多重ダムから吹き荒れていた不穏な魔力と甘ったるい死臭は、激流の放水と共にすべて洗い流された。
闇派閥に占拠されていたこの巨大な要塞は、僕たちの戦闘料理によって、完全にその機能を奪還した。
事後処理のためにオラリオから駆けつけたギルドの職員たちへ、アイズさんは「……ベル、またね。今日の御礼、ジャガ丸くん(高級なやつ)がいい」とだけ言い残し、一足先に迷宮都市へと帰っていった。
残された僕とリューさんは、多重ダムの中央管制室で、現地の警備部隊との綿密な引き継ぎを終えた。操作手順、防衛線の再構築、そして先ほどのパティシエの残骸の撤去要請――すべてを淡々と、事務的に処理していく。
「――これで、全ての引き継ぎは完了ですね、クラネルさん」
書類をギルド職員に手渡し終えたリューさんが、ふう、と小さく息を吐いた。その空色の瞳には、激戦を潜り抜けた疲労と、それ以上の深い安堵が滲んでいる。
「お疲れ様でした、リューさん。彼女の風があったとはいえ、あなたの迅速な対応がなければ、僕のレシピは途中で破綻していました。本当に助かりました」
「いえ……私は、貴方の『信頼に値する』という言葉を信じて動いただけです。それに、最後の最後まであの男の裏をかき、私たちを最高のタイミングで配置したのは貴方だ」
リューさんは少し照れくさそうに視線を外しながらも、僕を真っ直ぐに評価してくれた。
多重ダムの奪還も、ギルドへの報告も、すべては終わった事象だ。けれど、激戦を終え、僕のためにその身を挺して戦ってくれたこの気高きエルフには、料理人としてフルコースを用意する責任がある。
「リューさん。この後、もしお時間が許すのであれば、僕たちのホームへいらっしゃいませんか?」
「え……? 貴方の家に、ですか?」
唐突な誘いに、リューさんが目を丸くする。
「はい。今回は僕の腹に空いた風穴を塞ぐために、あなたの貴重な魔力を割かせてしまった。……戦闘料理人として、お客さんを飢えさせたまま帰すわけにはいきません。最高の素材を使って、僕の本当の『料理』を御馳走させてください」
いつも通りの平坦な、けれど確かな誠実さを込めた丁寧語で告げる。
「……私のための、料理、ですか」
リューさんは驚いたように自分の胸に手を当て、それから僕の白い髪と、すっかり止血された腹部を見つめた。彼女の耳が、ほんの少しだけ赤く染まっているのが分かる。
「貴方の作る『料理』……先ほどのような、世界を握り潰すようなものではなく、純粋な食事としてのそれには、確かに興味があります。――分かりました。不躾ながら、お言葉に甘えさせていただきます、クラネルさん」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、仕込みの甲斐があります」
僕は軽く一礼し、彼女を先導するように多重ダムの出口へと歩き出した。
黄昏に染まるオラリオの街並みが、遠くに見え始めている。さあ、戦場という歪な厨房はここまでだ。ここからは、僕を信頼してくれた彼女の心を真に満たすための、静かで温かいおもてなしの時間だ。
家にある僕の厨房は、多重ダムの冷たい石壁とは違い、焼き立てのパンとハーブの温かい香りに満ちていた。
「お待たせしました、リューさん。本日のメインディッシュです。――『旬菜と極上肉の包み焼き、特製ソース添え』」
僕が静かに皿を置くと、リューさんはその空色の瞳を小さく丸くした。
戦場で僕が見せた【寿司】の冷徹な破壊力や、【中華】の苛烈な『鍋気』とは対極にある、繊細でどこか家庭的な温もりのある一皿。
ナイフを入れた瞬間、閉じ込められていた肉汁とハーブの香気、そして素材の甘みが優しく溢れ出す。
「……いただきます」
リューさんは躊躇いがちにフォークを動かし、小さく一口、その端正な唇へと運んだ。咀嚼し、飲み込んだ瞬間、彼女の身体から戦士の硬さがすうっと抜けていくのが分かった。
