病と愛と探偵と   作:全肯定逆張りおじさん

2 / 2
第二話 伯爵令嬢は探偵を飼う

 探偵という職業について、俺はその日まで深く考えたことがなかった。

 

 新聞に出てくる探偵は、たいてい頭がよく、服が綺麗で、助手がいて、安楽椅子に座っている。

 俺は頭については人によって評価が分かれ、服は泥で、助手はいない。安楽椅子に至っては、最後に座ったのがいつか思い出せない。

 椅子はある。

 うちにも一脚ある。

 ただ、座ると左に沈む。

 

 だから、俺は探偵ではない。

 

 だが、人生というのはたまに、本人の職業欄を勝手に書き換える。

 しかも、たいてい字が汚い。

 

「あなた、今日から私の探偵になりなさい」

 

 ローデンベルク伯爵令嬢は、下町の酒場《錆びた月》でそう言った。

 

 店内は静かだった。

 

 安酒を飲んでいた男たちが黙り、皿を運んでいた女が足を止め、ルカは襟を直し、ブルーノは胸を張り、エミールは怪しい瓶を懐に隠した。

 ヴィクトルだけが笑っていた。

 あいつは、人の人生が悪い方へ転がる時だけ、妙に嬉しそうな顔をする。

 

 俺は伯爵令嬢を見た。

 

 小柄な娘だった。

 淡い金髪を丁寧に巻き、白い手袋をはめ、青いリボンのついた帽子をかぶっている。背丈だけ見れば、人形棚から抜け出してきたみたいだ。

 だが、目が違う。

 

 目だけが、ひどく勝ち気だった。

 菓子をねだる子供ではなく、店ごと買うか迷っている人間の目だ。

 

「お嬢様」

 

 俺は一応、丁寧に頭を下げた。

 

「まず、確認してもよろしいですか」

 

「許すわ」

 

「まだ何を聞くか言ってませんが」

 

「聞く前から許したの。感謝なさい」

 

「貴族の許可は、雨より先に降るんですね」

 

 メイドが青ざめた。

 令嬢は笑った。

 

「面白いわ」

 

「俺の人生はだいたい他人から見ると面白いです」

 

「では、私の役に立つわね」

 

「そこは少し飛びましたね」

 

「あなた、レオン・クラフトでしょう?」

 

「そうですが」

 

「街をよく知っている」

 

「家賃から逃げる道も含めて」

 

「貴族街にも下町にも顔が利く」

 

「顔が利くというか、借りがあるというか」

 

「警察にも顔を覚えられている」

 

「そこは不名誉です」

 

「そして、定職がない」

 

「急に刺しましたね」

 

 令嬢は一歩近づいた。

 

「だから、あなたを雇うわ」

 

「定職がないから?」

 

「空いているでしょう?」

 

 俺は少し考えた。

 たしかに空いている。

 仕事も財布も胃袋も、だいたい空いている。

 

「お嬢様。世の中には、言葉の順番というものがありまして」

 

「何?」

 

「雇うと言う前に、仕事内容と報酬を言うのが、まあ、人間界の礼儀です」

 

「貴族界では?」

 

「知りません。俺は人間界の端の方で暮らしてます」

 

 令嬢は、少しだけ顎を上げた。

 

「銀の犬が消えたの」

 

「犬」

 

「ええ。銀細工の置物よ。ローデンベルク家に古くから伝わるもの」

 

「生きてはいない?」

 

「生きていたら、消えたではなく逃げたと言うわ」

 

「賢い犬ですね」

 

「銀よ」

 

「では、なおさら賢い。飯代がいらない」

 

 令嬢は俺を見たまま、にこにこしている。

 

 その笑顔が妙だった。

 面白がっている。

 だが、楽しんでいるわけではない。

 表情は明るいのに、目の奥に小さな苛立ちがある。

 

 この手の顔は、貴族街でも下町でも同じだ。

 何かをなくした人間の顔。

 

 ただし、金持ちはなくしたものに名前をつけるのがうまい。

 

「警察には?」

 

「知らせていないわ」

 

「ギルドには?」

 

「正式には出していない」

 

「では、俺は?」

 

「私が直々に選んだ」

 

「不幸な抽選ですね」

 

「光栄な任命よ」

 

「同じ事実をこんなに違う言葉で言えるんだな」

 

 ヴィクトルが横から口を挟んだ。

 

「レオン、受けろ。貴族の揉め事は金になる」

 

「記事にもなるからだろ」

 

「友情と職業倫理の一致だ」

 

「お前に職業倫理があったら、新聞が泣くぞ」

 

 サロモンがカウンターの向こうでグラスを拭いていた。

 

「報酬を先に聞け」

 

「さすが大人」

 

「お前は金を見ずに首を突っ込み、あとで首だけ戻ってくる」

 

「胴体は?」

 

「女に持っていかれる」

 

 ルカが身を乗り出した。

 

「伯爵家か。レオン、行くなら俺も」

 

「何をしに」

 

「貴族の女性と知り合う」

 

「お前が貴族街で知り合えるのは門番と犬だ」

 

「犬にも家柄はある」

 

「お前よりはあるだろうな」

 

 ブルーノが真剣な顔で言った。

 

「兄弟、もし伯爵令嬢に求婚されたらどうする」

 

「なぜ銀の犬からそこへ飛ぶ」

 

「女が男を探して酒場まで来たんだぞ。戦いなら開戦だ」

 

「お前は恋愛を戦争でしか理解できないのか」

 

「負け続けているからな」

 

「そこは少し反省しろ」

 

 エミールが指を立てた。

 

「銀は抗菌性がある。犬の形にする必然性は薄いが、儀礼的価値がある可能性は高い」

 

「急に役に立つな」

 

「ただし、銀の犬を盗む人間の心理はわからない」

 

「恋愛用の香水よりはわかりそうだが」

 

「香水は科学だ。恋愛が迷信なんだ」

 

 令嬢は男どもの会話を聞いていた。

 退屈するかと思ったが、むしろ興味深そうだった。

 

「あなたの友人たち、馬鹿なのね」

 

