目覚めたら侯爵令息の別人格だった。作法ひとつで家が傾く貴族社会を脳内から観察しています 作:ブンチョウ
王都へ向かう馬車の車輪は、乾いた街道を一定の速さで進んでいた。
窓の外には、まだ冬の色を残した畑と、葉を落とした並木が続いている。
御者台の後ろには、ヴァレスト家の旗。
黒地に、銀の剣と盾。
いつ見ても、妙に真面目な旗だと思う。
(旗まで堅そうだな)
——黙っていろ。
(王宮の晩餐会だぞ。少しくらい緊張していいだろ)
——緊張している。
(見えない)
ルシアンは返さなかった。
向かいに座る父は、窓の外を見たまま言う。
「今夜は、答えるより先に聞け」
「はい」
「隣国が、何を求めているのか。誰へ話しかけ、何を尋ねるのか。それを見ろ」
侯爵夫人は、膝の上で手袋を整えた。
「使節団は、こちらへ好意を示しに参ります。ですが、好意の形をしていれば、すべてをそのまま受け取ってよいわけではありません」
「承知しております」
(晩餐会っていうより、面接だな)
——似たようなものだ。
王都へ入ると、道の両側に石造りの建物が増えた。
家々の窓には色硝子がはまり、商店の軒先には春を待つ花籠が吊るされている。
王宮の門前には、すでに多くの馬車が並んでいた。
ベルンハルト伯爵家の紋章も、その中にある。
淡い青の布地に、金糸で縫い取られた秤と帆船。
ルシアンが馬車を降りると、少し離れた場所でクラリスも父母とともに姿を見せた。
視線が合う。
だが、ここは庭ではない。
二人は同じように、まず互いの親へ礼をした。
「ご機嫌麗しゅうございます、侯爵閣下、侯爵夫人」
「ベルンハルト伯爵、伯爵夫人。お目にかかれて光栄です」
それから、ようやくクラリスがルシアンへ向き直る。
「ご機嫌麗しゅうございます、ルシアン様」
「お会いできて光栄です。クラリス嬢」
(今日は遅れなかったな)
——当然だ。
(昨日、鏡の前で一度だけ言ってみたくせに)
——言っていない。
クラリスの睫毛が、ほんの少し動いた。
聞こえているはずもない。
それでも、ルシアンはそれ以上、余計なことを考えないようにした。
王宮の大広間は、ヴァレスト家の客間よりもずっと天井が高かった。
壁には歴代の王たちを描いた肖像画が並び、金色の燭台から落ちる灯りが、磨かれた床へ細く伸びている。
中央には、隣国の使節団がすでに集まっていた。
白地の旗。
翼を広げた鳥の紋。
招請状に押されていたものと、同じだ。
使節団の長は、年嵩の男だった。
王と挨拶を交わすその後ろで、一人の青年が控えている。
派手な装いではない。
濃紺の礼服に、控えめな銀の飾り。
だが、周囲の者が話しかけるたび、彼は相手の名と家名を迷わず呼んだ。
北部の子爵。
河川港を持つ男爵。
王都で倉を預かる商会の主人。
誰に対しても、言葉は丁寧だった。
「隣国使節団付き通商顧問、アドリアン・クロイツ殿です」
紹介役の侍従が言う。
アドリアンは、深く一礼した。
「ヴァレスト侯爵閣下。かねてより、北部の守りについて伺っております」
「見聞きした話だけで、人を評価するものではない」
父は短く答えた。
「その通りでございます。ですから本日は、少しでも自分の目で拝見したく参りました」
笑みは、少しも崩れなかった。
(父上、相変わらず挨拶が硬い)
——お前は、あれを真似しなくていい。
(そこは安心してくれ)
アドリアンは、次にベルンハルト伯爵へ向いた。
「伯爵家の船が、北部の河川港まで入ると聞いております」
「季節と水位によりますが」
「春先は、川の機嫌が悪いでしょう」
「ええ。荷は、予定どおりに着かぬものだと考えております」
伯爵は、穏やかに答えた。
「荷が遅れた時、積み荷の損は、どなたが負われるのですか」
アドリアンの問いに、伯爵は一拍だけ置いた。
「品によります。船主が負うものもあれば、預かり主が保険を立てるものもございます」
「すると、帳面を整えるだけでは足りない」
「ええ。先に、誰が何を負うかを決めておかねばなりません」
「なるほど」
アドリアンは、感心したように頷く。
「川を使う商いは、水を読むだけでは続かぬのですね」
伯爵の隣にいた商会の主人が、思わず口を開いた。
「北港からの荷は特にそうです。遅れた時の立替を、どこへ頼むかで――」
伯爵が、ほんのわずかに横目を向けた。
商会の主人は口を閉じた。
アドリアンは追わなかった。
「失礼いたしました。商いの内側まで伺うつもりはございません」
そう言って、自然に話題を変える。
「北部の町は、春になると賑わうのでしょうね」
褒め言葉だった。
伯爵も周囲の貴族たちも、自然に微笑んだ。
少し後、アドリアンは北部の子爵と話していた。
「雪解けの頃は、橋の補修が大変だと聞いております」
「木材が届けばよいのですが。今年は山側の道が遅れましてな」
