ようこそ最低傑作がいる教室へ   作:一魁人

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ホワイトルーム編


 

 

 白い部屋だった。

 

 壁も床も天井も、机も椅子も何もかもが白で統一され、そこには余計な色というものが一切存在しなかった。視界に入るものはすべて管理され、配置され、意味を持たされている。

 

 窓はなく、外の景色もない。朝焼けも夕暮れも、雨の匂いも風の音も、この場所には届かない。

 

 季節の移り変わりを知る方法もなかった。春も夏も秋も冬も、この場所では等しく白い。時間は時計によってのみ与えられ、世界は壁の向こうへ追いやられていた。

 

 子供たちは外を知らない。空を知らない。自由という言葉の意味すら知らない。

 

 知る必要がないと判断されていたからだ。

 

 世界は時間割によってのみ動いていた。起床、検査、食事、学習、測定、運動、休憩、試験、睡眠——その繰り返しだけが、ここでの「時間」だった。感情は必要ない。迷いも、人間らしさも、優しさも、慰めも、この場所では何の価値も持たなかった。必要なのは、結果だけだ。

 

 ホワイトルーム。

 

 そう呼ばれる施設の中で、子供たちは育てられていた。彼らは普通の子供ではない。少なくとも、この施設にいる大人たちはそう信じていた——いや、そう作り上げようとしていた。

 

 才能などという曖昧なものに頼らず、環境と教育だけで人間を極限まで高める。どんな子供であっても、正しい教育を与えれば天才へと到達できる。

 

 それがホワイトルームの理念であり、第4期生はその証明のために用意された、最も過酷な実験体だった。

 

 午前六時、電子音が鳴る。

 

 眠っていた子供たちは一斉に目を開けた。泣き声を上げる者はいない。布団の中で身じろぎする者もいない。起床の合図が鳴れば起きる——それが規則だった。

 

 その中に、一人だけ異様に目立つ少年がいた。

 

 神凪月詠(かんなぎつくよ)、六歳。

 

 腰まで届く銀髪を持つ少年だった。白に近いその髪は照明を受けると淡く輝き、まるで月光を糸にして束ねたようだった。肌は雪のように白く、顔立ちは人形のように整っている。右目は透き通る銀色、左目は深い翠緑色——左右で異なる瞳は、幼いながらも見る者に不思議な緊張を与えた。

 

 美しい、という言葉では足りなかった。子供らしい愛らしさではなく、完成されすぎた美貌。性別という枠すら曖昧にするほどの中性的な美しさは、施設の研究員たちでさえ時折言葉を失うほどだった。

 

 しかし月詠本人は、自分の容姿にまったく関心を持っていなかった。鏡を見ても何も思わず、他人に見られても何も感じない。自分が目立つという事実も、特別だという評価も、彼にとっては単なる外部情報の一つでしかなかった。

 

 月詠はベッドから起き上がると、決められた速度で制服に着替えた。動きに無駄はなく、焦りもなく、眠気の欠片も見えない。ただそうするべきだから、そうしている。それだけだった。

 

 隣のベッドでは、黒髪の少年が静かに袖に腕を通していた。表情はなく、余計な動きも一切ない。月詠はその少年の存在を認識していた。理由は分からない。ただ、他の子供たちとは何かが違う。まだ言葉にはできない違和感だけが、その少年に向けられていた。

 

 午前六時三十分、身体検査が始まった。

 

 身長、体重、心拍、血圧、反応速度、脳波、筋肉の状態、睡眠中の脳活動。あらゆる数値が記録されていく。月詠は椅子に座り、研究員の指示通りに腕を差し出した。血液を採取されても表情は変わらない。痛みはある。だが痛みがあることと、それに反応することは、月詠の中では別の問題だった。

 

「被験体4-β-02、異常なし。睡眠効率、九十八・七パーセント。記憶定着率、前日比で上昇。心拍変動も安定しています」

 

「……またか」と、別の研究員が呟いた。感心よりも困惑の混じった声だった。「睡眠効率九十八パーセントというのは、成人のトップアスリートでも滅多に出ない数値だ。それが六歳の子供から毎朝出てくる。しかも昨日より今日、今日より明日と、上昇し続けている」

 

「記憶定着率も同様です」と別の研究員が補足した。「通常、睡眠中の記憶定着には個人差があります。成人でも七十パーセントを超えれば優秀とされる。ですがこの被験体は——」

