味噌汁の匂いが、二階の廊下まで上ってきていた。
勝己は階段を降りる途中で、その匂いを一度深く吸い込んだ。
台所で、母親が――光己が、菜箸を片手に振り返る。
「遅ェんだよクソ餓鬼ァ!入学初日からお寝坊って、どういう神経してんだ!」
「うっせェな、起きてんだろうが!」
口は、勝手にいつも通りの悪態を吐いていた。
それでいい。ここで急に殊勝な面ァしたら、この女は本気で熱を測りにくる。
パンを一枚くわえて、玄関で靴に足を突っ込む。
「おら、ピシッとしてけ! 雄英の制服、汚したら承知しねェからね!」
光己が、玄関先まで追ってきて怒鳴る。腰に手を当てた、見慣れた仁王立ち。
あの世界の最後、両親はシェルターにいた。だから助かった――はずだった。
そのシェルターも、最後にはたぶん潰された。守り切れなかったもののひとつ。
今、その女が目の前で当たり前みたいに怒鳴っている。
「……行ってくる」
振り返らずに、それだけ言った。
背中で、ふんっ、と鼻を鳴らす音がした。「気をつけてけ」とは、決して言わねェ女だ。
言わねェまま、ドアが閉まるまで見送っているのも、知っている。
――――――――――――――――――――――――
勝己は、わざと早めに来ていた。
誰がどの席に着くか、誰がどんな顔で入ってくるか。何もかも一度なぞった道だ。それでも、もう一度この目で確かめておきたかった。
一年A組の教室。
窓際の自分の席に着いて、机に足を乗せる。この姿勢も、昔のままにしておく。急に礼儀正しくなった爆豪なんざ、誰より俺が気味悪ィ。
ガラッ、と前の扉が開いて、何人かが入ってきた。
雷みてェな黄色い頭。へらへら笑う、上鳴。
ピンクの肌の、芦戸。耳にジャックを提げた、耳郎。
息を、している。
誰も彼も、何も知らない顔で初日の教室にそわそわしている。
胸の底が、わずかに軋んだ。それを息と一緒に押し下げる。
「君ィ!!机に足を乗せるな!!」
角張った声が飛んできた。
青い髪を几帳面に撫でつけた眼鏡が――飯田が、手刀みてェな手つきでずんずん歩み寄ってくる。
「ここは雄英だぞ!先輩方や、机を作った職人の方々に申し訳ないと思わないのか!?」
勝己は、そいつを横目で見た。
チッ、と短く舌を鳴らす。それだけだった。足は、下ろさなかった。
クソ真面目が。
この眼鏡が、いつか私情で暴走して、それでも立て直す。そういう男になる。今はただの、口うるさい優等生だが。
「聞いているのか君!その態度は――」
飯田が引かない。こっちが無視すりゃするほど、正義感に火がつくのもこいつだ。
しかし、出久を見つけた飯田がそそくさと挨拶しにいった。
「俺は私立聡明中学の……」
「き、聞いてたよ!あっーと、僕は緑谷。よろしく、飯田くん…」
「あ!そのモサモサ頭は!!地味目の!」
後ろから丸顔が…麗日が扉から駆け込んでくる。
「プレゼントマイクの言ってた通り受かってたんやね!良かった!そりゃそうだ!パンチすごかったもん!」
クソナードを撒き散らしながら、麗日に自己紹介をする出久。女に慣れねぇのは前の世界でもずっとだったが。
そんな中、飯田がまたこちらを標的にしてきやがる。
そろそろイレ先が来るから適当にあしらおうと口を開こうとするが、出久がおろおろと飯田と勝己の間に体を入れてくる。昔から、こいつはこうだ。勝てもしねェ喧嘩に、体だけ先に出る。
「引っ込んでろ!デク!」
言ってから、舌の上に残った音に気づいた。
デク。何年も、そう呼んできた呼び方。門の前では、出久、と呼んだくせに。
……まあいい。日常は、これでいい。順番を間違えるな。
出久が、ほんの一瞬、きょとんとした。門の前のことを、まだ気にしてやがるのか。
「デク……?」
首をかしげたのは、麗日だった。
「それ、緑谷くんのこと?」
「えっ、あ……う、うん。かっちゃんが、昔から……その、“出来損ない”って意味で……」
出久が、消え入りそうに小さくなる。
