JORMUNGAND:マージナル・チルドレン 作:たこ焼き 龍月
拠点に戻ったのは、夕暮れだった。
工業地区から連れ帰った四人の子供たちは、倉庫の奥で、先に救われた子供たちに迎えられた。ミラが真っ先に駆け寄り、新しい子供たちの手を取った。ジブリールも近づいて、その子たちの首にかかった番号札を、そっと外していった。
その帰還を、拠点で待っていた者たちは、静かに迎えた。派手な歓声はなかった。ただ、全員が無事に戻ったことへの、深い安堵だけがあった。前回、隊は子供を残して引いてきた。今回は、その子供を連れて帰った。同じ工業地区から、違う結末を持って。その違いを、待っていた者たちは、言葉にせず噛みしめていた。
子供たちが四人、増えていた。それは、拠点にとって、重い意味を持っていた。守るべき子供が、増えた。食べさせるべき口が、増えた。そして、名前を探すべき空欄が、増えた。だが、誰も、その負担を嫌がらなかった。むしろ、その負担こそが、彼らがここで戦っている理由だった。
番号札が外される瞬間、子供たちは、みな一様に身を硬くした。
それは、白い学校から救われた子供たちが、みな通ってきた道だった。番号を外されることが、彼らには、まだ怖かった。番号は、自分が何者であるかを示す、唯一のものだった。それを外されると、自分が何者でもなくなる気がした。
「大丈夫」
ジブリールが、静かに言った。
「番号は、もういらない。あなたには、名前がある。まだわからないだけ。これから、探すの。一緒に」
その言葉を、ジブリールは、かつて自分がかけられた言葉として、覚えていた。彼女もまた、番号だった。それを外された時、怖かった。だが、アラタが名前を呼んでくれた。だから、彼女は今、同じ言葉を、次の子供たちにかけていた。
四人の子供のうち、一番小さな子が、外された番号札を、まだ握りしめていた。手放そうとしなかった。ミラが、その手に、そっと自分の手を重ねた。
「それ、まだ、持っていたい?」
ミラが、優しく聞いた。
子供は、こくりと頷いた。番号札を、まだ手放せなかった。それは、その子にとって、自分が何者であるかを示す、唯一のものだった。それを手放すことは、自分が消えることのように思えた。
「なら、持っていていい」
ミラは言った。
「無理に、捨てなくていい。今はまだ、持っていて。そのうち、名前が見つかったら、その時に、どうするか決めればいい。焦らなくて、いいの」
その言葉に、子供は、少しだけ、肩の力を抜いた。番号札を、握りしめたまま。だが、その握り方は、さっきよりも、少しだけ緩んでいた。ミラは、番号を、無理に取り上げなかった。番号は、体から外しても、心からはなかなか外れない。それを、ミラは知っていた。だから、焦らなかった。
*
その光景を、アラタは少し離れた場所から見ていた。
子供たちが、番号を外され、名前を探し始める。それは、彼が求めていた光景だった。子供を救う。名前を呼び戻す。その積み重ねが、目の前にあった。だが、アラタの胸には、その達成感だけではないものが、沈んでいた。
*
その夜、アラタは、一人でイルミネーターの前に座っていた。
作戦は、成功した。子供を四人、救い出した。仲間も、誰一人失わなかった。前回の無力感を、今回は覆した。それは、良い結果だった。誰もが、そう言った。
だが、アラタはその画面を見ながら、あの一瞬のことを繰り返し思い出していた。
選別を考えた、あの一瞬。何人か諦めようとした、あの一瞬。効率のために、子供を切り捨てようとした、あの一瞬。今回は、踏みとどまれた。だが、その考えが浮かんだこと自体が、彼を苛んでいた。
彼は、画面の点を見た。名前の付いた点を。空欄の点を。
これを見ていると、人が数に見える。名前が消える。効率だけが残る。それが、この道具の本質だった。そして、その本質に、アラタは、少しずつ馴染み始めていた。今日、彼は、この道具を使いこなした。使いこなすということは、この道具の論理に、馴染むということでもあった。
「僕は」
アラタは、小さく呟いた。
「どこまで、行くんだろう」
その問いに、答える者はいなかった。倉庫は静まり返っていた。子供たちも、仲間たちも、眠りについていた。ただ、イルミネーターの青白い光だけが、彼の顔を照らしていた。
*
その端末には、昨日の作戦の記録が、すべて残されていた。