「そこそこ」

 

「忠実?」

 

「食事を出せば」

 

「役に立つ?」

 

「まれに」

 

「では、いらないわ」

 

 ルカが胸を押さえた。

 

「今、貴族の娘に不要と言われた」

 

「よかったな」と俺は言った。「お前の人生で一番身分の高い拒絶だ」

 

「飾っておこうかな」

 

「壁が気の毒だ」

 

 令嬢は白い手袋の指で、小さく合図した。

 後ろのメイドが革の小袋を取り出す。

 

 その音で、店内の男たちの背筋が少し伸びた。

 金の音は、説教よりも姿勢を正す。

 

 令嬢は袋を俺の前に差し出した。

 

「前金」

 

 俺は受け取る前に、サロモンを見た。

 

「本物かな」

 

「失礼だぞ」とサロモン。

 

「俺に?」

 

「金に」

 

 俺は袋を受け取った。

 重い。

 想像よりも重かった。

 

 中を少し開けると、銀貨が見えた。

 家賃が払える。

 それどころか、払ったあとにパンが買える。

 パンに何か挟めるかもしれない。

 

 人生が急に明るくなった。

 

「お嬢様」

 

「何?」

 

「俺は、あなたの探偵ではありません」

 

「まだ言うの?」

 

「ですが、銀の犬を探す男としては、しばらく空いています」

 

 令嬢は満足そうにうなずいた。

 

「よろしい」

 

「ひとつだけ」

 

「何?」

 

「俺は貴族の作法に明るくありません」

 

「見ればわかるわ」

 

「屋敷で何か失礼をしても、事前に謝っておきます」

 

「許すわ」

 

「助かります。では、後で何をしても今の許可で」

 

「それは駄目」

 

「貴族の許可は短命だな」

 

 メイドがとうとう小さく咳き込んだ。

 

 俺は外套を手に取った。

 サロモンが無言で水のグラスを下げる。

 

「帰りに寄れ」

 

「なぜ」

 

「お前が生きていたら、話の続きを聞く」

 

「死んでいたら?」

 

「ヴィクトルから聞く。たぶん盛られる」

 

 ヴィクトルが帽子を直した。

 

「安心しろ。死亡記事は上品に書く」

 

「俺が生きている間に約束するな」

 

 ルカが言った。

 

「レオン、貴族街では背筋を伸ばせ」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

「なぜだ。俺は姿勢がいい」

 

「中身が曲がってる」

 

 ブルーノは拳を握った。

 

「何かあったら呼べ」

 

「何かが腕力で解決しそうならな」

 

「大抵のことはする」

 

「だから呼びにくいんだよ」

 

 エミールが小瓶を差し出してきた。

 

「これを持っていけ。緊張を和らげる香りだ」

 

「副作用は」

 

「三割の人間が母親に謝りたくなる」

 

「しまえ」

 

 俺は令嬢の後に続いて店を出た。

 

 扉が閉まる直前、男どもの声が聞こえた。

 

「探偵レオンか」

「新聞映えはするな」

「死ななきゃいいが」

「死んだら家賃はどうなる?」

「マリアさんが一番怒るな」

「死体にも請求書を持たせるかもしれん」

 

 いい友人たちだ。

 葬式には呼びたくない。

 

     *

 

 馬車の中は、俺の部屋より広かった。

 

 これは誇張ではない。

 少なくとも、膝と膝がぶつからない。窓には薄いカーテンがあり、座席は沈みすぎず、硬すぎず、馬車特有の揺れも柔らかい。

 人間は金があると、揺れ方まで選べるらしい。

 

 令嬢は向かいに座り、メイドはその隣に控えていた。

 俺は外套の泥が座席につかないよう、できるだけ小さく座った。

 

「名前を聞いていませんでした」

 

 俺が言うと、令嬢は驚いたように眉を上げた。

 

「知らずに雇われたの?」

 

「雇った側が名乗らないのは、下町だとだいたい借金取りです」

 

「コレット・ローデンベルク」

 

「コレットお嬢様」

 

「お嬢様はいらないわ」

 

「では、コレット様」

 

「様もいらない」

 

「では、コレット」

 

 メイドがぎょっとした。

 

 コレットは笑った。

 

「本当に言うのね」

 

「命令に従いました」

 

「素直なのか、無礼なのか、わからない人」

 

「どちらも少し」

 

「自覚があるのは悪くないわ」

 

「治す気がないのは?」

 

「かなり悪いわ」

 

 メイドは、たぶん何か言いたそうだった。

 だが、主が楽しそうなので黙っている。

 

 俺はメイドに目を向けた。

 

「あなたは?」

 

「……アンナと申します」

 

「アンナさん。酒場まで貴族のお嬢様を迎えに来るのは大変でしたね。勇気がある」

 

 アンナは目を瞬いた。

 

「え?」

 

「下町の酒場なんて、貴族街の人には野犬の巣みたいに見えるでしょう」

 

「いえ、その」

 

「それでもついてきた。立派だ」

 

 アンナの頬が少し赤くなった。

 

 その瞬間、向かいから冷たい声がした。

 

「あなた」

 

「はい」

 

「私のメイドを口説いているの?」

 

「褒めただけです」

 

「それを口説くと言うのよ」

 

「だとしたら、俺はこの街の半分を口説いてますね」

 

「最低」

 

「誠実に褒めているんですが」

 

「余計に最低」

 

 コレットは腕を組んだ。

 

「私の前で、私以外の女を褒めないで」

 

「依頼条件に入ってます?」

 

「今入れたわ」

 

「後付けの契約は揉めますよ」

 

「揉めたら勝つわ。私は貴族だから」

 

「強い」

 

 アンナは困った顔で俯いていた。

 だが、口元が少し笑っている。

 

 馬車は坂を上っていく。

 

 窓の外で、街の色が変わった。

 下町の看板は低く、声は高い。市場の匂い、魚、油、雨水、馬糞、焼き栗、安い煙草。

 坂を上るにつれて、それらは薄くなる。

 代わりに、石壁、鉄柵、刈り込まれた植木、洗い立ての窓、馬車の革、香水、古い金の匂いがしてくる。

 