麗日は、少しだけ目を丸くして――それから、ぱっと笑った。
「ふぅん。でも、デクって…なんか頑張れって感じで好きだ私!」
出久が、息を呑むのが見えた。
そうだったな。
こいつの「デク」が呼び名に変わるのは、この丸顔の一言からだ。俺が投げつけた呪いを、こいつが裏返す。今度も、ちゃんと裏返しやがった。
そこへ、飯田が、ずいと歩み出た。
俺に食ってかかっていた時とは打って変わって、背筋を伸ばし、出久に向き直る。
「緑谷くん。……俺は、君に詫びなければならない」
出久が、きょとんとした。
「君は、あの実技試験の構造に気づいていたのだな。ヴィランを倒すだけが評価じゃない、とな。俺は気づけなかった…!悔しいが君の方が上手だったようだ…!」
「えっ、い、いや、頭を上げてよ飯田くん! 僕、そんな、気づいてたわけじゃ……! た、ただ、体が勝手に動いただけで……!」
出久が、慌てて両手を振る。
気づいてなかった、ってのが本当のとこだ。こいつは昔から、計算で動いた試しがねェ。体が先に出る。それだけだ。
だが、そのそれだけを飯田は買った。
「謙遜するな。立派な信念だ」
真に受けた眼鏡が、ますます感心している。麗日が横から「うちも、デクくんには助けてもろたしな。これからよろしく!」と笑った。
三人が、勝手に輪になっていく。
一度目は、この輪を鼻で笑ってた。馴れ合いだと。
……今は、笑えねェ。
ふん、と窓の外へ目を移した。
その途中で、ふと、視界の端に引っかかるものがあった。
金の髪の男が、窓辺で気取った仕草で髪をかき上げている。
青山。胸を張って、誰へともなく星でも振りまくみてェに笑っている。
何でもねェ明るいだけの優男だ。今は。
なのに目が上手く離れなかった。腹の底が、わけもなく冷える。この仮面のずっと奥にあるものを、俺だけが見てしまっているからだ。
声をかけるべきか。今のうちに何か。
……いや。
言葉が…出てこなかった。
あの最後の戦場で、何ひとつできずに潰された俺が、こいつをどう扱えばいいのか――まだ、答えが出ない。
視線を、引き剥がした。種はまだ蒔く時じゃねェ。
――――――――――――――――――――――――
「お友達ごっこがしたいなら、他所へ行け」
気だるげな声が教室の入り口から這うように聞こえた。
黄色い寝袋が、芋虫みてェに床を這って中から無精髭の男がぬるりと顔を出す。
「ここは、ヒーロー科だぞ」
相澤消太。初見で先生と分かるやつは居ないだろうな。
「……はい、静かになるまで八秒かかりました。時間は有限。君たちは合理性に欠くね」
寝袋から身を起こした男は、けだるげに名乗った。
「担任の、相澤消太だ。よろしくね」
それきり、生徒をグラウンドへ追い立てる。入学式も、対面式もなし。「ヒーローになるなら、そんな悠長な行事に出てる時間はない」と、にべもない。
――――――――――――――――――――――――
グラウンドの土を、久しぶりに踏んだ気がした。
「これから、個性把握テストを行う」
「中学までは、個性を使った実技は禁止されてた。だが雄英は違う。まず自分の最大限を知れ。それが、ヒーローの素地を作る合理的な手段だ」
わっ、と空気が沸いた。
「うおー、個性使っていいんだ!」「なんか、楽しそう!」
上鳴あたりが、無邪気にはしゃぐ。芦戸も、麗日も、初日の緊張をほどくみたいに顔を輝かせた。
相澤の目が、すうっと細くなる。
「……“楽しそう”、か」
低い声ひとつで、はしゃぎが引っ込んだ。
「ヒーローになるための三年間を、そんな腹づもりで過ごす気か」
知っている。ここから、この男は牙を剥く。
「よし――このテスト、トータルでビリだった奴は見込みなしと判断して、除籍する」
ざわ、と、今度は別の意味でどよめきが走った。
「最下位で、除籍……っ! 入学初日ですよ!? いや、初日じゃなくても……理不尽すぎる!!」
飯田が、たまらず声を張り上げる。
相澤は、それを気だるく受け流した。
