探偵という職業について、俺はその日まで深く考えたことがなかった。
新聞に出てくる探偵は、たいてい頭がよく、服が綺麗で、助手がいて、安楽椅子に座っている。
俺は頭については人によって評価が分かれ、服は泥で、助手はいない。安楽椅子に至っては、最後に座ったのがいつか思い出せない。
椅子はある。
うちにも一脚ある。
ただ、座ると左に沈む。
だから、俺は探偵ではない。
だが、人生というのはたまに、本人の職業欄を勝手に書き換える。
しかも、たいてい字が汚い。
「あなた、今日から私の探偵になりなさい」
ローデンベルク伯爵令嬢は、下町の酒場《錆びた月》でそう言った。
店内は静かだった。
安酒を飲んでいた男たちが黙り、皿を運んでいた女が足を止め、ルカは襟を直し、ブルーノは胸を張り、エミールは怪しい瓶を懐に隠した。
ヴィクトルだけが笑っていた。
あいつは、人の人生が悪い方へ転がる時だけ、妙に嬉しそうな顔をする。
俺は伯爵令嬢を見た。
小柄な娘だった。
淡い金髪を丁寧に巻き、白い手袋をはめ、青いリボンのついた帽子をかぶっている。背丈だけ見れば、人形棚から抜け出してきたみたいだ。
だが、目が違う。
目だけが、ひどく勝ち気だった。
菓子をねだる子供ではなく、店ごと買うか迷っている人間の目だ。
「お嬢様」
俺は一応、丁寧に頭を下げた。
「まず、確認してもよろしいですか」
「許すわ」
「まだ何を聞くか言ってませんが」
「聞く前から許したの。感謝なさい」
「貴族の許可は、雨より先に降るんですね」
メイドが青ざめた。
令嬢は笑った。
「面白いわ」
「俺の人生はだいたい他人から見ると面白いです」
「では、私の役に立つわね」
「そこは少し飛びましたね」
「あなた、レオン・クラフトでしょう?」
「そうですが」
「街をよく知っている」
「家賃から逃げる道も含めて」
「貴族街にも下町にも顔が利く」
「顔が利くというか、借りがあるというか」
「警察にも顔を覚えられている」
「そこは不名誉です」
「そして、定職がない」
「急に刺しましたね」
令嬢は一歩近づいた。
「だから、あなたを雇うわ」
「定職がないから?」
「空いているでしょう?」
俺は少し考えた。
たしかに空いている。
仕事も財布も胃袋も、だいたい空いている。
「お嬢様。世の中には、言葉の順番というものがありまして」
「何?」
「雇うと言う前に、仕事内容と報酬を言うのが、まあ、人間界の礼儀です」
「貴族界では?」
「知りません。俺は人間界の端の方で暮らしてます」
令嬢は、少しだけ顎を上げた。
「銀の犬が消えたの」
「犬」
「ええ。銀細工の置物よ。ローデンベルク家に古くから伝わるもの」
「生きてはいない?」
「生きていたら、消えたではなく逃げたと言うわ」
「賢い犬ですね」
「銀よ」
「では、なおさら賢い。飯代がいらない」
令嬢は俺を見たまま、にこにこしている。
その笑顔が妙だった。
面白がっている。
だが、楽しんでいるわけではない。
表情は明るいのに、目の奥に小さな苛立ちがある。
この手の顔は、貴族街でも下町でも同じだ。
何かをなくした人間の顔。
ただし、金持ちはなくしたものに名前をつけるのがうまい。
「警察には?」
「知らせていないわ」
「ギルドには?」
「正式には出していない」
「では、俺は?」
「私が直々に選んだ」
「不幸な抽選ですね」
「光栄な任命よ」
「同じ事実をこんなに違う言葉で言えるんだな」
ヴィクトルが横から口を挟んだ。
「レオン、受けろ。貴族の揉め事は金になる」
「記事にもなるからだろ」
「友情と職業倫理の一致だ」
「お前に職業倫理があったら、新聞が泣くぞ」
サロモンがカウンターの向こうでグラスを拭いていた。
「報酬を先に聞け」
「さすが大人」
「お前は金を見ずに首を突っ込み、あとで首だけ戻ってくる」
「胴体は?」
「女に持っていかれる」
ルカが身を乗り出した。
「伯爵家か。レオン、行くなら俺も」
「何をしに」
「貴族の女性と知り合う」
「お前が貴族街で知り合えるのは門番と犬だ」
「犬にも家柄はある」
「お前よりはあるだろうな」
ブルーノが真剣な顔で言った。
「兄弟、もし伯爵令嬢に求婚されたらどうする」
「なぜ銀の犬からそこへ飛ぶ」
「女が男を探して酒場まで来たんだぞ。戦いなら開戦だ」
「お前は恋愛を戦争でしか理解できないのか」
「負け続けているからな」
「そこは少し反省しろ」
エミールが指を立てた。
「銀は抗菌性がある。犬の形にする必然性は薄いが、儀礼的価値がある可能性は高い」
「急に役に立つな」
「ただし、銀の犬を盗む人間の心理はわからない」
「恋愛用の香水よりはわかりそうだが」
「香水は科学だ。恋愛が迷信なんだ」
令嬢は男どもの会話を聞いていた。
