バルデロス邸の正門前。
槍を構えた私兵たち。
門の上の見張り。
緋色の長衣をまとった元老ドン・エステバン・デ・バルデロスは、奥の窓辺からその様子を見ていた。
そして正門の前には、ただ一人。
キーツ・ウォルフェル。
朱の騎士。
朝から血を浴び、香薬商会を素手で沈め、夕暮れの今、元老の屋敷へ歩いてきた男。
キーツは静かに右腕を掲げた。
黒銀の魔法の腕輪が、夜明けでもないのに星のように煌めく。
刻まれた古語がひとつひとつ光を帯び、腕輪の輪郭が熱を帯びたように赤く染まった。
次の瞬間、左手に白い竜骨剣が現れる。
竜の骨を削り出したような、淡く白い刀身。光を宿しながらも冷えた刃。
続けて、右手に黒い刀身の剣が現れる。
夜そのものを鍛えたような黒。光を返さず、見る者の目から色を吸い取るような刃。
門の内側の衛士たちが、息を呑む。
だが、まだそれだけでは終わらなかった。
キーツの背後、夕暮れの空気が揺らぐ。
何もなかった空間に、赤い火花のような光が散った。
そこから、朱い全身鎧が現れる。
ばらばらの部位として。
胸甲。
肩当て。
腕甲。
籠手。
腰甲。
脚甲。
兜。
どれも、ただの板金ではない。
朱い竜鱗を幾重にも重ねたような鎧だった。
一枚一枚の鱗が金属のように硬く、それでいて生き物の皮膚のように滑らかな艶を帯びている。縁には黒金の補強が走り、関節部には暗い銀の継ぎ目。兜の頬当ては竜の頭骨を思わせ、背には短い棘状の飾りが走っていた。
鎧は空中で展開し、そのままキーツへ吸い寄せられる。
胸甲が胸を覆う。
肩当てが噛み合う。
腕甲が両腕を包む。
籠手が剣を握る手を閉じる。
脚甲が膝から脛へ走り、最後に兜が降りて、キーツの頭部を包んだ。
金の髪はもう見えない。
そこに立っていたのは、朱い竜鱗の鎧に全身を覆われた、一個の戦そのものだった。
門の上の家令が、声を震わせる。
「ま、待て! ここは元老バルデロス閣下の――」
キーツは答えない。
白い竜骨剣を、静かに構える。
左足が半歩前へ出る。
籠手が柄を締める。
夕暮れの白い壁が、朱い鎧を鈍く照らした。
そして。
気合一閃。
振るわれた白い竜骨剣は、剣というより破城槌のようだった。
空気が裂ける音がした。
次の瞬間、正門が吹き飛んだ。
鉄を打ち込んだ分厚い木扉が、内側から破られたように砕け散る。
蝶番が折れ、門柱にひびが走り、破片が私兵たちの足元へ雨のように降り注いだ。
誰も、その一撃を剣とは思わなかった。
城門を壊す一撃だった。
キーツは砕けた門を越え、一歩、敷地内へ踏み込む。
「出てこないなら、こちらから行く」
その声は兜の中で低く反響し、人の声よりもむしろ鐘のように冷たく響いた。
私兵たちが叫ぶ。
「止めろ!」
「囲め!」
「槍を前へ!」
十数本の槍が、一斉に朱の騎士へ向く。
だが、キーツは走らない。
急がない。
一歩。
また一歩。
恐怖を刻むように、ゆっくりと進む。
最初の槍が突き出された。
白い竜骨剣が横に閃く。
槍の穂先ごと、柄が折れる。
返す黒い剣が、槍兵の胸甲を打った。
斬るのではない。
打つ。
だが、その一撃で男の体が吹き飛び、石畳へ叩きつけられる。胸骨が折れ、男は血を吐いて呻いた。
次の槍。
次の剣。
次の盾。
キーツは白い剣で受け、黒い剣で打ち、肩で崩し、膝で払った。
竜鱗の鎧に刃が当たる。
火花だけが散る。
槍の柄が軋む。
盾が砕ける。
踏み込みのたびに、衛士が倒れる。
斬られた者たちは血を流した。
打たれた者たちは骨を折った。
だが、誰も首を落とされない。
誰も即死しない。
肩を裂かれ、腕を折られ、肋を砕かれ、膝を潰され、それでも生かされる。
うめき声を上げながら、石畳に転がる。
そして見上げる。
たった一人で集団を蹂躙していく朱の騎士を。
その眼差しに浮かぶのは、怒りではない。
憎しみでもない。
純粋な恐怖だった。
「退くな!」
鎧を着た騎士が三人、階段から駆け下りてきた。
元老家直属の護衛騎士。
剣も鎧も、私兵よりはるかに良い。
その一人が横から斬りかかる。
キーツは黒い剣で受けた。
火花。
同時に、白い竜骨剣が相手の脇腹を打つ。
甲冑越しに、鈍い音。
騎士の体が折れ曲がり、地に落ちる。
もう一人が盾を構えて突っ込む。
キーツは避けない。
正面から肩でぶつかる。
盾ごと騎士がひっくり返る。
その兜を黒い剣の峰で打つ。
兜が鳴る。
中の頭蓋も鳴った。
騎士は白目を剥いて倒れる。
三人目は間合いを取った。
良い判断だった。
