幸せを掴むのに顔っていうのは重要だ。それが良ければ女遊びも自由気ままにできる。確かに幸せになるのにあれば良いものだろう。でも、立派な人間でなくなる覚悟もきっと同時に必要だったんだ。

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こんな顔いらない

 

 

 

 人間が欲しがるものは大量にある。例えば三代欲求で言えば、美味い食べ物に快適な睡眠。美しい異性の存在とかが挙げられる。

 その他にも金だったり、社会的地位だったり、美貌が欲しい人もいるだろう。俺も一人の人間としてそのどれもを欲しがっていた。

 

 持っていないから羨ましい。嫉妬の心に醜さや矮小さを感じながら唇を噛む。そんな欲深さを持つどこにでもいるような人間。

 

 それが俺だった。しかし、それも既に過去のこと。俺には最早嫉妬の心などない。むしろ溢れ出る優越感で満たされていた。

 俺はその全てを手に入れたのだ。酒に金に女に美貌に力すらもを。どうやって手にれたかと言えば、驚くような奇跡があった。

 

 転生である。ちょっとした交通事故で死んだ俺には全てにおいて恵まれた次の生が与えらえた。これには感謝しかない。

 

 美味い飯なんていくらでも貢がれる。眠たくなれば延々と寝てられるし、探す必要すらなく美女が色んな場所からやってくる。

 酒を貰いながら同時に金を貰って、そのままお気に召したらベッドの上に。馬鹿みたいな幸福が毎日続く信じられない生活を俺は送っていた。

 

 どうやったらそんな生活が送れるのか。説明するとなると長くなりそうなものだが、意外と実際には一言で済んだりする。

 

——俺は、吸血鬼になったのだ。

 

 人から血を吸う怪物。蝙蝠に化けて霧に紛れる夜の支配者。太陽の光を浴びると灰になって死ぬとされる存在。

 吸血鬼っていうのは大体こんなイメージだと思う。俺が転生した吸血鬼もそれと同じだ。変化とかやってみたらできたし。

 

 この吸血鬼っていうのが本当にすごい。種族柄なのかわからないが誰もが美男美女だし、怪力だし、再生能力も持ってる人外だ。

 その強さを持ってしてもどうにもできない、または強さの代償とも言える呪いこそあるが、それを差し引いても最高の種族だと言えるだろう。

 

 それで、その吸血鬼というのは転生先として最高の要素をいくつも持つのだが、俺はそれを活かして幸福を享受できる場を作り上げた。

 金が集まり、酒を好きなだけ飲め、どんな美女でも思いのままにできる場所。そういった人間の欲望全てが詰まった場所。

 

 そう、ホストバー的なやつを。

 

 

 

 

 

   ◇◇◇

 

 

 

 

 

「〜♪」

 

 鼻歌が自然と漏れ出る。機嫌が良くて良くてつい、抑えることができなかった。

 

 楽屋の一室で、俺はこれから始まるものを今か今かと楽しみにしていた。あらゆる幸福の全てがもう少しで訪れるのだから当然だ。

 妄想するだけが限度でかつては得られなかった幸福の数々。俺なんかには烏滸がましいはずだった幸せが待っている。

 

 機嫌も良くなるというもの。気分的には今から一曲踊り出したいぐらいだ。

 俺は今世で礼儀作法を色々と教わったので、今からでも完璧なダンスを披露することはできる。とはいえそれは少しはしたない。

 

 二番目の両親が貴族だったもので、俺が受けた教育は厳しいものだった。そのおかげで俺は節度を覚えたのだ。そんな奇行には走れない。

 無意識の貧乏ゆすりすら封じられた俺の体は、足を組んでじっと停止することができる。気分とは裏腹に体だけは落ち着きを見せていた。

 

「ゲール様」

 

 そこに声がかけられる。耳が反応した方向を向けば物静かな様相の少女がそこに立っていた。

 

 金髪に赤目。表情の変化が薄いことも相まって少し不気味さを感じさせるその少女は、吸血鬼が持つ能力で支配された俺の眷族だ。

 人間に血を与え、吸血鬼と同等の呪いを受けさせることによりその存在を吸血鬼へと近づける。それこそが吸血鬼の持つ能力、眷属化だ。

 

 吸血鬼にとって血の序列は絶対であり、より濃い血を持つ吸血鬼には逆らえない。眷属化とは対象を絶対服従の奴隷に貶める行為である。

 しかし、俺は少女に対して奴隷のような酷い扱いをしているわけではない。別に俺はサディスティックな人間ではないのだ。

 

「時間かな、マリー?」

「はい、皆さんがお待ちです」

 

 その少女——マリーの役目は給仕。ホストバー運営の上で必要なお手伝いさんである。

 そんな仕事をしているため、俺は個人的な趣味嗜好からマリーにメイド服を着せている。これまた好みによって丈の短いものを。

 

 酒に酔った勢いで注文したオーダーメイドの変態的な代物だが、本人は疑問に思っていないのだろうか。聞き出すのは中々に怖いところがある。

 

「準備はお済みでしょうか、ゲール様」

「もちろん……いや、ちょっと待ってくれ」

 

 マリーに連れられ宴の現場に行こうかと思ったが、俺はそこで少し考える。それから楽屋の一箇所に目を向けた。

 

 そこに置いてあるのは大きな鏡。化粧道具もそこの周囲にあった。

 俺は化粧への興味は薄いのだが、そこにあるからという理由でたまに使う。その関心のなさは男だからというのもあるが、それだけではない。

 

 俺は鏡の前に立つと、その鏡面を覗き込む。

 

——鏡の中には誰もいない。

 

 吸血鬼は呪われている。そのため日光を浴びると灰になってしまうし、流水の上は渡れないし、鏡にその姿が反射する事もない。

 だから俺は、今世における自分の顔を一度たりとも見たことがなかった。周りから持て囃される美貌だということだけわかっている。

 

 その鏡は俺の姿を映さないし、マリーが私的に利用することもない。なんの役割も持たないその鏡を俺は捨てられなかった。

 いつか自分の顔を見れるかもしれないと、淡い期待を持ち続けていたのだ。不思議な話だ。自分の顔など人間であれば誰でも見られるだろうに。

 

「……」

「ゲール様?」

「ああいや、なんでもない」

 

 一瞬だけ考えてしまった。吸血鬼でなく人間の方が幸せだったのではと、そんなあまりにも馬鹿げたことを考えてしまった。

 

