朝になって、朱の騎士の館は静まり返っていた。
ただし、それは平穏の静けさではない。
砕けた扉。
裂けた敷物。
血を吸って黒ずんだ石床。
壁に残った刃傷。
廊下に転がる折れた短剣。
屋根から中庭へ滴り落ち、夜明けの空気の中で固まり始めた血。
帝都はいつも通り目覚めていた。遠くでは水売りの声がし、パンを焼く匂いが流れ、白い壁の路地を朝日が照らしている。
だが、キーツの館だけは、夜の戦場をそのまま抱えていた。
レリーエは寝室の奥で、メイエを抱いたまま座っていた。
メイエは眠っている。
泣き疲れたのだろう。時折、肩を震わせるように息を吸うが、それでも目は閉じていた。
キーツは寝室の入口近くに立っていた。
右腕の魔法の腕輪は沈黙している。
竜骨剣も、黒い刀身の剣も、氷の弓も、鞭も、今はその中に戻っていた。
だが、キーツの立ち姿だけで、この部屋の入口はまだ剣の間合いだった。
その時、門の方で杖の音がした。
こつり。
こつり。
血の匂いの残る館には、ひどく場違いなほど落ち着いた音だった。
キーツが顔を上げる。
砕けた玄関の向こうに、一人の若い男が立っていた。
黒衣。
細身。
年の頃はキーツと大きく変わらないように見える。
だが、その瞳は年齢よりも古かった。
手には長い杖。
樫とも黒檀ともつかぬ暗い木で作られた杖の先には、銀の輪と小さな黒石が嵌め込まれている。派手さはない。だが、そこに立つだけで、血の匂いの中に冷たい水を一滴落としたような気配がした。
若い魔術師は、館の有様を見回した。
眉一つ動かさない。
「フェーゼフ。早かったな」
キーツが言った。
黒衣の魔術師――フェーゼフは、長い杖を軽く床に突いた。
「君は相変わらずのようだ」
血の跡。
倒れたままの暗殺者。
砕けた扉。
寝室の中で眠る幼子。
その全てを見てから、フェーゼフは静かに続けた。
「厄介ごとに好かれている」
「好かれた覚えはない」
「向こうは熱心だ」
「迷惑だな」
「そういう顔をしていない」
フェーゼフは、かすかに肩を竦めた。
「君は、厄介ごとに好かれているというより、厄介ごとの喉笛を掴みに行く性分だ」
「噛まれる前に掴む」
「それを好かれていると言う」
キーツは反論しなかった。
フェーゼフの視線が、寝台の方へ移る。
レリーエはメイエを抱いたまま、警戒した目で彼を見返した。
黒衣の若い魔術師。
長い杖。
血の館に眉一つ動かさず入ってくる男。
信用できる理由など、まだ一つもない。
キーツが短く言った。
「味方だ」
「その一言で信用しろと?」
レリーエの声は低かった。
フェーゼフは少しだけ彼女を見た。
「信用しなくていい。今は、私の杖が君たちの側を向いているとだけ覚えておけばいい」
「……魔術師は、そういう言い方をするのね」
「剣士ほど単純には言えないのでね」
キーツが言った。
「移動する」
「どこへ?」
レリーエが問う。
「オルトレンの屋敷だ」
その名に、レリーエの眉がわずかに動いた。
「あなたの友人の?」
「ああ」
「なぜ」
「壁が厚い。金がある。人手がある。逃げ道もある。何より、あいつはこの館の持ち主だ」
レリーエが瞬いた。
「この館、あなたのものではないの?」
「オルトレンの家の別邸だ。俺に貸した」
キーツは血に濡れた廊下を見た。
「厄介ごとに荒らされるのは、計算の内だろう」
フェーゼフが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それを友人に言うのか」
「言う」
「君らしい」
キーツは気にしなかった。
「片づけもオルトレンにやらせる。死体、血、扉、屋根。全部だ」
「怒ると思うよ」
「貸したのはあいつだ」
「それはそうだが」
「俺に貸した時点で、血がつく可能性は織り込んでいる」
「君を借家人にするというのは、なかなか高い賭けだな」
「オルトレンは賭けで負ける男じゃない」
レリーエは、メイエを抱く腕に力を込めた。
「オルトレンを信用するの?」
「信用している」
キーツは短く答えた。
「商人としては?」
「信用しない」
「友人としては?」
「信用している」
レリーエは少しだけ黙った。
その答えは奇妙だったが、キーツらしいとも思えた。
「レリーエ、メイエを起こせ。必要な物だけ持て。服、靴、あの青い髪紐。食べ物はいらない」
「……分かったわ」
レリーエはメイエの肩を揺すった。
「メイエ。起きて。移動するわ」
「……姉さま?」
メイエはぼんやりと目を開けた。
泣き腫らした目で部屋を見回し、キーツとフェーゼフを見て、小さく身を固くする。
「この人、だれ?」
「フェーゼフ。魔術師だ」
キーツが答えた。
「魔術師……」
「今は味方だ」
メイエは少し考えた。
「今は?」
「今は、だ」