 貴族街は静かだ。

 

 静かすぎる。

 人がいないわけではない。使用人は動き、馬車は通り、庭師は枝を切り、門番は門を開け閉めしている。

 だが、声が沈んでいる。

 

 下町の人間は、生きていることを周囲に知らせるために声を出す。

 貴族街の人間は、声を出さなくても自分の居場所があると知っている。

 

 羨ましいかと聞かれれば、少し羨ましい。

 だが、住みたいかと聞かれれば、たぶん三日で息が詰まる。

 

「退屈そうね」

 

 コレットが言った。

 

「いえ、立派な街並みですね。迷子になっても上品に困れそうです」

 

「褒めているの?」

 

「もちろん」

 

「あなたの褒め言葉は、どうしていつも少し欠けているの」

 

「完璧な褒め言葉は高いんです」

 

「報酬は払ったわ」

 

「では次から少し磨きます」

 

 コレットは窓の外を見た。

 

「ローデンベルク家は古い家よ」

 

「でしょうね。屋敷が古そうだ」

 

「まだ見ていないでしょう」

 

「古い家の人は、屋敷を見せる前に家が古いと言うんです」

 

 コレットは黙った。

 怒ったのかと思ったが、違った。

 

 ほんの少しだけ、笑っていた。

 

「あなた、貴族が嫌い?」

 

「よく知らないものを嫌うほど、俺は勤勉じゃありません」

 

「では、好き?」

 

「金払いがよければ」

 

「正直ね」

 

「貧乏人の唯一の宝石です」

 

「その宝石、質に入れられないの?」

 

「入れたら俺に何も残らない」

 

 馬車が止まった。

 

 窓の外に、ローデンベルク伯爵邸が見えた。

 

     *

 

 屋敷は、丘の上にあった。

 

 灰色の石造りで、左右に長く伸び、中央に古い塔がひとつ立っている。屋根は深い青。窓は細長く、鉄の飾りがついている。

 立派だ。

 立派すぎて、住むには少し不便そうだった。

 

 門から玄関までの道が長い。

 雨上がりの庭はよく手入れされていて、芝生は軍隊みたいに揃っている。薔薇の茂みもある。噴水もある。石像もある。

 石像は犬だった。

 

「犬が好きな家なんですね」

 

「家紋が猟犬なの」

 

「盗まれたのも犬」

 

「ええ」

 

「猫では駄目だったんですか」

 

「家祖に聞いて」

 

「生きてます?」

 

「墓ならあるわ」

 

「では今度」

 

 アンナが小さく言った。

 

「クラフト様、墓参りの約束のように言わないでください」

 

「すみません、アンナさん」

 

「……さんもいりません」

 

「では、アンナ」

 

 コレットがこちらを睨んだ。

 

「あなた、学ばないの?」

 

「早い方ではありません」

 

「自慢しないで」

 

 玄関前には、背の高い執事が待っていた。

 

 銀髪を後ろへ撫でつけ、黒い服を隙なく着ている。顔は細く、背筋は屋敷の柱よりまっすぐだった。

 俺を見る目には、はっきりとこう書いてあった。

 

 なぜこれを連れてきた。

 

 声には出さない。

 いい執事だ。

 

「お帰りなさいませ、コレットお嬢様」

 

「ただいま、ベルク。探偵を連れてきたわ」

 

 ベルクと呼ばれた執事は、俺を見た。

 

「探偵、でございますか」

 

「今のところ空いている男です」と俺は言った。

 

「空いている」

 

「職業欄が」

 

「なるほど」

 

 なるほど、の中に何も納得していない響きがあった。

 

 コレットは平然と言った。

 

「彼が銀の犬を探すわ」

 

「旦那様は、外部の者を入れることに難色を示されるかと」

 

「お父様は難色を示すのが趣味なの。気にしないで」

 

「しかし」

 

「ベルク」

 

 コレットの声が少しだけ低くなった。

 

「銀の犬は、私の部屋から消えたのよ」

 

 執事は黙った。

 

 俺はコレットを見た。

 

「あなたの部屋から?」

 

「そう」

 

「さっきはローデンベルク家に伝わるものと」

 

「家のものよ。今は私が預かっていた」

 

「それ、先に言いません?」

 

「今言ったわ」

 

「貴族の情報は馬車より遅いんですね」

 

 ベルクがわずかに眉を動かした。

 アンナはもう慣れ始めている顔をしていた。

 コレットは楽しそうに俺を見た。

 

「あなた、本当に失礼ね」

 

「お許しはいただいてます」

 

「期限切れよ」

 

「短命だ」

 

 屋敷の中へ通された。

 

 玄関広間は広く、天井が高い。壁には肖像画が並んでいる。

 どの絵の人物も、俺のことをあまり歓迎していないように見えた。

 たぶん気のせいではない。

 貴族の肖像画は、未来の貧乏人を睨むために描かれている。

 

 床は磨かれた石。

 歩くたびに靴音が響く。

 俺の靴の泥が少し気になった。

 

「すみません、床を汚したら」

 

 ベルクが言った。

 

「後ほど清掃いたします」

 

「俺ごと?」

 

「必要であれば」

 

「いい執事だ」

 

 コレットの部屋は二階にあった。

 

 廊下を進む途中、何人かの使用人とすれ違った。

 皆、俺を見た。

 すぐに目を伏せた。

 だが、その一瞬で十分だ。

 

 屋敷の中は緊張している。

 

 銀の置物ひとつが消えたにしては、空気が重い。

 盗まれたものの値段ではない。

 誰が疑われるか。誰が責任を取るか。誰が恥をかくか。

 そういう空気だ。

 

 俺はこういう空気を知っている。

 下町の食堂でも同じことが起きる。

 鍋から肉が一切れ消えた時だ。

 

 ただ、貴族の屋敷では肉の代わりに名誉が煮込まれている。

 

     *

 

 コレットの部屋は、明るかった。

 