アラタは、何気なく、その記録を開いた。判断ログだった。彼が、いつ、どこで、何を決めたか。その一つ一つが、時刻とともに記録されていた。イルミネーターは、指揮官の判断を、すべて記録する。後で検証できるように。だが、その記録は、アラタ自身の心の動きも、映し出していた。
彼は、ある一点で、記録が、わずかに乱れているのに気づいた。
時刻は、通信ノードが遮断され、残り一分を切った頃だった。彼が、選別を考えた、あの一瞬だった。その時刻の判断ログには、一度、退避対象を絞り込もうとした形跡が、残っていた。数人の点を、選び出そうとした形跡が。だが、それは、すぐに取り消されていた。
アラタは、その記録を、じっと見た。
機械は、正直だった。彼が、あの一瞬、何を考えたかを、正確に記録していた。選別を考えたこと。誰を切り捨てるか、選ぼうとしたこと。それを、機械は、感情抜きに、記録していた。数人の点。選び出そうとした点。その冷たい記録が、アラタの、あの一瞬の心を、映していた。
彼は、その記録を、消そうかと思った。
だが、消さなかった。消せば、なかったことになる。だが、それは、なかったことではなかった。彼は、確かに、あの一瞬、選別を考えた。それは、事実だった。その事実を、消すべきではなかった。むしろ、残しておくべきだった。自分が、どこで、危うくなったかを、忘れないために。
「残しておく」
アラタは、小さく呟いた。
「番号の子を、空欄として残すように。僕の、この記録も、残しておく。忘れないために。僕が、どこで、あの女に近づきかけたかを」
それは、奇妙な決意だった。だが、アラタらしい決意でもあった。彼は、自分の危うさを、消さなかった。空欄を残すように、自分の過ちの記録も、残した。それを見るたびに、彼は、思い出すだろう。自分が、どこで、踏みとどまったかを。次も、踏みとどまるために。
*
その様子を、ヨナが見ていた。
彼は、眠らずに、アラタの背中を見ていた。ココに頼まれた通り、アラタが壊れないように、見張っていた。そして、彼は、アラタの様子が、いつもと違うことに気づいていた。
作戦は成功したのに、アラタは、喜んでいなかった。むしろ、何かに苛まれているように見えた。ヨナは、その理由を、なんとなく察していた。今日、アラタは、端末の前で、何かと戦っていた。ヨナには見えない何かと。
ヨナは、静かに、アラタに近づいた。
「眠らないのか」
ヨナが聞いた。
「ヨナ」
アラタが、振り返った。
「眠れないんです。今日のことを、考えてて」
「作戦は、成功しただろう」
「ええ」
アラタは頷いた。だが、その頷きには、力がなかった。
「成功しました。子供を四人、救えた。みんなも無事だった。良い結果です。でも」
「でも?」
ヨナが促した。
アラタは、少し黙った。それから、静かに口を開いた。
「今日、僕は、選別を考えたんです」
その告白に、ヨナは、動きを止めた。
「作戦の途中で、時間が足りなくなって。このままじゃ、全員は連れ出せないかもしれない、と思った。その時、僕は、何人か諦めようと考えた。効率のために。救える子だけを救おうって。一瞬だけ、でも、確かに、そう考えたんです」
アラタの声は、震えていた。
「それは、エリザのやり方だ。選別。救える者だけを救って、残りを切り捨てる。僕が、一番嫌ってたやり方だ。それを、僕は、考えた。あの一瞬、僕は、エリザと同じ場所に立ってた」
彼にとって、それはただの反省ではなかった。恐怖だった。子供を救うために飛び込んだ場所で、子供を切り捨てようとした、その矛盾への恐怖。救おうとして、逆に、救わない側の思考へ足を踏み入れた。その事実が、彼を内側から蝕んでいた。
ヨナは、その告白を、静かに聞いていた。
*
「でも」
ヨナが、口を開いた。
「お前は、選別しなかっただろう」
「しませんでした」
アラタは言った。
「踏みとどまりました。名前を呼んで、別の道を見つけて、全員を救った。でも、考えたことは、消えない。あの一瞬、僕が選別を考えたという事実は、消えないんです」
「アラタ」
ヨナが言った。その声は、いつものように短かった。だが、そこには、確かな重さがあった。
「考えるのは、悪いことじゃない」
アラタは、顔を上げた。
「え?」
「昨日、俺はサミルに言った。怖いのは悪いことじゃないって。怖くなくなった時が、一番危ないって。選別も、同じだ。選別を考えたことが、悪いんじゃない。選別を、当然だと思うようになった時が、危ないんだ」
ヨナは、まっすぐにアラタを見た。