「自然災害。身勝手な敵(ヴィラン)ども。いつどこから来るかも分からない厄災。……この国は、理不尽にまみれてる」
「そういう理不尽を、ひっくり返してくのがヒーロー」
ビルを呑む波。逃げ惑う人の群れ。あの最後の景色と、地続きの言葉だった。
「放課後マックで談笑したかったってんなら、お生憎さま。これから三年間、雄英は全力で――君たちに、苦難を与え続ける」
苦難、か。
あんたがくれる程度の苦難で済むなら、どんなに楽か。本物の理不尽は、こんな学校の比じゃねェ。あの男が、灰の中から来る。
「Plus Ultra(プルスウルトラ)さ。……更に、向こうへ」
けだるげで、それでいて芯の通った声が、グラウンドに落ちた。
「生徒の如何は、教師の自由だ。ようこそ。これが、雄英高校ヒーロー科だ」
脅しだ。だが、去年この男が本当に一クラスまるごと切ったってのも、ただのハッタリじゃ済まさねェ証拠だ。見込みがねェと見れば、この男は躊躇わない。
中途半端に夢を見させるよりは、よっぽどマシだ。
未来で、この男が黒い霧の中で何を失うかは今は言わない。言えるわけがねェ。
勝己は、ジャージの袖をまくった。
最初は五十メートル走。
スタートと同時に、掌を後ろへ向けて爆発。
ただ撃つんじゃねェ。地を蹴る足の運びと、爆風の角度を、コンマ単位で噛み合わせる。一度目の俺は、ただ力任せに撃っていた。今は違う。
威力は、当時のままだ。だが、同じ威力でも、使い方ひとつで、届く先が変わる。
タイムは、四秒を切った。一度目の自分を、確かに上回っている。
だが。
「飯田、三秒〇四。トップだ」
相澤が、淡々と読み上げた。
全部で勝つ必要はねェ。総合で、てっぺんを獲りゃいい。
蛙吹が五秒五八。麗日は靴も服も軽くして、七秒一五。
立ち幅跳びと反復横跳びは、爆破の独壇場だった。
跳ぶ瞬間に真下へ、横へ跳ぶたびに足元で爆ぜさせる。距離も回数も、他を寄せつけずに叩き出す。
上体起こしも、長座体前屈も、個性は関係ねェ。だが一年分、限界まで酷使した身体の使い方を、この身体は頭で覚えている。無駄なく、堅実に上を踏む。
握力計を、握る。
ここは、ごまかしが効かねェ。爆破は、握力を上げちゃくれない。
数字は、悪くはなかった。だが、
「障子、五四〇キロ」
六本腕の男が、化け物みてェな記録を出す。八百万も、創造した万力でしれっと上をいった。
素の力で劣るもんは、劣る。割り切れ。
「爆豪。中学んときの、ソフトボール投げの記録は」
円に入る前に、相澤が訊いてきた。
「……六十七メートル」
一度目と、同じ問いだ。同じ数字を返す。
だが、ここから先は、変える。
円の中に立つ。
一度目は、片手で適当に爆破を乗せて投げた。それで七〇五・二メートル。それでも、首席は獲れたからだ。
今は、違う。
ボールを握った手に、もう片方の掌を添える。両手だ。
爆風を、散らさない。腕の軌道のただ一点に、すべての爆発を束ねる。銃身に弾を込めるみてェに、絞り込んで――
「しねェッ!!」
技の名なんざ叫ばない。一点に集約した爆轟が、ボールを撃ち出した。それだけ。
白い弾が、空気を引き裂いて、視界の奥へ消えていく。一度目より、ずっと遠くへ。
「……爆豪、八二〇・五メートル」
相澤が、わずかに眉を上げて読み上げた。
威力は、同じだ。変えたのは、束ね方だけ。
「麗日さん、∞……計測不能です!」
丸顔が、無重力にしたボールを軽く放って、にっと笑う。
八百万も、創造した大砲で、軽々とその上をいった。
それでも、投げで勝てねェ相手はいる。
円に立ったのは、出久だった。
出久が、ボールに腕を引く。全身にOFAを回す気だ。やめとけ、腕が保たねェ――と思った瞬間、
記録は、四十六メートルだった。
出久が、目を見開く。発動の感覚が、消えていた。
「な……個性が、出ない……!?」
相澤の目が、赤く光っていた。首のスカーフが、ふわりと逆立つ。
「視ただけで、相手の個性を消す個性……抹消……!」
出久が、震える声で気づく。