 南向きの窓があり、薄いカーテンが雨上がりの光を柔らかくしている。壁紙は淡い青。棚には本と小箱と人形が並び、机には便箋、封蝋、羽ペン。

 部屋の隅には小さなピアノもあった。

 

 そして、暖炉の上に、空いた場所がある。

 

 すぐにわかった。

 そこだけ、他の飾りと間隔が違う。

 何かが置かれていた場所だ。

 

「そこに?」

 

「ええ」

 

 コレットは暖炉の前へ行った。

 

「銀の犬は、ここに置いてあったわ。毎朝、アンナが埃を払う。三日前の朝まではあった。昼には消えていた」

 

「三日前」

 

「そう」

 

「ずいぶん経ってますね」

 

「だから急いでいるの」

 

「三日悩んでから?」

 

「三日、屋敷の中で探したのよ。ベルクも、アンナも、使用人たちも。でも見つからなかった」

 

「警察を呼ばなかった理由は?」

 

「屋敷の恥になるから」

 

「貴族らしい理由ですね」

 

「それもあるわ」

 

「他には?」

 

 コレットは口を閉じた。

 

 その代わりに、アンナが小さく答えた。

 

「疑われるからです」

 

 俺はアンナを見た。

 

「誰が?」

 

「使用人が」

 

 コレットが続けた。

 

「警察を呼べば、まず使用人を調べるでしょう。部屋に入れる者は限られているもの」

 

「実際、入れるのは?」

 

「私、アンナ、ベルク。それからお父様。あとは、掃除係のリリアが朝だけ」

 

「鍵は?」

 

「普段はかけていないわ」

 

「貴族の部屋なのに?」

 

「屋敷の中よ」

 

「下町では、屋根の下でも財布は消えます」

 

「ここは下町ではないわ」

 

「銀の犬は消えた」

 

 コレットは一瞬黙った。

 

 言い返しそうになったが、やめたらしい。

 

「そうね」

 

 俺は暖炉に近づいた。

 

 手袋はない。

 探偵なら白い手袋でも持っているのだろうが、俺が持っているのは昨日なくしたボタンくらいだ。

 

「触っても?」

 

「いいわ」

 

 暖炉の上の棚板を見た。

 

 空いた場所には、うっすらと丸い跡がある。銀の犬の台座だろう。埃は少ない。アンナが毎朝掃除していたという話は、たぶん本当だ。

 

 ただ、その跡の端に、わずかに黒い筋があった。

 

「銀の犬は、どんな形でした?」

 

 コレットが机の引き出しから紙を出した。

 そこには、簡単な絵が描かれている。

 

 犬は座った姿で、首を上げている。台座は楕円形。大きさは手のひら二つ分ほど。

 腹のあたりに、細い装飾線がある。

 

「重さは?」

 

「子供には重いけれど、大人なら持てるわ」

 

「片手で?」

 

「たぶん」

 

「銀そのもの?」

 

「中は空洞だと聞いているわ」

 

「空洞」

 

 俺は絵を見た。

 

「何か入っていた?」

 

「知らない」

 

「開く?」

 

「開かないはずよ」

 

「はず」

 

「私が開けたことはないもの」

 

 ベルクが言った。

 

「古い工芸品でございます。無理に開ければ破損します」

 

「なるほど」

 

 俺は暖炉の棚に顔を近づけた。

 

 黒い筋に鼻を寄せる。

 

 銀の匂いというのは、正直よくわからない。

 だが、金属を磨く粉や油の匂いなら少しわかる。港でも劇場でも、金属は手入れしないとすぐ機嫌を損ねる。

 

 この黒い筋には、少しだけ油の匂いがした。

 

 古い機械油。

 屋敷の中より、港の倉庫に似た匂い。

 

「銀の犬を最後に見たのは?」

 

「三日前の朝。朝食の前よ。アンナが花を替えて、その時にはあった」

 

「そのあと?」

 

「私は下の客間で家庭教師と会った」

 

「家庭教師」

 

「礼儀作法の先生よ」

 

「あなたに?」

 

 コレットは俺を睨んだ。

 

「何か言いたいの?」

 

「先生は大変ですね」

 

「あなたよりはましよ」

 

「でしょうね。俺なら初日に逃げる」

 

 アンナが少しだけ笑った。

 コレットがそちらを見たので、アンナはすぐ真顔になった。

 

「昼に戻ると、犬がなかった」

 

「部屋に荒らされた跡は?」

 

「ないわ」

 

「窓は?」

 

「閉まっていた」

 

「鍵は?」

 

「内側から」

 

「扉は?」

 

「誰でも開けられた」

 

「では密室ではない」

 

「密室だった方がよかった?」

 

「新聞受けはいいでしょうね。読者が喜ぶ」

 

「私は喜ばないわ」

 

「依頼人が喜ぶ事件は少ないです」

 

「あなた、探偵みたいなことを言うのね」

 

「今のところ、雰囲気です」

 

 俺は窓辺へ行った。

 

 窓の外には庭が見える。二階だが、すぐ下に蔦の絡んだ張り出しがあり、身軽な者なら登れないこともない。

 ただし、降りる時に目立つ。庭師や使用人に見られる可能性が高い。

 

 窓枠に傷はない。

 鍵も壊れていない。

 

「三日前、庭師は?」

 

 ベルクが答えた。

 

「午前中は西庭におりました。この窓の下には来ておりません」

 

「雨は?」

 

「降っていないわ」とコレット。

 

「その前の晩は?」

 

「少しだけ」

 

 俺は床を見た。

 窓辺の絨毯には、泥の跡はない。

 少なくとも、外から入った感じではない。

 

 では、普通に扉から入った人間が持ち出した。

 

 簡単すぎる。

 簡単すぎる事件は、たいてい何かが隠れている。

 

「屋敷の中を探したと」

 

「ええ」

 

「使用人の部屋は?」

 

 アンナの肩が少し強張った。

 

 ベルクが答える。

 

「確認しました」

 

「誰が?」

 

「私が」

 

「全員?」

 

「必要な範囲で」

 

「必要な範囲とは?」

 

「ローデンベルク家の秩序を保つ範囲です」

 

