の一文だけ、文字の線が少し細かった。

 

『私は、誤ることを恐れております』

 

 その一言をもって、クラリスの手紙は結ばれていた。

 

(……戦の仕組みを聞いているわけじゃないな)

 

 ——ああ。

 

(昨日の話を、もう自分のこととして考えたんだ)

 

 ——その上で、考えたのだろう。

 

(お前がいない屋敷で、自分が何者になるのかを)

 

 ルシアンは、応えなかった。

 

 整えられた文字。

 

 乱れのない余白。

 

 不安だとは、一言も書かれていない。

 

 だが、誤ることを恐れている、と記した。

 

 それは、己が無知を笑われることへの恐れではない。

 

 ルシアンの不在時に、ヴァレスト家の判断を遅らせてしまうこと。

 

 誰かの困窮を見落とすこと。

 

 あるいは、ルシアンの名を借りて、誤った決断を下してしまうこと。

 

 クラリスは、それを恐れている。

 

(気丈だな)

 

 ——ああ。

 

(気丈だから、余計に心配になる)

 

 ルシアンは新しい便箋を引き寄せた。

 

 羽ペンを取り、最初の一文を綴る。

 

『ご書簡、拝読いたしました』

 

 そこで、手が止まる。

 

(返事は)

 

 ——考えている。

 

(何を)

 

 ——何を伝えるべきかを。

 

 戦時の屋敷で、誰が蔵を開けるのか。

 

 どの帳簿を確認すればよいのか。

 

 誰の承認がなければ、領内の備蓄を動かせないのか。

 

 緊急時には誰へ報せるべきか。

 

 ルシアンは、知っている。

 

 父である侯爵が兵を率いて出立した時。

 

 東棟の客室は閉じられ、領内から逃れてきた家族の滞在にあてられた。

 

 厨房では肉の消費が抑えられ、代わりに粥の鍋が増えた。

 

 暖炉へ回す薪の量も、部屋ごとに細かく制限された。

 

 母は毎朝、同じ時刻に帳簿を開いていた。

 

 父からの報せが届かない日も。

 

 届いて、それが決して良い報せではなかった日も。

 

 夕食の席では、何事もなかったかのように、エミリアへスープをよそっていた。

 

(お前は家の仕組みを知ってる)

 

 ——知っている。

 

(でも、母上があの時、本当は何を怖がっていたかは知らない)

 

 ルシアンの手が止まった。

 

(クラリスが聞いているのは、たぶんそっちだ)

 

 書きかけの紙を見つめ、ルシアンは静かに息を吐いた。

 

「……母上に伺おう」

 

 侯爵夫人は、朝の帳簿を閉じたところだった。

 

 豪奢な居間ではない。

 

 屋敷の奥まった場所にある、小さな執務室。

 

 壁際の棚には鍵束と封蝋が整然と並び、机上にはその日の食材管理や使用人の割り当てを記した書類が置かれている。

 

 侯爵夫人は、ルシアンが差し出した手紙を受け取ると、最後まで目を通した。

 

 そして、しばしの沈黙の後、静かに口を開いた。

 

「クラリス嬢らしいお手紙ですね」

 

「そうでしょうか」

 

「怖いものを、怖いままに尋ねておられます」

 

 侯爵夫人は、手紙を静かに畳んだ。

 

 ルシアンは少し迷い、それから尋ねた。

 

「母上が、この家へ嫁がれた頃」

 

 侯爵夫人の視線が上がる。

 

「父上が戦へ出られたことは」

 

「ございます」

 

 答えは短かった。

 

「その時、母上は……何を知っておきたかったのですか」

 

 侯爵夫人は、少しだけ目を細めた。

 

 問いの奥にある意図を見透かしたのだろう。

 

「帳簿の読み方は、後からでも覚えられます」

 

 侯爵夫人は言った。

 

「蔵の鍵を誰が管理するのかも。避難して来られた方をどこへ誘導するのかも」

 

「ですが、私が最初に知っておきたかったのは、困った時に、誰を呼んで頼ればよいのか、でした」

 

 ルシアンは黙って耳を傾ける。

 

「旦那様がいらっしゃらぬ間、全てを自分一人で決断せねばならぬと思い詰めることが、何よりも怖かったのです」

 

 侯爵夫人は、机の上の鍵束へ目を落とした。

 

「家令がおり、家政の長もおり、領地に通じた者たちもおりました」

 

「けれど、嫁いだばかりの私は、彼らをどこまで頼ってよいのか分からなかったのです」

 

 侯爵夫人は、確かめるようにゆっくりと言葉を継いだ。

 

