朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

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襲われる側の夜を始めよう

 キーツは、オルトレンの屋敷には戻らなかった。

 

 セイラム香薬商会を正面から叩き潰し、死人こそ出さなかったものの、用心棒も職員も書記も商会長も、まともに立てる者がいなくなった頃。

 

 朱の騎士は、商会長セイラムの机に、折れた短剣と、セイラムの太い指から抜いた指輪を置いていた。

 

 短剣は、昨夜キーツの館へ踏み込んだ暗殺者のもの。

 

 指輪は、セイラム香薬商会の長が商会印の代わりにも使っていたもの。

 

 それは証であり、脅しであり、返礼だった。

 

「伝えろ」

 

 床に倒れ、折られた指を抱えながら呻いていたセイラムが、汗に濡れた顔を上げる。

 

「……誰に……」

 

「お前を使った者に」

 

 キーツは静かに言った。

 

「次は、使った側へ行く」

 

 セイラムの顔から、血の気が完全に失せた。

 

 その言葉が脅しではないことを、彼はもう知っていた。

 

 朱の騎士は、剣を抜かずに商会を潰した。

 

 殺しはしなかった。

 

 だが、殺されるより長く恐怖を残した。

 

 用心棒は武器ごと折られた。

 

 職員は手足を砕かれた。

 

 帳簿係は指を折られた。

 

 商会長は、商会の名を刻んだ指輪を奪われた。

 

 セイラム香薬商会は、死体の山ではなく、呻き声の山になった。

 

 だからこそ、伝言は生きたまま運ばれる。

 

 キーツは商会を出ると、夕暮れの路地に立った。

 

 帝都の白い壁は赤く染まり、アキーム湖からの風が薬草と血の匂いを薄めていく。

 

 その足元の影が、少しだけ濃くなった。

 

「ルーティア」

 

 名を呼ぶと、影から青い髪の妖魔が顔を出した。

 

「はいはい、不遇の妖魔ルーティアちゃん参上。……うわ、香薬商会、ひどいことになってる。キーツ様、殺してないのに殺すより怖いことしたわね」

 

「伝言を運ばせた」

 

「折れた短剣と指輪?」

 

「ああ」

 

「それを追えばいいのね」

 

「送り先を見ろ。誰が受け取るか、誰に渡るか、最後まで追え」

 

 ルーティアは唇を尖らせた。

 

「戦闘は?」

 

「するな」

 

「えー」

 

「お前には別の役もある」

 

「また皿洗い?」

 

「伝令だ」

 

「振れ幅!」

 

 キーツは夕暮れの先、元老院区の方を見た。

 

「セイラムを使った者が分かれば、ランへ伝えろ。女帝レヴィの側にいるはずだ」

 

「ラン・ビーヒル様ね。運命と時の使徒様。あの人、今ほんとにサルフの政治に首を突っ込んでるの?」

 

「突っ込んでいる。レヴィを傀儡から引き剥がした後なら、なおさらだ」

 

「その伝言は?」

 

「セイラム香薬商会を使い、メイエを回収し、元老院の神輿として担ぐ動きあり。該当元老に、女帝レヴィへの叛意あり」

 

 ルーティアの紫の瞳が、すっと細くなった。

 

「叛意。言い切るのね」

 

「夜に俺の館へ暗殺者を入れた。商会を潰されても、まだ上に逃げる。レヴィの治世に弓を引くつもりでなければ、幼い皇族の血など探さない」

 

「元老の名が分かったら?」

 

「ランに伝えろ。レヴィ本人へ届くならそれが一番だ」

 

「私は戦わない」

 

「戦うな」

 

「覗いて、追って、伝えるだけ?」

 

「ああ」

 

「つまらないけど、面白そうではあるわね」

 

 ルーティアは笑った。

 

 だが、その笑みにはいつもの軽さだけではない。

 帝国の白い御座、元老院、傀儡、皇族の血。妖魔であっても、その言葉の重さは分かる。

 

 キーツは低く言った。

 

「叩く時は、叩いて、叩いて、根まで叩き潰す」

 

 その声は冷えていた。

 

「そうしなければ、手痛いしっぺ返しを食らう」

 

「北の森の教え?」

 

「狩人の教えだ」

 

「獣を半殺しで逃がすと、次は巣ごと襲ってくる?」

 

「そうだ」

 

 ルーティアは肩を竦めた。

 

「人間も獣も変わらないわね」

 

「獣の方がまだ分かりやすい」

 

「それはそう」

 

 ルーティアは影に沈みかけ、最後に顔だけ出した。

 

「キーツ様は?」

 

「俺は歩く」

 

「どこへ?」

 

「短剣と指輪が届く先だ」

 

「私が追うのに?」

 

「お前が道を見つける。俺はそこへ行く」

 