「便利な言葉ですね。中身が見えない箱みたいだ」

 

 ベルクの目が細くなった。

 

「クラフト様」

 

「様はいりません。俺も落ち着かないので」

 

「では、クラフトさん。あなたはこの家の者ではありません」

 

「でしょうね。床が綺麗すぎる」

 

「ですので、言葉にはお気をつけください」

 

 俺は少し笑った。

 

「気をつけます。たぶん足りませんが」

 

 コレットが割って入った。

 

「ベルク、彼には好きに見せて」

 

「お嬢様」

 

「私が選んだの」

 

「それが問題なのです」

 

「問題を解決するために選んだのよ」

 

「問題が増える可能性もございます」

 

「それなら退屈しないわ」

 

 ベルクは黙った。

 俺は少しだけ、この令嬢を見直した。

 

 傍若無人だ。

 かなり。

 だが、自分の選択を他人のせいにはしないらしい。

 

 面倒だが、嫌いではない。

 

「コレット」

 

「何?」

 

「銀の犬が戻ればいいんですね」

 

「ええ」

 

「犯人は?」

 

「もちろん知りたいわ」

 

「罰したい?」

 

 彼女は即答しなかった。

 

 窓の光が、その小さな顔の上で揺れた。

 

「盗んだ理由によるわ」

 

「貴族らしくない答えですね」

 

「褒めているの?」

 

「かなり」

 

「あなたの“かなり”は信用できないわ」

 

「よく言われます」

 

 俺は部屋の中をもう一度見回した。

 

 暖炉。机。窓。本棚。小さなピアノ。花瓶。人形。

 貴族令嬢の部屋。

 だが、完全に飾られた部屋ではない。使われている。机の上には封を切った手紙があり、インク瓶の周りに小さな染みがある。ピアノの上には楽譜。人形の横には、古い木製の犬笛。

 

「犬笛?」

 

 俺が指さすと、コレットは一瞬だけ目を細めた。

 

「昔のものよ」

 

「吹ける?」

 

「音は出ないわ」

 

「犬も来ない?」

 

「銀の犬なら来なかった」

 

「それは残念」

 

 俺は犬笛を手に取ろうとして、やめた。

 

「触らないの?」

 

「触っていいものと悪いものがある気がして」

 

 コレットは少し意外そうな顔をした。

 

「あなたにもそういう気遣いがあるのね」

 

「たまに出ます。長続きしませんが」

 

「なぜこれは駄目だと思ったの?」

 

「あなたが今、一番嫌そうな顔をしたから」

 

 部屋が少し静かになった。

 

 コレットは目を逸らした。

 

「……昔、母がくれたものよ」

 

「そうですか」

 

「音は出ないけど、捨てていないだけ」

 

「いいものですね」

 

「音が出ないのに?」

 

「音が出ない笛を捨てずに置く人の部屋は、たぶん悪くない」

 

 コレットは何か言いかけた。

 

 その前に、アンナが小さく息を呑んだ。

 

 コレットがアンナを見た。

 アンナは慌てて目を伏せる。

 

 まただ。

 俺は何かを踏んだらしい。

 女の心というものは、床板の軋みよりわかりにくい。

 

「クラフトさん」

 

 ベルクが言った。

 

「必要でしたら、使用人たちから話を聞かせましょう」

 

「お願いします。まず、アンナから」

 

 アンナが顔を上げた。

 

「私、ですか」

 

「あなたが最後に見た」

 

「はい」

 

「それと、あなたはコレットの部屋に毎日入る」

 

「はい」

 

「なら、一番知っている」

 

 コレットが少し不満そうに言った。

 

「私に聞けばいいでしょう」

 

「あなたは見たいものを見ます」

 

「失礼ね」

 

「お嬢様はたいていそうです。下町の酔っぱらいもそうですが」

 

「私を酔っぱらいと同じ棚に置いたの?」

 

「棚が広いんです」

 

 コレットはむくれた。

 

 その顔は年相応より少し幼く見えた。

 だが、目だけはやはり違う。

 

 失くした銀の犬を追っているだけの目ではない。

 誰かを疑いたくない目だ。

 

     *

 

 アンナから聞けたことは多くなかった。

 

 三日前の朝、彼女はいつも通り部屋に入り、カーテンを開け、花瓶の花を替え、暖炉の棚の埃を払った。

 銀の犬は確かにあった。

 午前中、コレットは下の客間へ行き、アンナは洗濯室へ。

 昼前に戻ると、銀の犬が消えていた。

 

 その間に部屋へ入れる可能性があったのは、執事ベルク、掃除係のリリア、伯爵本人、そしてコレットの兄であるアルマン卿。

 家庭教師のマダム・セラフィンも屋敷にはいたが、コレットの部屋へは上がっていないという。

 

「アルマン卿は?」

 

「お嬢様のお兄様です」とアンナ。

 

「仲は?」

 

 アンナは言葉に詰まった。

 

 コレットが代わりに答えた。

 

「普通よ」

 

「普通という言葉は、便利な布ですね。何でも隠せる」

 

「あなた、家族の話に踏み込むのが早いわ」

 

「仕事なので」

 

「急に真面目な顔をしないで」

 

「真面目な顔は高いんです」

 

「報酬を払ったわ」

 

「では少し」

 

 コレットはふんと鼻を鳴らした。

 

「兄は家のことに興味がないわ。銀の犬にも」

 

「では盗まない?」

 

「盗む理由がない」

 

「理由のないことをする人間もいます」

 

「あなたみたいに?」

 

「俺の場合は、だいたい理由があります。腹が減った、金がない、美人に頼まれた」

 

「最低」

 

「三つ目だけ少し美しくありません?」

 

「全部同じ袋に入っている時点で駄目よ」

 

 アンナは小さく笑った。

 

 コレットがまた睨む。

 

「アンナ」

 

「申し訳ございません」

 

「笑っていいわ。ただし、私より先に笑わないで」

 

「難しい命令ですね」と俺は言った。

 

「あなたは黙って」

 

「雇い主の命令なら」

 