 

「九十六・二パーセント、だろう」

 

「はい。前日比でさらに上昇しています。理論上、これは人間の睡眠における記憶定着の限界値に近い。それを六歳児が毎日更新している」

 

 沈黙が落ちた。研究員たちは互いに顔を見合わせたが、誰も言葉を続けなかった。異常だと言えば聞こえはいい。だがその実態は、彼らの持つどんな基準値とも、どんな過去のデータとも、一致しないということだった。

 

 月詠はその声を聞いていたが、反応はしなかった。研究員たちはよく困惑する。なぜなのか、月詠には分からなかった。

 

 自分は指示されたことをしているだけだ。問題を出されれば解く。走れと言われれば走る。覚えろと言われれば覚える。倒せと言われれば倒す。

 

 ただそれだけなのに、大人たちは月詠の結果を見るたびに必ず表情を変えた。

 

 午前八時、学習プログラムが始まった。

 

 白い教室に十数名の子供たちが座らされる。年齢はほぼ同じだが、その顔つきはとても子供らしくない。長時間の教育と管理を経た彼らは、すでに普通の幼児とは違う目をしていた。

 

 最初は数学だった。

 

 正面の巨大なモニターに展開されたのは、微分積分の応用問題だった。六歳児に向けた問題ではない。大学数学の領域だ。

 

 しかも制限時間は一問につき三十秒。

 

 解けなければ警告音が鳴り、三回連続で失敗すれば座席の背もたれに内蔵された電気刺激装置が作動する——それがβカリキュラムの基本設計だった。

 

 月詠はモニターを見つめた。積分記号が並ぶ。変数が絡み合う。常人なら解読するだけで数分かかる式が、次々と展開されていく。読んで、答える。読んで、答える。月詠の手は止まらなかった。

 

 隣では、別の子供が三問目で手を止めた。警告音が一度鳴る。額に汗が浮く。二度目の警告音。その子の指が震え始めた。

 

 三度目の警告音と同時に、小さな悲鳴が上がった。電気刺激だ。泣き声を上げることは許されない。その子は唇を噛んで、震える手でペンを握り直した。

 

 月詠はそれを視界の端で捉えながら、次の問題へ移った。感情を挟む余裕はない。ここでは立ち止まること自体が失点だった。

 

 数学が終わると、間髪入れずに語学が始まった。

 

 英語、中国語、フランス語、ドイツ語——四言語が同時にスピーカーから流れ始める。それぞれ異なる文章を異なる速度で読み上げ、子供たちはそれを聞き分けながら、対応する言語の解答欄に同時進行で書き込まなければならない。耳と手と思考を分割して動かす訓練だ。

 

 これが最も脱落者を出す科目だった。人間の脳は本来、複数の言語を同時処理するようには設計されていない。それを強制的に再編成する。

 

 泣いても、喚いても、処理は止まらない。スピーカーの音声は感情を待ってくれない。

 

 月詠は四つの音声を頭の中で四つの別々の回路に振り分けた。英語は右。中国語は左。フランス語は奥。ドイツ語は手前。それぞれを干渉させずに並列処理する。うまく説明できないが、月詠にはそれが自然にできた。

 

 ただし、それが普通ではないということも、周囲の様子を見れば分かった。

 

 隣の列の少女は、三つ目の言語が流れた瞬間に硬直した。瞳孔が開き、呼吸が止まり、ペン先が紙の上で動かなくなる。

 

 理解できない情報が一定量を超えると、人間はこうなるらしい。オーバーフローだ。処理が追いつかなくなった脳が、入力を拒絶している。

 

 少女はペンを落とし、両手で耳を塞ごうとした。だが、それは許されない行為だった。

 

 警告音が鳴る。

 

 それでも月詠は手を止めなかった。

 

 次は心理分析だった。

 

 モニターに人間の顔写真が一秒間だけ表示される。その後、その人物の感情状態を十項目の中から選択し、さらに「なぜそう判断したか」を根拠とともに記述する。制限時間は十五秒。次々と切り替わる顔を処理し続けなければならない。

 

 写真は百枚では終わらなかった。二百枚。三百枚。顔が切り替わるたびに、子供たちの集中力は削られていく。

 

 似たような表情、微妙な差異、文化的背景による表情の違い——それらを全て考慮した上で、十五秒以内に答えを出す。

 