「美味しい……です、クラネルさん。素材の味が、まるでお互いを引き立て合うように完璧に調和している。冷え切った身体の芯から、温かさが染み渡っていくようです」
「それは良かったです。これでお客様の魔力と体力の『補給』は完了ですね」
僕は自分の分の紅茶を淹れながら、いつも通りの平坦なトーンで応じた。美味しそうに料理を口にする彼女の姿を観測することは、料理人として非常に満足度の高い「結果」だ。
二口、三口と静かに食べ進め、スープで喉を潤したところで、リューさんはふと動きを止め、手元のカップを見つめた。
ランプの灯火が、彼女の薄緑色の髪を穏やかに照らしている。
「……クラネルさん。貴方は先ほどの戦闘で、あの男の『過去の失敗への執着』を見抜き、精神を解体しましたね」
「ええ。ネタ選別の応用です。人は誰しも、己の行動を縛るレシピを持っていますから」
「……私にも、あるのです」
リューさんは自嘲気味に、けれどどこか遠くを見るような瞳で語り始めた。
「私には命を懸けて守ると誓った『家族』がいます。アストレア・ファミリア。正義の女神の名の下に、都市の悪を断罪する志高き仲間たちです。最初は自分の正義こそが絶対であり、悪はすべて排除すべきだと、今のヴァレンシュタイン氏のように盲信的に戦っていました」
彼女の指先が、微かにカップの縁をなぞる。
「ですが、闇派閥の卑劣な罠によって……私は多くの仲間を失いました。少数を残して、皆、凄惨に殺されたのです。そして唯一戦えるレベルまで回復した私は、正義を見失い、ただ復讐という名の狂気に身を任せて敵を貪り尽くした。幸い、残った仲間のおかげで戻ってこれましたが、私があの男の歪んだ『保存』の思想を強く否定しくなったのは、かつての自分を見ているようだったからかもしれません。仲間を失った過去に囚われ、そこから一歩も動けなくなっていた自分を」
静かな厨房に、彼女の過去の重みがしっとりと沈殿していく。
彼女の失われた仲間も、かつての復讐劇も、すでに過ぎ去った歴史の塵に過ぎない。けれど目の前で悲しげに瞳を伏せる彼女の『今』には、確かな価値がある。
「リューさん」
僕は紅茶のカップを置き、彼女の空色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの過去がどれほど凄惨なものであれ、今日、あなたは僕の盾となり、アイズさんの風を繋ぎ、多重ダムを解放して人々を救った。それは過去の再現ではなく、あなたが今日、その手で新しく選び、意味を与えた結果です」
「クラネルさん……」
「過去を変えることはできません。ですが、これからの未来はいくらでも書き換えることができる。――少なくとも、今日のあなたの正義は、僕にとって素晴らしく、美しく、敬意を抱くものでした」
僕の、相変わらず抑揚のない、けれど料理人としての確かな誇りを込めた丁寧語に、リューさんはハッと目を見張った。そして、その綺麗な目から、一筋の涙が静かに頬を伝って落ちる。
彼女はそれを手袋の背で慌てて拭うと、今度は、今日一番の、年相応の美しい微笑みを僕に返してくれた。
「……本当に、貴方の言葉は、冷酷なようでいて……ずるいですね。ごちそうさまでした、クラネルさん。本当に、心が救われるようです」
一息ついて。
「世界はもう、とっくに汚染され尽くしている。僕たちはただ、辛うじて残されたこの大地にしがみつくようにして、明日の命を繋いでいるに過ぎません」
僕は静かに紅茶を啜り、窓の外に広がるオラリオの夜景を見つめた。
神々の恩恵があろうと、どれほど強大なファミリアが君臨していようと、この世界の根底にある残酷さは変わらない。
モザイク状に広がる街の灯りは一見すると美しいが、その光の数だけ、闇に怯え、飢え、不条理に泣く命がある。
「すべての人が、それぞれの事情という名の重いレシピを背負って生きています。それはアイズさんだって同じ」