 例え日光を浴びられなくても、食器が銀製であるかを一々警戒しなくてはならなくても、招かれなければ部屋に入れないとしても。

 金があって酒を飲めて女を抱ける。幸せだ。本当に心底から最高と呼べる状態だ。これ以上ない幸福だというのに、何を後悔することがあるのか。

 

 不満なんて、あってはならない。感じてはならないんだ。俺は幸福だった。人間である時のどんな時より幸福だった。そうに違いなかった。

 

 

 

 

 

   ◇◇◇

 

 

 

 

 

 指を曲げて、扉を三回ノック。

 

 部屋から聞こえていたざわめきが静まり返り、次の瞬間にはそれらは熱狂へと変わっていった。黄色い声が俺を部屋へと招く。

 数々の声の細かい内容まではわからない。だがそのどれもが喜びに満ち溢れていた。俺の到来が何よりも嬉しいのだとそう伝わってくる。

 

 それに答え、扉を開いた。

 

「きゃあぁぁ!」

「ゲール様!」

「お待ちしておりました!」

 

 即座に聞こえてきたのは歓迎の声。三人の美少女が部屋の中に置かれた椅子に座っていた。

 その三人は俺が部屋に入ると椅子から立ったり、目を輝かせたり、手を組んで感動を表したりした。感情の高まりがわかりやすい子たちだ。

 

 その三人には見覚えがある。三人とも貴族の地位にあり、定期的に訪れてくれるホストバーの常連。

 友達で幼馴染の関係でもあるらしい三人は、金払いがよくアフター経験もある。良客の登場に俺も気分を良くして笑顔が漏れ出た。

 

「わぁっ! 三人ともまた来てくれたの? お小遣いがなくなってしばらく来れないって言ってたのに」

 

 今世で俺は演技の教育も受けた。表情の作り方に、些細な仕草まで完璧に作り上げられる。まあ、笑顔は俺本来のものなのだが。

 

「大丈夫です! お母さんにバレないように家から少し盗ってきましたから!」

「わ、私も! お父さんにお願いして……!」

「ふん! ゲール様、私は違いますわよ。私の家の事業は成功続きですの。ご心配なく。ですから、お二人よりその寵愛を——」

 

 美少女貴族三人組と以前最後に交わした会話では、お金の話で終わっていた。

 三人の財布の中身を空にすることに成功し、お金をそれだけ貢いでくれたという事実に嬉しくなった記憶がある。

 

 その上で無理をして来てくれたことに喜びを覚えて体が震えた。

 それと同じくして、背筋に冷たい思いも走る。金を盗んできたと言ったか。それはまずいだろう。でも、同時にこうも思う。

 

 どうやら俺は、それだけ彼女たちを夢中にさせてしまったらしい。

 

「ちょっと、アンタ何言ってるの!」

「さっきと言ってることが、違うんじゃ……」

「気が変わりましたので。思えば、お二人に遠慮するのも馬鹿らしいなと考えたのです」

 

 場の雰囲気が乱れ始める。俺を巡って三人の関係に亀裂が入るのを見ると、妙な興奮を感じる。

 その光景を眺めるのも悪くないが、俺にはホストの責務がある。顔だけでなく、雰囲気までがイケメンであることがホストには求められているのだ。

 

「このっ——」

「落ち着いて、ね?」

「あっ、ゲール様……」

 

 手を出すほどではないが、悪口の類を放とうとしていた少女の手を握る。それからその顔を覗き込めば、やってしまったという表情が映る。

 場に似つかわしくない行為をしようとした。好きな人に見せたくないところを見られてしまったと、そう感じているのだろう。

 

 タイミングとしては最高だ。都合が良すぎて気持ち良すぎるくらいに完璧な役回りをしてくれた。おかげで自然に仕掛けられる。

 

「こんな場所だ。怒っちゃダメ」

「……ごめんなさい」

「それに。できれば、可愛い君にはずっと笑っていて欲しいんだ」

 

 微笑みで少女を俺の虜にする。相手の視界に入っているものを俺の目だけに固定すれば準備完了。自らの内に眠る力を使用する。

 

 魅了の魔眼——発動。

 

 心を奪い人を誑かす吸血鬼の目。目と目を合わせて対象の精神を侵す吸血鬼の呪いは、堅物ちゃんだろうと関係なく破滅を促す強力な能力だ。

 財布の紐は人間の理性が握っている。そのため理性を突き崩す魅了の魔眼は、ホストバーを経営する上で最高に使える能力だ。

 

 眼前の少女の顔に紅潮を確認すると、俺は手を離し勝利を確信した。

 

「は……はい! ゲール様だけを見ます!」

「うんうん、それは良かった」

「ゲール様! 私にも今のを——」

「わ、私も——」

 

 全員が椅子から立ち上がり俺の元に集まる。親鳥に集う小鳥たちのような様子の少女たちの方にも視線をプレゼントし、頭はクレバーに思考する。

 

 さて、どれだけ稼げるか。

 

 

 

 

 

   ◇◇◇

 

 

 

 

 

 俺の経営するホストバーの方針は結構特殊だ。それはそうだろう。ホスト俺だけだし。そのため、一度に相手できる人数は限られている。

 

 だが一夜に相手するのが数人だけでは効率的な金の稼ぎ方とは言えない。ホストバーで効率的な稼ぎ方とは中々に違和感のある言葉だが、それはともかく。

 ターゲット層が貴族などの金持ちで、高級な酒類や食事を必要とするホストバーでは、ランニングコストが膨大だったのだ。

 

 お得意様の存在だけには頼れない。できればもっと多くの女性を相手にしたい。正直にいうならばもっと酒池肉林したい。

 俺がそんな不満を少しこぼしたら、そこでマリーが気を利かせてくれた。そうして現在では時間制で利用するやり方が決定された。

 

 俺と遊ぶ時間を事前に決定し、その時間だけ俺との交流が可能。延長は待たせているお客様がいない時にだけ可能となる。

 

「ゲ、ゲール様! お待ちを——」

「ごめんねみんな、また今度!」

 

 そういったシステムでうちは経営している。そして彼女たちが買っていた俺の時間は、残念なことにそう多くはなかったようだ。

 金が足りなかったのか。あるいは単純に予約可能な時間が少なかったのか。裏方のマリーなら知っているだろうが、俺は知らない。

 