 月詠は写真を見るたびに、その人物の内側が見えるような感覚を覚えた。眉の角度、目の周りの筋肉のわずかな収縮、口角の微妙な非対称、鼻孔の広がり方——それらが複合的に組み合わさって、感情の輪郭を形作る。

 

 怒りを隠した笑顔。恐怖を押し込めた無表情。悲しみに蓋をした平静。全部、見えた。月詠は淡々と答え続けた。

 

 三百枚目を超えた頃、教室の空気が変わった。多くの子供たちが限界に近づいていた。視線が定まらない者、呼吸が乱れている者、手が止まったまま動かない者。それでもプログラムは続く。感情が崩壊しかけた人間の顔を分析しながら、自分自身の感情も崩壊しかけている——そういう状況だった。

 

 月詠はそれを観察した。そしてまた、胸の奥に名前のない何かが残った。

 

 続いて戦略論。

 

 モニターに仮想国家の地図が表示された。人口、資源、軍事力、経済規模、隣国との関係、気候、歴史的背景——数十項目のデータが同時に提示される。

 

「この国家を五十年以内に地域覇権国家へと発展させよ。ただし、以下の制約条件を全て満たすこと」

 

 制約条件は二十三項目あった。子供たちは黙って画面を見つめた。

 

 何人かは最初の項目を読んだ時点で思考が止まっているのが、月詠には分かった。情報量が多すぎる。処理しきれない。

 

 月詠は地図を見た。まず地形。次に資源の分布。それを基に経済の方向性を決める。経済が安定すれば軍事に回せる余力が生まれる。軍事力は直接行使するより、外交カードとして機能させる方が効率的だ——思考が加速する。

 

 五十年を十年単位で区切り、それぞれのフェーズで優先すべき施策を組み立てる。制約条件は邪魔ではなく、むしろ思考の枠組みになった。

 

 月詠にとって制約とは、答えの範囲を絞り込むための情報だった。

 

 四十分後、月詠は解答を提出した。研究員がそれを確認し、わずかに沈黙した。月詠の解答は制約条件を全て満たした上で、想定解を二十年前倒しにしていた。

 

 そして最後が記憶訓練だった。

 

スクリーンに数字の羅列が表示される。三秒間だけ。その後、それを完全に再現する。最初は五十桁。次は百桁。次は二百桁。次は三百桁。

 

 桁が増えるごとに、子供たちの顔から血の気が引いていく。三桁の数字の羅列を三秒で記憶することすら、通常の人間には不可能に近い。それを三百桁。

 

 しかも一度でも間違えれば最初からやり直し、失敗回数に応じて食事の量が削られる。

 

隣の席の少年が、百桁目で止まった。手が震えている。記憶の糸が途切れた瞬間の顔だった。そこから先が出てこない。焦りが記憶をさらに遠ざける。少年は唇を動かして何かを呟いていたが、声にはならなかった。

 

 月詠は三百桁を書き終えた。一桁も間違えなかった。それが当然だった。そうするべきだから、そうした。

 

 ただ、書き終えた後に隣の少年の手がまだ震えているのが見えた。月詠は自分の手を見た。震えていない。

 

 なぜ震えないのか、月詠には分からなかった。なぜ自分だけが平然としていられるのかも、分からなかった。

 

 全ての学習プログラムが終わる頃には、数名の子供が顔を青くしており、一人は机に突っ伏して研究員に連れていかれた。

 

 月詠はその子の背中を見送った。昨日まで隣の列に座っていた子だ。名前は知らない。

 

 だが、あの子がどの科目で手を止め、何度警告音を鳴らし、どの訓練で呼吸を乱していたかは覚えている。そして、その積み重ねが何を意味するのかも、月詠は理解していた。

 

 脱落。

 

 ホワイトルームでは珍しいことではない。むしろ、残り続ける方が異常だった。

 

 それでも、いなくなることに対して何を感じればいいのか、月詠には分からなかった。悲しいのか、寂しいのか、不安なのか——自分の内側を探っても、何かはある気がするのに、それが何なのかが分からない。

 

 昼食の時間。食事も管理されており、味に意味はなかった。栄養価と吸収効率が全てで、皿の上には決められた量が置かれ、子供たちは決められた時間内に食べる。食堂でも会話は推奨されておらず、ほとんどの子供は黙って食べていた。