退屈するかと思ったが、むしろ興味深そうだった。
「あなたの友人たち、馬鹿なのね」
「そこそこ」
「忠実?」
「食事を出せば」
「役に立つ?」
「まれに」
「では、いらないわ」
ルカが胸を押さえた。
「今、貴族の娘に不要と言われた」
「よかったな」と俺は言った。「お前の人生で一番身分の高い拒絶だ」
「飾っておこうかな」
「壁が気の毒だ」
令嬢は白い手袋の指で、小さく合図した。
後ろのメイドが革の小袋を取り出す。
その音で、店内の男たちの背筋が少し伸びた。
金の音は、説教よりも姿勢を正す。
令嬢は袋を俺の前に差し出した。
「前金」
俺は受け取る前に、サロモンを見た。
「本物かな」
「失礼だぞ」とサロモン。
「俺に?」
「金に」
俺は袋を受け取った。
重い。
想像よりも重かった。
中を少し開けると、銀貨が見えた。
家賃が払える。
それどころか、払ったあとにパンが買える。
パンに何か挟めるかもしれない。
人生が急に明るくなった。
「お嬢様」
「何?」
「俺は、あなたの探偵ではありません」
「まだ言うの?」
「ですが、銀の犬を探す男としては、しばらく空いています」
令嬢は満足そうにうなずいた。
「よろしい」
「ひとつだけ」
「何?」
「俺は貴族の作法に明るくありません」
「見ればわかるわ」
「屋敷で何か失礼をしても、事前に謝っておきます」
「許すわ」
「助かります。では、後で何をしても今の許可で」
「それは駄目」
「貴族の許可は短命だな」
メイドがとうとう小さく咳き込んだ。
俺は外套を手に取った。
サロモンが無言で水のグラスを下げる。
「帰りに寄れ」
「なぜ」
「お前が生きていたら、話の続きを聞く」
「死んでいたら?」
「ヴィクトルから聞く。たぶん盛られる」
ヴィクトルが帽子を直した。
「安心しろ。死亡記事は上品に書く」
「俺が生きている間に約束するな」
ルカが言った。
「レオン、貴族街では背筋を伸ばせ」
「お前にだけは言われたくない」
「なぜだ。俺は姿勢がいい」
「中身が曲がってる」
ブルーノは拳を握った。
「何かあったら呼べ」
「何かが腕力で解決しそうならな」
「大抵のことはする」
「だから呼びにくいんだよ」
エミールが小瓶を差し出してきた。
「これを持っていけ。緊張を和らげる香りだ」
「副作用は」
「三割の人間が母親に謝りたくなる」
「しまえ」
俺は令嬢の後に続いて店を出た。
扉が閉まる直前、男どもの声が聞こえた。
「探偵レオンか」
「新聞映えはするな」
「死ななきゃいいが」
「死んだら家賃はどうなる?」
「マリアさんが一番怒るな」
「死体にも請求書を持たせるかもしれん」
いい友人たちだ。
葬式には呼びたくない。
*
馬車の中は、俺の部屋より広かった。
これは誇張ではない。
少なくとも、膝と膝がぶつからない。窓には薄いカーテンがあり、座席は沈みすぎず、硬すぎず、馬車特有の揺れも柔らかい。
人間は金があると、揺れ方まで選べるらしい。
令嬢は向かいに座り、メイドはその隣に控えていた。
俺は外套の泥が座席につかないよう、できるだけ小さく座った。
「名前を聞いていませんでした」
俺が言うと、令嬢は驚いたように眉を上げた。
「知らずに雇われたの?」
「雇った側が名乗らないのは、下町だとだいたい借金取りです」
「コレット・ローデンベルク」
「コレットお嬢様」
「お嬢様はいらないわ」
「では、コレット様」
「様もいらない」
「では、コレット」
メイドがぎょっとした。
コレットは笑った。
「本当に言うのね」
「命令に従いました」
「素直なのか、無礼なのか、わからない人」
「どちらも少し」
「自覚があるのは悪くないわ」
「治す気がないのは?」
「かなり悪いわ」
メイドは、たぶん何か言いたそうだった。
だが、主が楽しそうなので黙っている。
俺はメイドに目を向けた。
「あなたは?」
「……アンナと申します」
「アンナさん。酒場まで貴族のお嬢様を迎えに来るのは大変でしたね。勇気がある」
アンナは目を瞬いた。
「え?」
「下町の酒場なんて、貴族街の人には野犬の巣みたいに見えるでしょう」
「いえ、その」
「それでもついてきた。立派だ」
アンナの頬が少し赤くなった。
その瞬間、向かいから冷たい声がした。
「あなた」
「はい」
「私のメイドを口説いているの?」
「褒めただけです」
「それを口説くと言うのよ」
「だとしたら、俺はこの街の半分を口説いてますね」
「最低」
「誠実に褒めているんですが」
「余計に最低」
コレットは腕を組んだ。
「私の前で、私以外の女を褒めないで」
「依頼条件に入ってます?」
「今入れたわ」
「後付けの契約は揉めますよ」
「揉めたら勝つわ。私は貴族だから」
「強い」
アンナは困った顔で俯いていた。
だが、口元が少し笑っている。