 引き止める声を無理やり払う。ギリギリ怒られない範囲で俺をこの場所に留めようとしていたが、それに付き合うのもそろそろ限界だ。

 元日本人としての気質か、純粋に俺の性質かは不明だが、俺は時間をちゃんと守りたい人間だ。人を待たせるのが申し訳なく感じてしまう。

 

 そんなわけで部屋から退出し、逃げるようにできる限りの距離を取った。

 俺の見立てによるとあれは痛客にかなり近い。変に希望を持たせると大事になる。さっさと去ってしまうのが彼女たちのためにもなるだろう。

 

「お疲れ様です」

「ああいや、楽しかったよ」

 

 そうして控え室、または楽屋に戻るとマリーがそこで待っていた。相変わらずの無表情で感情が伝わってこないが、労いの気持ちは多分あるはずだ。

 

 しかし、反射的に楽しかったと言ったが、彼女たちとの会話はあまり楽しくなかったかもしれない。

 以前までの三人は金払いも良く注文も積極的だったのだが、今回は控えめにおつまみとワインを少しだけ頼んでいた。

 

 それはいい。持ってきた金額が少ないのは別に全然構わない。問題は金の少なさを気にして、心の底から楽しんでくれなかったことだ。

 金を盗んできたとも言っていたか。それもあってか余計なことを考えていたらしい。なんだかぎこちない時間はあまり楽しく感じられなかった。

 

 いや、それは俺のホストとしてのレベルの問題なのだろうか。そんな不安も消し飛ぶような話術があれば場を楽しくできたのだろうから。

 そう考えると自分の無力に少し鬱になる。俺としては女の子と遊びたいだけだったのに、仕事となると、責任というものが付いて回る。

 

 俺を叱る人はいないのに、あるいはいないせいか、自己嫌悪がぐるぐると頭の中で止まらなかった。

 

「次のお客様がお待ちです」

 

 マリーが口を開く。意識が現実に戻ってきてハッとする。乱れていた心身を正し集中力を取り戻す。お客様の前で無様は晒せない。

 

「次は誰かな?」

「初めての方です。塩の取引を成功させたとかで、不遜にもゲール様に——」

「行ってくる」

 

 マリーはたまに俺をどこまでも持ち上げた言い方をする。俺はそれが気に入っていないので、控え室からさっさと出ていく。

 楽屋から出て先程の一室があった方向とは逆方向に進んで、しばらく言った先にその部屋はある。ノックを三回して招かれたので部屋に入る。

 

 商人の女と付き添い二人。俺の顔を見ると全員が息を呑んだ。そして呼吸が正常に戻ると同時にベタ褒めが始まる。どうやら俺の顔がお気に召したらしい。

 

 そこから話をした上で一番驚いたのは、一緒に仕事をしないかと誘われた事だった。

 意外にも、というか。想像もしなかったが美しい顔というのはどこでも得をするものらしく、商人向きと言われた。褒められているのだろうか。

 

 酒を頼んでラッパ呑みをすると、途端に距離を縮めボディタッチをしてくるように。別に禁止ではないのだが、触り方がなんだかいやらしい。

 美貌が得をするという言葉を実践しているらしく、彼女たちは美人だ。しかしそれでも、美人からのセクハラで喜ぶ趣味は俺にはなかったらしい。

 

 数本飲んだ後に、支払い金額を見て顔を青ざめる。どやされるからここまでだ。そう言い残して商人たちとの一夜は終わりを告げた。

 リピーターになってほしくもなかったので、魅了の魔眼を使いもしなかった。彼女たちはまた来るといっていたが、どうなるか。

 

 楽屋へ戻る。触れられた箇所に何か違和感が残りながらも、シワを正して匂いを消すと元通り。準備完了と同時に質問。

 

「次の人は?」

「バザード家の奥方です。いつも通り、お一人で」

「……」

 

 覚えがある。ありまくる。先程の貴族三人の一人の実のお母様である。記憶が確かであれば、金を盗んだと言っていた子のお母様。

 

「……仕組んだ?」

「当初、予約の時間が被っていました。恐らく家の事情的に、二人揃って今日は空いていたのでしょう。なので時間帯をずらしました」

 

 淡々とした口調。親とその子が、同じホストに金を貢ぐ立場にいると知っても少しも揺らがず、マリーは事務的な発言を行なった。

 

 時々、本当に疑うのだが。マリーには心という機能が備わっているのだろうか。

 それがどれだけ歪なことか、父親がどう思っているのだとか考えないのか。考えた上でどうでもいいと、そう割り切っているのだろうか。

 

 俺は、そうは思えない。

 

「行こうか」

 

 静かな声で言った。なぜ静かな声だったかと聞かれれば、元気がないからとしか返せない。

 向かった場所は貴族娘三人の対処をした部屋だが、丁寧な片付けが行われ痕跡は何もない。関心しながら会話をスムーズに始める。

 

 そこでは様々な話が展開されたが、その大半は愚痴だった。仕事の調子に関してがそのほとんどを占めていたが、一瞬娘の話が出て肩が震えた。

 お小遣いの使い込みが酷い、貯金の大切さを知ってほしいと話していた。自分が今している浪費に対しては一体どう思っていたのだろうか。

 

 しばらく話し込んでいると、どうやらスッキリしたらしく少し落ち着いた。俺にできるのは寄り添うことだけだった。

 いつも通りに魅了の魔眼を使う。俺に心の弱い部分を見せて、安心し切った様子の顔は、夫でもない俺が見ていいものではなかった。

 

 人妻のヤケ酒に付き合い、静かになって寝息を立て始めたあたりでお開きとなった。彼女の付き添い人に引き渡すと、そのまま馬車に乗せられた。

 

 控え室に戻り、一息つく。確認したところ休息時間は多くあったので考える時間ができた。

 彼女は知らなかったようだが、娘が家の金を勝手に盗んでいると知ったらどうなるのだろう。勘当されることもあり得るのだろうか。

 

 もしかすれば。いや、もしかしなくても俺から伝えるべきことだった。犯罪をしたのなら怒られなければならないのだから。

 あの子は両親と話す機会が少なく、それを気にしていた。怒られるというのは一種の契機となり、彼女がホストを脱却する一助になるはず。

 

 いや違う。金を貢がせるのが目的だ。何をふざけたことを考えているのか。自分の目的というものを何か勘違いしているんじゃないのか。

 人間だった頃の苦しさを思い出せ。俺はもう嫉妬をする側じゃない。全てを手に入れたんだ。もっと多くの金を手にれなければ。

 