「お前は、選別を考えた。でも、それを、怖いと思った。踏みとどまった。名前を呼んだ。それでいい。選別を考えて、それを怖いと思えるうちは、お前は、まだ人間だ。選別を、当然だと思うようになったら、その時が、危ない」
その言葉に、アラタは、はっとした。
ヨナの言葉は、彼が抱えていた苦しみを、別の角度から照らした。選別を考えたことが、罪なのではなかった。選別を、平気で行えるようになることが、罪だった。アラタは、選別を考えた。だが、それを怖いと思った。その恐怖が、まだ彼を人間のままにしていた。
「怖いと思えるうちは、人間」
アラタは、その言葉を、繰り返した。
「ああ」
ヨナは、頷いた。
「だから、その怖さを、忘れるな。選別を考えるたびに、怖いと思え。踏みとどまれ。名前を呼べ。それを続けられるうちは、お前は、あの女とは違う」
アラタは、その言葉を、深く受け止めた。
ヨナは、アラタを責めなかった。選別を考えたことを、咎めなかった。むしろ、その恐怖こそが、アラタを人間のままにしていると言った。それは、アラタが自分を責め続けてきた、その責め方を、根本から覆す言葉だった。
「ありがとう、ヨナ」
アラタは言った。
「礼は、いらない」
ヨナは、短く答えた。
「俺は、お前を見張ってるだけだ。ココに頼まれた。お前が、壊れないように。あの女みたいにならないように。それが、俺の役目だ」
だが、その「役目」という言葉の奥には、ヨナの、アラタへの確かな気遣いがあった。ヨナは、アラタを、ただの監視対象としては見ていなかった。彼は、アラタが壊れることを、本当に案じていた。その気遣いを、ヨナは、役目という言葉で包んでいた。
*
翌朝、ジブリールが、アラタのところへ来た。
彼女は、昨日の作戦の間、拠点に残っていた。子供たちを守る役目だった。だから彼女は、作戦の間にアラタが何をしていたのかを直接は見ていなかった。だが、戻ってきたアラタの様子から、彼女は、何かがあったことを察していた。
「アラタ」
ジブリールが言った。
「ジブリール」
アラタが、顔を上げた。
「昨日、何かあったの?」
ジブリールは、まっすぐに聞いた。彼女は、遠回しな聞き方をしなかった。いつも、まっすぐだった。
「戻ってきた時のアラタ、変だった。作戦は成功したのに、嬉しそうじゃなかった。何か、あったんでしょう」
アラタは、少し黙った。それから、ヨナに話したことを、ジブリールにも話した。選別を考えたこと。踏みとどまったこと。それでも、その考えが浮かんだことに、苛まれていること。
ジブリールは、その話を、静かに聞いていた。
そして、話を聞き終えると、彼女は、しばらく黙っていた。その沈黙は、長かった。アラタは、彼女が何を思っているのか、わからなかった。彼女が、失望したのではないかと、恐れた。彼女は、アラタを信じていた。そのアラタが、選別を考えた。それを知って、彼女が失望したのではないかと。
「アラタ」
やがて、ジブリールが、口を開いた。
「私はね、番号だった」
彼女は、静かに言った。
「白い学校じゃない。もっと前。私の村が燃えて、私は少年兵として売られた。オマルの下で、銃を持たされた。あの頃、私は、数字だった。名前なんて、なかった。いつ死んでもいい、代わりのきく数字だった」
アラタは、その言葉を、静かに聞いていた。ジブリールが、自分の過去を語ることは、めったになかった。
「ある戦いで、部隊は、ほとんど死んだ。私も、死ぬはずだった。でも、アラタの声が、届いたの。無線の向こうから。私たちを、一人ずつ、名前で動かして、生かした。あの日、私は、数字から、人間に戻った」
彼女の声は、淡々としていた。だが、その淡々とした響きの奥に、消えない何かが沈んでいた。あの日、彼女を生かしたのは、力ではなかった。銃でも、戦術でもなかった。名前だった。一人ずつ、名前で呼ばれること。それが、彼女を、死なせなかった。数字は、死んでも代わりがきく。だが、名前を持つ者は、代わりがきかない。名前が、彼女を、代わりのきかない一人にした。
彼女は、そこで、アラタを、まっすぐに見た。
「だから、私は、知ってるの。数字にされるって、どういうことか。名前を呼ばれるって、どういうことか。両方、知ってる」
*
「アラタが、選別を考えたって聞いて」
ジブリールは、続けた。
「私は、少しだけ、怖かった。アラタが、私を数字にした側に、近づいてるのかもしれないって。でも」