フェーゼフが微かに笑った。
「正直だな」
「嘘をつく理由がない」
「子供相手にそれを言うのは君くらいだ」
メイエはレリーエの袖を握りながら、フェーゼフを見た。
「悪い魔術師?」
「そう見えるかい?」
「黒い」
「それは服だ」
「杖が長い」
「短いと届かない」
メイエはまた少し考えた。
「じゃあ、悪いかどうかまだ分からない」
「賢い」
フェーゼフはそれだけ言った。
やがて一行は館を出た。
キーツが先頭。
フェーゼフが後ろ。
レリーエとメイエはその間。
外の路地には、朝の人々がいた。
だが、朱の騎士の館から出てきた一行を見て、誰も声をかけなかった。
キーツの服には血がついていた。
返り血。
暗殺者の血。
それだけで、路地の者たちは十分に事情を察した。
帝都の民は、首を突っ込むべき血と、見なかったことにすべき血を知っている。
キーツたちはそのまま、帝都の白い壁の間を抜けた。
市場の喧騒から少し離れた、商人たちの屋敷が並ぶ区画へ向かう。
そこに、オルトレン・ドミニアルの屋敷はあった。
でかい屋敷だった。
ただ広いだけではない。
高い外壁。
鉄鋲を打った門。
門の上には見張り台。
荷入れ口は狭く作られ、内側にもう一枚の格子門がある。
庭には水路が引かれ、白石の柱廊が続いている。商家の屋敷でありながら、いざとなれば小さな砦として使える造りだった。
門番はキーツを見るなり顔色を変えた。
すぐに奥へ走る。
ほどなくして、薄い上衣を羽織ったオルトレンが、眠たげな顔で現れた。
だが、キーツの血に濡れた服を見るなり、その目から眠気が消えた。
「……襲われた?」
「襲われた」
「大丈夫なのかい?」
「生きている」
「それは見れば分かるけれど、そういう意味ではなくてね」
「なら聞くな」
キーツは門を潜りながら言った。
「二人をしばらく置く」
「僕の屋敷に?」
「ああ」
オルトレンは一瞬だけレリーエとメイエを見た。
次にフェーゼフを見る。
「黒杖のフェーゼフまで連れてきている。つまり、ただの暗殺者騒ぎではないわけだ」
「セイラムが来た」
「香薬商会か」
「夜に暗殺者を入れた」
「それで?」
「全部斬った」
「だろうね」
オルトレンは深く息を吐いた。
「君は本当に、買った喧嘩を値切らない」
「向こうが先に値を付けた」
「百二十デリアスかい?」
レリーエがぎょっとしてオルトレンを見た。
オルトレンは肩を竦めた。
「昨日の路地の話はもう聞いている。僕の耳は安くないからね」
「なら話が早い」
「早すぎて胃が痛いよ」
オルトレンは門番に命じた。
「門を閉めろ。外の使いは止める。荷入れ口も閉じろ。内庭側の部屋を空ける。古い者だけ残せ。新入りは外へ出せ」
キーツが頷いた。
「分かっているな」
「分かっているよ。僕は君ほど剣は振れないが、屋敷を潰される趣味はない」
フェーゼフが静かに言った。
「水路も塞いだ方がいい」
「もう言うつもりだった」
「地下の倉は?」
「二つある。片方は封じる。もう片方は逃げ道として残す」
キーツが言った。
「逃げ道は一つでは足りない」
「君がそう言うと思って、三つ作ってある」
「なら二つ潰せ」
「なぜ」
「多すぎる逃げ道は、敵の入口になる」
オルトレンは一拍置いて、苦笑した。
「まったく、君はこういう時だけ口が回る」
「必要だからな」
「知っている」
レリーエは、そのやり取りを黙って聞いていた。
オルトレンは軽薄で、口が悪く、昨日は彼女を平然と傷つける言葉を投げた男だ。
だが今、この屋敷は動いている。
門が閉じられ、使用人が絞られ、水路が塞がれ、逃げ道が確認される。
それは彼が、少なくとも事態の重さを理解している証だった。
オルトレンはレリーエへ向き直った。
「君とその子は、内庭側の部屋へ。窓は高い。扉は二つあるが、片方は塞がせる。食事は僕の目の届く台所から出す。毒見もつける」
レリーエは低く言った。
「毒を入れないと言わないのね」
「入れないという言葉を信じるほど、君も愚かではないだろう。だから毒見をつける」
「……嫌な人」
「生き残るには便利な嫌さだよ」
キーツは言った。
「俺の館の片づけも頼む」
オルトレンが目を細めた。
「君の館、ではなく、僕の別邸だ」
「だから頼んでいる」
「頼む、という顔ではないね」
「やれ」
「ほら、命令になった」
「貸したのは君だ」
「貸しただけで、暗殺者の血で床を染めるとは聞いていない」
「俺に貸した」
キーツは当然のように言った。
「厄介ごとに荒らされるのは計算の内だろう」
オルトレンはしばらく黙った。
そして、諦めたように額を押さえる。
「……否定しづらいのが腹立たしいな」
「なら頼む」
「分かった。別邸の片づけも僕がやる。死体、血、扉、屋根、床、全部だ。口の堅い者を送る。近所には、盗賊が入ったが朱の騎士が叩き潰した、とでも流しておく」