 

 月詠はスプーンを動かしながら、向かいの少年を見ていた。不思議なことに、その少年だけは記憶に残る。

 

 他の子供たちも同じように学び、同じように訓練を受けているはずだった。だが、この少年だけは違った。何が違うのかは分からない。

 

 ただ、問題を解く姿を見ても、走る姿を見ても、自分と同じように結果を出し続けている。月詠は初めて疑問を抱いた。

 

 ——なぜだろう。

 

 気が付くと、口が動いていた。

 

「君は」月詠は初めて自分から口を開いた。「なぜ満点を取れる?」

 

 少年の手が止まる。数秒の沈黙。近くにいた研究員の視線がこちらへ向いた。

 

「解けるからだ」

 

「そうか」月詠は素直に頷いた。すると少年が逆に尋ねた。「お前は?」

 

「分からない」

 

「分からない?」

 

「うん。見れば分かる」

 

 少年は月詠を見つめた。感情の見えない瞳だった。だが、その奥で何かがわずかに動いたような気がした。

 

「それは答えになっていない」

 

「そうかもしれない。でも……おれ、は。いや、私、は——見れば分かる。それだけだ」

 

 少年はしばらく黙っていた。やがて小さく言う。

 

「……そうか」

 

 二人の会話はそこで終わった。子供同士の雑談としてはあまりにも味気ない短いやり取りだったが、観察室の研究員たちはそれをしっかりと記録していた。月詠が自発的に他者へ質問した。しかもその相手は、被験体4-β-01——綾小路清隆だった。

 

 午後は身体能力試験だった。

 

 白い訓練室へ移動し、反射速度、筋力、持久力、瞬発力、柔軟性、格闘適性が順番に測定される。だがβカリキュラムにおける「測定」は、通常のそれとは意味が違った。

 

 持久走は、倒れるまで止まらない。

 

 文字通り、失神寸前まで走り続けることが要求される。足が鉛になる。肺が燃える。視界が白く滲む。それでも止まれば警告が入り、翌日の食事が削られる。止まらなければどこまでも続く。限界という概念が、ここでは終点ではなく通過点だった。

 

 月詠は走った。足が痛い。息が苦しい。それは分かる。だが走ることと、走れなくなることの間には、まだ距離があった。月詠はその距離を測りながら走り続けた。

 

 隣を走っていた少年が膝をついた。研究員が警告を入れる。少年は立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かなかった。そのまま床に倒れた。連れていかれる。

 

 また一人減った。月詠は前を向いて走り続けた。

 

 格闘訓練では、自分より体格の大きい相手と組み合わされた。体格は細く、華奢にすら見えるが、その動きは美しいほど効率的だった。力任せではない。相手の重心を読み、最小の動きで崩す。幼い子供の動きではなかった。どこかで受けた打撃の痛みが残っている。それでも止まれない。

 

 模擬戦で、一人の少年が月詠へ踏み込んできた。月詠は相手の肩を見て、足首を見て、呼吸を読んだ——次の動きが分かった。半歩横へずれ、手首を取り、重心を外す。少年の身体が床へ倒れた。月詠は倒れた相手を見下ろした。痛そうにしている。眉を寄せている。涙をこらえている。気が付くと、月詠は手を差し出していた。

 

「被験体4-β-02、不要な動作だ」研究員の声が飛んだ。「試験は終了した。対象への配慮は必要ない」

 

「彼は立ち上がる必要がある」

 

「それは彼自身の課題だ」

 

「……そうか」

 

 月詠は手を下ろした。倒れた少年は、自力で立ち上がった。その顔には痛みと、ほんの少しの困惑が浮かんでいた。月詠はそれを見て、また胸の奥に何かが残るのを感じた。名前のない感覚。まだ理解できないもの。だが完全に無視することもできないもの。

 

 訓練後、観察室では研究員たちが月詠のデータを確認していた。

 

「身体能力も上昇しています。反射速度は規定値を超過。模擬戦の判断も最適解に近い」

 

「問題は最後の行動だ。あの手を差し出した動作——不要な感情的反応です」

 

「感情、か」研究員の一人がモニターを見つめた。そこには無表情で立つ月詠が映っている。美しい少年。異常な能力。完全に近い結果。だが、ホワイトルームが求める完成とは違う何かが、月詠の中には残っていた。「消せるか?」