「……?」

 

 金。金が目的か。違う。完全に違うわけではない。だが金は手段でしかない。金で何がほしいのか、重要なのはそこだ。

 酒、ではないだろう。あればいいが、絶対的に優先される事柄ではない。では女とか。ああ、確かに俺は女好きだし、それで間違いない。

 

 だが、その願いは今叶っているのか。何も考えずに抱きまくるようなことはできていない。それどころか悩まされてすらいる。

 これでは、なんだ。あれみたいだ。責任があって、胃が重くなる感じの、あれ。現代人がみんな揃って、嫌がりながらやってるあれ。

 

 仕事、仕事みたいだ。違うのに、これは俺が幸せになるためにしていることなのに。女の子と遊びたいだけで始めたことなのに。

 

「次」

「今晩最後のお客様です。初めての来客ながら、すでにアフターのご利用を決めて——」

 

 立ち止まるわけにはいかない。例え嫌になっても、仕事だ。まだ仕事は終わっていない。いや違う、仕事じゃない。

 俺の欲望を満たすためだけの、仕事、じゃなくて。趣味と実益を兼ねた、実益、金、仕事、じゃなくて。楽しい場所での、仕事、じゃなくて。

 

「行かなきゃ」

 

 もう、仕事でもいい。責任があってもいい。だが、その代わりをよこせ。給料代わりの報酬を俺に。

 

 女の子との、楽しい感じの、幸せな、ずっと望んでいたもの。俺の夢。幸福。

 他の何より俗っぽく、欲望を満たすもの。アフター希望がいてくれてよかった。幸せな時間を過ごすことがようやくできる。

 

「楽しみだなぁ」

 

 全く心がこもらない一言。刹那の快楽。以前の自分では想像することが限度だった火遊びができるのに。楽しくなるに違いないのに。

 

 心がどこまでも重くなる。不思議な話だ。俺は幸福に満ち溢れているのに、鼻歌を歌いたくならないし、踊り出したくもならない。

 静かにじっとしていたい気分。でも、お客様を待たせているから、それはできない。金に付随する責任が俺の休息を許さない。

 

「楽しみ、楽しみ」

 

 廊下を歩きながら、俺の思考の全てはどんな快楽を体験するかで埋め尽くされていた。

 曖昧だったイメージの方向性が定まり、蹂躙するような無理やりの行為が頭の中で想像される。悪い笑みが俺の顔に浮かんだ。

 

「あぁ、ようやく、幸せに」

 

 扉の前に到着する。マリーから聞いていた部屋番号と間違いがないことを確認するまでもなく、無意識のうちに俺はノックをしていた。

 

「……どうぞ。お入りください」

 

 勝利を確信。内なる感情とは相反した丁寧な動きでドアノブに手を掛け開け放つ。

 部屋の中にいたのは二人の少女。その少女二人の顔を一人ずつ見ていこうとしたがそれは叶わなかった。目を向けた一人目が俺の意識を奪ったからだ。

 

「初めまして——」

 

 目が合った。

 

 部屋に置いてある椅子に座らず、背筋を正しく伸ばして佇む女。その服装は全体的に白く、首から垂らす十字架がその女の役職を証明している。

 

 人々に祝福を授ける聖なる神に祈りを捧げるもの。魔に連なるものを排除する剣であり、守護を担う盾でありながら、人々の傷を癒すその役割。

 神官。魔を祓うもの。吸血鬼の天敵どころか、あらゆる魔の天敵であるその存在。場にそぐわぬその女には、当然ながら別の目的があった。

 

「——さようなら」

 

 十字架を握りしめるという僅かな動作。祈りが捧げられる。

 聖職者に与えられる聖なる力、それを使用して発動される祝福術。その動作を読み取った俺はすぐさまに対抗手段の魔術を起動。

 

 命に数ある形があるように、命にも等しい聖なる力は数ある形へと変わることができる。剣にも盾にも姿を変える祝福術への対抗手段。

 魔術によって障壁を生み出すことはできる。だが、それはスマートではなく美しくない。魔術とはもっと効率的に扱うもの。

 

 敵手は速攻を選んだ。ならば聖なる力を変質させる時間すらも惜しむはずだ。聖なる力というのは、ただそれだけで魔を滅するに事足りる。

 変質しない状態の聖なる力は光の形態を取る。女は聖なる力を光のまま扱おうとしているのだろう。なら手玉に取るのは簡単なことだった。

 

 一部の吸血鬼に伝わる秘術。聖なる力への対抗手段として生み出された一つ。

 

 光を逸らす——霧の魔術。

 

 魔術式を指先にある宙空に生み出し、そこから発生した濃霧が俺と神官を隔てる。

 十字架を触媒に放たれた祝福術は吸血鬼への特効となる一撃となっただろうが、残念なことに光線は霧によって拡散して部屋中に飛び散った。

 

 対処完了と同時、霧の魔術に掛けた細工を利用するため霧を充満させていき、部屋中を霧で満たそうとして。

 

「えっ」

 

 一人の少女。神官の仲間であろうその少女の姿が、霧で姿が隠れる前に一瞬だけ見て取れた。そのために分かったのは大まかな風貌のみ。

 

 場所に合わせたドレスコードは、少女を飾り立てる綺麗なドレス。黒髪に合わせて落ち着いた暗めの色を使った逸品。

 それに似合わず帯剣しており、腰に鞘を付け右手をその柄から離さなかった。そのことから武芸者の一人であることがわかるだろう。

 

 だが何よりも、顔が気になった。どこかで見た覚えのあるようなその顔が何より印象に残る。

 

「これは……! 近づかないで、迷いの霧よ!」

 

 思い出すのに十分な時間はあった。

 

 吸血鬼は呪われている。日光を浴びるとダメ、銀に触れるとダメ、ニンニクがダメ。鏡に映らない、流水を渡れない。

 数々の呪いが吸血鬼には掛けられている。そのため吸血鬼は呪いをよく知って対応する必要があり、その過程で吸血鬼は呪いを扱う方法を知った。

 

 霧の魔術には呪術が仕込まれている。神官が看破した通り、これは迷いの霧だ。

 とある森に漂っていたこの霧は、中に入った生物の感覚を狂わせ道を迷わせる。俺が使っているのはその霧を呪術で再現したものだった。

 