馬車は坂を上っていく。
窓の外で、街の色が変わった。
下町の看板は低く、声は高い。市場の匂い、魚、油、雨水、馬糞、焼き栗、安い煙草。
坂を上るにつれて、それらは薄くなる。
代わりに、石壁、鉄柵、刈り込まれた植木、洗い立ての窓、馬車の革、香水、古い金の匂いがしてくる。
貴族街は静かだ。
静かすぎる。
人がいないわけではない。使用人は動き、馬車は通り、庭師は枝を切り、門番は門を開け閉めしている。
だが、声が沈んでいる。
下町の人間は、生きていることを周囲に知らせるために声を出す。
貴族街の人間は、声を出さなくても自分の居場所があると知っている。
羨ましいかと聞かれれば、少し羨ましい。
だが、住みたいかと聞かれれば、たぶん三日で息が詰まる。
「退屈そうね」
コレットが言った。
「いえ、立派な街並みですね。迷子になっても上品に困れそうです」
「褒めているの?」
「もちろん」
「あなたの褒め言葉は、どうしていつも少し欠けているの」
「完璧な褒め言葉は高いんです」
「報酬は払ったわ」
「では次から少し磨きます」
コレットは窓の外を見た。
「ローデンベルク家は古い家よ」
「でしょうね。屋敷が古そうだ」
「まだ見ていないでしょう」
「古い家の人は、屋敷を見せる前に家が古いと言うんです」
コレットは黙った。
怒ったのかと思ったが、違った。
ほんの少しだけ、笑っていた。
「あなた、貴族が嫌い?」
「よく知らないものを嫌うほど、俺は勤勉じゃありません」
「では、好き?」
「金払いがよければ」
「正直ね」
「貧乏人の唯一の宝石です」
「その宝石、質に入れられないの?」
「入れたら俺に何も残らない」
馬車が止まった。
窓の外に、ローデンベルク伯爵邸が見えた。
*
屋敷は、丘の上にあった。
灰色の石造りで、左右に長く伸び、中央に古い塔がひとつ立っている。屋根は深い青。窓は細長く、鉄の飾りがついている。
立派だ。
立派すぎて、住むには少し不便そうだった。
門から玄関までの道が長い。
雨上がりの庭はよく手入れされていて、芝生は軍隊みたいに揃っている。薔薇の茂みもある。噴水もある。石像もある。
石像は犬だった。
「犬が好きな家なんですね」
「家紋が猟犬なの」
「盗まれたのも犬」
「ええ」
「猫では駄目だったんですか」
「家祖に聞いて」
「生きてます?」
「墓ならあるわ」
「では今度」
アンナが小さく言った。
「クラフト様、墓参りの約束のように言わないでください」
「すみません、アンナさん」
「……さんもいりません」
「では、アンナ」
コレットがこちらを睨んだ。
「あなた、学ばないの?」
「早い方ではありません」
「自慢しないで」
玄関前には、背の高い執事が待っていた。
銀髪を後ろへ撫でつけ、黒い服を隙なく着ている。顔は細く、背筋は屋敷の柱よりまっすぐだった。
俺を見る目には、はっきりとこう書いてあった。
なぜこれを連れてきた。
声には出さない。
いい執事だ。
「お帰りなさいませ、コレットお嬢様」
「ただいま、ベルク。探偵を連れてきたわ」
ベルクと呼ばれた執事は、俺を見た。
「探偵、でございますか」
「今のところ空いている男です」と俺は言った。
「空いている」
「職業欄が」
「なるほど」
なるほど、の中に何も納得していない響きがあった。
コレットは平然と言った。
「彼が銀の犬を探すわ」
「旦那様は、外部の者を入れることに難色を示されるかと」
「お父様は難色を示すのが趣味なの。気にしないで」
「しかし」
「ベルク」
コレットの声が少しだけ低くなった。
「銀の犬は、私の部屋から消えたのよ」
執事は黙った。
俺はコレットを見た。
「あなたの部屋から?」
「そう」
「さっきはローデンベルク家に伝わるものと」
「家のものよ。今は私が預かっていた」
「それ、先に言いません?」
「今言ったわ」
「貴族の情報は馬車より遅いんですね」
ベルクがわずかに眉を動かした。
アンナはもう慣れ始めている顔をしていた。
コレットは楽しそうに俺を見た。
「あなた、本当に失礼ね」
「お許しはいただいてます」
「期限切れよ」
「短命だ」
屋敷の中へ通された。
玄関広間は広く、天井が高い。壁には肖像画が並んでいる。
どの絵の人物も、俺のことをあまり歓迎していないように見えた。
たぶん気のせいではない。
貴族の肖像画は、未来の貧乏人を睨むために描かれている。
床は磨かれた石。
歩くたびに靴音が響く。
俺の靴の泥が少し気になった。
「すみません、床を汚したら」
ベルクが言った。
「後ほど清掃いたします」
「俺ごと?」
「必要であれば」
「いい執事だ」
コレットの部屋は二階にあった。
廊下を進む途中、何人かの使用人とすれ違った。
皆、俺を見た。
すぐに目を伏せた。
だが、その一瞬で十分だ。