彼女は、そこで、言葉を切った。
「でも、アラタは、踏みとどまった。名前を呼んだ。全員を救った。それを聞いて、私は、思ったの。アラタは、まだ、名前を呼ぶ側にいるって」
ジブリールの声は、静かだったが、揺るがなかった。
「選別を考えたことは、消えない。それは、そうだと思う。でも、アラタが、それを怖いと思って、踏みとどまったなら、アラタは、まだ、私を数字にした側とは違う。数字にする側は、選別を、怖いなんて思わない。当然だと思う。アラタは、怖いと思った。だから、違う」
その言葉は、ヨナが言ったことと、同じだった。だが、ジブリールの口から言われると、それは、別の重さを持っていた。ジブリールは、実際に数字にされた側だった。その彼女が、アラタは数字にする側とは違うと言った。それは、何よりも確かな証言だった。
「アラタ」
ジブリールは言った。
「私が、見てる。アラタが、名前を呼ぶ側にいられるように。アラタが、私を生かしてくれたあの声を、失わないように。もし、アラタが、名前を忘れそうになったら、私が呼ぶ。何度でも。アラタの名前を。そして、子供たちの名前を」
アラタは、その言葉に、胸が熱くなった。
ジブリールは、かつてアラタに救われた。その彼女が、今、アラタを救おうとしていた。アラタが、人間でいられるように。名前を呼ぶ側でいられるように。それは、救われた者が救った者を今度は救い返すという、静かな連鎖だった。
「ありがとう、ジブリール」
アラタは言った。
「イヌワシ」
ジブリールが、ふと、その名で呼んだ。
「え?」
「アラタのこと、私、イヌワシって呼んでたの。あの日から。無線の向こうから、私たちを見て、生かしてくれた。空の高いところから、全部を見て、一人ずつ拾い上げてくれる。イヌワシみたいだって」
彼女は、少しだけ、微笑んだ。
「イヌワシは、高いところから、全部を見る。でも、獲物を、数としては見ない。一羽ずつ、狙いを定める。アラタも、そうであってほしい。高いところから全部を見ても、一人ずつ、名前で見てほしい。それが、私の願い」
その言葉に、アラタは、深く頷いた。
高いところから、全部を見る。だが、一人ずつ、名前で見る。それは、イルミネーターを使いながら、人間でいるための、たった一つの道だった。ジブリールは、その道を、イヌワシという名に込めていた。彼女は、アラタが、その道を歩み続けることを、願っていた。
*
その頃、倉庫の外では、レームとオマルが、短い言葉を交わしていた。
二人とも、戦場を長く知る大人だった。昨日の作戦を、二人はそれぞれの持ち場から見ていた。レームはココのそばで、オマルは拠点で。その二人が、今、作戦の後の静けさの中で、若い指揮官のことを話していた。
「あの坊主は、勝ったな」
レームが言った。
「子供を救って、誰も失わなかった。見事なもんだ」
「ああ」
オマルが、短く答えた。
「だが、あいつは、勝った顔をしてない」
レームは、その言葉に頷いた。
「そうだな。勝ったのに、苦しんでる。ああいう男は、勝つほど苦しむ。勝ち方の中に、自分の嫌いなものを見つけるからな」
オマルは、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「あいつは、あの端末を使うほど、俺たちが昔いた場所に近づく」
その言葉に、レームは、視線を上げた。
俺たちが昔いた場所。それは、人を数で動かす場所だった。命令で、駒を動かし、損耗を数える場所。レームも、オマルも、かつて、そういう場所にいた。軍人として。その場所の冷たさを、二人は、身をもって知っていた。
「あいつを、そこには行かせたくないな」
レームが、ぽつりと言った。
「ああ」
オマルが答えた。
「だが、あいつには、ヨナとジブリールがいる。あの二人が、あいつを引き戻す。俺たちの頃には、いなかったものだ。引き戻してくれる、若いのが」
レームは、その言葉に、静かに頷いた。
二人の大人は、若い指揮官の危うさを、誰よりも正確に理解していた。なぜなら、二人自身が、かつて、その危うい場所を通り抜けてきたからだった。そして、二人には、引き戻してくれる者がいなかった。だが、アラタには、いた。その差が、アラタを、二人とは違う道へ、進ませるかもしれなかった。
*
その日の午後、ココがアラタのところへ来た。
彼女は、いつもの余裕のある笑みを浮かべていた。だが、その目は、アラタの様子を、しっかりと捉えていた。彼女は、昨日の作戦の結果を、すでに聞いていた。子供を四人救い、仲間も失わなかったことを。