 迷いの霧の中で下手に動けば、攻撃対象を間違える可能性がある。攻撃を封じられれば身を固める選択を取るのは自然なことだろう。

 

 そのため時間はあった。一瞬見えたあの少女とどこであったのか考える。というか本当は、それしかないという確信があるのだが。

 だって、いつも見てきた顔だ。今世ではなく、前世で何度もその顔を見た。昔から見てきたんだ。それを間違えるはずもない。

 

「大丈夫」

 

 声が響く。少女の声。覚えのある声が。

 

 霧の奥で何かが輝いている。俺はそれをぼんやりと眺めていた。思考で手いっぱいの俺には、それを見てどうこう動く余裕がなかった。

 

 しかしすぐにその異常に気づいた。ありえないことだったのだ。霧の魔術はただの霧じゃない。聖なる力に対抗するためどんな光もねじ曲げる性質がある。

 こちらにまっすぐ届くその光は明らかにおかしい光だと言えた。しかし気づくのが遅かった。体勢を僅かに動かすのが俺にできる反応の限界で。

 

「——ぶった斬れるから」

 

 光が線形——斬撃の形を取る。

 

 霧が切り裂かれる。魔術と呪術の混合された中々に厄介な代物であるはずの霧が、相当な暴風でも晴れぬ俺の傑作が、まるで冗談かのように。

 その光が、止まらなかった。霧を断ち切った斬撃は見たところある程度のリーチを持っている。反射的に姿勢を下げた俺の肩に斬撃が届いた。

 

 痛みと同時に表現しづらい熱さを感じる。聖なる力に特有するその反応により激痛が走った。だがそんなことなんてどうでも良かった。

 痛みも苦しみもあったが、そんな些細なことは頭によぎって消え去った。俺の思考は今の攻撃を放ったと思われる下手人に埋め尽くされている。

 

「……なんで」

 

 転生したこの世界では、大抵の人間が子供の教育に悪そうな髪色や目の色をしていた。そんな中で、黒髪というのはほとんど見ない。

 

 その上で目も黒いのなら相当だ。何が相当かって、日本人的特徴として。

 もし、もしもの話だが。転生ではなくて、転移的な過程を踏んでこの世界にやってきた日本人がいたら、そいつは黒髪黒目に違いない。

 

 なら、やっぱり、そうなんだろう。

 

 剣を鞘から抜き放った少女。特異とすら言える斬撃を放ったその剣も普段ならば興味深い逸品だが、今は目にも入らなかった。

 俺の視線を奪ったのは少女の存在。霧が晴れたからその姿を存分に眺められる。俺はやはりその少女に、その顔立ちに覚えがあった。

 

 少女の特徴を挙げるなら、黒髪で、黒目で、優しく穏やかながらも活発で、更には学力優秀な、本当に心の底から自慢できる家族。

 ゲームの類を積極的にはやらないが、誘うと笑顔で混ざってきて遊ぶ。常に明るく、食事中は静かな俺に話題を提供してくれて本当に偉いし可愛い。

 

 その少女を、俺はよく知っていた。

 

「待て、待って——里香!」

「……馴れ馴れしいな、何」

 

 傷口を癒す時間稼ぎでもなく、本当に会いたかった存在を前に俺は口を開く。

 随分と冷たい態度に変化を感じて、悲しさと嬉しさを覚える。それでも返答してくれたことが、久しぶりに会話できたことに喜びを感じた。

 

 あちらは俺の正体に気づいていないようだ。それも当然のことだろう。変わってしまった度合いで言えば俺の方が余程だと言える。

 

 感動に震えながら、涙を流しながらも、俺は自分の名前を妹へと伝えた。

 

「俺、俺だ——秋津金波。お前のお兄ちゃんだよ!」

 

 

 

 

 

   ◇◇◇

 

 

 

 

 

「……お兄ちゃん?」

「そう、そうだよ! 俺だ!」

 

 首を傾げてこちらを見る里香。俺が何を言っているのかわかってなさそうな顔だ。可愛い。

 

「え、いや……え? 嘘」

「俺、俺、俺だよ」

「オレオレ電話?」

「違うって、マジで本当に俺だって」

 

 まあ、疑われるのは当然の話だ。今の俺の顔がどういう面なのか正確にはわからないが、少なくとも前世の俺はイケメン扱いされていなかった。

 そんな顔したやつがお兄ちゃんを名乗るのは、流石に信用できない。もし俺が里香の立場だったら狂人を見る目をしていただろう。

 

「お兄ちゃん……え、お兄ちゃん……?」

「確かに信じにくいことだと思う。正直俺も、なんでこうなったかよくわかってないし」

 

 転生。そうとしか表現できない。死んだと思ったら吸血鬼の赤子になっていた。そのまま成長していって今の俺がある。

 俺にわかっていることはそれだけで、どうして転生なんてことが起こったのかは不明。前世の記憶だけが俺が俺であることを保証する。

 

 だが、俺は俺のままだ。吸血鬼にはなったが、自認的には人間のままである。

 

「……イケメンになってる」

「それは、あぁっと……ありがとう?」

「どう、いたし、まして……?」

 

 どうやら里香は、顔から声まで何もかもが違う俺に違和感を感じているらしい。そのせいで俺たちはなんだかぎこちない会話をしてしまう。

 

「ごほんっ……それで、信じてくれるか?」

「いや、ちょっと待って。急展開で頭が——」

「——そこまで」

 

 光線。祝福術による変質はなし。実態を持たない光が攻撃として放たれた。

 

 魔術を習った師からの教えで、俺は瞬間的な魔術の行使には慣れている。今度は部屋を覆うのではなく、局所的に霧を集中して発生させる。

 先程は霧の中を通った光を部屋中に拡散させたが、妹に当たると危ない。光に与える指向性には気を払いながら光線を無力化した。

 

「吸血鬼の言葉に耳を傾けてはなりません」

「え、いや、俺兄貴なんだけど」

「信用できません」

 

 対話を根本から拒否されてしまった。まあ確かに、今の会話は人を誑かす悪魔の誘いっぽかったけどさ。家族を騙るのもらしいし。

 頭を悩ませる第二の問題に、俺は魔術で発生させた霧を消しながら顎に手を添えた。どうすればこの神官に証明が可能だろうか。

 

「里香、なんか家族だけの秘密とか思いつく?」

「ちょっと待って、今考える」

 

 里香は俺と同じように顎に手を添える。今思えば、その癖は俺の真似だったのかもしれない。

 

