目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています   作:ブンチョウ

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第32話 客人は、二つの家を別々に褒めた

 王都へ向かう馬車の車輪は、乾いた街道を一定の速さで進んでいた。

 

 窓の外には、まだ冬の色を残した畑と、葉を落とした並木が続いている。

 

 御者台の後ろには、ヴァレスト家の旗。

 

 黒地に、銀の剣と盾。

 

 いつ見ても、妙に真面目な旗だと思う。

 

(旗まで堅そうだな)

 

 ——黙っていろ。

 

(王宮の晩餐会だぞ。少しくらい緊張していいだろ)

 

 ——緊張している。

 

(見えない)

 

 ルシアンは返さなかった。

 

 向かいに座る父は、窓の外を見たまま言う。

 

「今夜は、答えるより先に聞け」

 

「はい」

 

「隣国が、何を求めているのか。誰へ話しかけ、何を尋ねるのか。それを見ろ」

 

 侯爵夫人は、膝の上で手袋を整えた。

 

「使節団は、こちらへ好意を示しに参ります。ですが、好意の形をしていれば、すべてをそのまま受け取ってよいわけではありません」

 

「承知しております」

 

(晩餐会っていうより、面接だな)

 

 ——似たようなものだ。

 

 王都へ入ると、道の両側に石造りの建物が増えた。

 

 家々の窓には色硝子がはまり、商店の軒先には春を待つ花籠が吊るされている。

 

 王宮の門前には、すでに多くの馬車が並んでいた。

 

 ベルンハルト伯爵家の紋章も、その中にある。

 

 淡い青の布地に、金糸で縫い取られた秤と帆船。

 

 ルシアンが馬車を降りると、少し離れた場所でクラリスも父母とともに姿を見せた。

 

 視線が合う。

 

 だが、ここは庭ではない。

 

 二人は同じように、まず互いの親へ礼をした。

 

「ご機嫌麗しゅうございます、侯爵閣下、侯爵夫人」

 

「ベルンハルト伯爵、伯爵夫人。お目にかかれて光栄です」

 

 それから、ようやくクラリスがルシアンへ向き直る。

 

「ご機嫌麗しゅうございます、ルシアン様」

 

「お会いできて光栄です。クラリス嬢」

 

(今日は遅れなかったな)

 

 ——当然だ。

 

(昨日、鏡の前で一度だけ言ってみたくせに)

 

 ——言っていない。

 

 クラリスの睫毛が、ほんの少し動いた。

 

 聞こえているはずもない。

 

 それでも、ルシアンはそれ以上、余計なことを考えないようにした。

 

 王宮の大広間は、ヴァレスト家の客間よりもずっと天井が高かった。

 

 壁には歴代の王たちを描いた肖像画が並び、金色の燭台から落ちる灯りが、磨かれた床へ細く伸びている。

 

 中央には、隣国の使節団がすでに集まっていた。

 

 白地の旗。

 

 翼を広げた鳥の紋。

 

 招請状に押されていたものと、同じだ。

 

 使節団の長は、年嵩の男だった。

 

 王と挨拶を交わすその後ろで、一人の青年が控えている。

 

 派手な装いではない。

 

 濃紺の礼服に、控えめな銀の飾り。

 

 だが、周囲の者が話しかけるたび、彼は相手の名と家名を迷わず呼んだ。

 

 北部の子爵。

 

 河川港を持つ男爵。

 

 王都で倉を預かる商会の主人。

 

 誰に対しても、言葉は丁寧だった。

 

「隣国使節団付き通商顧問、アドリアン・クロイツ殿です」

 

 紹介役の侍従が言う。

 

 アドリアンは、深く一礼した。

 

「ヴァレスト侯爵閣下。かねてより、北部の守りについて伺っております」

 

「見聞きした話だけで、人を評価するものではない」

 

 父は短く答えた。

 

