セイラム香薬商会は、帝都の中でも古い商会だった。
表向きは香油、薬草、乾燥花、染料、香辛料、軟膏、鎮痛薬、聖別油を扱う店である。
白い石造りの大きな建物。
入口の上には、銀の香炉と月桂樹を組み合わせた看板が掲げられている。奥には倉庫と調合室があり、さらにその奥には帳簿室、応接室、商会長の私室がある。
朝の市場はすでに動いていた。
香薬商会の店先にも、身なりの良い客や神殿の小使い、貴族家の女中らしき者が出入りしている。
その正面から、朱い騎士服の青年が入ってきた。
キーツ・ウォルフェル。
血は洗い落としていない。
最低限、顔と手だけは拭った。だが、服に残った暗い染みは隠していない。
隠す必要がなかった。
むしろ、それを見せるために来た。
店先の職員が顔を上げる。
「いらっしゃいませ。本日はどのような――」
「俺を襲ったな」
店内の空気が止まった。
香油の匂い。
乾いた薬草の匂い。
朝の客たちの衣擦れ。
その全部が、一瞬で薄くなる。
職員は笑顔を保とうとした。
「……何かの、お間違いではございませんか」
「間違えているなら、誰かが俺に似た男の館へ暗殺者を送ったことになる」
キーツは一歩進んだ。
「それとも、セイラム香薬商会は、客の館へ夜盗を贈る商いもしているのか」
奥から用心棒が二人出てきた。
服は店の者と同じだが、肩と腰の作りが違う。薬草を担ぐ男ではない。人を押さえ、折り、黙らせる男たちだ。
「お客様。奥でお話を――」
一人がキーツの腕へ手を伸ばした。
キーツは剣を抜かなかった。
右腕の魔法の腕輪も光らない。
ただ、差し出された手首を取った。
軽く捻る。
乾いた音がした。
「ぎっ――!」
用心棒が膝を突く。
キーツはその肘を踏み、逆の手で肩を押した。
もう一つ音がした。
悲鳴が店内に響く。
客たちが後ずさる。
もう一人の用心棒が腰の短剣へ手を伸ばした。
キーツは踏み込んだ。
短剣が抜かれる前に、拳が腹へ入る。
空気が抜けた。
続けて、膝。
用心棒の脚が横へ折れた。
キーツは倒れた男を見下ろし、静かに言った。
「剣を抜くほどの相手ではない」
それから、奥へ歩いた。
店の職員が道を塞ごうとした。
「お、お待ちください! ここは商会の――」
キーツはその手を払った。
払っただけだった。
だが、職員は棚に叩きつけられ、香油の小瓶が床に散った。甘い匂いが割れた陶片と一緒に広がる。
「止めるな」
短い言葉。
それでも、もう一人が動いた。
後ろから棒を振り上げる。
キーツは振り返りもせず、半歩ずれた。
棒が空を切る。
次の瞬間、キーツの手が棒を掴む。
握り潰すように捻る。
木が裂けた。
そのまま棒の残骸で、相手の手の甲を打つ。
職員が悲鳴を上げて倒れた。
「商人なら、値を間違えるな」
キーツは奥へ進む。
「夜に暗殺者を寄越した値は、高い」
通路の奥から、今度は三人。
一人は槍。
二人は剣。
商会の奥にいる者たちは、もう客向けの顔を捨てていた。
槍が突き出される。
狭い廊下なら、剣より槍が勝つ。
普通なら。
キーツはその穂先を横から叩いた。
金属が壁に食い込む。
槍持ちが引こうとした瞬間、キーツの手が柄を掴んだ。
引くのではなく、押す。
槍持ちの体が崩れる。
キーツの膝が胸へ入った。
男が沈む。
次の剣士が斬りかかった。
キーツは素手で剣の腹を叩いた。
刃が逸れる。
踏み込み、肘。
剣士の顎が跳ねる。
剣が落ちる。
キーツは落ちた剣を拾わず、靴裏で踏んだ。
刃が歪む。
もう一人が斬る。
キーツはその剣の峰を掴み、腕ごと引き込んだ。
肩。
肘。
手首。
三つの関節が、順に嫌な音を立てた。
男は剣を握ったまま崩れた。
キーツは、また奥へ歩く。
誰も死んでいない。
だが、誰も立てない。
店先から悲鳴が広がり、奥の倉庫へ、帳簿室へ、調合室へ伝わっていく。
セイラム香薬商会の中で、扉が閉まる音がした。