「……私の誕生日!」

「十二月十二日だろ?」

「合ってる……本物だ!」

 

 途端に顔に笑顔を浮かべて、里香は俺に抱きつこうとしたのだろうか。一歩を踏み込もうとして、それを神官の女が横から防いだ。

 そして俺を睨みつける。それは決して友達の兄へと向けるような目つきではなかった。不倶戴天の天敵にのみ向ける目だ。

 

 つまり、魔に連なるものへと向ける目。

 

「警戒を解かないで、リカ」

「なんでよ、どう考えても本物じゃん」

「『仮面の悪魔』のことを忘れた?」

 

 神官が知らない名をこぼし、柔らかさを取り戻していた里香の目が暗さを秘めていく。

 

「記憶も心も、真実を保証してくれないの。もう、随分と思い知ったでしょう?」

 

 当然の話だが、俺は里香に攻撃する気はない。大事な妹に傷つけるなどもっての他だ。しかしその逆は、俺にとって話が変わってくる。

 里香は剣を手放していない。霧を晴らす斬撃を放ち終わった後も柄を離さずに握っていた。剣先こそ下を向けていたが、それも今やこちらに向いている。

 

「り、里香? 俺は、本物——」

「無視してください。声は聞かず、剣を持って」

 

 流れが変わっている。里香はどうしたというのか、信じ始めていた様子から一転した。その目つきは痴漢を見るかのように冷たい。

 

 里香は見つめている。視線の先は俺の顔ではなく、自らの斬撃により傷をつけた肩だ。

 吸血鬼が持つ力の一つ、再生能力が効果を発揮していた。傷口の内部から血が這いずり出てきて、皮膚を模して赤色で覆う。

 

 そして血が固まると、その血は剥がれ落ち、その下には血色の悪そうな白い肌が。生物的ではない怪我の修復を見届けると、里香は呟いた。

 

「吸血鬼……」

「その通り、人間ではありません。あなたのお兄さんはあんな化け物ではないはずです」

 

 無言で睨み合う時間が続く。両方ともが相手の顔を見ていたが、何を思って相手に視線を投げ掛けているのかは大きく違っているだろう。

 俺は親愛と少し不安の混ざる視線を向けて、神官の女は敵愾心一色の視線を向けていた。里香は果たしてどんな思いでこちらを見ているのか。

 

 その状況下で先に口を開いたのは、里香だった。

 

「お兄ちゃん」

「……なんだ」

「女の子を騙すのは、楽しい?」

 

 愛情を少しも感じさせない里香の目。しかし、そこにはどこまでも激情が詰まっている。

 声が出なかった。何かを喋ろうとして、喉の奥から低い声が漏れ出る。一度深呼吸を挟み、それから俺は苦し紛れに言葉を出した。

 

「楽しくなんて、ないよ」

「じゃあ、なんでこんなことやってるの?」

 

 なんでこんなことをしているか。最初は自分の美貌を使って少しナンパしただけだった。そこから行けるとこまでやってみようと思って、現在に至る。

 驚くほどに理由も何もない。金が足りずに仕方なくやってるわけでもなければ、悲しい過去があってこうしているわけでもない。

 

「……つい、ノリで?」

「そんな適当な理由で? 馬鹿みたい」

 

 深い失望が向けられる。何も言い返せない。全てにおいて悪いのは、他でもないこの俺なのだから。

 

「やっぱり、偽物か」

「里香……! 信じてくれ、俺は本物で——」

 

 返答はなく——返す刃だけがある。

 

 聖なる力を秘められた剣。迷いの霧を晴らすほどのそれにはどれだけの力が宿っているのか。

 避けなければならないとはわかっていた。しかし、心のどこかで里香が俺を攻撃するはずがないという思いがあって、俺の足を重くした。

 

 あまりにも甘すぎる。その目に宿る怒りと殺意を、俺はわかっていたはずなのに。

 

「——ガッ、アァッ!?」

 

 光の斬撃。袈裟斬りが俺の左肩から右脇にかけてを両断する。本来の剣のリーチを大幅に超過していた。祝福術が吸血鬼の体を焼き切る。

 

 今世どころか、前世を含めても味わったことのないような痛み。溶岩に体を浸したかのような熱が切り口に発生して思考を吹き飛ばす。

 肉体に走った痛みはあまりに酷かった。最悪なんて言葉じゃ表現しきれない。でも、それでも、俺の心の方がもっと痛かった。

 

「里香……!? やめ、やめて。痛い。こんなの、やだよ、やめてよ。痛いんだって」

「死んでないか。殺す」

 

 憐憫などなく、殺意は鋭く、容赦はない。家族へと向ける愛情など、そこにはなかった。

 

「やだ……! やめて! 俺、本当に俺なんだ。マジで嘘じゃないんだって! 本当に、本物!」

「ぶち殺す」

 

 絶望しかなかった。歯がガチガチと噛み合う。俺の罪を裁こうと執行者が歩み寄る。

 

 死ぬのが嫌だった。欲望を満たしまくるような生活をしていたはずなのに、未練がいっぱいあって仕方がなかった。

 痛いのが嫌だった。感じたくもないのに、吸血鬼の鋭敏な感覚は痛みを俺に伝えてくる。聖なる力による熱は気絶しそうなほどに苦しい。

 

 でも一番嫌だったのは、里香に俺がお兄ちゃんだとわかってもらえないことだった。

 死にたくない。こんな末路は嫌だ。里香が俺を偽物だと誤解したまま殺されるのは、本当に嫌だ。そんな惨い結末だけはごめんだ。

 

「死ね」

「——う、うおおぉぉぉ!?」

 

 剣が振り下ろされる。愛の鞭どころの騒ぎではない攻撃に対し、俺は生き延びるため力を行使。

 

 吸血鬼の能力の一つ——変化。

 

 自らの力を何十何百にも分け、細分化した体を別の形態へと変える。

 今回の場合は蝙蝠だ。飛行能力を持つ形態であり、逃亡においては随一の性能を誇る。分かたれた全身が数百の翼を持って部屋中を埋め尽くす。

 

 空振った剣を横目に羽ばたき。

 

「それは対処済みです」

 

 窓や扉からの逃亡を図ったが、それは突如出現した透明な壁によって防がれる。

 勢いを止められず蝙蝠と化した体が衝突し、触れた体が燃え上がるような痛みを覚える。間違いなく祝福術によって生み出された結界だった。

 