屋敷の中は緊張している。
銀の置物ひとつが消えたにしては、空気が重い。
盗まれたものの値段ではない。
誰が疑われるか。誰が責任を取るか。誰が恥をかくか。
そういう空気だ。
俺はこういう空気を知っている。
下町の食堂でも同じことが起きる。
鍋から肉が一切れ消えた時だ。
ただ、貴族の屋敷では肉の代わりに名誉が煮込まれている。
*
コレットの部屋は、明るかった。
南向きの窓があり、薄いカーテンが雨上がりの光を柔らかくしている。壁紙は淡い青。棚には本と小箱と人形が並び、机には便箋、封蝋、羽ペン。
部屋の隅には小さなピアノもあった。
そして、暖炉の上に、空いた場所がある。
すぐにわかった。
そこだけ、他の飾りと間隔が違う。
何かが置かれていた場所だ。
「そこに?」
「ええ」
コレットは暖炉の前へ行った。
「銀の犬は、ここに置いてあったわ。毎朝、アンナが埃を払う。三日前の朝まではあった。昼には消えていた」
「三日前」
「そう」
「ずいぶん経ってますね」
「だから急いでいるの」
「三日悩んでから?」
「三日、屋敷の中で探したのよ。ベルクも、アンナも、使用人たちも。でも見つからなかった」
「警察を呼ばなかった理由は?」
「屋敷の恥になるから」
「貴族らしい理由ですね」
「それもあるわ」
「他には?」
コレットは口を閉じた。
その代わりに、アンナが小さく答えた。
「疑われるからです」
俺はアンナを見た。
「誰が?」
「使用人が」
コレットが続けた。
「警察を呼べば、まず使用人を調べるでしょう。部屋に入れる者は限られているもの」
「実際、入れるのは?」
「私、アンナ、ベルク。それからお父様。あとは、掃除係のリリアが朝だけ」
「鍵は?」
「普段はかけていないわ」
「貴族の部屋なのに?」
「屋敷の中よ」
「下町では、屋根の下でも財布は消えます」
「ここは下町ではないわ」
「銀の犬は消えた」
コレットは一瞬黙った。
言い返しそうになったが、やめたらしい。
「そうね」
俺は暖炉に近づいた。
手袋はない。
探偵なら白い手袋でも持っているのだろうが、俺が持っているのは昨日なくしたボタンくらいだ。
「触っても?」
「いいわ」
暖炉の上の棚板を見た。
空いた場所には、うっすらと丸い跡がある。銀の犬の台座だろう。埃は少ない。アンナが毎朝掃除していたという話は、たぶん本当だ。
ただ、その跡の端に、わずかに黒い筋があった。
「銀の犬は、どんな形でした?」
コレットが机の引き出しから紙を出した。
そこには、簡単な絵が描かれている。
犬は座った姿で、首を上げている。台座は楕円形。大きさは手のひら二つ分ほど。
腹のあたりに、細い装飾線がある。
「重さは?」
「子供には重いけれど、大人なら持てるわ」
「片手で?」
「たぶん」
「銀そのもの?」
「中は空洞だと聞いているわ」
「空洞」
俺は絵を見た。
「何か入っていた?」
「知らない」
「開く?」
「開かないはずよ」
「はず」
「私が開けたことはないもの」
ベルクが言った。
「古い工芸品でございます。無理に開ければ破損します」
「なるほど」
俺は暖炉の棚に顔を近づけた。
黒い筋に鼻を寄せる。
銀の匂いというのは、正直よくわからない。
だが、金属を磨く粉や油の匂いなら少しわかる。港でも劇場でも、金属は手入れしないとすぐ機嫌を損ねる。
この黒い筋には、少しだけ油の匂いがした。
古い機械油。
屋敷の中より、港の倉庫に似た匂い。
「銀の犬を最後に見たのは?」
「三日前の朝。朝食の前よ。アンナが花を替えて、その時にはあった」
「そのあと?」
「私は下の客間で家庭教師と会った」
「家庭教師」
「礼儀作法の先生よ」
「あなたに?」
コレットは俺を睨んだ。
「何か言いたいの?」
「先生は大変ですね」
「あなたよりはましよ」
「でしょうね。俺なら初日に逃げる」
アンナが少しだけ笑った。
コレットがそちらを見たので、アンナはすぐ真顔になった。
「昼に戻ると、犬がなかった」
「部屋に荒らされた跡は?」
「ないわ」
「窓は?」
「閉まっていた」
「鍵は?」
「内側から」
「扉は?」
「誰でも開けられた」
「では密室ではない」
「密室だった方がよかった?」
「新聞受けはいいでしょうね。読者が喜ぶ」
「私は喜ばないわ」
「依頼人が喜ぶ事件は少ないです」
「あなた、探偵みたいなことを言うのね」
「今のところ、雰囲気です」
俺は窓辺へ行った。
窓の外には庭が見える。二階だが、すぐ下に蔦の絡んだ張り出しがあり、身軽な者なら登れないこともない。
ただし、降りる時に目立つ。庭師や使用人に見られる可能性が高い。
窓枠に傷はない。
鍵も壊れていない。
「三日前、庭師は?」
ベルクが答えた。
「午前中は西庭におりました。この窓の下には来ておりません」