相澤は、けだるげにそいつを見下ろした。
「昔、暑苦しいヒーローがいてな。たった一人で、千人以上を救った伝説を作った男だ」
「だが同じ蛮勇でも、おまえのは一人救けて自分が木偶の坊になるだけだ。……その力じゃ、ヒーローにはなれないよ」
勝己は列の後ろでそれを見ていた。
掴みかかりたい衝動なんざ、もうとっくにねェ。
ただ――舌打ちが、ひとつ漏れた。
出久が、もう一度、円に立つ。
今度は、人差し指、ただ一本に、すべてを集めた。
「うおおおおおッ!!」
弾けるような風圧。ボールが、空を裂いて飛んでいく。
「……七〇五・三メートル」
相澤が、ぽつりと読み上げた。
出久が、紫色に腫れ上がった指を、震えながら掲げる。
「先生……っ、まだ、動けます……!」
「こいつ…!」
こいつは今、無個性だった自分を、振り切った。
あの男がこいつの背中を見て確信する。その瞬間も何ひとつ変わっちゃいねェ。
変えねェ。出久が無個性の自分にケリをつける、最初の一歩だ。奪うわけにゃいかねェ。
相澤が、ニヤリと口の端を歪めたのを勝己は見逃さなかった。
口では、まだ何も認めちゃいねェ。だがこの男はもう、あいつを切らねェと決めている。
今度は、と勝己は思う。今度はあの指を一人で折らせやしねェ。
最後は、持久走。
小刻みな爆発で、地を後ろへ蹴り続ける。撃ちっぱなしじゃ、すぐ手が焼ける。間隔と出力を、息に合わせて配る。一度目の俺にゃ、できなかった芸当だ。
だが、距離は正直だった。
中盤を過ぎると、汗で湿った掌が、思うように爆ぜてくれなくなる。爆破で稼いだリードが、一歩ずつ削られていく。
最後の直線で、横に並ぶ影があった。
八百万。創造とかいう個性で、淡々とバイクで俺の前へ出る。
歯が、ぎりっと鳴った。脚と乗り物じゃ、あの女にゃ届かねェ。
走りながら、ふと、後方に金の髪が見えた。
青山が、息を切らしてそれでも気障な笑みを崩さずに走っている。
あいつのことだけは、後で考える。今は走れ。
全種目が終わった。
相澤が空中に成績の一覧を投影する。
「結果だ」
一覧の、一番上。
一位――爆豪勝己。
「全種目の平均なら、八百万がトップだ。だが、爆発系で振り切ったぶん、総合は爆豪が上に来た」
相澤が、淡々と付け足す。僅差だ。投げも握力も持久走も譲って、それでも、ぎりぎり一番上にいる。
首席だ。一度目は三位だった。それが今度は一番上にいる。
だが、その数字を勝己はほとんど見ちゃいなかった。
一位なんざただの通過点だ。目的じゃねェ。手段だ。
一覧の、一番下。
二十位、緑谷出久。
最下位。除籍の対象だ。
「――ちなみに、除籍はウソな」
相澤が、手にした端末を放ってけだるげに付け足した。
「君らの最大限を引き出す、合理的虚偽」
「は――――!!!???」
出久と麗日が、声を揃えて絶叫する。飯田は眼鏡をずり上げたまま、絶句していた。
その騒ぎの中で、一人だけ、涼しい顔の女がいた。
「あんなのウソに決まってるじゃない……ちょっと考えればわかりますわ……」
黒髪を結い上げた優等生――八百万が、腰に手を当てて、しれっと言ってのける。
勝己は、騒ぐ連中を尻目に、頭の中で次の手を回していた。
この一年で、何が起きるか。誰が、いつ、どこで倒れるか。一度目に、俺がどこで間違えたか。手札はもう揃いつつある。首席って駒も今もう一度盤の上に置いた。
全員生かす。
教師も、A組も、街も。あの男のところへ辿り着くまで、誰一人欠けさせやしねェ。
今度こそ出久の隣に立つ。追い抜く。
解散の号令がかかって生徒たちがぞろぞろと引き上げていく。
その人波の中に、勝己はもう一度、金の髪を探した。
青山優雅
あいつを……どうする。
敵なのか。救う相手なのか。
あの男に潰された俺には、まだ、その答えがなかった。
ただ――今はまだ手を伸ばす時じゃねェ。
勝己はジャージの裾を払って家へと歩き出した。
構成少し崩れましたね…時間ある時に訂正します。