 俺の行動を最初から予測していたのだろう。吸血鬼の変化は戦闘に活用することは難しいが、こと逃走においては強力な効果を発揮する。

 吸血鬼を殺す上で最も気をつけるべき能力だろう。何せ逃してしまったら意味がない。変化に対処できなければ吸血鬼を殺すなど夢物語だ。

 

 惚れ惚れするほどの手際。祝福術を使う際に十字架を用いてもいる。優秀な神官だ。これで融通が効けば妹の友達として最高だったのだが。

 

「おいおいおい……! これは、やばい——」

「滅べ」

 

 言葉のレパートリーがどんどんと物騒になっていく里香に叱りたい気持ちがあったが、現実はそんなことを許してはくれない。

 

 百に及ぶ蝙蝠の群れを剣の輝きが照らす。それだけでどこか身を焼かれるような気がするのは、きっと気のせいなんかではないのだろう。

 霧を晴らした斬撃。あれをもう一度やるつもりだ。今の状況であれを食らうとどうなるか。消滅を免れるのは難しいだろう。

 

 変化の解除を選択肢に思い浮かべる。それには一度蝙蝠と化した体を一箇所に集める必要があるが、そうすれば回避や防御も可能だろう。

 だが、神官の女がいる。結界を発動させたままでもある程度の祝福術は行使できるはず。その瞬間に光線でも放たれれば終わりだ。

 

 しかし、蝙蝠の状態では何もできない。魔術も呪術もまともには使えない。攻撃も防御も回避もその全てが不可能な状態だ。

 

 完全に詰んでる。どうにもできない。

 

「——ゲール様ッ!」

 

 そんな時、扉が開け放たれた。

 

 給仕役のメイドであると同時、吸血鬼の眷属であるマリーだった。

 恐らくだが、彼女は眷属としての能力で主人の危機を察したのだろう。それで急いで駆けつけてくれたに違いない。

 

 俺はマリーに戦闘能力を期待したことがないため、鍛え上げたとか魔術を教えたとか、そう言った事実は存在しない。

 正直言って足手纏いではある。現状にマリーが参戦したところで犬死にするだけだ。ただ、その時予想外の出来事が起こった。

 

「嘘っ」

 

 扉に展開されていた結界が解除される。神官の女が驚きの声を上げた。

 

 これは一体どういうことか。マリーは吸血鬼の眷属であり確かに俺の血が体に流れているが、それを力として行使する方法を学んでいないはずだ。

 マリーが結界を解除したわけではないのか、ならば神官の女の方の不手際だろう。そこまで考えて、俺はその現象を理解した。

 

 この神官の女は、結界を部屋に沿う形で展開していたのだ。

 外殻としてこの部屋を結界に利用すれば結界の強度が増し、制御も簡単になる。それはある意味での最善だったが、それが今回は悪く働いた。

 

 マリーが扉を開けて外殻として利用していた部屋の形が変わってしまい、結界の根幹が揺らぎ結界を維持するのが難しくなった。

 

 今起きた現象のタネはそういうことだろう。そしてそれが意味するところは大きなチャンス。

 

「ナイスだ。マリー」

 

 逃げ場をなくして部屋を埋め尽くす勢いだった蝙蝠の全てを動かし、里香が攻撃を放つ前に扉からの脱出を行った。

 

「待ちなさ——」

 

 黒い奔流となって部屋から飛び出す。自らの失態をカバーするため神官の女が光線を放つのも構わずに体で受けて、この場から逃げ出した。

 

 その際に変化の一部を解除。蝙蝠の一部を集めて、人型を少しだけ取り戻す。

 腕だけを蝙蝠の群れから生やし、その手でマリーの手を握って連れ立った。この場にマリーを残せば酷い目に遭うだろうと確信していたからだ。

 

 廊下を駆ける直前に一度だけ里香の表情を確認し、予想通りの冷たい顔を見る。

 その事実だけが他の何よりも痛い。切り裂かれた体なんかよりもずっと悲しかった。何が原因でそんなに酷い視線を向けられるようになったのか。

 

「……」

 

 そうだ。全ての原因は一つだった。

 

 

 

 

 

   ◇◇◇

 

 

 

 

 

「ゲール様! 早く、早く逃げなければ!」

 

 マリーが必死に訴えてくる。俺はそれを横目で認識してから無視。

 

 変化を既に解除していた俺は、外へと逃げるでもなく楽屋へと移動していた。

 部屋の中央にある机を蹴飛ばしながら、俺は部屋の一点へと向かう。その前に立つと俺は毎日見る光景を視界に入れた。

 

 大鏡は沈黙のまま動かない。眼前に立つ俺の姿など目にも入っていないようで、それは楽屋の片隅だけを切り取って映し出す。

 

「……これの」

 

 現実の俺は鏡の前で自分の顔に手を当てた。大鏡はそんな様子を俺には見せない。

 

「これのせいだ」

 

 爪を立てる。綺麗やら美しいやら言われ続けてきた俺の顔に傷が生まれ、そして一瞬にして吸血鬼の再生能力で修復されていく。

 

「全部、全部、全部——!」

 

 より深く爪を突き入れる。皮膚を破り、肉を抉って血を掻き出す。

 吸血鬼の怪力は指先だけであっても強力で、俺の爪の先端は頭蓋骨にさえ触れた。しかし再生能力もまた強力ですぐに傷が埋まる。

 

「俺が煽てられて調子に乗ったのも! こんな最悪な仕事をするようになったのも! 里香から兄だと認められないのも!!」

 

 爪に呪いを込めていく。吸血鬼が吸血鬼を殺すための呪い。治らずの呪い。

 再生能力の邪魔が消え去る。痛みがより強く鮮明に感じられた。それだけの激痛であってなお、この心の痛みには遥か及ばない。

 

「この顔が——」

 

 止まることなく血飛沫が周囲に舞った。誰かの悲鳴がその度に反響する。

 縦横無尽に筆を走らせる画家のように、俺は吸血鬼の鋭い爪を動かした。原型の一つも残さぬように徹底的に上書きしていく。

 

「——全部悪いんだ」

 

 不思議なことにその行為には妙な快感が付随していた。

 今日一番の快楽ですらあったかもしれない。いや、それは言い過ぎか。愛しい妹との再会と比べれば些細な心地良さにすぎない。

 

 しかし、やはり気持ちいい。全ての悪の根源を断つというのはとてもスッキリする。

 