誰かが逃げようとしている。
誰かが鍵を掛けている。
誰かが、商会長へ知らせに走っている。
キーツは急がなかった。
急ぐ必要がなかった。
逃げ道は、オルトレンの耳が塞ぐ。
裏の門は、フェーゼフなら読む。
そして、今この建物の中にいる者たちは、キーツが正面から来るなど考えていなかった。
襲う側は、襲われる準備をしていない。
だから、折れる。
通路の曲がり角に、夕暮れに接触してきた男がいた。
砂色の上衣。
細い金の帯。
昨日の路地で、デリアス金貨百二十枚を口にした男。
今は顔色を失っている。
「朱の騎士殿……これは、いったい……」
「昨夜の贈り物の返礼に来た」
キーツは言った。
「何処の誰に頼まれた」
「私は、ただ商会の使いとして――」
キーツは歩み寄った。
男は後ずさる。
「お前が知らなければ、商会の長に聞く」
「お待ちください。話せば分かる」
「話す前に、まず払え」
「何を」
「代価だ」
キーツの手が伸びた。
男は短剣を抜こうとした。
遅い。
キーツはその手を掴み、指を一本ずつ机に押しつけた。
音。
男が絶叫する。
「何処の誰に頼まれた」
「し、知らない! 本当に知らない! 私は書状を受け取っただけで――」
「誰から」
「商会長だ! 商会長からだ!」
「その上は」
「知らない!」
キーツはもう一本、指を折った。
男の声が裏返る。
「知っていることだけ話せ。知らないことを知っているふりで飾るな。嘘は骨で払わせる」
「元老院の名は聞いていない! ただ、上院の書記が、時々、奥へ……奥へ通されていた! セイラム様と話していた!」
「名は」
「知らない!」
キーツは男を見た。
怯え方。
汗。
声の乱れ。
嘘をついているというより、本当に知らない顔だった。
「商会長の部屋は」
男は震える指で奥を示した。
「上……二階の奥……香炉の間……」
「案内しろ」
「歩けな――」
「片手と片脚は残してある」
男は泣きそうな顔で立ち上がった。
キーツはその背を押す。
途中、止めようとした職員がいた。
若い男だった。
剣も持っていない。
だが、短い笛を咥えようとしていた。
キーツはその顎を掴んで壁に押しつけた。
「鳴らせば、歯を全部折る」
若い職員は笛を落とした。
キーツはその膝を蹴った。
骨が折れ、男は声を上げて倒れる。
「鳴らさなかった分、歯は残した」
淡々と言って、キーツは進んだ。
二階。
香炉の間。
重い扉の前には、鎧を着た用心棒が二人いた。
今までの者とは違う。
立ち方が整っている。
槍の構えも、剣の位置も、まともな訓練を受けた兵のものだった。
一人が言った。
「止まれ」
キーツは止まらない。
「ここより先は商会長の――」
槍が突き出された。
鋭い。
喉を狙っている。
キーツは首を傾けて避け、槍の柄を掴んだ。
用心棒はすぐに手を離そうとした。
離す前に、キーツが槍を押し返す。
石突きが男の顔面を打った。
続けて、槍の柄を膝で折る。
槍が二つになった。
その片方で、もう一人の剣を受ける。
受けた瞬間、キーツは踏み込んだ。
剣士の腕を掴み、肘を逆に曲げる。
骨が鳴る。
剣士が膝を突く。
最初の槍持ちが、まだ動こうとする。
キーツは折れた槍の柄で、その脚を払った。
倒れたところへ、足首を踏む。
また音。
これで立てない。
扉の向こうで、慌ただしい音がした。
家具を動かしている。
逃げようとしている。
キーツは扉を見た。
厚い木。
内側から閂。
上等な造り。
キーツは右腕を少し掲げた。
魔法の腕輪が淡く光る。
だが、剣は呼ばない。
代わりに、拳を握った。
一撃。
扉が軋む。
二撃。
閂が悲鳴を上げる。
三撃。
扉が内側へ吹き飛んだ。
香炉の間には、甘く重い匂いが満ちていた。
薬草。
沈香。
焼いた樹脂。
そして、恐怖の汗。
部屋の奥に、太った男がいた。
絹の衣。
太い指輪。
額に脂汗。
セイラム香薬商会の長。
セイラム。