「聞いたわ」
ココが言った。
「上手くやったそうね。子供を四人、救って、誰も失わなかった。見事な作戦だったって、東條が言ってた」
「ええ」
アラタは頷いた。
「なんとか、救えました」
「でも、あなた、嬉しそうじゃないわね」
ココは、彼の顔を見て言った。
アラタは、少し黙った。それから、ココにも、昨日のことを話した。選別を考えたこと。それに苛まれていること。そして、ヨナとジブリールが、それでも彼は人間だと言ってくれたこと。
ココは、その話を、静かに聞いていた。
そして話を聞き終えると、彼女はいつものように笑った。だが、その笑みは、いつもより、少しだけ複雑だった。
「アラタ」
ココが言った。
「昨日、私、あなたに言ったわよね。世界は、あなたを子供使いって呼ぶって。救う者としてじゃなく、使う者として」
「はい」
「今日は、その続きを言うわ」
ココの声は、静かだった。
「子供使いには、値段があるの」
*
「値段?」
アラタが、聞き返した。
「そう」
ココは頷いた。
「あなたは、子供を救うために、イルミネーターを使う。全体を見て、人を動かして、効率よく救出する。それは、たくさんの子供を救える。でも、その代わりに、あなたは、少しずつ、あなた自身を失っていく。選別を考えるようになる。人を数に見るようになる。それが、子供使いの値段よ」
アラタは、その言葉を、静かに聞いていた。
「あなたは、救うたびに、支払ってるの。あなた自身を。子供を一人救うたびに、あなたは、少しだけ、あなたが嫌ってるものに近づく。それが、この仕事の値段。誰も、その値段を、代わりに払ってはくれない。あなたが、一人で払うしかない」
その言葉は、残酷だった。だが、それは事実だった。アラタは、子供を救うたびに、自分自身を、少しずつ支払っていた。イルミネーターを使うたびに、選別の誘惑に、少しずつ馴染んでいた。それが、子供使いの値段だった。
「でも」
ココは、続けた。その声が、少しだけ、和らいだ。
「あなたには、値段を、一緒に払ってくれる人がいる」
アラタは、顔を上げた。
「ヨナと、ジブリールよ」
ココは言った。
「あの二人が、あなたを見張ってる。あなたが、値段を払いすぎないように。あなたが、壊れる前に、引き戻せるように。あなたは、一人で払ってるんじゃない。あの二人が、そばにいる。それは、あなたにとって、大きなことよ」
その言葉に、アラタは、胸が熱くなった。
ヨナと、ジブリール。あの二人が、アラタを見張っていた。アラタが、子供使いの値段を、払いすぎないように。アラタが、壊れないように。それは、ココが二人にそう頼んだからでもあった。だが、それだけではなかった。二人は、自分の意志で、アラタを支えていた。
「私はね」
ココは言った。
「あなたを利用する。それは、変わらない。でも、使い潰しはしない。あなたが、値段を払いすぎて壊れる前に、私が止める。ヨナとジブリールも止める。だから、あなたは、安心して、値段を払いなさい。ただし、払いすぎない範囲で」
その言葉は、矛盾しているようで、していなかった。
値段を払え。だが、払いすぎるな。子供を救え。だが、自分を失うな。それは、綱渡りだった。だが、その綱渡りを、アラタは、一人でするのではなかった。ヨナが、ジブリールが、ココが、そばにいた。彼らが、アラタが綱から落ちないように、見張っていた。
*
「ココさん」
アラタが、口を開いた。
「なに」
「僕は、これからも、イルミネーターを使います」
彼の声は、静かだったが、揺るがなかった。
「使わなきゃ、救えない。上層の入口も、まだ先にある。名前のない子供たちも、まだ、あの塔の中にいる。それを救うためには、この道具を使うしかない。だから、使います。値段を払っても」
ココは、その言葉を、静かに聞いていた。
「でも」
アラタは、続けた。
「払いすぎないように、します。ヨナと、ジブリールと、ココさんが、見ててくれる。僕が、値段を払いすぎたら、止めてくれる。だから、僕は、その手綱を信じて、使います。一人じゃない。だから、使えます」
その言葉に、ココは、少しだけ笑った。
「変わったわね、アラタ」
彼女は言った。
「前のあなたなら、一人で全部背負おうとした。値段も、一人で払おうとした。でも、今のあなたは、ヨナとジブリールを信じてる。一人じゃないって、わかってる。それは、いいことよ」