 

「通常プログラムなら可能です。しかし彼の場合、感情反応そのものが弱いわけではありません。むしろ認識能力が高すぎる——他者の痛み、表情、呼吸、感情変化を正確に読み取った上で反応しています」

 

「共感か?」

 

「断定はできません」

 

 その言葉を最後に、観察室にはしばらく沈黙が落ちた。研究員たちはモニターに映る月詠を見つめていた。全項目で最高評価を記録し、綾小路清隆と並ぶ成果を出している。普通なら喜ぶべき結果だった。だが、誰も笑わない。

 

「被験体4-β-02の成績は?」

 

「全項目、最高評価です」

 

「綾小路清隆との比較は」

 

「現時点では分野によって優劣が分かれます。総合ではほぼ同等。創造性と直感的処理では神凪月詠が上回っています」

 

「教育効果は?」

 

 研究員は一瞬だけ言葉を詰まらせた。「……測定困難です。入所前の段階で既に異常値を示していたため、現在の能力が教育による伸長なのか、生得的な資質なのか、明確な分離ができません」

 

 再び沈黙が落ちた。その言葉の意味を、全員が理解していたからだ。神凪月詠は優秀だった。疑いようもなく優秀だった。だが、その優秀さが教育によるものなのか、生まれ持った資質によるものなのか、研究員たちは判断できずにいた。ホワイトルームが証明したいのは、才能ではない。教育だ。教育によって天才が作られたという証明でなければならない。生まれつき優秀だったなどという結論は、この施設にとって最も不要なものだった。だからこそ、神凪月詠の存在は不気味だった。

 

「……彼は本当に、我々が育てた成果なのか」

 

 誰かがそう呟いた。その問いに答える者はいなかった。

 

 夜、全てのプログラムが終了し、子供たちは寝室へ戻された。

 

 消灯までのわずかな時間、月詠はベッドの上に座って白い天井を見上げていた。今日、倒した少年の顔が頭に残っている。痛そうだった。悔しそうだった。自分は手を差し出して、研究員に止められた。不要だと言われた。ならなぜ、自分は手を出したのだろう。月詠は自分の右手をじっと見つめた。

 

「気にしているのか」隣から、あの黒髪の少年の声がした。

 

「何を?」

 

「午後の模擬戦」

 

「気にしている、というのがどういう状態か分からない」

 

「なら考えているのか」

 

「それなら、そうかもしれない」

 

 少年は少しだけ沈黙した。「手を差し出した理由は?」

 

「分からない。でも、倒れていたから。……おれが、倒したから」

 

「倒したのはお前だ」

 

「そうだ」

 

「なら立ち上がるのは相手の役目だ」

 

「そう教えられた」

 

「違うと思うのか」

 

 月詠は答えられなかった。違う、と言い切るだけの理由はない。正しい、と納得するだけの実感もない。「……分からない」結局、同じ答えになった。

 

 少年は月詠をじっと見ていた。その目は相変わらず空っぽに見えたが、月詠にはほんのわずかに何かが動いたように思えた。

 

「お前は変だな」少年が言った。

 

「君も変だ」

 

「そうか」

 

「ああ...他の子とは違う」

 

「お前もだ」

 

「なら同じだね」

 

「同じではない」

 

「どうして?」

 

「……分からない」今度は少年がそう答えた。

 

 月詠は少しだけ目を細めた。それが笑みに近いものだったのか、自分でも分からなかった。

 

 消灯の合図が鳴り、照明が落ちる。完全な暗闇にはならず、管理用の薄い光だけが残った。横になった月詠は、眠りに落ちる直前にぼんやりと思った。あの黒髪の少年は、自分と同じではない。けれど、他の誰よりも近い——その感覚だけは、なぜかはっきりしていた。

 

 同じ頃、観察室では一つの報告書が作成されていた。

 

 被験体4-β-02 神凪月詠

 

 学習課程:有意な失点なし。

 記憶課程:三百桁記憶を完全再現。

 多言語処理課程:全設問へ解答。

 心理分析課程:観測期間中最高精度を記録。

 戦略立案課程:想定解との継続的乖離を確認

 身体能力課程:観測値は全項目で予測値を上回る成長要因の特定は困難。

 特記事項:被験体4-β-01との接触時、自発的対話行動を初観測。継続観察を推奨。

 