「雨は?」
「降っていないわ」とコレット。
「その前の晩は?」
「少しだけ」
俺は床を見た。
窓辺の絨毯には、泥の跡はない。
少なくとも、外から入った感じではない。
では、普通に扉から入った人間が持ち出した。
簡単すぎる。
簡単すぎる事件は、たいてい何かが隠れている。
「屋敷の中を探したと」
「ええ」
「使用人の部屋は?」
アンナの肩が少し強張った。
ベルクが答える。
「確認しました」
「誰が?」
「私が」
「全員?」
「必要な範囲で」
「必要な範囲とは?」
「ローデンベルク家の秩序を保つ範囲です」
「便利な言葉ですね。中身が見えない箱みたいだ」
ベルクの目が細くなった。
「クラフト様」
「様はいりません。俺も落ち着かないので」
「では、クラフトさん。あなたはこの家の者ではありません」
「でしょうね。床が綺麗すぎる」
「ですので、言葉にはお気をつけください」
俺は少し笑った。
「気をつけます。たぶん足りませんが」
コレットが割って入った。
「ベルク、彼には好きに見せて」
「お嬢様」
「私が選んだの」
「それが問題なのです」
「問題を解決するために選んだのよ」
「問題が増える可能性もございます」
「それなら退屈しないわ」
ベルクは黙った。
俺は少しだけ、この令嬢を見直した。
傍若無人だ。
かなり。
だが、自分の選択を他人のせいにはしないらしい。
面倒だが、嫌いではない。
「コレット」
「何?」
「銀の犬が戻ればいいんですね」
「ええ」
「犯人は?」
「もちろん知りたいわ」
「罰したい?」
彼女は即答しなかった。
窓の光が、その小さな顔の上で揺れた。
「盗んだ理由によるわ」
「貴族らしくない答えですね」
「褒めているの?」
「かなり」
「あなたの“かなり”は信用できないわ」
「よく言われます」
俺は部屋の中をもう一度見回した。
暖炉。机。窓。本棚。小さなピアノ。花瓶。人形。
貴族令嬢の部屋。
だが、完全に飾られた部屋ではない。使われている。机の上には封を切った手紙があり、インク瓶の周りに小さな染みがある。ピアノの上には楽譜。人形の横には、古い木製の犬笛。
「犬笛?」
俺が指さすと、コレットは一瞬だけ目を細めた。
「昔のものよ」
「吹ける?」
「音は出ないわ」
「犬も来ない?」
「銀の犬なら来なかった」
「それは残念」
俺は犬笛を手に取ろうとして、やめた。
「触らないの?」
「触っていいものと悪いものがある気がして」
コレットは少し意外そうな顔をした。
「あなたにもそういう気遣いがあるのね」
「たまに出ます。長続きしませんが」
「なぜこれは駄目だと思ったの?」
「あなたが今、一番嫌そうな顔をしたから」
部屋が少し静かになった。
コレットは目を逸らした。
「……昔、母がくれたものよ」
「そうですか」
「音は出ないけど、捨てていないだけ」
「いいものですね」
「音が出ないのに?」
「音が出ない笛を捨てずに置く人の部屋は、たぶん悪くない」
コレットは何か言いかけた。
その前に、アンナが小さく息を呑んだ。
コレットがアンナを見た。
アンナは慌てて目を伏せる。
まただ。
俺は何かを踏んだらしい。
女の心というものは、床板の軋みよりわかりにくい。
「クラフトさん」
ベルクが言った。
「必要でしたら、使用人たちから話を聞かせましょう」
「お願いします。まず、アンナから」
アンナが顔を上げた。
「私、ですか」
「あなたが最後に見た」
「はい」
「それと、あなたはコレットの部屋に毎日入る」
「はい」
「なら、一番知っている」
コレットが少し不満そうに言った。
「私に聞けばいいでしょう」
「あなたは見たいものを見ます」
「失礼ね」
「お嬢様はたいていそうです。下町の酔っぱらいもそうですが」
「私を酔っぱらいと同じ棚に置いたの?」
「棚が広いんです」
コレットはむくれた。
その顔は年相応より少し幼く見えた。
だが、目だけはやはり違う。
失くした銀の犬を追っているだけの目ではない。
誰かを疑いたくない目だ。
*
アンナから聞けたことは多くなかった。
三日前の朝、彼女はいつも通り部屋に入り、カーテンを開け、花瓶の花を替え、暖炉の棚の埃を払った。
銀の犬は確かにあった。
午前中、コレットは下の客間へ行き、アンナは洗濯室へ。
昼前に戻ると、銀の犬が消えていた。
その間に部屋へ入れる可能性があったのは、執事ベルク、掃除係のリリア、伯爵本人、そしてコレットの兄であるアルマン卿。
家庭教師のマダム・セラフィンも屋敷にはいたが、コレットの部屋へは上がっていないという。
「アルマン卿は?」
「お嬢様のお兄様です」とアンナ。
「仲は?」
アンナは言葉に詰まった。
コレットが代わりに答えた。
「普通よ」
「普通という言葉は、便利な布ですね。何でも隠せる」
