三階最奥。
元老ドン・エステバン・デ・バルデロスの私室を守る重い扉の前で、キーツは白い竜骨剣を振り上げた。
屋敷中に、うめき声が満ちている。
折られた腕。
潰された膝。
裂かれた肩。
叩き伏せられた騎士たち。
だが、死体はない。
誰も殺されていない。
だからこそ、恐怖は生きて伝わった。
朱い竜鱗の鎧をまとった騎士が、たった一人で元老の屋敷を正門から破り、門衛も、私兵も、騎士も、全てを倒してここまで来た。
その足音が、扉一枚向こうのバルデロスの心臓を叩いていた。
「バルデロス」
キーツの声が、兜の奥で低く響く。
「お前の護衛は、よく訓練されていた」
一拍。
「だが、俺を止めるには足りない」
白い竜骨剣が振り下ろされようとした、その時だった。
屋敷の外から、角笛の音が響いた。
低く、長く、帝都の夜気を震わせる音。
続いて、正門の外から声が上がる。
「女帝陛下親衛隊である! 元老バルデロス閣下の屋敷を包囲する!」
キーツは剣を止めた。
扉の向こうで、バルデロスが息を呑む気配がした。
屋敷の外は、すでに完全に塞がれていた。
白銀の甲冑。
女帝レヴィの紋章を掲げた旗。
槍と盾を揃えた親衛隊。
彼らは、表向きにはこう告げていた。
朱の騎士による私的報復から、元老バルデロスを保護するため。
元老院へ向けても、帝都の貴族たちへ向けても、そう言える名目だった。
だが、その陣の組み方は、保護というより封鎖だった。
門は押さえられた。
裏門も塞がれた。
水路には兵が立った。
屋根には弓兵。
文書庫へ向かう通路には、すでに親衛隊の小隊が走っている。
守るためではない。
逃がさないためだった。
やがて、階下から整った足音が響いてきた。
ガン、ガン、ガン。
キーツの重い鎧の足音とは違う。
軍靴の揃った音。
その先頭に立っていたのは、親衛隊長ではなかった。
運命と時の使徒。
ラン・ビーヒル。
彼は血と呻き声に満ちた廊下を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
倒れた騎士たちを見て、少しだけ肩を竦める。
「殺していないのか」
キーツは振り返らずに言った。
「まだ聞くことがある」
「君にしては丁寧だ」
「殺すより高くつくこともある」
「よく分かっているじゃないか」
ランは扉の前まで来ると、白い竜骨剣を構えたキーツの隣に立った。
扉の向こうへ向けて、穏やかに声をかける。
「元老バルデロス。女帝陛下の名において、あなたを保護しに来ました」
扉の向こうから、震えを隠しきれない声が返る。
「ほ、保護……そうだ、保護だ! この朱の騎士は狂っておる! 余を、元老たる余を殺しに来たのだ!」
「ええ。そうでしょうね」
ランはあっさり認めた。
扉の向こうの息が、一瞬だけ明るくなる。
だが、ランは続けた。
「ですから、あなたを朱の騎士の剣から保護します。逃げられぬように」
沈黙。
その沈黙の意味を、扉の向こうの老人は理解した。
キーツは扉を見ている。
動かない。
だが、竜鱗の鎧に包まれたその姿そのものが、扉の向こうへ死を押しつけていた。
ランが親衛隊へ目を向ける。
「入れ」
親衛隊の兵たちが進み出る。
キーツは一歩横へ避けた。
親衛隊の斧が扉に叩き込まれる。
一撃。
二撃。
三撃。
内側でかけられていた閂が砕ける。
扉が開いた。
室内には、緋色の長衣を乱したバルデロスがいた。
白髪。
脂汗。
震える手。
その手には、折れた短剣とセイラムの指輪が握られている。
逃げることも、隠すことも、捨てることも出来なかったのだろう。
ランはそれを見て、微かに笑った。
「持っていてくれて助かります」
「これは……これは、あの香薬商が勝手に……」
「そうですか。では文書庫を見ましょう」
ランが片手を上げる。
親衛隊が室内へ踏み込んだ。
書机。
壁の棚。
床下の隠し箱。
香炉の底。
寝台の柱に隠された筒。
バルデロス家の使用人たちが止めようとしたが、親衛隊は構わず押しのけた。
女帝の親衛隊である。
しかも名目は、元老を朱の騎士から保護すること。
屋敷を押さえ、証拠を確保し、使用人を隔離するには十分だった。