「今だけ雇い主なの?」

 

「報酬の続く限り」

 

「なら追加するわ」

 

「素晴らしい雇用関係です」

 

 その後、掃除係のリリアにも話を聞いた。

 

 リリアは十七か十八ほどの若い使用人で、手が荒れていた。俺を見ると怯えたように目を伏せた。

 銀の犬が消えた日、彼女は廊下と隣室の掃除をしていたが、コレットの部屋には入っていないという。アンナが掃除を済ませた部屋には入らない決まりだからだ。

 

 話している間、ベルクが近くにいた。

 リリアはそのたびに言葉を選んだ。

 

 選びすぎた言葉は、本当か嘘かより先に、窮屈な音がする。

 

「リリア」

 

 俺はできるだけ柔らかく言った。

 

「銀の犬を盗んだかどうかは、今は聞いてない」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「え」

 

「見たことを聞いてる。誰が怒るかじゃなく、何を見たか」

 

 ベルクの視線が痛い。

 

 リリアは唇を噛んだ。

 

「……廊下で、音を聞きました」

 

「音?」

 

「金属が、軽く当たるような音です。お嬢様のお部屋の方から」

 

「いつ」

 

「朝食のあとです。お嬢様が下へ行かれて、少ししてから」

 

「誰かを見た?」

 

 リリアは首を振った。

 

「見ていません。私、怖くて」

 

「怖い?」

 

「その日は、旦那様の機嫌が悪くて。廊下にいるなと、ベルク様から言われていたので」

 

 ベルクが静かに言った。

 

「旦那様はお身体の調子が優れず、騒音を嫌われておりました」

 

「なるほど」

 

 俺はリリアの手を見た。

 荒れた指先。爪の間に、白い粉が少し残っている。

 

「それは?」

 

 リリアが慌てて手を隠した。

 

「磨き粉です。銀器の」

 

「今日、銀器を磨いた?」

 

「はい」

 

「三日前も?」

 

「はい。朝食のあと、食堂の銀器を」

 

「銀の犬は?」

 

「私は触っていません」

 

「そう」

 

 俺はうなずいた。

 

「ありがとう。助かった」

 

 リリアは驚いた顔をした。

 使用人は、ありがとうを言われ慣れていないことがある。

 貴族の屋敷では、働くことは空気みたいに扱われる。ないと困るが、ある時には誰も褒めない。

 

 コレットは黙ってそれを見ていた。

 

     *

 

 屋敷を一通り見た頃には、外が少し暗くなり始めていた。

 

 俺はもう一度、コレットの部屋へ戻った。

 

 暖炉の上。

 銀の犬があった場所。

 黒い筋。

 油の匂い。

 金属が軽く当たる音。

 銀器の磨き粉。

 閉じた窓。

 開いていた扉。

 疑われたくない使用人。

 疑いたくない令嬢。

 

 情報は集まった。

 だが、形にはまだならない。

 

 形になる前の情報は、酔っぱらいの集団に似ている。

 全員が何かを言っているが、誰も同じ方向へ歩いていない。

 

「どう?」

 

 コレットが聞いた。

 

「見つかりそう?」

 

「犬は歩きませんからね」

 

「冗談を聞いているのではないわ」

 

「では、少し真面目に」

 

 俺は暖炉の棚を指した。

 

「盗むだけなら、誰でもできます。部屋に入って、持って出ればいい。窓も壊れていない。鍵も意味がない。屋敷の中の人間なら簡単だ」

 

 アンナが不安そうな顔をする。

 

「でも、変なところがある」

 

 コレットが近づいた。

 

「何?」

 

「銀の犬は、ここに置いてあった。毎朝埃を払っていた。なら、ここには銀の犬の跡が残る」

 

「残っているわ」

 

「残りすぎている」

 

 コレットが眉をひそめた。

 

「どういう意味?」

 

「三日前に消えたにしては、跡がはっきりしすぎている。毎日掃除していたなら、周りの埃も薄い。なのに台座の跡だけが妙に濃い」

 

「つまり?」

 

「銀の犬は、三日前までずっとここにあった。そこはたぶん本当です。でも、消えた時に何かがこすれた。黒い筋が残っている」

 

「盗む時に?」

 

「普通に持ち上げれば、筋はつかない」

 

「では?」

 

「引きずったか、倒したか、何かに引っかけた」

 

 俺は指先を鼻に近づけた。

 

「それに、少し油の匂いがする」

 

「油?」

 

「屋敷の銀器には使わない匂いです。港の倉庫や、古い工具箱に近い」

 

 コレットの顔が変わった。

 

「港?」

 

「まだわかりません」

 

「あなた、何か知っているの?」

 

「今のところ、知らないことが増えました」

 

「役に立っているの?」

 

「探偵というのは、たぶん最初に知らないことを増やす職業なんです」

 

「たぶん?」

 

「今日からなので」

 

 コレットは不満そうだったが、黙った。

 

 その時、廊下の向こうから低い声がした。

 

「何をしている」

 

 部屋の入口に男が立っていた。

 

 三十前後だろうか。背が高く、整った顔をしている。コレットと同じ淡い金髪だが、こちらは冷たい印象が強い。服は上等で、襟元に小さな家紋のピンを留めている。

 

 彼は俺を見た。

 

 俺の靴。

 外套。

 顔。

 すべてを順に見て、最後にコレットへ視線を移す。

 

「コレット。下町の男を部屋に入れる趣味ができたのか」

 

 コレットの顔から、笑みが消えた。

 

「アルマン兄様。彼は私が雇った人よ」

 

「雇った?」

 

 アルマンは鼻で笑った。

 

「犬探しか。次は猫でも飼うつもりか?」

 

 俺は軽く頭を下げた。

 

「レオン・クラフトです。今のところ、犬専門で」

 

 アルマンは俺を見た。

 

「誰が口を利いていいと言った?」

 

「失礼しました。では、今の挨拶は床に向けたものということで」

 

 アンナが息を呑んだ。

 ベルクが目を閉じた。

 コレットは、ほんの少しだけ口元を押さえた。

 