「あなた、家族の話に踏み込むのが早いわ」
「仕事なので」
「急に真面目な顔をしないで」
「真面目な顔は高いんです」
「報酬を払ったわ」
「では少し」
コレットはふんと鼻を鳴らした。
「兄は家のことに興味がないわ。銀の犬にも」
「では盗まない?」
「盗む理由がない」
「理由のないことをする人間もいます」
「あなたみたいに?」
「俺の場合は、だいたい理由があります。腹が減った、金がない、美人に頼まれた」
「最低」
「三つ目だけ少し美しくありません?」
「全部同じ袋に入っている時点で駄目よ」
アンナは小さく笑った。
コレットがまた睨む。
「アンナ」
「申し訳ございません」
「笑っていいわ。ただし、私より先に笑わないで」
「難しい命令ですね」と俺は言った。
「あなたは黙って」
「雇い主の命令なら」
「今だけ雇い主なの?」
「報酬の続く限り」
「なら追加するわ」
「素晴らしい雇用関係です」
その後、掃除係のリリアにも話を聞いた。
リリアは十七か十八ほどの若い使用人で、手が荒れていた。俺を見ると怯えたように目を伏せた。
銀の犬が消えた日、彼女は廊下と隣室の掃除をしていたが、コレットの部屋には入っていないという。アンナが掃除を済ませた部屋には入らない決まりだからだ。
話している間、ベルクが近くにいた。
リリアはそのたびに言葉を選んだ。
選びすぎた言葉は、本当か嘘かより先に、窮屈な音がする。
「リリア」
俺はできるだけ柔らかく言った。
「銀の犬を盗んだかどうかは、今は聞いてない」
彼女は顔を上げた。
「え」
「見たことを聞いてる。誰が怒るかじゃなく、何を見たか」
ベルクの視線が痛い。
リリアは唇を噛んだ。
「……廊下で、音を聞きました」
「音?」
「金属が、軽く当たるような音です。お嬢様のお部屋の方から」
「いつ」
「朝食のあとです。お嬢様が下へ行かれて、少ししてから」
「誰かを見た?」
リリアは首を振った。
「見ていません。私、怖くて」
「怖い?」
「その日は、旦那様の機嫌が悪くて。廊下にいるなと、ベルク様から言われていたので」
ベルクが静かに言った。
「旦那様はお身体の調子が優れず、騒音を嫌われておりました」
「なるほど」
俺はリリアの手を見た。
荒れた指先。爪の間に、白い粉が少し残っている。
「それは?」
リリアが慌てて手を隠した。
「磨き粉です。銀器の」
「今日、銀器を磨いた?」
「はい」
「三日前も?」
「はい。朝食のあと、食堂の銀器を」
「銀の犬は?」
「私は触っていません」
「そう」
俺はうなずいた。
「ありがとう。助かった」
リリアは驚いた顔をした。
使用人は、ありがとうを言われ慣れていないことがある。
貴族の屋敷では、働くことは空気みたいに扱われる。ないと困るが、ある時には誰も褒めない。
コレットは黙ってそれを見ていた。
*
屋敷を一通り見た頃には、外が少し暗くなり始めていた。
俺はもう一度、コレットの部屋へ戻った。
暖炉の上。
銀の犬があった場所。
黒い筋。
油の匂い。
金属が軽く当たる音。
銀器の磨き粉。
閉じた窓。
開いていた扉。
疑われたくない使用人。
疑いたくない令嬢。
情報は集まった。
だが、形にはまだならない。
形になる前の情報は、酔っぱらいの集団に似ている。
全員が何かを言っているが、誰も同じ方向へ歩いていない。
「どう?」
コレットが聞いた。
「見つかりそう?」
「犬は歩きませんからね」
「冗談を聞いているのではないわ」
「では、少し真面目に」
俺は暖炉の棚を指した。
「盗むだけなら、誰でもできます。部屋に入って、持って出ればいい。窓も壊れていない。鍵も意味がない。屋敷の中の人間なら簡単だ」
アンナが不安そうな顔をする。
「でも、変なところがある」
コレットが近づいた。
「何?」
「銀の犬は、ここに置いてあった。毎朝埃を払っていた。なら、ここには銀の犬の跡が残る」
「残っているわ」
「残りすぎている」
コレットが眉をひそめた。
「どういう意味?」
「三日前に消えたにしては、跡がはっきりしすぎている。毎日掃除していたなら、周りの埃も薄い。なのに台座の跡だけが妙に濃い」
「つまり?」
「銀の犬は、三日前までずっとここにあった。そこはたぶん本当です。でも、消えた時に何かがこすれた。黒い筋が残っている」
「盗む時に?」
「普通に持ち上げれば、筋はつかない」
「では?」
「引きずったか、倒したか、何かに引っかけた」
俺は指先を鼻に近づけた。
「それに、少し油の匂いがする」
「油?」
「屋敷の銀器には使わない匂いです。港の倉庫や、古い工具箱に近い」
コレットの顔が変わった。
「港?」
「まだわかりません」
「あなた、何か知っているの?」
「今のところ、知らないことが増えました」