総合評価︰現行評価モデルによる能力予測との継続的な不一致を確認。教育効果との因果関係は判定不能。

 

 報告書を作成していた研究員は、最後の一文を入力する前にわずかに手を止めた。そして静かに、文字を打ち込んだ。

 

 ――被験体4-β-02は、ホワイトルームの理念に対する例外個体である可能性が高い。

 

 白い施設の中で、神凪月詠は眠っていた。自分が何者なのかも知らず、自分がなぜ恐れられているのかも知らず、ただ与えられた課題をこなし続けながら。

 

 大人たちは少しずつ気付き始めていた。この少年は、本当にホワイトルームによって作られた存在なのか。その疑問が、研究員たちの中で少しずつ形を持ち始めていた。それはこの施設にとって祝福ではなかった。むしろ呪いに近かった。

 

 教育によって天才を作るという理念の根幹を、神凪月詠という存在が静かに、しかし確実に揺らし始めていた。

 

 まだ六歳。まだ序章。

 

 それでもこの時点で既に、彼の未来は決まりつつあった。一人は、ホワイトルームが求める完成形へ。そしてもう一人は、ホワイトルームの理念そのものを揺るがす存在へ——静かに、歩み始めていた。

 

 

 

  ──────────────────

 

 消灯の合図が鳴り、寝室から光が消えた。

 

 薄く残された管理灯だけが白い天井を照らしている。少年はベッドに横になったまま目を閉じなかった。眠れないわけではない。必要ならすぐに眠れる。ホワイトルームで育った子供にとって、睡眠は休息であって感情ではない。だが、この日はなぜか意識が覚醒したままだった。

 

 理由を考えると、昼の出来事が思い浮かぶ。

 

『なぜ満点を取れる?』

 

 銀髪の少年はそう言った。

 

 妙な質問だった。ホワイトルームでそんなことを尋ねる者はいない。解ける者は解く。解けない者は脱落する。それだけの話だ。だから少年は『解けるからだ』と答えた。それで終わるはずだった。

 

 だが、なぜかその会話だけが頭に残っている。

 彼の問いそのものではない。その時の表情でもない。うまく説明できないが、あの少年には他の子供たちとは違う何かがあった。

 

 学習課程でもそうだった。

 

 数学、語学、心理分析、戦略課題。どの科目でも月詠は結果を出していた。優秀な子供なら他にもいる。自分もその一人だ。だから結果だけなら特別ではない。

 

 違和感があったのは、その結果へ至る過程だった。

 

 例えば戦略課題。数十項目に及ぶ国家情報と二十三の制約条件を与えられた場合、人間はまず情報を整理する。優先順位を決め、不要な要素を切り捨て、限られた時間の中で最適解を探す。それが普通だ。

 

 だが彼を見ていると、その過程が見えない。

 

 考えていないわけではない。考えなければ解ける内容ではないからだ。しかし、どこで判断し、どこで結論へ至ったのかが分からない。思考の痕跡が残らない。気付けば答えだけが提出されている。

 

 記憶訓練も同じだった。

 

 三百桁の数字を見た後、多くの子供は情報を保持するために口を動かし、指先を震わせ、必死に記憶を繋ぎ止めようとする。だが彼にはそれがなかった。見た瞬間に覚えていたようにしか見えない。

 

 語学課程でも同様だった。四つの言語が同時に流れる中で、多くの子供が混乱していく。だが彼だけは最初から最後まで変わらない。できるかどうかではない。どうやって処理しているのかが分からない。

 

 それが奇妙だった。

 

 少年は静かに目を閉じた。

 

 理解できないものは存在する。それ自体は珍しくない。だが月詠の場合、能力が理解できないわけではなかった。結果は理解できる。理屈も存在するのだろう。ただ、その途中だけが見えない。

 

 まるで解答へ至るまでの工程が丸ごと省略されているようだった。

 

 隣のベッドから規則正しい呼吸音が聞こえる。月詠はもう眠っているらしい。少年は薄く目を開き、暗闇の向こうを見た。管理灯に照らされた銀髪がわずかに見える。

 他の子供たちとは違う。

 だが、自分とも違う。

 そのことだけははっきりしていた。

 なぜ記憶に残るのか。その理由は分からない。

 分からないまま、少年の意識はゆっくりと眠りの中へ沈んでいった。




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