 アルマンの眉が動いた。

 

「下品な男だ」

 

「よく言われます。ですが、お屋敷は上品ですね。息をするのにも許可がいりそうです」

 

「コレット」

 

 アルマンは俺を無視した。

 

「父上が呼んでいる。こんな茶番はやめろ」

 

「茶番ではないわ」

 

「銀の犬など、放っておけばいい」

 

「嫌よ」

 

「家の恥を広げる気か」

 

「恥ならもう家の中にあるわ。外に出して風に当てた方がましよ」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 コレットの声は高くない。

 だが、まっすぐだった。

 

 アルマンはしばらく妹を見ていたが、やがて俺に視線を戻した。

 

「クラフトと言ったな」

 

「はい」

 

「金が欲しいなら、いくらだ」

 

「仕事の内容によります」

 

「この屋敷から出ていく仕事だ」

 

「それは魅力的ですね。だが、先にお嬢様から犬探しの前金をいただいているので」

 

「倍出す」

 

 コレットが目を見開いた。

 

「兄様」

 

 俺は少し考えた。

 

 倍。

 家賃が払える。

 パンどころか肉も買える。

 マリアに少しだけ偉そうな顔ができる。

 いや、偉そうな顔をしたら家賃帳で殴られるかもしれない。

 

「ありがたいお話ですが」

 

 俺は言った。

 

「先約があります」

 

 アルマンは意外そうに俺を見た。

 

「下町の男にも約束があるのか」

 

「あります。守れるかは別として」

 

「なら守らずに出ていけ」

 

「そこまで言われると、守りたくなるのが人情です」

 

「馬鹿か」

 

「それもよく言われます」

 

 コレットが俺を見ていた。

 

 なぜか少し怒っているような、嬉しそうな、わけのわからない顔だった。

 

 アルマンは舌打ちした。

 

「勝手にしろ。ただし、父上の前でその口を利けば、二度とこの屋敷に入れなくなる」

 

「それは困りますね」

 

「わかったなら」

 

「まだ犬を見つけていません」

 

 アルマンが足を止めた。

 

 俺は暖炉の棚を指した。

 

「アルマン卿。三日前の朝、ここへ来ましたか」

 

「なぜ答える必要がある」

 

「ないですね」

 

「では」

 

「でも、答えないと妹さんに疑われます」

 

 コレットが俺を睨んだ。

 

「私は」

 

「疑いたくないんでしょう」

 

 また静かになった。

 

 アルマンは俺を見下ろした。

 

「来ていない」

 

「銀の犬には興味がない?」

 

「ない」

 

「では、消えて困ることも?」

 

「ない」

 

「戻ってきて困ることは?」

 

 アルマンの目が、一瞬だけ細くなった。

 

「ない」

 

「そうですか」

 

 俺はうなずいた。

 

「ありがとうございます」

 

「何がわかった」

 

「あなたが俺を嫌いだということは、かなり」

 

「今すぐ出ていけ」

 

「よく言われます」

 

 アルマンは部屋を出ていった。

 

 足音が廊下に消える。

 

 コレットはしばらく黙っていた。

 それから、俺の方へ向き直る。

 

「あなた」

 

「はい」

 

「倍のお金、断ったのね」

 

「先約がありましたので」

 

「意外と誠実なのね」

 

「言動が軽いだけです」

 

「自分で言う?」

 

「他人に言われる前に」

 

 コレットは俺をじっと見た。

 

「でも、守れるかは別なんでしょう?」

 

「努力します」

 

「信用できないわ」

 

「正しい判断です」

 

 彼女は小さく笑った。

 

 さっきまでの怒りが、まだ目の奥に残っている。

 だが、それとは別のものも混じっていた。

 

 困った。

 こういう顔をされると、たいてい後で別の女に怒られる。

 

     *

 

 屋敷を出る頃には、空は藍色になっていた。

 

 伯爵本人には会えなかった。

 体調が悪く、自室から出ないという。

 アルマンはそれ以上顔を見せず、ベルクは終始、俺を屋敷の染みのように扱った。アンナは馬車まで見送りに来た。

 

 コレットは玄関前で言った。

 

「明日も来なさい」

 

「命令ですか」

 

「依頼よ」

 

「違いは?」

 

「依頼は報酬が出るわ」

 

「では喜んで」

 

「あなた、本当にわかりやすいわね」

 

「複雑な男は高くつきます」

 

「あなたも十分高くつきそうよ」

 

「家賃程度です」

 

 コレットは少し首を傾げた。

 

「家賃、いくらなの?」

 

「貴族に聞かれると、急に小さな数字に見えます」

 

「払えないのに?」

 

「不思議ですね」

 

「馬鹿なの?」

 

「そこはまだ調査中です」

 

 コレットは白い手袋の指を伸ばし、俺の外套の袖についた埃を払った。

 

 急な仕草だった。

 

 俺は少し驚いた。

 コレット自身も、払ってから少しだけ驚いた顔をした。

 

「汚れていたからよ」

 

「ありがとうございます」

 

「勘違いしないで」

 

「何を?」

 

「だから、そういうところよ」

 

「今日はそればかり言われる」

 

「でしょうね」

 

 馬車に乗る前、俺はふと思い出して振り返った。

 

「コレット」

 

「何?」

 

「銀の犬ですが」

 

「ええ」

 

「盗まれたんじゃないかもしれません」

 

 彼女の表情が固まった。

 

「どういうこと?」

 

「まだ勘です」

 

「探偵は勘で話すの?」

 

「今日からなので、加減がわかりません」

 

「レオン」

 

 初めて、彼女が俺の名前だけを呼んだ。

 

 妙な響きだった。

 貴族令嬢の声なのに、下町の路地まで届きそうな呼び方。

 

「明日、必ず来なさい」

 

「報酬が出るなら」

 

「出すわ」

 

「では、必ず」

 

「報酬が出なくても来るとは言わないのね」

 

「嘘はよくない」

 

「最低」

 

「誠実とも言います」

 

「言わないわ」

 

 馬車が動き出した。

 