アラタは、その言葉に頷いた。
彼は、変わっていた。かつて、彼は、全部を一人で背負おうとした。だが今、彼は、仲間を信じることを、覚えていた。ヨナを、ジブリールを、ナディアを、ココを。彼らが、そばにいる。だから、彼は、この危うい道具を、使い続けられた。一人ではなく。
「一つずつ、ですね」
アラタは言った。
「そうね」
ココは頷いた。
「一つずつ。あなたの口癖でしょう。全体が見えても、一人ずつ。値段を払っても、少しずつ。焦らず、順番を守って。それが、あなたのやり方よ」
*
ココが去った後、ナディアが、アラタのところへ来た。
彼女は、端末を手にしていた。昨日の作戦の、通信記録を整理していたのだった。その顔には、いつもの実務的な落ち着きがあった。だが、その奥に、彼女もまた、何かを抱えているようだった。
「アラタ」
ナディアが言った。
「ナディア」
「一つ、報告があります」
彼女は、端末を操作しながら言った。
「昨日の作戦の、通信記録を整理しました。それで、気づいたことがあります。あなたが、作戦の間、何回、私たちの名前を呼んだか。数えてみたんです」
「数えた?」
アラタが、聞き返した。
「はい」
ナディアは頷いた。
「四十七回でした。作戦の間に、あなたは、四十七回、私たちの名前を呼びました。ヨナ、東條、サミル、ワイリ、私。一人ずつ、名前で。それだけ、あなたは、私たちを点にしないように、意識してた」
その報告に、アラタは、少し驚いた。四十七回。彼は、無意識に、それだけの回数、名前を呼んでいた。人を点にしないために。万能感に呑まれないために。名前という手綱を、それだけ握り続けていた。
「多すぎ、ましたか」
アラタが聞いた。
「いいえ」
ナディアは、首を横に振った。
「ちょうどいいです。むしろ、それだけ呼ばなきゃいけないくらい、あの端末は、人を点にしようとするってことです。あなたは、それに抗ってた。四十七回、抗ってた。私は、それを、見てました」
彼女の声には、いつもの実務的な響きの奥に、確かな敬意があった。
「疲れたでしょう」
ナディアは言った。
「全体を見ながら、四十七回、名前を呼ぶ。それは、すごく疲れることです。あなたは、作戦を指揮しながら、同時に、自分が人間でいるための戦いも、してた。二つの戦いを、同時に。それが、あなたが疲れてる、本当の理由です」
アラタは、その言葉に、はっとした。
彼は、昨日、ただ作戦に疲れたのだと思っていた。だが、ナディアは、別の理由を示した。彼は、作戦の指揮と、自分が人間でいるための戦いを、同時にしていた。だから、二重に疲れていた。ナディアは、その二重の戦いを、通信記録から、見抜いていた。
「ナディアは」
アラタが言った。
「よく、見てるね」
「見てます」
ナディアは、少しだけ、微笑んだ。
「それが、私の役目ですから。あなたが、一人で二つの戦いをしないように。私が、片方を、少しでも肩代わりできるように。だから、これからも、見てます。あなたの名前を呼ぶ回数を、数えながら」
その言葉に、アラタは、静かに頷いた。
ナディアは、アラタの、見えない戦いを、見ていた。彼が、名前を呼ぶたびに払っている、その努力を。ヨナが選別への恐怖を見張り、ジブリールが名前を呼ぶ声を見守り、ナディアがその回数を数えている。それぞれが、それぞれの形で、アラタの見えない戦いを、支えていた。
*
その夜、倉庫の中は、静かだった。
救われた子供たちは、眠りについていた。新しく連れ帰った四人の子供たちも、先に救われた子供たちの隣で、身を寄せ合って眠っていた。彼らの首には、もう番号札はなかった。まだ名前はわからなかったが、番号は、外されていた。
倉庫の隅で、ヨナとジブリールが、並んで座っていた。
二人は、それぞれの見張りの合間に、ふと、同じ場所で顔を合わせていた。子供たちの眠る様子を、二人は、少し離れた場所から見ていた。かつて番号だった子供たち。今、名前を探し始めた子供たち。その寝顔を。
「アラタは」
ジブリールが、口を開いた。
「昨日、選別を考えたって」
「聞いたのか」
ヨナが言った。
「うん」
ジブリールは頷いた。
「アラタが、自分で話してくれた。私、少しだけ、怖かった。でも、アラタは踏みとどまった。だから、大丈夫だと思う。……ヨナは、どう思う?」
ヨナは、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「あいつは、危ない」