「役に立っているの?」
「探偵というのは、たぶん最初に知らないことを増やす職業なんです」
「たぶん?」
「今日からなので」
コレットは不満そうだったが、黙った。
その時、廊下の向こうから低い声がした。
「何をしている」
部屋の入口に男が立っていた。
三十前後だろうか。背が高く、整った顔をしている。コレットと同じ淡い金髪だが、こちらは冷たい印象が強い。服は上等で、襟元に小さな家紋のピンを留めている。
彼は俺を見た。
俺の靴。
外套。
顔。
すべてを順に見て、最後にコレットへ視線を移す。
「コレット。下町の男を部屋に入れる趣味ができたのか」
コレットの顔から、笑みが消えた。
「アルマン兄様。彼は私が雇った人よ」
「雇った?」
アルマンは鼻で笑った。
「犬探しか。次は猫でも飼うつもりか?」
俺は軽く頭を下げた。
「レオン・クラフトです。今のところ、犬専門で」
アルマンは俺を見た。
「誰が口を利いていいと言った?」
「失礼しました。では、今の挨拶は床に向けたものということで」
アンナが息を呑んだ。
ベルクが目を閉じた。
コレットは、ほんの少しだけ口元を押さえた。
アルマンの眉が動いた。
「下品な男だ」
「よく言われます。ですが、お屋敷は上品ですね。息をするのにも許可がいりそうです」
「コレット」
アルマンは俺を無視した。
「父上が呼んでいる。こんな茶番はやめろ」
「茶番ではないわ」
「銀の犬など、放っておけばいい」
「嫌よ」
「家の恥を広げる気か」
「恥ならもう家の中にあるわ。外に出して風に当てた方がましよ」
部屋の空気が変わった。
コレットの声は高くない。
だが、まっすぐだった。
アルマンはしばらく妹を見ていたが、やがて俺に視線を戻した。
「クラフトと言ったな」
「はい」
「金が欲しいなら、いくらだ」
「仕事の内容によります」
「この屋敷から出ていく仕事だ」
「それは魅力的ですね。だが、先にお嬢様から犬探しの前金をいただいているので」
「倍出す」
コレットが目を見開いた。
「兄様」
俺は少し考えた。
倍。
家賃が払える。
パンどころか肉も買える。
マリアに少しだけ偉そうな顔ができる。
いや、偉そうな顔をしたら家賃帳で殴られるかもしれない。
「ありがたいお話ですが」
俺は言った。
「先約があります」
アルマンは意外そうに俺を見た。
「下町の男にも約束があるのか」
「あります。守れるかは別として」
「なら守らずに出ていけ」
「そこまで言われると、守りたくなるのが人情です」
「馬鹿か」
「それもよく言われます」
コレットが俺を見ていた。
なぜか少し怒っているような、嬉しそうな、わけのわからない顔だった。
アルマンは舌打ちした。
「勝手にしろ。ただし、父上の前でその口を利けば、二度とこの屋敷に入れなくなる」
「それは困りますね」
「わかったなら」
「まだ犬を見つけていません」
アルマンが足を止めた。
俺は暖炉の棚を指した。
「アルマン卿。三日前の朝、ここへ来ましたか」
「なぜ答える必要がある」
「ないですね」
「では」
「でも、答えないと妹さんに疑われます」
コレットが俺を睨んだ。
「私は」
「疑いたくないんでしょう」
また静かになった。
アルマンは俺を見下ろした。
「来ていない」
「銀の犬には興味がない?」
「ない」
「では、消えて困ることも?」
「ない」
「戻ってきて困ることは?」
アルマンの目が、一瞬だけ細くなった。
「ない」
「そうですか」
俺はうなずいた。
「ありがとうございます」
「何がわかった」
「あなたが俺を嫌いだということは、かなり」
「今すぐ出ていけ」
「よく言われます」
アルマンは部屋を出ていった。
足音が廊下に消える。
コレットはしばらく黙っていた。
それから、俺の方へ向き直る。
「あなた」
「はい」
「倍のお金、断ったのね」
「先約がありましたので」
「意外と誠実なのね」
「言動が軽いだけです」
「自分で言う?」
「他人に言われる前に」
コレットは俺をじっと見た。
「でも、守れるかは別なんでしょう?」
「努力します」
「信用できないわ」
「正しい判断です」
彼女は小さく笑った。
さっきまでの怒りが、まだ目の奥に残っている。
だが、それとは別のものも混じっていた。
困った。
こういう顔をされると、たいてい後で別の女に怒られる。
*
屋敷を出る頃には、空は藍色になっていた。
伯爵本人には会えなかった。
体調が悪く、自室から出ないという。
アルマンはそれ以上顔を見せず、ベルクは終始、俺を屋敷の染みのように扱った。アンナは馬車まで見送りに来た。
コレットは玄関前で言った。
「明日も来なさい」
「命令ですか」
「依頼よ」
「違いは?」
「依頼は報酬が出るわ」
「では喜んで」