「その通りでございます。ですから本日は、少しでも自分の目で拝見したく参りました」

 

 笑みは、少しも崩れなかった。

 

(父上、相変わらず挨拶が硬い)

 

 ——お前は、あれを真似しなくていい。

 

(そこは安心してくれ)

 

 アドリアンは、次にベルンハルト伯爵へ向いた。

 

「伯爵家の船が、北部の河川港まで入ると聞いております」

 

「季節と水位によりますが」

 

「春先は、川の機嫌が悪いでしょう」

 

「ええ。荷は、予定どおりに着かぬものだと考えております」

 

 伯爵は、穏やかに答えた。

 

「荷が遅れた時、積み荷の損は、どなたが負われるのですか」

 

 アドリアンの問いに、伯爵は一拍だけ置いた。

 

「品によります。船主が負うものもあれば、預かり主が保険を立てるものもございます」

 

「すると、帳面を整えるだけでは足りない」

 

「ええ。先に、誰が何を負うかを決めておかねばなりません」

 

「なるほど」

 

 アドリアンは、感心したように頷く。

 

「川を使う商いは、水を読むだけでは続かぬのですね」

 

 伯爵の隣にいた商会の主人が、思わず口を開いた。

 

「北港からの荷は特にそうです。遅れた時の立替を、どこへ頼むかで――」

 

 伯爵が、ほんのわずかに横目を向けた。

 

 商会の主人は口を閉じた。

 

 アドリアンは追わなかった。

 

「失礼いたしました。商いの内側まで伺うつもりはございません」

 

 そう言って、自然に話題を変える。

 

「北部の町は、春になると賑わうのでしょうね」

 

 褒め言葉だった。

 

 伯爵も周囲の貴族たちも、自然に微笑んだ。

 

 少し後、アドリアンは北部の子爵と話していた。

 

「雪解けの頃は、橋の補修が大変だと聞いております」

 

「木材が届けばよいのですが。今年は山側の道が遅れましてな」

 

「補修の許しは、すぐに出るのですか」

 

「領代官へ任せております。私の息子が療養中で、今は細かなことまで見られぬので」

 

「さようでございますか。ご快復をお祈り申し上げます」

 

 アドリアンは、深く頭を下げた。

 

 子爵は、少しだけ表情を緩める。

 

「ありがたいことです」

 

「代官殿は、橋の補修まで判断を?」

 

「急ぎならば。大きな出費なら、義弟にも相談を――」

 

 子爵はそこで言葉を切った。

 

 アドリアンは、何も問わない。

 

「北を守るには、剣を持つ方だけでなく、多くの方の手が要るのですね」

 

「その通りです」

 

「勉強になりました」

 

 晩餐が始まるまでのあいだ、客たちはいくつもの小さな輪を作っていた。

 

 ルシアンは父の後ろに控え、北部の道路について尋ねられた。

 

「雪解けの頃は、道よりも橋が先に傷む」

 

 父が言う。

 

「補修には木材も要る。人手も要る。兵を置くだけで守れる土地ではない」

 

 アドリアンは、深く頷いた。

 

「兵の数より、先に動かすものがあるのですね」

 

「そうだ」

 

「木材を集めるのは、領主の役目ですか。それとも町の商人が?」

 

「場所による」

 

 父の答えは短い。

 

 アドリアンは、それ以上を聞かなかった。

 

「国境の守りは、もっとも遠い場所から始まるのだと理解いたしました」

 

 父は答えず、杯を受け取った。

 

 アドリアンは、今度はルシアンを見る。

 

「ルシアン様は、どのようにお考えですか」

 

 急に話を振られても、ルシアンは表情を変えなかった。

 

「必要なものを、必要な場所へ届けられるよう、平時から道を整えておくべきかと」

 

「立派なお考えです」

 

「ですが」

 

 アドリアンは、すぐには続けなかった。

 

 給仕が二人の間を通り過ぎ、銀の盆に新しい杯が並べられる。

 