「相変わらず、足で政治を踏みに行く男ね」

 

「剣で届く距離まで近づけば、政治も人の喉をしている」

 

 ルーティアは一瞬、呆れたように、それでいて楽しそうに笑った。

 

「そういうところよ、キーツ様」

 

 そして影に沈んだ。

 

 セイラム香薬商会の奥では、まだ呻き声が続いていた。

 

 やがて、商会の裏口から一人の男が出た。

 

 商会の書記だ。

 

 片腕を吊り、顔色を失い、震える足で馬車へ乗る。懐には布包み。中には折れた短剣と、セイラムの指輪。

 

 馬車は日暮れの帝都を走った。

 

 表通りではなく、細い道を選ぶ。

 

 神殿脇を抜け、古い水路沿いを走り、貴族屋敷の裏門が並ぶ区画へ入る。

 

 ルーティアは影から影へ移った。

 

 壁の影。

 

 馬車の車輪の影。

 

 水路の橋の下。

 

 柱廊の暗がり。

 

 帝都の夜は、彼女の通り道に満ちていた。

 

 そして馬車は、元老院区の奥にある一つの屋敷へ入った。

 

 高い壁。

 

 古い鉄門。

 

 白い石に緋色の紋章。

 

 紋章は、逆さの百合と、鎖に絡む双頭の鷲。

 

 元老ドン・エステバン・デ・バルデロス。

 

 サルフの元老院でも古い血筋を誇る男。

 

 レヴィが「白痴」と呼ばれ、玉座の飾りにされていた頃から、女帝の名で文書を流し、神殿と商会と地方貴族を繋ぎ、皇城の奥へ手を伸ばしていた古狸である。

 

 セイラムの書記は、その屋敷の裏門から入った。

 

 ルーティアは屋根の影から見ていた。

 

 布包みは、三人の手を渡った。

 

 門番。

 

 家令。

 

 黒衣の書記。

 

 最後に、緋色の長衣をまとった老人の手元へ届いた。

 

 ドン・エステバン・デ・バルデロスは、布包みを開いた。

 

 折れた短剣。

 

 セイラムの指輪。

 

 老人の顔が、わずかに強張る。

 

 その瞬間、屋敷の正門前に、一人の男が立っていた。

 

 朱の騎士服。

 

 金の髪。

 

 右腕に黒銀の魔法の腕輪。

 

 キーツ・ウォルフェル。

 

 門番が槍を構えた。

 

「止まれ。ここは元老バルデロス閣下の――」

 

「知っている」

 

 キーツは言った。

 

「だから来た」

 

 門番の喉が鳴る。

 

 屋敷の中で鐘が鳴った。

 

 侵入者を告げる鐘。

 

 だが、キーツは門を破らない。

 

 まだだ。

 

 ただ、正門の前に立ち、屋敷を見上げる。

 

 その目は、商会を潰した時より静かだった。

 

「朱の騎士を襲うことが、どれだけ高くつくか教えてやろう」

 

 屋敷の窓の一つ。

 

 その奥で、ドン・エステバンがこちらを見ていた。

 

 老人の手には、折れた短剣とセイラムの指輪。

 

 それを受け取った瞬間に、送り主が門前に現れる。

 

 偶然ではない。

 

 狩られている。

 

 それを理解した者の顔だった。

 

 ルーティアは、すでにそこにはいなかった。

 

 彼女は別の影を走っていた。

 

 皇城へ。

 

 白き御座へ。

 

 女帝レヴィのいる場所へ。

 

 皇城の奥は、夜でも灯が消えない。

 

 白い大理石の回廊。

 

 香油の匂い。

 

 槍を持つ近衛。

 

 女帝の私室へ続く廊下には、かつて元老院の息のかかった侍女や宦官が並んでいた。

 

 だが今は違う。

 

 レヴィが傀儡の糸を断ち始めてから、皇城の空気は変わりつつあった。

 

 それでも、古い影は残っている。

 

 ルーティアは、その影の一つから滑り出た。

 

「誰だ」

 

 声が飛ぶ。

 

 槍が向く。

 

 ルーティアは両手を上げた。

 

「待って待って。戦いに来たわけじゃないの。私は伝令。キーツ・ウォルフェル様の使い」

 

 その名に、近衛の顔が変わった。

 

 さらに奥から、一人の男が現れる。

 

 ラン・ビーヒル。

 

 運命と時の使徒。

 

 穏やかな顔をしているが、その目は人の嘘を笑って見抜くように静かだった。

 

「ルーティア」

 

「あら、ラン様。お久しぶり。相変わらず面倒な場所にいるわね」

 

「君が来る時点で、面倒が増えた証拠だろう」

 

「正解」

 

 ルーティアは笑みを消した。

 