「ですから、私は最初に教わりました。自ら決断すべきことと、誰かに委ねてよいことを」

 

「そして、委ねたからといって、当主の妻としての責任まで手放すわけではないということを」

 

 ルシアンは、クラリスの手紙を思い返す。

 

 何も決められぬ者にはなりたくない。

 

 だが、分からぬまま誤る者にもなりたくない。

 

 それは、かつて母が抱えた葛藤と同じだった。

 

「クラリス嬢へ、何を伝えるべきでしょう」

 

 侯爵夫人は、迷わず答えた。

 

「一人で背負い込む必要はない、ということです」

 

「待つことは、家に残る者の礼ではあります」

 

「けれど、それだけで家を守れるわけではありません」

 

「日々の食事を算段し、嘆く者の声を聞き、足りぬ物資を数え、時には非情に断ることも求められます」

 

 母は、まっすぐにルシアンを見た。

 

「その時に、旦那様が不在だからと、彼女に一人だと感じさせてはなりません」

 

 ルシアンは、深く頷いた。

 

「母上は、お一人でしたか」

 

 母は、少しだけ口元を綻ばせた。

 

「いいえ」

 

 だが、その微笑みは長くは残らなかった。

 

「けれど、たった一人だと感じた夜はございました」

 

 その言葉が、静かに落ちる。

 

「だから、あなたはクラリス嬢に、そう思わせてはいけません」

 

 書斎へ戻ったルシアンは、最初に書きかけた紙を脇へ避けた。

 

 真新しい便箋を取る。

 

 今度は、迷わずに筆を走らせた。

 

『ご書簡、拝読いたしました』

 

『貴女が知りたいと望まれることを、私が「知らずともよいこと」として退けるべきではないと考えます』

 

『ただ、貴女が一人で全てを覚え、一人で全てを決断すべきだとも思いません』

 

 ルシアンは、一度だけペンを止める。

 

『次にこちらへ来られる際、母上と私から、ヴァレスト家で頼るべき者たちのことをお話しいたします』

 

『何を貴女ご自身で決めてよいのか』

 

『いかなる時に、家令や母上へ判断を委ねるべきか』

 

『そして、私からの報せを待たずに動くべき時があるのか』

 

『それを、二人で確かめましょう』

 

 ここまでは、家政と実務のことだ。

 

 だが、クラリスが求めているのは、家の仕組みだけではない。

 

 ルシアンは、もう一度ペンを取った。

 

『夫婦となるなら、貴女は私の帰りを待つだけの方ではありません』

 

『私と共に、この家を守る方です』

 

『ゆえに、私が戦場にあっても、貴女が家にあっても』

 

『私は、貴女の手を離しません』

 

 書き終えた後。

 

 ルシアンは、しばらく最後の一文を見つめていた。

 

(思い切ったな)

 

 ——何がだ。

 

(早く封をしろ。お前が書き直したくなる前に)

 

 ——黙れ。

 

(今のうちだぞ。「少し言葉が強すぎる」などと言い訳をして消す前に)

 

 ルシアンは応じなかった。

 

 ただ、最後の一文へ視線を落としたまま、わずかに眉を寄せる。

 

(ほらな)

 

 ——……手紙というものは、軽々しくしたためるべきではない。

 

(婚約者に贈る言葉を、軽々しく書いたわけじゃないだろうに)

 

 ルシアンの指が、紙の端を押さえた。

 

(だから封をしろ)

 

 ——うるさい。

 

 それでも。

 

 ルシアンは、珍しく迷うことなく蝋を温めた。

 

 蝋が落ちる。

 

 ヴァレスト家の印が、封蝋に確かに押された。

 

「アルヴェルト」

 

 呼ばれて入って来た老執事へ、ルシアンは手紙を差し出した。

 

「ベルンハルト家へ。急ぎで頼む」

 

「承知いたしました」

 

 アルヴェルトは宛名と封蝋を確かめ、深く一礼した。

 

 書斎の扉が静かに閉まる。

 

 窓の外では、庭師が低い枝を整えていた。

 

 剪定ばさみの音が、規則正しく響いている。

 

(待つだけじゃない、か)

 

 ——ああ。

 

(お前も。クラリスも)

 

 ルシアンは、机の上に残ったクラリスの手紙を見た。

 

 誤ることを恐れている。

 

 だから、知ろうとしている。

 

 恐れをなくすことはできない。

 

 けれど、その怖さを一人で抱えさせないことならできる。

 

 窓の外では、ベルンハルト家へ向かう馬車が、静かに門を出ていった。

 

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