彼女は『ロキ・ファミリア』という巨大な看板、そして周囲の過剰な期待という名の『保護者面』に縛られている。純粋すぎるがゆえに肥大化した彼女の破壊衝動は、組織の都合によって否定され、結果としてファミリア内でも不仲という歪みを生んでいる。
「リューさん、あなたも……闇派閥という、世界そのもののバグのような不条理によって、かけがえのないアストレア・ファミリアの仲間たちを失った」
僕はカップをソーサーへと戻した。カツン、と硬質な磁器の音が、静まり返った厨房に冷たく響く。その赤眼を、じっと手元を見つめるリューさんへと向けた。
「誰もが傷を抱え、泥をすすり、それでも必死に生み出そうとしている小さな希望がある。日々のささやかな日常、誰かを想う気持ち、明日への祈り。闇派閥は、それをただの愉悦や、破壊の美学のために、無残に、徹底的に踏み潰していく。そんな不味い結末を、僕は美味しい料理とは認められない」
「クラネルさん……」
リューさんは胸元を強く押さえ、僕の言葉を一つ一つ、自らの傷口に刻み込むように聞いていた。彼女の空色の瞳には、かつて奪われた仲間たちへのせつない哀惜と、それを引き裂いた闇派閥への静かな、けれどマグマのように熱い怒りが再燃している。
「だからこそ、僕は戦闘料理人として、この濁った世界に挑みたいのです」
僕は手袋をはめ直し、自らの胸に手を当てて、いつも通りの平坦な、けれどこれまでにない確かな熱を孕んだ丁寧語で告げた。
「料理の本質は、食べた人を笑顔にすることです。どれほど世界が汚染され、絶望に満ちていようと、僕の料理を口にしたその一瞬だけは、人は全ての苦痛を忘れて笑うことができる。味覚の悦びは、過去の呪縛すらも一瞬だけ融解させる。僕は、この戦場という名の厨房で、人々に『笑顔』という名の最高の一皿を届け続けたい。それを踏み潰そうとする不条理があるなら、僕の全てを以て切り開きます」
それが僕の、世界の天秤をひっくり返すための新たなレシピ。
寿司で一点を貫き、中華で面を制し、パティシエの箱庭を打ち砕く。そのすべての破壊の先に、僕は「笑顔」という名の、たったひとつのまともな結果を残したいのだ。
僕の独白が静かな厨房の空気に溶けていく。
リューさんはしばらくの間、魂を抜かれたように驚いた目で僕を見つめていた。しかし、その狼狽はすぐに消え、彼女の空色の瞳に、これまでになく純度の高い、迷いのない強固な光が宿っていく。
彼女は静かに席から立ち上がった。
ランプの光に照らされたエルフの細い身体が、背筋をすっと伸ばす。そして僕の前で、かつて主神アストレアに誓いを立てたときのように美しく、気高く、その頭を下げた。
「……素晴らしい志です、クラネルさん。貴方のその歪で、冷徹で、けれど誰よりも純粋な優しさを、私は心から肯定します」
リューさんは顔を上げ、僕の手をそっと包み込むように握りしめた。彼女の手袋越しからも、かつて正義を誓った戦士の、確かな力強い温もりが伝わってくる。
微かに震える彼女の声は、しかし鋼のような決意を孕んでいた。
「闇派閥がまた貴方の前に立ちはだかり、その希望を踏み潰そうとするならば、今度は私が貴方の剣となり、盾となりましょう。アストレアの正義を失い、復讐の血に染まった私ですが……今の貴方の言葉になら、この命のすべてを預けられる。――仲間として、貴方の『笑顔を届ける料理』を、全力でお手伝いさせてください」
「リューさん……」
僕の手を握る彼女の熱と、交わされた『仲間』という強固な契約は、この汚染された世界で何よりも確かに機能するのは尊いものだ。
「ありがとうございます。最高の相棒を得られました。これからの厨房は、少し賑やかになりそうですね」
僕は微笑んだ。戦闘料理人ベル・クラネルとして、この残酷な世界を最高のフルコースへと変えるための、新たなる一歩を確信しながら。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
今回はトンチキな世界観を理論的に使うというコンセプトでした。
それでは、また