「キーツ様から伝令。セイラム香薬商会を使い、レリーエとメイエを回収しようとした元老を確認。名は、ドン・エステバン・デ・バルデロス」

 

 ランの目が細くなる。

 

「バルデロス元老か」

 

「その男、メイエを神輿に担ぐつもりよ。女帝レヴィ陛下が傀儡の糸を切ったから、新しい傀儡を立てる気でいる。セイラム香薬商会、帳簿細工、前の主人夫婦の不自然死、昨夜の暗殺者。全部、その線に繋がる」

 

「証は」

 

「セイラムの指輪と、昨夜の暗殺者の折れた短剣が、バルデロスの手元へ届いた。キーツ様が追っている」

 

「キーツは今どこに」

 

「バルデロスの屋敷の前」

 

 ランは一瞬だけ、天井を見た。

 

「……あいつは本当に」

 

「ええ。売られた喧嘩を買いに行ったわ」

 

「一人で?」

 

「ついていける人間、いる?」

 

「いないな」

 

 ランは短く息を吐いた。

 

 その表情から、穏やかさが消える。

 

「レヴィ陛下へ伝える」

 

「伝言はもう一つ」

 

「何だ」

 

「キーツ様より。『元老院に反逆の意思あり』」

 

 廊下の空気が、凍った。

 

 近衛たちが息を呑む。

 

 反逆。

 

 その言葉は、軽く発していいものではない。

 

 だが、ランは笑わなかった。

 

 怒りもしなかった。

 

 ただ静かに頷いた。

 

「受け取った」

 

「あと、キーツ様は言ってないけど、私から一言」

 

「何だい」

 

「早く動いた方がいいわ。キーツ様が先に根を全部叩き潰すと、政治の形が残らない」

 

 ランは、少しだけ苦笑した。

 

「それは困るな」

 

「でしょう?」

 

「だが、バルデロスが本当にメイエを担ぐつもりなら、政治の形を残すかどうかは、こちらが決めることではない」

 

 ランの声が低くなる。

 

「女帝の御座に、勝手に代わりの人形を置こうとした。なら、反逆だ」

 

 ルーティアは満足げに笑った。

 

「話が早くて助かるわ」

 

「君はキーツの元へ戻るのか」

 

「戻らない。私は戦闘禁止命令中。高いところから見物くらいはするけど」

 

「それを戦闘の前振りと言う」

 

「妖魔に細かいこと言わないで」

 

 ランは近衛へ命じた。

 

「レヴィ陛下へ繋げ。すぐにだ。それから、皇城内のバルデロス派の者を門から離せ。文書庫を押さえろ。元老院への早馬は止めるな。だが、乗る者を替えろ」

 

 近衛たちが走る。

 

 皇城の夜が、動き始めた。

 

 一方、バルデロス邸の前。

 

 門の内側では、兵が集まっていた。

 

 私兵。

 

 用心棒。

 

 元老家の護衛。

 

 数は多い。

 

 だが、その多さが逆に、屋敷の恐怖を示していた。

 

 キーツは正門の前から動かない。

 

 右腕の魔法の腕輪が、淡く光る。

 

 まだ剣は出していない。

 

 門の上から、家令らしき男が叫ぶ。

 

「朱の騎士殿! ここは元老バルデロス閣下の屋敷である! 剣を向ければ、帝国への侮辱と見なされる!」

 

 キーツは顔を上げた。

 

「帝国を侮辱したのは、お前の主人だ」

 

「何を根拠に――」

 

「女帝の御座に、別の血を載せようとした」

 

 門の上の男の顔色が変わった。

 

 キーツは続ける。

 

「俺の館へ暗殺者を入れた」

 

「証はあるのか!」

 

「折れた短剣とセイラムの指輪を受け取っただろう」

 

 沈黙。

 

 それが答えだった。

 

 キーツは一歩、門へ近づいた。

 

「出て来い、バルデロス」

 

 屋敷の奥、緋色の長衣をまとった老人が窓辺に立つ。

 

 ドン・エステバン・デ・バルデロス。

 

 元老。

 

 古い血。

 

 白痴の女帝を操っていた側の一人。

 

 そして今、新しい傀儡を求めた男。

 

 キーツはその姿を見た。

 

「俺は一人だ」

 

 静かな声だった。

 

「ここで頭を下げ、誰に頼み、誰と組み、誰を御座に載せようとしたか吐け。そうすれば、首はレヴィに預ける」

 

 右腕の腕輪が、さらに光る。

 

「吐かないなら、俺が取りに行く」

 

 門の内側で、私兵たちが槍を構えた。

 

 キーツは、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

 笑みではない。

 

 狩りの前に、獣の足跡を見つけた狩人の顔だった。

 

「さあ」

 

 朱の騎士は言った。

 

「襲われる側の夜を始めよう」

 

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