「あなた、本当にわかりやすいわね」
「複雑な男は高くつきます」
「あなたも十分高くつきそうよ」
「家賃程度です」
コレットは少し首を傾げた。
「家賃、いくらなの?」
「貴族に聞かれると、急に小さな数字に見えます」
「払えないのに?」
「不思議ですね」
「馬鹿なの?」
「そこはまだ調査中です」
コレットは白い手袋の指を伸ばし、俺の外套の袖についた埃を払った。
急な仕草だった。
俺は少し驚いた。
コレット自身も、払ってから少しだけ驚いた顔をした。
「汚れていたからよ」
「ありがとうございます」
「勘違いしないで」
「何を?」
「だから、そういうところよ」
「今日はそればかり言われる」
「でしょうね」
馬車に乗る前、俺はふと思い出して振り返った。
「コレット」
「何?」
「銀の犬ですが」
「ええ」
「盗まれたんじゃないかもしれません」
彼女の表情が固まった。
「どういうこと?」
「まだ勘です」
「探偵は勘で話すの?」
「今日からなので、加減がわかりません」
「レオン」
初めて、彼女が俺の名前だけを呼んだ。
妙な響きだった。
貴族令嬢の声なのに、下町の路地まで届きそうな呼び方。
「明日、必ず来なさい」
「報酬が出るなら」
「出すわ」
「では、必ず」
「報酬が出なくても来るとは言わないのね」
「嘘はよくない」
「最低」
「誠実とも言います」
「言わないわ」
馬車が動き出した。
窓の向こうで、コレットはまだこちらを見ていた。
俺は座席に背を預ける。
懐には前金。
頭の中には銀の犬。
鼻の奥には、古い油の匂い。
貴族の屋敷。
消えた銀細工。
疑われたくない使用人。
嫌がる兄。
黙る執事。
そして、盗まれたと言いながら、盗まれたとは限らない犬。
面倒な匂いがする。
馬車が坂を下り、下町の灯りが近づいてきた。
ガス灯が雨上がりの石畳に滲んでいる。酒場から声が漏れ、新聞売りが最後の夕刊を叫び、遠くの港で船の汽笛が鳴った。
この街では、人はたいてい何かを愛している。
名誉。
家。
金。
昔の約束。
失くしたもの。
自分を見つけた誰か。
銀の犬を愛しているのは、誰なのか。
それとも、銀の犬に隠された何かを愛しているのか。
考えているうちに、馬車は《錆びた月》の前を通り過ぎた。
「あ」
俺は窓を叩いた。
「すみません、ここで」
御者は止まらなかった。
向かいのアンナが言った。
「コレットお嬢様より、クラフト様をお住まいまでお送りするようにと」
「いや、酒場に用が」
「お住まいまで、と」
「俺の住まいを知ってるんですか」
「はい」
「なぜ」
アンナは少しだけ微笑んだ。
「街は狭いそうですので」
嫌な予感がした。
馬車は俺の借家の前で止まった。
窓から見ると、玄関前にマリアが立っていた。
腕を組んでいる。
顔は笑っていない。
俺は懐の前金に手を当てた。
大丈夫だ。
今日は家賃が払える。
堂々と帰れる。
そう思った時、アンナが小さな包みを差し出した。
「こちら、コレットお嬢様からです」
「何です?」
「明日のための服飾代として、前金の残りはお嬢様がお預かりになるとのことです。クラフト様はお金を持つと散る、と伺いましたので」
俺は包みを開けた。
中には、銀貨が数枚だけ残っていた。
家賃には、少し足りない。
馬車の扉が開いた。
外ではマリアが待っている。
俺は空を見た。
星は出ていなかった。
神もたぶん、今日は留守だ。
「クラフト様?」
「アンナ」
「はい」
「探偵って、初日からこんなに危険な仕事なんですか」
「お嬢様に関わる仕事は、だいたい」
「なるほど」
俺は馬車を降りた。
マリアが俺を見た。
「レオン」
「ただいま」
「馬車」
「仕事です」
「貴族の?」
「たぶん」
「家賃は?」
俺は懐の銀貨を握った。
銀の犬は消えた。
俺の家賃も、だいぶ消えた。
「少し、話せば長くなる」
「短くして」
「探偵になった」
マリアはしばらく黙った。
それから、深く息を吐いた。
「あなた、とうとう職業まで嘘をつくようになったのね」
「俺もまだ信じてない」
「でしょうね」
彼女は扉を開けた。
「入りなさい。まず、話を聞くわ」
「怒ってる?」
「まだ」
「まだ?」
「聞いてから決める」
それは、公平な裁判だった。
ただし、判決はもうだいたい見えている。
俺は借家の中へ入った。
探偵生活一日目。
銀の犬は見つからず、報酬は減り、雇い主は面倒で、兄は俺を嫌い、大家は怒る寸前だった。
順調とは言えない。
だが、この街で何かが始まる時というのは、たいていこんなものだ。
財布が軽くなり、女が不機嫌になり、男友達が笑い、どこかで警官が怒鳴っている。
そして俺は、まだ知らなかった。
翌朝、ローデンベルク伯爵邸の裏門近くで、銀の犬より先に、ひとりの男が見つかることになる。
死体として。