その言葉に、ジブリールは、顔を上げた。
「でも、それは、あいつが善人だからだ」
ヨナは、続けた。
「あいつは、子供を救いたい。心から。だから、あの端末を使う。使えば、たくさん救える。でも、使うほど、あいつは、あの女に近づく。善人だから、救おうとして、危うくなる。悪人なら、こんなに苦しまない。善人だから、苦しむ。善人だから、危ない」
ジブリールは、その言葉を、静かに聞いていた。
アラタが危ういのは、悪人だからではなかった。善人だからだった。救おうとするから、危うくなる。その逆説を、ヨナは、正確に言い当てていた。
「ジブリール」
ヨナが言った。その声は、いつもより、少しだけ、慎重だった。
「なに」
「一つ、言っておきたいことがある」
彼は、少し間を置いてから、続けた。
「お前は、アラタを信じてる。それは、いい。でも、アラタの武器には、なるな」
その言葉に、ジブリールは、動きを止めた。
「アラタは、お前を、道具にはしない。あいつは、そういう男じゃない。でも、お前の方が、アラタのために、自分を道具にしようとするかもしれない。アラタを救うためなら、何でもするって。そうなったら、お前は、アラタの武器になる。それは、違う」
ジブリールは、その言葉を、静かに聞いていた。だが、その表情には、わずかな反発があった。
「私は」
彼女は言った。
「アラタのために、戦いたい。アラタが、私を生かしてくれたから。それの、何がいけないの」
「戦うのはいい」
ヨナは言った。
「でも、アラタのためだけに戦うな。お前自身のためにも、戦え。お前は、アラタの武器じゃない。ジブリールっていう、一人の人間だ。アラタを救うのも、子供を救うのも、お前が、お前の意志で選ぶことだ。アラタに、言われたからじゃない」
ジブリールは、その言葉に、すぐには答えられなかった。
それは、彼女が、今まで考えてこなかったことだった。彼女は、アラタのために戦ってきた。アラタが生かしてくれたから。その恩に、報いるために。だが、ヨナは、それだけでは足りないと言った。彼女自身の意志で、選べと。アラタの武器ではなく、一人の人間として。
「わからない」
ジブリールは、正直に言った。
「ヨナの言ってること、まだ、よくわからない。私は、アラタのために戦う。それが、私の意志だと思ってた。それが、違うの?」
「違わない、かもしれない」
ヨナは言った。
「でも、いつか、アラタと、別の方向を向く時が来るかもしれない。その時に、お前が、自分の意志で選べるかどうか。アラタに言われたからじゃなく、お前が、お前として選べるかどうか。それが、大事なんだ」
ジブリールは、その言葉を、深くは理解できなかった。だが、その言葉は彼女の中に、小さな棘のように残った。アラタの武器ではなく、一人の人間として。いつか、その言葉の意味を、彼女が理解する日が来るのかもしれなかった。
ヨナは、それ以上は、言わなかった。
彼は、ジブリールに、種を蒔いただけだった。今すぐ、芽が出なくてもいい。いつかジブリールがアラタと別の方向を向く時が来た時に、その種が芽を出せばいい。ヨナは、そう思っていた。彼自身がかつて、ココのそばで少しずつ自分の意志を見つけてきたように。
*
アラタは、その子供たちの寝顔を、静かに見ていた。
この子たちを、救った。名前は、まだわからない。空欄のままだ。だが、番号は外した。これから、ゆっくりと、名前を探す。一つずつ。焦らず、順番を守って。それが、アラタのやり方だった。
彼の隣に、ヨナが立った。
「起きてるのか」
ヨナが聞いた。
「ええ」
アラタは答えた。
「子供たちの寝顔を、見てました。この子たちを、救えて、良かったって」
ヨナは、その言葉に、何も言わなかった。ただ、アラタの隣で、同じように、子供たちの寝顔を見た。二人は、しばらく、無言で、その光景を見ていた。
「アラタ」
やがて、ヨナが、口を開いた。
「なに」
「約束、覚えてるか」
「約束?」
「工業地区で、お前が言った。今日残してきた子たちにも名前がある、いつか名前を聞きに戻るって」
ヨナは、静かに言った。
「あれは、昨日連れ帰った四人のことだ。お前は、約束を守った。戻って、あの子たちを連れ帰った。名前は、まだわからない。でも、これから、聞ける。約束通りに」
アラタは、その言葉に頷いた。
「はい」
彼は言った。