すぐに文書が見つかった。
セイラム香薬商会への支払い記録。
帝都北倉の買い付け量。
薬草と眠り薬の配合表。
奴隷市場への紹介状。
レリーエとメイエの移送予定を示す符丁。
そして、焦げ残りとは別の、より完全な書面。
白き御座。
替えの血。
幼い神輿。
後見元老。
女帝レヴィの退位、あるいは病を理由とした幽閉を示唆する草案。
ランはそれを一枚ずつ読み、静かに重ねた。
バルデロスは青ざめていた。
「違う……それは、帝国のためだ。白痴の女帝では国は保てぬ。レヴィはたまたま糸を切っただけだ。あれは長続きせぬ。帝国には、正しい血と、正しい後見が必要なのだ」
その言葉に、ランの目が冷えた。
「その正しい後見とは、あなたのことですか」
「元老院は帝国の柱だ」
「柱は玉座に座りません」
「女帝は、元老院なしでは――」
「その女帝の名で、今あなたの屋敷を囲んでいます」
ランの声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、逃げ場がなかった。
バルデロスは、キーツを見た。
朱い竜鱗の鎧。
白と黒の剣。
自分の私兵を生かしたまま潰し、恐怖だけを運んできた男。
「朱の騎士……貴様、分かっているのか。元老を敵に回すということは――」
キーツは一歩進んだ。
それだけで、バルデロスの言葉が止まった。
「お前は、俺の館に暗殺者を入れた」
「それは、セイラムが――」
「お前の指輪がここに届いた」
キーツは白い竜骨剣の切っ先で、床に置かれたセイラムの指輪を示した。
「お前は受け取った。逃げず、燃やさず、ここに置いた。つまり、喧嘩を受けた」
バルデロスの喉が鳴る。
キーツは静かに続けた。
「俺の名を軽く見た。俺の館を荒らした。子供に手を伸ばした」
兜の奥の声が、低く沈む。
「それで生きていられると思ったなら、元老院の椅子はずいぶん座り心地が良かったらしいな」
バルデロスは後ずさった。
その背が、机に当たる。
ランが一歩前へ出た。
「元老バルデロス」
彼は、重ねた書類を親衛隊の副官へ渡した。
「証は十分です。セイラム香薬商会を通じて、女帝陛下の御座を揺るがす企てを行った。幼い皇族の血を神輿に担ぎ、元老院による新たな傀儡を立てようとした。さらに、その証人と対象を確保するため、朱の騎士の館へ暗殺者を差し向けた」
バルデロスは叫んだ。
「違う! 私は帝国を守ろうとしたのだ!」
「帝国と自分の椅子を取り違える者は、だいたい同じことを言います」
ランは静かに言った。
そして、恐ろしいほど優しい声で続けた。
「選ばせてあげましょう」
室内が静まり返る。
キーツの鎧から血が一滴、床に落ちた。
「元老バルデロス。今、朱の騎士に喧嘩を売った愚か者として死ぬか」
ランはキーツを見た。
キーツは何も言わなかった。
だが、白い竜骨剣の刃がわずかに持ち上がる。
「それとも、女帝陛下に叛いた反逆者として処刑されるか」
ランは微笑んだ。
「選ばせてあげましょう」
バルデロスの顔が歪んだ。
元老としての誇り。
古い血筋。
白き御座を弄んできた権力。
そのすべてが、今は二つの死に挟まれている。
私闘で死ぬか。
叛逆で死ぬか。
どちらにせよ、逃げ場はない。
「わ、私は元老だぞ……」
「はい」
ランは頷いた。
「だから処刑台も上等なものを用意しましょう」
キーツが、ようやく剣を下げた。
「ラン」
「何だい」
「生かすのか」
「女帝陛下の前で喋らせる」
「なら、喉は残せ」
「そのつもりだ」
キーツはバルデロスを見た。
「よかったな」
その声には、慈悲などなかった。
「今日は死なずに済む」
バルデロスは震えた。
それが救いでないことを、彼は理解していた。
親衛隊が進み出る。
元老の腕を取る。
緋色の長衣が乱れ、床を引きずる。
バルデロスは抵抗しようとしたが、膝が笑っていた。
そして、扉の外へ引き出される寸前、キーツの方を振り返った。
そこにあったのは憎悪ではない。
恐怖だった。
自分が、襲われる側になった者の顔だった。
キーツは何も言わなかった。
その恐怖こそが、今夜の返礼だったからだ。