その周りには、帳簿を抱えた書記、震える小姓、短剣を持った護衛が三人。
キーツは部屋へ入った。
「俺を襲ったな」
セイラムは口を開いた。
「朱の騎士殿、これは誤解――」
キーツは近くの護衛の手首を折った。
短剣が落ちる。
悲鳴。
「誤解なら、誤解を命じた者の名を言え」
「わ、私は知らぬ! 商会はただ、依頼を――」
次の護衛が斬りかかる。
キーツはその剣を素手で横から叩き、刃を逸らす。
拳が鎧の上から胸へ入った。
男が息を吐いて崩れる。
膝を踏む。
もう立てない。
「誰に頼まれた」
セイラムは後ずさる。
「名は……名は出せぬ」
「出せない名か」
「そうだ! だから分かるだろう! 私にも家がある! 商会がある! 元老院の――」
言ってから、セイラムは口を閉じた。
キーツはゆっくりと頷いた。
「続けろ」
「……」
「続けろ」
「言えば、私は終わる」
「言わなければ、今終わる」
セイラムは震えた。
「私は、死にたくない」
「殺しはしない」
キーツは言った。
「今日はな」
その言葉の意味を、部屋中の者が理解した。
殺さない。
だが、無事に帰すとは言っていない。
キーツはセイラムの前に立った。
「昨夜、俺の館へ入った者は全員倒した」
「……」
「屋根から入った者も、扉から入った者も、裏口へ回った者もだ」
「……」
「次は、お前たちが夜を待つ番だと思っていたか」
セイラムの唇が震える。
「襲う側でいられるうちは楽だ。相手の寝所、子供の位置、逃げ道、扉の厚さを調べて、刃を持って入ればいい」
キーツの声は静かだった。
「だが、襲われる側になれば、扉の向こうの足音だけで喉が渇く。自分の名を誰が売ったか分からず、誰の影を疑えばいいか分からず、朝まで眠れない」
セイラムは汗を垂らした。
「今日から、それを味わえ」
「朱の騎士殿……どうか、取引を」
「取引は昨日しただろう」
キーツは言った。
「デリアス金貨百二十枚。足りないなら幾らでも払う、と」
セイラムの目が見開かれる。
「なら払え」
「金なら――」
「金ではない」
キーツはセイラムの右手を掴んだ。
商会長の太い指。
帳簿に署名し、命令書に印を押し、奴隷市場へ書類を流した手。
「この手で足りるか見てやる」
骨の折れる音がした。
セイラムの絶叫が、香炉の間に響いた。
それから数時間。
セイラム香薬商会は、うめき声の合唱で満たされた。
店先。
倉庫。
調合室。
帳簿室。
階段。
二階の香炉の間。
誰も死んでいない。
だが、誰も無傷ではない。
用心棒は剣を抜いた。
折られた。
槍で突いた。
槍ごとへし折られた。
職員は逃げた。
脚を折られた。
笛を鳴らそうとした。
手を潰された。
帳簿を燃やそうとした者は、指を折られた。
裏口から逃げようとした者は、膝を砕かれた。
セイラム香薬商会の建物は、死体の山にはならなかった。
その代わり、呻く者たちの山になった。
生きている。
だから、喋れる。
生きている。
だから、恐怖を運べる。
生きている。
だから、誰に何をされたか証言できる。
夕方近く。
キーツは商会長の机に、折れた短剣を一本置いた。
昨夜、自分の館へ入った暗殺者のものだった。
その横に、セイラムの指輪を置く。
「伝えろ」
床に倒れたセイラムが、荒い息の中で目だけを動かす。
「誰に……」
「お前を使った者に」
キーツは言った。
「次は、使った側へ行く」
セイラムは何も答えられなかった。
キーツは踵を返す。
香油と薬草と血の匂いが混じった商会を、来た時と同じ正面から出た。
外では、帝都の夕暮れが白い壁を赤く染め始めていた。
道行く者たちは、朱の騎士の姿を見て道を空ける。
誰も声をかけない。
誰も止めない。
セイラム香薬商会の中からは、まだ呻き声が漏れていた。
それは、元老院へ向けた伝言だった。
朱の騎士を舐めるな。
レリーエとメイエへ手を伸ばすなら、次は商会では済まない。