「守れました。今度は、まだ塔の中にいる子たちの番です。BABEL-00の中にいる、名前のない子たち。あの子たちも、いつか、迎えに行きます。名前を聞きに」
ヨナは、その言葉を、静かに受け止めた。
まだ、塔の中に、名前のない子供たちがいる。BABEL-00の中に。それを救うために、アラタは、これからも進む。イルミネーターを使い、値段を払いながら。だが、一人ではなく。ヨナが、ジブリールが、ココが、そばにいた。
*
窓の外に、首都の灯りが、遠く瞬いていた。
その灯りの下に、塔は、まだ聳えていた。名前のない子供たちを、呑み込んだまま。アラタは、その塔を、下から見上げていた。彼は、その塔に近づいていく。子供を救うために。そして、子供使いの値段を、払いながら。
だが、その値段を、彼は、一人では払わなかった。
ヨナが、見張っていた。アラタが、選別を、当然だと思わないように。ジブリールが、見張っていた。アラタが、名前を呼ぶ側でいられるように。ナディアが、支えていた。アラタが、一人で全部を背負わないように。ココが、約束していた。アラタを、使い潰さないと。
彼らが、そばにいる限り、アラタは、綱から落ちなかった。
子供使いには、値段があった。子供を救うたびに、アラタは、自分自身を、少しずつ支払った。それは、避けられなかった。だが、その値段を、彼は、一人で払うのではなかった。仲間たちが、その値段を、一緒に見ていた。アラタが、払いすぎないように。
「行きましょう」
アラタが、静かに言った。
「まだ、塔の中に、名前のない子たちがいる。あの子たちを、迎えに。一つずつ。焦らず、順番を守って」
ヨナは、その言葉に、短く頷いた。
「ああ」
彼は言った。
「行こう。でも、無理はするな。俺が、見てる」
その言葉に、アラタは、微笑んだ。
無理はするな。俺が、見てる。それは、ヨナなりの、支え方だった。短く、そっけなく、だが、確かな気遣いのこもった言葉だった。アラタは、その言葉に、支えられていた。
二人は、しばらく、無言で、子供たちの寝顔を見ていた。
その寝顔は、穏やかだった。番号を外され、名前を探し始めた子供たち。まだ、彼らは、名前を持っていなかった。空欄のままだった。だが、その空欄は、諦めではなかった。これから埋められる、名前の場所だった。アラタは、その空欄を、一つずつ埋めていく。焦らず、順番を守って。それが、彼のやり方だった。
*
塔は、まだ高かった。夜は、まだ深かった。だが、アラタは、一人ではなかった。彼のそばには、名前を呼ぶ者たちがいた。子供使いの値段を、一緒に見つめる者たちが。その者たちとともに、アラタは、塔へと近づいていく。名前のない子供を、迎えに行くために。
彼は、この道の先に、何が待っているのかを、まだ知らなかった。
BABEL-00の中枢が、どんな場所なのか。そこに、どれだけの子供が、番号として囚われているのか。それを救うために、彼が、どれだけの値段を払うことになるのか。すべては、まだ、霧の向こうだった。だが、彼は、進むと決めていた。一つずつ。焦らず、順番を守って。仲間たちとともに。
子供使いには、値段があった。
子供を救うたびに、アラタは、自分自身を、少しずつ支払った。イルミネーターを使うたびに、選別の誘惑に、少しずつ近づいた。それは、避けられなかった。彼が善人であればあるほど、その値段は、重くなった。救おうとするから、危うくなる。その逆説から、彼は、逃げられなかった。
だが、その値段を、彼は、一人では払わなかった。
ヨナが、選別への恐怖を、見張っていた。ジブリールが、名前を呼ぶ声を、見守っていた。ナディアが、その名前の回数を、数えていた。ココが、使い潰さないと、約束していた。レームとオマルが、若い指揮官の危うさを、静かに案じていた。彼らが、そばにいる限り、アラタは、綱から落ちなかった。
空には、何も知らないような、夜の闇が広がっていた。だが、その闇の中でも、名前を呼ぶ声は、消えなかった。アラタが、子供たちの名前を呼ぶ限り。ヨナとジブリールが、アラタの名前を呼ぶ限り。その声が続く限り、塔は、完全には、勝てなかった。
夜明けは、まだ遠かった。だが、いつか、来る。
その夜明けの中で、名前のない子供たちが、名前を取り戻す日が。空欄が、一つずつ、埋まっていく日が。アラタは、その日を目指して、進んでいく。子供使いと呼ばれながら。その値段を、仲間とともに払いながら。一つずつ。名前を、呼び戻しながら。