だからこそ、キーツは歩いて詰めた。
ゆっくりと。
その一歩ごとに、騎士の顔色が変わる。
剣を構えているはずなのに、下がってしまう。
下がるごとに、自分が負けていることを理解してしまう。
そして、耐えきれずに斬り込んだ瞬間。
白い剣がその手首を打ち、黒い剣の柄頭が胸を貫くように叩き込まれる。
騎士は石畳を滑り、階段の根元で呻いた。
キーツは立ち止まらない。
一歩。
また一歩。
倒れた者を跨ぎ、折れた槍を踏み、砕けた盾を蹴り越え、屋敷へ向かう。
門から玄関までの石畳に、恐怖が敷き詰められていく。
誰かが叫んだ。
「化け物……!」
キーツはそちらを見もしない。
「違う」
兜の奥から、低く返る。
「返礼だ」
玄関前の大扉は、すでに内側から閉じられていた。
だが、正門を砕いた剣にとって、屋敷の扉など飾りに等しい。
白い竜骨剣が振るわれる。
蝶番が悲鳴を上げる。
黒い剣が打ち込まれる。
閂が裂ける。
三撃目で、玄関扉が内側へ吹き飛んだ。
屋敷の中から、女中の悲鳴と、男たちの怒号が交錯する。
キーツはそのまま踏み込んだ。
屋敷の中は、外よりも音がよく響く。
大理石の床。
高い天井。
柱廊。
階段。
その全てが、朱い鎧の足音を増幅した。
ガン。
ガン。
ガン。
ゆっくりと。
わざと響かせるように。
恐怖が前へ走るように。
玄関広間にいた護衛たちが襲いかかる。
剣。
短槍。
斧。
キーツはそれを受け、砕き、打ち倒す。
白い剣で肩を裂く。
黒い剣で膝を打つ。
甲冑の継ぎ目へ拳を叩き込み、肘を逆へ折り曲げる。
男たちは次々に倒れた。
血を流し、骨を折り、呻きながら、それでも生きている。
だからこそ、次の者に恐怖が伝わる。
奥へ逃げた者が、後ろを振り返り、倒れた仲間を見る。
あの男は死んでいない。
だが、立てもしない。
あの騎士も死んでいない。
だが、鎧の中で泣いている。
殺されるより長く残る恐怖が、屋敷の廊下を先回りして走る。
キーツは急がない。
急げば、終わる。
今は終わらせるためではない。
届かせるために進む。
元老バルデロスのところまで、恐怖を。
客間の扉が閉まる。
書斎の閂が下ろされる。
階段の上から矢が放たれる。
キーツは黒い剣で弾く。
白い剣を投げる。
矢手の肩を貫き、壁へ縫い止める。
男は悲鳴を上げるが、死なない。
キーツは歩く。
また足音。
ガン。
ガン。
ガン。
屋敷全体が、その音を聞く。
今どこまで来たか。
あと幾つ扉があるか。
誰が止められるか。
誰も止められないのではないか。
その考えが、階段を上るたびに、廊下を曲がるたびに、バルデロスの方へ近づいていく。
二階。
三階へ続く階段の下で、十人ほどの護衛が最後の壁を作っていた。
槍を二列。
後ろに剣士。
さらに奥に弓手。
元老家の意地だろう。
だが、キーツはそこで初めて立ち止まった。
右腕の腕輪が、一度だけ赤く光る。
黒い剣が消える。
代わりに、左手の白い剣を構え直し、右手を空ける。
槍列が来る。
キーツは踏み込んだ。
白い剣で槍列を薙ぐ。
柄が折れ、穂先が散る。
同時に空いた右手で、最前列の槍兵の喉元を掴み、そのまま後列へ投げ込む。
人が人を崩す。
壁が壁でなくなる。
そこへ朱い騎士が入る。
近い。
近すぎる。
槍はもう役に立たない。
剣士たちが斬る。
キーツは籠手で受け、肩で押し、膝で折る。
骨が鳴る。
悲鳴が上がる。
弓手が引こうとした時には、すでに目の前にいた。
白い剣の柄頭が鳩尾へ入り、男は弓を落として沈む。
最後の一人が、剣を捨てて壁際へ退いた。
キーツは追わない。
逃がす。
その方が、恐怖は奥へ走る。
元老のところへ。
ついに、三階の最奥。
重い扉の前へ辿り着く。
中には、ドン・エステバン・デ・バルデロスがいる。
そのはずだ。
扉の向こうから、誰かが息を殺している気配がした。
キーツは、血に濡れた白い竜骨剣を肩へ乗せた。
兜の奥で、静かに息を吸う。
そして、屋敷全体に聞こえるような声で言った。
「バルデロス」
返事はない。
だが、その無言の向こうに恐怖があることが分かる。
キーツは扉の前に立ち、さらに静かに言った。
「お前の護衛は、よく訓練されていた」
一拍。
「だが、俺を止めるには足りない」
屋敷の奥まで、うめき声が響いている。
階下ではまだ誰かが泣いている。
廊下には、倒れた者たちの血が線を引いている。
その全てが、ここまでの道だった。
キーツは白い剣を振り上げる。
「次は、お前だ」
そして、元老の扉へ向けて振り下ろした。