「盗賊ではない」
「だからこそ、盗賊にするんだよ。暗殺者が入ったと知れれば、次は見物人と役人と余計な商人が来る」
「任せる」
「都合のいい時だけ商人を信用するね」
「友人として頼んでいる」
オルトレンは少しだけ笑った。
「なら十分だ」
キーツはフェーゼフを見た。
「フェーゼフを守りに置いていく」
オルトレンの目が黒衣の魔術師へ向く。
「心強いね。心強すぎて、僕の屋敷が戦場になる未来が見える」
「すでに片足は入っている」
フェーゼフは言った。
「なら、せめて門を閉めることだ」
「閉めているよ。胃も閉まりそうだ」
オルトレンはそう言いながらも、動きに迷いはなかった。
キーツは言った。
「二人を頼む」
「頼まれよう」
オルトレンは珍しく、軽口を挟まずに答えた。
「ただし、貸しだ」
「つけておけ」
「君からの貸しは高く売れる」
「売る相手を間違えるな」
「そこは商人を信用してくれ」
「商人としては信用しない」
「友人としては?」
「頼んでいる」
オルトレンは少しだけ笑った。
「なら十分だ」
キーツは踵を返した。
レリーエが一歩前に出る。
「あなたは?」
「俺は売られた喧嘩を買ってくる」
オルトレンが一瞬、意味を取りかねた顔をした。
「うん?」
キーツは淡々と続けた。
「自分たちが襲う側で、襲われるはずもないと思っている奴らに、襲われる恐怖を味合わせてくる」
屋敷の空気が止まった。
オルトレンの顔から、商人の笑みが消える。
フェーゼフだけは、やはりという顔をした。
「一人でかい?」
オルトレンが問う。
キーツは首を傾げた。
「ついてこれる奴がいるのか?」
「それは、うん。そうだね」
オルトレンは納得してしまった。
レリーエが言った。
「どこへ行くの」
「セイラム香薬商会」
「殺すの?」
「必要なら」
「必要じゃなかったら?」
「膝を折らせる。誰の命で動いたか吐かせる。吐かないなら、吐ける者を残して他を斬る」
レリーエは息を呑んだ。
だが、止める言葉は出なかった。
止めれば、次はメイエが奪われる。
そういう相手だと、もう分かっていた。
「……帰ってくるのよね」
それは姉としての問いではなかった。
母としてでもない。
レリーエ自身の声だった。
キーツは少しだけ彼女を見た。
「戻る」
「簡単に言うのね」
「戻るつもりで行く」
「戻れなかったら?」
「フェーゼフがいる。オルトレンは自分の屋敷と商会の名が惜しい。二人を売らない」
「僕の信用が妙な形で成立しているね」
オルトレンが小声で言った。
キーツは無視した。
「それでも駄目なら、北の森から手が来る」
「……あなたは?」
「俺は俺の喧嘩をする」
レリーエは唇を噛んだ。
言いたいことはあった。
だが、昨夜からずっと、キーツは自分たちの前に立っていた。
今度は、自分たちから火元を遠ざけるために出ていく。
それを止める名分を、レリーエは持たなかった。
メイエが眠そうな目でキーツを見上げた。
「キーツ、また怖い人たちのところに行くの?」
「ああ」
「勝つ?」
「勝つ」
「じゃあ、帰ってきたら串焼き食べる?」
その言葉に、周囲の大人たちが一瞬だけ黙った。
キーツは小さく頷いた。
「食べる」
「約束」
「ああ」
メイエは満足したように頷き、レリーエの服を握り直した。
フェーゼフが静かに言った。
「キーツ」
「何だ」
「殺しすぎるな、とは言わない。だが、証人は残せ」
「分かっている」
「それと、元老院の名を軽く出すな。吐かせるなら、言わせろ」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは断言してほしかった」
オルトレンが手を叩いた。
「部屋を用意しろ。内庭側だ。門を閉めろ。外の使いは全部止める。市場にも人を出す。あと、別邸の片づけに向かう者を選べ。口の堅い者だけだ。死体を見て騒ぐ者はいらない」
屋敷が動き始めた。
使用人たちが走る。
護衛が門を閉める。
どこかで鎖の音がした。
キーツは門へ向かう。
レリーエが、その背に声をかけた。
「キーツ」
彼は振り返った。
「……舐められたままにしたら、また来るのね」
「ああ」
「なら、舐めたことを後悔させて」
その声は震えていた。
だが、怯えではなかった。
怒りを、ようやく言葉にした声だった。
キーツは頷いた。
「分かった」
それだけ言って、朱の騎士は友人の屋敷を出た。
朝日はすでに高い。
帝都は目覚めている。
商人が店を開き、神官が祈りを捧げ、役人が文書を運び、元老院の影が白い石の街に伸びている。
その街を、キーツ・ウォルフェルは一人で歩き出した。
売られた喧嘩を買うために。
襲う側の者たちへ、襲われる恐怖を教えるために。