「道を整えるには、軍だけでも、商いだけでも足りぬのでしょう」

 

 それだけ言って、アドリアンは一礼した。

 

「若輩者が長々と失礼いたしました」

 

 父は、返事をしなかった。

 

 アドリアンは、別の貴族の輪へ向かう。

 

(何を聞きたいんだ、あいつ)

 

 ——答えを急がせない。

 

(聞いて、途中で止める)

 

 ——相手が続きを言いたくなるようにしている。

 

 晩餐の席では、王都の貴族たちが代わる代わる使節団へ杯を掲げた。

 

 北部の港。

 

 隣国との街道。

 

 冬を越えるための炭と麦。

 

 話題は穏やかに移っていく。

 

 王都の伯爵の一人が、クラリスとルシアンを見て笑った。

 

「それにしても、ヴァレスト家とベルンハルト家のご婚約は、まことに見事なご縁ですな」

 

 周囲から、祝いの言葉が続く。

 

「北を守る家と、国の流れを知る家だ」

 

「これほど頼もしい結びつきもない」

 

 クラリスは、落ち着いた笑みを浮かべている。

 

 ルシアンも、形式どおりに礼をした。

 

 その中で、アドリアンが杯を軽く持ち上げた。

 

「お二人のご縁が、それぞれの家の役目を、より確かなものにされますよう」

 

 美しい祝辞だった。

 

 軍と商いを一つにする、とも言わない。

 

 離すべきだ、とも言わない。

 

 ただ、それぞれの役目を確かに、と言った。

 

「ありがたく存じます」

 

 ルシアンが答える。

 

 クラリスも、静かに頭を下げた。

 

 アドリアンは、それ以上、婚約について語らなかった。

 

 晩餐会が終わり、帰りの馬車を待つ控えの間で、クラリスがルシアンへ小さく声をかけた。

 

「先ほどの通商顧問の方は、ルシアン様へ何をお尋ねになりましたか」

 

「橋の補修と、木材を集める役目についてです」

 

「私には、荷が遅れた時の損を、誰が負うのかと」

 

 ルシアンは、少し考えた。

 

「伯爵家の商いについて、ですか」

 

「はい。ですが、父の答えより、商会の方が口にしかけたことを聞いておられたように思います」

 

「立替のことですね」

 

 クラリスは頷いた。

 

「子爵には、誰が橋の補修を決めるのかと」

 

「ご覧になっていたのですか」

 

「少しだけ」

 

 クラリスは扇を閉じた。

 

「皆様のご事情を、よくご存じになりたい方なのでしょうか」

 

「それだけなら、よいのですが」

 

 その時、父が二人のそばへ来た。

 

「何を話していた」

 

 ルシアンは、隠さずに答えた。

 

「通商顧問の質問についてです」

 

 父は、クラリスへも視線を向ける。

 

「伯爵家には、何を聞いた」

 

「荷が遅れた時、誰が損を負うのかと」

 

「子爵には、誰が補修を決めるかと聞いていました」

 

 父は一度だけ頷いた。

 

「帰ったら書け」

 

「……何をですか」

 

「今夜、あの男が誰へ何を聞いたかだ」

 

 ルシアンは父を見る。

 

 父はそれ以上、説明しなかった。

 

「忘れるな」

 

「はい」

 

 父は先に控えの間を出た。

 

 クラリスは、扇を持つ手を静かに下ろす。

 

「私も、父へお伝えします」

 

「そうしてください」

 

 帰りの馬車へ乗る前、ルシアンは一度だけ大広間を振り返った。

 

 アドリアン・クロイツは、北部の商人へ穏やかに微笑みながら、次の春に動かす荷について話していた。

 

(嫌な客だな)

 

 ——同感だ。

 

 馬車の扉が閉じる。

 

 王宮の灯りが、窓の外へゆっくり遠ざかっていった。

 

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