「補修の許しは、すぐに出るのですか」
「領代官へ任せております。私の息子が療養中で、今は細かなことまで見られぬので」
「さようでございますか。ご快復をお祈り申し上げます」
アドリアンは、深く頭を下げた。
子爵は、少しだけ表情を緩める。
「ありがたいことです」
「代官殿は、橋の補修まで判断を?」
「急ぎならば。大きな出費なら、義弟にも相談を――」
子爵はそこで言葉を切った。
アドリアンは、何も問わない。
「北を守るには、剣を持つ方だけでなく、多くの方の手が要るのですね」
「その通りです」
「勉強になりました」
晩餐が始まるまでのあいだ、客たちはいくつもの小さな輪を作っていた。
ルシアンは父の後ろに控え、北部の道路について尋ねられた。
「雪解けの頃は、道よりも橋が先に傷む」
父が言う。
「補修には木材も要る。人手も要る。兵を置くだけで守れる土地ではない」
アドリアンは、深く頷いた。
「兵の数より、先に動かすものがあるのですね」
「そうだ」
「木材を集めるのは、領主の役目ですか。それとも町の商人が?」
「場所による」
父の答えは短い。
アドリアンは、それ以上を聞かなかった。
「国境の守りは、もっとも遠い場所から始まるのだと理解いたしました」
父は答えず、杯を受け取った。
アドリアンは、今度はルシアンを見る。
「ルシアン様は、どのようにお考えですか」
急に話を振られても、ルシアンは表情を変えなかった。
「必要なものを、必要な場所へ届けられるよう、平時から道を整えておくべきかと」
「立派なお考えです」
「ですが」
アドリアンは、すぐには続けなかった。
給仕が二人の間を通り過ぎ、銀の盆に新しい杯が並べられる。
「道を整えるには、軍だけでも、商いだけでも足りぬのでしょう」
それだけ言って、アドリアンは一礼した。
「若輩者が長々と失礼いたしました」
父は、返事をしなかった。
アドリアンは、別の貴族の輪へ向かう。
(何を聞きたいんだ、あいつ)
——答えを急がせない。
(聞いて、途中で止める)
——相手が続きを言いたくなるようにしている。
晩餐の席では、王都の貴族たちが代わる代わる使節団へ杯を掲げた。
北部の港。
隣国との街道。
冬を越えるための炭と麦。
話題は穏やかに移っていく。
王都の伯爵の一人が、クラリスとルシアンを見て笑った。
「それにしても、ヴァレスト家とベルンハルト家のご婚約は、まことに見事なご縁ですな」
周囲から、祝いの言葉が続く。
「北を守る家と、国の流れを知る家だ」
「これほど頼もしい結びつきもない」
クラリスは、落ち着いた笑みを浮かべている。
ルシアンも、形式どおりに礼をした。
その中で、アドリアンが杯を軽く持ち上げた。
「お二人のご縁が、それぞれの家の役目を、より確かなものにされますよう」
美しい祝辞だった。
軍と商いを一つにする、とも言わない。
離すべきだ、とも言わない。
ただ、それぞれの役目を確かに、と言った。
「ありがたく存じます」
ルシアンが答える。
クラリスも、静かに頭を下げた。
アドリアンは、それ以上、婚約について語らなかった。
晩餐会が終わり、帰りの馬車を待つ控えの間で、クラリスがルシアンへ小さく声をかけた。
「先ほどの通商顧問の方は、ルシアン様へ何をお尋ねになりましたか」
「橋の補修と、木材を集める役目についてです」
「私には、荷が遅れた時の損を、誰が負うのかと」
ルシアンは、少し考えた。
「伯爵家の商いについて、ですか」
「はい。ですが、父の答えより、商会の方が口にしかけたことを聞いておられたように思います」
「立替のことですね」
クラリスは頷いた。
「子爵には、誰が橋の補修を決めるのかと」
「ご覧になっていたのですか」
「少しだけ」
クラリスは扇を閉じた。
「皆様のご事情を、よくご存じになりたい方なのでしょうか」
「それだけなら、よいのですが」
その時、父が二人のそばへ来た。
「何を話していた」
ルシアンは、隠さずに答えた。
「通商顧問の質問についてです」
父は、クラリスへも視線を向ける。
「伯爵家には、何を聞いた」
「荷が遅れた時、誰が損を負うのかと」
「子爵には、誰が補修を決めるかと聞いていました」
父は一度だけ頷いた。
「帰ったら書け」
「……何をですか」
「今夜、あの男が誰へ何を聞いたかだ」
ルシアンは父を見る。
父はそれ以上、説明しなかった。
「忘れるな」
「はい」
父は先に控えの間を出た。
クラリスは、扇を持つ手を静かに下ろす。
「私も、父へお伝えします」
「そうしてください」
帰りの馬車へ乗る前、ルシアンは一度だけ大広間を振り返った。
アドリアン・クロイツは、北部の商人へ穏やかに微笑みながら、次の春に動かす荷について話していた。
(嫌な客だな)
——同感だ。
馬車の扉が閉じる。
王宮の灯りが、窓の外へゆっくり遠ざかっていった。