 窓の向こうで、コレットはまだこちらを見ていた。

 

 俺は座席に背を預ける。

 懐には前金。

 頭の中には銀の犬。

 鼻の奥には、古い油の匂い。

 

 貴族の屋敷。

 消えた銀細工。

 疑われたくない使用人。

 嫌がる兄。

 黙る執事。

 そして、盗まれたと言いながら、盗まれたとは限らない犬。

 

 面倒な匂いがする。

 

 馬車が坂を下り、下町の灯りが近づいてきた。

 ガス灯が雨上がりの石畳に滲んでいる。酒場から声が漏れ、新聞売りが最後の夕刊を叫び、遠くの港で船の汽笛が鳴った。

 

 この街では、人はたいてい何かを愛している。

 

 名誉。

 家。

 金。

 昔の約束。

 失くしたもの。

 自分を見つけた誰か。

 

 銀の犬を愛しているのは、誰なのか。

 それとも、銀の犬に隠された何かを愛しているのか。

 

 考えているうちに、馬車は《錆びた月》の前を通り過ぎた。

 

「あ」

 

 俺は窓を叩いた。

 

「すみません、ここで」

 

 御者は止まらなかった。

 

 向かいのアンナが言った。

 

「コレットお嬢様より、クラフト様をお住まいまでお送りするようにと」

 

「いや、酒場に用が」

 

「お住まいまで、と」

 

「俺の住まいを知ってるんですか」

 

「はい」

 

「なぜ」

 

 アンナは少しだけ微笑んだ。

 

「街は狭いそうですので」

 

 嫌な予感がした。

 

 馬車は俺の借家の前で止まった。

 

 窓から見ると、玄関前にマリアが立っていた。

 腕を組んでいる。

 顔は笑っていない。

 

 俺は懐の前金に手を当てた。

 

 大丈夫だ。

 今日は家賃が払える。

 堂々と帰れる。

 

 そう思った時、アンナが小さな包みを差し出した。

 

「こちら、コレットお嬢様からです」

 

「何です?」

 

「明日のための服飾代として、前金の残りはお嬢様がお預かりになるとのことです。クラフト様はお金を持つと散る、と伺いましたので」

 

 俺は包みを開けた。

 

 中には、銀貨が数枚だけ残っていた。

 

 家賃には、少し足りない。

 

 馬車の扉が開いた。

 

 外ではマリアが待っている。

 

 俺は空を見た。

 

 星は出ていなかった。

 神もたぶん、今日は留守だ。

 

「クラフト様?」

 

「アンナ」

 

「はい」

 

「探偵って、初日からこんなに危険な仕事なんですか」

 

「お嬢様に関わる仕事は、だいたい」

 

「なるほど」

 

 俺は馬車を降りた。

 

 マリアが俺を見た。

 

「レオン」

 

「ただいま」

 

「馬車」

 

「仕事です」

 

「貴族の?」

 

「たぶん」

 

「家賃は?」

 

 俺は懐の銀貨を握った。

 

 銀の犬は消えた。

 俺の家賃も、だいぶ消えた。

 

「少し、話せば長くなる」

 

「短くして」

 

「探偵になった」

 

 マリアはしばらく黙った。

 

 それから、深く息を吐いた。

 

「あなた、とうとう職業まで嘘をつくようになったのね」

 

「俺もまだ信じてない」

 

「でしょうね」

 

 彼女は扉を開けた。

 

「入りなさい。まず、話を聞くわ」

 

「怒ってる?」

 

「まだ」

 

「まだ?」

 

「聞いてから決める」

 

 それは、公平な裁判だった。

 ただし、判決はもうだいたい見えている。

 

 俺は借家の中へ入った。

 

 探偵生活一日目。

 

 銀の犬は見つからず、報酬は減り、雇い主は面倒で、兄は俺を嫌い、大家は怒る寸前だった。

 

 順調とは言えない。

 

 だが、この街で何かが始まる時というのは、たいていこんなものだ。

 財布が軽くなり、女が不機嫌になり、男友達が笑い、どこかで警官が怒鳴っている。

 

 そして俺は、まだ知らなかった。

 

 翌朝、ローデンベルク伯爵邸の裏門近くで、銀の犬より先に、ひとりの男が見つかることになる。

 

 死体として。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

救いのない鬱ゲー世界で主人公御用達の喫茶店をやる(作者:音塚雪見)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

女しか魔法が使えない世界に転生した主人公。▼しかし彼だけは男ながらに魔法が使える。▼──これは俺が主人公ですね間違いない。▼馬鹿みたいな勘違いの末、彼は「世界最強の魔女」と呼ばれるほど実力を高める。▼だが見覚えのあるキャラクターと遭遇し、とある救いのない鬱ゲーに転生してしまったのだと知った。▼──ワッツ!? あかんこのままじゃ世界が死ぬゥ!!▼ということで爆…


総合評価:6619/評価:7.67/完結:53話/更新日時:2026年07月03日(金) 19:46 小説情報

貞操逆転世界で勇者パーティーの雑用やってます(作者:恋狸)(オリジナルファンタジー/コメディ)

四天王の毒を食らって動けなくなってからパーティーメンバーの様子がおかしい気がする▼※掲示板回多め▼カクヨムでも投稿し始めました。


総合評価:15962/評価:8.76/連載:9話/更新日時:2026年03月20日(金) 21:07 小説情報

すべてを失って身売りした少女にすべてを与えてみた結果(作者:ヤンデレすこすこ侍)(オリジナルファンタジー/コメディ)

転生したら全てを持っていた。▼転生先は大国アズヴォルデ帝国の第三皇子だった。▼ふ~ははははっ! これで好き放題出来る!▼あんなことや、こんなことを、好き勝手にやらせていただく!▼そう息巻いて過ごすこと十五年。▼俺は早速飢え始めていた。▼つまらない。▼つまらないのだ!▼何もかもを手に入れてしまって、何にも充足感を得られない!▼金も名誉も地位も力も、全てを持って…


総合評価:24980/評価:8.87/連載:31話/更新日時:2026年06月12日(金) 12:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>