「見つけました!」

 

 俺がそうして悦に浸っていた時、乱暴に楽屋の扉が開かれる。

 その音に反応してそちらへと向き直り、俺はとある事実に直面した。それは今の行動が楽しすぎて見逃していた現状である。

 

「君は……神官の子か。里香はそこに居る? 困ったことに——何も見えなくてさぁ」

 

 至って当然の話。俺は顔面を切り裂くのに夢中で、加減や遠慮なんて考えてなかった。

 そのため眼球も諸共に破裂している。今の俺に視力など少しも残っていない。聴覚は無事だが、知覚する手段はその程度しかなかった。

 

「安心して。ちゃんと居るよ、吸血鬼」

 

 里香の声が聞こえてくる。その冷え切った声からは俺をお兄ちゃんと認識していないことが、痛いほどによくわかった。

 

「里香! これじゃダメか? 今の顔は捨てたよ。これでも信じてくれないか?」

「……それがなんの保証になるの」

「ああ、そうだよな。わかる。わかるぜ。こんなの信用を得る第一段階に過ぎない。お兄ちゃんの証明にはまだまだ足りてないよな」

 

 里香の目は冷え切っている。その敵視に言葉を届けるのは困難を極めるだろう。そんな現実と相対してもなお、俺の心は上向いていた。

 

「大丈夫。大丈夫だよ、里香。お前にお兄ちゃんを殺させるなんて、そんなことにはさせない」

「さっさと死ね」

 

 もはや言葉を交わす気すらないのか、里香は躊躇いの一つもなく剣を振った。

 聖なる力によるリーチの拡張。霧の魔術を喰い破る恐るべき斬撃。どうすれば対処できるのかなんて今でも何も思い浮かばない。

 

 しかし、それらはすべて防ぐならの話だ。

 

「なっ——」

「顔は変わって、体も変わった。元のお兄ちゃんと見分けるなんて不可能だろう」

 

 軽いステップ。ダンスにも似た動きだけで、簡単にその斬撃を回避。

 

 吸血鬼の身体能力と知覚能力は人間を凌駕する域にある。今の俺は視力を失っているが、それでも耳と肌を駆使すればこの程度は可能だった。

 いや、やってみればできたという感覚が強い。俺は視力を失ったというのに、なぜだか全身の感覚がより鋭敏になっているようだ。

 

「でも、何もかも変わったわけじゃない」

 

 斬撃を躱しながら、急激に接近する。切り裂かれた眼球では何も見えないが、里香の顔を覗き込むように間近まで。

 

 瞬時に後退りした里香はそのまま剣を振る。里香がその際に嫌悪感の滲んだ顔をしていたのでショックを受けたが、それはそれとして剣は避ける。

 神官の女も祝福術を何度か放ってきているが、どうにも感覚が冴えて当たる気がしない。俺はこんな回避能力を持っていなかったはずなのだが。

 

「心も、記憶も、全部ここにある」

 

 疑問に思いつつも、俺は二人から距離を取って自らの心臓を指差す。

 

 里香の身に何があったかはわからない。俺は転生して肉体が変わったのに、里香はどうして前世の肉体のままなのか。

 先程神官の女が口にした『仮面の悪魔』とは一体誰のことなのか。どうして里香は剣を手に戦っているというのか。

 

 聞きたいことなんて無限にあるが、俺をお兄ちゃんだと証明しなければそれもできない。

 

「俺は、何があってもお兄ちゃんだから——」

 

 だから、ここは一時撤退。

 

 逃走に使うのはこれまた霧の魔術。しかし目眩しに使うのは不可能だ。里香の剣が俺の霧の魔術を切り裂けるのは一度見た。

 しかし、霧の魔術にはいくつもの応用がある。その一つを使えば現状を変えるくらい簡単。俺は部屋全体に一度視線を走らせる。

 

 楽屋の出入り口は一つしかないため、里香と神官の女の攻撃を避けて出なければならない。俺だけならばいけるが、マリーと一緒だと困難だ。

 というか、里香も神官の女もマリーに一度たりとも攻撃をしていない。そんなに俺を脅威として重く見積もっているのか。少し落ち込む。

 

 しかし、俺しか見ていないのであれば。逆に脱出は容易かもしれない。

 

「——探してくれ、俺の魂を」

 

 口を閉じてから、俺は両手で顔を覆った。

 

 確認する方法はないが、酷い痛みがその無惨な様を伝えてくる俺の顔。そこからは依然として鮮血が流れ落ちている。

 当然ながらそこに触れた俺の手は赤く染め上がり、白い肌に痛々しい色としてよく目立った。そしてその血はただの血ではない。

 

 吸血鬼の血は呪われており、呪術の触媒として最高級の素材である。

 それを使って霧の魔術を発動。そうすれば本来濃い霧となるはずの魔術は、赤黒い血を思わせる霧を発生させた。

 

 当然ながら違うのは色だけではない。その用途も、根本から違っている。

 霧の魔術は本来撹乱や撤退、祝福術に対する防御のための魔術だ。しかし、俺の切り札であるこの赤色の霧はまた別の目的で編み出した魔術。

 

「それまでは、一度距離を置こうか」

 

 里香と神官の女の攻撃を避けながら、マリーの手を握って楽屋の壁まで下がる。そしてその壁へと、赤い霧を叩きつけた。

 

 その時に響き渡った音をどう表現したものか。チェーンソーを木の幹に押し当てたかのような、ミキサーで物を撹拌したかのような音。

 つまりは削り、抉り、砕く音だ。赤い霧は楽屋の壁からその音を発生させている。一秒も経たない内に、俺の鋭い触覚は夜の冷たい風を感じ取った。

 

「また会おうぜ、里香」

「ッ! 待てッ!」

 

 トン、と地面を蹴り背後へ飛び込む。既に壁は跡形もなく消滅しており、俺の体は楽屋の外へ。位置的に二階から飛び降りることになった。

 

 太陽はとうに落ち、空は月光と星空の支配する暗闇へと移り変わっている。

 まさに吸血鬼の世界だ。俺は逃走するために変化を使って全身を数百もの蝙蝠へと変え、マリーの確保を済ませると高く飛び立つ。

 

「気色悪いこと言って、勝手に——」

 

 僅かに聞こえた里香の声を聞きながら、俺は蝙蝠の群れとなって夜の闇へと溶け込んでいった。

 

 




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